新連載。「僕はこんなラジオを聞いてきた(仮題)。」 2005.2.11更新。


第一章 本格活動開始・小学生編(1979.4-)

 1979年4月(正確には3月中旬だが)、小学校5年生になったと当時に、八戸から多賀城に戻る。尤も、そのころは、国内ラジオを「聴く」というよりは、BCLの方にはまっていた。日本BCL連盟(*1)に入会するとともに、仙台ミーティングに参加。当時の仙台ミーティングは、月1回、読売仙台ビル(ダイエー仙台店の隣り)で行われていて、「月に1回仙台に行ける」というのが俺的には嬉しかった。ロッテリアで昼食を食べるというのもあるけど。

 そうそう、小学校5年になってから、NHK第二の「基礎英語」を始めた。毎朝6時5分からの放送。そのために、朝5時半に起きて、「榎さんのおはようさ〜ん」を聴いてから基礎英語、という生活であった。
 あと、小学校時期で聞いていたラジオで覚えてるのは、1980年4月より、TBCラジオで「サンデーテレフォンリクエスト」(通称サンテレ)が開始。日曜の1300-1500。福井弘文アナと高橋和子アナ(当時)。ちなみに、その前(-1980.3)の番組は「ざ・にちようび」だったと思う。
 そのうちに、1980年7月に、BCLラジオとして、当時としては最新鋭機だった、ソニーのICF-2001(写真はこちらに)。史上初!ダイヤルのない、テンキーで周波数入力をするラジオで、価格が49,800円。親に買って貰った。しかし、なんか特に中波の感度がよくない・・・。当時、BCLラジオを出していた会社としては、ソニーとパナソニックが二大双璧をなしていて、同じクラスでBCL仲間でライバルであったK氏(一つ年上の兄がいて、そいつも兄弟でBCLやってた)は、パナソニックのRF-2600(写真はこちら)を使っていたっけ。
 また、1980年11月に、電話級アマチュア無線技士の国家試験を受験し、見事?!一発で合格する。しかし、無線機を買う金がないため、アマチュア無線局開局は先送りに。

 こうして、中学に進学する、と。

*1 日本BCL連盟:現在あるものとは別物。糸川英夫氏が会長をしていた。

<余談>BCLで学んだこと
 いろいろあるけど・・・前述の、日本BCL連盟仙台ミーティング(通称SM).なぜか、そこでは福島がHabana Cuba、塩釜がサイゴン、利府をチベットと呼んでいた。
 あとは、タモリが海外放送を聞いて、インチキ韓国語、インチキ中国語などを駆使し、4カ国語麻雀とかを芸にしていたが、それに近いネタは仕入れていた。例えば南北朝鮮の国歌とか(だから、この前のW杯予選、日本−北朝鮮戦で、俺は北朝鮮の国歌を口ずさんでいた、と)、KBSの歌とか、韓国歌謡とか。

(以下、次回更新に続く。次回更新日は未定)


序章(2005.1.28まとめ)

<参考資料>
TBCラジオ・生ワイド番組 パーソナリティ変遷
オールナイトニッポン・歴代パーソナリティ


 感想は掲示板へ。

ラジオのページへ戻るHPトップへ戻る