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原文は日本経済新聞2004年6月25日文化欄 「対馬丸語り継ぐ悲劇」に掲載されたものです(原文のまま)。掲載に当たり著者 高良 政勝 様と日経新聞社から許諾を(2004年6月29日)を頂いてますが、このホームページからの転載は許可されておりません。

「対馬丸語り継ぐ悲劇」 

撃沈された疎開船の生き残り、記念館開館へ

著者 高良 政勝

太平洋戦争中に起こった「対馬丸」の惨事を知る人は少ないだろう。
沖縄から本土へ疎開する学童や一般県民ら千六百六十一人を乗せた疎開船対馬丸が鹿児の南約二百六十五キロの沖合で米潜水艦に撃沈され、約千五百人が犠牲になった。
○沖縄の疎開児童ら犠牲
当時四歳で船に乗っていた私が、遺族らでつくる対馬丸記念会会長の任を負って二年。次代を担う若者に平和の尊さを訴えようと、記念館開館にこぎ着けた。
対馬丸が撃沈されたのは一九四四年八月二十二日午後十時過ぎ。那覇港を前日夕に出航した船は奄美大島と屋久島のほぼ中間の悪石島付近を航行中に米潜水艦から魚雷三発を受け、十一分で沈没した。全長約百三十層の船は護衛艦二隻や他の疎開のための搬送船二隻と船団を組んでいたが、老朽船で速度も遅く敵の標的になった。
乗船者は本土疎開に参加した学童らと一般県民。生存者は一割ほどで、六〜十五歳の学童は八百二十人余のうち七百七十五人が亡くなった。
○家族九人を失う
当時、沖縄近海では米水艦によって民間船舶が沈められていた。それでも船を出したのは、沖縄の島々に戦火が及ぶことは必至と考えられたからだ。日本軍は四四年七月七日のサイパン陥落とともに米軍を沖縄で迎え撃つ作戦を急いだ。軍の要請を受けた政府は沖縄県に、老人や婦女子を外に移すよう指示。本土に八万人、台湾に二万人を移した後に日本兵十万人の配備を考えていた。
私は幸運にも助かったが、父母や兄弟ら家族九人を惨事で失った。県の疎開船乗船者募集に父が応じ、鹿児島の学校に進んでいた長兄を除く一家十一人で渡航を図った。危険は父も承知していただろう。それでも子供の将来を案じ、那覇で営んでいた牛乳の製造販売を廃業。牛を売却して本土で再出発を図ろうとしたのだった。
船上でのことを私はほとんど覚えていない。甲板の下の暗い船室で遊び回っていた記憶がかすかにある程度だ。気がつくと洋上で樽のようなものにつかまっていた。救い出されて鹿児島で長兄と先に救助された姉と再会したのは事件発生から三日後の二十五日だった。全身の皮がむけ、背中に深い傷を負っていた。
当時、事件の報道は抑制され、戦後もあまり顧みられることはなかった。我々は大分県で終戦を迎え、翌年沖縄へ戻った。私は歯科医になり、毎年の慰霊祭には出たが、兄や姉は事件について話したがらず、詳しく聞くこともなかった。
○船体発見も回収不可能
そこに事件を見つめ直すニュースが飛び込んできた。九七年十二月、船体が水深八百七十bの海底にあると分かつたのだ。「やっぱり沈められていたんだ」と惨事の重みをあらためて感じた。船の引き揚げを求める声がわき上がった。国は船体の腐食や水深の深さを理由に不可能との見解を示した。その後浮上したのは記念館構想だ。用地は那覇市が提供、建設費は国の補助金でまかなうが運営は記念会の負担となるため遺族らからは消極的な声も出た。
そんな状況で、私は対馬丸記念会の会長に選出された。船体発見の折に、犠牲者への思いを「水に流せない過去」と題して県の歯科医師会の会誌に投稿。それが会の先輩幹部の目に触れたのだ。
記念館は船が出た那覇港を臨む旭ケ丘公園内に今年五月に完成。撃沈からちょうど六十年目の八月二十二日にオープンする。鉄筋コンクリーと造り二階建てで、延べ床面積約七百七十平方b。館の高さは対馬丸の甲板までの高さと同じ八・五b、二階に大きな吹き抜けを造って船内の雰囲気を出そうとした。
慰霊や遺品の展示だけではなく、生存者を中心とした語り部の活動も展開する。犠牲となった学童らと同年代の入館者に、罪のない人々の生命を奪う戦争の理不尽さを感じてもらいたいと思っている。
開館後は館運営を入館料や友の会会費、寄付金で切り盛りしなくてはならない。そんな中で会長になるのは火中の栗を拾うようなものという声もあったが断らなかった。
遺族らは高齢化で後世に語り継ぐ活動が十分にできないようになっているが、私はまだ六十代前半だ。沈没間際に誰かに助けられた命。ここで知らんぷりをしたらきっと後悔する、と思った。前途は多難だが、こうした惨事が起きるような世の中にはするまいとの思いが私を突き動かしている。(たから・まさかつ=対馬丸記念会会長)

「日本経済新聞」 大阪版では平成十六年六月二十五日掲載分から転載

この記事の掲載に当たり ご著者 高良政勝 様から「世界の平和を願うものとして、少しでも多くの人に対馬丸のことを知っていただけたらと思います」(ご主旨のみ抜粋)とのメッセージを頂いております。掲載ご許可ありがとうございました。

戦争でお亡くなりになられた数多くの皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

対馬丸記念館

 

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