黒川順夫の心療内科  

手 の 震 え

 人は過度の緊張や、何かひとつの思い込みにとらわれることによって体調を崩したし病気になったりすることがある。人前で話すことが苦手な人が会社の朝礼や会議で話をしなければならない時、激しい動悸が起こったり、口が乾いたり、軽いめまいすら起こしたりする。
 仕事上のミスを上司から厳しくしかられた時などは、顔面蒼白になることがあるし、人づきあいが得意でない人が取引先の相手と接する場合、冷や汗が出てきたりすることは、心理的な刺激(緊張やとらわれ)によって身体上の変化(症状)が現れている証拠である。

 日常的なこうした症状ならまだしも、それがもっと進行し、強度な症状となって現れる場合がある。「書痙(しょけい)」という病気がある。緊張すると手が震えて字が書けなくなる症状で、心療内科でしばしば見受けられる病気である。

 半年ほど前、私のところへやって来た40才男性がそうだった。彼はある大手の会社に勤めるサラリーマンで、会社の書類を仕分ける仕事をしており、一日中、多くの書類を仕分けるため手や腕をよく使うという。

 「先生、以前はそんなことなかったのですが、ある日突然、字を書こうとしたら手が震え、字が書けないんです」と彼が訴える。詳しく聞くと、人が見ていると手の震えがより激しくなり、ミミズがはったような字になってしまうという。
 「一人でいるときはさほどでもないのですが、会社や人前では震えがひどく仕事にならない。左手で右手を押さえて書こうとするんですが、そうすればよけい震えが激しくなるような気がします」。

 彼は深刻な顔で私に訴える。40才といえば働き盛りである。その彼が、手が震えて字が書けなくては仕事にならないのは当然である。「何か思い当たるフシはないのですか?」と私は聞いた。
 その症状が現れたきっかけは旅行に行ったおり、宿帳を書かなければならなかったことによる。  「旅館の仲居さんから宿帳を差し出された時、ペンを持って書こうとしたら、急に手が震えだし、字が書けなくなった」という。
 職場では、書類を仕分ける仕事をしている彼だが、字が書けないぐらいの震えがくるほど手が疲れているとは思えない。それがどうしたことか。

 突然、そんな症状に見舞われた彼は「えらいことになってしまった」と深刻に悩み始めた。その日をきっかけに、彼は人が見ていると手の震えがよけいひどくなり、事務の仕事ができなくなってしまったのである。
 診察すると、彼はペンの持ち方が不自然で、また筆圧計で調べてみると、震えを止めようと努力するためか、筆圧が非常に高く、字を書く時間も極度に長いという特徴を持っていた。

 この「書痙」という病気は、森田神経質で言うところの「とらわれ」によって発症する。一般に書痙の患者はまじめ、神経質、勝ち気、仕事熱心な性格の人に多い。対人恐怖症的な傾向を持っている。字を書くとき手が震えるのではないかという心理的な思い込みによって、その思いにとらわれ、ペンをとって字を書こうとすると必ず震えるのである。彼は、宿帳を書くことをきっかけに、字を書こうとすると手が震えるという「とらわれ」の状態に陥ったのである。

 彼の治療は「森田療法」を用いた。最初は食事と入浴以外は寝るだけにし、その後、軽い作業から徐々に重い作業に移り、作業に関心がいくことで、手が震えるのではないかという「とらわれ」を取り除いていく方法である。これにより、彼は約半年あまりで手の震えがなくなった。

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