仏陀の心(6)

 

1.仏陀の真であるそこでの普通は、理解の質を高めるべく実践の域へと自らを変化に乗せると、それがそう簡単ではないことを経験し、どれ程心ある原因の風景からこれまでが遠ざかっていたかを知ることになる。それが極端に難しいものとなる時、その気もなく嘘の世界を本当として、狡く生きていた自分の姿を見る。

 彼の普通は、人としての、生命本来の普通。その実践の感触がどんなであれ、淡々とすべきことをこなし、然るべき反応を受容しつつ、歩み続ける。それは、人間の、生きる基本となる。

 「仏陀の心」を知る経験を、責任とする。すると、新たな知る(知識)との出会いも、責任ある原因の反映となり、ムリなく、自然に、その質は高まる。創り出される現実も、普通に変わり出す。

 その普通が脇に置かれる時、その人を通して、時は曇り出す。そこでは、知っても、それに責任を覚えなくてもいい知識が溢れ、責任が知ることとなって、知ることを通して変わり得る(変わるべき)現実への責任感覚は無しとなる。

 その様は、まさに、この国の、これまでの仏教(宗教)の姿。責任ある原因が育たないその世界は、形を生み出す心(原因)に無責任でいられる人の満足の道具となり、仏陀の世界を、好き勝手に弄ぶ。知ることだけを喜び、次なる原因を動かさずに変化(責任)を避ける時、そこから、嘘の原因は動き出す。

 

2.心の世界において、知ることから、変わることは無い。その前に、すべきこと。それは、知らなくてもいいことから離れている(いられる)ということ。

 心に正直でいる人は、そのことを学ぶ次元を必要とせず、心のままに、想いを形にする。そうではない人は、そのことを学んでもそうにはなれない時を経て、想いの不確かさ、心の未熟さを体験的に知ることから、原因の質の成長の機会を創り出す。

 両者にとっての‘知る’は、大きく違う。前者は、知ることが、そのまま生きる原因に溶ける。後者は、無自覚に知らなくてもいい時を重ねていたことを顕にする。人、物、関係性、場所etc.。心に正直でいることが難しい人は、そのどれも、知らなくてもいい(縁しなくてもいい)ことばかりである。

 嫌なことや敬遠したい世界への抵抗・反発は、それ自体が、知らなくてもいいことを度々経験していることの証となる。その上での知識は、それまでの原因を引き連れたままの知識となり、知らなくてもいい時を更に作り出す。

 それらの世界とは縁遠く、嫌悪や敬遠の感情を持つこともなくそこから自由でいる人は、その意識もなく、知らなくてもいいことから離れている。知識とは、自分に引き寄せられるようにして自然と縁し、さらりとそれは、次なる原因のそれとなる。

 前者の知るは、頭であり、感情である。心の成長は、そのことを知り、そうではない時の原因の選択無しでは為されない。後者の知るは、心であり、感性である。そのままそれは、心の成長の材料となる。

 仏陀の真実は、実に素朴で、普通。知ることのその原因となる風景を、心に正直に、人間らしく生きる。

 

3.生きることに真剣でいると、人のためになる生き方が普通となるので、そうではない原因となる現実への反応も、自然なものとなる。そして、それを未来が喜ぶ原因のそれへと変える仕事を喜んで行う。その時、そう考えるまでもなく、健康でいることが大切にされ、平和な想いでいることもあたり前となる。ふと気づけば、不健全な出来事は姿を失くし、不安や心配事の話も、皆が忘れる。生きることが楽しくて、生かし合うことが嬉しくて、ただそのままで、喜びの中に居る。

 人のために生きる普通(の原因)に抵抗する人は、流れない感情を形に、重たい結果を残す。過去を引きずり、形式に頼り、未来への原因を忘れる。その時、頭は忙しく、感情は四方に向き、身勝手な健康と平和への欲求で、周囲を不穏にする。生きることへの不平・不満を募らせ、ご利益心を強め、不安の裏返しの安心を外に求め続ける。

 生きることに真剣でいると、健康と平和を普通に生きられるだけ生き、そして迎える死の時を経て次へ行くという、自然な感覚が普通となる。そうではないと、無くてもいいこと(不安、争い、病気)に付き合うことが生きることとなり、次に行く感覚も抱けず、死後の世界に住み処を築く。

 生きる原因は、いつ、どんな時も、誰にとっても、健康と平和、友愛と調和、そして、余裕と安心である。その外に、仏教は無い。不安や争い事を前提とする宗教(教え)が、人間世界にあるはずが無い。

 

4.真にこだわる思考は、要らない。ただ、嘘を外せばいい。自らの中に、裏表を演じる自分がいれば、その姿を無くすこと。不都合な現実を見て見ぬ振りをする自分がいれば、その嘘の自分を返上すること。そこから、真は生まれ、そこに、真は近寄ろうとする。

 嘘が外れれば、そこには、正邪も善悪も無い、ありのままの真実が在る(残る)。それは、限り無く中庸でいる、生命本来の意思。人が人として生きる上での、真の普通の原因。初めからずっとそこに在り、それを見えなくさせて(させられて)しまっていたことに、人は気づく。

 正しさも、確かさも、嘘が外れないままの世界には存在しない。自らの中に、二者択一的思考による(期間限定の)価値観があれば、それは、狭い経験枠内でのみ通用する、嘘の形。そのままでは、正しさは、時を超えることはない。考えること自体に意味を見出す思考に頭を使えば、考えるまでもなく変え得る事の原因を忘れ、在るべき姿の確かさを歪めてしまうことになる。確かさは、次に繋がる、力強い原因の連なりである。

 仏陀の想いが、自分の心のフィルターを通り抜けたら、どんな言葉が生まれ、どんな発想が湧くか?そこに、嘘は存在しない。

 

5.仏教が伝わった後も、この国は、それまでと同じ、命(人生)の奪い合いの歴史を延々と続けていたことを考えれば、今に至る仏教関わりの知識全てを白紙にするぐらいでないと、かつての負(闇)の原因をそのままに嘘の人生を生き、その嘘を未来に流して(繋いで)しまうことになる。仏陀は、争わなくてもいい原因(の生き方)を伝えるために、自ら、それを実践した人。その彼の普通が、そのまま普通に繋がり、成長し得ていれば、人は、仏教を通して、共に生かし合い、支え合う人生しか知らない。仏陀の普通(真)を歪めて、彼を利用する非情な力は、人間同士が潰し合う(殺し合う)戦の援護にまで、神仏を仕立て上げる。

 唯一仏陀の真意(となる世界)を、その原因のところから表現し、繋ぎ続けた、道元。彼の存在が遠いところにある人は、思考(頭)から始まる形ばかりの仏教に汚染されている現れ。仏陀の世界に近づこうとすると、その案内役のようにして、彼の想い(原因)を心の風景に通してくれる、道元。心が主人公でいる生き方を、人は捨てずに済んだこと。仏陀の真が再生されたこと。彼が、この国の人間として繰り返し生を経験したことが、この今の「仏陀の心」に繋がる。思考型の(知識としての)仏教からあたり前に自由になる時、道元は、より仏陀の心を人の心に通し(流し)出す。

 

6.求めなくても手にするものは、自らの分に見合った、自分らしさ。それが隔たりや優越とは無縁なものであれば、生きることが、そのまま人間本来のそれとなり、何をしても、生かし合う普通を元気にする。そこで手にするものは、生きる力の原因。それで動き出すものは、人の生きる原因。求めなければ、手にするものはすでに、その人の人間らしさを支える仕事の中に居る。

 求めることも、求めさせることもない自然な風景では、それ自体が生命世界の原因となって、みんなにとっての新たな原因の時を生み出していく。そして引き寄せられる(創り出される)、その自然な営みにとってのもの。そこには、必要なものは何でもあり、時が変わっても、その時々で必要なものは何でもある。平和も健康も、そうではない原因を人は知らないから(持たないから)、手にするものは皆、平和と健康をその気もなく支えるものになる。

 その仏陀の普通に照らして、これまでの時を観る時、この「仏陀の心」が、未来に向けて、どれ程の(原因の)仕事をするかが分かる。そこに在る、時代が望む、全体からなる必要性と、無くてもいい原因への浄化。求めていては、手にするものは、自分にはその原因の無い、形ばかりの(連繋の意思を持たない)平和と健康。求めず、探さず、ただ平和と健康の原因でいる。その時、手にするものは、そのまま、次へと流れ、外へと伝わっていく。

 

7.人は、人と居て、行動を共にし、経験を重ね合う。人は、自分には無い役を担う異性と居て、一緒に過ごし、共に経験を創り出す。人は、子を経て大人(親)となり、年老いて身体を離れるまで、人と居て、人を生きる。そしてまた子となり、親となって、新たな時を経験し、共に経験を創る。

 その、人としての時が、自然に流れ行くことを、愛情と言う。そこで、人と人が交わすこと、高め合うことその全ての人としての営みを、愛し合うと言う。喜びは、どこにでも在り、優しさは、誰もが普通とする。分け合い、支え合うこと以外の原因を持たない人々の空間は、愛情だけがあり、愛し合う時がある。

 その普通が、普通ではない時、人は、その修復へと、自動制御のようにして、自らの原因をそれへと向ける。そこに異性間関わりの負の原因があれば、その異常な普通世界との融合(絡み)を離れ、次に残してはならないそれを、形無き原因のところから浄化する。そして、人と人が居る空間を、生命としての本来のそれへと変えていく。

 異性間のその在り様は、人が共に生きる上での基本形のそれであるゆえ、そこでの歪みが生じる原因も、それがそのままでいる原因も、人は放っては置けない。そのことが乱れに乱れた、平安・鎌倉期。仏陀と道元は、協力して、人の居る空間(人の生きる道)のその原因を修復する。事の異様さと、人の意識の異常さから離れ、その負の原因全てから自由になって、望むべく時を創り続ける。

 

8.共に居る相手が、親であれ、子であれ、同性であれ異性であれ、その空間は、そこに居る人にとって、次へと繋がり、次へと広がり展開する、貴い原因の時である。それは、人としての大切な原因でもあるから、そこには、強者や弱者、上位や下位といった、滞り(結果)から始まる価値感情は存在しない。誰のためでもない、みんなのための発想を普通とする、人と人。何かのためではない、みんなにとっての何かが自然と生み出される、人の居る空間。愛情は、そこに居る誰をも包み込み、優しさも思いやりも、誰もその意味を知らない。

 親と子でも、男性と女性でも、そして友と友とでも、互いは、互いを、あたり前に尊重する。そうではない経験の原因は、どこにも無いから、そこに別な人が加わっても、その基本は変わらない。人は、心のままに、心を形にするから、自分には無い経験を持つどんな相手からも、自然に学び、それを活かす。親は、子から教えられ、子は、親から力を貰う。男性は、女性に活かされ、女性は、男性によって、心を強くする。

 仏陀の普通のその原因の中に在り続けるそれらの在り様は、道元によって引き継がれ、今に至る。向かう世界ではない、生きる基本としての、人間経験の大切な要素(前提)。始まりが本来であれば、そのままそれが本来の人生となり、何があっても、どんな時でも、それは本能的に守られ続ける。そこから広がり出す、仏心(真の普通)の原因。誰もがただそのままでいられる時のためのその原因として、「仏陀の心」は仕事をし続ける。ここでの普通は、次なる時を、そのままで普通にしていく。by 無有 11/17 2017

 

 

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