” だが両者には決定的な違いがある。それは、南京大虐殺当時はもちろん、
日中戦争が終わるまで、日本にはついにラス=カサスが存在しなかったことだ。
小林多喜二そのほかの反戦者はむろんいた。だが直接的体験者や学者による
事実の告発はなかった。人類への巨大な犯罪が行われているそのときに、
同時進行的に告発した「日本の良心」(つまりは真の愛国者)がいなかった。
これは二重の意味で恥である。大虐殺という第一の恥と、それを告発する
ものがいなかったという第二の恥と。スペインは少なくとも第二の恥はまぬがれた、
ラス=カサスという愛国者の存在によって。
南京大虐殺の否定派諸君が、でっちあげ史料まで使って否定にやっきに
なるほどヤブからヘビを招き、今は高齢となった虐殺実行者たる元兵士の一部が
体験を告白しはじめている。遅きにすぎるとはいえ、この老兵たちが日本の良心
たることに相違はない。今になって「第二の恥」を返上しようというこの愛国的行為
にたいし、かなしき右翼の諸君は「売国奴」の名を投げつけ、日本の恥さらしだと言っている。
いったい「売国奴」はどちらで、真の愛国者はどちらなのですか。いくら論理と
倫理に弱いことで定評のある日本人とはいえ、こんなことがわからぬほど「知識水準」
が低くはないと思うのだが・・・・。”
” このように文化は土着しなければ単に流行として過ぎ去り、
本当の文化として根を下ろしたことにはなりません。
宗教も芸術も思想も、その民族固有の色彩が加えられらて、
結局は民族文化となってゆくのであります。つまり文化は、
その民族にとって生きることの意味であり、いわば「生きる拠り所」であるとも言えましょう。
それでは、日常の立ち居ふるまいから思想に至るすべての文化の中で、
民族の存亡にかかわるような重大な核となっているのはなんでしょうか。
それを奪われることが最も致命的打撃となる文化は?
それは着物でもなければ住居でもありません。人類が毎日話している言葉、
民族それぞれの言葉であります。ある民族から固有の言葉が失われるとき、
その民族文化は最も重大な危機を迎えます。反対に、極端な場合には人種的特徴が変わってしまっても、
言葉があるかぎり民族文化は滅びないでしょう。〜”
萱野さんの故郷・二風谷において、アイヌ語で生活する年寄りが残り少なくなり、
最後に残された者は、アイヌ語であの世に送ってもらう儀式−みずからのアイヌ文化の中
で死んでゆく喜びを享受することができなくなるため、萱野さんのお父さんはこう言った
そうです。「先に死んだほうが幸せだ」
この言葉の深い意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、
決して理解できないだろうと萱野さんは述べています。
”「 南京大虐殺が行われていた当時、私はまだ幼児でした。おっしゃるように、 たしかに”一般人民”としての幼児の私には、この罪悪に対して直接の責任はありません。 本質的には、中国の民衆と同じく、日本の民衆も被害者だった。ですから私は、同じ 日本人の罪悪であっても、私自身が皆さんに謝罪しようとは思いません。問題は過去より現在 なのです。日本の一般人民は、日本敗戦後二十数年を過ぎた今なお、中国で日本人が何を したかという事実そのものを知らされていません。日本がまた侵略戦争への道を歩んでゆく 危険があるとき、それを私たちがもし何もしなしで傍観しているとしたら、こんどは 私たちに直接責任があることになるでしょう。過去の軍国主義を ”おわび” したところで、 何にもなりません。現在の軍国主義への危険を阻止することこそ、真の謝罪になるのです。 今度取材した日本軍のツメあとの報道は、このような意味で現在の軍国主義の進行を阻止する ための、ひとつの闘いになるものと信じます。」 ”