高橋哲哉『靖国問題』




 数ある人力検索の政治カテゴリなかでも、一番質が悪いのがおそらく「Yahoo!知恵袋」であろう。2chのようだ、というと2chに失礼で、2chほどの論理体裁や情報武装もない、なんの遠慮もてらいもない排外主義と国粋主義の排泄場になっている。


Yahoo!知恵袋にみる靖国参拝の論理

 そこでは最近、靖国神社についての「質問」(たいていは政治的主張)や回答が多いのだが、(首相)参拝賛成派のむきだしの“論理”に出会える。

「靖国神社参拝賛成ですか、反対ですか? 私は大賛成です。中国、韓国の圧力で参拝しなくなったら、日本人として恥ずべきことです。あそこには、戦争で 散った尊い命(特攻隊の方等)が祀られてるのだから、それを崇める(?)のは日本人として当然のことと思います。日本人の中でも、反対している人がいる ことに驚きます」(2005/ 5/ 9 01:26:11質問投稿)

「靖国神社には戦没者が祀られていて、その霊を安んずるために参拝することについては理解でき何ら反対するつもりはありませんし、中国が反対しているこ とは間違っていると思います。しかし靖国神社自体にはそれ以外の何かを感じてなりません。実際に靖国神社に行かれたことのある方に質問したいのですが、 そこには戦争を美化、礼賛するものはありませんでしたか。軍国主義の匂いを感じませんでしたか。教えてください。尚、私は純粋の日本人です。」(投稿日時 : 2005/ 6/ 1 13:16:33質問投稿)

「(反対されてまで参拝するのは)批判自体が不当なものだからです。今日の日本の繁栄の基礎を築いた戦死者の方々は靖国神社に祀られる事を救いとして日本に命を捧げたのです。その思いを無にしてはいけません。」(投稿日時 : 2004/11/13 15:35:27回答投稿)

 参拝賛成派の論理は、ほとんどここに集約されていて、

1)靖国神社には戦没者が祀られていてそれにお参りするのは当然
2)そのことに外国が口を出すのは内政干渉

という至極単純なものである。
 きわめて安定した精神構造ともいえる。
 1)は人として当たり前のことのように見える。戦没者を悼んで追悼する──「どこが悪い」?
 唯一やっかいなのが、中国・韓国などの「A級戦犯をいっしょに祀ってあるではないか」という批判で、これを2)でシャットアウトする。「東京裁判は勝者の事後の裁きであり……」などとコムズカシイことをやらなくてすむ。



哲学という武器で「腑分け」していく

 ところで、著者の高橋哲哉は哲学者である。
 哲学は物事を根本的に考え、仕分ける学問だ。

 この哲学的思考を武器に、「靖国」という対象にあたることによって、一枚岩で、堅牢とみえたこの問題は、たちまちバラバラにされていってしまう。

 したがって、靖国参拝の単純な論理にひそむすべての弥縫点を、高橋は本書の第1章から4章までであざやかに照らしだして、解体していく。



戦慄すべき靖国信仰の生きた形態

 第1章「感情の問題」では、「靖国神社参拝は戦没者への追悼である」という議論の虚偽をあばく。「戦死者の『追悼』ではなく『顕彰』こそがその本質的役割である」(p.8)。
 生き残った兵士は村中の歓呼でむかえられるが、戦死者の家族は暮らしも傾き、みじめな思いをしている。そこで戦死することを最大の栄誉にまつりあげる精神システムが戦争する近代国家にはどうしても必要だったことを説く。
 読み物として一番興味深いのは、雑誌『主婦の友』1939年6月号に掲載された「母一人子一人の愛児を御国に捧げた誉れの母の感涙座談会」の読み解きであろう。いや、高橋の読解以前に、ひとりしかいない自分の子を戦死させその母親に語らせるという企画そのものが、壮絶だ。凄惨といってもよい。

 詳細は実際にこの長い座談会の引用を実際にお読みすることをおすすめするが、一カ所だけ引用しておこう(実はこの座談会自身は大変有名)。

「中村 ほんとうになあ、もう子供は帰らんと思や、さびしくなって仕方ないが、お国のために死んで、天子様にほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ますあんばいどすわいな。
森川 間に合わん子を、よう間に合わしてつかあさって、お礼申します」


 橋川文三に「私はこれほどにみごとな靖国信仰の表現をあまり読んだことがありません」といわしめるもので、実際ぼくもそう思う。
 高橋は、「もう子供は帰らんと思や、さびしくなって仕方ない」という悲しみがこみあげるのを、「天子様にほめていただいとると思うと、何もかも忘れるほどうれしゅうて元気が出ます」と抑圧する精神システム、悲しみを喜び変える「感情の錬金術」が靖国だとする。

 したがって、「追悼」=悲しみ悼む施設ではなく、「顕彰」=ほめたたえ喜ぶ施設だというのが、靖国の本質だ。
 「戦没者追悼」というもっとも単純な虚偽が、ここで暴露される。

 第二章「歴史認識の問題」では、A級戦犯問題を考える。
 今日、参拝反対派(の一部)からさえも、「靖国神社にはA級戦犯が祀ってあるのでそこに参ることはいけない」と主張されており、中国や韓国の主張もここに集中していることもあって、反対論の一つの柱をなしている。

 ここは、論理が精緻な構造をとっているため、あまり要約して伝えることはできないが、高橋自身のこの章の解説は次のようなものである。
「『A級戦犯』分祀論はたとえそれが実現したとしても、中国や韓国との間の一種の政治決着にしかならないこと、靖国神社に対する歴史認識は戦争責任を超えて植民地主義の問題として捉えられるべきこと、などを論じる」(p.8)。

 この章で情報として興味深いのは、靖国神社側が分祀不能をどう論理だてているかということであった。
 1987年10月1日付毎日新聞によれば、松平永芳・靖国神社宮司(当時)は、次のように語ったという。

「それ(分祀)は絶対できません。神社には、「座」というものがある。神様の座る座布団のことです。靖国神社は他の神社と異なり「座」が一つしかない。二百五十万柱の例が一つの同じ座ぶとんに座っている。それを引き離すことはできません」

 第三章「宗教の問題」で、靖国神社参拝がはらむもうひとつの論点である「政教一致」問題に焦点をあてる。本書に書かれているように、「これまでのところ、首相の靖国参拝に関して『合憲』と認定して確定した判決はひとつも存在しない」(p.115)。

 したがって、靖国参拝派は、「靖国神社は神社ではない」あるいは「宗教的神社ではなくしよう」という論理化を試みるが、それが歴史的にどう破たんしてきたかを明らかにする。
 そもそも「神社でありながら非宗教である」というのは、戦前の靖国の論理に酷似しており、それはキリスト教や仏教が「国家神道」のもとで「宗教の自由」を認められた(実は認められなかった)という悪夢を再現させるものだと高橋はいうのである。



みごとな内在的批判――江藤淳批判

 第四章「文化の問題」は、「靖国参拝は日本の文化なんだから、それをとやかくいわれるすじあいはない」という議論にメスを入れる。
 そのもっともソフィスティケイトされた議論である江藤淳の靖国=日本文化論を批判していく。

 ぼくがみて、この江藤批判が、本書の中でもいちばんみごとな内在的批判である。つか、江藤がボロいのか。
 新たな豊かな情報で上から塗りたくっていくたぐいの批判ではなく、江藤自身の言葉で江藤自身の論理の破たんをつきくずしていく批判はまことに見事である。

1)死者との共生感が日本文化だというが、なぜそれが靖国という特殊形態をとるのか。
2)死者のうちなぜ戦没兵士のみがとりあげられ、空襲や原爆犠牲者はそこにないのか。敵国の戦死兵はなぜそこにいないのか。日本の武将たちは古来から敵兵をあわせて供養してきたはずだが? そして自国の敵兵(会津藩や西郷軍など)もなぜ祀らないのか?

 そして、この自国の戦没兵士しか祀らない形式を江藤が「どこの国でもやっていること」だといって擁護しようとする矛盾を高橋はつくのである。
 日本文化ではなく「どこの国でもやっている」ものだ、と。

 こうして第4章までで、すっかり靖国参拝の論理は解体されてしまう。

 別にぼくがサヨクだからそういうのではないのだが、保守派から見ても、靖国神社参拝を鎧っている論理はあまりに脆弱である。保守派からも異論が続出する原因はそこにある。
 ぼくは、ある街の食堂で、どっかのじーさんに「お国のために戦って死んだ人を供養してなぜいかん!」と怒鳴られたことがあるけど、居酒屋や市井の井戸端では通用しても、そこから外へは決して出ることができないのが、靖国の論理である。



保守派がめざすべきものとしての「第五章」

 「別にぼくがサヨクだからそういうのではないのだが」という前置きは、強弁したいがためにつけたのではなく、実は、左翼にとっての落とし穴は第五章「国立追悼施設の問題」にあり、保守派はここにもし飛躍することができれば、あっという間に有利な状況を手に入れることができるからである。
 逆に言うと、靖国にしがみついている以上、左翼側はこの問題で攻め放題であり、保守派はつねに圧倒的不利に立たされることになる。

 どういうことか。

 すなわち「靖国にかわる無宗教の国立追悼施設を」という主張は、左翼そのものが巻き込まれやすく、国民にもわかりやすく、むろん隣国からは一切何の苦情もでなくなるだろう。
 そして、ぼく自身も、高橋の本書を読むまでその陥穽に気づかなかった。

 高橋は福田官房長官の私的諮問機関「追悼・平和祈念のたえの記念碑等施設の在り方を考える懇談会」の報告書(2002.12.24)をとりだして、そこに潜む問題点を腑分けしていく。
 結論的にだけ書くと、“戦争についての歴史認識をあいまいにし、今後日本がかかわる「平和活動」における死者を無条件に肯定していく第二の靖国になる”からである。
 歴史認識の問題については、読んでいただくことをおすすめするがいまの文章の後半については少しのべておこう。

 報告書は次のようにのべている。

「戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争をすることは論理的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない」

 高橋は、この報告書の論理から1)自衛隊の「平和活動」は戦争ではなくいつも正しい、2)それへの敵対はつねに不正である、3)自衛隊の死没者は追悼対象になるがたとえばイラクで自衛隊と交戦して死んだ武装勢力は追悼対象にはならない、という論理が導きだされる、とする。

 高橋は、「この論理は、『天皇の軍隊』日本軍の戦争をつねに正戦とし、その戦死者のみを顕彰した靖国の論理と瓜二つではないだろうか」(p.194)
と指摘する。

 このようにして、靖国の解決策のはずの「無宗教の国立追悼施設」案のもつ「危険性」に高橋は警鐘をならす。「靖国問題は、靖国神社の儀礼から特殊日本的要素を取り去り、それと結びついた近代日本の戦争の歴史の特殊日本的な性格を取り去ってしまえば、戦争をする国家に共通の戦没者祭祀──『追悼』と言われようと『慰霊』と言われようと──の問題になってくる」(p.197)。

 これは「その国家が軍事力をもち、戦争や武力行使の可能性を予想する国家であるかぎり」(p.205)たえず生じてくる問題だと高橋はいう。「子安宣邦はこのことを『戦う国家とは祀る国家である』と的確に表現した」(p.205)。

 先ほども述べたように、ぼくもこれを読むまでは「無宗教の国立追悼施設」にはかなり傾いていて、左翼の仲間とよく話していたし、自分の組織にも「そういう対案を出してはどうか」と意見を出したこともある。
 いま高橋の本を読んで、「無宗教の国立追悼施設」について十全反対派になったというわけではなく、「大きな疑いをもつようになった」というのが正確なところだが。


 しかし、保守派は靖国から離れる様子はない。
 民主党にしても、自民党以上に靖国にしがみついている連中は多い。
 近々都議選があるが、たとえば民主党の都議は、靖国の参拝を積極的に支持し、都知事にむけて熱心にあおる側にいる。



保守派も左翼もなにを準備しておくべきか

 あえて保守派の立場にたって言ってみたい。

 この本を読むべきである。
 そうすると、靖国的形態にしがみつくことがいかに脆弱な論理の上にたっているかがわかるであろう。
 逆に、その形態を離れて「無宗教の国立追悼施設」を追求することこそ、近代国民国家の「正統な」道であり、国際社会においても、国民多数を味方につけるうえでも選択すべき道である。

 左翼にとってみれば、「無宗教の国立追悼施設」という問題をどうクリアしていくのかが問われることになる。

 このように、本書は、靖国問題を解剖し、それがどこにつながっていくかを見る上で基本的な論点をすべて網羅しているといえる。だから、参拝賛成派も反対派も、あるいは保守も革新もすべての人が読むべき本なのである。



補足:靖国問題の核心を欠いていること


 一点、重要な点を補足しておきたい。それは本書が現在国際的反響をよんでいる靖国問問題の核心の決定点を欠いているのではないかという、けっこう本質的な問題がうかびあがってきたからである。

 それは靖国神社の現在の歴史観が依然として“大東亜戦争は正しい戦争だった”とするもので、A級戦犯合祀やかの神社の歴史資料館(遊就館)展示はその現れであり、そこへの参拝は必然的に、その戦争観の肯定をまねくからである。

 本書には「歴史認識」の章があるが、そこで問題になっているのは、靖国神社の過去の歴史観が中心である。A級戦犯合祀の問題は、その分祀や除去との関連が中心で、現在のこの神社の歴史観にはまっすぐにむかっていない。

 いま中国や韓国にとどまらない国際的批判をよんでいる核心は、首相の参拝が靖国神社がもっている歴史観を合理化し支持してしまうことへの批判である。

 この点にかんしては本書は記述が弱い。それはこの本の重大な弱点でもある。



ちくま新書
2005.6.14感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る