古谷三敏『寄席芸人伝』



 中学の同級だった女性が落語にハマッている。
 中学時代は落語など見向きもしなかった人であったが、いまや新宿の末広亭に日参するというほどの入れ込みようである。「もう落語ブームも下火じゃねーのか?」と思う人もいるかもしれないが、まったくそんなことはないようである。

 こうしたなかで古谷三敏の『寄席芸人伝』の新装版を本屋でみかけるようになった。半年ほど前に読みたくなって文庫を探したのだが、そのときはどこにもなかったので、これは嬉しかった。即買い。
 漫画の世界にも寄席や噺家を扱ったものは少なくないのだが、やはり本作の右に出るものはない、というのが今のところのぼくの感想である。

 ぼくがはじめて落語にふれたのは小学校4年生のときだった。ラジオで放送された古今亭志ん朝の「大工調べ」を兄がテープに録音したもので、それも最後まで演じたものではなく、有名な啖呵をきるあたりで終わってしまう、ありがちな短縮版だったのだが。

 ただ、もうこのテープはくり返し聞いた。

少年少女名作落語 5 (5)  寝る時に必ずこれを聴いて寝た時期があった。兄が落語ファンだったのでそのテープを借りたり、自分でも録音できるテープをもてるようになって(1本300円だったテープはなかなか買えるものではなかった)多くの落語を聴くようになったのである。
古典落語 (講談社学術文庫)  そればかりではなく、小学校の図書館にあった子どもむけの落語の本(偕成社の『少年少女名作落語』シリーズ)や、兄がもっていた興津要の編集した『古典落語』(講談社文庫)などもよく読むようになった。どちらかというとぼくは図書館の本を読むような子どもではなかったのだが、これを借りるために足しげく通った。同じ本を何度も借りた。

 そのうちに、小学生ながらぼんやりと思うことがあった。たとえば次のようなことである。

 古典落語は流れからサゲまですでに決まっているのに、そして聴くほうもたいていはそのスジを知っているはずなのに、なぜこれほど面白いと思えるのだろうか? 当時、新作落語は一度として面白いと思ったことはなかったことを考えるとわれながら不思議だった。
 たとえば漫才との比較。漫才ブームもあって、漫才もよく聴いた。ツービートとかB&Bとか紳助竜助とか。漫才は何を聴かされるかわからない意外さがある。それはそれで大笑いしているのに、古典落語も楽しんでいる自分がいるのである。
 新作落語とのかかわりでいえば、たとえば桂三枝はバラエティや番組の司会をやっているときはすんなりと楽しめるのだが、彼がやっている新作はちっとも面白くなかった。その後、何人か聴いたものの、新作を面白いと思えたのは社会人になって柳家喬太郎を直に聴いたときであった。

 決まりきった型の話を聞いて何が面白いのか——これは実に基本的に問いかけである。

 あるいは桂枝雀の「邪道」さであった。
 オーバーアクション。奇妙奇天烈な表情。テレビでは枝雀の芸を見ることが多く、うちの親はよくバカ笑いをしていた。なにより兄が大ファンだった。
 ところが、兄は月の家円鏡(現在の橘家圓蔵)が嫌いだった。
 円鏡が客をいじったり、落語の中で自分に言及して客を笑わせるやり方が「邪道だ」といって嫌っていたのである。
 兄は志ん朝も好きで、レコードなども何枚も持っていたのだが、志ん朝のような「正統派」からみたとき、枝雀も円鏡も「邪道」ではないのか? とぼくは思ったものである。枝雀と円鏡にはどんな違いがあるというのか?

 そして、そのことにかかわってもう一つ。落語というのは「笑わせる話」というような定義めいたイメージが最初にあるのだが、たとえば志ん朝は必ずしもそういうことをねらっていないことは子ども心にもよくわかった。
 もっと大笑いさせたいのであれば、現代的なくすぐりをたくさん入れるとか、勝手に古典を改造してしまったりすればいいんじゃないか、と。落語は笑わせることがねらいではないのか? 芸として完成されることが目的なのか? 何をめざすものなのか?

 また、ぼくは春風亭小朝を好んで聴いたし録音もした。
 小朝は女性、とりわけ艶っぽい花魁を演じるときや、小僧を演じるとき、声の調子がはっきりと変わった。子どもであるぼくが聴いていて、はっきりとそれは花魁だ、小僧だ、とわかった。
 不思議だったのは、他の噺家たちはなぜこうした声の使い分けみたいなことをしないのか、ということだった。たとえば柳家小三治が「初天神」を演じるとき、小三治はそれほどはっきりと子どもの声色を使わない。
 このようなとき落語の巧拙とはどういう基準なのだろうか?

 いまあげたことは、落語にとって基本的な問題である(もちろん上記のような言葉で小学生時代に考えていたわけではなく、まさにこういうむねのことを「ぼんやり」と感じていたということであるが)。
 いや、落語ばかりではなくて、一定の歴史や伝統をもっている芸事や創作活動すべてにとって共通する問題だといえるかもしれない。

 『寄席芸人伝』には、こうした基本的な問題がつまっている。

 たとえば新装版2巻。ここに入っている「甚五楼小えん」。
 若手真打ちの小えんは、いちいち芸が「クサい」。すなわちオーバーなのである。それだけでなく、体も大柄、おまけに顔のつくりも大雑把。ゆえに細かいニュアンスが伝わらない。
 聴衆に、同じ若手の文鶴の芸の細かさと比較されてしまう。

「文鶴の“馬のす”、枝豆を食う所は絶品だね。」
「同じ豆だって、枝豆、空豆、甘納豆、細かな口の動きで演じ分けてみせるものな。」
「それに引き替え小えんの奴は……」
「芸が粗い粗い。完全に水をあけられたね、小えんは。」

 ぼくはこの話を読んだとき、即座に枝雀のオーバーアクションを思い出した。ぼくは枝雀の高座を観たことがなかったから、そういう空気のなかで彼の演技がどう見えたのかはわからずじまいだった。しかし、少なくともブラウン管を通してみる枝雀の噺は可笑しかった。
 「甚五楼小えん」では、演じる場所や状況がちがえば、このオーバーアクションが実は有利に働く、という問題をあつかっていくのである。

 次の「ドサ回りの小遊」は、さらに基本的な問題で、落語とは批評家を楽しませるものか、それとも大衆を喜ばせるものか、というテーマである。
 有望な若手・小遊は批評家をはじめとする「文人墨客」たちにウケがよい。ところが小遊は「低俗な客」たちをはじめからバカにして、田舎からの東京見物の客だとわかると早く切り上げてしまったりする。
 こうした態度が師匠の逆鱗にふれ、ドサ回りを命じられるのである。
 ドサ回りで小遊が味わうのは、東京での評判の無力さ、文人墨客たちの評判の無力さだった。浅いあがり(早い出番)という屈辱をあたえられるが、実際に客は小遊の噺のときにはまんじゅうやお茶をほおばっている。そしてその田舎の浪曲師が高座にあがると拍手喝采となるのである。
 芸としての完成と、大衆娯楽としての人気、という問題は、落語にかぎらない、実にオーソドックスで基本的な対立であることはもはやいうまでもないだろう。

 2巻の最後は「八人芸の小枝」である。
 小枝は噺のなかで、バアさんが登場するときはしわがれた声、子どものときはキンキンと甲高い声、と声色を使い分け、ウケている。
 ある日、客が小枝に「あんたの芸は八人芸だ」と告げる。小枝はその意味がわからず、ホメ言葉だと受け取るのである。しかし、「八人芸てえのは、江戸の昔 高座にすだれをおろし、その陰で、老若男女 色ンな者の声を一人で演じ分けたというだけの 声色の出来損ないみてえなつまらねえ芸だ。だから昔は落語ン中でことさら声を作ったりすると“八人芸みてえだ”と言って、嫌がったもんだ」と大看板の噺家に諭されるのである。

 これは小朝を思い出す。ただし、小朝が「八人芸」であったとは必ずしも思わない。なぜ他の噺家が声色を変えるということをしないのか、という問題の立て方がいいだろう。

 漫画でいえば「キャラクターの描き分け」ということかもしれない。いくら絵がうまくてもキャラクターが立たないせいで「描き分け」があまりできない、という漫画は存在する。逆に、『おおきく振りかぶって』のように(笑)、グラフィックとしてはこれほどまでに「描き分け」が弱いものもないと思うのだが、一人ひとりの性格づけはきちんとできている、という漫画もある。

 以上、すべて基本的かつシンプルな問題ばかりである。
 この基本的かつシンプルな問題が、古谷の基本的かつシンプルな絵柄、そしてコマ割りとストーリー展開に乗せて描かれる(右図参照※1)。

 たとえばこれを逢坂みえこの落語漫画『たまちゃんハウス』と比べてみるといいかもしれない。
 『たまちゃんハウス』は、噺家の師匠とその娘、そしてその家に住んでいる3人の弟子、若手落語家の物語であるが、古谷の古くさくてシンプルなコマ割り、ストーリー、絵柄ともちがって、現代的である。ぼくはかつて逢坂の漫画を「わかりやすい」「オーバーアクション」と評したことがあるけども、古谷と比べればはるかに細やかである。

 『たまちゃんハウス』3巻でも、実は「決まりきったはずの古典のたまちゃんハウス 1 (1) (クイーンズコミックス)型を演じているのに何が面白いのか?」というテーマは現われる。「青菜」という噺を3人の噺家がどのように個性を出しているかを、『たまちゃんハウス』では演者の顔つきと解説で差異を出させそれを浮き彫りにしてる。

 古谷はちがう。そういう細やかな描き分けがない。
 しかし、シンプルな分、古谷の漫画は誰でもいつでもそして何度でも読める漫画になっている。ぼくは初めて読んだのは高校時代であったが(これも兄の所蔵であった)、以後いったい何回読んだのか数えきれない。夜中にインスタントラーメンとインスタントコーヒーをすすりながら読む定番の本は星新一か、初期『こちら葛飾区亀有公園前派出所』か、『1・2のアッホ!!』か、それかこの『寄席芸人伝』であった。それほどくり返し読むのに耐えうる本であった。それもこれも、このシンプルさが寄与している。シンプルなものほど再読性が高い(誤解なきように言っておくが、『たまちゃんハウス』は良質な作品である)

 なお、『寄席芸人伝』はどれも非常に出来がいい話なので、しばしば「これは実話なのですか?」と訊く人が少なくない。
 もちろん、ぜんぶフィクションです。





『寄席芸人伝』改版
中公文庫 1〜2巻(以後続刊)
※1:同上2巻p.154
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る