剣名舞・加藤唯史『ザ・シェフ』


 いわずもがなであるが、手塚治虫の『ブラック・ジャック』そっくりの料理人・味沢匠が、法外な料金を要求して凄腕の料理を献上するというお話。“ヒューマニズムっぽいもの”で全体がまとめられるということも、『ブラック・ジャック』との共通性を連想させる。
 日本的風土のなかで根強い人気を誇る長寿漫画で、41巻まで出て、テレビドラマにさえなった。

 任意のエピソードをとりだしてみよう。大臣に喰わせるなんの変哲もないポトフ。しかし、そのなかに、味沢がハーブをひとふりしただけで、感激する大臣。母親の料理を思い出して涙したのだという。主人公味沢は、そのハーブを得るために大臣の出身地であるアフリカまで出かけていったのだ。

 「すべての料理に共通するスパイス、それは思い出です」(味沢)

 ぼくの友人の一人が、「バカにしたものではない」と“意外な”面白さを語る。
 読ませる、というのだ。
 そして友人は言う。

 「『けっきょく、手塚のヒューマニズムというのは、こんなにも簡単に真似できちゃうものだよ』という実に辛辣な批評として存在している」と嗤う。手塚がそれほど今となってはどきどきした読み物ではない、という一部の評価ともからんで、今ならいつでも真似できる代物じゃないのか、という批評にもなっている。

 しかし、ぼくは、これは「ヒューマニズム」というより、「人情話」であり、「演歌」であると思う。友人の指摘はあたらない。


 ここには「手塚のヒューマニズムとは何か」という問題が横たわっている。

 「手塚作品はヒューマニズムではない」というのは、逆に今となっては、こちらのほうがメジャーになった観さえある言い回しであるが、いちおう関川夏央の次の一言を紹介しておこう。
「巨星墜ちてあまたの追悼文が新聞雑誌に発表されたが、ほとんどが彼の過密な仕事ぶりの逸話を軸に、手塚作品の『ヒューマニズム』『エコロジー』『差別への抵抗』を語ったものにすぎなかった。それは手塚治虫自身が苦笑しつつ否定し去っていったものである。彼は、自分はそんなおひとよしではない、教条家でもないといい、自分の描きたいものは『ロマン、これなんですよね』と語った」※1

 関川にしてみれば、手塚をヒューマニストなどととらえるからこそ、手塚=『ザ・シェフ』などという罠にハマるのだ、と言いたいだろう。

 これは関川ではないが、手塚を「ヒューマニズムではない」と断ずる人は、たとえば手塚の『奇子』をもちだす。奇子は旧家の娘であるが、その家の主人とその妻の娘ではなく、実は主人の長男の嫁とのあいだの子である。奇子は土蔵のなかで育てられ、そこに食事を運ぶ役目だった四男と恋仲になる。
 旧家をめぐる因習、謀略機関、暗殺、闇の商売と、人間の「汚い面」がこれでもかと描かれる。
 ゆえに、手塚はヒューマニストなどではない、と。

 漫画評論家の呉智英もたとえば『火の鳥』を評し、「連作「火の鳥」も生命の輪廻を描いたというよりも火の鳥の視点から文字通り鳥瞰的に冷たく人間を描いている※2とのべる。


 手塚はヒューマニズムであるか?
 ぼくは、この問いに、YESと答える。

 ヒューマニズムは、歴史的にみれば、中世のキリスト教的世界観にたいして人間そのものを中心におこうとする立場、あるいはもう少し時代が下って、絶対君主の圧政にたいして人間の解放をといた近代思想のなかにしめされてきた立場である。
 マルクスの思想でさえ、ヒューマニズムの一派であるといえる。
 疎外された人間が類的存在として回復し、人間の解放が達成される、というマルクスのヴィジョンは、あきらかにヒューマニズムである。「あらゆる解放は、人間の世界を人間そのものへ復帰させることである。個々の人間が人間としてその生活と仕事と個々の関係において、類的存在となったとき、つまり人間が自分の『固有の力』を社会的な力として認識し組織するとき、そのときはじめて人間の解放は完成されるのである」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)

 マルクスほど、人間の「汚さ」や「暗さ」を描き、いかに人間存在が抑圧され歪められているか――疎外されているか――を描いた人物もいない。彼の視点は俯瞰的であり、徹底して冷徹で、シニカルだ。なのに、それはヒューマニズムである。
 ヒューマニズムが、ある桎梏や抑圧からの人間の回復あるいは解放の思想であるとすれば、ヒューマニズムは人間の負の側面や矛盾し錯綜した側面を描かずにはおかない。それがないヒューマニズムなど、ヒューマニズムではない。「神様のもとでみんなしあわせだ〜♪」「今の世の中、人間であることってスバラシイなあ〜、人間万歳!ワショーイ」と能天気にいっていられるなら、ヒューマニズムは必要ないのだ。

 手塚が『奇子』で描いた、日本の共同体のなかにのこる陰湿さと、権力の周辺にひろがる闇、その奇妙な結合こそ、人間を抑圧するものであり、手塚は明らかにそのことへの告発をこめている。

 マルクスは「自分はマルクス主義者ではない」と言ったように、巷間にあふれる教条的な理解の枠にはめられたくないがゆえに――それこそ「手塚=『ザ・シェフ』」の図式に入れられたくはないために――、手塚は自らをヒューマニストの枠組みとしてくくりたくはなかったのだ。たとえばジュディ・オングとの対談での手塚の次の発言をみよ。(※3)

ジュディ いまのマンガって、どぎついギャグだったり、すごくエロチックというか破廉恥なものが多いですよネ。
手塚 多いですねえ。
ジュディ それは“反手塚マンガ”の爆発した形だなんて言っている人もいますけれども、いわゆるアンチ・ヒューマニズムのマンガを書いている人って、いっぱいいますでしょう。そういうの、いかが思われますか。
手塚 ぼくはマンガは、それが正道だと思うんです。
ジュディ あ、そうですか。
手塚 もともとマンガというのは反逆的なものなんですよ。…マンガにはマンガの役割があるのですよね。それは、世の中の道徳とか観念とかをひっくり返すことなのです。
ジュディ それは、先生のメッセージなのですか。
手塚 ぼくのメッセージ。…マンガというのはそうあるべきだと思うのです。…反逆精神ですよ。だからマンガ家とはつねに憎まれっ子なの。その憎まれっ子が書くものが、ヒューマニズムじゃしょうがないじゃない。
ジュディ うーん。

 ジュディ・オングが目を白黒させているのがわかるだろう。ジュディ・オングが型紙のような「ヒューマニズム」論を投げかけたところに、手塚が「おれはヒューマニズムじゃねえよ」と切り返す様は、いかに手塚がこのような「ヒューマニズム観」、あるいは「ヒューマニズムマンガ視」を嫌っていたかを示す典型的な発言であるといえる。(それにしてもジュディ・オングよ、おまえの「魅せられて」の演出は「エロチック」を一片も意識しなかったとでもいうのか?)

 しかし、手塚は真の意味で、断然ヒューマニズムである。

 手塚にはヒューマニズムがない、と言い張ると、『奇子』は説明がついても、『ブラック・ジャック』などに代表される作品はまったく説明がつかなくなる。

 手塚には戦後民主主義の構造と同じく、その基底に強烈な戦争体験がある。『紙の砦』『カノン』といった戦争そのものを扱った作品をはじめ、多くの作品の随所に人間を破壊する戦争暴力への厳しい告発がある。手塚は大きくは戦争への批判と克服をこめて、手塚的ヒューマニズムを形成しているのだ。

 もちろん、近代以降の多くの思想の流れは「ヒューマニズム」的な価値を尊重する流れにある。われわれがそのもとで暮らしている法律は、封建的な圧政から人間解放をかちとるさいに獲得した「自由」「平等」「人権」といった価値によって占められている。
 だから、『ザ・シェフ』がいくら人情話だとぼくがいっても、それが現代の日本で人情話として成立する以上、なにがしかの「ヒューマニズム」はふくんでいるのである。
 しかし、手塚ほど強烈な体験(戦争体験)をもたず、あるいはそれを自らの思想として鍛え上げることをしていないがために、『ザ・シェフ』はヌルい人情話の域を出ないのである。手塚のような陰影ある、立体的なヒューマニズムを彫琢できないのだ。

 『ブラック・ジャック』のように、自分の医師としての存立基盤や責任を激しく責めたてる感情や、『アドルフに告ぐ』のように加害者だった者が一転して被害者となり被害者だった者が逆に加害者へと変身する、錯綜し矛盾しあう状況を描き、そのなかでの人間の解放を描こうとする姿勢は、『ザ・シェフ』などではなく、たとえば、佐藤秀峰『ブラックジャックによろしく』のほうに見られる。
 佐藤が主観的には手塚との距離をどう保とうが、佐藤は手塚のヒューマニズムの継承者であるといえる。


 ま、でも、『ザ・シェフ』の話って、たしかに、けっこうよかったりしちゃうんだけど。


 


※1 関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』(文春文庫)
※2 呉智英『現代漫画の全体像』(双葉文庫)
※3 『虫られっ話』(潮文庫)

絵:加藤唯史/原作:剣名舞『ザ・シェフ』 日本文芸社 全41巻
手塚治虫『奇子』大都社(角川文庫で上下巻あり)
2004.6.21感想記(7.5加筆)
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