黒川順夫の心療内科  

主人在宅ストレス症候群
 1.夫がうっとおしくて十二指腸潰瘍になった妻

 これは、「主人在宅ストレス症候群」を絵に画いたような症例でもあるし、また、心療内科の治療によって劇的に治った症例でもある。それだけに、「主人在宅ストレス症候群」 がどんなものであるのか、そして心療内料の診断や治療がどんなことをするのか、その一端をよくわかっていただけるものと思う。

 患者さんは58歳の主婦。
 彼女が初めて黒川内科を訪れたのは、○年二月のことである。一見したところ、全体的に生気もないし、元気もなさそう、全身の力ががっくりと抜けてしまっているといっ た感じを受けたものだ。
 聞いてみると、唇や両方の手のひら、足の底がしびれ、なかなか治らないのだという。

 すでに前年から別の病院へ通っていたが、そこでははじめ十二指腸潰瘍と診断されたが、どういうわけか、唇や両手のしびれはひどくなってくる一方で、まもなく、末梢紳経障害、高脂血症(コレステロール過多)という診断も追加されている。
 半年あまり、その病院で通院治療を続けた。だが、いっこうにしびれは改善されない。それどころか、むしろ、しびれは強まってきたようにも思われ、気分は落ちこむばかり。当内科に来たころは、それが嵩じて、「死にたい」とさえ思うほどになってい た。

 さっそく、一般的な検査をやってみる。これは、心療内科以外のどの内科でも行なう検査で、身体的な異常を診るものだが、その結果、身体的にはまったく問題なしということがわかった。
 そこで、次に行なうのが心療内科に特有の検査、つまり心理テストである。これは、病気の心理的な要因をさぐるもので、一般の内科では行なわれていない。この患者さんの場合、うつ状態を調べるSDSは42と、やや高かった。うつの前期的段階にあったわけだ。

 また、だいたいの性格がわかるエゴグラムは、自分を開放して生活を楽しめるかどうかをみる部分がFCだが、彼女はこれがやや低い。一方、ACのほうはやや高いから、自分の気持ちを抑えて他人に合わせていく傾向があり、劣等感も強いほうだ。
 このようにFCがやや低く、ACがやや高いというタイプは、なにかと落ちこみやすい。彼女はこのタイプだったのである。
 SDSとエゴグラムによるテストの結果、なんらかの心理的原因が強く作用しているものと堆定された。
 こうして、この患者さんは末梢神経過敏症、十二指腸潰瘍(心身症)、うつ状態と診断された。

 ここで注意してほしいのが、十二指腸潰瘍(心身症)という表記の仕方。十二指腸潰瘍 というのは、素質とか食べすぎとかの身体的あるいは物理的原因で発症することもあるが、この女性の場合はおそらく心理的な影響によって発症していると考えられた。そうい う場合、心療内科ではこのような独特の表記をする。十二指腸潰瘍(心身症)という診断名を見るだけで、この病気が身体的原因のみによるものではなく、心理的原因が加わっているものだということがわかるのである。

 ひとまず行なった初期の治療は、経過良好だった。 自律訓練法といって、自己暗示にかけてリラックスする訓練法や投薬などによって、約二カ月後には食欲不振、不眠、不安などがかなり改善されている。食欲不振には十二指腸潰瘍が多少関わっているかもしれないが、食欲不振も不眠も不安もうつの症状なのである。

 だが、心理的原因とは何なのか。この主婦をうつ状態にさせ、十二指腸潰瘍などをひきおこしている心理的な根本原因は何なのか。その根本原因を取り除かないかぎり、病気を 根本的に治すことは不可能である。

 来院二カ月後の四月、その原因が判明した。臨床心理士が一回一時間程度かけて行なうカウンセリングによって突きとめられたのである。
 原因は意外なところにあった。原因の中心は、なんと彼女のご主人にあったのだ。

 ご主人が永年勤続した会社を定年退職したのは五、六年前。以来、彼はずっと家にいて外出しようとしない。生来の無趣味で、テレビの碁や将棋の番組を見てばかりいる。妻が話しかけても、それこそ馬の耳に念仏、ただ黙って、呆けたようにテレビを見続けている。
 それだけではない。テレビを見るだけで、食べないのならまだいい。困ったことに、彼 は三度三度のメシをちゃんと食べるのだ。

 思えば、主人の退職前はよかった。 朝、主人が出かけてしまえば、あとはもう自由で勝手気ままにしていいが、退職後ときたら、家にいるわ、話しかけても開いてくれないわ、おまけに、一日中、おさんどんしなければならないわ、これはもうたまらない。
 そういう主人に対して、彼女は、「うっとうしいなあ」  と思うようになった。うつの始まりである。やがて、彼女が唇や両手足にしぴれを 感じるようになり、他病院での診断、治療をへて当医院へ来たという経過は、前述したとおり。

 さて、こうして原因が判明したところで、心療内科特有の治療が本格化した。 「なるべく外出するようにしてください。外出して発散するように心がけてくださいね」  私は本人にこのような指示をするとともに、ご主人にも来院してもらう。
 なるほど、主人は夫人の言うとおりの人物。おとなしそうで真面目一本、″石部金吉″の典型だった。SDSやエゴグラムのテストこそしなかったが、しなくとも結果は見えている。FCが低くACの高い、夫人と同じタイプの性格だろうと堆定される。

  私は主人に忠告した。 「ちょっとだけでも、奥さんの話を聞いてあげてくださいよ」 これから先は、彼女のやる気にかかっている。もちろん、主人の協力も必要だ。
  彼女は、主人のことは割り切り、思い切って外出してみた。はたして、主人は何も 文句を言わない。
 今度は絵の会に行ってみる。やはり主人は何も言わない。
 彼女は、良妻賢母型の古風な女性である。女は主人を大事 にして、めったやたらと外出すべきものじゃないと考え、これまではそのように生きてきた。それゆえに、今度のように夫を放り出して外出し、趣味なんかに興じていたら、主人はきっと怒るにちがいないと、実は内心ひやひやだったのである。
 だが、主人は怒らなかった。彼女が安堵の胸をなでおろしたことはいうまでも ない。

 病状のほうは、外出しはじめた四月以降、みるみる改善していく。
 五月には、まだ安定剤は手放せなかったが、不眠は解消、七月中旬には、しびれが大幅 に減少、八月未から九月初旬にかけて食欲不振、不安はなくなり、手足のしびれも消失した。また、安定剤をのまなくても、不眠は再発しなくなっている。

 そして、来院十ヶ月目の十二月、胃透視を行なったところ、十二指腸潰瘍は跡かたもな くなっていた。しびれも、唇に少し残るだけとなった。
 心理テストでも、きわめて良好な結果が出た。初診時、42もあったSDSは、下がりす ぎるぐらいに下がって4になっている。また、エゴグラムも初診時とくらべ、ACとFCが上昇し、ACが下がって好ましいパターンとなった。
  その後、彼女は順調な日常生活を送っている。

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