齋藤孝『座右のゲーテ』



 齋藤孝にハマっているというわけではないけど、これはと思う本を手にとると、一瞬で読んでしまう。いや、読めてしまう。それくらい水がしみとおるように、自分の中に入ってくる。

 本書は、20代のころゆきづまった齋藤が、ゲーテを開いたらそこに道を開いてくれるようなヒントが満載されていたという体験をもとに、ゲーテの言葉(正確には、エッカーマン『ゲーテとの対話』)を綴って、それを齋藤流に解説したものである。

 ……と、ぼくからこんなふうに電話でだけ聞いたつれあいは、読みもしないくせに、「なーんかうさん臭いよね。そもそもゲーテっていうのは山師みたいな男だったじゃん? 何にでも手ェだしてさ。じゃあ、あたしが感動するかどうか何か言ってみ」と斜に構え、鼻で笑う態度。

 文章を読まずテーゼだけを伝えてもこの妙は伝わらん、と絶望的な気持ちになりながら、「小さな対象だけを扱う」「他人の評価を気にしない」「実際に応用したものしか残らない」などの命題を伝えたのだが、もう電話でしゃべっている途中から、嘲笑である。

 「そんなん、当たり前じゃん。何、そんなことに夢中になってるわけ? それって細木数子あたりでも言いそうなことじゃないの」

 などと。

 むっきー。
 なななななにをぬかしやがる。
 だいたい、あんた読みもせんのに何様であるか。
 齋藤自身がこの本の中で「(ゲーテの)『ファウスト』という物語には、A+B=Cという数式的な現実の悟性を突き崩してしまうところがある」(p.182)といっているように、悟性(事物の一面を、線を引くようにキッカリととらえようとするメンタリティ。定義したがる形式論理の精神)的な思考しかできない理系的専門馬鹿には、どだい、こういう話がわからんちんどもとっちめちんなのである。

 ヴァーカ、ヴァーカ、ヴァーカ。
 おなら、ぶーぶーぶー。
 うんこたれー。
 お前のかあちゃん、イシハラシンタロー。

 
 こういうウンコ星人は放置プレイに処して、われわれは力強く先へ進もうではないか。


唯物論的で弁証法的な!

 齋藤は言う。

「私は、研究者として歩み始めた二十代のころ、本質的なものを求めるあまり、抽象的思考に嵌り込んでしまい、身動きがとれない状態に陥っていた。そういう精神的にどん底のとき、ゲーテの言葉が目に飛び込んできた。
 私は『ゲーテとの対話』に二度目に出会ったことによって、根本から発想転換することができた。『具体的でかつ本質的である』というゾーンに向けて自分のすべてを収斂させる方法を教えてくれた」(まえきがき)

 ただの箴言ではなく、具体的な問題解決のヒントだというのだ。
 そして、少なくともぼくもそのように思い当たることが多かったというのが、読んでみての率直な感想である。

 齋藤の本は、きわめて唯物論的で、弁証法的だ。

 唯物論的であるとは、自分の主観の外に、厳然として客観的実在があり、そのことを冷静に見据えているという視線である。
 弁証法的とは、形式論理の貧しい枠組みにとらわれずに世界の豊かさを、そのままとらえようとする視線である。

 実は、エンゲルスが『フォイエルバッハ論』のなかで、ゲーテとラマルクをあげて弁証法的なものの前触れとして数え上げていることは偶然ではない。

 もちろん、齋藤自身はそのように自認してもいない。しかし、方法に自覚的であるこの人物が迫ってきたところは、多分に唯物論的であり、弁証法的な地点であると感ずる。


具体的なもののうちに本質がある

 たとえば、こうである。

 齋藤は、受験勉強がキライだったが勉強しなくてはいけなかったのだが、そこでどうしたかというと、「なぜ勉強しなければならないか」についての哲学的な思索を始めてしまったというのである。「その思惟に膨大なエネルギーを費やした結果、私は疲れ、受験にも失敗してしまった。今思えば、その分問題集をやっておけばよかったというのが正直なところだ」(p.15)。
 うわぁ……。
 大学時代から左翼であったこのぼくは、「自分のプチブル性が……」などという、実に実に実に実にしょーもない悩み方をしてしまった。似てるんだなあ、これが。

「ゲーテ自身は、極端に抽象に偏って考えることをしない。本質はとらえようとするが、それを具体的なものの上に見ようとするタイプである。/たとえば光の研究にしても、ゲーテは、『そもそも植物とはなんぞや』『光とはなんぞや』などとは考えない。具体的に、種から芽が出て葉が成長していく植物のメタモルフォーゼ(変態)を、自分でスケッチしたりする。頭の中で考えるのではなく、実際に体を動かして調べるのだ。つまり、現象そのものを直にとらえて、その中に生命の本質を見るというやり方をする」(p.44〜45)

 受験勉強の話から入ったので、「そんなの具体的にやりゃあいいじゃん」と思うかもしれないが、大事なのは、ゲーテ、というか齋藤が、具体的なもののなかに「本質」をみようとしていることである。

 一見、本質的なものは抽象的なもののうちにあるように思える。
 しかし、まったくちがう。
 まさに具体的なものにこそ本質はある――これは、世界の豊かさをつかまえる、すぐれた弁証法である。

「概念と言うとき、人々はふつう抽象的な普遍をのみ考えている。……色、植物、動物、等々はさまざまであって各々はその特殊性によって互いに異なっているのであるが、この特殊性を除去し、それらに共通なものを固持することによって作られる、と(人々は)考えている。これが悟性が概念を理解する仕方であって、感情が、こうした概念を空虚なもの、単なる図式および影にすぎぬものとするのは正しいのである。……感情の立場から思惟一般、特に哲学的思惟にたいしてしばしば加えられる非難、および思惟をあまり遠くへ駆るのは危険だという、よく繰り返される主張は、こうした混同にもとづくのである」(ヘーゲル『小論理学』)

 この「感情」の立場こそ、「抽象的思索はほどほどに」(p.42)と主張する、まさに齋藤の一つの立場である。しかし、同時に、齋藤もヘーゲルも、このような抽象的に得られた「普遍」がいかに退屈きわまりない、空虚なものかを知り抜いている点では共通している。

 ヘーゲルは次のようにのべる。

「しかし、概念の普遍は、それにたいして特殊が独立の存在を持っている共通なものとはちがう。それらは自ら特殊化するものであり、他者のうちにありながらも、曇りない姿で自分自身のもとにとどまっているものである。認識にとっても実践にとっても、単に共通(で抽象的)なものを真の普遍と混同しないことが大切である」(『小論理学』)

 これが抽象的普遍にたいする、具体的普遍である。
 赤いリンゴ、青いリンゴ、そういう差異をとっぱらって、残りカスのような「共通性」だけにしがみついた「リンゴ一般」という貧しい抽象(あるいはカントのいう「リンゴ自体」)ではなく、いままさに私の目の前にある赤いリンゴ、青いリンゴの生々しい姿、その具体的なものをすべて包括しているのが真の普遍であるとヘーゲルはいう。

 「たんなる共通性としての普遍でなく、特殊的なものの多様な区別をみんな包括しているような普遍、つまり具体的な普遍」「一つの特殊的なものが、他の特殊的なものを包括するような普遍的なものになっている、そういう普遍なのです」「たんなる共通性でなく、それ自身が一つの特殊であるような普遍、これが具体的普遍です」「客観的なものはすべて、複雑な多様なものの統一として存在してる」(見田石介『ヘーゲル大論理学研究』)

 レーニンはヘーゲルのこの指摘に感動して、ノートに次のように書き付けた。

「すばらしい定式:“たんなる抽象的普遍ではなくて、特殊的なもの、個体的なもの、個別的なものの豊かさ“(特殊的なものと個別的なもののすべての豊かさ!)”を自己のうちに具現している普遍”!! 非常にいい!」(レーニン『哲学ノート』)

 「非常にいい!」に(・∀・)のAAでもつけたいところだ。

 具体的なものとの格闘のなかからだけ、私たちは普遍的で本質的なものを得ることができる。
 たとえば、大学でおこなう「一般教養」「一般教育」というものも、本来的には異業種ともいうべき様々な専門学問を具体的に学ぶことによって、はじめてどの学問にも存在する普遍的な方法=自然観や社会観を体得することができるのである。
 ところが、多くの「一般教育」は薄っぺらな個別専門学問の「概論」をかじるだけで、まさに「特殊性を除去し、それらに共通なものを固持することによって作られ」たものしか得られない。したがって一般教育を「空虚なもの、単なる図式および影にすぎぬもの」と感じてしまうのは、無理もないことなのである。


 齋藤がのべている「具体的なもののうちに本質をみる」という方法は、「抽象的普遍」をのりこえて、「具体的普遍」という考え方に通じている。



飛躍のできる精神=理性

 形式論理学=悟性的精神では、共通性をとりだす抽象的普遍に固執し、この現実の豊かさをとらえきれることができない(もちろん、そのような精神の働きは、ある段階では必要なのだが、もっと高い段階ではそういう方法はむしろ邪魔になってしまう)。
 だから、先述のとおり、齋藤が「(ゲーテの)『ファウスト』という物語には、A+B=Cという数式的な現実の悟性を突き崩してしまうところがある」(p.182)という点を注目しているのはまったく正しいのである。

 齋藤は「計り知れないものが面白い」というテーゼをたてて、次のように述べる。

「夢に限らず、自然現象や自然のなせる事柄には、どこか割り切れないところがあるものだ。この釈然としない感覚、命をもって動いているかのようなつかみにくさが、実は人の心を惹きつける大きなコツなのである。/なぜなら、人間という存在自体に、計り知れないものがあるからだ」(p.183)
「いっぽう、計算や思考で理路整然とつくり上げた芸術は、一見よくできているようでいて、どこか物足りないものだ。人の心をつかむ力強さに欠けている」(p.184)
論理的かつ緻密に話すことはできても、ときにはポーンと思考を飛躍させることができないと、アイデアや発想は面白くならない。……ゲーテの場合は、非常に論理力が優れているのにもかかわらず、あえてそれを封印して連想に任せることもしている」「両方を区別して使い分けることができるのが、ゲーテの一つの強みだと思う」(p.192)

 ここには、形式論理学と弁証法的な論理学を区別し、飛躍や総合の力を承認する、まったく正しい方法がのべられている。
 A+B=Cという形式論理学では、A+B=Cでありながら同時にA+B≠CであったりA+B=Dであったりするという、現実の多様性や矛盾にみちた豊かさが把握しきれない。
 そこで、形式論理学、すなわち悟性をこえる精神が必要になってくるのである。ヘーゲル的にいえば、「理性」という精神である。
 現実の世界は、すぐさま言語化=形式論理化できないほど豊潤で、複雑で、矛盾にみちている。
 齋藤が採用している「感情によって飛躍する」という方法は、実は、言語化できずに、しかしぼくらが身体などで感じ取っている要素を理性が無意識に総合してしまうことによって、形式論理にとらわれないまったく新たな境地が開けるのだ、ということを示唆している。
 しばしば「予知夢」のようなことが世の中にあるのは、言語化されない情報を、無意識のうちに総合してしまうからである。インスピレーションの正体もそれである。
 だから、「考えるんじゃない。感じるんだ」という、よくあるフレーズは、ある段階にくると、非常に正しい真理を言い当てているものとなる。だが、これをたんなるフィーリング依存としてだけとらえてしまうと、実に、くぅだらない、くぅだらない、白痴的スローガンとなりはてる。

 齋藤が、

「いっぽうでは、こういう感覚(論理の積み重ねだけではなく、発想に飛躍があること)が全然ない仕事ぶりの人間、組織もある。状況に反応できず、その組織にいることによって個人としても生き生きと動くことがまるでできない。そうした職場は雰囲気からして重い」(p.190)

とのべていることは、まったく正しい。
 橋本治の本のタイトル、『上司は思いつきでものを言う』は、ある段階では非常に重要な精神なのである。あくまで、ある段階、ということだが(余談だが、この橋本の本は、タイトルと、そこから予想される中身がかなり違う。「うちの会社もそうじゃないかと思っていました」というこの本の広告は、ある意味でズレている)。



一面性が歴史を動かす(ことがある)


 齋藤は書いていないことなのだが、この感情による飛躍というのは、現実の世界が多様で多面的であるとき、その「主要な側面」、すなわちある一面を「ぐっ」とつかみ出してそれをデフォルメといえるほどに強調することであると、ぼくは思う。

 「主要な環をにぎる」というレーニンの言い方が左翼世界ではよく使われるが、これは、多面的な現実のうち、その条件下でもっとも主要な側面を把握する、という方法を意味する。どれが主要な側面になるのか、ということは、まさに時代や状況により、刻々変化していく。政治の世界ではそれを探し出すのが、また醍醐味でもあるのだが。
 こうした一面性をつかまえて徹底的にデフォルメするのは、政治というより本来、文学や広告の精神である。本当は、それは多面的なもののうちの一面にすぎないのであるが、ある時代、ある状況のもとでは、その一面が前面におしだされて、まるでそれしか見えないという熱狂の時代というものがやってくる。

 政治の世界では、その一面をとらえたものが、歴史を動かしてしまうという瞬間がある。

 当人には、世界の豊かさをとらえる全面性など、カケラもなくても、ある状況下で、その一面を徹底的に押し出したために時代の寵児になる、という瞬間である。しかし、その一面は、時代や状況の変化で、あっという間に後方へ退いていってしまうのだが。

 たとえば、1992〜3年ごろにブームとなった「日本新党」である。
 従来タイプの自民党政治そのものが80年代からすでに衰退に入りはじめ、国民のそういう気持ちと、二大政党への再編を促したい財界の要求がかみあい、そこに金丸信の佐川急便事件がおきて、旧来的な自民党政治を変えようという熱狂がおこりはじめる。
 そこに、「政治家総とっかえ」などのスローガンをかかげ、ただ「新しい」という要素だけで全面的に売り出した「日本新党」――その実動の中心は自民党のなかにいた部隊なのに――が大ブームとなる。
 だが、終わってみればいったいあの党はなんだったのかというほど、歴史のクズかごに葬られてしまった政党になっている。

 政治家にとって本来必要なことは、全面性を確保しながら、必要な一面をとらえてそれを押し出すという立場である。全面性しかない精神は、正しいかもしれないけど、平板で退屈である。逆に、一面性しかない精神は、状況や時代の変化によってその一面が後退していくと、あとでとんでもない窮地に陥る。

 左翼にはどちらかといえば、一面性を勇気をもって押し出すセンスが足りない。弁証法的な「飛躍」をする瞬間が実際には欠けていることがある。

 それが抜群にうまかったのはレーニンである。
 「レーニンは、徹底的に実際的な政治家であった」(英紙ガーディアン)という、レーニンびいきでない歴史家たちに共通のレーニン評は、レーニン自身が政治の都合にあわせて見解をころころ変えていくという揶揄がこめられている。しかし、確かにレーニン自身の理論が発展していったという面もあるのだが、状況や時代によって激しく変わる「主要な環」がどれかを、彼がたくみにとらえるのに長けていた、ということでもある。
 



「定義」というものの限界


 やや脱線してしまったが、ふたたびゲーテと齋藤にもどろう。

 齋藤は次のゲーテの言葉を引用する。

やたらに定義したところで何になるものか! 状況に対する生きいきした感情と、それを表現する能力こそ、まさに詩人をつくるのだよ」

 以前、ぼくはマルクスとの対談でマルクスを「定義ぎらい」だといったが、これはどうやらゲーテもそのようである。
 ヘーゲルは、「定義」というものの限界を正しくとらえていた。
 わかりやすいヘーゲル解説本から紹介しておこう。

「『定義』は、分析的方法によってえられた抽象的普遍…のことです。……したがって定義は、具体的な特殊な事物からその特殊性を捨象してえられた、ただの共通性にすぎません。だから幾何学のように、純粋に単純化された、抽象的な空間の諸規定を対象とするものには、よくあてはまります。/ところが、定義は、たとえば生命・国家などのように、多面的な諸側面からなる生きた全体をとらえるには、きわめて不十分です。というのは、対象の諸側面が豊富であればあるほど、その対象の定義も、ひとそれぞれの見解によってますますさまざまになるからです。定義という普遍的な規定は、事物の質的な差異を捨象してえられるものであり、多様なものの共通性です。定義は、現実の具体的なもののどの側面が本質的なものなのか、という規準をどこにももってはいません。だからしばしば事物は、表面的な特徴とか指標で定義されたりします」(鰺坂・有尾・鈴木編『ヘーゲル論理学入門』)

 定義という悟性的な方法では、生き生きとした現実はとらえきれない。むろん、思考の交通整理などをするうえでは役に立つけど、そんなものにかかずりあっていると、無駄な時間を費やしてしまうのである。



アメリカ的な方法への懐疑


 そして齋藤はこのゲーテの「状況に対する生きいきした感情と、それを表現する能力こそ、まさに詩人をつくる」という引用をうけて、「この二十年ぐらい、日本では、とりわけビジネスの世界においてアメリカ社会のメソッドやマニュアルといったものを鵜呑みにしている傾向がある」(p.186)として、アメリカ的な方法を批判する。

 ぼくの友人(左翼)で、以前、「インスピレーション」というアメリカ生まれのソフトをみた人が、「こりゃあ弁証法の否定だな」と苦笑いしたことがある。このソフトは、頭にうかんだ着想を要素にして、それを線でつないでレジュメやダイアグラムにするというものだ。要素が単純な序列や線でつながれるだけで、そこには飛躍や矛盾、相互依存や反発などの豊かな連関や運動法則をとりいれる余地がまるでないのである。

 あくまでそれはレジュメづくりのソフトではあっても、名前のように「インスピレーション」を真に助けるものではない。



独創性至上主義への批判


 また、齋藤は、独創性をあまりに尊ぶ風潮を批判したゲーテの言葉をうけて、次のように言う。

「ゲーテの主張は、どんなものでも、先人たちの影響なしにつくったものなどないということだ。偉大な先駆者たちの作品をしっかりと模倣し、継承したという意識を持つのがむしろ正統である。……にもかかわらず、過去の遺産ともいえる文化を軽視し、薄っぺらい独創性に重きをおいているのが近代の病なんだとゲーテは言い切っている」(p.57)

 これはぼくも、『教養主義の没落』という新書を紹介したところで、同書が以下の引用しているのを指摘して、この問題に言及した。

「独創を誇るは多くの場合に於いて最も悪き意味に於ける無学者の一人よがりである。古人及び今人の思想と生活とに対して広き知識と深き理解と公平なる同情とを有する者は、到る所に自己に類似して而も自己を凌駕する思想と生活とに逢着するが故に、廉価なる独創の誇を振翳さない」(阿部次郎『三太郎の日記』)

 マルクスのいうとおり、「人間性は個々の個人に内在する抽象物ではない。その現実の姿では、それは社会的諸関係の総体である」(「フォイエルバッハにかんするテーゼ」)。ピュアな自分などない、と思い定めることこそ重要である。

 漫画や小説をうまくなろうと思ったら、ひたすら模倣することに限る、とぼくは思う。
 そのなかから、自然に「自分」というものが染みでてくるのである。

 したがって齋藤が、「人はただ愛する人からだけ学ぼうとするものだ」というゲーテの言葉を引用しつつ、憧憬と偏愛の対象をつくり、それに学ぶよう勧めているのは、きわめて正しい方法論である(しかも、その憧憬の対象との距離や、憧憬の選び方についての齋藤の示唆もまた興味深い。うなずくことばかりである)。



能力を客観物として扱う


 齋藤は、この先人の偉大さに学ぶという文脈のなかで、自分がどこまで到達したか、という評価を客観的にみつめるという問題にふれる。

「そもそも今ほど主観性が絶対視され、客観性が軽視されている時代はない。『私』という主体が気持ちいいか、気持ちよくないかにすべての価値は委ねられている」(p.59)

 齋藤はとりわけ、ある分野にたいする能力というものを客観的にとりあつかうことを重視しており、これが齋藤の方法に唯物論的な色彩をただよわせる原因となっている。
 齋藤には、「能力とは、主観とは独立した、厳然たる客観的実在だ」という確信があり、その能力と言う客観的実在がいったいどこまで来てどこまで来ていないのかを見極める力=評価力をもつことの重要性を説く。叱るべきかほめるべきかを悩む質問者に、齋藤は別の著作で次のように答えている。

「まずは『叱る』ではなく、『評価をする』『コメントをする』と考えましょう。叱るか誉めるかではなく、どこができていて、どこが問題なのかという腑分けをする、大事なことをコメントする。そう考えると、『叱ってしまった』という罪悪感もなくなります」(齋藤孝『齋藤孝の相手を伸ばす!教え力』)



ぜひテキストに使え


 ところで、齋藤の本は、形式論理学的な意味で、実は矛盾にみちている。

 この本のなかでも、「自分がやった仕事に対してずっと執着していると発展が妨げられる」(p.200)といいながら、「勝っているときはやり方を変えない」(p.137)「一度大きく当たったら絶対に自分からその場所を動いてはいけない」(p.145)とも書いている。

 しかし、こうした矛盾する諸側面の同居こそ、現実の豊かさなのであって、齋藤の叙述がこうなっていることは、ぼくは正しいことだと考える。小賢しい悟性では推し量れない。

 左翼は、哲学の教科書として、齋藤のこの本を使ってみてはどうか。
 「唯物論とは、意識に対する自然の根源性を承認する立場である」という、「抽象的な、死んだ、動かない」「すべての感性的具体物から解放されている」(レーニン)教科書風の“定義”から始めるのではなく。




『座右のゲーテ 壁に突き当たったとき開く本』』
光文社新書
2005.1.16感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る