仏陀の心(3)

 

1.鎌倉期に生を経験した後、永く身体を持たずにいた仏陀(釈迦牟尼)は、この現代に、この国では二度目の人間時間を経験するに至る。仏陀が潜在させる能力は無限であるが、そのことを、現代の彼は未だ知らないでいる。それでも、約束通り、無有日記に継続して触れ得る場所に居て、その感性と形無き原因による表現力は、自由に仕事をし続ける。この文章にも、その性質は染み込んでいる。

 現代の仏陀は、仏教(宗教)の世界での立場を持たず、普通の人として、男性を生きる。それは、何があっても志(自由意思)を失わずにいられるための原因(処方箋)として、この無有日記との縁を自然に維持できる環境が必須であったため。秘める力は桁外れであっても、彼の活動を妨げようとする(無きものにしようとする)存在たちの、その非人間性からなる働きかけは容赦なく、環境的にも、また不要な感情の重なりからも、あり得ない程の負荷を受ける。

 そして今、彼は、「仏陀の心」に連動し得るこの時に間に合うようにして、内なる抽象と外の世界とを重ね合わせ、自らの原因(意思)からなる現象世界を創造するという、その強力な普通の力を発揮するところに居る。この3章への流れは、その時を引き寄せ、その心の意思を呼び醒まさせる役を担う。仏陀が、この現代に、その生命の意思を携えて、人間を経験しているということ。それだけで、時代は嬉しい。この時の訪れを、彼と共に居たたくさんの人たちが、祝福する。

 

2.歴史ビル2階での人生も含めて、何度もこの国での生を選択した道元は、仏陀よりも少し早く、この時代に生を持つ。仏陀と同じく、彼も、今回は仏教世界には居ず、女性としての普通人を生きる。その理由は、時代の必要性がそこには無く、心の世界のその原因のところからの浄化には、全くこれまでの価値概念とは次元の異なる対処が必要であるから。これまでの人生での全ての経験の質を、思考で扱わずにその原因のまま持ち合わせる(能力を持つ)彼女は、それらを次なる時代の原因の要素として活用してもらうことに徹する。無有日記は、それに応える。

 どの時代の生でも、権力を笠に着る存在たちににらまれ、苦しんだ彼女は、その度に脳の働きを不自由にさせられ、無くてもいい経験を重ねてしまう。ところが、道元の生では、仏陀の支援もあり、脳の働きとは別次のところで、どこまでも原因の質を成長させ得る経験をし、そのおかげもあり、無有日記の中に在る、中庸・全体の原因との融合は、信じ難い程の深みのそれを普通としてしまう。そして、その分母を増幅させた原因のところから時代(歴史)の中身を見るという、彼女ならではの、人には無い能力を、無意識のところで表現する。それも、仏陀とのかつての経験があってのこと。道元としての人生は、彼女にとって、それ以外の人生での不要な原因を難無く浮き上がらせ、それを活かさせてもらう力の源となる。

 

3.仏陀の、他の人には無い個性は、本体という、脳と密接な繋がりを持ちながら、限られた身体時間での(人間としての)活動とその変化・成長全般を支える、その姿無き永遠の意思(の性質)が、至極強力で、叡智に富んでいること。そのことは、人としての心(原因)を持たず、不穏で悪質(低次)な本体を共とする人間には耐え難いもので、それゆえ、釈迦牟尼以降、自由に身体を選べなくなる程、この人間世界では彼の真意が歪められ、何もかもが仏教の本質からかけ離れた、嘘の教えが蔓延することになる。道元以前の仏教は、仏陀への拒否反応のそれと言える。

 道元の個性は、その本体の意思を最大限に活かす身体活動(人生)を重ねて、人間としての生きる原因を驚異的に進化させ得ること。そのため、重く、動きの無い原因の世界からは、嫌悪の対象として尽く抑え込まれ(潰され)、その力を削がれるが、その度に、次なる生での原因にその全てを彼は活かしてしまう。仏陀が道元と共に人生を歩もうとしたのも、頷ける。

 互いは、唯一無二の、生命の仲間。共に居て、融合するだけで、それぞれが、個性ある表現力を高め、引き寄せる風景の質を本来へと変えていく。支え合い、協力し合う(補い合う)その関係性は、初めから、仏教(真の普通)の本道を歩むものとなる。

 

4.現代の仏陀と道元は、自らがそうであることは知らず、お互い、面識は無い。いつかその時を迎えるであろう二人は、本体(本当の自分、形無き生命体)の浄化をこの無有日記に預け、その過程での変化を、人間時間での経験の創造に活かす。

 この時代だからこそ為し得る、染み込まされて(蓄積させて)しまっている負の要素の観察と、それへの対応。特に道元であった彼女の場合は、人としての真を生きる自分を基本としていたために、やむ無く引き込まれる幾多の要らない経験もあり、本体は、多くの傷を負う。その生命の意思表現の土台である本体が、この時(のEW)を通して癒されることで、いくつもの人生で彼女が向かわざるを得なかった、凝り固められた嘘の世界(歪められた仏教と真の無い教え)が、内側から崩れ出す時を迎える。それにより、道元の原因(意思)と自らを重ね得る人たちの心も軽くなり、心身は、重たい枷が外れたかのように、快活になる。

 その姿を、道元の父親だった頃から望んでいた現代の仏陀は、ずっと自分では扱えなかった自らの本体の潜在力が、無有日記で揺さ振られ、導かれることで、より具体的に活かせることを知り、彼女(現代の道元)の経験の記憶の浄化と、それによる軽快な原因づくりに、力強く参加する。この時代に居る意味を、二人は、動き続ける新たな原因の中で確認し合う。

 

5.身体の次元に連れ添うようにして存在する本体は、時間の概念も生と死の経験も寄せ付けない、永遠の瞬間に居続ける生命の意思であり、それ自体が変化であり、一定であり続ける、多次元的な活動の核(集合体)である。それは、身体(本人)と本体が同一であった(違いが無い)時代には無かった認識。時を経て、心と思考がかけ離れ、無意識(本心)と意識(意向)が別のものとして扱われるようになり、いつしか、その本体という世界は、存在感を持ち得てしまう。そして、現代に至り、影響力を強めつつ、それは生き続ける。

 本体の性質は、そのまま身体経験へと反映されるが、身体経験が本体に影響を及ぼすことは、殆ど無い。つまり、人間的に世のために生きる人が居たとしても、その本体が動きの無い非生命のそれであれば、その人を通して、結果、世は荒んでいく。本体が、変化し続ける生命本来のそれであれば、その人の人間経験がどんなであれ、世は平和の原因を強めていく。それは、生命世界のシンプルな真実のひとつ。

 その本体が、生命本来の普通である人たちは、元々それが(その概念が)無かった時代に、心のままに感じる想いを人生(人間時間)としていた、自然感覚の自然な存在たち。その在り様が大きく崩れ始めた時、彼は、釈迦牟尼としての生を生きる。そして、自分への極度の抵抗と反発の結果(実際)を修復するために、鎌倉期に、再度人間をやる。三度目の現代、彼の本体は、その全てをこの無有日記にゆだね、存在そのもので、望むべく未来の原因となる。

 

6.力を持つ人間が、力を持たない人間を支配するという、その非人間的な価値観をまかり通らせてきた、人間の歴史。それは、次第に、本体の次元の様相を変えるまでになり、より悪質な本体が、同質他の本体を支配するという、実に奇妙で、恐ろしい状態を作り出していく。残忍で凶悪な人間経験が、それを普通とする性質の本体の影響力を強め、より強力な支配力を身体活動に重ねる中、本体は、狡さと緻密さ、操作力と破壊力を備えていく(強めていく)。

 その異常を普通とする経験の性質は、全て、本体の中に染み込み(取り込まれ)、転生の度に異なる人間(身体)時間の中で活かされる(悪用される)わけだが、その存在たちは、記憶を呼び覚まされるようにして、この現代、それを浮き上がらせてしまう。時代背景がこれまでとは異なる今、無有日記は、無くてもいいはずのものを隠し持つ存在の、その本体の世界に対応する。心無い人間の本体を自由に操る程の力を持つ存在の、その本質(本体の影響力)を、心ある人たちの世界から外す。3章は、そのための場所となる。

 

7.その存在たち(特に彼らの本体を支配する程の強力な本体を持つ存在)によって、自由に生きる姿勢を奪われ(潰され)、多大な負荷をかけられながらも、いつの時も、人間本来を真剣に生きたのが、道元の生を経験する彼女である。そして、その様を知りつつ、身体時間を選ぶタイミングを阻まれても、どうにか(奇跡的に)道元の父親の生を経験するのが、仏陀としての人生を持つ彼である。

 仏陀と道元の合流は、地球自然界の全ての生命たちの希望の具現化と言える。そして、そのことが、この今に繋がるということ。それは、かけがえのない原因の増幅であり、地球と人間との生命の約束である。この「仏陀の心」の文章に乗る、これまでに無い沙(淘ぎ)と羅(連繋)の原因により、彼女(道元)が引き受けてきた負の蓄積は砕かれ、彼女関わりの多くの人の生き直しが始まる。彼(仏陀)は、その変化の時を、形無き抽象世界から支える。

 その姿は、かつての二人の共同作業の現代版である。二人の繋ぎ役のようにして在る無有日記は、時代が望む地球感覚を基本に、自然界の生命たちの活動を元気にする。彼らは、そこで安心して、本体にある重しを外し、厳しい時代での経験が癒される時を過ごす。時代は、地球自然界と共に生きる本来をテーマに、変わらざるを得なくなる。

 

8.仏陀の真を歪めて、それを良しとする妙な世界と繋がりつつ、力を手にした低次の仏教は、自分たちの我利我欲の元(原因)となる邪な本体を隠すために(見えなくさせるために)、魂や霊という言葉を生み出す。そして、人の思考が触れられないその嘘の原因をごまかしつつ、形式や形ある結果に、人の意識を引き込む。そこに、権威・権力という、仏陀の世界からは大きくかけ離れた要素を取り入れることで、人々は、次第に、思考を忙しく、心を忘れ、仏教の真から離れて(離れさせられて)いくことになる。

 その嘘の仏教の極み(大罪)となるものは、作り物の死後の世界を、人の脳にすり込み、人としての生における望むべく原因の世界を退けたこと。その恐ろしく危険な企ては、人間世界の真実への強力な抵抗の原因となり、そのまま、偽りの人生を正しいこととして生きる、勘違い人を増やす。そして、時代は、永い間、異常で非生命的な本体の意思を通す存在の手によって、苦しみや辛さをあたり前とするという、実に低次・低劣な仏教を続けることになる。

 その幼稚でお粗末な(愚かな)様は、道元の時から、本格的にその原因への対処が為され、仏陀の力添えもあって、こうして、ここに、その内実が形になる時を迎える。仏教は、実に素朴で、単純である。そこにある嘘を外すだけで、そこでの体験的知識は、仏陀の真(普通)と繋がる。人間であれば、それは、とても簡単なこと。嘘の原因をさらりと浄化できるぐらいの正しさ(生命としての普通)の原因を生きる。by 無有 10/11 2017

 

 

仏陀の心(4 トップページへ