漢語迷の武漢日記 

< 第32回 開発区の調査 >


 現在、日本企業が続々と中国に進出していますが、その大きな理由の一つが労働コストの安さにあることは言うまでもありません。 しかし、私のいる深センも経済の発展とともに、徐々に労働コストが上がりつつあります。 そんな中で、私のいる会社でも、内陸部でさらに安い労働コストで生産が可能なのかどうか、調査をすることになりました。 そして、その重要な仕事が何と、会社に入りたての私のところに回ってきたのです。
 最初はどこから始めたらいいか、検討もつきませんでしたが、とにかく中国全国の目ぼしそうな開発区(工業団地)を調べ、片っ端からメールとファックスを送り、資料を取り寄せることにしました。 すると、いくつかの開発区からは何度も電話やメールをもらい、実地調査を熱心に勧められました。また、多くの開発区の人が遠いところからわざわざ深センまで訪ねてきて、開発区の説明にやってきました。 この時、いま全国の開発区の人たちが必死になって企業誘致をしているのかということを知りました。ましてや、外資企業となれば、なおさら力が入るのでしょう。 特に、いわゆる「西部大開発」の対象になっている西部地区に属する開発区の人たちは、外資企業に対する優遇政策を一生懸命説明してきました。 中国がWTOに加盟して以来、外資に対する優遇政策の廃止が取りざたされていますが、西部大開発の対象地域については、少なくとも2010年までは優遇政策を継続するという政策が中央政府から出されています。 西部地域の開発区はここを一つのセールスポイントにしようというわけです。
 説明に来た人に中には、投資環境について細かい質問をしても全然答えようとせず、「まず、友達になりましょう。今度カラオケに行きませんか?車で送り迎えしますよ」などと言ってくる人もいました。 この人は沿海部にある、日本企業が大量に進出している地域の工業団地の人で、日本語もかなりわかり、日本人との接触もかなり多いようでした。その人がこういうやり方で誘致をするこということは、それに引っかかる日本企業も多いということでしょうか。 日本企業も随分なめられたものだと思いました。
 ある時、西部地域に属する省の省都にある開発区の企業誘致会に参加しました。誘致会は香港で開催されたこともあってか、参加したのはほとんどが香港の企業で、日系企業ので参加したのは私のところだけでした。 それもあってか、注目度は大変なもので、何と地元のテレビ局や新聞社までが私を取材してきました。戸惑いながらも、テレビカメラの前に座った私に、記者は聞きました。 「なぜあなた方の会社は、ここに投資することを決定されたのですか?」  投資を決めたわけではなく、ただ企業誘致会に参加しただけの私は、テレビカメラを前にして、内心この誤解というか決め付けに驚き、困惑していましたが、とりあえず「まだ投資を決めたわけではないですが、この開発区は投資環境において、こういう優位性があるので、いま調査を進めています」 と適当に答えておきました。このような誤解が生じるのも、外資企業の投資に対する地元の極めて大きな期待というものを表していると思います。  このようにして、説明を聞いたり、資料を取り寄せたり、企業誘致会に参加したりして、実地調査に行く候補地を絞っていきました。残ったのは主に、西部地区の比較的大きな都市、国家級や省級の開発区でした。 大きな都市を候補にしたのは、これまでの日本企業の失敗などを見ていると、政府との関係でトラブルが起こっている例が非常に多く、小都市の開発区などを選ぶと、後々問題が起こりやすいのではないかと思ったからです。
 こうして、大まかな実地調査の計画を立て、総経理に見せました。 すると、「西部地区でも、こんな大都市ではだめです。コストが高すぎます。こういう所はこれから日本企業が出てくるところです。私たちはもっと先を行かなければなりません」「私たちは中国での経験も長いのですから、何もかも整備された大きな開発区になど行く必要はありません」と、あっさり一蹴されてしまいました。 なるほどと思い、発想を全く変えて、西部地区の小都市を中心に調査に当たることにしました。ところが西部地区、しかも小都市の情報となると、ネット上ではほとんど検索できません。 そこで、とにかく現地の政府の電話番号を調べ、そこから開発区や工業用地の情報を聞くことにしました。 ところが、小さな都市となると、これまで連絡を取ったところのように必ずしも大歓迎というわけではありません。多くのところは、まだ企業誘致という意識が希薄なのです。 「いったい何の用だ」という態度のところもあれば、政府なのに、電話すら取らないところもあります。 こうして、時には電話をいろいろな部署にたらい回しされたりしながら、どこの都市も何とか企業誘致を担当している人に連絡をつけることができました。 企業誘致の担当の人のところまで来ると、さすがにそれなりの対応をしてくれます。実地調査のアポイントも取ることができました。
 というわけで、まず西部地区のA省のいくつかの小都市を調査することになりました。 調査した都市のうち、日系企業がある所は一つもありません。もし私たちが工場を作れば、日系企業第一号ということになります。調査に来た日本人は私が初めてという所もありました。 対応にはそれぞれ差がありましたが、場所によっては大変な歓迎ぶりで、中には市長や副市長が直々に現れて懸命に企業誘致をするという所もあり、びっくりしてしまいました。 そこには外資企業どころか、工業自体がほとんどないようなところで、私たちを誘致することで、何とか経済を活性化させていきたいという必死の思いが伝わってきました。
 この町では、こんなこともありました。時間に余裕があったので、政府の人が解放軍の駐屯地に私を連れて行ってくれました。 軍の人たちが自分たちで植えた野菜などで作った料理をご馳走になっているとき、政府の人が軍の人たちに私の名前を紹介しました。 しかし、それは私の日本の苗字ではなく、頭の一字だけを取って、中国人として紹介したのです(私の苗字の頭文字は、中国人にもよくある苗字なのです)。 そのとき私は初めて、実は外国人が入ってはいけないところに連れてこられたのだということに気がつきました(それなら事前に言ってほしいなと思いましたが)。 仕方なく、私はずっと中国人のふりをして通しました。 その後、ピストルやライフル銃まで撃たせてもらったのですが(こんなことができるのは、一生で最初で最後かもしれません)、軍の人たちが私を外国人だと知ったら、そんなことは絶対にさせなかったでしょう。 私はいつかばれるのではないかとハラハラしていましたが、政府の人がここまでしたのも、私の対する歓迎の意を示したかったのでしょう。
 この町を去る間際に、政府の人は私の手を両手で硬く握りながら言いました。
「私たちの町のことをしっかりと社長さんに報告してくださいね。忘れないでくださいね」
彼らの収入が、企業誘致の成功とリンクするようなしくみになっているかはわかりません。 しかし、その時の彼の様子は、何かそういった経済的な動機に基づいているというより、「わが町を発展させたい」という純粋な気持ちと責任感のようなものに裏打ちされているように感じられました。
 A省に続いて、同じく西部地区に属するB省の調査に行きました。B省は、中国全体の中で経済発展が遅れている西部地区の中でも、最も貧しい部類に属するところです。ここでも、日系企業の調査は初めてという町がありました。 事前調査の段階で気づいたのですが、A省とB省には一つの違いがありました。 A省の開発区にはレンタルの工場というものはほとんどなく、ほとんどの地域で自分で建てることになっていたのに対し、B省には、レンタルの工場が豊富にあるという触れ込みの所が多かったのです。 しかし、実際にB省に行ってみて、なぜB省にはレンタルの工場が豊富にあるかが分かりました。そのほとんどは、生産停止した軍事関連の国有企業のものだったのです。
 かつて、中国がアメリカともソ連とも対立状態にあった時代、毛沢東は戦争に備え、工業基地、特に軍事関連の工業を、敵に容易に侵入されない内陸地域に移しました(三線建設)。 ところが、改革開放政策が取られるようになり、冷戦も終結した後、工業の中心は沿海地域に移っていきました。こうして、もともと立地条件も不利な内陸地域の国有企業は赤字経営となり、ついには生産停止に至ったのです。 私が政府の人に連れられて見学したのは、まさにこのような国有企業の残骸とも言えるものでした。
 ある工場では、元工場長という人が出てきて、こう説明しました。 「ここは中国で最初のコンピューター工場だったんですよ」 こんなことを言っては失礼なのかも知れませんが、まさか、このような内陸地域に、中国最初のコンピューター工場があるなどとは、私には思いも寄らないことでした。 恐らく当時の中国では、軍事関連のところから科学技術が発展していったのでしょう。 そのかつての栄光を聞くと、いま目の前にある、人のいなくなった古びた工場が余計に悲しく見えました。
 このような国有企業を政府の人に連れられて、いくつも見ましたが、これらの工場は大体60年代の末から70年代の初めに建てられたもので、レンタルといってもとても使えるようなものではありませんでした。 ある企業の人は、工場そのものに売り込める要素が少ないのを知ってか、「ここは夏になると、緑がきれいなんですよ。生活するには最高の場所ですよ」とか、 「ここは風水で言うと、建物の向きがいいんですよ。風水は東洋人共通のものでしょ?」などと言ってきました。何だか聞いていて、可哀相になってきました。 B省の各都市の政府にとって、企業誘致とは、国有企業の残骸をどう処理するか、そして、国有企業を下崗(シャアガン=レイオフ)になった大量の労働者の雇用の問題をどう解決するか、ということのようでした。 これは極めて深刻で、差し迫った問題です。彼らの場合、不幸なのは、このような結果になったのは必ずしも彼らの努力不足、「親方赤旗」だけによるものとは言えないことです。 もともと、このような内陸地域は交通も不便で、工業を興すには向いていない地域であるにも関わらず、先にも述べたように、三線建設という国策によって無理に作られたものだからです。 その当時はそれなりの国際環境があり、その環境の中で決められた政策を現在の観点から見てただ批判だけすることはできないと思いますが、いずれにしても、当時の政策の重い負債を今の西部地域の政府が負わざる得なくなっていることだけは確かです。
 今、日本では「中国はこんなにすごい」「中国はこんなに急速に発展している」という報道ばかりがされているように思います。 しかし、その影で、いまだに60年代、70年代の政策の重いつけにあえいでいる地域が内陸部に広範に広がっていることも伝えるべきであると思います。
 さて、ビジネスとしての観点から言うと、この地域の高速道路などはものすごい勢いで発展しており、内陸部の交通はかなり便利になっています。こんな所に、という所まで高速が通り、あるいは計画されています。 これは、誤解を恐れずに言えば、一党独裁の利点とでも言えるのでしょうか。政府が「西部大開発」と掛け声をかければ、一気に物事が動いていきます。 内陸部の各政府がこんなにも必死になっている背景にも、中央政府による「西部大開発」の政策があると思います。 この点、「改革、改革」と言いながら、10年間、ほとんど何の改革も進めることができていないわが母国と著しいコントラストをなしています。 もちろん、こうしたトップダウン型の組織の弊害もまた大きいことは言うまでもありませんが。
しかし、このように交通などが便利になっているのはいいのですが、労働コストの面などから見ると、必ずしも沿海部と比較して大きな優位性を持っているとは言えません。 つまり、沿海部とそれほど明らかな差がないのです。考えて見れば、これは当然のことかもしれません。沿海部に来て働いているワーカーのほとんどは、これらの西部地域からの出稼ぎなわけですから。 交通は沿海地区に比べて不便で、労働コストもそれほど違わないとなれば、材料が近くにあるといった特別な理由がない限り、企業が西部地区に出る理由はありません。 この辺が、「西部大開発」の政策の下、様々な優遇政策が出されているにもかかわらず、西部地区が今ひとつ伸び悩んでいる理由かもしれません。
 今回はビジネス目的の内陸部の調査でしたが、この調査を通じて、また中国の新たな一面を見ました。 中国と一口に言っても、13億の人口があり、内陸部には沿海部とは全く違った世界が広がっています。それは、「発展する中国」とはまた別の世界です。そのことを改めて認識した開発区の調査でした。
※都合により、具体的な省名や都市名は出すことができません。ご了承ください。


2002.12.23



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