■ 漢語迷の武漢日記 ■
< 第23回 春節の衝撃 >毎年、春節は中国人の友人の家で過ごすことにしている僕ですが、今年も江西省のある小さな町で過ごすことにしました。
途中、バスの故障などもあり、武漢から十一時間ほどかかってようやく友人・H君の家に着きました。おととし訪れた農村に比べたら、商店街もあるし、ずっと開けていましたか、それでも武漢とは比較にならないくらい小さい町です。
H君のクラスメートにも何人か会いましたが、彼らはみな、北京・上海・広州・深セン・珠海などの大都市で働いているということでした。(彼らは春節を過ごすために、実家に帰ってきていた) 聞いたところでは、この町の人口の約半分近い人たちは、大都市へ出稼ぎに行っているそうです。地元に残っている人にも話を聞きましたが、彼は国営企業をレイオフになっていました。地元には国営企業以外の仕事が少なく、その国営企業もリストラを進めているため、みんな外に出ていくしかない、ということのようです。
H君の話だと、この町では麻薬吸引者が多いそうです。彼のクラスメートの中にも、彼氏が麻薬に手を出したために、別れざるを得なくなったという女の子もいたそうです。どうやら、若い人たちが身の回りに麻薬吸引者を見つけるのが難しくないほど、麻薬が普及しているようです。この背景には、上に述べたような経済の状況もあるのかも知れません。
そんな町で、私にとって衝撃の事件は起きました。
この町に着いた次の日、僕はH君、それと一緒に行った日本人の友人Y君とともに、H君の親戚やクラスメートの家を回りました。あちらこちらですっかりご馳走になった僕らは、かなり疲れてしまい、H君の家に帰ると、すぐ寝ようということになりました。
ところが、ベッドに横になっていると、H君が「兄貴が飲みに行こうと言っているんだ。料理も頼んでましったようだし、断るわけにいかない。今から出かけよう」と言い出しました。彼のメンツも立てなければとは思いつつも、あまりの疲労に、僕らは行くのを固辞しました。しかし、彼のお兄さんが車でわざわざ迎えに来たときには、さすがに行かないわけにはいきませんでした。
レストランに着くと、H君の親戚やその友人10人近くが鍋を囲んで待っていました。しかし、そのうちの多くは僕らにあまり関心がないようでした。
やがて、ビールで乾杯が始まりました。中国でいう乾杯は、コップの中の酒を全て飲み干すことです。つまり、イッキ飲みですね。しかし、酒が極端に弱い僕は、いつも、その旨を伝え、イッキ飲みを避けてきました。そして、この時もそのようにしました。一緒に行った、酒好きの日本人Y君も、この日ばかりは風邪をひいていたこともあり、あまり酒が進みませんでした。
やがて、みんな徐々に酒がまわってくると、彼らはゲームを始めました。一人が楊枝を何本か握り、全員がその本数を言っていき、数を言い当ててしまった人がイッキ飲みをしなければならないというゲームです。
酒が飲めないために、ゲームにも参加できず、疲労も極みに達していた僕は、体調の悪いY君とともに、先に帰らせてもらうことにしました。
僕らが疲れのあまり、深い眠りについていた頃、H君が激怒した様子で帰ってきました。
「俺はあいつらとケンカしたんだ。あいつらは許せない。本当に傷ついた。もう、こんなところにはいたくない。明日すぐに武漢に帰ろう」
その時は、まだ正月すら迎えていなかったのに、彼がこんなことを言い出したので、僕らはびっくりしました。「一体、何があったんだ?」
事情はこうでした。僕らが先に帰った後、彼らから口々に不満と批判の声が上がりました。「あいつらは、俺たちがついだ酒も飲まず、おまけに先に帰りやがった。日本人は態度がデカい」
H君は、僕らの友達として、僕が酒が弱いこと、Y君か風邪を引いていたことを説明し、一生懸命弁解しました。すると、彼らは口々にH君を「漢奸(戦争時代、日本側についた中国人の裏切り者)」と罵倒し始めたのです。「あの時代に日本人に媚びを売れば、いいこともあったかもしれないが、今の時代、やつらに媚びを売っても、何も得なことはないぞ」とも言われました。彼を擁護しようとする人は、お兄さんも含めて、ただの一人もいなかったそうです。
僕らはこの話を聞いて、本当にショックでした。特に、一度H君の家にも来たことがあり、彼の兄弟や親戚と比較的親しくなっていたY君はかなりショックを受けていました。彼は言いました。
「顔の見えない関係の中でなら、日本人についてあれこれ想像をめぐらして、憎悪する中国人がいるのはわかる。でも、顔の見える関係になり、相手の人格なども知った上でこんなことが起こるとは思っていなかった」
実際、僕も、もともとは日本人が嫌いだったが、実際に接してみてから、ガラッと考えが変わったという中国人を数多く見てきていたので、彼の言うことは非常によくわかりました。
それにしても、兄弟や親戚からこんなひどいことを言われたH君はどんなにつらかったことでしょう。でも、彼は僕らのために、一人矢面に立ってくれたのです。しかも、彼は絶対に自分の考えを曲げませんでした。
「兄弟であろうが、親戚であろうが、自分の友達をあんなふうに罵倒するのは許せない」
僕は涙か出てきました。何よりもうれしかったのは、彼が「民族」よりも「友情」の方を選んでくれたことです。
彼は言いました。「日本は確かに過去悪いことをした。でも、その憎悪をいつまでも引きずるのは間違っている。そんなことをしたら、いつまでも平和は来ない。確かに君らが酒を飲まなかったのは中国の習慣に反している。その点は、君らにも問題があったかもしれない。でも、その問題と、過去の問題に何の関係があるというんだ!」
これは、彼が常々口にしている、しかし中国人の中ではごく少数派の考え方です。日本人から「憎悪をひきずるな」といった言葉出るときは、だいたい過去のことをあまり反省していない人の口から出ることが多いので、あまり信用できないのですが、中国人の口からこういう言葉が出ると、敬服させられます。
中国では「歴史を忘れてはならない」ということがよく言われます。この言葉を言うと、誰も反論できないという雰囲気が中国にはあります。そして、このスローガンは侵略した側の日本人としても肝に銘じなければならないとも思います。しかし、多くの中国人の中では「歴史を忘れてはならない」が「憎悪を忘れてはならない」とイコールになっています。そして、ついには、この憎悪の感情を少しでもなくしていこうという努力までもが批判の対象となります。このことは、以前ここでもご紹介した、『日中ホンネで大討論!』というメルマガを中国で宣伝したときに、「そんなことをして、中国人の日本人に対する憎悪を和らげようとでもいうのか?」といった反応があったことにも現れています。
私は、中国の習慣に従わなかったことによって、僕たちが「日本人」として罵倒され、H君が「中国人の裏切り者」として罵倒されたこの事件を通じて、正直に言って、中国人の日本人に対する憎悪の感情の異常さ、日本人と見れば問題を全て民族間の問題としようとする思考様式の異常さを感じざるを得ませんでした。
誤解なきように言うと、H君は決して日本の侵略の罪を軽くみているわけではありません。それどころか、彼はかつて侵略戦争を事実をろくに知らない、ある日本の留学生と話して、非常に憤っていました。しかし、彼は「歴史を忘れてはならない」のは、過去から教訓をくみ取り、平和な未来を築くためであり、決して憎悪を永続化するためではないと言っているのです。
彼は、いい加減なところもあるヤツなのですが、この中国の圧倒的な潮流に抗して、兄弟や親戚とケンカしてまでも、こうした自分の思想を守り抜こうとする彼の姿勢には感動すら覚えました。
僕は彼のような友人を大切にしていきたいです。そして、彼のような中国人が一人でも増えていってほしいと思います。
事件後、彼が「武漢に帰る」と啖呵をきったものの、春節のためバスもなく、結局そこで春節をしばらく過ごすことになりました。彼のご父母は事件のことを聞いたのか、僕らに対してとても気を使ってくれ、「自分の家と同じようにふるまっていいんだよ」「日本と中国では習慣の違いもいろいろとあると思うけど、あまり気にしないでね」と言ってくれました。また、武漢に帰る前日に会った、H君のクラスメートは、「遠方からの友人」を暖かく迎えてくれ、話も弾み、次の日に帰る旨を伝えると、「もう二三日延長できないのか?」と本当に残念そうに言ってくれました。こうした「民族」や「国家」を越えた交流をすると、本当に愉快で、温かい気持ちになります。
中国という国の習慣、中国人の思考様式、中国人の温かさと冷たさ―「中国」というものについて、また多くを学ばされた今年の春節でした。
2002.2.19
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