『週刊金曜日』 2000年9月22日(No.332)号より

風速計    本多勝一

言論テロが招いた報道の危機


 最近重大視されはじめた問題に「犯罪被害者」がある。関連する報告『犯罪被害者支援』(径(こみち)書房)を書いた新 恵里氏(あたらし えり)のことが、『朝日新聞』(9月9日朝刊)の「天声人語」に紹介されていた。
 それによると、日本の被害者が放置され、孤立しているのに対し、アメリカ合州国の支援センターは一貫して被害者側に立ち、加害者寄りの姿勢は一切とらない。加害者と和解などできぬのは当然という考えを基本にしているのだ。
 このことは、とりわけ日本で、報道被害者についても言える重大問題ではないのか。今の多くの週刊誌やワイドショー的テレビ、
あるいは『噂の眞相』的月刊誌などは、正当な批判とは程遠く、もはや「加害報道」というより「言論テロ」である。言論テロは、しばしば暴力テロ以上に被害者への大打撃となり、ひどい人権侵害で自殺に追いこまれる例も珍しくない。
 こういうゴロツキ=メディアの類が、いま体制側に報道規制・言論介入・検閲復活の格好の口実を与えようとしている。すでにご存じの読者も多いであろうが、日本弁護士連合会が岐阜市で来月はじめ開催する人権擁護大会で、政府から独立した人権機関を提案し、報道機関に対しても強制調査権を与えようとしているのだ(『東京新聞』8月16日・『朝日新聞』9月13日など)。独立といっても、内閣が任命するのでは今の最高裁判事と同じこと、体制側の追認機関になるだけのことである。
「報道の自由」とは、本来体制への監視や権力の堕落阻止のためのものである。弱者や私人やプライバシーに対するものではないはずだ。後者に対して報道や取材の自由を言うなら、それは「名誉毀損の自由」「人権侵害の自由」にほかならぬ。しかしゴロツキ=メディアは、むしろ後者に対して無茶苦茶な”自由”を発揮してきた。これが、正当な「報道の自由」を束縛する現在の危機を招くに到ったのだ。
 ん? 裁判があるって? 嗤(わら)わせないでくれ。日本の裁判など、私も含めて体験者は知っているだろう。言論テロの加害メディアなど、敗訴したところで会社のハシタ金ですむ。書きまくって「もうけるが勝ち」なのだ。被害者個人はカネと時間と手間を損するだけ。やるだけ損ですよ、日本の裁判などは。
 たとえば名誉毀損の場合、そんなことが行なわれぬ良識が定着した社会(フランスや北欧などヨーロッパ型)と、メディアヘの損害賠償を致命的高額にして再起不能に近い打撃を与える社会(合州国型)があるが、「大後進国」日本ではヨーロッパ型など夢のまた夢、合州国型さえおぼつかない。
 どうするか。もはや「正当防衛」としての「目には目を」、加害メディアの当事者に対して全く同じ名誉毀損の手段で復讐するしかあるまい。それによって日本に混乱を起こせば改革が進むだろう。ひどいカメラに対しても、逆の側からそいつの顔を写して発表することだ。
 その 「場」 がないって? 本誌があるではないか。だめなら別のメディアを創るしかないだろう。


(Webサイト作成者より)
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