原田重光・萩尾ノブト『ユリア100式』 ブログ「最後通牒・こぼれ話」で知ったことだが、本書は神奈川県青少年保護条例の「有害図書類」の指定をうけている。同条例での「有害図書」というのは「青少年の性的感情を著しく刺激し、その健全な育成を阻害するおそれがあるもの」だそうで、その具体的な内容は施行規則にこうある。 (1) 全裸、半裸又はこれらに近い状態での卑わいな姿態で次のいずれかに該当するもの ア 大たい部を開いた姿態 イ 陰部、でん部又は胸部を誇示した姿態 ウ 男女間の愛ぶの姿態 エ 自慰の姿態 オ 排せつの姿態 カ 緊縛の姿態 (2) 性交又はこれに類する性行為で次のいずれかに該当するもの ア 性交又はこれを連想させる行為 イ ごうかんその他のりょう辱行為 ウ 同性間の行為 エ 変態性欲に基づく行為 「男女間の愛ぶ」や「同性間の行為」も「有害」なのかと驚く。 ![]() 瞬介の方はスケベなのではなく、まったく無垢。すぐ性的なものに結びつけてムラムラしてしまうのは、そういうスペックをうめこまれているユリアのほうである。 いっしょに夕食を食べていてドレッシングをふるように瞬介が指示をすると、ドレッシングのビンを手に持って1セコンドに16回の速さでピストン「手コキ」をしてしまうとか、シャワーを借りると自然に「臨戦態勢」に入ってしまうとか、白濁した液体(シャンプーなど)に異様に反応してしまうとか、そういうバカ下ネタが満載なのだ。エロ漫画というよりも下ネタ漫画である。 『ユリア100式』は06年12月調査で「包括指定」の例示のなかに入っているが、本書には性交シーン「すら」ない。ぼくは「指定した人々はこういうものを『卑わい』だと感じたのかあ」、と思った。「卑わい」を「指定」することは、指定したものの「卑わい」観、性意識を鏡のように映し出してしまう。 宮崎勤事件において精神鑑定人の判断がバラバラなのをいぶかったジャーナリスト・吉岡忍は、その違いの根拠のひとつを「精神鑑定人たち一人ひとりの性意識」の違いに見た。宮崎が撮影した幼女の死体ビデオの性格がそこでは争われた。 〈試されたのは、彼ら〔精神鑑定人、捜査官、検察官、弁護士、裁判官など〕だった。その映像の上に映しだされたのは、彼ら一人ひとりの性意識だった。この映像に性的に反応した者は、宮崎のやったことを性犯罪と思っただろう。この映像に反応しなかった者は、性的欲望以外の動機があるはずだと考えただろう〉(吉岡『M/世界の、憂鬱な先端』p.390〜391) ラブコメ的な漫画(エロ漫画をふくめて)においては、女性が実に都合良く男性の性的欲望に反応するようになっている。無理無理なストーリー運びやご都合主義がそこでは蔓延しているわけだが、『ユリア100式』においては、男性の何でもない仕草に性的に反応してしまうこと自身がヒューマノイド・ロボットのデフォルトになってるために、無理な話運びであればあるほど(ex. 黒光りするマイクを見るだけで、ユリアが興奮してしまう)、可笑しさが生じることになっている。 いわばご都合主義がそのまま笑いをもたらすわけで、立場をかえてみると、ラブコメ的なご都合主義を笑い飛ばす形で批評しているといってもよい。 この漫画はポルノとして機能しているのではなく、そういう笑い=批評として機能している。『ユリア100式』を「卑わい」なポルノだと思ってヌケる人は、おそらく神奈川県の児童福祉審議会のみなさんだけだったのだ。ユリアを開発してハアハアしていた秋葉歩博士とほとんど同レベルである。 ちなみに、そもそもユリアはロボットなんだから、「性交」もしていないし、「性交に類する行為」もしていないし、その意味でも「卑わい」ではないぞよ、というツッコミがありうるんだけども、それはまるで、どう見ても小学生とセックスしているエロゲーが、「その少女は18才だ」という無理無理な設定をするのに似ているのでここでは立ち入らないでおこう。 |
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