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       スティーブストン物語
   ─日本人の汗と涙で築いた町─ 

        
    
 スティーブストンはカナダ・バンクーバー空港のすぐ南にある小さな町ですが、カナダ最大の漁港です。そしてここは日系人が百年にわたって汗と涙を流して築き上げた町でもあります。

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 日本からカナダに向かう人は、まず殆どがバンクーバー空港に降り立ちます。そこからさらに東に、つまりトロントやモントリオールといったカナダ東部に向かう人は、バンクーバーで少し休憩して、また飛行機を乗り継いでいくのが普通です。 
 東京からバンクーバーまでの飛行距離は7,533qで、ロンドンやニューヨークが1万q強ですから、この両都市と比べると、バンクーバーは約四分の三といった距離になります。
 飛行時間は、上空はいつも西風が吹いているので、日本からカナダに行くときはフォローの風、帰りはアゲンストになりますから一定ではありませんが、まず9時間程度と思ってください。

 平面的に書かれた地図を見ると、太平洋をほぼ真横に横断して飛ぶような気がしますが、実際は地球は球形なので、まず太平洋を北東方向に行ってから、アラスカの南岸沿いにぐるっと南東に、つまりアメリカに降りてくることになります。
 ニューヨークに行くときには、北極圏の近くを通って、トロントの上を飛ぶような感じです。飛行機に乗ったときに、国際線の機内誌(JALでしたら『ウインズ』)が備え付けてありますが、ここには普通の地図のほかに、北極の真上から見た地図がついています。
 これがたいへん興味深いもので、各大陸の位置関係がよく分かります。米ソの冷戦時代には、北極の上を核弾頭をつけたミサイルが飛び交うんだと脅かされましたがこの地図を見ると、なるほどそうだったのかとよく分かります。
 バンクーバーに近づくと高度を次第に下げて、濃い緑に覆われたバンクーバー島の上から、太平洋に面したバンクーバー空港に降りていきます。
 バンクーバーの中心の高層ビル群や住宅街の緑地、そして、少し濁った大きな河と真っ平らな地域が現れます。そこがバンクーバー国際空港のあるリッチモンド(Richmond)市です。
 北アメリカを訪れると、どの町に行っても、主体はヨーロッパからきた白人たちで、最近は東洋人が増えたと考えがちですが、実際はそうではなくて、北アメリカは本来は先住民の土地だったわけです。カナダの場合には、先住民はインディアンが多く、北の方ではエスキモーがいます。

ナダの先住民たち

 この「エスキモー」という呼び方は、北米に住んだアルゴンキン族が「生肉を食う人」と、あざけって呼んだ言葉だそうです。エスキモーは自らを「イヌイット」(Inuit ,  man  とか people という意味)といっているので、今はイヌイット」と呼ぶようにしています。
 インディアンという呼び方も一種の差別用語で、コロンブスが1492年(明応元年、足利時代)に大西洋を横断してバハマ諸島に到達したときに、ここはインドだと思いこんだ名残が残っているわけです。
 現在、カナダでは「先住民」という意味で「ネイティブ」(native)という言葉を使いますが、ネイティブはもっと広い意味で使われることもあるので、この文では、「インディアン」という言葉も適宜使うことにします。 
 
 カナダ太平洋岸のブリティッシュ・コロンビア州(以下BC州)に、いつ頃から人が住んでいたのかは、誰にもよく分かりません。しかし、長い氷河期がおわり、海の水位も安定しはじめて、海岸線が確定してきた頃から、というと11,000年前頃になるそうですが、BC州には既にインディアンが住んでいたことが考古学の調査で明らかにされています。石やバイソン(アメリカ野牛)の骨で作った簡単な道具や武器などが発掘されてきました。
 その人たちは、現在のベーリング海峡からアラスカをへて移動してきたもので、その頃はベーリング海峡はまだ陸地でつながっていたと推定されています。
 彼らはもちろんモンゴリアン(モンゴル人種)で、極北のイヌイット、北米のインディアン、それに南米のインディオは、それぞれ移り住んだ年代は違いますが、同じモンゴリアンの流れです。

白人の出現

 BC州に白人が現れるようになったのは、18世紀中頃からのことです。1778年にバンクーバー島の沖合にきたキャプテン・クックが、インディアンと接触を持った最初の白人でした。
 このころBC州にいたネイティブは、およそ9万人と推定されています。つまりBC州に関する限り、白人の歴史は僅か200年にしかならないわけです。この200年、ことに最初の100年が、白人によるネイティブとの毛皮交易に始まり、ゴールド・ラッシュや道路・鉄道の建設による労働人口の増加、白人の定住化が増えることによる農業の発展、豊富な森林資源や漁業(サケとニシン)に着目した事業家の進出などがありました。それによって、ネイティブたちが自分たちの土地を追われて、殺されたり、白人から病気(天然痘や結核や梅毒など)を移されて死んだり、略奪され、迫害された歴史でもありました。
 1850年には、BC州のネイティブは約6万人で、白人は僅か600人であったといいます。

  最初の日本人は…… 

 では、BC州に日本人が来たのはいつの頃だったのでしょうか。
 カナダに最初に足跡を残したのは,1834年(天保4年)宝順丸の漂流民であったと『日系人 その移民の歴史』(高橋幸春著)に書いてありますが、私にはそれ以上のことは分かりません。
 記録にはっきり残っているのは,長崎県人の永野万蔵で、彼は1887年(明治20年)にバンクーバーにきて、サケ漁や沖仲士をした後、日本との交易をしたり、日本物産店や旅館を経営して、日本人社会の名士となりました。しかし、万蔵は移民としてきたのではなく、船乗りとして乗船していた船がバンクーバー沖に停泊していた間に、ひとり下船して、そのままカナダに住み着いたということです。

 19世紀中頃というと、長年争いが絶えなかったアメリカ合衆国とカナダ(英連邦の一員としての自治領でしたが)との国境線が確定して、BC州の経済が発展しはじめたときです。
 1849年のカリフォルニアでのゴールド・ラッシュが下火になったかと思うと、1857年にはBC州の東の境、ロッキー山脈から発して、BC州中央部を悠々と流れて太平洋に達する全長1370qのフレーザー河のほとりに、金鉱が発見されたとのニュースが伝えられました。そして1862年に内陸のカリブー地区で大きな金鉱床が発見されると、カリフォルニアから一括千金をねらう沢山の一旗組や中国人労働者が押し寄せてきて、その数は3万人ともいわれています。
 1858年にはバンクーバー島に製材所ができて、林業も始まりました。1887年には東部からロッキー山脈を越えて、大陸横断鉄道がバンクーバーに到達しました。広いカナダの東部と太平洋岸を結ぶ大陸横断鉄道の建設は、カナダ人の夢でもあり、経済発展のためにも交通・輸送手段として必要なものでした。
 この鉄道建設のために15,000人の中国人が働いたといわれます。フレーザー川沿いに建設された鉄道や道路には、労働者のキャンプにつけられた名前が多く残されていますが、バンクーバーから内陸へ200qほど入ったところにも、「チャイナ・バー・トンネル」いう長いトンネルがあります。
 こうしてみると19世紀の後半、BC州のフレーザー河流域は、ゴールド・ラッシュに始まる鉱山業、豊かな資源に恵まれた漁業と林業、それらに従事する人々や生産物を運ぶ鉄道と道路の建設、毎日の生活を支える食料を作る農業、これらすべてが繁栄した時代でした。しかし、すでに当時から産業の発展は一方で自然を破壊するという宿命も負っていました。道路や鉄道建設のための土砂の採取は、やがて河川を汚して、サケ・マスなどの生育地を破壊して損害を与えました。

 
◆ BC州の大動脈 フレーザー河 

 この悠々と流れるフレーザー河が、何千年もの間、肥沃な土砂を下流に運び続けて、およそ2500年前に太平洋に注ぐ河口一帯に大きな堆積地を築きました。雪解けの頃には決まったように洪水がきては、また新しく肥沃な土地を作ります。
 こうして生まれた大小14の島を合わせて、今ではリッチモンドと呼ばれている地域が形成されていきます。最大の島はルル・アイランド(Lulu Island )で、次はシー・アイランド(Sea Island)という、バンクーバー国際空港のある島です。
 このルル島の南の端がスティーブストンといわれる地域で、カナダ最大の漁業の町になっています。
 スティーブストンに最初にきた日本人の漁師は工野儀兵衛で、1887年(明治20年)のことでした。儀兵衛は和歌山県日高郡三尾村(和歌山市の南方、約40qの海沿いの村)の出身で、スティーブストンにきて、フレーザー河に産卵のために上ってくるサケの大群を見てびっくりしたそうです。儀兵衛が故郷に書き送った手紙を読んで、三尾村から夢を抱いた若者が、続々とスティーブストンに移ってきました。
 三尾村がその頃から『アメリカ村』と呼ばれているのはその理由です。本当は『カナダ村』なのでしょうが、当時カナダは英連邦の一員で独立国ではなかったし、そのころの日本人から見ると、カナダでもアメリカでもきっと大きな違いはなかったのでしょう。
 それから引き続き日本移民が太平洋を渡りました。広島県や滋賀県の人も多かったようです。宮城県からも及川甚三郎が率いる一団、82名が密航を企て、船をチャーターして50日かけて太平洋を渡り、入国に成功しています。
 甚三郎は、宮城県で最初という製糸工場を作った男でしたが、進取の気性に富み、たまたまカナダから帰ってきた近在の男から、スティーブストンのサケ漁の話を聞いて、1896年に単身でスティーブストンに行き、3年間漁師として苦労した結果、家族を呼び寄せて、次第に事業を拡大していきます。
 フレーザー河に浮かぶ「ドン島」を買い取り、そこに魚の加工工場を建てたりして、その島はやがて「及川島」と呼ばれるようになりました。しかしこの成功に留まらないのが甚三郎の並外れたところでした。
 彼は何回か郷里の宮城県に帰り、冷害に悩み、重税に苦しむ疲弊した村を救うために、若者はカナダに行こうと呼びかけたのです。同志を集めた甚三郎は、そのころ厳しくなった移民の制限を逃れるために、密航船を雇いました。この甚三郎の行動とその間の苦心談は、小説『密航船水安丸』(新田次郎著 講談社)に見事に描かれています。

 
◆ カナダの地名

 少し横道にそれて、カナダの地名について考えてみましょう。カナダやアメリカは若い国ですから、先住民の言葉が今も地名として使われているものを除けば、ヨーロッパからきた人たちが新しく名付けたものがほとんどです。
 それも二つあって、自分たちにとって思い出深いとか、なじみのある地名を借りてきたもの、もう一つは、何かつながりのある人名を使ったものです。
 先住民の言葉を取ったものの代表は「カナダ」でしょう。「Kanata 」は五大湖周辺に住んだインディアンのイロコイ族の言葉で、「人が集まるところ」とか「集落」といった意味でした。1535年にフランス人のカルティエが、今のケベックのあたりの先住民の部落に案内されたときに、「ここはどこだ」と聞いたところ、「ここはカナタだ」といった答えを、そこの地名だと思いこんだのが、現在の「カナダ」の始まりだそうです。
 カナダには先住民の言葉を使っている地名が沢山あります。ちょっと注意してみると、英語やフランス語にしてはおかしな単語だなと思うものは、ほとんどがそうです。
 自分たちにゆかりのある言葉を取ったのも至る所にあります。それもヨーロッパから来た人が多かったので、ヨーロッパの地名・人名が使われています。
 BC州の州都は、現在は「ビクトリア」ですが、これはもちろんビクトリア女王(1819〜1901)の名前をいただいたもので、その前の州都はバンクーバーの少し東にあるフレーザー河畔の「ニユー・ウエストミンスター」でした。ロンドンのウエストミンスターは皆さんご承知の通りです。「ニュー・ヨーク」のヨークも、イングランドにある古い町です。
 「バンクーバー」はキャプテン・バンクーバーからですし、フレーザー河も探検家のサイモン・フレーザーからきています。なお、バンクーバーには、BC州立大学(UBC)と並んで同じ州立のサイモン・フレーザー大学(SFU)があります。

 ロッキー国立公園の景勝地「バンフ」は、スコットランドにある小さな町の名前です。これは大陸横断鉄道の建設工事の責任者だったストラース卿の生まれ故郷だそうです。
 「リッチモンド」というのは、1860年ごろに入植したマックロバート一家が、自分たちの家を「リッチモンド」と呼んだのに始まるようです。この一家はオーストラリアからの移住者でしたが、オーストラリア時代に住んでいたのがシドニーの西北西60qにある「リッチモンド」でした。
 もっともリッチモンドは世界中にあって、おそらく第一号はイングランドにあるリッチモンドでしょうが、アメリカ・バージニア州の州都であるリッチモンドは、南北戦争時代、南部同盟の首都として有名です。
 では「スティーブストン」はどこからきたのでしょう。スティーブス一家がカナダ東部から移ってきて、ルル島の南部に300エ−カー(約120万u)の土地を買って農場を始めました。一家は最初の入植者だったので、この地域一帯は、スティーブスの村、「スティーブストン」(Steveston )と呼ばれるようになりました。

 リッチモンドの町のほぼ中央に、大きな「ミノル・パーク」(Minoru Park)があります。町でいちばん古く、小さくてかわいらしい「ミノル・チャペル」も有名です。私が訪れた日には、ちょうど結婚式が始まるところでした。このチャペルは、キリスト教のどの宗派にも属さないもので、誰でも使えます。
 「ミノル」というのはどう見ても日本語らしいので、結婚式の受付をしていた中年の日系婦人に聞いてみましたが、名前の由来は知らないといいます。
 調べてみると、1909年にこの地に1マイルの競馬場がオープンして、7000人の観客が詰めかけたそうです。そのときにキング・エドワードの持ち馬でエプソム・ダービーで優勝した「ミノル」号の名を取ったものだそうです。競馬好きの方はきっとご存知のことなのでしょう。
 面白いのは「ルル島」で、フレーザー河流域が発展するにつれて、河を遡って当時の州都、ニュー・ウエストミンスターまで、定期的に汽船が運航されるようになりました。劇場もできて歌や踊り、芝居なども上演されたそうです。
 あるとき、サンフランシスコからきた、ルル・スイート (Lulu Sweet )という18歳の女優さんが、出演を終えてニュー・ウエストミンスターからビクトリアまで船に乗ったときに、いまのルル島のあたりを通りました。
 「あの島は何というの?」と彼女に聞かれた案内役のエライさんは、「名前なんてまだ無いんだよ。そうだ、きみの名前を付けよう」ということで、この島は「ルル島」と呼ばれるようになり、1863年には正式に海図にも載るようになったそうです。写真で見るルル・スイートはなかなかチャーミングな女性ですから、誰も文句は無かったのでしょう。それにしても、なんともおおらかなというか、カナダ人らしい話です。

 ◆ 不思議な魚 サケ


 魚の分類で、「サケ」はサケ目サケ科(Salmonidae)の10属約70種があるそうですが、分類上は淡水魚で、一生を淡水で送るものと、成長の途中で海に降りるものがあります。サケとマスは明確な区別ができないほどで、同じ兄弟同士ということになります。 北米大陸沿岸はサケの宝庫で、殊にインディアンにとっては貴重な食糧源であっただけでなく、部族の信仰の対象でもありました。部族の歴史や信仰を彫り込んだトーテムポールにもよくサケが出てきます。

 日本でもサケにまつわる昔話は各地に多く、『遠野物語』(柳田国男著)にも遠野(岩手県)の古い家柄といわれた家の先祖は、サケに乗ってやってきたという話があります。それほどサケは北太平洋沿岸の人間の暮らしと深く結びついていたのでしょう。
 フレーザー河のサケは5種類ですが、最も珍重されるものは「サッカイ」(sockeye)で、ベニザケと呼ばれています。「チャム」(chum)は白人の漁師からは「ドッグ・サーモン」と言われて、犬しか食わぬものとして評価されなかったのですが、日本の漁師が半干しで塩蔵したものを日本人相手に売り出してからは、人気が出てきました。「ピンク」(pink)も、色が薄くて身が軟らかいので缶詰には不向きとされていましたが、サッカイが不漁の年などから次第に缶詰用に使われています。
 「コーホー」(coho)は、「シルバー」とも言われますが、缶詰よりは生か冷凍して出荷されるようです。「チヌーク」(chinook)はアメリカ・ワシントン州のコロンビア河流域に住んでいた先住民の種族名で、いまでもワシントン州の俗称は「チヌーク・ステート」です。別名を「キング・サーモン」「スプリング・サーモン」ともいい、大きいものは50ポンド(22s)もあります。釣り愛好家が船を出して追いかけるのも、この「キング・サーモン」です。
 フレーザー河はサーモンの品質と量、そして種類の多さでは世界一でした。種類が違えば成長して産卵のために河を上ってくる時期もずれてきます。このことは漁業にとっては漁期が分散されるので極めて好都合でした。その拠点としてのスティーブストンにはたくさんの缶詰工場(キャナリー、cannery)ができて発展していきました。
 スティーブストンの泣き所はその位置でした。魚という腐敗しやすいものだけに、近くに大きな消費地の存在が必要不可欠です。もちろん最初は生か半干しでしたが、缶詰製造の技術が開発されたのが大きな転機で、1871年には最初のキャナリーが建設されました。
 さらに冷蔵・冷凍技術の進歩もあり、塩蔵や薫製、ピクルス(塩・酢の漬け物)と、加工面でも多様化していきます。スティーブストンはますます活気を帯びていきました。

 ご存知のようにサケは群を作って行動します。河の浅瀬で産卵した親のサケは、そこで一生を終わるのですが、孵化した稚魚はやがて河から海に下っていきます。そして成熟して産卵の季節を迎えると、また元の生まれた河に戻っていきます。
 この期間はサケの種類によって違いますが、3年から7年ということです。そしてこの生まれ故郷の河に戻っていく「遡河性」(anadromous)が、実に不思議な現象なのです。
 どうして元の場所に間違いなく必ず帰っていけるのか。広い太平洋を回遊して、どうやって方角を知るのかは、いろいろと説があります。空の星を見て方角を知るのだとか、体内に地磁気を識別する機能があるのだとかいいますが、サケに聞けないのでよく分かりません。ただ、河に入ってから上流に遡上して、最後には元の小さな支流に入っていくのは、河の水の臭いを識別しているのだというのが、ほぼ定説になっています。それにしても恐ろしい能力です。

 私も、まだ娘たちが小さかった頃、サケの産卵(これをスポーニング、spawning といいます)を見に行きました。シーズンになるとラジオやテレビで、今週末はどの辺がいいと教えてくれます。バンクーバーから2時間も走れば、山奥の深さ50cm 幅1mほどの浅瀬に行って、サケが体が傷だらけになりながらも、最後の力を振りしぼって、ヨタヨタと泳いくるのを見ることができます。
 一組の雌雄が協力して、背びれや尻尾を使って川底に小さなくぼみを作り、そこに産卵をして、今度は産んだ卵の上にまた砂をかけて隠します。やがて務めを果たしたサケたちは死んでしまうのですが、それを狙ってカラスが集まってきて、サケをついばんでいます。「死屍累々」とはこのことかと、感無量でした。種族保存の本能とは偉大なものです。
 この、群を作って遡上するという本能のために、サケはほかの群と交わることなく、出身地ごとの純粋性を保ち続けてきました。小さな河の隣同士でも、サケの種類は全く違うものだそうです。

 バンクーバーの郊外にサケの孵化の研究所があって、市民に公開されています。そこには水族館があり、卵から稚魚、そして成魚へと成長していく姿が見られます。一組のサケの雌雄が生む卵は約3000個で、そのうち数年たって帰ってくるのは5匹で、人間は3匹捕って、2匹をまた元の河に帰す。そうすることによって資源を守っているのだと説明していました。

 ◆
 チープ・レイバー

 1901年の国勢調査ではカナダの全人口は537万人で、BC州は18万人でした。日系人は4738人で、殆どがBC州(主としてバンクーバー島の林業と鉱業、スティーブストンでの漁業)にいたものと考えられます。その同じときにBC州にいた中国人は当然もっと多かったわけです。
 中国人そして日本人のBC州への進出はものすごいもので、ハドソン・ベイ会社が毛皮取引の独占権を与えられて、白人たちがBC州に乗り込んできた200年前には、中国人は全くいなかったのに、ゴールド・ラッシュや大陸横断鉄道の建設に伴って、一部はカリフォルニアから、あるいは東洋から直接、続々とBC州に入ってきました。そして日本人がそれに続きました。
 新しい産業のどの分野でも、発展していく過程では労働力は常に不足しています。安い給料で文句をいわずによく働く人は、事業家から見れば常に大歓迎であったわけです。まして英語も話せない、市民権も持っていないアジアの人たちは、いわゆるチープ・レーバー(cheap labour 、賃金の安い労働・割りの悪い仕事)の担い手として迎えられました。
 一方では,19世紀の終わりから、BC州でも林業、漁業そして鉱業の労働者の組合が結成され始めていましたが、東洋人は白人の組合には入れてもらえずに、雇用者の側からはスト破りとしても使われました。このことがまた白人労働者から見て、団結を乱す許し難い者たちとして敵視されるようにもなりました。

 スティーブストンのサケ漁に関していえば、フレーザー河畔に数十のキャナリーが立ち並び、事業家たちは労働力として白人、インディアン、中国人、日本人を雇っていました。大きく分けて、サケを捕る仕事とサケをキャナリー(缶詰工場)で処理・加工する仕事に分かれます。
 白人は工場での機械の操作・修理と監督業務、それにサケ漁。インディアンは伝統の漁法によるサケ漁で、捕ったサケを工場に売る。中国人はキャナリーでのいろいろな作業。そして日本人はサケ漁と工場内での仕事のすべての面で頭角をあらわしていました。

 キャナリーは、粗末な木造の建物で、河の岸辺に建てられて、床には大きな穴や隙間が開いていました。持ち込まれたサケは、頭や尻尾、内蔵と卵巣が切り離されて、そのまま床下を流れる河に捨てられます。サケの身を切り、缶に詰めて、煮てから缶の蓋をハンダ付けする。それをもう一度煮沸して、ラベルを貼って木箱に並べて出荷する、という手順になります。
 日本人が好むサケの卵巣(イクラや筋子になります)は、当時はすべて捨てられていました。日本人はこれを回収し、塩蔵にして日本に送り、大いにもうけたそうです。卵巣が立派な商品になったのは、日本人の業績のひとつです。
 私たち家族が1970年にバンクーバーに行ったとき、スーパーの魚売り場でおいしそうなイクラを売っていました。感激した妻がやや多めに買おうとしたら、売り子が「そんなに買ってどうするんですか」と聞きます。「もちろん食べるのよ」と答えたら、びっくりしているので、こちらも驚いて聞いてみたら、「それは魚釣りの餌ですよ」といわれて、食文化の違いを実感したことがありました。もちろん今ではスシの具に使って、白人も喜んで食べています。

 サケをナイフでさばく仕事は、女性と中国人の仕事でした。中国人は一般に船に乗って魚を捕ることには不向きであったそうです。それに比べると日本人は漁村から来た人が多かったこともあって、次第にインディアンや中国人の職場を奪っていきました。チープ・レーバーの内部でも、厳しい競争が常にあったわけです。
 サケを捕る漁法は、道具や機械の進歩、魚を捕る場所(海なのか、川の河口か、上流か)にもよりますし、サケの種類や大きさによっても、例えば網の張り方も変わるし、網の目のサイズも違うというように、幾つかあります。
 また、サケの保護を目的として各種の規制も行われました。海水域での流し網禁止とか、淡水での網の禁止、川幅の三分の一以上に及ぶ流し網禁止というように、時代によっても規制は変わりました。
 キャナリーの事業家と労働者の関係もさまざまでした。州政府の発行するサケを捕る許可証(ライセンス)は、当初は白人とインディアンしか持てませんでしたから、経営者たちはサケを捕る船を所有して、漁師を固定給あるいは出来高給で雇ったり、ライセンスと船を持つ白人・インディアンの漁師からサケを一匹いくらと決めておいて買い取るなど、いろいろな形があったようです。 
 インディアンたちは、部族ごとに首長がいて統制されていましたが、中国人と日本人は一般に出身地ごとに小グループを作り、そこには英語も多少できて白人経営者と折衝ごとをする同国人の「ボス」と呼ばれる者がいました。このボスはグループの人の給料から、コミッションを取っていました。
 キャナリーに働く者は、殆どすべてが若い独身者で、隣接する合宿所に居住して、その生活環境(居住性、食事と飲料水、衛生、娯楽など)は極めて劣悪であったといいます。このことは百年前の日本各地の鉱山、農村、漁村の暮らしを考えても、容易に想像できることです。
 州の規則で、サケ漁は原則として土曜日の朝8時から日曜日の夜中の12時までは禁漁になっていました。これはキリスト教の「安息日」ということと、資源保護のためでもありました。重労働から解放された週末は、独身者の集団にとっては、酒とケンカ、バクチと買春ということ以外には何もできなかったのでしょう。その頃は日本式の銭湯や売春宿、中国人の阿片窟もあったそうです。阿片は1908年まで法律上も許されていました。
 世界の景気の変動、ことに1930年代の大不況の影響、第一次大戦(1914〜1918)による好況と不況の波、サケの豊漁と不漁のサイクルによる影響などで、日本人に対する白人の感情や法律上の規制もめまぐるしく変わっています。
 
 1930年代には、日本では徴兵制度を逃れたり、重税の苦しみから日本の農漁村を脱出する人が増えました。しかし、とかく移民というと困窮していた者たちと考えがちですが、必ずしもそうではありません。まず日本から正規の手続きをして移民の許可を取り、渡航費用や手続きの費用、当面の生活費を考えると、通常は百円程度が必要だったそうです。当時の百円は大金で、手金を持たぬ者は、渡航の斡旋人から前借をして、キャナリーで働いて返すという契約も多かったようです。斡旋人はもちろん「ボス」とも結びつき、さらにキャナリーの事業家ともつながっていました。
 日系移民の苦難に満ちた生活については、古老たちの思い出話や、研究者たちの集めた記録が多く残されていますが、私たちの想像を絶するような困難があり、それに対して忍耐強く戦って、一歩一歩、足場を固めていきました。 日系移民の歴史は「悲史」であったと書いている本もあるほどです。

 最初の頃の日本移民は、すべて若い独身者で、稼いだ金を貧しい故郷の親元に送金したり、いずれは錦を飾って日本に帰ることを夢見ていましたから、地元の白人社会とも交流せずに、閉鎖的な独自のカルチャーを維持していました。これは中国人も同じことで、北米の至る所に「チャイナ・タウン」があるのもその現れです。
 日本人が次第に定着するようになって、妻になる女性を呼び寄せる人が多くなりました。なにしろ遠く離れたところですから、簡単に日本に帰るわけにはいきません。そこで考えられたのが「写婚」というもので、お互いに写真を交換して、よしとなったら花嫁が海を渡ることになります。
 写婚は1913年がピークだったそうですが、中には、自分の容貌に自信がないのでニセモノの写真を送ったり、立派な建物の前で借り物の服を着て写真を撮って、これがわが家だとだましたりした悲喜劇もあったそうです。
 いま考えると、相手を見ないで結婚するというのは大冒険ですが、当時の日本の農漁村の生活の極度の貧しさから、なかば絶望的になって外国に出ようと考えた女性、あるいは独身男性ばかりの世界なので「しゅうとめ・義母」がいない、「嫁」に対する「家」の重圧や、大家族の暮らしから逃れるために、写婚の道でもよいとした女性も少なくなかったそうです。しかし、この「写婚」がまた、白人社会から不評を買いました。
 結婚して家を構えれば、精神的にも安定していきますし、子供が生まれ育っていけば、学校や病院、教会、公園などもできていきます。なによりもこの町でずっと暮らすのだという意識が育っていきました。そのことが、白人社会との交流を増し、次第に受け入れらるようになっていきます。
 こうしてスティーブストンの町は、ネイティブ、日本人、中国人、白人(アングロ・カナディアン Anglo-Canadian)が混然と入り交じった多人種・多文化の町となりました。中国や日本の仏教会も建ち、日本人の相撲場や剣道・柔道場もできました。

 
◆ 戦争が破壊した暮らし

 日本人が苦労して築き上げてきたスティーブストンの暮らしを、一挙に破壊する大事件が起きました。第二次世界大戦の勃発です。
 ヨーロッパで戦争が始まってから、日本はドイツ・イタリアと同盟を結んでいたので、日本人に対する風当たりは次第に強くなっていたのです。ことに西海岸では日系人の進出によって職場を失ったり、商売上の競争に負ける人も多くなりました。その人たちの不満・反感を巧みにすくい上げて、政治的に利用する人たちもいました。すでに1907年にはアジア人に強い反感を持つ人々が激しいアジ演説に煽られて、バンクーバーの下町にあるチャイナ・タウンと日本人街を襲って商店を破壊するという事件(いわゆるバンクーバー暴動)が起きています。
 真珠湾攻撃(1941年12月)に続く日本軍の勢いに、太平洋岸の市民の反日感情はますます激しくなりました。いろいろなうわさも流れました。日本人はいつもカメラを持ち歩いて写真を撮り、スパイ活動をしているとか、ハム無線で本国に情報を流しているらしい、日本の軍艦がバンクーバー沖合いにきているようだとか、労働組合の中に入ってストライキやサボタージュを煽動しているなどです。こういったうわさ話は、すぐに本当のこととされて広がっていきます。

 第二次大戦中に広いカナダの領土が日本の攻撃を受けたのは、私の知る限り二つです。
 一つは風船爆弾で、大きな風船に軽いガスを入れてふくらませ、下には発火剤をつるして太平洋を西風に乗せて飛ばし、北米の森林地帯に落下したら発火して山火事を起こすという、いま思うとたあいないものですが、そのころは大量に打ち上げられたものでした。いくつかは首尾よくアメリカまで到達したのですが、あまり効果はなかったようです。その内の何個かがBC州にも落下しました。
 もう一つは、日本の潜水艦が夜陰に紛れてバンクーバー島の西海岸に接近し、浮上して数発の大砲を打ち込んだことです。これは1942年6月20日のことでした。
 カナダ政府は、強い反日の世論に抗しがたく、遂にBC州の全日系人を海岸線から100マイル(160q)以遠に隔離することとしました。その数は22,000人で、うち17,000人はカナダ市民権を持った人たちであったそうです。彼らは廃山となった鉱山の建物に収容されたり、砂糖大根の畑の仕事や道路工事に従事させられたりしました。
 すべての資産は押収されて、政府によって強制処分されました。日系人は長年かかって築いたものすべてを、文字通り一瞬にして失ったわけです。スティーブストンで押収・処分された日系人の漁船は1337隻に上ったそうですから、いかに日系漁民が多かったかが分かります。

 
◆ 平和が戻って……

 戦争が終わり平和が戻りました。日系人は戦時中の不当な仕打ちに対して組織を作って抗議を続けました。ヨーロッパでは、ユダヤ人を迫害しているナチス・ドイツに対して、平和と人権を守るために連合国の一員として戦ったカナダが、国内ではカナダ市民である日系人を、人種的偏見によって不当に差別したというのは、弁解の余地のない不当な行為でした。
 長期にわたった補償要求(リドレス、redress)運動が1988年にやっと実を結び、カナダ政府を代表してマルルーニ首相が、カナダ議会で日系人に対して公式に謝罪し、補償が行われました。
 このことは、日系人だけでなく、カナダと日本の両国の今後の友好関係を築くためにも重要な出来事でした。
 この間、スティーブストンには日系人の三分の一が戻ってきました。州や連邦の選挙権も与えられ、公務員や警察官、薬剤師などのそれまで日系人には制限されていた職業にも自由に就労できるようになりました。スティーブストンと和歌山市が姉妹都市の友好関係を持ったのは1972年のことです。

 
◆ では、今のスティーブストンはどうなっているでしょうか。

 私は4月(1998年)に、25年ぶりにリッチモンド市を訪れました。びっくりしたのは住宅の増加による町のにぎわいです。バンクーバー国際空港があり、バンクーバーに通う人たちのベッドタウンとして、急成長していました。大きなショッピング街がいくつもできて、日本料理店も数多く店を構え、「ヤオハン」の店もあります。公園や学校、図書館や病院なども充実しています。日系人のための文化センターもあるし、武道館(剣道と柔道)も新しく建設されました。
 太平洋戦争直前の1941年には、BC州の人口は82万人で日系人は23,140人でしたが10年たった1951年には、BC州の人口は116万人で、日系人は21,653人と減少しています。このことは戦時中に内陸や東部に強制移住させられた人たちが、戦後もBC州に戻らずに、その地に留まったことを示しています。
 市の南端のスティーブストンは、昔の面影を残しています。日系人の漁師も依然としてたくさん働いているし、農業や商店を続けている人もいます。
 人気のあるのは漁港で、朝早く漁から帰った船が桟橋にずらりと並んで、市民に直接売っています。サケ、ヒラメ、オヒョウ、エビ、車エビ、カニが主体ですが、たいへんな人気で、桟橋付近はレストランや土産物店が並んでいて寿司屋さんもあります。今やちょっとした観光地になっています。
 毎年7月には「サーモン・フェステイバル」が行われて、パレードや日本文化の紹介などもあります。これはもう52年間も続いているお祭りです。
 「二階堂ギフト」という店をのぞいてみましたが、中年の日本婦人が店番をしていて、折り目正しい美しい日本語を話していました。
 いまも大きなキャナリーが操業していますが、1890年代にはBC州で最大のキャナリー(Gulf of Georgia Cannery )で「モンスター」と呼ばれていたものと、日系人の船大工がたくさんの漁船を作った造船所(Britania Heritage Shipyard )は、文化財として指定されて保存され、一般に公開されてガイドつきの見学ツアーもあります。

 たまたま私が造船所を訪れたときに、どこかのテレビ局の企画で日系人の歴史を追いかけたドキュメンタリーを作っていました。数十人の日系人が和服や洋服を着て行列を作って歩いています。きっと何かのお祝い事があって、親戚や友人が集まってどこかに行くという状況設定だったのでしょう。
 スティーブストン博物館という、昔は銀行で今は半分は郵便局になっている小さな建物に行ってみました。戦前の日系人の暮らしを物語る品物、たとえばソロバンや酒のトックリ(徳利)、薬瓶、それに古い写真などが飾ってあります。 
 郵便局の人に「日本人の住んでいる家が近くにありますか」と聞いてみたら、「沢山あるけれども、あそこのコーヒー・ショップに行けば、日本の漁師さんがいつもいますよ」というので、早速のぞいてみました。
 『ネット・シェッド』(魚網小屋)という名の30人ほど入る店でしたが、驚いたことに客のほとんどが日系人の漁師たちで、夜通しの仕事を終えてコーヒーを飲んではパイを食べ、仲間たちと大声で話し合っています。話しているのは日本語と英語が入り交じっていました。赤銅色の顔はとても元気そうでしたが、年齢的には若い人が見られず、一世と二世の時代から、都市型の職業を好む若い三世と四世の時代に移りつつあるようでした。
 スティーブストンは河の運ぶ土砂で自然に埋め立てられたところですから、真っ平らです。雪解けの頃の洪水や高潮に備えて、堤防を作って町を取り囲んでいます。電動ポンプなどの無かった時代には、水との戦いが大仕事だったそうで、農地が塩水で覆われて農作物が全滅したことも何度もあったそうです。

 ◆ チンジマリ

 既に1962年に、鶴見和子さんがスティーブストンを訪れ、日本移民について調査をして『ステブストン物語 ―世界の中の日本人―』という立派な本を出しておられます。その中に「チンジマリ考」という項目があります。
 鶴見さんが、スティーブストンの日系人の古老たちに昔話をしてもらうと、よく「チンジマリ」という言葉が出てきました。
 たとえば、もし戦争が終わったら、日本に帰るかどうかを警察に調べられたときには、日本に帰るとサインした人が、「……ところが日本は戦争に負けてしもうたので、戦後はまた、帰らんとサインしなおした。チンジマリよ。こっちが虫がいいのに、それでもこの国(カナダ)はちっともかまわん。この国は強制しない、自由だ、…」という具合です。(同書117頁)
 「チンジマリ」は二つの選択肢があるときに、これまでの状況が変わってしまい、自分が方針の変更を余儀なくされるときに使われた言葉のようです。よく聞いてみると、それは「change one's mind 」の日本英語で「心変わりをした」というときに使われるそうです。
 戦争という苦しい状況の中で、本国政府からは見放されて孤立し、新しい情況に対応しなければならなかった日系人の苦しみが、この「チンジマリ」という言葉を生んだのでしょうか。
 最初の移民たちは、当然のことながら帰国願望が強かったわけですが、つらい苦労を乗り越えて次第に生活が軌道に乗ってくると、この地で安定した生活を続けようという定着型になっていきます。100年という年月と先人の苦労と努力が、今日の日系人の地位を築いてきたのでしょう。
      
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 スティーブストンはバンクーバー空港からは車で20分の距離ですし、近代的に整備された町並みと、戦前からのものがきちんと残っている漁村が併存して、見るもの食べるものも変化に富んでいます。かって日系人が汗を流して築き上げたものが、一瞬にして奪われ、また再建した町なのです。
 フレーザー河の岸辺の店でコーヒーを飲んでいるときに、私は昔、サケの専門家で、日米加の「太平洋サケ委員会」の委員をしていた方に言われたことを思い出しました。
 「南さん、よく人間が白人だとか、黒人だとか、区別するようなことを言うでしょう。でもね、この河のサケと少し離れた河のサケとでは、人間の皮膚の色の違いなんて比べものにならないほど違うんですよ。サケに比べたら、どんなに人種が違うと言ったって、生物学からみれば、みんな同じ河の生まれみたいなものなんですよ。でも、サケと違って、人間はいつもケンカばかりしていますね」。

 私は25年ぶりにスティーブストンに来て、この町をモザイクのようにいろどり豊かに暮らしている、いろいろな国から来た人々が、再び対立して憎み合い争うことの無いように祈りつつ、帰路につきました。
         
                               (1998年6月)
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   日本鉱業協会機関誌『鉱山』1998年7月号と8月号に掲載された。
    
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 『日系カナダ移民の社会史  太平洋を渡った近江商人の末裔たち』 について。
    末永国紀 著  ミネルヴァ書房 2010年2月刊 
 
  この本が出版されたと知り、さっそく読みました。
  著者は、同志社大学の先生で、近江商人の歴史に詳しく、ブリティシュコロンビア州立大学(UBC)に留学経験のある方だそうです。  
  内容は5章で、同志社大学『経済学論叢』に寄せられた論文が元になっています。

  第1章 第一次大戦期の日系カナダ人社会
  第2章 絹布商事会社「シルコライナー」の創業と経営
  第3章 ヴァンクーヴァーの日系カナダ人社会
  第4章 太平洋戦争時の日系二世の苦闘
  第5章 戦後の再定住と金融機関の役割

  というテーマで、それぞれが具体的な事例を取り上げて分析しています。
  どれも。一次資料を発見・解明して、聞き取り調査もされています。
  この本の成り立った性格上、全体を通しての論考はありませんが、どの話も参考になり、私も知らなかったことを教えていただきました。
  カナダ西部の日系人の歴史に興味のある方には、よい参考になると思います。

                            2010年12月

   
参考文献:(主要なもの)
1. SAMONOPOLIS,  The Steveston Story.   Duncan & Susan Stacey
2. Richmond, Child of the Fraser.   Leslie J.Ross
3. Steveston    Historical & Visitors Guide
4. 密航船水安丸   新田次郎   講談社
5. ステブストン物語  鶴見和子  中央公論社
6. カナダ移民排斥史 新保満        未来社
7. 海を渡った日本の村 蒲生正男編   中央公論社
8. 石をもて追わるるごとく 新保満    お茶の水書房
                                                                  以上