漢語迷の武漢日記 

< 第19回 チベットの旅 >


  今年の夏、前回報告した九寨溝に続いて訪れたのがチベットでした。チベットには以前からずっと行きたいと考えていました。その理由の一つは、これまでチベット仏教の寺院などに行った時に、漢族の文化とは全く異なったその建築物や仏像の独特な趣や色彩に強く引かれるものがあったということもあります。しかし、もう一つの大きな理由は昨年の新彊の旅にありました。以前もこの日記の中で報告したように、新彊に住む少数民族・ウィグル人の一人の女性の漢族に対する激しい憎悪は僕にとっては衝撃的なものでした。そこで、もう一つ新彊と並んで、いや新彊以上に漢族との対立や独立運動などが激しいと言われるチベットに行って、どうしても現状を見なくては、と思ったのです。
  現在の中国では、外国人は自由にチベットに入ることは出来ません。旅行社を通して、入境許可証を取得した上で、ツアーに参加しなくてはなりません。(ただし、ツアーの費用を払った上で、それに参加しないのは自由なようです。また、ツアーに参加した後は基本的に自由に回ることが出来ます。)また、チベットに入るルートも成都からの空路、ゴルムドからの陸路など、数ルートに制限されています。外交官と記者に至っては、チベットに入ること自体が禁止されています。なぜ、このような制限があるかと言え、それはチベットが政府と漢族に対する反感が最も強く、独立運動が盛んな「荒れている」地域だからです。
  今回は、いろいろな事情があり、ツアーに参加してラサ・シガツェ・ギャンツェの三都市を回ることにしました。
  ラサの空港に着き、バスで一時間ぐらい行った所で「磨崖仏(岩壁に彫った仏像)」を見るために下りました。しばらくすると、二十歳前後の中国の青年が突然倒れました。目は焦点が合っておらず、顔には青あざと擦り傷がある所から見て、本当に気絶するように倒れたのだと思います。彼の母親は泣きながら彼の名を呼んでいます。一体どうしたのだろうか?実はこれは高山病だったのです。
  チベットは低い所でも四千メートル近い標高があります。ですから、高山病の心配をしなければならないということは知っていました。しかし、こんなにもひどいものなのか……。ちょっと恐ろしくなりました。チベット人のガイドがすぐに来て、全く慌てることなく、「大丈夫。心配は要らない」と言いました。恐らく、このような高山病にかかった観光客を無数に見てきているので慣れているのでしょう。結局、倒れた彼はその後すぐに入院し、二日目にポタラ宮を外から見ただけで帰ってしまいました。幸い、僕はちょっと頭痛がした程度で、大した症状もなく過ごすことができました。ツアーの中にも、具合が悪くなって寝ていた人もいましたが、彼ほど症状のひどい人はいませんでした。ですから、もし読者の方の中にチベットに行こうという方がいるなら、そんなに心配する必要はないと思います。
◎ラサの寺院
  チベットのツアーは「まず高山に適応する」ということで、一日目は予定がなく、フリーになっています。その時間を利用して、街の小さなチベット仏教の寺院を友人と訪ねてみることにしました。最初に訪ねたのが八角街(ラサの有名な繁華街)の近くの小さな路地にある尼寺です。寺を一通り見終わって出ると、すぐに入り口が閉じられまし た。どうも僕たちは閉まる間際に行ったようでした。すると、横で一人の尼さんが 「こっちに来い」と手招きをしています。小部屋に案内されると、チベットの名物、 バター茶をごちそう してくれました。バター茶は正直言って僕にはちょっと飲みづらい味でした。しか し、今まで多くの観光地に行きましたが、見知らぬ人にご馳走をしてくれるなどとい うところはなかったので、感激でした。尼さんたちは皆チベット人で、中国語はほと んど話せません。むしろ、英語の方が片言ですが話せます。ですから、コミュニケー ションをとるのは残念ながら非常に困難でした。最後に尼さんと一緒に記念撮影をす ると、彼女は「住所を教えるから、必ず写真を送ってくれ」と言ってきました。これ までも、多くの観光客が写真を送ってくれたそうで、それをとても大切にしているよ うでした。
  尼寺の中を歩いているとなぜかこちらに微笑みかけてくる尼さんが何人かいまし た。こうした光景は、その後大昭寺などの大きな寺でも見られました。それも、何か 作っているような笑顔ではなく、心からの笑顔です。これは、中国のほかの地域では 見られないものです。チベットの坊さんや尼さんたちは、本当に心からチベット仏教 を信じていて、心が満たされているというふうに見えました。
  尼寺を後にしたあと、もう一件小さな寺院を訪ねました。先ほどの尼寺はいちお う拝観料が必要でしたが、そこは拝観料も必要ないほどの小さな寺でした。仏像を見 て いると、拝観者のおじいさんが「上に行きなさい」と指図しています。二階に上がっ てみると、そこには何もなく、拝観者もいません。とまどっていると、一人のお坊さ んがにこにこして手招きをしているのが見えました。そちらに行ってみると、なぜか 鍵の閉まっている部屋を開けてくれました。中に入ると、そこには美しい仏像やお経 が沢山 置いてありました。どうやら、一般の拝観者には公開していない部屋のようです。ど うして僕らにそんな部屋を見せてくれたのか不思議でしたが、坊さんは観光客が来て くれたこと自体が何だかとてもうれしそうでした。
  僕らが仏像を見ていると、そこへ若い坊さんが入ってきました。年を聞くと、ま だ18歳。僕らを見ると、とても喜んで、いろいろと話し掛けてきました。彼は中国語 と英語が片言 しかできないので、コミュニケーションは困難な所もありましたが、とても楽しい時 間を過ごすことが出来ました。
  この若い坊さん・K君は寺の中で最年少。6歳の時に農村から出てきて寺に入った そうです。学校には通わず、中国語や英語もお坊さんの家庭教師に教えてもらいま す。毎日の生活は主にお経を読むことと食事を作ること。魚は全く食べず、肉もわず かしか食べないそうです。毎日の生活は楽しいかと聞くと、「楽しい」とニコニコし て答えてきました。
  そんな会話の中で、こんなことがありました。僕の持っ ているガイドブックを彼が見せて欲しいと言うので、見せてあげると、その中に毛沢 東の写真がありました。
「僕はこの人がきらいだ」
「どうして?」
「この人はたくさんの人を殺したから」そう言った後、彼はまた屈託のない笑顔を浮かべています。どうやら彼は若い上 に寺院というチベット人だけの世界の中にいるせいか、こういうことを言うことに全 く警戒心が無いようでした。しかし、この彼の率直な言葉の中に、チベット人の中央 政府、あるいは漢族に対する感情というものが代表されていたのかもしれません。   数日後、帰る前にもう一度K君に会いたいと思い、この寺院を訪ねました。彼 はお経を読んでいる所でしたが、僕らを見ると、読むのをやめ、僕らに付き合ってく れました。そこへ、一人の老人がやって来ました。彼は、甘粛省から仏像の修理のた めにやってきたチベット人で、K君の部屋に住み込んでいるとのことでした。甘粛 省は敦煌で有名な所です。チベット人はいわゆるチベット自治区以外にも生活してい るのです。   彼は中国語が話せたのと、周りに漢族がいなかったこともあり、いろいろとチ ベットのことについて聞いてみました。
「チベットの多くの人たちは独立を望んでいるのですか?」
「そんなことはない。独立を望んでいるのは旧社会で権力を持っていた人間たち だ」「しかし、現在の中央政府はチベットの自治権や文化を尊重していない。この 点、毛沢東時代の方が少数民族を尊重していた。改革開放政策が始まってからの方が ひどくなっている。だから、一番望ましいのは香港のような一国二制度にしてチベッ トの自治権をより拡大することだ」 「チベットが平和解放だったというのは本当ですか?」
「それは本当だ」
「しかし、B君はたくさんの人が殺されたと言っていましたが」
「それは国民党との内戦のことを言っているんだ」
「文革で寺院や仏像の破壊が行われた時、坊さんたちはどうしていたのでしょう か?」
「みんな故郷に逃げた。甘粛省出身の坊さんも皆帰ってきた」
  彼は毛沢東時代に教育を受けた世代ですから、もしかしたら毛沢東に思い入れが あるかもしれませんし、甘粛省の出身ですから、チベット自治区内に住んでいるチ ベット人とは見方に違いがあるかも知れません。しかし、いずれにしても現在チベッ ト人・チベット文化が尊重されていないと感じていることは確かなようでした。
◎北京五輪開催決定への反応
  僕がラサに滞在している時に2008年オリンピック開催地の発表があり、前評判通 り北京に決定しました。その瞬間の北京の状況をテレビで見ましたが、ちょっと日本 では考えられないような、大変な騒ぎでした。まるで、アヘン戦争以来のヨーロッパ と日本に踏みにじられた来た歴史の屈辱を一気に晴らしたとでもいうような感じでし た。実際、候補地の中には大阪とパリが含まれていました。
  ちょっと違和感を覚えたのは、決定の瞬間に「我々は勝った」というロゴが出た ことです。「我々」という時、そこには反対者は想定されていません。「中国人なら 五輪開催を支持するのが当たり前だ」と言わんばかりで、ちょっと押し付けがましい 感じがしました。日本ならこうは言えないでしょう。しかし、実際「我々」と一括り に出来るほど、この一年ほど中国は五輪支持一色に染まっていました。「反対だ」と いう人も友人の中にいないわけではありませんでしたが、極めて少数だったと思いま す。
  しかし、ラサは違っていました。全国各地ではかなり大規模な祝賀パーティーが 開かれていたようですが、ラサではそうした催しが行われている様子もなく、静かで した。次の日、バスの中で北京五輪のことが話題になると、チベット人のガイドは 「あれはまだ最終決定じゃない。もう一度投票があるんだ。本当だ」などと言い出し ました。これは明らかに間違っていたのですが、この言葉の中に、北京五輪を素 直に喜べない彼の心情がにじみ出ていました。もう一人、研修中の女の子のガイドに 「北京に決まってうれしい?」と聞くと、「80%」という答えが返ってきました。 恐らく、あまりうれしくないが、はっきりそうも言えないという微妙な心情がこうし た答えになって表れたのでしょう。いずれにしても、チベット人たちが、漢族と同じ ようには北京五輪を喜んでいないことは確かでした。
◎ギャンツェからシガツェへ
  ギャンツェは丘の上の古城・ギャンツェ城で有名な所です。すぐ近くにあるパン コル・チョエデ(白居寺)の上から丘のふもとの町を眺めると、まるで中東の町にで も来たかのような錯覚に襲われます。それほど、建物の風格は漢族のものとは異なっ ています。ここでは1904年に侵略してきたイギリス軍とチベット軍の間で壮絶な戦い が繰り広げられ たそうです。これまで、チベットと中国の関係ばかりに気を取られていた僕は、不勉 強なことにこの事実をここで初めて知りました。ですから、チベットと欧米の関係は 比較的いいというイメージをこれまで持っていたのですが、実際にはチベット人はイ ギリスに対して当然のことながらいい感情は持っていないようです。
  そのギャンツェからチベット第二の町シガツェまでバスで移動する間、車窓か ら多くの子供たちが見えました。僕らに向かって手を振ったりしているので、最初は あいさつしてくれているのかと思いました。ところがよく見ると、手のひらを上向き にして差し出している子供が沢山います。物乞いをしているのです。チベットは中国 の中でももっとも貧しい地域の一つです。しかし、その一帯は農村部とは言え、緑が 豊富で畑も沢山あ り、草も生えない砂漠のような荒涼とした地域に比較したら、条件は遥かにいいよう に思われました。ですから、子供たちが集団で物乞いをしている様子はちょっと異常 に思えました。僕はガイドに「この辺の人たちは貧しいんですか?」と聞きました。 「そんなことはない」彼は「貧しい」と言われたことで、民族のプライドが傷つ いたのか、ちょっと不機嫌そうでした。 「じゃあ、なぜ物乞いをしいてるんですか?」
「彼らが物乞いをするようになったのは外国 人のせいなんだ。外国人は安易に彼らに物を与える。だから彼らは物をもらうのがく せになってしまったんだ」
  ガイド研修の女の子の家が近くだというので、学校の様子などを聞いてみま した。
「学校には机もいすもありません。みんな自分で座布団を持っていってそれに 座って授業を聞きます。先生はたいてい中卒です」「でも、この辺はチベットの中で は豊かな方だと思います」
  途中休憩でバスを降りた時、ツアーに参加していた漢族の男性が僕に言いまし た。「この一帯はもともとこんなに畑はなかった。不毛の土地だった。それを派遣さ れてきた漢族の幹部が必死に指導して、ようやくこれだけの畑ができたんだ。しか し、その意味をチベット人たちはわかっていない」
「でも、漢族がそんなにいいことをしたなら、どうしてチベットの人たちは漢族 に対していい感情を持たないんでしょうか?」
「それは、彼らにそういうことを評価できるだけの素養がないんだ。彼らは主に 宗教的な理由で漢族に反発している」
  これは、事実関係を調べなければ、公正な判断は下せません。いずれにしても、 チベット人と漢族の間には大きな認識の溝が存在しているのです。
◎商売をするチベットの子供たち
  チベットを去る前日に再びラサの八角街を訪れました。ある出店で気に入った ものがあったので、店番の女の子に値段を聞きました。その値段がちょっと高かった ので、「じゃ、いいや」と言って、立ち去りました。すると、二人の女の子がどこま でも追いか けてきます。
「20元」
「いらない」
「買って!」
  こんなやりとりを何回か繰り返している内に、何だかその子達が可哀相になって きました。
「わかった。買うよ。その代わり、ちょっと聞いていいかな?」
「何?」
「二人は歳はいくつ?」
「13歳」
「学校に行っているの?」
「学校には行ったことがない」
「どうして?」
「学費が高いから」
「一ヶ月いくらなの?」
「400元」
  400元と言えば、おそらくチベットの一ヶ月の平均収入を越えていると思います。 本当にそんなに高いのか、子供たちの言うことなので、ちょっとわかりませんが、本 当なら学校に通うのは確かに大変だと思います。
「中国語はどうやって覚えたの?」彼女たちはチベット人であるにもかかわらず、中国語が話せたので、聞いてみま した。
「商売の中で覚えた」
  僕が礼を言って立ち去ろうとすると、彼女らがニヤニヤしながら何か言いまし た。
「えっ、何?」
「何でもない」そう言って、彼女らは店に戻って行きました。どう も、彼女らは「質問に答えたんだから、お金ちょうだい」と言ったようでした。商品 のお金はすでに払っていたのですが、さらにお金を要求しようとしていたようです。 子供とは言えなかなかしたたかなものです。さすが商人です。でも、そうやって行か なければ、彼女らはきっと生きていけないのです。
  このように子供が商売の前線に立っている光景は昨年行った新彊でも多く見られ ました。中にはどう見ても小学生という感じの子が「いらっしゃい、いらっしゃい」 とすっかりなれた感じで客引きをしていました。やはり貧しい地域ではどうしてもこ ういうことが多くなってしまうようです。
◎漢族のチベット人への印象
  帰りのラサの空港で一緒にツアーに参加した漢族の人たちとチベット人について の話に なりました。ある女性は「チベット人は野蛮だ。ガイドにはいろいろと不満があった が、いざこざが起こると恐いので、言えなかった。チップを渡したりして、関係をう まく作ろうとしたけど、だめだった」と言いました。確かに、僕らについたガイドの 態度はとてもいいとは言えず、それに不満があるのは理解が出来ました。しかし、寺 院などでチベット人たちの温かいもてなしを何度も受けた僕としては、「チベット人 は野蛮だ」という決めつけにはどうも納得がいきませんでした。(ちなみに、彼女た ちはお坊さんたちとは話をしていません。)
  今回の旅行中に「チベット人は野蛮だ」と漢族が言うのを何度も聞きました。ま た、ふだん学校の中でも、「ウィグル人は野蛮だ」と言う言葉をよく聞きます。どう やら、この二大少数民族に対する漢族の印象は「野蛮」ということで定着してしまっ ているようです。彼らが、そういうのには、それなりの根拠もあるのかもしれませ ん。しかし、少なくとも僕が接した範囲では、とてもそのようには思えませんでし た。それどころか、特にチベットではこれまで感じたことのない温かさを感じまし た。そんな人たちが、野蛮に振る舞うとするならば、必ず理由があるに違いありませ ん。しかし、漢族の中にはそこまで考えている人は極めて少ないように思います。
  以上、チベット訪問記を書きました。今回チベットに行ってみて、チベットのこ とをより深く知るには二つの壁があると感じました。一つは言語の壁で、チベットで は中国語の話せない人、あるいは話したがらない人が多いので、中国語しか話せない 僕としては、コミュニケーションが困難な場面が何度かありました。第二は言論の自 由の問題で、特に政治的な問題については相手の安全を考えたら下手に話すことは出 来ないということです。これらの問題は、チベット語ができればかなり解決されま す。チベット語で話せば、漢族にもわかりません。いつか、チベット語を習得して、 また彼らとコミュニケーションが出来ればと思います。


2001.8.23



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