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              カウラ (COWRA)  ―

       ひそやかに眠る日本の兵士たち

 オーストラリア全図およびカウラ周辺図
         ("Cowra -  Great Escape" より引用)


 1944年(昭和19年)8月5日、真冬のオーストラリア、月の明るい凍てつく深夜、とつぜん日本軍の突撃ラッパが鳴り響きました。  
「デテクルテキヲ ミナミナ コロセ!」と教えられた響きです。
 シドニーから西へ約300キロの内陸、ユーカリの樹がそこかしこに寂しげに立っています。あたり一帯は起伏のある丘陵地帯でオーストラ名物の羊がたくさん放牧されている農地が広がっています。
 この人口わずか3,500人の小さな農村「カウラ」(Cowra)でオーストラリア国民に衝撃を与えた事件、そして私たち日本人には全く知らされなかった悲劇が起こりました。

   日本軍のラッパは、覚えやすいように文章の形で教えら れま した。
突撃の合図は≪出てくる敵を皆々殺せ≫、   起床のラッパ は≪起きろよ起きろよ皆起きろ≫、食事の合図は≪かっ込めかっ込め……≫といったようにです。
 
     下の写真は収容所の跡。説明の看板が立っています。
  

収容所の跡


     ≪戦争を知らない若者たち》


 「南さん、日本から来た若い人たちに、『エーッ、日本がオーストラリアと戦争したんですか? ウッソー! 』と言われて、私は言葉を失いましたよ」
 2002年秋、私がシドニーを訪ねたときにお会いした日本人は、もうこの地に長く住んでいる人ですが、そのときに受けたショックを私に語りました。
 最近は「ワーキング・ホリデー」制度を利用して、ある期間(1年とか半年とか)滞在して、アルバイトをしながら英語学校などに通う若者が急増しました。現地に定着している日本人にショックを与えたのは、この人たちの言葉だったようです。

      working holiday ワーホリ。 若い人たちの國際交流を促進
          するための、働きながら勉強できるという制度で、アメリカ、
          カナダ、オーストラリアなどで盛んです。

 幸せいっぱいに育ってきた現代の若者にとっては、太平洋戦争はすでに遠い昔のことになりました。連合国によるポツダム宣言を受諾した日本の降伏(1945年)から60年近くたてば無理もありません。
 でも、この戦争で大きな被害を受けた人たちは、敗戦国にも、戦勝国にも、今もなお多くいるのです。


        《オーストラリアと日本》

 第二次大戦で捕虜となってオーストラリアの28か所に設けられた捕虜収容所(敵性外国人を含む)に収容された人の中には、数千人の日本人がいました。このうち約千人はすでにオーストラリアに長く住んでいて市民権を持った人たちでした。
 オーストラリアは日本の20倍もある広い国で、4万年以上も前から先住民(アボリジニー、aborigine)が住んでいました。
    1788年(天明3年、第11代将軍徳川家斉の時代)に、イギリスがアーサー・フィリップ率いる第一次移民船団をシドニー湾に上陸させ、ニュー・サウス・ウエールス植民地として、この地にイギリスの支配を確立していきました。
 日本とのかかわりは古く、1867年(慶応3年)には初期日本人移民があったそうです。1874年(明治7年)には、オーストラリア東北端の木曜島(Thursday Island  アラフラ海を隔ててパプア・ニューギニアと対しています)へ最初の日本人ダイバー(潜水夫)が行きました。 このダイバーは、真珠貝の採取のために雇われたものです。ただし真珠貝といっても装飾品の真珠を目的とするものではなくて、ボタンを作るための貝が目的でした。
 真面目で勤勉な日本移民は評判もよく、後には内陸部の農業(主としてサトウキビ農園)労働者として働きました。1901年(明治34年)には既に3,602人の日本人がいたと記録されています。

 ひとたび戦争となれば、市民権を持つ日系市民でも「敵性国人」とみなされ、基本的人権も無視されて、居住の自由や職場・財産を奪われたことは、アメリカ・カナダでも同じでした。 しかし同じ敵国人でもドイツ・イタリア人とは処遇が違ったようです。
 数千人の日本兵がオーストラリアに捕らえられていたことに疑問を持つ人も多いと思います。さきほどの「ワーホリ」の若者ではありませんが、「なんでそんなにたくさん?」と、思われるでしょう。私も最初はそう思いました。
 太平洋戦争中に多くの日本兵が死んだり捕虜になったりました。しかし、日本兵が捕虜になるということは、当時の日本政府や軍部の立場からは「あってはならぬこと」、「ありえぬこと」であり、公式には認められないことでした。

 オーストラリアの国土で日本軍が地上戦を戦ったことはありません。海軍によるダーウイン(Darwin)への攻撃と、シドニー(Sydney)空襲と特殊潜航艇による襲撃が、日本軍がオーストラリアで戦った数少ない戦闘でした。
 捕虜収容所にいた大部分は、ガダルカナル島での日米両軍の死闘(1942年8月〜1943年1月)から日本軍が敗勢に立たされて次々に防衛線を破られ、圧倒的な米軍の戦力と物量の前に、飢えとマラリア、アメーバ赤痢、デング熱などの病魔に冒されて軍隊としての組織機能を失ってしまい、ジャングルをさまよって瀕死の状態で収容された兵士です。それに加えて、撃沈された艦船や輸送船から海に投げ出されて漂流し、アメリカ軍に救助された人たちでした。
 藤原彰氏の研究によると、太平洋戦争中の日本人の戦没者は310万人で、うち軍人・軍属230万人、外地で戦没した一般邦人30万人、戦災死者50万人にもなるそうです。戦死した日本兵230万人のうち餓死したものは過半数に達するということです。食糧や弾薬の補給を全く無視した精神主義がこの悲劇を生みました。      (「餓死した英霊たち」による)

 大岡昇平著「野火」には、フィリピンで餓えに苦しみながら敗走する日本兵の状況が鮮やかに描かれています。

 ……みな黙って、しばらく砲声に耳を傾けているらしかった。
 「なんだな」と新しい兵士は相変わらず嘲るようにいった。「いっそ米(べえ)さんが来てくれた方がいいかも知れねえな。俺たちはどうせ中隊からおっぽり出されたんだから、無理に戦争するこたあねえわけだ。一括(ひとから)げに俘虜にしてくれるといいな」
 「殺されるだろう」と別の兵士が遠くから答えた。
 「殺すもんか。あっちじゃ俘虜になるな名誉だっていうぜ。よくもそこまで奮闘したってね。コーン・ビーフが腹一杯喰えらあ」
 「よせ。貴様それでも日本人か」
と声がした。マラリアの若い兵士が起ち上がっていた。頬が赤く眼が血走っていた。……(「野火」新潮文庫 29頁)


 これらの捕虜たちは、南太平洋地域の第一線からはるか離れた、オーストラリアに運ばれて収容されていたのです。
 太平洋戦争の初期は、日本軍が攻勢をかけて南方に展開していきました。当時、フィリピンのマニラに連合軍の司令部を置いていたダグラス・マッカーサー元帥が日本軍に攻めたてられて、「I shall return.」という後に有名になった言葉を残して、夜陰にまぎれて魚雷艇でマニラ湾から脱出して、オーストラリアに逃れ、その地に司令部を置きました。日本からはるか離れたオーストラリアは、すべての面で重要な後方基地でした。


         
《カウラ捕虜収容所》

 さて、このカウラの捕虜収容所はオーストラリアにあった28の抑留施設のうち1941年に開設された第12番目のものです。 初めは「敵性国人」の抑留施設でしたが、後に捕虜収容所になりました。
 捕虜収容所はカウラ中心街から南西へ3,2キロ。 直径750メートルのほぼ円形で、周囲は三重の鉄条網で囲われていました。南北に幅50mの道路が走り、ブロード・ウエイと呼ばれて、夜間は明るい照明に照らされていました。東西はやや幅狭い空地で区分されていて「ノー・マンズ・ランド」(無人地帯)と呼ばれました。
 このほぼ円形の収容所は、東西南北に四等分され、北西部はA地区、北東部はB地区、南東部はC地区、南西部はD地区と時計回りに名づけられました。もちろんこれらの4地区は、同じように鉄条網で隔離されていたわけです。各地区には20棟ほどのバンガロー風の小屋が建てられて、それぞれ数十人が寝起きしていました。
 A地区にはイタリア人捕虜が、B地区には日本人捕虜のうち下士官と兵、C地区にはイタリア人捕虜、そしてD地区には日本人捕虜(将校)と朝鮮人、台湾人捕虜が収容されていました。当時は朝鮮も台湾も日本の植民地で、日本軍に属していたのですが、オーストラリア側では扱いを異にしたようです。

 事件が起きた1944年8月には、A地区とC地区合わせて約2千人のイタリア兵、B地区には1,104人の日本兵(下士官と兵)、D地区には朝鮮人と台湾人、それに少数の日本の将校がいました。
 ここでまた、どうして遠いイタリアの捕虜がオーストラリアにたくさんいたのか、という疑問が湧くと思います。
 イタリア人捕虜はオーストラリア全体で約18,000人もいました。これはイタリアがドイツの同盟国として連合軍と戦ったのですが、アフリカ戦線に多くいたイタリア軍が敗北し降伏したので、最初はインドに送られました。しかし日本軍のビルマ・インド方面への圧力が強くなったので、さらにオーストラリアに移されたことによるものです。

  
       
《日本人捕虜第1号》

 オーストラリア軍に捕らえられた日本人捕虜の第1号は、南忠男というゼロ戦(零式艦上戦闘戦。開戦当初に活躍した海軍の戦闘機)のパイロットでした。開戦後まもない1942年2月19日に、ハワイ攻撃を終えた日本の機動部隊がダーウインを攻撃しました。
 これは第一次攻撃として航空母艦から発進したゼロ戦18機、艦上攻撃機73機、第二次としてセレベス島などの基地からの双発爆撃機54機、延べ145機による大空襲で、全くの不意打ちでもあったので軍事施設を中心に大きな損害を与え、ダーウイン港に集結していた連合国艦船23隻すべてが沈没または壊滅的打撃を受けました。民間人と軍人あわせて243名の死者がでて、市全体がパニック状態になったそうです。

 南忠男は、ダーウイン空襲にゼロ戦に乗って参加しました。この攻撃で日本側は2機を失いました。1機は墜落して搭乗員は戦死し、もう1機は、機体は損傷を受けてダーウイン北方のメルヴィル島(Melville)のジャングルに不時着して、乗組員の一等飛行兵、22歳の南忠男はジャングルをさまよい歩いた結果、2月24日になって原住民の手に捕らえられてオーストラリア軍に引き渡されました。 
 彼は日本人としての捕虜第1号で、捕虜につけられる番号もPWJP110−001でした。(PWは Prisoner of War の略で捕虜を、JPは日本を意味します)
 この南忠男は本名ではありません。捕虜となった多くの日本兵が軍当局の尋問を受けたときに、本名や出身地・家族について自ら明かすことはなく、偽名を使いました。捕虜になったこと自体が不名誉なことであり、家族や親族のものにも迷惑をかける、仮に将来生還することがあるとしても、殺されるか、家族ともども社会から葬られてしまうと考えられていたからです。この南忠男という偽名も、「南の国に行って天皇に忠義を尽くす男」ということから思いついたものだそうです。
 ですから、捕虜の取り扱いを定めたジュネーブ協定にしたがって國際赤十字社が故国の家族との文通をアレンジしようとしたときも、誰も希望しませんでした。 


     
《恥辱に生きる日本兵 生活を楽しむイタリア兵》
 
 捕虜収容所での生活態度も、イタリア兵と日本兵とでは大きな違いが見られました。
 日本兵は、捕虜となった恥辱から逃れたい、機会を捉えて脱走してもう一度、国に忠義を尽くしたい、立派な死に場所を得たいという気持ちが強く、収容所の指示・命令には従わずに、常に反抗的な態度を見せました。
 イタリア兵は全く違います。同じ白人同士ですからカウラの地域社会にすぐにとけこんで、近在の農家に手伝いに出かけ、男手不足になやむ農家を助けました。地元での評判もいいことから、監視もゆるやかで、行動もかなり自由でした。自ら作ったワインを楽しみ、ギターにあわせて自慢ののどを披露しました。
 このような生活態度を全く理解できなかった日本兵が、君たちはどうやって捕虜にされたのか、と尋ねたときに、「ただ降参しただけさ。敵の数が味方より多いときは、戦わないほうがいいよ。生きてさえいれば、イタリじゃ捕虜になったって進級するんだから」という答えが返ってきました。
 「それは恥ではないのか。日本では『生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ』と教えられているんだ」と追求すると、イタリア兵は笑い出して「死ぬよりは生きるほうがいいに決まってる。ここでは食うものはたくさんあるし、歌を歌って畑で働いていればいいんだよ、そのうちに戦争も終わるだろう。女がいないのは残念だがね」と相手にされませんでした。
  ("Voyage  From  Shame"(ハリー・ゴードン著) p.75.
      『』内は「戦陣訓」本訓其の二、第八)

 
         
《海軍と陸軍》

 約千人いた日本兵の捕虜の構成は複雑でした。
 南忠男を捕虜第1号として、最初のころ送られてくるのは海軍の兵士がほとんどでした。飛行機乗りが主でしたから、年齢も若く健康な志願兵が多かったのです(予科錬と呼ばれた海軍飛行予科練習生の制度は有名でした)。
 彼らは撃墜されたり、事故で不時着陸をしたりして捕われたのですが開戦当初は日本軍が優勢でしたから、日本の勝利を信じているものが多かったのです。「海軍は陸軍の奴らより優秀なんだ、なんだ陸軍の奴らは!」という意識が強かったようです。
 これに対して、日本軍の敗勢が明らかになってきてから、南太平洋の島々に展開し、圧倒的なアメリカ軍の攻撃を受けて、食べるものも武器弾薬もなくジャングルを逃げ回った陸軍兵は、戦意を喪失していて負け戦さを実感していました。
 一般に召集を受けた壮年者が主体で、故郷には愛する妻や子どもたち、年老いた両親がいるものが多く、望郷の念にかられていました。捕虜になってからは、食糧も医療も十分にあたえられて、健康も次第に回復してきていました。毎日の捕虜生活に不満は少なかったのです。

 この少数ではあるが意気軒昂の若者たちと、数の上でははるかに多いが意気消沈している壮年兵とのあつれきは、目には見えないながらも溝は深くなっていました。千人の日本兵のうち、約80%が陸軍で、20%が海軍だったそうです。
 なにしろ世界情勢についての情報は何も入らず、ときどき新しく到着する捕虜たちの口からもたらされるのは、悲惨な敗戦ばかりです。捨てられた英字新聞を拾って読むにせよ、語学力からごく限られたものしか理解できません。ことに捕虜という特殊な状況下では信じられないようなニュースが口から口へと伝えられたりします。「もうすぐ日本軍がオーストラリアに上陸してくるんだ」という夢のようなデマも、一部のものには信じられていました。

 捕虜収容所では最古参の南忠男は、日本兵の間で隠然たる勢力を持つリーダーでした。オーストラリア側も、英語をある程度話せる南を代表者として扱ったほうが便利だったこともあります。しかし陸軍勢が増えてくると、常に収容所側に挑戦的・反抗的な態度を取りつづけて、「情けない陸軍兵」を罵倒する南とのあつれきは大きなものとなってきました。
 千人の捕虜集団は、それぞれの年齢・考え方・出身・経歴などによって意見の対立を生み、ときに不穏な空気が流れるようになりました。
 ここで「全員の投票によってリーダーを選出すべきである」との要求を突きつけられた南忠男は、一触即発の空気を感じ取ってこの要求をのむことになったそうです。
 全員の投票の結果、新しいリーダーには金澤亮(カナザワ・リョウ)が選ばれ、補佐役には小島正男が選ばれて、英語の話せる南は三番目の地位にとどまりました。しかし、依然として南は指導力を持ちつづけたようです。
 
       
私は、この選挙で選ばれたということに興味を持ちました。
          戦時中の捕虜収容所で階級や経歴に関係なく、平等な選
           挙が行われたとは信じられないものがあります。


 金澤は26歳で、すでに6年間も中国戦線で戦い、二つの勲章を持っていました。五度まで負傷した金澤の体には弾丸が入ったままだったそうです。輸送船で移動中にラバウル沖で撃沈されて、6日間も飲まず食わずで漂流して救助されたのです。彼の戦歴や陸軍の上級下士官であったことなどから、金澤がリーダーに選ばれたことは当然のことでした。

 
        
《死に場所を求めて》

 千人の集団が、将来への展望も持てず、正確な情報もないままに隔離され監視された生活を続けるのはかなり困難なことです。まして、日本人捕虜は捕虜であることに罪の意識、あるいは恥という観念を強く持っていました。
 「自分は名誉ある死に場所を失ったのだ。捕虜になるという最大の屈辱を味わった。この恥辱から逃れるために、機会をとらえて死んでいきたい。それが国へのご奉公で、天皇への忠節だ」という考えが多かれ少なかれ日本兵の心の奥にひそんでいました。
 戦後60年たった今では、こんな風に考える人はいないでしょう。けれども、当時、少年だった私でも、そういう状況があったであろうと理解できます。戦時中はそういう精神教育がなされていましたから。

 明るく楽しげに捕虜生活を過ごしているイタリア兵とは反対に、日本兵の間には、今の屈折した状況を打開したい、この恥辱から逃れるために機会をとらえて死んでしまいたいという空気が充満していったのです。そして南忠男を中心としたグループは、ひそかに集団脱走の計画を立てつつありました。 
 だが武器と呼べるものはなにもありません。彼らは日常の作業や食事のときに使った器具を隠して小屋に持ち帰り、「その日のために」備えました。野球のバットやグローブ、農作業のシャベル、食事用のナイフやフォーク、調理に使う包丁などで、とても武器といえるものではありません。それに仮に脱走に成功したとしても、最後はどこに逃げるというのでしょうか。
 一方で、こういう不穏な動きがあることをオーストラリア側に密告したものがいました。それは朝鮮出身の兵士だといわれています。この密告を受けて収容所側は新たにヴィッカース機関銃2丁を配備したり、監視を強めていました。

 千名を超す反抗的な捕虜を一箇所にまとめておく危険を感じた収容所側は、カウラからさらに西方290kmほど内陸のヘイ(Hay)収容所にに日本兵の一部を分離して移すことに決めました。カウラ自体が定員の2倍という満杯状態であったし、日本兵は危険な集団と見なされていたからです。そして移動中の警備のため兵士50人も到着しました。


 8月4日金曜日の午後2時、リーダーたち3人、金澤亮・小島正男・南忠男が呼び出されて「明日、下士官以外の700人をヘイ収容所に移動させる」と通告されました。ジュネーブ協定では、一般人を除いて、捕虜に対しては事前の通告は必要ないそうです。
 この事前通告はかえって事件の引き金となりました。日本側は、下士官と兵を分離しての移動に不満でした。下士官と兵は家族のようなもので一体である、という感情が強くあったからです。自分たちを強く結びつけている家族制度のキズナが引き裂かれると感じたのでしょう。  この不満が、かねてからの脱走計画に火をつけました。南忠男はこの機を捉えて脱走しようと金澤と小島に強硬に主張しました。議論すれば結局は勇ましい、強い主張が通るものです。

 ただちに21の小屋の42名の班長が集められました。南の強硬論に対して疑問の声も上がりました。しかし最後にはお決まりの言葉が出てきます。
 「貴様はそれでも軍人か!」「帝国軍人たるものは……」「非国民は前に出ろ! おれが始末してやる」「出撃できぬやつは自分で身を始末しろ……」
 班長たちは自分の小屋に帰り、それぞれの班の意見をまとめて持ち寄ることとなりました。各小屋での議論の様子は残されていませんが、多くはトイレットペーパーをちぎって投票用紙として賛否を決めたようです。その結果およそ80%が集団脱走に賛成となりました。そういった空気が支配していたのでしょう。「これでやっと死ねる」と考えたものも少なくなかったようです。
 おおよその作戦計画が立てられました。北のゲートを襲うもの、南に向かうもの、鉄条網を乗り越えるために毛布をかぶせるもの、服を沢山着込んでグローブをつけて、鉄条網の上に自ら横たわって橋となるもの、小屋に火を放つものなど、手分けが決まり決行は5日土曜日午前2時と決まりました。
 しかし残念ながら、首尾よく脱出できたらそれからどうするか、どこに集合するのか、食糧や弾薬はどうするかなどという全体の計画はありませんでした。捕虜としてではなく、日本軍人として名誉の戦死をするんだという大義が支配していました。


       
《マインド・コントロール》

 「名誉の戦死をするという大義」という考え方は、現在の日本人にも理解しがたいことでしょう。しかし、戦争中にはこの考え方になるよう教育され、指導されていました。その理論的そして精神的支柱になったものは、軍人勅諭と戦陣訓でした。
 軍人勅諭は、1882年(明治15年)に明治天皇が陸海軍人に与えたもので、「天皇が軍人の大元帥である」ということと共に、軍人の守るべき規範として5か条を挙げています。
 その最初は「軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」で、「義は山岳よりも重く死は鴻毛(こうもう)よりも軽しと覚悟せよその操(みさを)を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ」と教えています      

 戦陣訓は、日中戦争が長期化して、軍のモラルが動揺し始めた1941年(昭和16年)に、当時の陸軍大臣東条英機が軍人勅諭の実践を目的として陸軍の兵士に交付したもです。
 全文はかなり長いものですが、「神霊上にありて照覧し給ふ」(本訓其の二第一 敬神)や、「恥を知る者は強し。常に郷党家門の面日を思ひ、愈々奮励し其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」(本訓其の二第八 名を惜しむ)という一節は、日本の軍人のみならず、一般国民にも強い影響を与えました。


       (軍人勅諭と戦陣訓の全文は、末尾をご覧ください


        
《響きわたる突撃ラッパ》

 8月5日の早朝、かねての打ち合わせよりやや早い1時50分頃、南忠男の吹く突撃ラッパが月明の空に響き渡り、警備の兵士たちを驚かせました。
 この少し前に、数名の日本兵が鉄条網近くをうろついているのが見られたり、一人の日本兵捕虜がブロードウエイに通じる収容所内の門に近づき、何ごとかを伝えようとして日本語で叫びましたが、歩哨の者は理解できませんでした。その男は「裏切り者を逃すな!」という南忠男の声と共に、一斉に飛び出した日本兵によって追われ、殺されてしまいました。
 300名前後にわかれた4つのグループは、4方向に向かって「バンザイ!」の叫びと共に突撃しました。機関銃座にいたオーストラリア兵士は捕虜に向かって射撃を開始しました。多くの犠牲者を出しながらも、何人かの日本兵は機関銃座にたどり着き、銃座にいた2名のオーストラリア兵を殴ったり刺したりして殺しました。首尾よく外に逃れ出たものも数百名いました。

 激しい交戦が続きましたが、やがて態勢を立て直したオーストラリア側は、近くに駐在している部隊の応援も得て、次第に日本兵を制圧し、夜明けを迎えました。鉄条網の周辺は日本兵の死体がころがっていました。
 捕虜収容所から逃亡したものの捜査には9日間かかりました。この間にも近くを走る鉄道線路に横たわって自殺した2名もおりました。収容所から50キロ以上はなれたエウゴウラまで逃げた捕虜もいました。
 オーストラリア兵の銃火に倒れたものの他に、多くのものが首を吊り、あるいは自らナイフでのどを刺して死んだそうです。


 この集団脱走による日本とオーストラリアの犠牲者は以下のとおりです。
 日本人犠牲者  
   将校       1人  死亡    
  他の階級のもの  230人 死亡  
   将校       1人  負傷
  他の階級のもの  107人 負傷  
 その他、3人の日本人がそのときに受けた傷がもとで、後に死亡。

 オーストラリア人犠牲者
   将校       1人  死亡
   警備兵      3人  死亡  
   警備兵      3人  負傷


 この数字を見て、言うべき言葉もありません。そのときの状況下では「下士官と兵を分離して別の収容所に送る」ということが引き金となって、これだけの事件になったのでした。
 一つの救いは、民間人にはまったく被害がなかったことです。これはリーダーたちが「民間人には絶対に被害を与えてはならない」と命令し、その言葉が守られたのです。
 救われるようなエピソードもあります。
 二人の日本人逃亡兵が疲労と空腹から、近在の農家に救いを求めました。たった一人で家にいたメイ・ウイアー夫人(May Weir)は少しも動ぜすに紅茶とスコーン・パンを与え、それが済むまでは駆けつけた警備兵に引渡しを拒んだといいます。
 「あの人たちが敵国人であるかどうかは関係ありません。彼らは何日も飲まず食わずだったのだから、同じ人間として、あの人たちに最低限の食糧を与えるのは当然です」と、ウイアー夫人は主張しました。
 40年後にその日本人たちはカウラに戻り、ウイアー家の農場を訪れて、たいへん親切にしてくれた家族にお礼を述べました。

 この大事件はオーストラリア政府と軍部に大きな衝撃を与えました。軍の管理下にあった捕虜収容所で235名のものが死亡しただけでも大事件でした。満足の行く食事を与えているのに、なんでまた? と理解に苦しむばかりでした。
 直ちに厳重な報道管制が敷かれました。これが世界中に知れわたれば、その原因が何であれ、捕虜の日本兵がオーストラリア軍の銃火により殺されたのですから、捕虜虐殺ということで日本側に絶好の宣伝材料を与えるでしょう。そして日本側に捕らえられているオーストラリア兵の捕虜に対しても報復が行われるでしょう。日本軍による捕虜虐待はすでに知れ渡っていましたから。

 日本国内(内地)の捕虜収容所は、本所が7か所、分所と分遣所が84か所、合計91か所が散在していました。ここを拠点として、それぞれ軍需産業(鉱山や工場・道路建設など)で労働させられました。
 どの収容所でも虐待の悲劇が多くあり、戦後になって捕虜虐待の罪で戦争裁判にかけられました。厳しい寒さと過酷な労働、劣悪な食糧などが原因で多くの捕虜が死亡したのです。
 直江津(新潟県)の捕虜収容所では、オーストラリア兵608名を収容していましたが、栄養失調や過酷な労働から60名が死亡して、戦争裁判では日本人8名が死刑判決を受けています。
 国外をのぞく内地の捕虜収容所での収容人数は32,418人で、3,415人が死亡したということです。 (茶園義男氏編の資料による)
 国外では、ビルマでの鉄道建設やフィリピンでの死の行進をはじめとして、多くの悲劇が伝えられています。(映画「戦場にかける橋」は有名です)  そういう事情を考えて、厳重な報道管制が敷かれたのでしょう。

 日本兵の死体は毛布にくるまれて埋葬されました。長い間、日本人墓地はキョウチクトウの茂みに囲まれて、人目を忍ぶように眠っていました。この墓地の草むしりや落ち葉拾いは、かっては敵対していた地元の退役軍人連盟 (RSL:the Returned &  Services League of Australia) のメンバーによって行われていたそうです。
 1964年になって日本人墓地は本格的に整備されて、オーストラリア各地で亡くなった日本人と合わせて522人が葬られています。姓名と死亡年月日および享年が刻まれたプレートが整然と並べられて、黒御影石の記念碑と2基の石灯籠も置かれました。

 
日本兵墓地

  
       《カウラの慰霊祭》  

 2002年10月13日(日曜日)カウラの墓地で慰霊祭が行われました。私は前日にシドニーから車を走らせて参加しました。
 手渡されたプログラムは「サクラ祭り」というタイトルです。これは戦後、反日感情がまだ強く残る中で、日本側と地元の協力で墓地が整備され、日本庭園も造られました。1988年からは「不戦」を誓う日豪市民の手で周辺5キロの道に桜を植える計画が進められてきました。植樹の目標は2千本ですが、残念ながら資金不足で1千本で足踏みしているそうです。オーストラリアは南半球ですから、この季節が春で、桜のシーズンとなります。


 この日のセレモニーは「Conciliation」(コンシリエーション;和解)と名づけられています。

オーストラリア兵の墓地
 およそ百人の日豪市民が集まりました。日本からこの日のために来た遺家族や関係者もおられました
 9時15分 オーストラリアの4名の戦死者墓地でセレモニーが始まりました。まず尺八の演奏で死者の霊を慰めます。これは私には意外でした。演奏はなんとオーストラリア人の女性でした。カウラの近くには有名な尺八の先生が住んでおられるとのことです。
 司会者の短いメッセージのあとで、花輪が捧げられました。カウラの市長さん、日本大使館の代表者、地元の退役軍人連盟の会長さんなどによるものです。
 それから司会者の指示で、全員が西方を向きました。そして「Last Post」が奏でられました。このラスト・ポストというのは「軍葬ラッパ」と辞書に出ていますが、死者を弔うものだそうです。荘重な悲しい響きでした。「祖国のために命を捧げた者の思い出のために」とプログラムに書いてあります。
 次いで「Reivelle」(レヴリ;起床ラッパ)となって、全員がまた東に向きなおり、半旗となっていたオーストラリア国旗をふたたび掲揚しました。
 「レヴリはその日の最初のラッパで、我々が戦死者によって得られた自由と理想とともに前進する新しい日のために」とされています。  最後に退役軍人連盟の会長さんが、死者を悼む短い詩をとなえました。 終わりの一節は「We will remember them, Lest We Forget ! 」(私たちは彼らをいつまでも覚えている。彼らを追悼して忘れない)という言葉で、この一節を参会者一同で唱和します。

 セレモニーは30分ほどでした。簡素ですが厳粛な空気でした。  
 気がついたのですが、お墓はすべて西を向いています。西方浄土というのは仏教徒の日本人にとっては馴染み深いものですが、キリスト教徒にとってもそうなのでしょうか。

 
 10時から隣接する日本人墓地でセレモニーがありました。
 これも尺八の演奏から始まります。静かな春の日の空に、すすり泣くような響きが広がっていきました。
 花輪の献呈も同じように行われました。そしてシドニーの本願寺のお坊さんが読経をして、英語と日本語の両方で講話がありました。
               
                下は 日本人僧侶の読経                
僧侶の読経
 「この地に眠る者は、祖国を守るために、愛する家族のために、戦場に赴いて命をおとしました。しかし戦った相手もまた、まったく同じ目的できた者たちでした。そういう相手と敵対しあう不幸を二度と起こしてはなりません。それが私たちの誓いです」

 お坊さんのお話を聞き、この地に眠る522人のことを思うと、私は強い悲しみと、同時にこの理不尽な出来事を起こさせた戦争に対して怒りを覚えました。この522人の大多数は、本名も出身地も明らかにされぬまま、家族の者たちも知らないままに、美しい日本の山河とは全く違った南半球の荒涼たる大地に、永遠にひっそりと眠っているのです。


慰霊祭に集まった人々
 戦争が終わりカウラから約800人の日本人捕虜が無事に祖国に帰ることができました。故郷に帰ってみると、自分の名を刻んだ墓石が立っていて、息子が生きていることを知らぬままに、先立った両親が多かったそうです。
 カウラから帰った人たちは、カウラ会を作って定期的にカウラを訪れて友好を深め、交流をしています。しかし未だに捕虜であったことを家族にさえ隠して、カウラ会に参加を拒んでいる人が半数もいるのだそうです。心に負った傷はそれほど深いのです。

 集団脱走の3人のリーダーのうち、金澤亮は捕らえられて、暴動の首謀者として軍事裁判にかけられました。
 軍事法廷で発言の機会を与えられた金澤亮は、こう述べたそうです 「私たちに対するオーストラリア兵の扱いや態度には、少しも不満などありませんでした。ではなぜ脱走したのかと問われれば、日本人の魂がそうさせたのだとしか答えようがありません。捕虜となることは天皇陛下および両親への不忠義そのものです。捕虜の屈辱と罪を拭い去る方法は、死ぬこと以外にはありません」
 判決は15か月の重労働でした。しかし実際には重労働はなかったそうです。
 小島正男は混乱の中で自ら命を絶ちました。
 南忠男は本名・豊島一で、香川県出身でした。事件当日、南はブロード・ウエイで胸に銃弾を受け、大量の出血によって衰弱し、自分自身の手でナイフで喉を掻き切って息絶えました。


       ******************

   
    
 《平和を取り戻したカウラ》

 「すべての道はカウラに通ず」  カウラを紹介するパンフレットに出ている言葉で、交通の要衝であると自負しています。広いオーストラリアでも、人口は1千8百万人と少なくて、しかもその大部分は東側の海岸線沿いに集まっています。
 日本人になじみのある町、ブリスベーン、シドニー、首府のキャンベラそしてメルボルンは、カウラから便利なところです。かってこの一帯はゴールドラッシュでにぎわいました。1850年代には、オーストラリア、カリフォルニアで、さらにカナダ、アラスカと金鉱脈の発見が続いたのです。
 カウラの町はいまや人口9,000人とふくれあがりました。牧畜業が主力だった時代から、栽培農業も盛んになりつつあります。
 南半球にあるという地理的な条件から、日本では端境期となる冬期(10〜3月)に野菜類を輸出できるという利点があります。航空機による大量輸送は距離というハンディキャップをますます小さくしてきました。
 カボチャ、トマト、サクランボ、大根、ゴボウなどは無農薬栽培という特長を生かして、日本にも運ばれています。和牛の飼育もすすんでいるそうです。
 ことにカウラを有名にしたのはブドウとワインです。各地のコンテストでも入賞しています。カウラ市内にはワインテイスティングと食事をあわせて楽しめるところが6か所もあります。


日本庭園 カウラの悲劇は、オーストラリアで知らぬ者はいませんし、1979年にオープンした日本庭園は立派なものです。京都の修学院離宮を模して造られた回遊式の日本庭園は中島健氏の設計によるもので、茶室や陶芸の施設も備わっています。
    (左は日本庭園)

 宿泊設備、レストランなどもたくさくんあります。この町で唯一の日本レストラン 「BLUE GUM」(ブルー・ガム)もあります。

 私が初めて「カウラ」のことを知ったのは、たまたま古本屋で買った一冊の本「カウラの突撃ラッパ」でした。それ以来、いつかカウラを訪ねてみたい、もっと詳しく知りたいと願っていましたが、2002年10月にその機会に恵まれました。
 現地で求めた資料、出版された本などを参考にして、私なりの報告をまとめました。
 どうぞオーストラリアに行ったら、一度カウラを訪れてほしいと思います。ひそやかに眠る兵士たちに花を捧げてください。
 シドニーから日帰りも可能ですが、カウラには宿泊施設もそろっていますし、日本食レストランもありますから。


参考資料:
 参考にさせていただいた資料は次のものです。

1.「VOYAGE FROM SHAME」(恥辱からの旅立ち)
  Harry Gordon  1994  ハリー・ゴードンはオーストラリアの作家 で、カウラ事件に長い間取り組んできました。この本はオーストラリア政府の公式記録を丹念に読み込み、また日本に何度も来て金澤亮などと会って話を聞き、全体としてまとまっています。特に金澤亮の裁判については詳細なものです。
 「生きて虜囚の辱めを受けず」 山田真美訳 1995 清流出版   これは上記の翻訳です。翻訳は日本人にわかるように大胆な意訳の部分もあります。

2.「DIE LIKE THE CARP 」(鯉のごとく死ね)
  HARRY GORDON  1978  この本は、上記の本を書く前に出版されたものです。
   残念ながらこの本は手に入らなかったので、私は原文を読んでいません。翻訳本を読んだだけです。
 「鯉のごとく死ね」というのは、カウラの捕虜の一人、小城清治が 母親に教えられた言葉で「滝を登る鯉のように勇気を持ち、死ぬときは潔く」という意味です。鯉はまな板に乗せられると、もう身動きしないと言われています。
 「俎上の鯉」 豊田穣訳 1979  双葉社  これはこの本の翻訳です。訳者は海軍兵学校出身のパイロットで、1943年に搭乗機が撃墜されて捕虜となった経験がある方です。

3.「カウラの突撃ラッパ  零戦パイロットはなぜ死んだか」
  中野不二男著 1984 文芸春秋社  この本は、カウラ事件を南忠男に焦点を合わせて書いています。  それだけ読み物風になっています。

  これら3冊の日本語の本は入手しにくいと思いますが、図書館にはあるでしょう。私は東京の世田谷区の図書館で借りました。

4.「THE COWRA BREAKOUT AND OTHER POW CAMP STORIES」
    日本語版「カウラ集団脱走と捕虜収容所について」

案内書(英文と日本語訳)
  これは22頁の小さなもので、見学にくる学生などの学習プログラム用としてカウラ郡議会によって作られたものです。
 カウラにはこの事件の記念館があります。日本兵が使った武器(ナイフやバット、包丁など)の展示やビデオの映写、記念のグッズの販売をしています。
日本語訳文です。

この小さな本は  極めて落ち着いた叙述で、事実とその背景がわかりやすく簡潔に 述べられています。
 目次は、1.日本の戦争への道 2.カウラ捕虜収容所 3.収容所生活 4.収容所の情報収集 5.集団脱走前 6.集団脱走 7 .再収容作戦 8.カウラにあった軍事訓練所 9.恥辱からの旅立ち  です。
 写真も豊富ですし全体像をつかむことができます。翻訳もよくできています。  英文、日本文ともA$ 9.95 です。
 
 連絡先:Cowra Tourism Corporation:
  PO Box 342 Cowra, NSW 2794 Australia   Tel: 02-6342-4332
  Fax:  02-6342-4553   URL: www.cowratourism.com.au  
 
E-mail: tourism@cowra.nsw.gov.au

5.「太平洋にかける橋  捕虜収容所の悲劇を越えて」
  直江津捕虜収容所の平和友好記念像を建てる会編 1996 \1,000
 この本は戦時中にオーストラリア兵を収容し、多くの犠牲者を出した直江津(新潟県上越市)の捕虜収容所の悲劇と、その後のカウラ市 および元捕虜と友好を取り戻すまでを記録したものです。上越市とカウラとは、友好を促進すための交流を続けています。
 200頁の労作ですが、本の性格上から多くの人が書いているので、 全体としてのまとまりが欠けているように思います。しかし事実をきちんと記録した誠意と努力は立派なものだと感じました。

 連絡先:近藤芳一氏   E-mail: yoshi-ko@max.hi-ho.ne.jp

6.「餓死した英霊たち」  藤原彰著 2001  青木書店  
 餓死の実体、何が大量餓死をもたらしたか、日本軍隊の特質について、などが詳しく論じられています。
 戦死者230万人のうち、フィリピンで50万人(うち80%は餓死したもの)、中国本土で45万人、中部太平洋で25万人、ビルマとインドで16万人、沖縄で9万人が亡くなられたそうです。

7.朝日新聞記事 「不戦の桜満開」2002.10.4 朝刊
  これはオーストラリア特派員・大野拓司氏による記事で短いものです。しかし、日本の新聞でカウラのことが報じられた唯一(?)のものではないでしょうか。

 
 サクラ植樹の寄付は、カウラ市が受け付けていますが、シドニーの非営利団体「日豪文化交流協会」が仲介奉仕をしています。
 問い合わせ先は同協会の電話/FAX:国番号61-2-9327-5459  です。
 

8.「オーストラリア日系人強制収容の記録」
   永田由利子著 2002 高文研  この本は著者がオーストラリアの アデレード大学に提出した博士論文をもとにしたものです。日本人移民の歴史や戦時中の強制収容がおもなテーマです。

9.「Cowra ------ Great Escape 」  これはカウラの観光案内所でくれる8頁のパンフレットです。  カウラ全体の案内書で、暴動事件、 日本庭園、地元の名産ワイン、宿泊設備、レストラン、地図など、便利で役に立つものです。 連絡先は(4)と同じです。

9.軍人勅諭と戦陣訓については、インターネットで簡単に見ることができます。たとえば下記です。                           http://www.tanken.com/gunjincyokuyu.html  (軍人勅諭)         http://www.tanken.com/senjinkun.html (戦陣訓)  
 
 軍人勅諭には軍人の精神として「五ヶ条」が示されています。戦時中は中学生でも教練の時間にこれを暗誦することが強要されてい ま した。
 次の「五ヶ条」です。
   一 軍人は忠節を尽すを本分とすへし   
   一 軍人は礼儀を正しくすへし     
   一 軍人は武勇を尚(たふと)ふへし   
   一 軍人は信義を重んすへし   
   一 軍人は質素を旨とすへし      
  (原文のまま。当時は句読点、濁点をつけませんでした)


0.日本レストラン 「BLUE  GUM」
      (ブルー・ガムは、ユーカリ樹の一種です) 

ブルーガム レストラン
 堀部洋保氏が経営する農園、宿泊設備とレストランです。
 日本の農業関係者・農業学校などに呼びかけて、現地での研修や視察を立ち上げています。カウラに行かれたら、ぜひおいしい日本食を賞味なさってはいかがですか。

 22 Andersons  Lane 
 (P.O.Box203)  Cowra, NSW 2794 Australia
   Tel: 02-6341-1362  
      Fax: 02-6341-3327
  E-mail: bluegumfarm@bigpond.com
  URL   http://holidayfarm.com.au

12.毎日新聞記事  2004年7月20日夕刊
 「悲劇の地に平和の道 ― 豪・カウラ日本兵集団脱走60年

  これは田中洋之氏がカウラを訪れた報告記事です。

12. 読売新聞記事  2004年8月5日夕刊  中野不二男
  「日本人って、そういうもの?」 戦争中の豪カウラ暴動事件を追って

  これは、暴動事件の60年に際して、リーダーだった南忠男の意識に触れて、感想を述べたものです。 
  中野不二男さんは「カウラの突撃ラッパ」(上記 3)を書いた方です。


         以上      2002年7月      文と写真:  南 清文

追記: 次の2冊の本を読む機会がありました。ここでご紹介して             おきます。              (2003年7月)

1.「黄色い鼠」 井上ひさし著 文芸春秋社 1977年7月刊 「オール読物」に1977年1月号〜6月号に掲載されたもの。

 この本は、秋田鉱業専門学校(現在の秋田大学)出身の鉱山技術者で、戦争中オーストラリアのバーメラ捕虜収容所に収容された佐藤修吉が残した手帖を、たまたま入手して、そこに書かれてあった記録を基に小説に仕立てたものだそうです。

 さすがに達者な文章で面白く読ませます。言葉は適切ではありませんが「講談本」を読むような気分にさせます。

カウラのことは、直接には触れられてはいませんが、カウラ事件が伏線になっていると思います。

 アボリジニー(オーストラリアの先住民)の老人が登場しますが,その老人を介して、アボリジニーの歴史・宗教・文化・生活様式を紹介するとともに、私たちが「砂漠」という言葉に持っているイメージが、いかに表面だけのものであり、オーストラリア大陸のきびしい自然・環境を理解していないかを教えられて、反省させられました。

 狂信的な江藤海軍中尉の行動も、戦時中の軍隊を代表するものとして、よく描かれています。

 オーストラリア全般について知るにはよい案内書だと思います。

2. 「カウラ日本兵捕虜収容所」永瀬隆・吉田晶 編 
     青木書店 1990年1月刊

 1988年8月26日に倉敷市の倉敷市立美術館で「カウラ事件・映画と証言の集い」が開催されました。250人の方々が集まられたそうです。

 主催者は岡山県歴史教育者協議会(歴教協)です。 この本は、そのときの証言・講演をまとめたものです。

 カウラで捕虜となっていた方々、脱走した捕虜に紅茶とスコーンを与えたウィア夫人の娘さんのマーガレット・ウィアさん、何人かの研究者の話など、興味あるものです。

 個々の方が断片的に語られているので、重複する話もありますが、全体としてよくまとまっています。

 中でも、捕虜収容所にいて「暴動事件」に参加したが、生き永らえた方々の戦闘についての証言は、ご自身の体験記だけに迫力があります。
 ある意味では止むを得ないことではありますが、この証言は「穏健派」の方からのもので、「積極派」の方々のものは、聞くことができません。その人たちの多くは、命を失い、あるいは語ることを拒否しているのでしょう。

映画「大脱走―カウラ日本兵捕虜収容所」 
   (原題 
The Great Breakout. クリス・ヌーナン、フィル・ノイス監督)の上映もあったようです。この映画は、1987年8月13日に東京放送で放映されたことがあるそうです。

3.「カウラの風」  土屋康夫著  KTC中央出版刊 2004年2月 ¥1600
 著者の土屋さんは、岐阜新聞社の報道部の方だそうです。
 カウラでの桜祭りなどに参加されて、その後、日豪のカウラ関係者にインタビューをして、この本にまとめられました。
 多くのインタビューは、金澤亮氏のものなど、興味深いものがあります。
 残念なことは、全体のまとまりが弱く、それだけ理解しにくくなっているように思います。
         2004年11月
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NHK制作の「カウラの大脱走」について。

 2005年8月4日に、NHK制作になる「カウラの大脱走」がハイビジョンで放映されました。これは2時間ものという大作です。
 これを1時間に短縮して編集しなおしたものを、2005年9月4日に1チャンネルで放映されました。

 内容は、カウラ事件の生存者の「証言」を主体に編成したものです
私の率直な感想は、カウラ事件を取り上げて作成した意図がはっきりしていないということです。
 これでは戦後60年をへた多くの日本人には、事件そのものの全貌が理解できなかったと思います。
 生存者の「証言」は、必ずしも真実をすべて伝えるものではありません。死亡した方々の声は聞けませんが、それを汲み取る努力が必要だと感じました。
 前後の事情もわからぬ視聴者に、いきなり「戦陣訓」や「マインドコントロール」があったと言われても、戸惑うことでしょう。
 もっと全体を大きくつかむ視点があってほしかったと思いました

 ただ、金沢亮さんが帰国後に大部のカウラの記録を残されていることを知りました。これはぜひ公開してほしいと思います。
 金沢さんは、カウラの日本人捕虜のリーダー格だった方ですが、2004年11月に亡くなられたそうです。

 全体として、小手先でまとめ上げたという印象が強く、残念です。


              2005年9月18日
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日野原重明さんのエッセイについて。

 2007年1月20日の朝日新聞 Be に、日野原重明さんが「95歳私の証言 あるがまゝ行く」という連載エッセイに「日本戦没者が眠る街」という見出しでカウラ訪問記を書いておられます。
 カウラとことを取り上げてくださったことはありがたいのですが、大きな勘違いをされておられるようで、気になります。
 「第2次世界大戦の時、日本は連合軍側のオーストラリアに侵入し、攻撃を加えました。その際、1千人以上の日本軍兵士が捕虜となりました。その中で現地で死亡した日本兵の墓地が、カウラで管理されているのです……」
 と、日野原さんは書いておられます。
 第2次大戦中, 日本がオーストラリアに「進入し、攻撃を加えた」ことはありません。ダーウインとシドニーに対しては、空襲あるいは特殊潜航艇による攻撃は行われましたが、地上戦はなく、そこで1千人以上が捕虜となったこともないのです
 これら捕虜になった人たちは、主としてニューギニアなどでの地上戦で、飢えと病で倒れ、「敵軍に」救助されてオーストラリアに運ばれた方々です。 そのころ連合軍の司令部はオーストラリアに置かれていました。

 この勘違いは、おそらくご案内をした人が間違ったことを話したのでしょう。
 全体としてはよい文章ですが、この点は残念です。

             2007年2月3日


  朝日新聞への投書について

 朝日新聞の投書欄 『声』 に田島純夫さん(59歳)の投書が載っています。(2007年4月5日)
 田島さんの叔父さんがカウラ捕虜収容所にいて、脱走を試みて命を失ったそうです。
 田島さんは、最近の沖縄戦での集団自決をめぐって、日本軍が強制したとの記述に教科書検定で修正意見がついてことにふれて、軍が「死を強要した」のは事実だとみると書いておられます。
 その根拠は「生きて虜囚の辱めを受けず」という、あの「戦陣訓」に駆り立てられたものだ、ということです。
 私は、この田島さんのご意見に賛同するものです。

             2007年4月7日


 千葉茂樹さん(映画監督)の紹介記事について

 千葉茂樹さんが、なぜオーストラリアなどを舞台にして映画を作り続けているかについて、朝日新聞に紹介記事が載りました。 (2007年10月16日: 文・竹内幸史、写真・筋野健太)
 家族旅行で初めてオーストラリアに行き、シドニーの博物館に立ち寄ったときに「カウラ事件」を知ったのがきっかけだったそうです。

             2007年10月19日
 

 最近の「カウラ」をめぐる報道について。

 このところTBS系列と読売新聞に、カウラについての報道・放映がありました。
2008年6月23日の読売新聞 「レジャー&趣味」の《旅》という頁に、カウラが紹介されています。
 これは旅についてのご案内で、『悲劇埋もれた草原の街』という見出しで、清岡央さんが書いておられます。
 
 A 2008年4月2日に、TBSで地球の温暖化・環境問題をテーマに特集が組まれました。 約3時間の大作です
 このなかで、オーストラリアの農業地帯を襲った大旱魃の報告があり、カウラの実情が映し出されました。
 現地で農場と宿泊施設を営んでおられる堀部洋保さんのお話では、もう年という単位で雨が降らないので、農業と牧畜は壊滅状態にある。 このままでは土地そのものが死んでしまう、ということです。

 B 2008年7月8日夜、TBSで
 「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった − カウラ捕虜収容所からの大脱走」 と題して、2時間を越えるドラマの放映がありました。
 脚本を書かれた中園ミホさんの伯父さんが、カウラからの生存/帰国者で、その体験を柱にしてこの作品を作ったということです。

 残念ながら、この大作から受ける印象は、多くの人には、何を訴えようとしているのか、わかりにくかったのではないでしょうか。
 戦後60年を超えて、語り継ぐことは大切ですが、いきなり「生か死か」と突きつけられても、戦争を知らない世代にはわかりにくいことです。
 戦陣訓とか軍人勅諭を振り回しても、ドラマを見る人には、チンプンカンプンの話です。 カウラから「生還」した主役が墓の前で涙を流す場面も、「貴様と俺とは同期の桜……」という視点だけでは、大切なことが抜けているように思いました。
 「トイレットペーパー」というタイトルも、この場面では不適切だと思いました。
 でも、あの不条理な戦争を忘れずに語り継ぐという視点は大切だと思います。
 戦陣訓とその時代を、もう少しわかるように、話を導いていったら、もっとよかったと思います。


          2008年7月29日
                 −−−−−−−−−−−−

  2014年1月8日の朝日新聞(夕刊)の記事について。
 
「日本兵  豪に残した絵   
      捕虜脱走・射殺事件の舞台で4点」

  という見出しでカウラ捕虜収容所にいた日本人兵士が描いたとみられる4枚の絵がシドニーで見つかった。 持ち主の女性は、家族に返すことを希望していると報じています。 絵の写真も2枚掲載されています。
  70年も前に,捕虜だった山本正年さんが描いて、収容所の医療雑用係をしていたタイアーズさん上げたものだそうです。 

  山本さんは戦後、無事に帰国されたそうです。その頃はほとんどの人は捕虜という事実を恥じて、偽名を使っていたそうですが、なんとかしてご遺族の方々の手にこの絵が戻るといいですね。
  この記事は朝日新聞のシドニー支局長の郷富佐子さんの報告です。

                2014年1月13日

 2014年3月7日の朝日新聞(夕刊)の記事について

 太平洋戦争中にオーストラリアで、多くの民間の日本人が抑留されていたという事実を伝えようと、カウラ市でシンポジウムがあったそうです。
 これは朝日新聞シドニ支局長の郷富佐子さんの署名記事です。

         2014年3月11日  東北大震災と福島原発事故の日です。


    演劇 カウラの班長会議 side A の上演
  2014年7月5日の朝日新聞(夕刊)によると、カウラ事件をテーマに、劇団・燐光群が日豪各地で上演するそうです。
 今年はカウラ事件から70年の年です。 
  幸い東京での上演は下北沢のザ・スズナリ劇場で、わが家からは近いので、健康が許せば見に行きたいと考えています。

        2014年7月6日


 
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