あずまきよひこ『よつばと!』3巻


 関係ないが、職場で「あなた、ヨン様に似ているな」と複数の人から言われる。ま、なんていうんですか。事実は隠せないとでも申しましょうか。


 さて。
 迷子である。

 迷子というのは、本人には悪いけども、かなりユーモラスな存在だと思う。

 この前、新宿の東急ハンズ1階で迷子をみた。
 母親とはぐれたらしく、絶望的な顔で「ママーッ」と大泣き(正確には大泣きなので「マ″マ″ーッ」であるが)しながら、彷徨。
 ところが、泣きながらよろよろと歩くうちに、ハンズ1階のおもちゃ類の棚が、その子の目に入ってくる。すると、ピタッと止まって、じーっとそのおもちゃを見ているのである。そして、数秒後、自分が迷子であったことを「ハッ」と思い出し、また「ママーッ」と大泣きしてよろよろ歩き出す。しかし、また数歩いったところで、別の興味あるおもちゃを発見し、またじーっと見ている。そしてまた……と、断続的に「迷子」であることを思い出しながら、さまよっていった(幸い、お母さんに会えた)。


 子どものユーモラスさは、一般的に、その脳内世界と客観世界のギャップによって起きるのだと思うのだが、迷子の場合は、それが極限的なまでに分裂する。

 迷子というのは、子どもの主観のなかでは、世界にただ一人放り出されたような、激しい危機感を抱かせるものである。しかし、客観的には、危機が直接迫っているというわけではない。ハンズで見た子は、「究極の孤独」という実存主義的脳内世界と、おもちゃが並ぶ、ぽややんとした客観世界とを、忙しく行き来していたわけである。

 天然児「よつば」と、その周囲の大人&子どもたちをめぐる、日常的非日常の物語『よつばと!』は3巻目に突入した。本巻で、あまりにもかわいらしかったのは、よつばが花火大会にいって、とーちゃんにわざと迷子にされるシーンである。

 「迷子になったらもう二度とーちゃんと会えないぞ」という父親のセリフが突如よつばの頭にひらめく。
 自分は迷子になったかもしれない。
 世界のすべてのつながりを断ち切られた瞬間である。
 よつばが、泣き出し、花火大会の祭りの会場で大泣きに泣き始める。

「こいわい よつばです! 
 こいわい よつばです!」

 このセリフと俯瞰のコマが、たまらなくかわいい。

 「とーちゃん!」でもなく「わぁぁぁ」でもなく、自分のフルネームを叫び始めるというところが、リアルだ。
 ここには書かれていないが、おそらく「迷子になったら自分の名前をちゃんというんだぞ」という、とーちゃんからの教訓が、よつばの頭に閃いたに違いない。しかし、それは、迷子を認識し世話をしてくれる大人を発見した後の作業のはずなのだが、よつばは、壊れたサイレンのように、自分のフルネームを叫び続ける。
 妙なところに、リアルがしのびこんでいて、不意打ちをくらう。

よつばと!(3)

 オビの「どこかで見た、どこにもない場所へ」。
 何が埋め込んであるかは別としても、ますますこの漫画はサザエさんのような無歴史性を帯びていっている。
 前に、“『よつばと!』は、「こんな世界があれば、そこに住みつづけたい。わずかな労働のみによって、あとは無数に楽しいこと起こり続ける『楽しい』世界」「ヲタのユートピア」である”と書いたが、ある意味でこの傾向が加速している。

 精神科医の斎藤環は、この作品を評して次のようにのべた。

「この作品は一種の『死後の世界』のユートピアを描いている。いや、こう言うだけでは正確ではない。物語世界の閉じ方が『死後の世界』的な形式でなされている、と言うべきだろう。どういうことか。その世界は、ほぼ完全な虚構システムとして閉じている。しかし、システムが閉じたままであるためには、逆説的であるが、『どこで閉じている』かというポイント、いうなれば、『リアリティの栓』がきちんと示されなければならない。……例えば……ひまわりの花束を抱えるよつばという、ぱっと見にはメルヘンな表紙が、帯を取り払ってみると、背景は工事現場。ひまわりはどこかに庭から引っこ抜いてきたらしく、根っこについた土が生々しい。この『ひまわりの根』こそが、あずま作品のユートピア性を確保する『リアリティの栓』なのだ」

(「ユリイカ 詩と批評」2003.11号)

 言い得て妙である。
 本巻では、ぼくは「迷子」にその栓をみた。
 オビの「どこかで見た、どこにもない場所へ」とは、まさに「死後の世界」なのだ。


※1巻の感想はこちら

メディアワークス
以後続刊
2004.12.4感想記
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