『週刊金曜日』 2001年 2月 2日(No.349)号より

貧困なる精神(129)   本多勝一

高見澤昭治氏に聞く

「司法改革」で日本の裁判は本当によくなるのか(1)


本多 陪審制に対抗して最近、最高裁・法務省は「参審制」の導入を言い出しました。あまりにも裁判の現状がひどすぎるとい、声が大きくなったため、放っておけなくなって、体制側が仕方なくやり出したのかと皮肉な目で見たくもなりますけど、それはそれとして、現在の日本の裁判はどうなっているのか、改革自体はもちろん良いことですが、司法制度改革審議会の中間報告に対する評価を含めお願いしたいと思います。

誰のための司法改革か

高見澤 裁判を経験された方にはおわかりのとおり、とにかく日本の裁判はひどい状況になっています。これまでも官僚司法制度を抜本的に変えなければいけないということで、日本民主法律家協会などの法律家団体を中心に司法の民主化を求める運動がずっとありました。それを日弁連などが引き継いで司法改革を求める声が徐々に高まりました。
 ところが、財界とか政府・自民党までが、司法改革を急に言い出すようになり、一昨年の 7月に政府に司法制度改革審議会が設置され、2年以内に政府に対して司法改革の意見書を提出することになったわけです。
 最近、新聞などが大きく採り上げるょうになったのは、審議会が昨年 11月20日に中間報告書を発表し、最終的には今年 6月に答申をまとめるということで、状況が緊迫しつつあるからです。最近の状況は、一言で言うと、「市民のための司法」に改革するのか、官僚司法制度を維持し「国家と財界のための司法」に改革しようとするのかという、まさにせめぎ合いの真っ最中であると言ってよいと思います。
 陪審と参審のことを先に申しあげますと、日本の裁判は、職業裁判官によって戦後ずっと独占的に運営されてきました。ところがそれには大変な不満があって、市民も司法に参加させろという運動が高まり、最高裁もそういう国民の声を無視できなくなった。そこで、官僚司法制度を維持するためにも市民の声をある程度取り入れなければいけないということで、「参審判」の導入を言い出した。
 しかし、最高裁は当初、意見は開くけれども評決権は持たせない制度にしようと言い、また法務省では、裁判官三人に対して市民を二人同席させる参審制の導入を想定していると最近報道されました。
本多 最初のニュース記事を見たときすぐに「これはひどい」と思った。
高見澤 一言で言えば何とか形だけの市民参加に押しとどめようとしていると言ってよいと思います。
 戦前、日本にも1928年から43年までですが、陪審制がありました。
本多 あったんですってね。
高見澤 大正デモクラシーの運動の中で、戦前の天皇制司法と言われている時代に市民が、これも一定の収入のある人というように非常に限定されていたんですけれど、陪審員が裁判に関与する制度が導入されました。ただし、アメリカやイギリスなどでやられている陪審員制度とは全然違って、例えば陪審員が無罪だという評決を出しても、裁判官がそれを気に入らなければ陪審員を全部入れ替えて、裁判官が気に入るまでやらせる制度でした。
本多 ほとんど意味ないんですね。
高見澤 ところが、今回もそれと同じような、市民に実質的な権限を持たせないという制度でごまかそうとしているわけです。陪審制でなく参審制というのですから戦前より後退しているということが言えるかもしれません。
 そういうことをはじめとして、今度の司法改革には非常におかしな動きがありますので、よく注意しないといけません。「司法改革」と言うと、なにかいいようになるんじゃないかと思っているかもしれないけれども。
本多 現体制の側が進んでやることには、そういう例が多いんですね。こんどの省庁再編だって、官僚主義がいっそう強まるんじゃないか。

市民が司法被害者になる恐れ

本多 裁判を直接経験した人は非常に感じていることなんだけど、やったことのない人は、自分が直接関わらないと、かつては私自身がそうだったんですけど、どうしても司法関係に関心が薄いんですね。しかし、実は全国民にものすごく関係があって、しかも日本はひどい状況だという認識が、一般にはまだされていないと思うんですね。だからそのあたりで、いくつか実例を挙げながらご説明をお願いしたいと思います。
高見澤 裁判というのは、たいていの人は「できれば一生関わりたくはない。裁判所に訴えることも嫌だし、もちろん訴えられることも嫌だ」というふうに思っているでしょうね。
本多 そうでしょうね。私も裁判を実際にやってみて、そう思うようになりました。あまりにもバカバカしくて時間とカネの浪費だけ。
高見澤 裁判で勝った人でも、もうこりごりだ、二度と裁判なんかしたくないという人がほとんどと言っていいくらい、日本の裁判は市民に毛嫌いされているのが実態だと思います。
 ところが、ここが重要なところで、自分が裁判をやりたくないと思っていても、訴えられることはあるわけです。今度の司法改革もそれに関係してくるんですが、これまで長い間 500人前後であった司法試験合格者を、年間 3000人に増やすことを提言しています。これはとくに財界の強い要求で、規制緩和を進め、経済を活性化させる、そのためには企業活動に弁護士を利用したいということですが、それと同時に市民には自己責任を強く求めています。
 たくさんの弁護士をかかえた企業がどんどん裁判を起こしていくようなことになりますと、普通の市民が裁判所に引きずり出されるというか、訴えられて、やむなく裁判に関わらざるを得なくなるという状況が、増えてくることが予想されます。
 一方、市民の側でも裁判所に訴えないとどうしても問題が解決しない、裁判所というところを利用して、自分たちの人権や生活を守らなければならないというような問題が出てくることも事実です。
 そういう意味で、裁判所というところに「いやでも」関わらざるを得ないこともあるのですが、実状は非常にひどい状況にある。

行政権力のドレイ化の実例

高見澤 具体的な例をいくつかご紹介しますが、これは挙げだしたらキリがないので、昨年に限ったものを二、三紹介します。例えば、最高裁の 9月7日に出された選挙での一票の格差をめぐる判決です。
本多 何倍もですからね。
イラスト/橋本勝
高見澤 今度は四・八倍でも合憲としました。この裁判は東京、神奈川、千葉、埼玉の有権者が起こしたのですが、最高裁は「国会の立法裁量権の限界を超えるものとは言えない」という一言で、いわば保守層というか、自民党政治を支えているような地盤から国会議員が多く出る不公平な選挙を容認したのです。
 日本はなぜ西欧諸国のような政権交代がないかということがよく言いわれるのですが、結局、選挙制度の中で一票の格差が是正されないことと、特に企業献金が容認され金権選挙がまかり通っている上に、戸別訪問をはじめとする選挙運動が厳しく制限され、民意が反映されないような仕組みになっている。ご存知の通り、選挙になると日本は戒厳令がしかれたみたいで、隣近所に集会のビラも持っていけない。いわばがんじがらめにした中での不公平な選挙によって自民党政権がずっと支えられてきたわけです。
 戸別訪問禁止は憲法違反だという地裁判決はあるのに、最高裁は合憲としました。
本多 ものすごく大きな基本のところで不公平な制度を作っておいて、しかし末端の細かいところは抑えてしまう。
高見澤 別の例ですと昨年 3月22日、「もんじゅ」の裁判が福井地裁でありました。
 東海村での臨界事故があり、あれだけ世論が厳しく批判しましたし、「もんじゅ」自体が事故を起こして、こんなものはいらない、廃止すべきだという世界的な流れもあります。しかし、福井地裁は、そういう地域住民やもっと大きな国民的、国際的な世論などはまったく無視して、「もんじゅ」の危険性を一方で指摘しながら、原発の有益性を重視して、ご承知のように原告の請求を退けました。
「国策」といわれるようなものには、日本の裁判所がまったく弱いことは、昨年9月8日の熊本地裁の川辺川の判決でも同じです。公共事業は見直さなければいけない、無駄な公共事業はやめようと自民党まで言わざるを得ない状況の中で、結局、2000人近い農民の訴えは退けられてしまったんですね。
 裁判の中で事業の必要性がないということを原告側は訴えました。農業用水だの何だのという理由で始められた事業だから、必要があるかないかは地元の人が一番よくわかっている。ところが判決は、行政庁には広範な裁量権があり、国の判断に裁量権の逸脱・乱用は認められないと言う。必要性があると判断した以上は必要なんだと。
本多 もう論理じゃない。めちゃくちゃですね。要するに三権分立などとっくになくなって、司法が行政のドレイになった。いくら土建政治の”公共事業”でも、司法権がしっかりしていればダムも中止できるのに、ドレイではどうにもならない。
高見澤 ダムのための土地収用には同意が必要なんですけど、同意を取り付けるのにインチキをやっていて、死んだ人が同意書に署名していたり、同じ人が何度も署名している。白紙の同意書に署名させたり、あるいは、水代はタダだとか言って署名させた。それでも法定数を満たしているから「大きな落ち度ではない」としてこの事業の推進を裁判所が追認したのです。
 司法は、市民や住民の権利・生活を守るべく立法・行政をチェックすべきなのに、その機能を果たしていないことは、これらを見ても明らかです。陪審制のもとであれば、いずれも結論は全く変わっていたでしょう。

(以下次号)

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たかみざわ しょうじ・弁護士、司法改革市民会議事務局長。著書に『市民としての裁判官』『自由のない日本の裁判官』(共著=いずれも日本評論社)など。


(Webサイト作成者より)
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