横山光輝『三国志』

三国志 (1)
 これによって歴史観を形成した中学生っていうのは、数知れないんじゃないか。ぼくもその一人だけど。
 そういう意味ではいまの中堅〜若手男性世代の教養ともいえる。あまりにも有名なので、ストーリーも紹介しない。中学生のぼくは、のちに、この人が魔法使いサリーを描いたと知って、衝撃をうけた。

 まあ、お約束として、ぼくがどのキャラに「萌え」であるのかをいっておくと、孔明である。

 どれくらい好きかというと、中学生のぼくは、横山の描いた孔明のマネをして、口に墨でヒゲをかき、ウチワを改造して「白羽扇」をつくり、いちいちそれで人に指図をしていたというくらい好きであった。
 どうも知的権威というものに、からきし弱いのである。
 劉備のようなキャラは、イイ子ちゃんすぎて、ぼくは嫌いだった。早い話、皇室の子孫だとか騙って、国をのっとっちまった大悪党だろ。

 三国志そのものにも熱中し、もう何百回というほど、ノートに三国時代の都市と地図をかいて、一日中、鉛筆と消しゴムで領土の奪い合いを空想のなかでしていた。思えばパソゲーの『三国志』のひな形みたいなもんで、あれを考えたやつは、きっとぼくと同じような中学時代をすごしたにちがいない。そしてそいつは、その妄想をまじめに商品にしたために、大変なヒットをとばしたというわけなのだ。ちくしょう。
 妄想だ、遊びだといって馬鹿にしてはいけないのだ。それをまじめにとりくんだやつだけが、大作家になったり、大クリエイターになったりするってわけでんがな。

 それから、クラスのやつらを主人公にして、三国志をネタにしたような創作マンガをノートに何十冊も描いていた。
 あれは、実にマネしやすい絵なのだ。
 そう、横山の絵は、実に単純なのだ。

 横山三国志は吉川英治のそれを忠実に原作にしている。
 後半、そうだなあ、蜀を劉備が攻めとって以後からは、絵が単調になり、「たたかっているカット」「話しているカット」「『なに!』と驚いてるカット」、この三つのカットしか使ってないぜ、といいたくなるほどひどくなっていく。横山三国志のなかでは、孔明の出廬〜赤壁あたりが彼の絵の最盛期で、以後はどんどん退化していく。
 まさに退化である。
 初期の巻のほうが、むしろみずみずしい印象をうける。

 ぼくらの世代は、この吉川三国志=横山三国志を正典とし、その後の三国志は、すべてこの正典を模倣するか、批判して超克しようとするか、どちらかである。小説もマンガも。
 娯楽小説史においても、マンガ史においても、両者は巨峰として屹立しているのだ。

 マンガにおいては、ずいぶん長い間、この横山三国志をこえる試みは出てこなかった。ふしぎなことである。それをようやくうちやぶるのではないかと思われた、『蒼天航路』(王欣太、講談社)も、諸葛亮を描くのに大失敗して、先行きが危ぶまれている。

 さて、ここまで議論をすすめてきて、さんざんに横山三国志の晩年を貶したぼくであるが、いしかわじゅんが『漫画の時間』(新潮OH!文庫)のなかで、“横山の絵は完成された絵なのだ”というコメントをしているのを読んで、はたと膝をうったものである。
 あれは、退化しているのではなく、晩年のピカソのようにシンプルになっていっているのだ。
 そう考えれば、横山三国志をしのぐ三国志マンガがまだ登場しない(くり返すが『蒼天航路』は十分にその可能性を秘めている)のは、合点がいくというものだ。

 してみると、80点以上はつけたいのだが、しかし、やっぱりどうも単純すぎる絵だなあと思わざるをえず、生理的拒否感から60点をつけまちた。ちょうど全60巻ですし(なんだそりゃ)。


(全60巻、潮出版)



採点60点/100
年配者が読んでも楽しめる度★★★★★

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