『週刊金曜日』 2000年3月17日(No.307)号より

貧困なる精神(112)    本多勝一

韓国と私


 韓国に、読者を株主とするユニークな日刊紙 『ハンギョレ新聞』 があることは、本誌読者の中にもご存じの方がおられると思います。
 今年の正月、その 『ハンギョレ新聞』 から毎月一回・半年間にわたってコラムを執筆するよう依頼があり、喜んでおひきうけしました。
 一月下旬の紙面用には、序文的な意味で 「韓国と私」 と題する随筆を書きました。もちろんこれは韓国語に訳されて掲載されるものの、本誌の随筆としても不自然な内容ではないので、以下に日本語の原文を発表いたします。

韓国人留学生の岳友

 今年(2000年1月)は最初ですから、韓国と私との関係について書きたいと思います。
 韓国人と初めて親しい友人ができたのは、1952年の5月3日です。私は郷里の信州で高校生のころから登山をしていました。大学生時代のこの日、高校以来の山仲間の一人S君と富士山に登ったとき、彼が 「梁」 という姓の韓国人留学生をつれてきて紹介してくれたのです。かれらは東京農大の山岳部員でした。それ以来、梁氏とはS君の下宿で共に焼酎を飲んで騒いだりして親しくなりましたが、梁氏が帰国してからは連絡がとれなくなりました(注1)。梁氏は実にいい声で歌ったものです。
思えばこのころはまだ朝鮮戦争の休戦前ですから、韓国は世界の東西対立の熱い焦点として想像を絶する苦難の中にあったわけですが、米軍占領下の日本では報道管制のためその詳細を知ることができませんでした。

韓国猛虎師団への従軍記者として

 その後の私にとって忘れることのできぬ韓国とのかかわりは、1967年のベトナムにおける韓国猛虎師団への従軍です。私はベトナム戦争を長期間にわたって報道してきました。従軍はアメリカ軍にもベトナム軍(当時の南ベトナム解放民族戦線)にもしましたが、猛虎師団への従軍にも印象深いものがあります。
 これは韓国にとって 「有史以来」 初の海外派兵ではないでしょうか。このときの最前線従軍記は 『朝日新聞』 に発表されましたが、もっとくわしくは単行本の中の一章(注2)としてまとめられています。このときインタビューした師団長・柳炳腎少将や韓国人ジャーナリスト崔仁集氏などの言葉も紹介しましたが、これらの人々の当時の言葉は、いま読んでも古くなっていないようです。

金大中誘拐事件直前の金氏との対談

 そして、それから六年後の1973年3月22日、私は東京・九段にあるホテル・グランドパレスで、現在の韓国大統領・金大中氏と対談をしました。この年が金大中先生にとってどんな年だったかは、韓国の皆さんもよくご存じのとおりです。金氏は私との対談のあとアメリカへ行き、帰ってきてまたホテル・グランドパレスに泊まっていた8月8日、あの誘拐・拉致事件となったのでした。このときの対談 「民族の真の独立のために」 は、当時の月刊誌 『現代の眼』 1973年7月号に発表されています。
 以上のようなことがあったものの、私は韓国そのものを訪ねたことは一度もありませんでした。実は猛師団に従軍のあと、韓国(大韓民国)にも朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)にも強い関心を抱いたので、ベトナム戦争の取材・執筆がすんだあと 「つぎは朝鮮半島のルポを」 と、当時の編集局長に提案したのですが、これは許可にはならず、そのかわりアメリカ合州国の黒人問題のルポを書くことに変更されました(注3)。

最初の韓国訪問

 初めて韓国を訪ねたのは、もう朝日新聞社での定年退職もせまった1989年の4月26日です。これは韓国そのものを取材する目的ではなく、珍鳥キタタキを観察するためでした。私は日本自然保護協会の評議員で、野鳥にも関心があるため、世界最大級のこのキツツキを観察に韓国へ行くという協会の友人にさそわれて、三日間だけ訪ねたのです。ソウルから五〇キロほど北北東にある国有林(中部林業試験場の山林)へ行き、山麓のクナクセ旅館(キタタキ旅館)に泊まって山の中をさぐりましたが、残念ながらこの天然記念物の珍鳥は姿を見せませんでした。

『ハンギョレ新聞』 の取材へ

 その三年後の1992年5月27日、こんどは取材のために韓国を訪ねることになります。私は前年の暮れに朝日新聞社を定年退職したため、この取材は新聞記事を書くためではありません。目的は、まさにこのハンギョレ新聞社そのものにありました。なぜか。それは、 『ハンギョレ新聞』 のような、読者が株主になっての本当の独立したジャーナリズムたる日刊紙を、日本でも創刊したかったからです。
 日本のマスコミは、もはや内部からの改革など期待できないところまで堕落したと思っています。民放テレビはスポンサーだけで経営していますから、本質的な体制批判や大企業批判など不可能ですし、スポンサーのないNHKも政府の管理下にあって、あの天皇礼賛歌たる 『君が代』 を何十年間も毎晩放送しつづけ、去年の国旗・国歌法制化に貢献しました。
 大量の広告に依存する主要な新聞も、もはや日本の反動化を阻止する真のジャーナリズムの役割をはたさず、憲法改悪によって戦後の平和路線を放棄しつつある現況に対しても影響力を行使しなくなりました。日本はアジア諸国からますます疑いの目を向けられるようになり、孤立してゆくことでしょう。ジャーナリストとしてはもはや新しいメディアを創るしかないと、いささか焦燥感を抱いていたときに、 『ハンギョレ新聞』 のことを知ったわけです。
 取材は二日たらずでしたが、当時の金命傑社長や李仁哲論説委員をはじめ、現場の方々から多くを学びました。しかし日本での実践開始の前に、改めてもう一度取材したいと思っています。

韓国と 「日本の現在」

 韓国と日本との関係は、ヨーロッパでいえばドイツとポーランドのそれに似ているのではないでしょうか。ドイツはポーランドを侵略し、敗戦までご存じのようなひどいことをやっていました。その点は韓国に対する日本と共通でしょう。しかり全く異なるのは、戦後の両国です。現在に到るまでにドイツがポーランドに対してやってきたことと、日本が韓国にやってきたこととは、もはや”天地の差”でしょう。歴史教科書の作り方ひとつをとっても、ドイツはポーランド側と協力しながら、共通の認識を求めて努力していますが、日本はそれどころか、最近はむしろこれまでの以上に改悪させようとする勢力が跋扈(ばっこ)しつつあります。
 このようにナサケない 「日本の現在」 から、韓国の新聞に何ほどかの情況を、これから半年間お伝えいたしましょう。


<注1> 梁氏と登った富士山などについては、本多勝一 『旅立ちの記』 (朝日新聞社)第10章に記録がある。
<注2> 韓国軍猛虎師団の詳細な従軍記は、朝日文庫版の 『戦場の村』 ではなく、本多勝一著作集の第10巻 『戦場の村』 に 「第七部」 として収録されている。
<注3> このルポは 『アメリカ合州国』 として朝日文庫があるが、著作集版の第12巻では合州国関係の他の評論等も収録されている。


(Webサイト作成者より)
※本文のHTML化にあたって、日付の表記を算用数字にするなど、若干の変更を加えております。

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