仏陀の心(5)

 

1.太陽の優しさは、どんなことがあっても地球を守り、支え続けること。地球の健気さは、そのことに頼らず、けんめいに生きること。仏陀の心は、太陽のよう。常に中庸でいて、存在の全てで、他を生かし続ける。人の内なる意思に反応し、望むべく変化の機会を創り続ける。そして、自然界と人間世界を融合させる。

 そんな存在が人間としての生を経験し始めた時、人間世界は、緊張する。その頃は、どこの地域でも争いが絶えず、力のある人間が他を支配し、人間らしい空間が侵され出していた時。非人間的な感情を普通とする人たちは、自分たちの本質(本体)が刺激され、その本性の遺伝子が生命本来のそれではないことが、仏陀の原因に触れることで顕になることを怖れ、彼らは、その原因を力無いものにするために手段を講じる。それは、仏陀の死後、本格的に行われる。

 その存在たちは、思考を全開に、次々と形を残し(繋ぎ)、実を外した嘘で、仏陀の形無き原因の力をがんじがらめにする。彼を、悟りを開いた特別な存在として神聖化する(崇める対象とする)ことは、そこに在る普通を歪め、彼の真意の伝承を阻止するには格好の材料となる。

 

2.この国においても、争い事を好む残忍な人間たちは、仏教がこの地に伝わる時に備え、そのための(それを形骸とするための)策を講じ、実行する。それは、歴史ビル2階の時に始まり、権力を笠に着る祈祷師や霊媒師(占い師)たちは、巧妙に僧を仕立て、彼らを、人々への影響力を持つ尊い仏僧として位置づけ、活躍させる。

 衆生済度も如来も、涅槃(解脱)も因果も、そして、浄土(極楽)も阿弥陀も真如も皆、そこでの嘘の原因から生み出された、言葉(思考)のお遊びである。仏陀の真からは大きく次元の異なるそれらは、人の心の成長を止め、自らの原因(無意識の意思、本体の性質)への責任を放棄させる。差別や優越、支配や権勢の道具となるそれらの嘘の力により、仏教は、仏教ではない道を進む。仏陀の切なさが伝わる。

 

3.それ程恐れられていた、仏陀の本質とその原因。心の無い支配層は、仏教を悪用して、権威や形式を作り、人の暮らしを動きの無いものにしていく。生きることに精一杯だった人々は、不安や苦しみの原因(理由)に意識を向けることもなく、仏教にすがり、ご利益心を高めていく。そして、永いこと、この国は、偽りの僧(偽僧)により、仏陀の真が外された嘘の仏教を正しきこととして生きることになる。

 それは、どこまでも盤石であるはずだったが、仏陀が再度生を持つ鎌倉期に、思いがけず、ひび割れを生じさせる。当時の社会の混乱振りにそれが象徴されるように、彼の、この地での転生(の原因)は、想像を大きく超えた反動をもたらし、この国の仏教の、無くてもいいその不穏な原因の世界に、それまでにはない緊張を強いることになる。仏教は、彼の子によって、再スタートを切る。

(彼が、釈迦牟尼としての生を選択した時、西欧のある地域でも、同じように緊張が走る。そこでは、原罪と博愛(献身)を基とする偶像崇拝の流れが生み出され、苦しんでいる人の存在を前提とした、結果(形)重視の教えを最高のものとして、仏陀の原因との融合を退ける)

 

4.奈良・平安期、権威ある有力者(権力者)たちに保護され、彼らによる(のための)仕事として仏教に携わる僧たちは、表面上は、人々の心を癒す立場を守りつつ、実際は、人々の生活全般を操る支配層のために生きる。権力者たちがこの上なく喜んだのは、僧侶たちによる、死後の世界の扱い。僧は、自分たちにも全く分からない(分かるはずのない)その世界を、まことしやかに描写し、嘘を並べ、思考では決して触れ得ない次元のそれを、まるで自分たちの特権のようにして扱う(嘘芝居を演じる)。人々は、彼らの言う、浄土や成仏の概念を信じ(信じ込まされ)、辛く苦しい生活をどうにかする(どうにかしてもらう)よりも、死後(生まれ変わり)に望みを抱くようになる。そのおかげで、支配層の存在たちは、人々に犠牲を強いやすくなり、彼らの人生(命)をどんな風にでも扱える愉しみを手にする。それは、鎌倉期になっても続き、普通に生きる素朴な人たちは、僧の二枚舌に付き合わされることになる。

 時間や善悪の概念も、生と死の経験も通用しない、多次元的な形無き意思世界(死後の世界)を、人間の、思考型の思惑で捉えることは、永遠に不可能であるのだが、そのことを感得する機会を持たされない人たちは、その普通では知り得ない世界を知っていると言う存在の、その神妙で奇特な言動に、否応無く引っ張られて、洗脳状態となり、そこでの内容を、人知を超えた真実として受け入れてしまう。権威を持つ僧侶の中に、妄想癖のある自信家が居れば、天国も地獄も、好きなだけ形になる。それは、平安・鎌倉期に、多くの偽僧の嘘の道具となる。

 

5.真の外れた仏教が、死後の世界に比重を置いたのは、苦しい生活や命の犠牲という、権力によって生み出される悲惨な状況に対して、人々に何の疑問も抱かせず、やむ無きこととしてそれを受け入れさせるため。そこでは、自分たちの後ろ盾となる有力者(支配・権力者)のための浄土思想が流行り、如来や阿弥陀仏も拵えられる。当然、民(人々)も、それに従わされ、死後の安楽のためにと、経験しなくてもいい苦しみと痛みを、ただただ受容する。

 そのからくりは、権力による庇護のもと、正当なものとされ、現代に至っても、恐ろしく未熟で低次な世界(宗教)では、欲と力のために、それは行われる。そこまで、仏陀の真を翻し、仏心ゼロのまま、仏教を弄ぶ僧たち。死後の世界の学びとそれへの対処に忙しい仏教は、邪教という言葉の次元にさえも加われない。

 

6.本体と本人(身体)が違いを見せなくなる程の本来へと、人は、人間時間を通して、自らの生命の意思を成長・進化させていく。それを、自らの姿で伝え、繋ごうとした仏陀。そうにはならなかった原因を浄化すべく、それまでの負の連鎖を砕き得る更なる原因を、そのまま文字にした道元。そして、その全てがひとつに繋がり、癒される、「仏陀の心」の時。現代に生きる二人の中で、地球自然界の鼓動が連動する程の、生命の意思が息づく。

 心と思考がひとつになれない理由は、誰にとっても要らないものであるから、その気もなくいつのまにか潜めてしまっているその原因を、深くから浄化し、取り外すために、この「仏陀の心」を自分と重ねる。本音(本心)と建て前(体裁)を使い分けられること自体、人間としては退化の現れであるから、そうではない時の原因の選択を連ねるために、この「仏陀の心」から、生き直しをする。生命としての人間の普通を遠ざける要因は、結果に留まり、過去に居続ける、重たい記憶(知識)。「歴史の芯」と「仏陀の心」は、本来へと向かうのではなく、本来から始まり、そうではないところを次々と削ぎ落す、生きる原因の道具。本体は、本人の、生命としての変化を、何より嬉しい。

 

7.人の生死を扱う専門職が、僧ではない。死後の世界をテーマとする教えも、仏教本来には無い。

 仏教の本来は、人に、結果を求めさせず、原因を生きる人としての普通を、自らの在り様を通して人に伝え、その人を通して次なる風景に伝わる姿を、見守り、支えること。そこに在り続ける(変化の)原因がムリなく成長するためのその力添えを、自らの原因で行うこと。そこでは、生きることの本質が、そのまま本来であるゆえ、生きるための何かが力を持つことはない。支配(所有)欲も執着心も、居場所は無く、優越心も差別心も、そこに感情を働かせるそのことが、人には難しい。そんな心ある風景の原因でい続ける人たちのお手本となるような人生を生きる、僧。その様が、仏教と言える。

 僧は、争い事の原因を知らず、不穏な関わりや不自然な事の流れを放って置ける経験も知らない。常に、自らを通して引き寄せられ、生み出される、友愛と調和、余裕と安心。その普通の中で、人は、生と死への感覚的理解を自然と成長させ、普通に生まれ、普通に死を迎えるその生の中での、人としてのあるがままを、その原因のところから変化に乗せ、次に繋ぎ続ける。人は、平和の意味を忘れて、あたり前に平和を生き、病むことのない時を、健全・健康に生きる。その風景を、さりげなく自然体で支え続けるのが、僧であり、そのことが、仏陀の原因との融合を普通としていることの証となる。

 

8.その仏教の神髄とも言うべき、仏陀の原因の普通は、かつて彼と共に生きた、現代の道元の中から、力強く具現化する流れに乗る。仏陀は、この国での人間経験が僅か(2度目)であることもあり、今回も、基本は支え役である。この国の、いくつもの時代に生を持ち、そのいずれの時も真を生きた彼女(道元)ならではの経験が活かされるよう、彼は、道元の今を応援する。この「仏陀の心」が次へと進む度に、彼女の心は軽くなり、彼は、そのことによる安心を、力に変える。

 繋がる先の未来の風景を想う時、そこにも道元は居て、仏陀も、一緒にどこかに居る。この国は、未来に向けたその原因においてはとても重要な鍵を握る場所であるゆえ、彼女は、その時まで、自由に何度も生を生き、彼は、三度目の日本人を生きる。そして、「仏陀の心」の時を、共に振り返る。そんな風景を想う。

 永いこと抑え込まれ、自由を奪われていた、原因を生きるという、人間本来の普通。仏陀の前の生の時から始まったそれは、3000年の時を経て、力を取り戻す。その、人間本来が全く力無くなる程の負の原因の蓄積が、段階を追って確実に変わり行く(得る)ためにかかった、気の遠くなるような永い年月。でも、原因の世界から眺めた時、事はキレイに流れ、全ては、上手く行っている。人間の歴史を余裕で観るようにして変化し続けた生命の歴史は、仏陀を通して、その原因が力強く動き、道元を通して、その動きは具体化する。全ては、予定通り。そして、3000年の休み時間は終わり、ここから、新たな時が始まる。by 無有 11/08 2017

 

 

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