『週刊金曜日』 2001年1月19日(No.347)号より

貧困なる精神(128)    本多勝一

小林よしのり君に捧げる章


 今週号で特集されている女性国際戦犯法廷は、これまでに日本が主催した国際的行事の中で、久しぶりに真に歴史的意義のある、かつ世界的にも大きな反響を及ぼした大会議であった。(これに比べたら、たとえば去年の「沖縄サミット」など、日本が馬鹿にされる材料をまたふやしただけの、最低首相による最低行事にすぎまい。)この国際法廷の実現に、主催者やその協力者たちがどれほど大変だったか察するに余りあるが、今後の国際社会に長きにわたって波及しつづけるであろう成果ははかりしれず、その労苦もむくわれたにちがいない。
 ついでなから、この歴史的大法廷のことを、『読売新聞』は完全に無視し、一行たりとも報じなかったらしい。(「らしい」というのは、この間の同紙をくまなく読んだわけではないからだが、松井やより氏もそう語っている。)これが世界最大の発行部数だというのだから、日本人の哀しさと低民度の象徴のような新聞である。
 この法廷が開催中の12月10日午後、法廷と趣旨を同じくするシンポジウム「ノーモア南京2000年東京集会」(星陵会館ホール)に私は出席していた。法廷で証言した中国人女性・楊明貞氏は、あの南京大虐殺当時の被害者なので、こちらにも来てくれて、証言者の一人となったのであった。
 楊明貞氏は、幼児強かんの被害者である。語るにつれて激しく泣き出し、通訳の女性に抱きかかえられるようにして舞台を降りていった。こういう証言のつらさは、被害者でなければ決して理解できぬであろう。人間性も人格もすべて破壊された、これ以上はない最大の屈辱。多くの被害者が、いっそ殺してくれ、と思ったり叫んだりするのは、苦痛以上にこの屈辱に耐えがたいからなのだ。
 だから楊明貞氏は、これまで仮名を使って語ってきた。今回ついに実名で語るにいたったのは、日本政府が責任をとろうとしない姿勢がつづくままに、死ぬ前に自分の体験を自分の声で直接伝えておきたいと決意し、また今回の国際法延での多数の証言者たちの勇気に支えられた結果でもあった。以下はその証言である。
   *
 私はそのとき数え八歳でした。
1937年12月13日の朝、南京市に乱入してきた日本兵の一部が私の家に侵入すると、いきなり発砲してお婆さんを殺し、父も左手を撃たれました。母に「タバコとマッチをくれ」と言い、母が「どうぞ」と応じたのに、日本兵は母も蹴飛ばして怪我をさせました。負傷した父が逃げ出そうとしていると、午後二時ごろまた別の日本兵が来て、母がかくしておいた現金とネックレスを奪っていきました。
 あくる14日、父母と私は安全区へ逃げようと、午後二時ごろ外へ出たところへ、また日本兵が現れて、家の中へ連れもどされました。そこで幼女の私を強かんしようとした日本兵が、私のズボンをぬがせようとしたのです。驚いた父親が私をかばってさえぎろうとすると、日本兵はなぐり倒し、負傷していた父親は倒れたまま動けなくなりました。
 さらに15日。ひん死の父は寝台にいて、やはり怪我をしていた母も寝ていました。そこへまた現れた日本兵は、寝台の父親の口を軍刀でこじあけたり、目を傷つけたりして、生きているかどうか調べました。母親は顔に墨(すみ)をぬりたくっていたけれど、東洋鬼(日本兵)はその顔をなぐりつけ、強かんし、さらに局部に刀をつきさしたのです。
 そして、(別の日本兵に?)私も強かんされました。私はまだ幼女なので、局部がもちろん小さくて硬いため、指をねじこんで強引にこじあけて強かんしたのです。私は激痛のため歩けなくなりました。
 父は数日後に死に、母もその後を追ったので、私は孤児になりました。私の面倒をみると言ってくれていた婦人も、安全区から戻ってきた彼女の娘とともに三人の兵から輪かんされました。日本兵は、幼女であれ老女であれ、女とあれば強かんしていました。
 年があけて(1938年)、11歳の少女が強かんされた上、局所に銃剣がさし込まれたところを見ました。私もまた強かんされるところでしたが、局部がはれ上がって異常なので、東洋鬼はあきらめたようです。(楊氏の語りは、もはや声涙ともにくだってよく聞き取れない。通訳の中国人女性も楊氏に何回も聞き直さなければならない上に、日本語がまだ不完全でわかりにくい。)
 それからの私は、乞食をつづけながら南京の路上で生きてきました。主な食べ物は市場の残飯などです。日本兵の軍用犬に噛まれたこともあります。下半身の痛みはのちのちまでつづきました。今でもオシメを当てなければならない生活が後遺症として続いています。小便の調節機能がこわされたからです。
 そんな乞食生活が、12歳になるまでつづいたころ、のちに夫になる15歳年長の男性に出会ったのでした。
  *
 楊明貞氏の被害体験はこのようなものであった。これは楊氏が一方的に語った不完全なままなので、私の通常の「聞き書き」による方法の結果ではない。したがって、細部は不明だし、前後関係で分かりにくいところも多い。私の通常の聞き書きであれば、当人が語った時間の10倍以上をかけて、風景として再現できるまで問いただして完成するけれど(注1)、今回はそれだけの時間を改めてとってもらう余裕が、楊氏の滞在日程上とれなかった。
 しかし、仮に時間がとれたとしても、この種の問題だと「詳細な」質問によって「風景」を再現することが、私にはむずかしい。前述のように、全人格を破壊されたような想像を絶する屈辱行為を、根ほり菜ほり再現することになるからである。これが当人にとってどんなにつらいことか、たとえば私のルポ『南京大虐殺』(朝日新聞社=注2)でも、強かん以外のところについては質問に詳細に答えた婦人が、自分が強かんされた体験についてはつぎのような方法で伝えた(同書19〜20ページから)。

 こんどの取材旅行で予想以上におおかったのは、日本兵による強姦の体験者たちであった。しかし、これは中国の女性にかぎらぬことであろうが、いかに昔のこととはいえ、強姦された当人がそのときの屈辱の状況を詳細にかたることはまれである。相手が男性であり、しかも、当の日本兵たちの国からきた記者とあれば、それはなおさらのことだ。したがっておおくは公社幹部など第三者をつうじてかたるのだった。
 ここに紹介する72歳の女性の場合は、46年前にうけた日本兵の暴行の体験をみずからかたったが、核心の強姦そのものの部分だけは、私にではなくて公社副主任にかたり、あとで彼が私につたえた。実名をださないようにと依頼されたわけではないが、ここでは仮名としておきたい。

 日本軍が上陸してきたとき、劉美齢さん(仮名)は26歳であった。やはり26歳だった農民の夫とのあいだに、6歳の長男以下三人の子があり、金山衛城外の家には老いた母親も同居していた。
 三人の日本兵があらわれたのは、上陸二日後にあたる11月7日の午後である。六人は炊事場の竈(かまど)のかげにかくれた。壁とのあいだに隙間(すきま)があり、ふつうは薪(たきぎ)などをおいてある。三人はしかしすぐに一家をみつけた。夫はただちにそとへ連行され、射殺された。一番下の八カ月の子を抱く劉美齢さんを、日本兵は銃床でなぐりたおした。劉さんは耳から出血して気絶した。
 このときのけがで、以後三年間にわたって劉さんはベッドからおきることができず、横になったままだった。母親は乞食をして食物をはこんだ。
 日本敗戦の直前、十四、五歳になっていた長男が、あるとき日本兵に徴発されて材木運びをさせられた。ちかくの大廟(前述の方明謙の廟)の一部をこわして薪にするための作業だったという。作業中、長男は材木の下敷きになって死んだ。

 劉美鈴さんが直接私にかたったのは以上である。しかしほかの体験者のはなしを私がきいているあいだに、彼女は部屋のかたすみで公社副主任になにかをかたりながら、ながれる涙をぬぐっていた。彼女のかえったあと、副主任はつぎのようにかたった。
 「これは劉美齢さんがあとでつたえてくださいと言ったことですが、あのとき銃床でなぐられたあと、劉さんは三人の日本兵にかわるがわる強姦されたのです。しかもそれから当分のあいだ自宅で監禁状態にされて、日本兵が毎日のように三、四人ずつきては強姦したので、何十人ともしれないちがった兵隊たちに連日の屈辱をうけつづけたのでした。」

 自分が強かんされた体験を、侵略者の国から来た記者、それも男の記者に語るのは屈辱の上ぬりのような気さえするだろう。せめて女性の理解者(西野瑠美子氏などのような)に語るほうが、まだ気やすめていどには ましであろう。
 こうした取材体験を重ねてきた者の一人として、楊明貞氏らのように、自らの屈辱を公然の場で証言することがどんなにつらく、かつ勇気を要することか、心情を察するに余りある。
 だから楊氏は、自分が強かんされた事実を夫にも子どもにも言えなかった。もう70歳近くなり、死ぬ前にどこかに訴えたいと思っていたとき(4年前の1997年)、南京のテレビで大虐殺の被害体験を聞きとるニュースを見た。それで話す気になって「南京大虐殺記念館」に出かけたのだが、対応した館員に強かんのことはどうしても言えず、父母が殺されたことだけ伝えた。入口に出て泣いていると、館員が出てきてもっと話すように言われ、ようやく決心してすべてを語ったのである。これが被害から60年後の、初めての告白だった。日本での証言も当初は弁護士の前だけだったが、今回は公衆の前でこうして語った。
 日本が侵略した中国その他では、こうした被害者が数知れないのだが、いま売国的国粋主義者たちがナチの「ウソも千回言えば本当になる」方式ですべてを否定し、日本の国際的孤立化を進めている。
 南京大虐殺の場合についても、すでに事実によってとっくに論破された否定派が、文春の雑誌などでゲッベルス式確信犯として「ウソも千回」をくりかえしているが、一部の無知なマンガ家はまたその下請け作業で民衆をだますのであろう。こんな作業が日本で可能なのも、戦後の日本が自らの手で戦犯を裁くことを怠り、真に反省をしてこなかった大情況が背景にある。その反映としてのマスコミは、だから侵略肯定派を公然または半公然と支援する。同じ旧侵略国でも、ドイツではこんな売国的風景が主流になることはありえない。


<注1> 私の聞き書きの方法は、拙著「調べる・聞く・書く」(朝日新聞社)で詳述した。
<注2> 「南京大虐殺」は文庫版の「南京への道」のほか、その後の調査も含めた三回分のルポを集大成したもの。


(Webサイト作成者より)
※本文のHTML化にあたって、日付の表記を算用数字にするなど、若干の変更を加えております。

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