22.22.会話中の身のこなしを制御する

話をしている時、その人の身体の癖ははっきりと表れる。否応なく、厳密に、その人の身のこなしの洗練度が試される。

だれかと言葉を交わす状況の中で、身体の動きを意識し続けることはなかなかできるものではない。その理由は、読者もよくわかっていることだと思うが、身体の動きよりも何よりも、まず会話そのものに意識が集中してしまうからだ。
話題となっているテーマの把握。方向性。相手の発言に対するスタンスの決定。話すべき内容。話してはならない事物。言外で表されているニュアンスの推察。
また、「声を出す」ということ自体が身体を使ったものなので、身体の美醜よりも、声の大きさや発声のタイミングといったことの方に意識がいってしまいがちになる。
会話時にやるべきことは本当にいくらでもある。自分の身体について意識し続けることは、ある意味では本末転倒にもなりかねない。

しかし、発話中の自分の動きが気に入らない、もっとコントロールしたい。首を不必要に動かさずにしゃべれるようになりたい、身体の軸がふらふらと揺れてしまうのを抑えたい、といった望みを持ち続けている読者も多いと思う。

「魅力的な話し方」、と言った講座や本は数多くある。それらの内容のほとんどは、話術そのものや、話し手側・聞き手側としての正しい意識の持ち方といったものに集中している。
話し上手は聞き上手とか、大きく口を開けてはっきりしゃべるとか、相手の口元を見ながら会話をするとかいった情報が大半を占めている。

筆者がここで述べたいことは、そのようなものとは少し違う。この章では、人が話しをしている時の身体動作について書こうと思う。発話と身のこなしの関係。この二つをどのようにコントロールするべきか。いかにして効率良く洗練されたものへと変えていけばいいのか。

動作の目的を自覚する

会話時において、身体の動きやちょっとしたしぐさが、相手に与える印象の大きさは無視できない。
「その人が話す内容よりも、声そのものの良し悪しの方が、聞き手に与える好感度を大きく左右する」ということはよく言われていることだが、身体の動きも同じくらい影響力があるものだと思う。

会話をしている人々を観察してまずわかるのは、まったく動かずに話している人はいない、ということだ。人間の身体は話しながら、実にさまざまなことをやっている。やってしまっていると言った方が良いかもしれない。

美しい話し方をする人は、身体の重心がほとんど移動しないし、頻繁に左右の足に体重を乗せ変えたり、ふらふらと首が無意味に動くこともない。
目線はしっかりと見るべきものを見、声ははっきりと相手に向かって発っせられる。首の動作に落ち着きがあり、意味のない上下運動や揺れがない。言葉に連動して首を動かさない。腕や上半身が大きく動くこともあるが、それでも重心はブレない。

人が話している時に、最も動くのは首で、次に手、その次が腰からおなかにかけてのようだ。
そして同じように、会話中の身体の美醜を決定づける順番も、首、手、そしておなかの動きのように思える。発話中の身体の癖はこれらの箇所で無意識に、そして明確に出てしまう。

むずかしいのは、言うまでもなく、その癖をなくす方法だ。

動き過ぎる首。せわしない手の動き。上半身を揺らすように上下するおなか。
これらの動作はいったいなんなのだろう。 なぜ自分の身体は、相手と向かい合いながらそんなことを行うのだろう。まずはその点について考えてみよう。

これらの動作は、ほとんどが無意識に行われていることだが、いくつかの目的があるように思われる。
首を何度もうなずくようにして話すのは、言葉を発する「きっかけ作り」であることが多いようだ。状況としてはうなずく必要がまったくない場面でも、発話のタイミングをとるためにこの動作を繰り返してしまう人は非常に多い。

それから、相手に対して「私はこの会話に誠意をもってのぞんでいる」という態度を伝えようとしている場合もある。「不遜」な印象を与えることを恐れ、微動だにせず発話することを過度に避けるあまりに、加えて、動きのバリエーションが少ないがゆえに、ついついうなずく動作ばかりが大きく多くなってしまう。

小刻みに揺れたり、ぱたぱたと何かを振り払うように動いたり、まわりにある物につい触ってしまう手の動作は、話すべきことを考える時間を稼ぐためだったり、首の動作と同様に言葉を発するためのテンポをとったり、肺の動きを促するためだったりする。落ち着かない気分の発露としてそのような動きが表れてしまうこともある。

おなかの部分を萎縮させて、結果的に上半身が上下に揺れてしまうのも、これまた首や手の動きと目的は一緒で、つまりその人は、発声のきっかけ作りと態度表明を、身体を無駄に大きく使うことによって行っていると言える。

あなたが言葉を発するのに、身体の動作に何らかの形で依存しているとすれば、その動きは「醜い動き」となる。身体の動きに頼って発声が行われているか否かが、大きく美醜を分けている。
たとえ動作自体が洗練されていても、もしあなたが一回うなずいてからでなければ話し始められないとしたら、それは美しい発話の仕方ではない。話しながら「あの、」とか「えっと、」といった言葉を何度も文節の頭に持ってくる人がいるが、意味のないうなずきや上体の揺れは、役割としてはこれと全く同じものだ。いわゆる「話し方に落ち着きがない人」というのは、ある意味で身体が正直な反応を示してしまうことに対して、何も対処していないと言える。

発声も身のこなしの一部

もし読者にも上記のような動作に身の覚えがあるのなら、ここでも、いつの間にか無意識に自分の身体が適切な動きをしている、発話中でも制御されている、そんな状態を目指すべきだろう。
そんなことは不可能なことのように思えるかもしれないが、あなたは、会話のみに集中しながらでも、自然と美しい身のこなしができなくてはならない。そのように身体の機能を向上させる必要がある。

筆者は基本的には、「声を発するとは、単なる身体動作の一つととらえることができる」そう考えている。便宜的に発声を身体の動作の一部として扱っていくことは可能だと考えている。 そしておそらくこの考え方こそが、会話時における身体コントロールの困難さを越える鍵になると思っている。

専門的に発声について学びたい人は、音声学や発声法などの書物をあたられると良いかもしれない。音声器官に負担をかけない、あなたにとって適切で豊かな声を出すための訓練法は、ほとんどそのまま身体の訓練法になる。しかしここではもう少し限定した狭い範囲で論を進めたい。美しい身のこなしと発話とを効率良く結びつける、という観点から見た「発声」について述べたい。

私は学生時代、言語学、特に音声学を専攻して学んでいた。だからこの章における発声についての文章が、学術的には非常に乱暴な説明の仕方であることはわかっている。本当なら「口蓋」とか「咽頭」とか耳慣れない言葉をもっと使って、正確な記述をしていくべきなのかもしれない。
しかし私が音声学を学んでいて面白く感じ、実感として理解できたことは、「筋肉が音声を生み出している」という事実だった。専門的な用語はそのことを自分なりにきちんと理解するのには役に立ったが、おそらくこのサイトでは必要ないだろう。
私が感じた「筋肉が音声を生み出している」ということの意味は、たとえば、腹筋の使い方を変えれば声が変わる、ということだ。

発声とは、簡単に言ってしまえば、身体を使って空気を内から外へと吐き出すその過程で、摩擦させたり、破裂させたり、響かせたりして音色を加える作業に過ぎない。ろっ骨や横隔膜を筋肉によって動かし、肺を収縮させて外側へ向けて息を送り、声帯や舌や唇といった音声器官を通過させることによって音を作り出す。もとにあるのはすべて筋肉の働きだ。筋肉から始まる作業だ。

読者は、あせらなければ、「発声作業と身体を動かす作業の同時進行」という複雑に見える行為を、あなたが求める方向へと洗練させていくことが可能だ。
考えてもみてほしい。手や足の動きを洗練させるのとなんら変わりがないかのように、発声を担う筋肉の動かし方を洗練させていけばいいだけの話なのだ。
鏡の前では、美しい背骨のラインで直立することと、適切な声量・タイミングで発声する行為は同レベルで考えることが可能だ。
はやい話、もしあなたが訓練を積み、身体を微動だにせず(そして過度に緊張させることなく)直立し、口や腹筋だけを動かして長時間会話できる身体能力を獲得できたなら、それは間違いなく「美」の領域に属する話し方をしていることになる。

ポイントは二つある。
身体が無意味に動いてしまう主な目的が、「発声のきっかけ作り」と「態度の表明」にあると限定してしまえば、二つで十分だろう。

一つは、鏡の前で動きながら意識的に発声をする訓練をすることだ。
自分にはいつも通りの動きをしながらでも、ちゃんと言葉を発する能力があるのだと知ること。つまり、発話のために特別な動作は必要ないのだと実感すること。

もう一つは自分の癖のパターンを把握して、それらを適切な頻度に抑え、バランスの取れた動作に修正すること。話しながら行う身体的な表現方法を、自分はコントロールできるのだと身体に納得させること。自らの態度を表すための身体的な手段は数多く存在していて、その中から選択が可能なのだとわかること。

言葉を発しながら、その言葉の意味とはまったく無関係に身体を使う行為には、身体能力がフルに目覚めるような新鮮な感覚がある。ぜひやってみてほしい。

慣れないうちは、できるだけ意味のない、あなたの感情が動かない言葉を扱う方が良いだろう。発声練習のように「アエイウエオアオ」を繰り返すのでもいいし、思いつく単語を羅列していくのもいい。おそらく最も気楽に行えるのは、好きな曲を流し、歌詞を口ずさみながら動くことだ。 要は、会話につきまとうある種の緊張が起こらない言葉なら何でもかまわない。

鏡に映る自分に向かって、動きながら、意味のない言葉を発する。発声しながら身体を動かす。
美しく適切な動作をしながら言葉をしゃべる行為は、単なる身体能力の問題なのだと、次元を変えてとらえなおす。
自分が、手とか首とか上体の動きをきっかけにしなくても、きちんと発声できることを知ってほしい。身体のバランスを損なうことなく、出したい瞬間に、出したい大きさで発声できること。揺れや上下運動のテンポとはまったく無関係に、自分が言葉を紡げるのだということを実感してほしい。

身体は最初、とまどうと思う。そのうちに少しずつだけれど小さな「取っかかり」を見つけていくはずだ。何となく動かし方がわかってくる。発話と身体の動きの両方に、あなたの想像力が働きかけを強くしていく。イメージが反映されていく。そういう過程を楽しんでほしい。

発話時の身体コントロールをむずかしくしているのは、言葉の中に含まれる意味や感情、そしてそれを伝えようとする目の前の相手の存在なのだろう。 「おはようございます」
「そうですね」
「お断りします」

これらの言葉は意味自体は非常に単純だ。けれど、それゆえに微妙なニュアンスを身体で表したくなってしまう言葉でもある。感情や思考、習慣的な動作が先行し、身体の癖が前面に出る。過剰な身体表現を促し、制御を困難にする。このような言葉を使った訓練も、そのうちやってみると良い。

あなたは発声時に、もしかしたら今のところ、「とにかく一度うなずく」という動きを必要としているかもしれない。「そうですね」とひとこと言うだけのために、数回の首の上下運動を必要としているかも知れない。 それらの癖は、鏡の前でも確認できるはずだ。
筆者の場合を述べれば、「そうですね」という短い言葉を発しただけで、言いながら一度うなずき、言葉を終えた後さらに三回から四回もうなずいてしまう。
もう本当に勝手にうんうんうんうんと、余韻を残すように、消すように、首が自然と動いてしまう。だれもいない部屋で鏡を見ていても、今、この文章を書きながらやってみても、だ。

訓練の余地はある。鏡に向かって同じ言葉を発しながら、適切な回数と大きさ、スピードに修正する。あなたが良いと思える動きへと変化させる。 それらを繰り返す。
今まで行ってきた身体の動きを修正する方法と何ら変わりはない。

発声を、ただの筋肉の動きとしてとらえれば、これまでの訓練の感覚そのままで、十分対応できるはずなのだ。発声という作業そのものを意識化し、他の身体の部分、つまり腕や足などの動作と結びつけていく。簡単に言えば、鏡の前で、発話するための筋肉と腕を動かす筋肉とを同じレベルで把握し、コントロールする。 そうすれば読者はこれまでと同じやり方で、鏡の前でいろいろと動きを試すという行程の中で、発話時の身体の動きを洗練させていくことができるようになる。

学術的に考えれば、「発声と手足の動作を同レベルで考える」などということは不可能なことかもしれない。間違った考え方かもしれない。そのような批判が正論であることは筆者も認める。下世話な例えで申し訳ないが、私の考え方は、「小便をしながら、いつも通りの早さで走ることは可能だ。いずれも同じ筋肉の働きなのだから」と言っているのと同じことなのだろう。 しかし筆者が今ここで注目し、操作しようとしているのは、すでにそこにある発話と手足の動きの密接な関係性だ。発話が身体の動きに依存してしまう関係が、癖となって定着し、多くの人々の身体美を損なっているという部分なのだ。その関係性に対しては変化が起こせるはずなのだ。鏡の前においてその関係を目に見える形にし、修正を加えていくこと。筆者の言う「同レベル」とはそういう意味だ。

不適切な動きを、別のより適切な動作へと変化させる作業。新しい方法を探り、選択肢を増やしていく作業。「試み」て「結果を見届ける」、その繰り返し。
その過程は、筆者が詳しく書かなくても、もう読者はイメージできるはずだ。あなたが、これまでに見つけ出した身体訓練に関するコツを、発話に対しても応用できるのだ。

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