漢語迷の武漢日記 

< 第22回 靖国神社ペンキ事件をめぐって >


 昨年の夏、小泉首相が靖国神社を参拝した後、馮錦華という在日中国人が靖国神社の壁に中国語で「死ね」とペンキスプレーを使って書く、という事件が起こりました。(「事件」と言っても、日本ではほとんど報道されなかったと思いますが)
 そして、昨年12月、この行為に対する判決が東京地裁で出ました。結果は、器物破損で懲役10ヶ月、執行猶予3年というものでした。この判決も日本ではほとんど報じられなかったと思います。
 ところが、こちら中国ではこの判決に対して大きな反響がありました。主な反応は、この判決を政治的判決として批判するもの、馮錦華氏の行為自体を「壮挙」としたり、英雄視したりするもの、三ヶ月の赤ちゃん(事件当時はまだ生まれていなかった)がいる中で、このような判決が下りたことに同情する、といったものでした。彼の行為を批判する論調はほとんどと言っていいほど見られませんでした。
 中国人の友人に聞いてみても、彼を批判する人はほとんどいませんでした。彼の行為を賞賛する人は新聞で見るほどはいませんでしたが、
「中国がいくら日本を批判しても、日本の首相が靖国神社参拝を続けるから、やむを得ずとった手段ではないか」
「彼のとった方法は確かにいいとは言えないかもしれないが、このような結果を招いた根本的な責任は、いつまでも参拝を続ける日本政府にあるのではないのか」
といった考えが主流でした。
 こうした意見を聞いたとき、何かしっくり来ないものを感じました。
 一年半ほど前、私も靖国神社に見学に行きました。中に展示場があり、そこにはわずか十七、八歳で特攻隊となり、散っていった若者たちが、特攻の前に父母や兄弟、恋人への思いを綴った手紙が数多く展示されています。それは誰が見ても涙を誘わずにはおれないものです。こうした少年たちを弔いたいという気持ちは理解できます(こうした手紙自体、書かされたもので、内心は国や天皇に対する怒りで一杯だったという人もいますが)。
 しかし、展示場の最後で流していたビデオを見たとき、気持ちが一気に冷めてしまいました。そのビデオでは繰り返し、次のように説いていました。
「あの戦争を侵略戦争などと言っていいのでしょうか?そんなことを認めれば、あの少年たちは犬死だったということになります。そんなことは決して認められません」
 結局、靖国神社はあの戦争が侵略戦争であったという最低の事実さえも認めていないのです。
 ですから、特攻隊に散った少年を弔うことには異議は唱えませんが、こうした歴史観にたった神社に首相や閣僚が参拝することには僕は同意できません。これが僕の基本的な考えです。ですから、中国人が靖国神社をを批判することについては、理解できます。
 では、靖国神社への参拝に反対の僕が、なぜ馮錦華氏を賞賛したり、擁護したり、同情したりする中国人たちの声に違和感を感じるのでしょうか?
 法律に詳しい人にも聞いてみましたが、もし日本人が同じように器物破損で起訴されたら、やはり同様の罪になるそうです。したがって、ここには多くの中国人が考えるような、「中国人だから、罪を重くしている」とか「靖国神社に対する行為だから罪が重くなった」といった問題は存在していないことになります。つまり、この判決は「政治的判決」とは言えないということです。
 「彼の行為は正義のためにやったのであり、動機が正しいのだから、罪を軽くするべきだ」「わずか三ヶ月の赤ちゃんがいるのに、ひどい」といった声もあるようですが、いかなる良い動機があろうと、犯罪は犯罪です。法律で裁かれるのは当然のことでしょう。また、家庭の事情を勘案する法律などというものはありません。
 したがって、こうしてみる限り、日本の裁判書の判決を「政治的判決」などと批判したり、彼に同情したりする余地は全くないと思います。ましてや、彼の行為を英雄視したりするのは論外だと思います。
 なぜ、僕がこの小さな問題にこんなにこだわるのかというと、中国人の中に、いったん民族間・国家間の問題、特に日本との問題になると、突然理性的な思考ができなくなり、非常に感情的、というより不条理な思考をしてしまう傾向があり、この靖国神社の事件をめぐる中国人の反応は、その傾向を典型的に現していると思うからです。
 かつて中国は「法治」ではなく、「人治」でした。それがどんな結果を招くかは文化大革命が示すところです。改革開放以後はしだいに「法治」の重要性がしだいに強調されるようになり、中国人の法意識も大きく変わったと思います。僕の好きな中央電子台の番組『今日説法』はさまざまな紛争を法律という手段を通して解決することがいかに重要か、ということを繰り返し説いています。
 もし、今の中国で誰かが天安門の壁に、中国共産党の腐敗を批判する言葉を書いて捕まったとしても、彼は決して英雄視も同情もされないでしょう。
 ところが、いったん日本の問題となると、こうした「法治」の観念はどこかへ吹き飛んでしまいます。
 僕は、こうした反応を見ると、911テロの時に多くの中国人が「うれしい」と答えたことを思い出します。いかなる良い動機があろうと、非合法な手段を採ることは許されません。その先にあるのは、テロの正当化です。
 僕は、中国人たちが、日本の過去の侵略戦争を批判すること、また最近、日本国内にある、過去の歴史を歪曲するような動きに対して批判することは全く正当なことだと考えます。しかし、こうした、日本側には非がないことまでをまるで非があるかのように言い、日本への憎悪の感情を煽るようなことは決してしないでほしいと思います。そのようなことをすれば、また日本の民族主義者を刺激し、悪循環になっていくだけです。
 僕は、日中関係の悪化の主要な原因を、「中国政府が国内の腐敗などの問題から国民の目を国外にそらすために、わざと反日感情を煽っていることにある」ことに求める考えには同意できません(もちろん、以前書いた通り、中国政府にそのような意図があることは否定できないと思いますが)。日本に過去の歴史を素直に認めない政治家や学者が数多くおり、しかも、その勢力が増していることは事実だからです。
 しかし、一方で、この事件に典型的に現れているように、中国側に不必要に日本に対する憎悪を煽ったり、批判する傾向があることも否定できません。
 日本は過去の歴史を謙虚に認めること、そして、中国側は冷静に日本を見、不必要に反日感情を煽らないこと、この二つのことを通して、日中両国が関係悪化の悪循環からいつか抜け出すことを願うばかりです。
 ちなみに、反日感情を煽るような記事を全て「中国政府のプロパガンダ」と見る見方は、単純にすぎると思われます。なぜなら、現在街で売られている新聞は、形はみな国営ですが、市場経済の中にあっては、商業原理、つまり売れるか売れないかという原理にしたがって動いているからです。政府の宣伝をやっているのは主に『人民日報』などの党機関紙ですが、これらの新聞は前にも述べたように、一般の人はほとんど読みません。街で売っている新聞もただ政府の宣伝をやっていたのでは、売れません。
 したがって、反日感情を煽るような記事が多くの新聞に載るのは、「政府のプロパガンダ」ではなく、そうした記事を「面白い」「読みたい」という読者が広範に渡っているためだと考えるべきでしょう。
 以前、「英語のカリスマ」李揚の講演が中国人の民族感情・反日感情を利用して支持を集めようとしていることを指摘しましたが、多くの新聞もこれと同じことをやっていると言えます。ですから、問題は「中国政府のプロパガンダ」に責任を押し付ければいいと言うほど簡単ではないのです。
 中国人の中に深く根付いた反日感情に対して、日本人は、まず第一に、過去の歴史の事実を素直に認め、中国人に対して誠実に向き合うと同時に、不必要な誤解や偏見に基づく反日感情については、冷静な粘り強い討論を通じて少しずつ解きほぐしていく必要があると思います。


2002.2.2




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