仏陀の心(8)

 

1.力を持つ存在のために、不自由さに耐えつつ、言われるままに動き、辛さと苦しさを慢性化させる人たち。彼らとは対照的に、何もせずに欲しいものを手に入れ、食べたいものも好きなだけ食べ、楽でいられる人たち。

 力を持つ存在と、その恩恵を得て楽に生きる、力ある側でいる人たちは、そうである以外の暮らしを知らず、そうではない経験を決して望まない。それゆえ、立場の弱い人が厳しく大変な生活をしていても、それを変えたいとは思わず、彼らの上に居て、何不自由なく生活できる自分たちの立場を、当然のこととして肯定する。そして、どうにもならない貧富の差や差別を普通とする歪な世が、それをどうにかしようとはしない力ある側の人たちによって、どこまでも維持されることになる。

 その姿は、3千年程前から、世界各地の、住環境に恵まれた地域で進められ、特に大河近くや地中海に面した場所では、人口が増えるに従い、その不自然さがあたり前になる。人間本来の感覚が普通に表現されていれば、誰も経験することは無かったであろう、人として低次の、二者択一的価値観を力とする、隔たりのある社会。人々は、心無い存在の歪な普通の元で、辛く、苦しい生活を送り、その異常をやむ無く(どうにも出来ずに)繋いでしまうという、余りに厳しい時を連ねていく。

 

2.2500年程前、釈迦牟尼(仏陀)が現れた時、それまでに固めに固められた非人間性(差別、支配欲)の原因を生きる力の源としていた、非道な人間たちのその本性は、そのことに大きく刺激される。触れなくてもいいはずの内なる不安との接点が、理由も分からず生じ出し、思考の働きも不安定になる。

 彼の形無き原因の本質となる次元からは、人間らしさを欠いた存在たちのそれが余裕で観え、彼らには、彼(仏陀)の次元の様(性質)は、永遠に知り得ない。その全く感じることも出来ない原因(本体)を持つ存在が、身体を持ったわけである。遥か上空から自分たちの居る場所を突き抜けて地上に現れたような、その驚きの経験の事実は、彼らに、恐怖心を抱かせる。

 その恐さは、自分たちのこれまでの普通が、その内側から崩れてしまうことへの怯え。原因を持たない結果は存在しないという真実の中に、仏陀の限り無く中庸でいる原因が入り込むことで、永く維持してきた、重く、動きの無い原因(の蓄積)が浄化されてしまうことへの脅威。世を支配し、心無い現実の受容を人々に強いてきた存在たちは、仏陀の持つ普通とその原因が自分たちの世界には入り込まないよう、あらゆる手立てを講じる。それは、権力支配を普通とする各地で、申し合わせたように始まり、様々な動きが生じることになる。その西欧版が、キリスト教である。

 

3.異様な原因(本体)で繋がる、危うい本性の遺伝子を備える存在たちは、自分たちの心の無さが、仏陀の原因によって顕になり、それが隠しようのない不合理な原因となって不穏な状況を引き寄せてしまうその現実を避けるためには、人々の目に、心ある姿を印象付けることが何より重要であると考える。そのために取った選択が、形あるところでの、思考による心ある行為である。人々への対処にも、柔軟さと寛容さを巧く組み入れ、以前よりも楽という感触を人に抱かせて、彼らの、(置かれた環境への)積極的受容を演出する。形あるところで、人の心に安心の時を経験させ、それを心ある姿として感じさせて、人としての基本となる心の意思世界の質を、自分たちの都合の良いものへと変えていく。

 言葉で扱うことの出来ない心の世界を、上手く言葉で処理し、真実としてそれを人々の思考にすり込み、一般化できた経験は、そのことを人との共通項に、支配・権勢の土台となるその強力な要素を生み出していく。心ある振りと、嘘の優しさを馴染ませつつ狡賢さを磨く、力のある存在たちは、実質、それまでと同じく支配体制が維持されていることに安堵し、それに加えて、人々の中の不平や抵抗が弱まっていることにも味をしめ、更なる企てを試みる。

 彼らは、イエスという存在を作り出し、心ある存在の代表として、それを人々に崇めさせ、心ある原因を不要とする、作り物の心の世界を真実とする。心を無くした人ほど何の違和感もなく実践できるその宗教を通して、権力者と、それに守られる心無い人たちは、仏陀の原因との融合が一切可能ではなくなる現実を完成させる。それが、現在のキリスト教のルーツとなる、その原因の風景である。

 

4.心ある原因をあたり前に生きるという、人としての普通を大切にしていると、二重三重に覆われた嘘の原因にも、段階的に容易に触れることが出来る。結果から始まらなければ、どんな原因も動き、形にとらわれなければ、形無きその本質がよく分かり出す。行為から始まり、過去に在り続ける言葉が大切にされる教えほど、心の無さを強くその原因としているものはない。それを知るというのは、人として、何でもない当然の経験である。

 その原因の世界からキリスト教を観る時、かつての他地域への布教の危うさも、人は理解する。それは、仏陀の原因(普通)を包囲するかのように、心ある風景のありのままの姿を抑え込もうとした、権力の座に居る存在たちの、非道な思惑。そのことで、各地で悲劇が引き起こされ、人々は、永いこと(現在に至り)、歪な正しさの中で、生きることの真を忘れる。宗教の名の元での、心ある原因の無い、支配と統治、そして争乱。宗教心(心)を持たない宗教は、征服欲を正当化してしまう程、人としての真を持たない。

 仏陀の普通との融合体験は、人としての生きる基本形を力強くする。そして、宗教という言葉も、その概念も不要とする真の普通の中で、宗教という名の様々な形ある世界が、その人としての基本形の原因と重なるか(融合するか)どうかも、観察し得ることになる。キリスト教という、真実への抵抗。イエスという存在が居るとすれば、彼ほど、人間の欲に翻弄され、嘘に利用された人間は居ない。仏陀の心を知れば、それは、普通の認識となる。

 

5.人間経験を選んだ、仏陀の意思のその影響力は、それへの抵抗と拒否を各地で生じさせ、思いがけず、心無い存在たちの嘘に力を与えてしまうことになるが、それだけ歪で愚かな人間社会が続けられていたそれまでを考えれば、そのことが顕になったということでは、彼の誕生は、大きな意味を持つ。充分な仕事を為し得なかったとしても、彼が生きた身体時間のその手前の状況(背景)は、決して放っては置けない非人間振りの様。そのこと(人間経験)がどんな性質の変化をもたらし、それによって、どんな未来が引き寄せられようとするか…。仏陀の生命(多次元的な感性)は、自らの意思表現を通して見えてくる、その時代の人たちの形無き本質を観察し、次なる生の機会のために、それを大切な材料とする。近隣の国々での、仏教(真の普通)の歪曲と形骸化。遠国での、心を切り離した嘘の教え(宗教)の確立。彼が身体を終えた後に、躍起になって嘘の正しさを広め、それを巧く常識とさせてしまう力ある存在たちのその全ての原因を、仏陀は、自らの原因の中に溶かす。それを、釈迦牟尼の生での、最も重要な仕事とする。

 

6.西欧で盛んになったキリスト教は、後にこの国にも伝わることになるが、そこでは、それまでに力を付けた、仏陀への拒否反応から生まれた浄土思想が、それとの融合を上手く演出するかのように、その受け皿となる。浄土(極楽)と天国、念仏と祈り、そして根強い他力と審判。思考型の観念的思想作品として生み出されたそれらは、どれも、責任ある原因を持たない、心の無さの具体化。

 人の心を癒し、共に心ある風景の原因を力強くする普通がその宗教の中に在れば、それは、困った人の存在を無くす流れをつくる。決して、困った人の存在を前提としたものであってはならない。その教えに、人としての成長の基本要素である、中庸の精神が普通に在れば、行為としての反省を必要としない、自らの原因への責任感覚があたり前となる。決して、それは、反省することに心地良さを覚える、優越や差別の感情を潜めるものであってはならない。

 それらの普通を寄せ付けない、キリスト教。その普通ではない事実から自然と学べば、争いや病気、貧富の差などの原因を浄化する知恵は、容易に手にすることになる。そして、自らの健康と平和の原因がそのことで高まれば、そこに(キリスト教に)生命本来の原因が存在しないことも知る。人は、自然と、生きることの性質と未来へのその責任に真剣になる。

 

7.いつの世も、そこに力を持つ普通ではない存在が居れば、差別も争いも無い本来の普通は非常識とされ、弱い立場の人たちは、そのことに抗えずにただ力に従い、身を守るために、そうである常識(歪な普通、嘘)を正しさとして生きる。何世代にも渡ってそれが続けられると、世は、完全に自浄力を無くし、それまでの嘘に頼り、利する立場でいる人と、そうではない人との間では、無くてもいいはずの格差が生まれ、健康状態や、平和や安定への意識にまで、違いが出る。

 困った人の存在を前提とするというのは、病気や争い事(衝突)が、それによって生まれやすくなるということ。医療技術の発展も、武器製造も、その嘘の原因から始まったものであることが、容易に理解できる。力を持つ側から生まれたキリスト教は、人間が人間らしく生きる上で無くてもいいものを作るのが上手である。

 仏陀の普通は、人としての本来であるので、そこに、嘘の原因は無い。嘘の原因が無いというのは、形を生み出す形無き原因が、生命としての、ありのままの自然な姿であるということ。本当か嘘かという思考型の価値観も無く、ただその心ある原因の意思のまま、時空と戯れるように生きているということ。それは、地球に生きる一生命としての淘ぎと連繋(沙と羅)の仕事を、さりげなく担う。

 そのどこにも向かう場所の無い、仏陀の普通には、そこに引き寄せられ、創り出されようとする、みんなの普通とその風景がある。自然界との自然な融合を基本とする彼の原因の性質は、そこにどんなものがあっても、そこを通り抜けてそれを包み込み、癒す、自然界の根源的な意思表現をあたり前とする。そんなだから、嘘の原因を生の土台とする(結果を生きる)存在たちは、それに抵抗する余り、原因の性質無視の観念的思考を形(宗教)にして、自らの本質(本性)を顕にしてしまう。道元と同じ時を経験しながら、仏陀(真の普通)を退けつつ、キリスト教に熱くなるこの国のある層の人たちは、その東洋版の典型と言える。

 

8.この地球で共に生きる動物たちを食べることなど、余程のことが無ければ考えることもなかった、自然界に生かされ、自然に生きる人間。それは、キリスト教という、心より思考を優先させる(心が思考で扱われる)教えの、その元となる原因の風景で始まり、そのことで次第に脳(右脳)を不自然にする人たちの間で、それは日常化する。動物の肉の摂取は、それを普通とすると、それまでには無かった様々な否定感情(嫉妬、差別、怖れetc.)の土壌が脳に植え付けられ、その気もなく、攻撃的で自己本位な生き方をするようになる。(人間の心身は、元々それを良しとしないわけだから、当然のことなのだが…)そして、時代環境が許せば、支配・所有欲を狡賢く具体化させ、そうでなければ、巧みな偽善・偽装で、世の潮流を自分たちのものにする。その非人間的な感情(脳)は、形無き心の性質を無視できるキリスト教の、その負の土台をしっかりと支え続ける。

 動物たちの苦しみと痛み(の原因)を、そのまま取り込み、自分のものに出来る人たち。その地球自然界の望み(普通)を破壊するような行為と、その負の要素の原因は、キリスト教を通して多くの場所に伝わり、その地域の宗教の在り方にまで悪影響を及ぼす程になる。動物たちの苦しみを生み出さない、仏陀の普通世界は、人として要らないはずのものを備える存在たちによって拒否・否定され、そのままそれは、地球の悲しみとなる。彼らが、動物愛護や環境保全の言葉を発する時、そこに在る、全くそうではない暴力的な原因に、自然界の生命たちは、苦しみを覚える。

 

9.宗教という言葉も、その概念も存在せず、そこから始まる生き方や事の捉え方も、どこにも無い状況があるとすれば(とは言っても、かつてはそれがあたり前だったが…)、そこに在る(残る)のは、水や空気のような、仏陀の普通である。その普通が、人から人へと伝わり、空間から空間へと流れ、繋がり行く時、人は、生きる原因を、その意識もなく本来とし、無くてもいい経験を知らずに、あたり前の平和と健康の時を、共に育み、成長させる。

 その様を、宗教という名で扱ってもいい。そうでなくてもいい。基本が否定感情とは無縁であれば、何をしても、それがどんな風でも、時は癒され、人は、健全さを普通とする。その世界から観た時、キリスト教の本当の姿が、面白い程に見えてくる。そこに、生命を活かし、自然界を安心させる、水や空気のような原因は無い。

 思考で覆われた本当の自分のその性質が他者へと自由に伝わることになると、心(原因)の嘘は、一切通用しなくなる。それまでの知識や経験が意味を成さない感覚世界(環境)に身を置くと、大切にしてきた物や形は、そうではなくなる。そして、意思表示し始める、ありのままの自分の、その本質。それは、人間にとって、何より重要で、貴いもの。それがそのままであることを基に、人は、人としての生を生き、時を創造する。その普通世界が、普通に変化に乗り、空間を次へと繋げば、人は、争いの原因を生み出すことはない。苦しみも悲しみも、経験の外側となり、誰もが、生命としての人間を、自然体で生きる。

 そのことを外して、人生を語ることは出来ない。なぜなら、人生は、この地球自然界に生きる一生命としての存在が、人間という身体を通して経験する、人としての地球時間。そこに、差別や優越、嫉妬や怖れがあるとすれば、そのままでは、人生ではなくなる。その原因の浄化無しに、人生と呼べる時を、人は生きることは出来ない。

 改めて、「仏陀の心」を自分と重ねる。どこまでも中庸でいる生命本来の生き方を、自然界に、自信を持って差し出してみる。自らが、この地球発の、地球が喜ぶ普通人のひな型になる。by 無有 12/07 2017

 

 

仏陀の心(9) トップページへ