漢語迷の武漢日記 

< 第27回 さらば武漢 >


 いよいよ、三年近く暮らした武漢を去る時が来ました。『漢語迷の武漢日記』という名前がついているのを見て、武漢のことがいろいろ書かれていると思って読まれた方もいらっしゃると思いますが、これまでほとんど武漢という所について、触れてきませんでした。触れてこなかったのは、書くとついつい、愚痴が多くなってしまうということがあります。しかし、武漢で書くのは最後になると思うので、武漢について簡単に述べておきます。
 武漢という都市は、日本ではあまりよく知られていないと思いますが、中国の14大都市の一つです。日本で言えば、政令指定都市に匹敵すると言えるでしょう。しかし、同じような規模の都市、例えば、昆明・成都・ウルムチなどと比べると、率直に言って、街は汚くてあまり整備されておらず、交通も整っているとは言えません。
 気候はかなり厳しく、「中国三大かまど」に数えられ(あと二つは重慶・南京)、真夏は40度を越えることもたびたびです。一方、冬は冬で、零下5〜6度ぐらいまで達し、東京よりもだいぶ寒くなります。典型的な内陸型の気候と言えるでしょう。留学生宿舎には、今は空調がついていますが、中国人学生の宿舎には、そのような設備はないので、彼らは本当に大変です。
 観光地と言うと、有名なのは黄鶴楼ですが、残念ながら85年に再建されたもので、中にエレベーターがついているのを見たときは、本当にがっかりしたしたものです。大学のすぐ横にある東湖はとても大きい湖なのですが、汚染がひどく、時には死んだ魚がたくさん浮くこともあります。人が泳ぐのはかなり危険だと思います。武漢を観光されるとしたら、お勧めできるのは、磨山公園です。ここの山の上からは、東湖が一面に見渡せ、なかなかいい眺めです。
 武漢人というと、中国では「口汚い、マナーが悪い」人の代名詞になっています。確かに、街では人を激しく罵倒する声がよく聞こえます。武漢では、バスから下りるとき、前からも後ろからも降りるので、私もその習慣がすっかり身についてしまったのですが、アモイで前から下りようとしたら、運転手に怒られました。私の友人も広州で同じようなことがあったそうです。その時、「武漢人はマナーが悪い」という言い方が、あながち偏見ではないと思ったものです。
 こんなことばかり言うと、何か武漢は良いことがないと思われるかもしれません。しかし、武漢は中国らしい趣を残した都市だと言えます。上海や深センなどの沿海部の大都市に行き、林立するビルを見ると、何か強い圧迫感を感じると同時に、寂しい気持ちになります。「中国」があまり感じられないのです。そうした大都市から武漢に戻ると、何だかホッとしたような気持ちになったものです。
 そして、この日記に書いてきた中国人の日本観・日本人観は、武漢のような内陸都市ならではかも知れません。北京・上海・広州などの外国人が比較的多い場所なら、日本に関する情報がもっと多く、日本に対する理解ももう少し深いかもしれません。しかし、このような大都市に住んでいる人は、中国全体から見ればごく一部なので、武漢人の日本観・日本人観は、中国人の日本観・日本人観の平均像に近いと言えると思います。
 私のいる大学は桜で有名で、毎年、桜の咲く時期になると、多くの観光客が訪れます。この時期になると、大学が入場券を売り始めたのには最初は本当に驚きました。大学もこうしてビジネスをやるのです。  この桜の一部はかつて武漢を占領した日本軍が植えたもの、一部は日中国交が回復したときに日本から贈られたもの、一部は日本のかつての兵士で作った団体が、過去の自分たちの罪を悔いて贈ったものと聞いています。学生宿舎の一部は、かつては日本軍の病院だったそうです。  昨年までは、桜が咲くと、「国辱を忘れるな」と書いた紙が桜の木に貼られていました。国辱とは、かつて中国が日本に侵略されたことを指しています。武漢は、日本に占領され、被害が大きかった場所の一つです。
 私は、みんなが観光を楽しんでいる時に、このように歴史や政治を持ちこむようなやり方にはあまり賛成できません。しかしながら、多くの中国人の中に、戦争の記憶がまだ深く刻まれていることもまた事実です。
 今年の労働節の連休のときに、友人と共に、湖南省の省都・長沙を訪れました。岳麓山を登ると、一つの寺がありました。私は、一緒についてきてくれた、地元の学生の聞きました。 「これは再建されたものですか?」
 彼は、少し顔を歪めながら、答えました。
「そうです。元の寺は、日本の空襲で焼かれてしまいました。長沙には城壁もありましたが、それも日本の空襲で焼かれてしまいました」
 最近、日本では「中国人の日本人に対する憎悪は、反日教科書やマスコミを通じた共産党の宣伝によって作られたものだ」ということがよく言われているようです。このような見方も、全く間違っているとは言えないでしょう。なぜなら、自己の政権を正当化するために、過去の敵の罪悪と、それと戦った自らの功績を格別に強調するということは、歴史上、数多く行われてきましたし、現在もいろいろな国で行われているからです。しかし、このような考えは、一つ大きなことを見落としていると思います。それは、例え教科書やマスコミの宣伝がなくても、かつて戦争を体験した世代の消すことのできない記憶が、代々語り継がれているということです。武漢や長沙にいる中国人たちの地域的な戦争体験は、教科書に書いてあるわけではありません。それは、家族や地域から引き継がれてきた記憶なのです。
 ある友達が、おじいさんの戦争体験を話してくれたことがあります。
「日本軍が攻めてきた時、おじいさんたちは慌てて逃げた。しかし、しばらく行くと、おじいさんは自分には欠かすことのできない酒を家に忘れてきたことに気づいた。そこで、急いで酒を取りに帰り、また逃げた」
 こんな、大変な中にもユーモラスな話も含め、中国では戦争体験が非常に子や孫の世代に伝えられています。ここは、日本とはだいぶ違う所だと思います。ですから、「中国は反日教育をやめろ」などと言っただけでは、日中間の軋轢は解決しないと思います。やはり、中国の人たちの中で受け継がれている戦争の記憶、憎悪の記憶をどう和らげていけばいいのか、日本の側も真剣に考えなければならないのではないでしょうか。

 この三年間の武漢での生活の中で、本当に多くの中国の先生や学生と話しました。中国の多くの土地を旅しました。そして、中国に対する印象は大きく変わっていきました。その中で、一番強く感じたのは、多くの中国人が、日本、あるいは日本人という存在を本当に一面的にしか理解していないということです。同時に、私の中国に対する理解が深まるにつれ、日本人もまた、中国、あるいは中国人に対する理解が欠けているということも感じるようになりました。そして、この『漢語迷の武漢日記』のテーマも、いつの間にか、真実に近い中国の姿をどう伝えていくか、日中両者のギャップをどうしたら埋めていけるか、ということが主になっていきました。
 私は間もなく武漢を離れますが、自分自身がもっと中国という国を理解したいという強い気持ちもあり、この7月から中国の経済特区・深センで仕事をすることになりました。今後はビジネスという角度からの情報も含め、これまでの『漢語迷の武漢日記』の名称のままで、私の中国レポートを引き続き読者の皆さんにお送りしていこうと思います。今後とも、よろしくお願いします。


2002.6.23



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