仏陀の心(7)

 

1.安心には、理由は無く、不安には、理由が有る。安心に理由が有るとすれば、それは、不安に蓋をした、不安の裏返しの安心。本物ではない。理由もなく不安になるのは、自覚できない程その理由が深くに沈み、対応し切れなくなっているから。理由の無い不安は存在しない。

 人は、様々に、安心と不安を経験する。そこでは、多くが、理由の有る安心と、理由の分からない不安。そのどれも、いつのまにか蓄積させた不安が主導権を持つ。安心は、安心ではなくなり、不安は不安のままである。

 理由の無い安心は、不安が不安でなくなる時の、その原因となる。安心が不安の裏返しのそれ(理由の有る安心)であるとすれば、無自覚の不安のその原因と向き合う時を迎え入れる。そのためにも、安心でも不安でもない時を淡々と過ごし、浮き上がる不安をそのままに、安心の通り道を創る。考える時間を外し、向かおうとする場所を離れ、思考を自由にさせる。安心は、求めなければ、理由の無い安心となり、不安は、それをどうにかしようとしなければ、その原因の元の不安が、動き出す。

 安心は、そうとは分からないくらいさりげない。不安は、そうとは分からずに、姿を消していくもの。どちらでもない中で、その安心と共に、不安と遊ぶ。その時、不安は不安のままではなくなり、広がる安心の中に溶けていく。

 

2.人は、生きることが、その自覚もなく充実している時、暇であり、不安も無い。その意識もなく、その時々ですべきことをし、歩むべき道を歩む。思考はいつも自由で、心の自由に、それは連れ添う。訪れる風景は、要らないものが自然に砕かれ、次なる風景になるべく力を付けて、癒される。そんな普通を、日々連ねる。暇だから、(引き寄せられる)どんな時間も余裕で大切に出来、不安が無いから、思い悔やむ経験も知らない。ただ生きることに真剣でいる自分を、あたり前に生きている。

 そうである境地になるべく行の類があるとすれば、それは、頭を忙しく、不安と闘うことになり、そこでの(不安の)原因は皆、自分らしく生きることを遠ざける。その理由を覗いてみれば、生きることへの不真面目さが見え出す。暇で、安心の中に居る人は、生きることに真剣だから、闘う忙しさ(という時間の浪費)とは無縁である。

 

3.決められたことに従い、言われる通りのことをしていると、自分で決めることも、素朴に思うことを言葉にすることも難しくなる。与えられるものに満足し、求められることに応えていると、人に何を与え、求めていいかも分からなくなる。

 決められたことに従うこと自体、そこには何の意味も無く、意味があることが決められていることで、その大切さを人は理解する。しかし、意味あることは、大抵、人が決められるところには無い。

 求められることに応えるそのことに価値は無く、価値のあることが求められることで、人はその重要さを認識する。しかし、価値のあることは、大抵、人が人に求める次元には無い。

 与えられることを良しとし、言われた通りのことをすることも、中身は同じ。そのことから始まることはあっても、そうであろうとすることが意義を持つことはない。

 人は、いつの時も、体験的に知ること、体験的に手にすることを普通とする生き方を、身体表現の基本とする。そこに決められたことが在るとすれば、そのことを守り、支え、応援するものだけが在り、そこで求められるものが在るとすれば、そのどれもが、そのことに協力し、共に活かし合うものとなる。あとは、ただ体験するだけ。そこで手にし、生み出されるものは、全て、人間本来の自然な在り様の原因(材料)となる。

 人間には、教えられなくても、分かっていることが多くある。他への優しさ、互いの尊重、生きることの喜び、繋ぐ責任etc.。それらのことに、決まり事は決して当てはまらず、それらを強いられる経験も要らない。人として大切な体験は、人との間で自然と為され、その意味も、その価値も知らずに、それらをあたり前に、人は表現する。人生は、生きる喜びではなく、生きる喜びが形になったのが、人生である。

 

4.安心と余裕の原因ではなく、不安と焦りのそれと結び付く知識に埋もれる現代社会。そのため、人は、要らない時間を多く費やし、無くてもいい現実に付き合わされ、生かし合うのではなく、(命を)削り合う人生を生きる。そうである事実への理解も、対応も、人は知らない。

 どの時も、自らの生命の意思を形に、柔軟に、真剣に生きた仏陀の、その想いは、3千年前も今も同じである。この今、形になろうとする、現代仕様の彼の意思(原因)は、そのまま、無有日記に流れ、こうして文章になる。その原因の世界には、道元の(いくつもの人生での)経験からなる切なる想いも溶けているので、より明確に、二人の真意は、ここで形になる。

 これまでの全てを基に進化し得た、(言葉に乗る然るべき原因という)沙と羅(淘ぎと連繋)の手法は、受け手次第で、その人自身の心が、どこまでも深く浄化され(癒され)得るものとなる。専門的理解も歴史的背景の把握も要せず、実に平易な言葉と表現となって誕生することになる、仏陀と道元の普通。それは、まさに、彼らの優しさであり、誰もが読めて、誰もが実践できる、仏教である。この時代に想いを繋ぎ得た、二人の喜びが伝わってくる。ここでの知識は皆、安心と余裕の原因と繋がっている。

 

5.無有日記にも、その元となる形無き原因の意思があり、そこに、何を以てしても捉え切れない本体がある。その本体の性質をそのままに、そこでの原因は言葉になるのだが、それに対して、思考は使わず、それが思考を使う(通る)。心のままにが、あたり前になる。

 思考を使わず、思考の本体(真の自分)を通すという姿を普通とすると、意識と無意識はひとつになり、心の性質は、常にオープンになる。感情の主導権はあたり前となり、重く、流れない原因を浄化するために、感情を活用する。そこに嘘の原因は無く、身を繕う不自然さも無い。自分に正直でいるという感覚も無く、心をそのままに、本来を生きる。

 その姿を普通に生きる時、仏陀の本体と繋がる。彼自身がそうであったので、そのことで、彼の心が分かり出す。そして、普通の質は、進化する。思考を自由にさせ(自由な思考とは次元が異なる)、経験からも自由でいることは、その基本要素となる。

 その状態は、ある意味、悟りという言葉で形容されてもいいと思う。元来、それは、人間の普通であるのだが、そうではない時を永く生きて来ている今を思えば、誰もが通るべき場所(感得)として、それは悟りと言える。その時、心に嘘を抱くことは出来なくなり、形(思考)から始まる生き方も無縁となる。成長し続ける中庸の世界に、あらゆる価値観は溶け、人としての望むべく在り様の、その原因を、人は生きる。そこに仏陀は居て、道元も寄り添う。思考は、心の脇役となって、心に使われる。

 

6.心ある自分を生きるその原因は、形になる人の心のその原因を元気にする。そこでは、心ある原因でい続けることが普通となるので、考えるまでもなく感じられることが主導権を握り、考えることもなく(頭を働かせずに)話をする。言葉を選ぶ思考は要らず、心が自由に言葉になる。それは、人が人でいる時の、心の時間。互いが居る場所は、育まれ続ける心の風景。

 大切なことの話をする時に、考えることは何も無く、考えることもなく話をしている時のその(原因の)性質が、大切なこととなる。心ある柔らかな想いは、そのまま人へと伝わることを望んでいる。ふと湧き上がる言葉が、さりげなくそれに連れ添う。

 そこに、考えながら話をする必要性があるとすれば、それは、考えるまでもなく分かることの質を成長させて来なかったこれまでの現れ。大切に思えることを考えて話すことで、それをごまかす。そして、考えなければ形に出来ない大切なことの、その重たい原因を溜め込んでいく。言葉から始まる正しさは、言葉だけの(言葉にすれば良しとなる)大切なことを、好きなだけ作り出す。

 このことが、自然で、ごく普通の理解として大切にされる時、その人は、仏心(仏陀)となり、そのままで時を癒す存在となる。仏陀もそうであり、道元もそうであった、思考の力を不要とする、生きた言葉。それは、どんな時も、次なる時の原因でい続ける。

 

7.人と争うことで手にする本当の満足(感情の本質)は、自分が勝つことではなく、相手が傷つき、苦しみながら倒れることであることを知るから、仏僧は、どこまでもその世界とは関わらず、平和の原因でい続ける。そして、争いの無い世を支える。

 苦しい状況にいる人々のその存在を材料に、偽りの教えがはびこることを知るから、仏僧は、人々が苦しむその原因でもある、権力の世界とは当然のごとく無縁であり続ける。そして、その原因に働きかけ、苦しんでいる人たちを無くしていく。

 その仏僧のあるべき姿が、奈良・平安期に在れば、その後の幾多の戦(争乱)は無かった。鎌倉期に、その本来へと立ち返る仏僧が多く居れば、この国の歴史は大きく違っていた。それが、この国の仏教の素顔である。

 真の普通(仏心)は、言葉で知り、言葉で分かるものではないことを知るから、仏僧は、文字(文面)を語らず、心を言葉に、自らが真を実践する。そして、その原因を繋ぐ。彼らは、真実と繋がる本体(真の自分)を生き、仏陀を体現する。

 

8.時代を超えて伝わり、繋がるべくものは、誰もが読める言葉で表されている。理解はそれぞれでも、触れる人の変化・成長に従い、そこに在る重要なことは、そのまま、次の時代へと続く。そこに書かれた平易な言葉は、言葉になる前から、未来が喜ぶ原因がその仕事をする。

 普段使われない言葉が並び、特別な学びがなければ簡単には読めない(分からない)言葉や用語がそこに在ると、それは、繋がる未来を持たない。それが、権威ある文書(文章)として人の意識を引っ張る時、人の動きは止まり、繋ぐべきものも、力を失くす。人の生きる原因も、不自然になる。

 そのための知識を必要としない平和は、その原因が力強い。言葉にするまでもなく自然に形になる健康的な営みは、そのまま、次なる時の、未来への原因と繋がる。そして、それらに連れ添う言葉は、まるで生きているかのように、優しく、純粋でいて、人の心の中で、繋がる時を癒しながら成長する。

 大切にされるべきことは、普通にそれを大切にする原因がそのまま言葉になり、そうではない時を知ることもなく、人はその時々でそれを確認し合う。繋ぐべきことは、誰もが繋ぎ得る日常としての原因となり、ふとした想いに寄り添う言葉を通して、人は、その嬉しさを、それに(言葉に)乗せる。これらのことを、そのまま、ありのままに実践し、繋がる未来を元気にする。地球自然界が、優しさで溢れる。by 無有 12/01 2017

 

 

仏陀の心(8) トップページへ