11.11.自分の身体に出会うために

自分の身体に出会う、という表現は少し奇妙に感じられるかもしれない。
しかし、鏡の前で自分の姿を見ていくうちに、「出会う」としか言いようのない瞬間が訪れると思う。今まで見せたことのないラインを関節が描き、認識したことのない関節の働きや能力に気づく瞬間。

そのためにはこれまで述べてきたように、他人の動きを関節単位でよく見て、鏡を通して同じように自分の身体のことも観察しなければならない。そして同時に、自分の関節一つ一つを試し、確認するように動かさなければならない。

意図的な自分の動き、何かを検証するような動きをする過程の中で、きっとあなたは自分の身体に「出会う」はずだ。

身体の本質を掴む感覚

筆者が初めて自分の身体に「出会った」と意識した関節は、膝だった。
鏡の前でいつものように音楽を聴きながら身体を動かしていた時、「あ、膝って使える」と突然思ったのだ。

不思議な感覚だけれど、膝の動かし方を意識的に操作するだけで、自分の身体は簡単に変わる、と確信できた。今まで自分がいかに膝を有効に使ってこなかったかを痛感した。膝を意識的に使えば、上半身の無駄な力が抜け、重心の移動に対して格段に反応しやすくなることが実感としてわかった。

たとえば、片方の膝だけを曲げる。もう片方はつっぱるように伸ばしたままにしておく。
すると身体は曲がった膝の方向へ傾く。当たり前の話だが、右膝がより地面に近づけば、身体全体もまた右へと傾いてしまう。
その傾きを、全身でリカバリーする。つまり、上体を(左方向へと)起こし、肩の位置を変え、腕を伸ばしたりすることでバランスを保とうとする。 それを右、左、右、と繰り返す。
膝を曲げる方向やその大きさがきちんと把握できていれば、それほど苦もなく、全身がそれに反応して揺れ動き、態勢を保ってくれる。膝の動作は極めて意識的なものだが、他の部分はわりに自然な反応として動いてくれる。 すべては、膝から始まる動き。膝に意識的にアプローチすると、ちゃんと他の部分が無意識に応えてくれる。

そういう身体の作用が、とても興味深く感じられた。
膝だけを意識するということは、結果として膝と全身との関係性すべてに目を向けることに繋がるのだ。膝が身体全体のバランスを崩したり、変化させたり、保ったりできるということ。膝が持っている影響力の範囲は全身に及んでいるということ。膝という関節の持つ役割、その可能性の幅が見えた気がした。

読者には、まず、自分の身体に出会ってほしい。筆者の体験に似た、あなただけの実感を鏡の前で持ってほしいと思っている。どの関節でもいい。何気なく使っていた関節が、有機的に繋がり合っているという感覚。身体の一部に焦点を絞ることで、逆に結果として、全身に対して強制的な影響力を行使できるということ。

鏡の前で、日常生活では絶対に行うことのない動きをしていくことで、あなたは自分の身体の一部、膝かもしれないし、腰かもしれないし、肩かもしれないけれど、とにかく自分のものでありながら自分の意識に上がってこなかった身体そのものに出会うはずだ。

そのための具体的な方法を述べていこうと思う。

「日常生活では絶対に行うことのない動き」とは言っても、それほど奇抜な動作が必要とされるわけではない。まともな動きでいい。繰り返し同じ動きを続けて、ちょっとずつその動かし方や動作の大きさ、方向を変えていけばいい。そうすれば、それほどむずかしいことなく「自分の身体に出会えた」という感覚を持てるはずだ。

ある一つの関節に注目して動く。そこに意識的に変化を加える。

最初のうちは、膝や腰、足首、つま先といった重心の移動に大きく関係する関節にアプローチしてみることをお薦めする。その方が、関節がどのように働いているかが感覚として把握しやすいし、上半身の動きやバランス変化に対しても敏感になれるからだ。

繰り返す動きは、無理に早くしたり神経質に同じ動きをしようとしなくていい。固まった筋肉をほぐして、流れのわるくなった血液をゆっくりと循環させるようなつもりで、気持ち良く動くのが一番だ。 パターンを作りだし、あとは惰性にまかせるくらいでいい。

同じ動きを繰り返していると、身体がそのパターンを覚えて、そのまま無意識に勝手に動くような状態になる。どうしてかはわからないが、人はそれだけで快感を味わえる。
余裕ができた意識は、ちょっとその動きを変えたくなるものだ。何かを試してみたくなるはずだ。

意図を持ってその関節の動きに変化を加えると、また少し違った快感がある。さっきまでとは違う新しい動きをしている筋肉そのものが気持ち良く、その変化した感覚が心地良い。未知の事物、おぼろげには認知していたが、はっきりと意識化されずにいた事象に急速に接近できたような喜びがある。
あなたはふとよぎる、新しい身体感覚の予感に忠実であるべきだ。「こんな風に動いてみたらどうかな?」といった、身体よりも一歩先をゆくイメージを逃さず捕らえていくのだ。

無意識の領域へ

おそらく踊るという行為は、意識と無意識とを大きな振れ幅で行き来できる行為だ。
無意識の恍惚とした感覚と、意識して身体を変化させて何かを試したり表現したりすること、その二つが同時に自分の中で起こるから快感なのだろう。

筆者は、身のこなしをキレイにする過程においては、無意識の領域に分け入っていくことがどうしても必要だと思っている。無意識とは言っても、その中の一部分、身体に関する領域のことだ。身体が勝手に動くのを一歩引いたところで見ているような感覚のことだ。

無意識の領域に分け入るとは、その中にあるものをひっぱり出し、目に見える形にする、という意味ではない。意識化して、無理やり何か別のものに変える、というニュアンスも含まれてはいない。
無意識に何かを残せたらという希望をもちながら行う行為。矛盾した言い方かもしれないが、無意識に近いところで動き、その結果を視覚でとらえ、そのときに感じたものを、身体の感覚を、そのままそこに置いてくる、というイメージ。

非常に冴えわたった意識、ハイ・テンションな状態と、ほとんど身体が自動的に動くような状態との間で、身体を動かし、結果を認識する。
あなたはそのために踊る。無意識がそれを採用してくれたら良いな、というような思いで。
鏡を見ながら身体を動かすこと自体が無意識に近づく行為であり、そしてまた、無意識に働きかける行為なのだ。

さて、身体に出会うことができれば、あなたは身体の各部位に対してより意識的な働きかけが可能になる。修正のレベルが違ってくると表現してもいいと思う。より意図的で、試験的な働きかけだ。自分の身体に対してある仮説を立て、それを検証していく行為。その過程で自分の細かい身体的な癖や改善すべき方向性が見えてくる。

それはたとえば、動く中でついつい自分の首が前に出ていってしまうとか、背骨の上部がすぐに丸まるとか、膝と腰はすごく関係が深いとか、腰の角度をもう少し気をつけながら歩けば背筋が伸びるだろうとか、多様な視点を持った具体的な気づきだ。

今まで気づかないでいたことが不思議なくらい、単純な身体の使い方のコツ。疑いようもなく確信を持って「こうすれば良かったんだ」と思える自分の身体の在り方。それらが芋づる式に次々と見えてくる時間が訪れるはずだ。
そんな時は、自分の身体の動きをより実験的に動かすことだけに集中するべきだ。そういう覚醒した、感覚がむき出しになったような、身体に起こることすべてに敏感になれる時間というのはとても貴重だ。無意識のことなど忘れて、いろいろなことを鏡の前でやればいい。

腕を鞭のように柔らかく振る。
腰を動かさずに、背骨を可能な限りあらゆる角度に動かす。
右足はかかとで、左足はつま先で体重を支える。 そのような意図的な「試み」。 こうして書くとなんとも味気ないものだが、覚醒した状態の中では、身体の動き一つ一つに意味が見出せる。その感覚を十分に味わって、味わい尽くしてから、また無意識の中に戻っていく。無意識にまかせて身体を動かし、その姿を眺め、そしてまた意識的に動かす。 無意識と意識の間を行ったり来たりする。そうするうちにどんどん自分の身体の使い方がわかってくる。自分の身体に自分自身がぴったりと馴じんでくるような感覚がある。そして、身体に対する自分だけの解釈や分析ができるようになる。

無限に発見がある

筆者が詳細な身体の使い方や動作の型、料理で言えばレシピのようなものを書かない理由がここにある。
たとえば「キレイな姿勢で立つためには、お尻の筋肉を引き締め、軽く膝を曲げる」といったような身体の法則。こういう他人が見つけたコツの存在がほとんど意味を無くしてしまうほどに、たくさんの身体的な意識の仕方が、自分でいくらでも見つけることができるからだ。

身体を変化させていくのには、ある程度の時間がかかる。その間、最も効果を発揮し続けてくれるのは自分で見つけたコツだ。自分が納得し、実感できた身体に関する認識のみが長期的にあなたの身体に影響を与える。筆者は身体をキレイに動かすコツを見つけるヒントを示しているに過ぎない。レシピを書かないのはその必要が全然ないからだ。

あなたはより多くのことを「試み」を通じて知るだろう。 ここでいう「知る」とは、腰をひねる、という行為が、じつは「腰だけをひねる」「腰をひねると共に上半身も一緒にひねる」「腰と膝だけをひねる」というように、いくらでもバリエージョンがあるということを実感していて(実感さえしていれば良い。いちいち言語化できる必要はまったくない)、その腰の動き、筋肉の動きの感覚に敏感でいられるということだ。

わかりにくいかもしれないが、腰だけをひねった時の筋肉の動きの感触と、上半身を一緒に動かした時の感触の違いを何となく認識できるということだ(具体的に認識できなくても良い。ただ、こうした「違う」動作を「やって」、そのとき、「楽しい」もしくは「興味深い」「気持ちいい」といった感情がわけば、「感覚の違い」をわかっているといえる)。

「こうすれば良かったのか」というような発見もある。どんなふうに関節を動かせば良いのかが瞬間的に、そのまま確信として、答えとしてわかる。 たとえば、床に落ちているものを拾う時、膝を曲げる、それも右足と左足を前後にずらして、どちらかの膝をより深く曲げた方が、キレイでしかも腰に負担をかけない楽な身体の使い方なのだと実感する。もちろんこれは私の身体の使い方の話だ。 でもこれが、自分の身体を知る、ということだ。

また、身体のある一部分を洗練させるためには、どのようなやり方で、どのような動きでその関節を使い、訓練していけば良いのかがわかる、といった発見もある。身体をより高いレベルで操作するためには、何をなすべきなのかが直感的に見えてくる。 「知る」と言うことについては、筆者はこちらの方が重要だと思える。自分でトレーニングの具体的な項目を思いつけるというのはとても気分の良いものだ。

たとえば、首を振る。ただ普通に鏡の前に立って、首だけを上下左右に振る。
そのうちに「首を振る」という動作が、全身に対してどのような影響を与えるのかがわかってくるはずだ。
それはもしかしたら、「ななめに振ると肩がブレる、とたんに動きが汚くなる」といったことかもしれない。もしかしたら、「首を上下に振ることに自分は慣れていない」といった認識かもしれない。 素早く振る。大きく振る。あごの角度を意識して振る。スピード、動きの範囲、角度、様々な視点から鏡の前で動きを試す。

そういったことを鏡の前で続けているうちに、あなたの興味は「首の軸」というものに移っていくかもしれない。自分の中で、首の軸を意識することの重要性が、しだいに大きくなっていくのを感じるかもしれない。

あなたは、首の軸を上手に使うためにはどのような訓練方法があるだろう? どのような動きを試し、繰り返していけばいいのだろう? と考えはじめる。どのポイントに注意を払い、どういった切り口で動きの要素を分解していこうか? と考えはじめる。 それと同時に身体の方は、行ってみる価値のありそうな動きを次々と試していく。可能な限りの「軸の設定の仕方」をかたっぱしから試していく。弱い部分をカバーしてくれそうな動き。効果的な結果をもたらしてくれそうな「動きの型」のようなものをあなたなりに探っていく。 あなたにとって「美しい軸の設定の仕方」というものがあるはずだ。これは首だけではなく、腰や背中、肩にも言えることだ。動きをキレイにするためには、「軸」を意識できた方がずっと効率的だ。

そうしてさらに今度は、首と腰との「相関関係」のようなものにまで目を向けていくことになるかもしれない。腰をこの軸で動かすと、背中はこういうカーブを描き、だから首はこの角度で振った方がキレイだ、みたいな連続した動きをあなたはひらめくように予感し、実際にその動作を鏡の前で行うことになる。この状態で、この角度で首を動かすことを続けていれば、振り向いた時にバランスが崩れにくくなるだろう、といったことを半ば直感的に理解する。 そういう動きを自分のメニューにするのだ。
キレイな身のこなしのメニューは自分で作れるのだ。

文章にすると非常に複雑だ。読んでいて何がなんだかわからないと思ったかもしれない。しかし鏡の前では、頭よりも先に身体がそのことに気づいてくれる。

これらはすべて理屈を超えた感覚なのだと思う。もちろん論理的な推察や、すでにある知識や経験との照らし合わせもそこにはある。しかし本当に頼るべきなのは、あなたの身体がとらえる感覚の方だ。新しい身体の使い方を身につけるためには、身体が拾い上げたものを重視してトレーニングしていった方がいい。私はその流れを無理やりに、不完全な形で言語化、文章化しているだけだ。 頭ではなく、身体が何かを試したり、分析したり、発見する感覚。まさに「身体感覚」の定義そのもののようだが、鏡の前に立っていると本当にそういういった感覚が目覚めてくるのだ。

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