『カンボジア大虐殺〜』タネあかし

TAKAOKU1420


 近所の図書館に行って、書庫の中から本多勝一『貧困なる精神』第4集 第1刷(すずさわ書店 1976年3月31日)を借りてきました。同タイトルの第9刷(1990年3月10日)は数年前に買って持っていました。

 ホンダケン(本多勝一研究会)やウワシン(『噂の眞相』)によるとこの第1刷の中に、本多勝一がポル=ポト派によるカンボジア大虐殺に否定的なことを書いたとされる文章(「カンボジア革命の一側面」 1975年『潮』10月号)が収録されているとのことです。

 その『貧困なる精神』第4集 第1刷の「カンボジア革命の一側面」読んでみると、要旨は、近隣諸国から常に侵略されて続けきたカンボジアの歴史を解説し、プノンペン陥落の際、解放軍(クメール・ルージュ)が外国人を追い出した背景を考察したものでした。

 驚いたことに、第1刷の時点でしっかりと、プノンペン解放とともに市内から強制退去させられ、のちにサイゴンに逃れて本多勝一に取材を受けることとなった中国人女性スーさん(仮名)(朝日文庫『検証・カンボジア大虐殺』および本多勝一集『カンボジア大虐殺』では実名のキー=ホーさん)の話が掲載されているのです。
 そのスーさんの話の中では、ロン=ノルの妻の弟の家がクメール・ルージュに襲われて一家が手榴弾で殺された話、強制退去の際、近所の紅利さんら6人が殺されていた話(スーさんはクメール・ルージュに殺されたのではないかと推測)、プノンペンを離れた後、貴金属や宝石類をクメール・ルージュに取り上げられた話、相手が困るような質問をクメール・ルージュにした華僑が連行されて帰ってこなかった話、殺されるのを覚悟で食料(ヘビ)を盗んだ夫妻がクメール・ルージュによって公開銃殺された話、解放軍によって爆破された道路や焼失させられた市場が米軍やロン=ノル軍のせいにされた話、などがしっかりと記述されているのです。

本多勝一はそれに対し、

”スーさんの体験は、以上のようなものであった。革命の過程での、いわば被害者としての華僑スーさんの説明には、あるいは誇大なこともあるかもしれない。また、たとえばクメール・ルージュの中央の方針でないかもしれない。末端の誤りなのかもしれない。しかしそれでも、やはりこうした全体の状況は、私たちベトナム報道に長くたずさわった者の目からみると、とうてい擁護することはできない。一方しかし、こうした混乱もあるていど仕方のないものだとすれば、逆にベトナム革命がいかに巧みで輝かしい例かということの証明にもなろう。”(75-76頁)

と述べているのです。
つまりこの文章では、本多勝一は1975年当時、クメール・ルージュのやり方を”とうてい擁護することはできない”ものと明確に述べているわけです。さらにクメール・ルージュの指導性があったかどうかについては推測として否定的な見解を出していますが、プノンペン解放(1975年4月)以前にもカンボジア解放区において外国人ジャーナリストが次々と殺されたり行方不明になったことをしっかりと記述しているのです。

 それではホンダケンやウワシンが主張している、本多勝一がポル=ポト派の大虐殺を否定したとされる部分を見て見ることとしましょう。その文脈は中国人女性スーさんの話よりも前にあり、次のように記載されています。

”さて、その別の例と思われるものに、プノンペン解放後の外国人対策がある。プノンペン全市民を退去させたこと自体には、それなりのカンボジア革命路線があったのであろう。例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くのウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。さきにのべたような背景を理解すれば、そうした誤りを犯す感情もよく理解できるけれども、これはやはり克服しなければ、帝国主義勢力に対する幅広い国際統一戦線にとってマイナスに作用するだろう。”(64頁)

この文脈であきらかなように、プノンペン陥落の際 ”アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」”がウソだったと言っていっているのであって、実際にどのような宣伝をアメリカがしたのか詳細は不明ですが、事実としてこの時、多くの市民は虐殺ではなくて強制退去させられたわけです。さらに、”末端にはやはり誤りもあったようだ”と述べ、プノンペンから全市民を退去させた際に”誤り”があったことも指摘し、背景は理解できるが、”国際統一戦線にとってマイナス”であるとも述べているわけです。
 そして、”アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」”を受け”過大に増幅して書き立てる反動側の文筆家”(64頁)に反論する意味で、この文脈のあとに、先にあげた、実際にプノンペンから強制退去させられた中国人女性スーさんの話を掲載しているのであって、その証言こそがまさに、”アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」”をウソとみなす明白な根拠であったわけです。

 これらの事実から、第9刷で”アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くのウソだった〜”という部分を書き直した意図が判明します。実際に書き直した部分を見てみましょう。

”さて、その別の例と思われるものに、プノンペン解放後の外国人対策がある。プノンペン全市民を退去させたこと自体には、それなりのカンボジア革命路線があったのであろう。アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが、すべては鎖国状態の中にあっては事実そのものが全くわからず、噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない。”(第9刷 64頁)

事実として ”全市民がただちに虐殺された”わけではないのですから、”噂や一方的宣伝ばかりでは軽々に論じられない”という部分が一体誰に対して書かれているのかというと、それは第1刷でいう、アメリカの宣伝にのせられた”日本の反動評論家や反動ジャーナリスト”に対して書かれているわけです。つまり、この書き直しの意図は、”それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが”という第1刷の記述を、表現的に和らげて書いたもしくは上品に書いたということなのです。文章の意図する内容が第1刷と変化していないわけですから、これはわざわざ注釈をつけるようなものとは思えません

 結論としてこの第1刷の文章は、プノンペンからの市民強制退去について背景を理解はできるが 、クメール・ルージュのやり方全体については論理的に”とうてい擁護することはできない”というものであり、「カンボジア大虐殺を否定」するどころか、殺害を含めたクメール・ルージュの数々の問題点を世に提示したものでありました。さらに、第1刷と第9刷では書き直した部分も含め、文章の主旨に変化がなかったことも判明しました。


 実をいうと以上のような事実に加え、書かれている内容を加工してつぎはぎし、完全に歪曲してインチキな解釈したとても、この文章が「カンボジア大虐殺」を否定した文章として成り立たないことは明白なのです。なぜならこの文章が書かれたのは1975年10月以前のことなのです。プノンペン陥落(1975年4月17日) の際に混乱があったにせよ、それが後に総人口の30%〜40%が殺されるという20世紀史上空前の「カンボジア大虐殺」に発展するとその時点で断定することは理論的に不可能だからです。その断定することが不可能な未来をさらに否定するなどというのが馬鹿げたものであることは議論する余地もないでしょう。
 翌年の1976年、シアヌーク派を排除して民主カンボジア政府が樹立し、ポル=ポト首相が就任すると同時に、強制労働キャンプ同様のサハコーが作られました。ポル=ポト政権による虐殺はそのサハコー体制のもとで本格化するのです。住民は旧人民と新人民に分けられ、1977年後半には、多くの地方で新人民全員の殺害が始まりました。その年の末には旧住民の虐殺が始まり、虐殺は無差別化するのです。
 本多勝一が否定派を批判したカンボジア大虐殺論争とは、それ以降の話であり、ベトナム・カンボジア国境紛争の公然化(1978年1月)、本多らによって報道されたハチエンの虐殺(1978年3月)、さらにポル=ポト政権が崩壊(1979年1月)したあと、西側ジャーナリストによって報道されたカンボジア本土での骸骨の山々の写真を前にしても、大虐殺を否定する人たちを批判したわけです。


西暦カンボジア戦乱・虐殺の歴史と本多勝一の報道
1970年 アメリカの策謀に応じロン=ノル将軍がクーデター。シハヌーク元首を追放し政権を握る。アメリカ・南ベトナム寄りの政策を実施。シハヌーク殿下は中国の支援を得て、北京でカンプチア民族統一戦線(FUNK)とカンボジア王国民族連合政府(GRUNC) を結成し、ベトナム革命勢力との共闘を宣言。カンボジアは一転して戦乱の地と化す。
1973年 ベトナム和平協定に従ってカンボジアからベトナム革命勢力が撤退。多数勢力のシハヌーク派や新ベトナム派を排除し、ポル=ポトらが独裁的権限を握る。
1975年 4月 アメリカ合州国軍がプノンペンから撤退。ロン=ノル政権崩壊。 ポル=ポト派(赤色クメール軍)ら解放勢力が全土を制圧。プノンペン市民強制退去(本多勝一はこのときの模様の聞き書きを『潮』10月号に掲載)。
(4月 サイゴン陥落、ベトナム全土統一)
1976年 ポル=ポトらが国名をカンボジア王国から民主カンプチアに改め、シハヌーク元首に代えてキュー=サムファンを国家幹部会議長(大統領)に任命。ポル=ポト首相就任。国民大多数を強制労働キャンプ同様のサハコーに閉じ込める。
1977年 多くの地方で新人民全員の殺害が始まる。 この年の末には旧住民の虐殺が始まり、虐殺は無差別化する。
1978年 1月 ベトナム・カンボジア国境紛争の公然化。
3月 ハチエンの虐殺。本多勝一 カンボジア国境取材 朝日新聞掲載。
12月 『カンボジアはどうなっているのか?』(すずさわ書店)刊行。
12月 ベトナム・カンボジア戦争。
1979年 1月 ポル=ポト政権崩壊。ペトナム軍によるサハコーの解体。
1980年 8月− 9月 本多勝一 カンボジア本土取材 「カンボジアの旅」としてポル=ポト政権下の大量虐殺をルポ。朝日新聞連載。
(のちに1978年の取材とあわせ朝日文庫『検証・カンボジア大虐殺』・本多勝一集『カンボジア大虐殺』となる)
11月 『虐殺と報道』(すずさわ書店)刊行。
1981年 2月 単行本『カンボジアの旅』(朝日新聞社)刊行。
9月 『Jorney to Cambidia』(カンボジア英訳版)刊行。
参考文献:岡崎洋三『本多勝一の研究』(晩翠社)、本多勝一『検証・カンボジア大虐殺』(朝日新聞社)


 以上に説明したように、1975年の文章で本多勝一が「カンボジア大虐殺」を否定したという話は論理的にも物理的(時間的)にも不可能な話であって、1975年時点においてさえ、クメール・ルージュの数々の問題点を世に提示していたわけです。

 さて、これらの事実をふまえ、ホンダケンなりウワシンなりの文章を読んでみることといたしましょう。

<ウワシン 2000年11月号「日本ペンクラブ『声明』に噛みついた本多勝一の呆れ た“イチャモン精神”」より>

”虐殺否定派のことを「『虐殺はウソだ』」と、根拠もなく叫んでいる幼稚な段階の方たち」と斬って捨てているホンカツは、実をいうと、その数年前に自ら「カンボジア大虐殺はウソ」だと書いているのである。『潮』75年10月号には、ホンカツのこんな文章が掲載されている。「例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くのウソだったが(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)、しかし末端にはやはり誤りもあったようだ。」”(34頁)

<ホンダケンの宣伝メール http://www.monyo.com/~kojiki/dem/t2.htm より>

”その中でも最も驚愕すべき改変は、カンボジア大虐殺をめぐる本多氏の主張の大逆転にみられます。同氏はポル=ポト派によるカンボジア全土「解放」(1975年4月)後間もなく「カンボジア革命の一側面」(『潮』同年10月号掲載, 278ページ)と題する記事において「『共産主義者による大虐殺』などは全くウソだった」と断定していました。”

 恐るべきことに、これらの文章は、本多勝一の論評全体の主旨や、同じ論評の中の他の部分の記述を完全に無視し、論点とされる記述の前後の文脈を削りとり、特定の部分だけを抜き出して、まるで本多勝一が「カンボジア大虐殺」を否定したようにデッチあげているわけです。
 そう、本多勝一愛読者であるみな様はもうおわかりですね。これはベトナム報道に対して、改竄をしてまで本多勝一を攻撃してきた文藝春秋社『諸君!』の手口となんら変わるものではありません

さらにホンダケンの宣伝メールを続けましょう。

”この記事はすずさわ書店刊『貧困なる精神・第4集』(翌1976年3月20日初版初刷発行)にもほぼそのままの形で収録され、その後さして問題とされることもないまま第8刷(1987年3月25日発行)まで増刷を重ねています。しかるに同書第9刷(1990年3月10日発行)増刷時に至って件の虐殺否定の文言が抹消され、「事実そのものが全くわからず」 「軽々に論じられない」などと書き換えられています。つまり、同一出版社から刊行されている同一著者同一書名の初版本が、かたや虐殺全面否定(第1〜8刷)、かたや判断保留(第9刷)と全く異なる見解を表明しているわけです。”

再度説明する必要はないとは思いますが、第9刷の”「事実そのものが全くわからず」 「軽々に論じられない」”という部分は、第1刷の”(それを受けて宣伝した日本の反動評論家や反動ジャーナリストの姿はもっとこっけいだったが)”の部分にあたるのであり、アメリカの宣伝にのせられた”日本の反動評論家や反動ジャーナリスト”に対して書かれているのであって、”全く異なる見解を表明”しているというのは完全な誤りであり、第1刷も第9刷も文意としてほぼ同じことが書かれているわけです。

 ここまで説明しても理解出来ないという人はそうはいないと思いますが、蛇足として追加しておきましょう。
第1刷の ”例によってアメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」などは全くのウソだったが”
という部分は
第9刷の ”アメリカが宣伝した「共産主義者による大虐殺」によって全市民がただちに虐殺されたとも思われぬが”
にあたるのです。
 これでもわからないという人がもし仮にいるとしたら(そんな人はいないとは思いますが)、その人は、インターネットなどやめてしまって、日本語を読解する練習を小学生からやり直したほうがいいでしょう。

「カンボジア大虐殺」について、ウワシンの中で

”ホンカツは、「カンボジアのクメール・ルージュによる大量虐殺を立証したジャーナリスト」という「名声」を守るために、こんなセコい手まで使って過去の「過ち」を糊塗しているのだ。”(34頁)

というのが、まったく見当はずれの解釈に基づいて言っていることがわかると思います。ウワシンのこの文章を精一杯善意に解釈したとしても”バカ丸出し”と言ったところではないでしょうか。ホンダケンからガセネタを仕入れるというまさに”セコい手まで使って”必死で本多勝一を攻撃しているのがわかると思います。

 悲しくも今回ウワシンはその実態を露呈してしまうこととなりました。例えウワシンが小林よしのりや「つくる会」を非難する姿勢であったとしても、そのやり方が『諸君!』と同じであるというのであるならウワシンはニセモノであると判断せざるおえないでしょう。(ホンダケンがインチキであることは言うまでもありません。)
 仮にウワシンが「ジャーナリズム」であるというのであるのであれば、『諸君!』や『正論』も「ジャーナリズム」であるということになります。少なくともウワシンを真のジャーナリズムとは呼ぶことができないのは明白です(もっとも”ただのゴシップ誌”という意見もありますが)。
 ウワシンのやっていることを見過ごすということはジャーナリズム全体の自殺行為を意味するものではないでしょうか?それを本多勝一が見て見ぬふりを出来なかった(1998年〜)というのは、まさに真のジャーナリストとしての良心があったからこそであって、自らの連載の中からウワシンのやり方に異議を唱え続け(1998年)、ウワシンからの猛攻を受け続けながらもウワシンの「良心」に訴え続けたその姿勢は、まさにホンモノたる真のジャーナリストとしての姿ではなかったかとあらためて思う次第です。

 今回のウワシンの記事、また掲示板上におけるホンダケンに類する連中の攻撃は”薮からヘビ”ということわざどうりになってしまったようです。

追記)『噂の真相』は本多勝一からの反論掲載を完全に拒否し、 自ら 「言論テロ」 であることを証明する結果となった。


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