山本直樹『YOUNG&FINE』




 山本直樹づいていて申し訳ない。

YOUNG&FINE (アクションコミックス) 『YOUNG&FINE』は大学時代に自分の大学からひどく離れた大学へオルグに出かけたとき、そこの学生活動家のたまり場で偶然読んだ記憶がある。神聖なる学生運動のたまり場にこんなもの置いておくなよ(笑)。
 夕刻に独りでそのたまり場にいたのだが、何度も何度も読みふけってしまった。エロくて。「これは是が非でも家で買って家で読みたいものだ!」と、運動の決意以上に固い決意と硬いナニカを感じたものである。
 この実写版映画のビデオも観た。
 エロ映画でも何でもない、ちょっとだけハダカが出てくる映画だったし、作品的にすぐれていたかどうかもう覚えていないのだが、漫画の『YOUNG&FINE』を実写的に妄想するうえでは非常に役立ったというつまらないことを覚えている。

 『YOUNG&FINE』は田舎の男子高校生の話だ。
 主人公の灰野勝彦は離れに「かわいくて かしこくて きれい好きで さらには とってもスケベ」なガールフレンド・新井玲子を呼び込んで毎日乳繰り合っているのだが、最後の一線だけはどうしても超えさせてくれない。その主人公の家に自分の高校に赴任してくる色気のない新米女性教師・伊沢学が住み込みをすることになる、という設定である。
 では灰野が伊沢とヤリまくる話か、とか、3Pとかそういう話かというと全然そうではない。その伊沢と灰野はまるで飲み友だちのような関係を続けつつ、それとは関係なく灰野は灰野で新井に何とか一線を超えさせようという涙ぐましい努力を続けるのであった。

 ぼくがこれを読んでいたとき、すでにぼくの大学生活も最終盤になっていた。大学でいろんなことがあったから、自分の高校時代というのはその時点で歴史のなかに入ってしまっていて、すでに「懐かしく」かえりみる対象になってしまっていた。

 本作のなかで伊沢が「作り変えのきかない過去なんてないのだ」と酒を飲みながらうそぶくシーンがあるけども、ぼくの高校時代は作り替えがきかない過去のように思い出されてならなかった。
 そうなのだ。
 ぼくも、高校時代に、「かわいくて かしこくて きれい好きで さらには とってもスケベ」な、新井玲子のような同級生とどうしてセックスができなかったのだろうか、と読みながらしみじみと思った。
 いや、セックスじゃない。
 この作品の最初に出てくるように、灰野が新井を後ろから抱いて、徐々に制服を脱がしていきながら後ろから胸を触っている、といったような青春がなぜ送れなかったのだろうと思ったのである。後ろから抱いて乳を揉むような青春。
 前にちょっと書いたけども、ぼくは女性器そのものや女性器をめぐる性交ということへの性的な関心がうすく、胸や周辺部分への関心が異様に高かった。だから、性器への挿入を拒み、それ以外のあらゆることを許した新井玲子の存在は、高校・大学的ぼくからすると、余計な夾雑物を持たぬ必要な性的身体のパーツだけを持った女神様のように思えたのである。
 
 「かわいくて かしこくて きれい好きで さらには とってもスケベ」なガールフレンドを一人こしらえて、毎日毎日「離れ」という隔離空間で擬似セックスをしているって、自分の高校時代を完全に性的妄想で塗り替えるとすればこれほど完璧な妄想はないといってよかった。
BLUE  このモチーフは、この作品のすぐ前に書かれた山本の『BLUE』でも使われている。『BLUE』では高校の屋上に使われていない、誰も来ない部室があって、そこで「ブルー」というクスリを飲みながらセックスを毎日しているという話なのだが、ぼくは『BLUE』の方が設定がゆきすぎてしまっていること、話が急すぎること、それゆえに非現実的な感覚が強いことがあって、あまり好きになれなかった。『BLUE』はある意味で『YOUNG&FINE』を濃縮したもの、あるいは徹底してしまったもの、だといえる。『BLUE』の主人公もやはり「灰野」であり、セックスの相手になる女子高生は「勉強できて大学スイセンだしスポーツ万能だし」「そのうえ感度が良くてテクニックだってある」。
 とにかく、『BLUE』の徹底ぶりがぼくの肌には合わなかった。

  • ※ぼくは某所で『BLUE』をホメたのだが、『YOUNG&FINE』の間違いであった。ごめんなさい。

 やはり「最後の一線」は何のこだわりからか超えさせず、かつ、それ以外のことは灰野の強引な押しでなし崩し的に次々に承認してしまう『YOUNG&FINE』の新井の押され弱さがたまらなかった。加えて、新井の着ているブレザーのいかにも80年代的な田舎くささが自分の高校周辺の女子高生のブレザーに似ていて、そんなところがぼくの個人史へこの漫画が浸食してくる小さな装置になっているのであった。ああ、やめてくれ!

 『BLUE』もそうであったように、山本のこのころの作品は、突然ひどく非現実的な要素が入り込んだり、途中で調子を乱すようなシュールな設定やギャグが入ったりすることが多かった。しかし、『YOUNG&FINE』は、最後まで地に足のついた物語で、本当にスンナリと自分のリアルの個人史へと重ねて妄想を広げていくことができた。

 山本は本書の97年版のあとがきで、『YOUNG&FINE』は自分の地元の近くにあった北海道の江差町をモデルにしたと書いている。

「そんなに小さい町ではない。他と比べて特にビンボーということもない。もしかしたら江差は町の外に出る気にならないほど居心地のいい場所なんだろうか、とも思ったりした。そんな僕の想像上の江差が、YOUNG&FINEの舞台となっとります」

 ぼく自身は田舎を出てきた人間なのだが、ぼくの同級生はたくさん地元に残っている。外から勝手な気持ちをかぶせるかんじで言わせてもらうと、田舎・地元というものは、ぼくの生い立ちがそこに残されている場所であり、係累がいる場所であり、湿った人間関係で覆いつくされているような「未開の町」なのである、という捉え方がどこか抜けない。

 『BLUE』で主人公の相手をする女子高生が「一生この町にうもれて暮らすなんてまっぴらだね わたしこの町大嫌い ヌルマ湯ん中いるみたい どいつもこいつも善人ヅラしてさ」と自分の田舎を罵倒するセリフがあるけども、その憎悪は自分のなかにある田舎への憎悪に似ている。
 しかし、他方で、『BLUE』や『YOUNG&FINE』の主人公・灰野は、いずれも町を出て行かない。その町にとどまり、公務員——安定した平凡な生涯の代名詞——をして暮らすように、憎悪を裏返したような愛着を自分の田舎にもっていることも事実なのだ。『YOUNG&FINE』で女教師・伊沢が「飲まないとね やっとれんのだよ 時々 生まれて働いてメシ食って死ぬだけなんだな——とか思ってまうと」とこぼすのは、前述の『BLUE』の女子高生の発言に対応している。しかしその伊沢も「イキオイ」で地元の寿司屋の同級生とヤッてしまって子をなして地元に定着し幸せに暮らすのである。

 そういう田舎への反発と愛着が、なぜかところどころでボディブローのように効いてきて、ますますこの物語がぼくの個人史のなかへ浸潤してくることになるのだ。

TRACY CHAPMAN  『YOUNG&FINE』ではなく、『BLUE』の方が唯一いいなと思えるシーンは、主人公と女子高生が車でドライブすることころである。トレイシー・チャップマンの「ファスト・カー」と、山本譲二の「みちのくひとり旅」をBGMにしながら(どちらも出立の歌である)、主人公が「……遠くまで行こう この不浄なイナカを脱け出し 誰も知らない東京めざして この道をどこまでも南へ走ろう ガソリンが切れたら 二人で自販機をこわして 金を盗み ガソリンを買おう このまま東京まで逃げて そこで二人貧しくともつつましく暮らそう」と歌うようにつぶやく。それまでふざけてばかりだった女子高生が、作品の中でたった1回だけみせる真剣な表情で「…………冗談でしょ?」という問いかけるコマがステキだ。

 本当はできもしないことを歌詞のように並べてみせて、田舎を出たい気持ちと、この田舎というヌルマ湯に永遠にひたっていたい気持ちの交錯を描いてみせている。山本直樹はテレかくしのつもりなのか、「みちのくひとり旅」を出しているんだけども、本命は「ファスト・カー」のほうだったのだろう。ちょうどぼくもそのころトレイシー・チャップマンをずっと聴いていたから、いよいよぼくに迫るものがあった(訳した歌詞はここ。すばらしいのでぜひ一読されよ)。

 『YOUNG&FINE』では主人公にこうした非現実的で突飛な行動をとらせずに、伊沢と灰野が海辺で話すシーンでラスト前後をしめくくっている。伊沢はふんぎりがつかずに高校時代の自分をひきずったまま教師に赴任し、特別大きく自分は変わりはしなかったけども、それでもやっぱり何が自分のなかで変わって自分がここにいることを諦観的・達観的に受け入れられるようになったことを語っている。
 『BLUE』に比べると劇的効果は低いけども、しかし、それは逆に田舎に居着く気持ちをリアルに説明しているようにぼくには思われ、このシーンはこのシーンで、やられてしまったのである。

 そんなふうに、田舎への愛着と反発ということをからめながら、田舎での高校時代の思い出をすばらしい性的妄想で塗り直してくれるのがこの山本直樹の『YOUNG&FINE』なのであった。






双葉社
2008.3.12感想記
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