”本多勝一研究会”を見た感想


”本多勝一研究会”を見た感想を以下に述べます。


<1> カンボジア報道に関する書き換え問題と言われているものについて

 カンボジア報道に関する書き換え問題と言われているものについて、事実関係は知りませんが、 私は以下のようなことを考えました。

 ベトナム戦争当時、本多勝一氏はベトナムに取材に行き、アメリカ軍のベトナムでの残虐行為を 目の当りにした。(『戦場の村』、『殺される側の論理』)→ それに対し、北ベトナムの解放戦線 (共産勢力)はアメリカ軍に徹底抗戦し、一般農民や少数民族からも支持を受けていた。 そもそもアメリカ軍がはるばる太平洋を超えてベトナム人を殺戮していること自体がおかしい。 それにも拘わらず『ディア・ハンター』などのアメリカ映画のように、アメリカ側から描かれたベト ナムは、共産軍が悪玉となっていて、まったく正反対の描かれ方となっていた。

 本多氏はベトナム戦争取材後、アメリカ合州国を取材し、その後、日本軍が中国で何をしてきたか を取材するため、中国へと向かった。(『中国の旅』) → 日本軍が中国でむちゃくちゃな虐殺その他を行っていたことを知った。 → その日本軍に徹底抗戦し、苦しめたのは、蒋介石軍ではなく、人民解放軍(共産勢力)であった。 また、中国共産党は日本軍の捕虜を扱う際、思想的に矯正することによって日本軍国主義に報いた。

 それらの取材経験により、カンボジアにおいてアジアの共産勢力が自国民の虐殺を行っているなど まったく信じ難いことであった。→ 例によってアメリカの宣伝かもしれないと思った。

→しかし、どうも事情は違うようだ。→ 現場に行って取材しなければわからない。→ カンボジアに取材に 行った。(『検証・カンボジア大虐殺』)→ ポルポト共産勢力がもの凄い虐殺を行っていたことがわかった。 カンボジア大虐殺は紛れもなく本当であった。

→ 結論として、共産勢力によるカンボジア大虐殺はあった。あったどころか歴史上でもまれに見る凄まじい 大虐殺であった。共産勢力と名乗っていても、このようなむちゃくちゃなことをするものもあった。

 流れとしてはこんな感じではないでしょうか?

 わたしは『検証・カンボジア大虐殺』を読んだとき、よくもこれだけ取材した、と改めて本多勝一の 取材力、現場主義に敬服しました。あれだけ詳細な取材を行ったジャーナリストが他にいた でしょうか?

 その後の著作でカンボジアに関する記述の書き換えがあったかどうかは別として、 『貧困なる精神』や朝日文庫の本多勝一シリーズにおいて、文庫化されたり、重版が出るのを 機会に、収録内容の入れ替えを行ったり、追記を行っているのは本人も明記している通りであって、 珍しくも何ともないことだと思います。読む側にとっては誤りは訂正されているほうが有り難いことは 言うまでもないことです。

 また、一般的に著作物において、不適切な個所があれば著者が訂正し書き換えるのは当然のことであって、 むしろ放置したままのほうが無責任となる場合が多いでしょう。

 さらに、例え本多勝一氏が過去においてカンボジアに関する記述の書き換えを行ったとしても、どうしてそれが 大騒ぎするのに値するのでしょうか?むしろそんなことを大騒ぎする感覚のほうに違和感を覚えますが?あえて 大騒ぎする意図は一体何なのでしょうか。

 もっと言うと、どうして何の関係もない他者が”改竄”だと騒ぐのでしょう。”書き換え”ではなく意図的に”改竄”という表現を 使っているのは何故か?手持ちの国語辞典で”改竄”という言葉を調べてみると、”悪いことに利用する目的 で、文字を書きかえること 「小切手の−」 ”(三省堂 国語辞典)とか、”字句などを改め直すこと。多く不当に改める 場合に用いられるようになった。”(岩波書店 広辞苑)となっています。言葉の使い方としてあまりふさわしく ないように思うのですが?他人の文章を本多勝一が改竄したというのならまだしも、自分自身に著作権のある著作物を 自分自身で書き換えることに対し”改竄”だと騒ぐのは、むしろ騒いでいるほうがおかしいのでは?”改竄問題に対する 本多勝一氏の見解”などという表現をむやみやたらと使っていいのでしょうか?何も知らない人がそれを見たら本多勝一が他人の 文章を不正に改竄したと勘違いするのでは?それともあえて人に誤解を与える目的でそのような表現を使っているの でしょうか?だとすれば逆に騒いでいる連中こそが大問題では?本多勝一研究会とはそういう悪意をカムフラ ージュする目的で作られたのでは?そう考えればすべてはしっくりきますが。文藝春秋の手口とそっくり、いや、 本多勝一ファンまで取り込もうとしているところが、文藝春秋以上ではないでしょうか。


<2> ”「本多勝一研究会」へのお誘い”に対する初歩的な疑問

”「本多勝一研究会」へのお誘い”を読みました。引用しながらその文章に対する初歩的な 疑問を述べたいと思います。

”新刊書店経由で入手できる本多氏の著書に目を通しさえすればその思想の軌跡が正確に辿れると 無邪気に信じ込んでいた私達は、このような事態に直面して、氏の著作の過去の各版・各刷を比較照 合し改変や抹消が行なわれていないかを確認する必要に迫られました。”

とありますが、何故”必要に迫られた”のでしょうか?。わざわざ調べなくとも”無邪気に信じ込” まなければいいだけのことではないでしょうか。歪曲して信じ込むからおかしくなるのでは? 普通の感覚であればこの著者は信用できないと思ったら、もう読まないで終わりになるのではないで しょうか?もし、昔に出版された本多勝一の著作物が読みたければ図書館や古本屋に行けばいくらで も読めるではないでしょか?わざわざホームページを立ちあげ、人を巻き込み、何とドメインまで 取得し、しかもうっとうしい広告ウィンドウまで出してやるようなことでしょうか?どうしてそこまで やれるのでしょう?他に目的があるからでしょうか?
 本多勝一の著作を調べる前に、信じ込んでおかしくなった自分自身を検証し、改革したほうが問題は 早くかつ本質的に解決すると思います。真面で。

”ジャーナリズムに対する健全な批判精神と責任意識が私達の間に形成されていくことを願ってや みません。”

と、もっともらしいことが書かれていますが、それだった文藝春秋とか新潮とかアエラとかSAPIOとか、 読売新聞とか産経新聞とか朝日新聞とかNHKとかフジテレビとか、他にとりあげなければならない巨 大なメディアが五万とあるのではないでしょうか?やるんだったらそれらのメディアにこそ”健全な批 判精神”を発揮したほうがいいのでは?

 思うに、この文章を書いた人はきっと自分で自分が何を目的としてやっているのかわかっていないので はないでしょうか?わかっているとすればカムフラージュのつもりでこのような胡散臭い文章を書いて いるのでしょうか?


<3> なんでこのサイトは”漫画”になってしまっているのか

 まず、根本的な問題として本多勝一を研究すること自体に問題があるのではないでしょか?

 本多勝一はアイドル歌手でもタレントでもなく、ジャーナリストであって、何かしらの対象を取材するこ とを仕事としてきた人です。そうであるのに肝心の取材の対象(例えばベトナム戦争、日本軍の中国にお ける侵略行為、環境問題、民族問題、教育問題、日本社会の欠陥など)が議論になるのではなく、本多勝一自身 が研究の対象となっている。そういう二次的なものが議論の対象となっていること自体に違和感があるように 思います。また、なんのために本多勝一を研究するのか?誰の視点で研究をするのか?それによって研究の内 容、結果が全然違ってくるのでは?例えば、いかにして本多勝一のように驚異的で勇気のある 仕事を残せるのかとか、論理的でわかりやすい文章が書けるのかとか、本多勝一の仕事は海外ではどのように 評価されているかとか、そのようなことが研究対象となるのではなく、どうでもよい揚げ足とりのようなこと ばかりが”研究”されていては、まさに”非生産的”と非難されてしかるべきでしょう。非難をした人は偉いと 思います。

 さらに言うと、本多勝一ファンが主催しているサイトならともかく、サイトの提案者が西村有史という 本多勝一大嫌い人間であって、そういう人間が本多勝一研究会を提案して出来たのだから、もうこの上なく胡散臭く、 本多勝一バッシング目的のサイトと勘ぐられて当然でしょう。 いくら管理人がもっともらしい意見を書いても、あの西村サイトを見たらすべての説得力は消え去ってしまう のではないでしょうか。管理人はそんなことがわからないのでしょうか?


<4> 最後に

 本多研には今後、是非とも、役に立つ研究をしてもらいたいと思っています。どうでもいいゴミみたいな”研究” ばかりしていないで、本多勝一氏にならい、環境問題、民族問題、日本が世界から非難されないために役立つこと を研究対象として欲しいと思います。このようなことを声にあげた人は過去においていないのでしょうか?それとも 本多研ではそんなものは研究対象としてはいけないことになっているのでしょうか?

1999.9.24


■ ルポ『検証・カンボジア大虐殺』

 ポル・ポト政権によるカンボジア民衆の大虐殺行為と本多勝一を結びつけて考えたとき、 何よりもまず思い浮かぶのは、ルポ『検証・カンボジア大虐殺』であろう。この第一級のルポ は、本多勝一が中国における旧日本軍の暴虐行為を検証した際に用いた手法を取り入れ、 国際的に見ても第一級のルポとして高い評価を得ている。本多勝一の他の数多くの傑作ルポと 並び、日本ジャーナリズム界の金字塔として間違いなく歴史に残る作品であろう。そのような 第一級のルポの評価を無視した本多批判など、全く話にならないどころか、批判とすら呼べない しろものではないか。批判となり得るためには、何よりもまず第一に『検証・カンボジア大虐殺』 を正当に評価することからであろう。本多勝一が、ポルポト政権下における大虐殺などありえな いという人々を批判したのは、まさに本人が現場に行って、詳細な取材を行い、 『検証・カンボジア大虐殺』というルポを残したからであって、それと分別して考えることなど 不可能なのだ。その不可能を平然とやってのける連中の言い分がまともに相手にされないのは 当たり前のことだ。さらに書き換えどうのこうのと、連中が言っていることに関しては 既に述べたとうりだ。

1999.11.24


■ 共有掲示板によせられた777さんのご意見を紹介致します。以下。

 本多研って、私もこの前、見ましたけれどもあれは、学問の世界で は既に70年代頃から行われているようないわゆる「実証原理主義」 的なやつのインターネット版だってだけのことですね。これって大 抵、反体制叩きのためにやり始めた体制イデオロギーの隠れ箕的 「客観主義」な訳で、それ自体既に十分過ぎるほど「イデオロギー 的」なんですが、こういうのは古くは戦前からあるものなんですね。 ヨーロッパの学説史を概観してみるとよく分かりますよ。 実証主義(特に原理主義的なやつですが)の弱点と言うのは、それ が期せずして「体制イデオロギー」の隠れ箕になっちゃうってとこ ろにあるんですね。(今はそれを「意図的」にやってるみたいです けれど)「実証」それ自体は学問においてはとても大切なことなん ですけれども。これがないと逆にイデオロギー原理主義になって、 学問は逆のベクトルから崩壊して行くんですけどね。(後期のカー ルシュミットがそうですね。)

 しかしそれにしても、本多さんのことは私よく知らないんですけれ ども、確かにあの人の場合、人間的に本来熱中しやすいタイプで、 そのために細かい点まで目が行かないようなところがあるのは確か だと思うんですけれども、しかし対象に対する読み筋と言うのは大 体本筋のところを押さえていて、そこがジャーナリストとして魅力 的なところである訳でしょう。凡庸じゃない訳ですね。ただ小利口 なだけの実証原理馬鹿と違って。

 後、書き換えのことですけれども、違った事実を記してあれば、そ れを正しい事実に変えるなんて言うのは、ジャーナリストとしては 当然のことでしょう。やらない方がむしろ「犯罪」な訳ですよ。そ れは自らの言説に対して何の反省−責任も持てない「ただの馬鹿」っ てことなんだから。だから、書き換えの問題を言うんだったら、何 で本多がそこのところを後になって書き換えたのか、と言うことか ら、事実或いは事件の本質を探って行くのが筋な訳でしょう。で当 時の状況で何で本多がその点の認識を誤ったのか。そういうところ を明らかにして行けば、その方がよっぽど「歴史的」意味がある訳 です。ところが、あの研究会なんてそんなことは一つもやってない 訳ですね。


 掲示板における削除の問題は本来思想的にはかなり微妙な問題を孕ん でいると私は個人的に思っています。と言うのも、 こういうのは一種のPCだと思うんですが、このPC(ポリティカル・コレクト) 的言語操作と言うのは最近でこそ進歩的思想の持ち主がやっているからまだ良い ようなものですが、これってよく考えてみれば、元はと言えば「体制側の専売特許」 だった訳ですね。例えば、フランスなどがそうですが、絶対主義が成立すると同時に 中央の宮廷文化の確立も意識されるようになり、それに沿ってアカデミーが仏語それ 自体を次第に洗練された言語へと転換して行った訳ですが、 そういう風に出来た言語と言うのはいわば「体制側の価値判断」 を反映した上でコード化された「閉じた言語」となっている訳ですね。

 そして最近のもっと分かり易い例を出せば、例えば自民党などが先 の参院選で敗北して以来進められている我が国マスコミにおける 「選挙関連」報道に対する「言語規制」或いは「報道規制」、これ なんかはPCと言うのが本来どういう性質のものか端的に現している いい例だと思うんです。つまりPCと言うのは本来言語における「権力」 そのものだと言うことですね。ここを見逃すといけない。

 しかし、とは言うものの、完全なアナーキーにしてしまうと、掲示 板と言うのは大抵目茶苦茶になってしまう訳です。特に左翼関係の 人がやってるような場合はね。右派の組織的な悪意100%の無意味な 撹乱が入って来る訳でしょう。そういうとこって。私は社民党衆議 院議員の保阪展人のHPをよく見ているのですが、この人のHPに以前、 「市民の掲示板」と言う「掲示板」コーナーがあったんですね。で もこの掲示板と言うのが本当にひどくて、いわゆる「本多研」にた むろしているような右派のクズ連中みたいなのが嘘八百の御託を毎 日毎日性懲りもなく並べ立てて(それが余りにも程度が低くて笑っ てしまうんですが。つまり怒る気にもなれないようなそんな代物な んですね。)、掲示板自体が成立しないような感じになってたんで すね。それで間もなくして保阪のHPからはこの掲示板コーナーは消 えたんですけれども。

 まあ、私としてはこういう両義的な側面を伝えたかったんです。そ れで提案なんですけれども、こういう連中の投稿をただ削除にする だけでなくて、もう一つ別口のコーナーをこのサイト内に作ってそこに、 「過去これこれのボツ投稿が来ました。」と全文公開して、 そして一つ一つに削除理由を一言付け加えて言ってみてはどうでしょうか。 これだと、そういう程度の低い投稿を見たくない人は見なくても済むし、 また掲示板本来のパブリシティを損なわずにすみます。それに何より、 それを見て頭の程度の低い右派諸君が少しはまともな「保守的思考」 或いは「批判・批評」と言うものを学んでくれるきっかけになれば (まず有り得ないでしょうが)それはそれで結構なことだと思う訳です。

2000.3.4



追記)本多勝一研究会によるカンボジア大虐殺ネタが実はデッチあげであったことが 後に判明しました。


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