基礎研編『ゆとり社会の創造』


 共産主義者にとって「目標」でもある「人間の解放」とはいったい何を意味するのか。

「自由はこの領域(物質的生産の領域)の中ではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分達の協同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分達の人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の王国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発達が、真の自由の国が始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」(マルクス『資本論』)

 マルクスは、社会を維持するのに必要な労働は必ず存在し、それは共産主義になってもなくならない、その労働をしている時間というのは、人間にとって必然にしばられた時間帯だとして、その労働が終わって自分の自由な時間をもったときに、人間は「自由の国」がはじまるとのべた。経済というものを社会がうまくコントロールし人間のために役立つようになっても、そのこと自体は、人間にとってまだ真の自由、人間の解放ではない、とマルクスは考えた。

 マルクスにとって、人間の解放とは、人間の能力の「発達」、「全体的に発達した個人」(マルクス)なのだ。そして、わざわざ「労働日(労働時間)の短縮」が、人間を全面発達させる「根本条件」だとのべている。

 本書は、このマルクスの人間発達論に焦点をあて、なおかつそれを軸にしながら、『資本論』入門をしようという大胆不敵な試みである。正確にいうと、こうである。

「本書は二つの課題をもっています。第一の課題は、今日の日本経済を分析し、『働きすぎ社会』から『ゆとり社会』にいたる筋道を明らかにすることです。第二の課題は、日本の『働きすぎ社会』の経済分析をとおして、『ゆとり社会』論の名著であるマルクスの『資本論』を学ぶことです。……読者は、本書を読みすすむうちに、わたしたちが目指す『ゆとり社会』はすべての生活者の人間的な自立と発達を保障する社会でなければならない、ということに思い到るでしょう」(はしがき)

 もっとはっきり、つぎのようにのべている。

「マルクスの経済学研究、経済学批判、したがってまた『資本論』をつらぬいているのは『人間の発達』というテーマであるといって過言ではありません。/しかしふつうわたしたちはマルクスの『資本論』について、『人間の発達』について書いた本だとは考えず、資本家による労働者の搾取のことを書いた本だという観念をつよくもっています。たしかに『資本論』は剰余価値の生産の形をとった資本主義の搾取の仕組みを解いた本ですが、そのさいマルクスは『労働の生産力の発達』の筋道と結びつけて搾取の仕組みを解くことによって『労働者階級の発達』の社会経済的諸条件を明らかにしようとした点が重要です」(第一講)

 この研究所、「基礎研」は、1982年にも『人間発達の経済学』を出版しており、彼らの問題意識の中心にこのテーマがあることはうたがいない。
 本書は、まさに「カローシ」が問題となりはじめたバブル期末(1989年)に書かれたものであり、日本の労働時間の問題やコンピュータ労働を豊富におりこんだ『資本論』入門となっており、初学者が『資本論』第1部の諸章に興味をもつためには絶好の一冊である。だが、それにとどまらず、「人間発達」というマルクスの人間解放の根本をとらえた問題展開として読むこともできる。

 ぼく的にとくに興味深かったのは、まず第一講(森岡孝二)のなかの「マルクスの時間論 ――労働時間と自由な時間」である。
 スミス以来「富とは何か」が経済学のテーマとなり、スミスは労働によってつくられる「価値」が富の実態だといったけど、富がふえても労働者はぜんぜん解放されんやんけ、と当時多くの人がおもった。とりわけ社会主義者。「富とは自由に利用できる時間であってそれ以外の何物でもない」(リカード派社会主義者、ディルク)という声もでていた。
 マルクスは、この「真の富、真の経済とは何か」という問題に正面からこたえた、と森岡はいう。

 すでにマルクスの『資本論』の下書きノートには、この考えがみられる。
 「真実の経済――節約――は労働時間の節約にある」ではじまるノートの一節は、労働時間が短くなってその自由時間で能力を発達させた労働者がこんどは生産力を豊かにする、ということをのべている。「労働時間の節約は自由時間の、つまり個人の完全な発展のための時間の増大にひとしく、この時間はそれ自身ふたたび最大の生産力として、労働の生産力に反作用をおよぼす」(『57〜58年草稿』)
 卑俗なたとえでもうしわけないが、自由時間で英会話学校にいけば、そのスキルをまた仕事にいかせるっちゅうわけだ。

 自由時間で勉強し、きたえられ、あるいは文化活動で、あるいは政治活動でゆたかになったあなたは、もう前のあなたではない。まったく新しいあなたとして、仕事にものぞむようになるのだ。
 マルクスはこう言う。
「自由時間――それは余暇時間であるとともにより高度な活動にとっての時間である――は、いうまでもなくそういう時間をもっている者をある別の主体に転化するのであって、その場合かれはこうした別の主体として直接的生産過程にもはいっていく(前掲書)

 森岡は次のようにまとめている。
「真実の経済が労働時間の節約であるなら、真実の富とは労働時間の節約による自由な時間の増大である。自由な時間とは単なる余暇時間ではなく、より高度な科学的創造力をもつ人間としての自己生長のための時間である。この点がマルクスの時間論の核心的部分といってよいでしょう」(第一講)

 しかし、資本のもとでは、このことは必ずしも奇形的にしかおこなわれない。
 そもそもたえず全生活時間を労働時間に転化させようとする、つまり「カローシ」するまでできるだけ働かせようとする資本の特性ゆえに、自由時間なんかなかなかもてないわけだが、もしがんばってとっても、会社でリストラされないために英会話スクールにいくのである。
 あなたのなかに眠っている能力の可能性は、NOVAなんかにふさわしいもんじゃないかもしれない。ミュージシャンかもしれないし、考古学かもしれないし、陶芸かもしれない。しかし、そんなものは資本の専制のもとではなかなかできない。
 さらに、これが本質的なことなのだが、よしんばそうやってあなたのなかにねむっていた能力が引き出されたとして、それは資本主義のもとでは資本がもっている生産力、つまりモウケのための生産力に奉仕させられてオワリなのである。
 あなたが、たとえば余暇をつかって陶芸の能力を引き出したとしよう。あなたが銀行員だったとして、陶芸によって開花した能力をもつあなたが、直接陶芸でなくても、ひょんなことで新しい発想やアイデアを出すことにつながったとしよう。よかったね。でも、そうやってたとえば会社で評価されるような企画をたてたとして、その銀行がやっているのは、街の中小企業をぶっつぶす貸し渋りをひどくさせるようなことかもしれないのだ。

 森岡はそうはいっていないが、ここから二つの運動目標が出てくる。(これは最終講の重森暁の論文にむしろ登場する)
 それは、一つは、この資本主義の世の中であっても、自由時間をもっとたくさん獲得する運動――つまり時短の運動――をやって、その空いた時間で積極的に「全面発達」をとげるようなこと、たとえば音楽や絵やスポーツでもいいし、地域のボランティアに参加するのでもいいし、あるいは家の料理や家事・育児をすすんでやってもいいが、そのように「全面発達」をとげるためのなにかをやること。
 そしてもう一つは、そうはいっても、この資本の専制支配そのものをなくすこと、つまりモウケのため「だけ」に経済をおこなうというシステムそのものを改革すること、である。

 ちなみに、前者について、本書でおもしろい統計比較をおこなっている。
 欧米と日本の労働者の「余暇」の使い方である。資料が古いのだが、かんたんにいうと、日本は「テレビ視聴」が長く、全体として疲労回復や気分転換に多くの時間をさくが、欧米では家事労働や地域社会への参加、勉強など能動的な使い方が多い。

 ぼくのつれあいが、アメリカの職場で泊まり込みの合宿をやったとき、つれあいは休み時間、ぐーぐー寝ていたのだが、ほかのアメリカ人はジョギングしたり、泳ぎにいったり、美術館にいったりしていたそうである。

 そして、森岡は最終的に「生活者」という概念をもちだす。

 全面的に発達した個人は、労働の場、つまり生産の局面においてはもちろん、家に帰ってから、つまり消費生活や地域の公共生活、文化活動、家事など、生活のあらゆる面にわたって多様な社会的人格をもつ人間になるだろう、というのである。
 会社がひければあとはテレビか寝ているだけ、なんてのはダメだ、というのである。
 うげー、なんか疲れそう、というのは、あなたがいまの疲れたカラダとアタマで感じるからにすぎない。
 もし労働時間が減らされて、そうだな、たとえば週休2日が完全となり、サービス残業や残業がまったくなくなった、5時に帰れる社会を想像してほしい。いろいろできるっしょ。じっさい、ヨーロッパではそうなっている、というのがさっきあげた話だ。
 余談だが、泉弘志という研究者の試算によれば剰余価値率(搾取率)は1985年で170%、必要労働は年918時間、週で17.6時間、1日あたり2.5時間ってことになっている。あとは搾取分だ。
 おい、どうするよ。朝9時に出勤して、昼前には帰れるぜ。それでもあなたは家で寝るのか。脳みそ腐るよ


 森岡は、ごていねいにも、自由時間の積極的内容としてつぎの4つをあげる。(1)地域社会での政治的公共的生活への参加、(2)職場での労働組合活動への参加、(3)家庭内での家事・育児への積極的参加、(4)学習、文化的教養を身につける活動への参加、だそうである。大きなお世話だが。

 まあ、それでも自由に解放された時間がきっちりと入ってくるとき、レヴェルの差はあっても、こうした活動への参加が開花していくことはまちがいない。
 森岡はこのような全面的に発達した人格の登場によって、仕事でも家庭でも地域でも国政でも新しい活力で参加できる新しい条件が誕生する、とのべている。つまり共産主義的社会と個人の登場だ、というわけである。

 最終講、重森論文では、この「生活者概念」が全面的に展開される。
 印象的なのは、政治学者マクファースンの「二つの民主主義観」の指摘で、西欧民主主義において、二つの流れに言及する。
 ひとつは、個人の効用を極大化するという原理で、ホッブズ、ロック、ジェームズ・ミル、ベンサムなどである。もう一つは、カーライル、ニーチェ、J.S.ミル、マルクスの流れでこちらは人間の潜在的諸能力を極大化するという原理である。
 前者は人間を無限の消費者、欲求者、領有者とみなす立場であり、資本主義的市場に適合的な民主主義観といえる。後者は、「人間をその潜在的諸能力を発揮し、享受し、転化する存在とみなし、すべての人々がそれぞれの潜在的諸能力を生かし発達させるところに平等があり、自由があり、民主主義があるという立場」をとってきた。
 まさに人間発達の歴史観であろう。
 マクファースンはさらに、現代の所有権の問題へとすすみ、たとえば経済にかかわる土地や建物や機械なんかは排他的な私的所有とはますますいえなくなってきて、社会全体がだんだんとその所有にかかわってくるようになっている、とのべる。そして、所有は社会の一部の排他的な権利ではなく、社会の多くの人が、そこにアクセスできるようにして、人間の能力発達に役立つようにさせるべきだ、と説く。まるでマルクスだね、と重森は言う。

 さいごに、重森は長年ユネスコの生涯教育問題の担当であったエットーレ・ジェルピの生涯教育の原則をしめす。(1)学ぶ内容を民衆側が自己決定する(2)教育者が教育される相互の育ちあいの原則(3)働く者の経済管理や社会統治能力をも培うという目的の総合性、である。
 これによって、「功利主義的な態度をこえよう」と呼びかける。
 自由時間をつかって、そういうふうに人格を陶冶しろ、っていいたいわけだ。

 ぼくは、この人間発達観に大局賛成ではある。
 しかし、全体として、新社会への参加能力、という面があまりに大きく出過ぎていて、人間の能力開花そのものが共産主義の目的である、という面が少し弱いような気がする。
 ヘタをすると、なんかむっちゃ高い人格でないと共産主義社会は運営できないみたいなヘンな英雄主義つーか、そういう高い資質の人間で経済を運営しようみたいな、まちがった議論になっていくと思う。キューバのゲバラ主義とか、革命ロシアの土曜労働とか。

 もっと市場というもの、つまり功利主義的な人間や社会の側面もよくみすえて、その豊かなからまりあいのなかで未来の社会を展望しないと、しんどいですぜ。

 最後にマルクスの次の一節を紹介しておく。

「時間あってこそ人間は発達することができる。勝手につかえる自由な時間をもたない人間、睡眠や食事等のようなたんに生理的な中断をべつとして、全生涯が資本家のための労働にうばわれている人間は、牛馬にも劣る」(マルクス『賃金、価格、および利潤』)


基礎経済科学研究所編 昭和堂
『ゆとり社会の創造――新資本論入門12講』
2004.2.7記
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