仏陀の心(9)

 

1.仏陀の普通世界を、ムリ無く、自然な感じで、自らの日常に馴染ませていると、体験的に知るそこでの何気ない感触は、良いも悪いも無く、そのまま記憶(の中)に、記憶に残ることもなく染み込んで、溶け、流れるような時間と、滑らかに動き出す(空間の中に居る)感覚を通して、それら(の性質)は、望むべく変化のその大切な要素となって、さりげなく大きな仕事をしていることに気づかされる。

 感情は、本来と全体にとってのその違和感としての反応のそれでしかなく、それが変化に乗り得るものであれば、感情は感性の中に溶け、そうでなければ、それを変え得る時の材料として、感性の中に収まる。感情の必要性に、(個の)感情は無い。

 思考は、いつしか、頭で考えることではなく、心で感じることをそのまま通す役(場所)となり、対処や検討といった次元のものが縁遠くなる中、何かをしようともせずに、さりげなくすべきことをする(している)その原因を高める道具となる。考えていては、思考は、ほんの少しも本来の力を出せない。

 他を隔てる感情も、個のままの思考もそこには入り込めない、人間本来の普通。「仏陀の心」は、その本来をどこまでも細かく回転させ、それをどんなところにも流れさせて、時を癒す。それは、生命世界における人間にとっての、シンプルな真実。感情も思考も、そこでは、心のかたち。

 

2.どちらでもあって、どちらでもない感覚は、そうであろうとする意識を寄せ付けず、ただ人が人としての生をさりげなく真剣に生きている時、そのまま、それになる。その中庸でいて、全体でいる自分が、その意識もなくそのままであれば、心に正直でいることも、正直になれるその心も、ひとつになって躍動する。それは、心の素顔。

 心の世界に、感動は無く、感動する感情が、心ある普通を隔て、心を作り出す。感激・感銘の類もそう。心のままに生きることを怖れるから、安易に心を打たれ、感情も忙しくなる。心は、いつでも、心ある自分しか知らない。

 精神性も人間性も、その在り様に頭を働かせれば、心は離れる。人として在るべき精神性も、望むべく人間性も、心は、それを普通とする。その普通を、人の心は望み、心は、その普通を本来の原因とする。心を、心として扱う次元に、心は無い。

 仏陀の普通に、感動は要らない。彼の精神性に、思考を付き合わせることもない。心は、それを知るから、この時、仏陀の心と遊ぶ。共に、心を元気にする。

 

3.経験から自由になる経験は、それまでとは異なる経験の原因が、過去ではなく未来と繋がることで、その力を発揮する。本体が知る、無意識(右脳)の中に在るこれまでの歴史での人間経験もそう。その全てから自由になれる(でいられる)この時の新たな経験は、未来を変え得る原因となり、過去のあらゆる性質の記憶をも浄化する。思考を自由にさせ得る時を通して自由になれるそれまでの経験は、思考による理解を不要とする時空を連ねることで、そこに在る(動きの無い)重石を外す。

 自由な心は、かつての不自由な心を癒し、自由に使うことも出来なかったその頃の思考のその原因を、ここに招き、浄化する。意識も精神も、自由な心に支えられるそれらは、時を自由に超え、無くてもいい経験の記憶を包み込んで、かつての自分の涙顔を、笑顔にする。

 経験から自由になるだけで、自由に動き出す心。「仏陀の心」に触れる時間は、そのことを普通に、普通に心に主導権を握らせる。そして心は、元気に心ある経験を創り、経験を残す次元を離れる。仏陀の普通との融合は、どんな時も、経験という名の次なる原因の中に溶ける。

 

4.仏陀の心の世界と自らのそれが重なり合うような時を通して、ふと実感するのは、本来の普通には、その対象としてのそうではない歪な普通や異常さが、そのどこにも存在しないということ。それは、どこまでも普通、何をしても普通。絶えずその原因でい続けるその姿は、どこかへ向かうこともなく、求め、手にする目的もなく、その全てが普通となる。そうではない原因からなる世界も、そこに在れば、すでにそうである原因との(ある種の)融合を普通とするから、何もかもが、本来の普通のひとつになる。仏陀の普通は、ただあたり前に普通でいるその姿を、当然のごとく普通としているだけ。そこに、平面上に収まる、対比され得る世界は無い。

 仏陀の普通が、ある個の思惑で退けられる時、それは、単なる人生のムダづかいである。抵抗も拒否も、仏陀の心の、その余裕の中での普通。そうあるべき姿に触れたことで、そうではない姿を志したとしても、そこに在るのは、止まったままのきゅう屈な時間。それを包み込むその普通の中で、ただ癒されていたいだけ。本来の普通を嫌悪する姿勢は、生きることを普通としない(させない)人生で普通に生きようとするその未熟さを生きがいとする。仏陀の心は、そんなことも普通とする。

 普通だけが在る、仏陀の心。道元の普通も、それと同じ。そこから離れても(離れようとしても)、彼らの永遠と変化からは出ることはない。全ての基であり、源である、普通。思考でそれに抵抗しても、感情でそれを拒否しても、それらは皆、彼らの(普通の中の)普通。普通は、ただ普通でいて、普通ではない世界は、そのどこにも無い。

 

5.永いこと、生きることから外されてしまっていた、普通に生きること。そこに立ち返り、仏陀の普通を実践しつつ、心ある想いを重ね合う平和の時を、あたり前とする。それは、人間の仕事というより、人間であれば、当然普通に行う、生きる基本。それが外されたまま生きることを良しとする人生を、人間は望めない。自然界の生命たちも、永いこと、待ちぼうけである。

 仏陀への抵抗から始まった、この国の仏教。人の感情を操り、思考を忙しくさせるそれは、不安から始まり、不安で終わるもの。不安の裏返しの嘘の安心のために、無くてもいいはずの不安を経験させ(受容させ)、人の道を外す。これまでがそうであるからと、それをそのまま続けようとする(続けられる)僧であってはならない。安心から始まり、それが普通であるよう、不安の原因を浄化する。仏教本来の普通を、さりげなく、自然に表現する。

 普通に生きるのを難しくさせられてしまう環境がそこに在れば、その原因に対処し、そうではないところへと事を進め、新たなその原因を力強くする。病気や争い事を抱える人たちが居れば、その根本となる原因を本来へと変え、そのままで健康で平和な暮らしを、そっと支える。差別や争い、病気や不健全の原因を潜ませる仏教(宗教)は、存在しない。

 

6.自然界との調和ある生活空間を安定させることは、仏陀の心の、そのひとつの意思。そのための、この時代にすべき次の時代への連繋の原因は、食を人間本来とすること。この地球に住む生命たちは皆、体に取り込むものをそのまま生命活動の源とし、それは、共に育む調和と友愛のかけがえのない原因とする。歪であったこれまでの仏教に連れ添わざるを得なかった、否定感情漬けの白米文化(白い小麦etc.)。全粒穀物食を普通に、自然界との自然な融合を普通とする。共に生きる生命たちも、それを嬉しい。

 食べたものがそのまま体の一部になる(食べたものによって体が作られる)、食物との関わり。栄養価のある(体の中で仕事をする)部分が除かれた食物を摂り続けても何でもない生活空間は、人間の思考全般を無生命化させ、その身体時間も、非生命的(非人間的)なものにする。それが普通であれば、それは異常の現れで、人が人として生きることは不可能となる。生きる上での活動のその基本材料となる、食物。人間本来は、食物本来を普通とする。

 感性を健全にし、感覚を自然なものにしようとしても、細胞が喜ばない(辛くなる)食物の摂取を普通としていれば、それは(その脳では)、永遠に難しい。ただ難しいだけでなく、それは、生命を生きる人間として大切なことにも、無感覚・無関心な状態を潜在させてしまう。全粒穀物食には、生命を生かし、生命を繋ぐという、心ある責任と優しさがある。それは、仏陀の普通の基礎を安定させる、自然界の望みでもある。

 

7.始まりが本来であれば、その原因はどこまでも望むべく姿となり、そのまま終わることなく本来でい続ける風景の連なりを創る。それがそうではない時、本来は、探し求める対象としてあり、何をしてもそれまでを浄化し得る原因になれないまま、本来から離れた風景を繰り返し生み出す。それを思う時、「仏陀の心」を通らずして、人は本来を普通に生きることは出来ないことを知る。

 本来という原因から外れず、それを始まりとする生を普通に生きる自分でいる時、本来でいる証のような感覚的理解が自然と生じ出す。その代表例が、LED照明への自然な違和感である。本来でいる感覚は、健全さを普通に、そこに在る無生命化の意思を感じ取る。生命が生命でいられなくなるその原因は、仏陀の普通を尽く崩し、道元の意思を無きものにする程の負の力を持つ。人間が、人間としての責任を形とする時、そこに、LED照明は存在しない。

 LED照明がそこに在れば、全粒穀物食は、力を無くす。そして、人は、心ある自分を取り戻せなくなる。自然界に生きる生命たちの望みは、普通に生きること。その普通が、LEDによって壊れていくことに、彼らは、ただただ耐え続ける。本来の原因から生き直しをし(再スタートを切り)、生命たちを安心させる。本来でいる原因を成長させ得る「仏陀の心」は、そうではない原因を包み込み、自然界の望みに応える。

 

8.人として望むべく在り様の基本は、人間本来の、自然で普通の姿であるのだが、誰もが普通にそうであり得るそのことが難しいと感じる時、この「仏陀の心」に繰り返し触れ、その世界を自らとしてみる。

 そうにはなれない理由には、それだけの原因があり、その原因は、その気もなく争いや不調を生み出す材料として、無意識のところに蓄積する。良いも悪いもなく、被害者も加害者もなくいられる「仏陀の心」に居て、その無くてもいいものを浮き上がらせる。見られたくない自分は、真っ先に向き合う自分。知られたくない(隠したい)自分は、決して放っては置けない自分。心の性質は、あらゆることに影響を及ぼす。その負の影響力を潜めたまま人間本来を生きようとすれば、全てが嘘になる。

 この時代、「仏陀の心」を自らと重ねることが難しい時間ほど、要らないものはない。それは、変化の原因そのもの。心の成長とその具現化の進化を見守る、全てであるひとつの意思。この時の経験をこれからの人生に溶かし、自らが、普通という名の新たな歴史の創り手となる。普通は、それだけで平和の要素を備え、その質の高まりとともに、健全・健康をあたり前とする。「仏陀の心」との出会いは、仏陀の意思である、彼の普通との融合。その普通を、どこまでも普通に、この今の、未来への繋ぎ手となる。時は、「仏陀の心」が一歳となる、2018年へ。共に歩み、共に生きる。by 無有 12/15 2017

 

 

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