仏陀の心(4)

 

1.仏教は、釈迦牟尼(仏陀)の生き方から始まったわけだが、その生き方は、彼にとっては普通のことであり、他に類を見ない程の普通(人生)がそこに在ることを思えば、人は、その理由が何であるかに、心が動く。そして、言葉としての(彼が伝えたとする)教えからではなく、その普通の源泉となる彼特有の原因の風景から、自然と伝わり、感じさせてもらえることの変化・成長が、仏教に縁する人にとって何より重要であるかを知る。その時、人は、仏陀の前を見る。

 そのことを自らの心に重ねつつ、感じるままに、仏陀の普通に触れていると、身体がそのまま心であり、心が常に身体となる、有と無が同一であるような、本体をそのままに本人(人間)を生きる彼が居る。彼の、全てであるひとつの中から流れ出す、ひとつひとつの全て。それは、真の普通の原因の鼓動。仏陀の前の人生でも、その前の人生でも、それは、彼自身である。

 

2.仏陀の前を思うと、そこには、その対象となり得るものが何も無いため、自ずと思考が働きにくくなるという、普通ではない思考状態が生まれる。そのまま、よく分からないながらも、淡々と漂うようにしてその場所に居ると、不必要に思考を使わないでいられるという、脳の働きにおいては、楽で、安心を覚えるそれへと変わっていく。そして、ふとした時(瞬間)、それまではそこには無かったある性質のものが、ムリなく思考の扉を開け、何気ない発想となって、新たな自分に連れ添う機会を創り出す。

 そこに、仏陀を活かし続ける彼の本体が在り、それと繋がることで、自らの無意識の中の本当の自分が変わり出す。縁する人の心(生命)の意思と自分の本体との融合は、釈迦牟尼としての生を持った時も、それ以前の生の時も、彼が何より望んだこと。手法でも方法(理)でもないその生命としてのさりげない機会は、どこまでも自由意思からなる、変化への望み。仏陀のその真の普通による経験は、思考の質を変えつつ成長し続ける人の、その原因の中で、あたり前に為される。

 

3.身体を持って人間時間を経験している時はもちろんのこと、身体を終え、次なる人生を選択するまでの間をも変わらず生き続けている姿無き意思(本体)が、その人の本当の姿であり、人として生きる存在の本質である。その性質は、人間時間の内容如何で変化する次元には無く、その時、その場所で、人間らしく生命を生きる際の、その精神性を支え、見守るために、その意思は存在する。

 それへの理解は、思考世界には無く、時代背景からなる価値判断も通用しない。その人間の本質関わりの世界に、善悪や高低(上下)といった二者択一的思考が在るとすれば、それは欺瞞である。本質(本体)が不穏で粗雑な人ほど、世の歪な価値観に合わせるのが上手く、そのことによる精神の未熟さゆえに、世間的にも良い人でいようとする感情を強くする。

 人が皆、真の自分をそのままに生きれば、嘘も無くなり、正しく生きることも、良いことをすることも意識されずに、自然に世は調和あるものになる。これらのことを考えるまでもなく、普通のこととして、(自らの)本質をそのまま生きる人は、その姿は誰にも理解できなくても、悟りの中に居る人である。要は、思考から始まらなければいい。

 

4.その普遍的とも言える、どうにも変えようのない本当の姿の性質であるが、限り無く中庸でいる存在の、その本体の意思と自らの生き方を重ねることで、なんとそれが変わり得る可能性を持つという、全く別次元の普通が存在する。別次元というのは、単にこれまで一度もそうにはならなかったための言い回しであるが、ずっとそこに在ったのに、誰も気づけなかったことと思ってもよい。

 力の有る人が、力の無い人の人生(命)を奪っても罪にはならないという、未熟で愚かな時代を肯定してきた、この国の人々。その価値観(思考)の元となる脳の働きの性質が本来になれば、自らの真の姿(本体)を見つめざるを得なくなる。そして、そこに、地球の意思と重なる普通の原因が流れ込むことで、そのままでいられる本心(本人)へと、本質(本体)は変わっていく。

 そのための大切な機会の材料が、この「仏陀の心」であり、仏陀と道元との関係性への認識である。嘘の原因は、どこまで行っても本当にはなれず、嘘の裏返しの正しさに、力を与える。嘘の仏教も然り。思考や感情から始まる仏教を、仏陀は知らない。

 「歴史の芯」を通して、地球が喜ぶ原因を生きることの大切さをさりげなく実践する人は、体験的知識の進化とともに、この時、本体の浄化を、実体験の域へと自らが招待する。仏陀と道元の力を借り、心と思考をひとつに、生まれ変わった本体を活躍させる。そして、生き直しを楽しみ、生きることの意味を大きく成長させる。「仏陀の心」の原因の中に在る真実は、縁ある人を皆、真の普通人にする。それこそ、この時代の望み、仏陀と道元の意思である。

 

5.釈迦牟尼(仏陀)の一つ前の生は、その時よりおよそ500年前、同じインドの地で、彼は人生を送る。その時の環境や仕事、人との関わりなど、知ることはない。考えるまでもなく分かるのは、その時代の必要性に応じ、人として、その時々を柔軟に、感じるままに生きたこと。心に正直でいて、確かな原因をそのままに、さりげなく人の心(本質)を癒し、共に育む空間を流れさせていたこと。彼の本体が、そのことを伝える。

 生きる原因における全体の必要性がそこにあれば、その時の人生の内容にまで触れ得ることも出来るが、時代背景がどんなであれ、彼は、彼自身を生きる。鎌倉期も、現代も、同じ。時代への責任を普通に、時代の望みに応え、時代に身を預けるようにして、通るべき道を通る。それが、仏陀である。

 仏陀のその姿を思う時、人は、同じように生きたいと思う。そして、そのために、彼の本質である本体(生命の意思)との融合が重要であることを理解する。今、それは、自動制御のようにして行われている。その意思を確かに、中庸の原因を生きる人の中で、新たな変化が始まっている。「歴史の芯」と「仏陀の心」に触れ続ける人の心は、要らないものを外しながら、仏陀の心との融合の時を普通とする。

 

6.仏陀の一つ前の人生を余裕で感じられると、後に(身体を離れた後に)仏陀としての生を選ぶその手前の空白(実際にはその概念は無いが)の間の彼の本体にも、微妙に反応できるぐらい、その人の感性は進化している。その時、身体は、これまでのような疲れ方からは縁遠くなり、簡単には病むことのない精神が、心とひとつになる。仏陀の本体という、限り無く精妙で、力強い、自然界の意思そのものの彼の生命力との繋がりは、思考をいつも健康に、自由にさせ、生きる原因の力を、その自覚もなく生命本来に重ねて成長させていく。不安や怖れといった、結果発の感情も、そこには近寄れなくなり、気づけば、何かの裏返しでもなく、求めるものでもない、ありのままの安心が、心身を包み込む。仏陀が切に望んだのは、多くの人のまさにその体験である。それだけで、生み出される現実は、その原因のところから、あたり前に仏心を備える真となり、正しさとなる。

 かつての身体時間と、身体を持たない(持つ前の)時間無き時間の二つをひとつに、それを次なる人生の(土台となる)大切な要素として感じ取るという、通常ではあり得ない感覚体験。その難しさも、ふといつのまにか、理由を必要としない安心と余裕の中に居る自分を通して、それが普通に生じることを学ぶ。難しさやあり得なさから始まるのではなく、そうでは無くなっている普通の時から始まる、原因の性質の成長。それまでが、ここに溶け、それが次なる時を創造する原因として動き出す、生命のままの人間の仕事。仏陀の前を見る経験は、すでに自らも仏陀であることの証である。彼は、その原因の普通を、何より喜ぶ。そして、その普通の前に、神や仏という言葉も要らなくなる。

 

7.抽象的で多次元的な感性が、人としての基本要素であることが分かると、現象世界を形ある結果として見ることがなくなり、そこに在る形無き原因への責任をあたり前に、そこに引き寄せられ、生み出される次なる風景の原因として、それらを見ることが普通になる。そして、人の真は原因であり、それが本来であれば、人も社会も自然環境も、病むことはないことを理解する。

 その原因の大元となる世界(原因)が本体であり、前の人生での経験の性質であるわけだから、その本体の浄化と人間時間における原因の成長が、この時、最も重要であり、それ無しには真に生きることも出来なくなることになる。それへの感覚的理解は、これまで正しいとされてきた嘘を外し、常識とされる歪な普通から離れることで、その質を確かなものにする。

 その本体の浄化には、仏陀の普通との、その原因のところでの融合が鍵となるのだが、そのことを、大和・飛鳥(歴史ビル2階)の頃から、本能的に把握していたのが、道元である。彼は、前の人生から、すでに仏陀を生きていたと言える。仏陀と同じ、縁ある人の本体(本質)を浄化し得る能力を持ち合わせる彼であるが、そう簡単ではない時代環境が連なる中、鎌倉期の道元は、未来に繋ぎ得る仏心(真の普通)の、その原因の成長を優先させる。それは、禅の本質であり、その時代の必要性の、唯一の姿である。責任ある原因を生きる時、人は、禅の中に、仏陀の普通を見、真の仏教が、その中を通って現代に届いていることを知る。

 

8.道元の心を感じると、同時に、仏陀の心とも繋がり、仏陀の心と繋がると、この国に生きる一人間として、道元の心の意思のその純粋さに、心深くから嬉しさを覚える。道元が道元で居てくれたこと、それは、この国の貴い財産である。

 心ある風景の原因を育み、成長させる仏教。そこには、直線的な思考は存在できず、向かい、求める感情も入り込めない。権威的な言説(法話)も、仏教は望まず、形(行為)から始まる行の類も、仏教には無い。いつ、どこに居ても、心に正直でいて、未来が喜び、地球(自然界)が安心する原因の選択を、さりげなく実践する。争いも病気も無い未来を思えば、自ずと価値観は、人間本来のそれとなり、地球のためになる原因を心に重ねれば、不安も居場所を無くす。そして、仏陀と道元二人がほほ笑みを交わす光景を想えば、何をするわけでもなく、みんなにとっての何かが空間を包み出す。その何かは、彼らの優しさであり、愛情である。

 仏教は、仏陀の教えではなく、仏陀の普通。それは、(仏陀が伝えたとされる)教えから始まるものではない、生きる原因の、(彼の)望むべく在り様そのもの。この国では、鎌倉期の道元から、その仏教は始まる。それまでのその(歪な仏教の)原因の修復に徹した彼の経験により、仏陀(父)は安心し、仏教は、永い空白の時を経て、本道に戻る。そして、今、彼らの想いを形に、無有日記が、その原因を未来に繋ぐ。この章を通して変化に乗る人たちの手で、仏陀の心は、次の時代に届けられる。by 無有 10/28 2017

 

 

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