岩明均『雪の峠 剣の舞』




雪の峠・剣の舞  2つの短編、というのか、中編をおさめる。

 「雪の峠」は関ヶ原で西軍に着いたために石高を3分の1に減らされたうえ、常陸から出羽(秋田)へ移封された佐竹家の話。「剣の舞」は、戦勝の勢いで民家で略奪を働く武士たちに拉致・輪姦され、家族も皆殺しにされた少女が、男装して武術を修め、復讐する話。

 岩明均は、よい要素が決まっている。換言すると、岩明の作品で「良い」と思える要素は次の3つに限定されている。
  1. 突然の暴力を、人間の肉体が裁断される瞬間で静止させてキャプチャーし、壮絶な緊迫感を生み出す。
  2. 少女のエロス。つか、岩明の少女への欲望。
  3. 小賢しいともみえる知恵者が、世間に評価されない知性を発揮。

 ホントに決まってんだ。ぼく的には。

寄生獣―完全版 (1)  (1)は言わずと知れた、岩明の代表作『寄生獣』。
 宇宙から来た寄生生物が体に侵入し、鋭利な刃物のように寄生した人間の体を自由に変型させ、相手を切り刻む。
 こういう「突然の凄惨さ」というのは、ぼくらが出遭う「事故」がもつ暴力の突拍子もなさを本当によく表している。ビュンビュンとばすクルマに乗っていたら、ずっと車中では楽し気におしゃべりでもしていたろうに、ちょっとわき見をしただけで数秒後には体はまっ二つになっている。事故で体がまっ二つになるとき、おそらく、顔は笑いながらまっ二つになっているかもしれない。

 そういう「事故」というものがもつ、有無を言わせぬ圧倒的な突然さを、岩明の「静止スプラッタ」は、説得力をもって伝える。

 この中編集「雪の峠」でも、上杉謙信が幼子をモラール維持のために胴体からまっ二つに斬るシーンや、「剣の舞」のなかでの戦闘シーンはこの連続である。これらは「事故」ではないが、戦争という圧倒的な暴力のもつ、「有無を言わせなさ」の一つである。

ヒストリエ 1 (1)  (3)は、連載中の『ヒストリエ』が典型的だ。
 アレクサンダー大王の書記官となるエウメネスの生涯を描くのだけど、いまのところ、その幼少時代が描かれていて、市民から奴隷に身を落とされるエウメネスは「本当は知性を隠し持っている」人物として描かれる。それがなんつーのか、変身しないヒーローみたいな感じで、読んでいるぼくとしては、やきもきしながら楽しんでしまうというパターンなのだ。

 「雪の峠」で、佐竹義宣の近習頭、まあ秘書官みたいな存在である渋江内膳がまさにそんな感じ。ちょうど、書記官と近習頭で似てるし(笑)

 渋江は、見るだにぼさっとした、うだつのあがらなさそうな文官風体で、田中芳樹『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリ−を彷佛とさせる。
 これが威勢のいい家老連中の出す、一見もっともらしい、しかし実はものごとの表面しか見ていない提案を、渋江がズバズバと斬っていくのが痛快である。

 冒頭に、関ヶ原で東軍(徳川)につくか西軍(石田)につくか評定するのだが、趨勢が徳川に流れているのでみんな東軍につこうと声高に主張する。
 そこに、ぼそっと渋江が

「ただ 我らが東軍について勝利した場合 この常陸領は無事にすみましょうや?」

とつぶやくように進言する。「なんじゃいきなり訳わからんことを!」と家老に怒鳴られる渋江。しかし、家中の意思はすべて「東軍」と決したのに、主君・佐竹義宣は、評定の終わりに「わしは西軍につこうと思う」と結論づけるのだ。

 もし勝てば、徳川の拠点・江戸のすぐ北に、巨大な所領をもつ大大名が出現することになり、いずれ徳川に口実をつけてつぶされる。福島や加藤のように。それよりも、あえて負ける側につき、小さい所領でも生き残る方が大事ではないかという遠慮深謀を働かせたのである。

 こういう賢しらな話、大好き

 知恵のある人間が、だれにも評価されず、やがてある出来事をきっかけにみんなが目を見張る、みたいな話は、古典的なパターンですが、ぼく、悶絶しそうです。

 時代考証的なものは、率直にいってかなりいい加減だと思う。
 「雪の峠」で、封建制度完成期の主君と家臣、とくに「近習頭」と主君がこんな距離感で話すかね、とか、農民の娘が武家に化けられるかね、など。
 おそらく、岩明は、物語の発想の核になる歴史的事実にふれ、そこから自分の頭で次々とストーリーやプロットを展開させていっているのだろうと想像できる。ストーリー展開に、ものすごく素朴な「手作り感」があるのだ。
 しかし、柱となる着想がしっかりしているので、そういう甘さが物語を破壊してしまうということはない。
 終わりまで楽しんで読める。


風子のいる店 (1) (2)は、岩明の初期の代表作『風子のいる店』ですでに発揮されたが、「剣の舞」では主人公・ハルナの強姦シーンとしてもっと直截に表現されている。
 暴力性あふれる表現のくせに、作者の欲望が十二分に透けてみえるから、読む者もこれをポルノグラフィーとして読む。

 ハルナをわざわざ美少女に描き、くわえて男装させ中性的なエロスまで引き出させているあたりが念入りである。家族が惨殺されているというのに、読む者はそれによって興奮を味わっていることは疑いない。


 (1)(2)(3)という具合に、岩明にとって「いい要素」が決まっているということは、逆にいうと、それ以外がダメだ、ということなのだ。

 「剣の舞」では、ハルナが、剣の師匠である文五郎に淡い恋心をいだくのであるが、こういう描写は全然ダメ。あまりにもありきたりすぎるというか、そういう細やかな抒情を描くのにまったく向いていない。なんで文五郎をハルナが好きになるのか、わかんないんだもの。

 ことほどさように、岩明という作家は得意領域が限られている。
 しかし、その得意領域が狭いことがアダになっているかというと、ちっともそんなことはなく、それを手をかえ品をかえ出されても飽きがこない、不思議な作家なのである。






『岩明均歴史作品集 雪の峠 剣の舞』
講談社 全1巻
2006.9.27感想記
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