吉野朔実『記憶の技法』


記憶の技法
 子どものころ、誰もいない家に帰ると怖かった。
 田舎で農家だったせいもあろうが、だだっ広い家が静まりかえる。寂として声なし。
 そこにある不安は、「だれかが来るんじゃないだろうか」という不安だ。人かもしれないし、お化けかもしれない。とにかく、未知の何かが今やってきたらどうしようという不安である。
 そんな静寂のなかで、家の柱が「ギッ」と時々とてつもなく大きな音できしむと、ビクッとした。

 吉野朔実の『記憶の技法』は、恐怖のためにゆがめられ、封印された記憶を、旅をしながら一つひとつ解いていく作品である。自分も他人も、過去に対する記憶は、さまざまである。ある者はまったく記憶をもたない。ある者は一面をデフォルメしている。ある者は自分とまったく別の角度からとらえている。そうした記憶を一つひとつ旅しながら、封印していた恐怖に直面し、自己を解放するのである。

 その最大の恐怖のひとつが、この作品では、「だれもいないはずの家でソファーのむこうでテレビがついている」ということだ。主人公は「――誰かいる? テレビ――を見ている」と自分の記憶を掘り出すように、このなんでもない光景に恐怖を覚える。

 エキセントリックで茫洋としているが、友だちともよくつるんでいる高校生の華蓮が主人公。修学旅行で自分の戸籍をとりよせたときに、妙な注釈がそこについているのに気づく。
 その解読をめぐって、華蓮の、記憶をたどる旅がはじまる。

 (以下、一部ネタバレがありますので、了承してお読み下さい)

 集められた恐怖の中で、わたしも怖かったのは、「大人から子どもまで、一家にすべて除籍(死亡)の×がついている戸籍、そしてすべて同じ日付になっている戸籍」である。「平成元年八月拾壱日 福岡県西逆井町で死亡 町長より送付除籍」。戸籍の、ひどく事務的な文面、そして事務的事実以外なにも語らない文面は、事実の冷厳さを圧倒的な力で押しつけてくる。そして、何があったんだろう?という想像を最大限にかきたてる。

 ソファーのむこうでテレビがついている、というのも怖い。そのテレビでやっている番組が何気ない野球中継などだと、もっと怖い。いちばんありきたりの日常のど真ん中に、恐怖が存在していることを示すからだ。
 もちろん、わたしはこの作品のような幼児体験をしたわけではないが、たぶん冒頭にあげた原初的な体験とむすびついて格別の恐怖感を煽るのであろう。
 マンガでは、その記憶に辿り着いた光景が見開きで描写されている。ただテレビがついているというそれだけのシーンに、恐怖感は最高潮に達する。

 あとは恐怖のスパイラルである。
 ラストでは、家族が「お風呂場で、浴槽の中に、みんな重なっていた」のを、幼い主人公が見る情景が登場する。そしてその浴槽の中は描かれない。想像するしかないのだ。

 吉野は、短編集『いたいけな瞳』(全8巻)で大きく変貌した。
 若い女性がよくやっている、ひとりよがりの感情の吐露から脱皮して、心情とか記憶とか意識とかいったものをいったん突き放してとらえ、それをまた自分のものにしていくという作業をするようになった。『ぼくだけが知っている』『恋愛的瞬間』はそうした作業が生み出した良質の作品群である。
 『記憶の技法』もその線上に位置する。


(小学館)



採点88点/100
年配者でも楽しめる度★★★☆☆

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