人間本来

 

1)創価学会が世の中に影響を及ぼし始めた頃(70年代に入るあたり)から、子供たちの学校生活は乱れ始め、若者の突然死が少しずつ増えた、ということを知る人は多い。…なんてことを書くと、その根拠は?となる。もちろん根拠はいくつもあり、たくさんの人たちがそれを知るところだが、その中の一つに、生命(本来の人間)が喜ばない彼ら特有の価値観がある。

 形でどんなに繕っても、中身(本心)は、自分たちだけの喜び(利益)。ありのままにみんなの喜びを普通とする一般の(健全な)子供たちは、その歪で重たい世界に反応させられ、心身は重くなる。大切なものを大切に出来なくなり、希望を失くす。

 健全な感性を持たない人が殆どを占める創価学会には、細胞が悲しみ、心が辛くなる物(食品、品物)に対して違和感を抱く人がいないから(それほど成り立ちが人間ではなくなってしまっているのだが)、快活であるはずの素朴な若者は、慢性的に不健康になり、脳の働きも不健全になる。そして、早くに命を落とす。

 創価学会は、それに対してどうにかしなければ、とポーズを取り、存在感をアピールする。無有日記の中の、「無意識で人を病ませ、思考で人を助ける」がそのままである。

 とりわけ、彼ら創価学会(公明党)のポスターと??な会館は、恐ろしく不気味で、心ある人をどこまでも苦しめる。ポスターが貼ってある家は、凶悪な本性そのままの人が住んでいる証だから、それはそれで分かりやすいという点もあるが、それにしても、それらから伝わり、流れ出す、残忍さを秘めた動きの無い(純粋な人の動きを止める)原因は、限り無く暴力的で破壊的である。どこまで生命本来を無視し、人間を堕落させれば、そんなことが出来るのか? 組織全体で、じわじわと心柔らかな人の生命力を奪うその無意識の姿勢は、「この国の病みの始まり」と「再生」の中の存在たちと全く同質である。

 創価学会の人が10万人集まっても、彼らの中に染み込んでしまっているものを観察すれば、未来が喜ぶ原因でいる人は1人もいない。それだけ、その心の性質は、時代の異物だということ。原因の世界(生命世界)では、それは分かり過ぎるぐらいの常識。創価学会は、望ましい未来の風景から見れば、「そうか、がっ○○」である。

 どこに居て、どこを通って今回身体を選んだかをその無意識(本当の自分)は知っているはずの、その世界の親分たちは、同じようには行かないこれからをどうするのだろうか? 人間としてのチャンスをムダにすれば、生命としてのチャンスは永遠に無い。「この国のこれからのためにW」も参考になると思う。

 

 狭い世界でのみ通用する考え(教え)の外の世界を知らずに(知ることを許されずに)成長した子の内面は、可哀想なくらい未熟である。それゆえ、その世界から離れるなんてことは殆ど不可能となり、その自覚もなく社会を病ませ、その病みを支えてしまう。手遅れになる前に、要らないものを外し、動き出す。人間であれば…。

 そうそう、創価学会が力を持ち出してから、結婚しない人や子供を持たない人が増えたという、日本の将来にとってとても危うい面もある。感性豊かな人の健康を望まない彼らの無意識の意思を感じれば、その理由は明らか。

 

2)つまるところ、創価学会というのは、心よりも形、想いよりも思考、原因よりも結果という、典型的なご利益onlyのビジネス集団で、昔で言えば、凶暴で残酷な意思を持つ支配者の元で、自分たちだけの安心のために他を隔てながら停滞と不健全を巧く生きた重たい人たちである。その意識もなくそうである現在の彼らの姿は、その本性の中に、かつての人間味の無い惨さ(の放任)の記憶が潜んでいることを意味する。それを喜ぶ、現代での「再生」の中に登場する一族たち。外にいて、創価学会とは無縁の立場で、彼らの負の原因づくりを応援する。

 日蓮の言動(と言われる話)を利用するあたり、仏心の無さが顕になる。数の力で本心をごまかすあたり、愛情の無さを覚える。権力で利益専有(独占)を図るあたり、我欲まみれの醜さが見える。それは、心を持たない存在たちの妙な力。思考レベルの優位性(特別化)を維持しながら、慈悲心までをも作り物にしてしまう。

 

3)心を思考(言葉)で扱うことしかできないその異様な無意識(本性)の影響力を考えれば、心のままに自然体で生きる人は、彼らの何でもない動きに本来を壊されてしまう。地域に創価学会の人が住んでいれば、それだけで、敏感な普通の人は体が疲れやすくなり、要らない頑張りを強いられてしまう。学校の中(特に教師)にいれば、子供は、子供心を失くしていく。自らがそうである原因そのものであるから、彼らには何も分からない。その分からなさを武器に、無意識の意思のまま、不穏で重苦しい空気を蔓延させていく。

 不自然な事実がそこにある時、同じようなことが起きた時のための対応という、結果の学びではなく、二度とそうならないための、なぜそうなってしまったかという原因の学びが普通自然体の人間の姿である。放って置けない事実が長く続いているのも、問題事の原因を作らない人の姿勢よりも問題事の処理をする人の行為が重要視されてしまうという、生命を生きる人間としてはあり得ないオカシな現象に、人々の思考が慣れさせられてしまったためである。その巧さは、凶悪な意思表現を普通とする創価学会の性質そのものであり、それによって心ある人の原因は無視され、素朴な想いは抑えられてしまう。

 

4)現代において、他の何よりも人を災いに招き入れる術に長けた創価学会には、自分に嘘をつける人がいくらでもいる。その姿はどこまでも軽く、表面的で、どんな時も心薄く、形式的なのだが、誰が見てもその人は善人風の良い人で、それなりに、それらしく人を思い、気は優しい。でも、その中身は、嫌な相手を容赦なく潰し切る、残忍な意思。何があってもそれに気づかれず、どんな状況でもそれを自覚することのない徹底した嘘(という意識もなく嘘を生きる手際の良さ)で、純粋な人の人生(命)を奪う。そのために、世間体と流れない(期間限定の)常識を利用することは忘れない。そんな自分を良識ある普通人として生きるその虚偽の姿勢には、自然界が苦痛を覚える程の無意識の凄さがある。

 ふとその世界の違和感深くに入ってみれば、彼ら特有の無意識の原因の風景から見えてくるものがある。それは、その総体としての本性の遺伝子が、「再生」の中の一族と密に繋がっているということ。それは、自分たちの中に、本来の人間が持ち得るものが何も無く、その人間味の無さ(残酷さ、凶暴さ、全体への無知と感性の無さ)を隠すために、思考(頭)だけで生きられる世界を、互いに支え合って、維持しているということ。優しさも思いやりも、彼らにとってはキレイな包装紙のようなもので、心が無い分、その厚み(キレイ事)は終わりが見えない程である。

 

5)創価学会の人たちが今のまま行こうとすれば、彼ら自身、どこまでも無知のまま、人間を知らず、生命も生きられず、他者をその意識もなく災いに巻き込むという、辛い時(転生)を繰り返すことになる。

 自分の中に在るべきものが無ければ、それを認め、創る。真の慈悲は、どんな重たい人の無意識の中にも入って行き、真の愛情は、そんな人の変化を余裕で支え続けるものだから。知らなければ、自分を知る人を通して経験の質を変え、新たな経験を創る。真の喜びは、中庸そのものの原因とのさりげない融合であり、真の幸せは、その質を高め、それを具現化することだから。それには、隔たりも争いも存在しないゆえのとても厳しい時の受容を要するが、それを外して先へと行くことはできない。

 創価学会は、創る価値のあることを学ぶ会。でも、学んでばかりでは、何も学ばないのと同じ。形よりも心、思考よりも想い、結果よりも原因をあたり前に、共に人間らしい人間の経験を創る。

 

6)創価学会の世界での経験は、変化そのものの生命を生きる人間にとっては、経験するまでもなく容易に分かり得る、要らない経験である。浄化されないままだったその無意識の性質(異物の影響)を観察すれば、身体を持つ前に居た世界の次元もよく分かり、彼らがそうであったことを理解することが全く不可能であることも理解する。(だからこそ、他者を通して見える自分の認識が必要なのだが…)

 であればどうすべきか、ということになるが、心(原因)を持たない彼らには、行為からなる価値判断しか出来ず、その質を成長させたり、その手前の自分を観察したりは、経験の外側の(思考の限界を超えた)ものとなるため、それは限り無く難しい。それよりも、経験しなくてもいい経験を重ねたこれまで(負の蓄積)を元にそれ以上何かをしようとはせず、ただそのままで何でもない時間を増やし、頭を不必要に働かせない時を過ごす。そのことで、不安や怖れ、こだわりなどいろいろな性質の感情が姿を見せることになるが、それは、自身を観察するという、それまでには無かった原因の機会を手にするということでもある。それを善悪、正邪の観点で捉えなければ、それだけで、人間の望むべく在り様の基本となる材料を、感覚的に経験する。それは、貴い出来事。行為の手前の存在の質に僅かでも感応し、心が育つ場所が誕生する時。それはまた、心を持たない人が心を経験し、心を育て始める、大切なプロセスである。

 

7)創価学会には、その気もなく何となくそこに居ることになってしまった人や、親の影響で(親に従うかたちで)その世界があたり前になってしまった人がいる。仕事上のお付き合いやある立場としてやむなくそうであったり、親戚付き合いの都合でそこに関わりを持ち始める人もいる。当然そんな人たちの中には、普通の感覚を持っている人もいて、そのために、心身を病むことになる。精神的な疲労(辛さ、苦しみ)をしつこく溜め込んだり、重病を患ったりする人もいて、苦労の絶えない家族は多い。

 外から見れば、その原因が創価学会の歪な価値感情にあることは明らかなのだが、そこにいる人は、思考を自由にさせる間もなく勤行や奉仕を意識させられ、そんな時でも、信心やお布施が足りないと巧く思考を操られる。そして、頭が喜び、心と細胞が苦しむ人生を生きることになる。世の平和をポーズにご利益先行の集団は、それ自体が、強力な病みの発信源となる。

 

8)本当のことは、本当という言葉を使いたくないぐらいそう思え、感じられること。湧き上がる想いがそこに案内してくれる、みんなにとっての大切なこと。その理由を必要としない本当のことは、そうではない世界の原因を知らず、何が本当かどうかの観点も要らない。それは、身体を持つ前の生命の意思とも繋がり、あらゆる物事の原因深くで、存在としての責任を次(未来)に運ぶ。それに自然に触れることが宗教の姿であり、そうであるから宗教と言える。

 そこから外れると、その自覚もなく、思考で宗教を扱うことを覚え、不穏な組織(集団)の不自然な活動を直接・間接的に支えてしまうことになる。その不自然さの最たるものが創価学会であり、本当や本物の言葉を掲げて(自らの嘘を隠して)真を弄び、苦しみの製造という、人間には出来ないはずのことを行っている。

 いつか、この文章が笑い話となり、何をしてもしなくても、どこか嬉しくて、理由の要らない喜びに皆が笑顔になる。その時のために、今ここに触れる人がいて、その人を通して変わり出す世界がある。変わるべきことは、それを変えようとする力が強くなることよりも、それを変えさせない存在の力が無くなることによって、ふと気づけばいつのまにか変わっているもの。そのために必要なのが、ぶつからない原因。水や空気のように、どんなところにも伝わり行く、柔らかな想い。強弱、大小ではない、その次元の違いが、不自然な状況の原因をさりげなく変え、不調和な風景の重しを外していく。

 宗教を隠れ蓑に暗躍する凶暴な組織が権力を持てる背景には何があるかを考えてみる。宗教心を持たない危うい人たちが普通の人として集団で生きていけるその原因の風景を感じてみる。それらを余裕をもって観察、把握できれば、創価学会の土台の中に隠されて見えなくなってしまっている、その恐ろしい意思を浄化する機会を創り出すこともできる。

 

9)現代に至るまでのこの国の歴史と、この時代の社会環境の変化を元に、人々が観察し得る事実を通して、その原因となる意思を感じれば、創価学会は、実に巧妙に、その凶悪な意思を実行する。それは、人口の減少。大勢の若者たちが生きにくさを覚える不健康な環境を秘かに作り続け、10年、20年…と年数をかけて人々を病ませ、心ある純粋な人たちの人生を奪って、自分たち(心の無い人間)の割合を増やしていく。50年後には、あり得ない病的な現実。100年後には、完全なる支配が為され、人口は徐々に増えるが、殆どが創価学会員(and同質の人間)となる。それは、その中枢にいる存在たちによって継承され続ける、彼らの本性、無意識の意思。集まる多数の人たちは、その意思の実行役として、その意識もなくそれを行う。

 その原動力となる、記憶の中の経験とその性質は、かの一族と共に残酷な殺戮を繰り返し行っていたかつてのいくつもの時代の、人の命を奪う快感と人間らしさの破壊。現代ではその時と同じようには行かないため、同質の他と、その手段と影響力で巧く住み分けをし、世をオカシクさせていく。それは、世界各地で生じる紛争と迫害に、その燃料となる凶悪な原因(エネルギー)を供給する程である。

 

10)悪質で残忍な原因(意思)を創価学会の中にあたり前に感じ、異常で恐ろしい思考の性質をそこに居る人たちから余裕で知り得る、そのことの責任を、ここに言葉として表現し、それを未来に繋げる。未来は、この今に生きる人々の心の風景をその原因とするから、かつての人々の未来となる今に、その時の、未来には持っては行けないはずのものが未だあれば、次の時代への責任として、この時代を本来にする。それは、この国のこの今に生きる人間として、この地球に住む生命として、大切な役割である。

 誰もがそうである普通が遠ざけられたままだと、人間の心を持たない存在が、それらしく人間でいられ、地球が悲しむ。心ある想いと健全な感性があたり前でなければ、生命にとって大切なことが、個の思惑による思考で扱われ、共に生きる他の生命たちは辛くなる。未来はみんなの中にあり、その中の確かな原因を未来は嬉しい。過去はみんなに望みを託し、その質の成長と進化に過去は安心する。たださりげなく真剣に、責任ある原因を生きる。

 

11)時は、20155月。今ほど、人間の在り様が未来地球に影響を及ぼす時は無い。この国においては、この時の観察と実践の質の変化が、望ましい未来の貴い要素となる。

 知らされていることから自由になり、知るべきことを知る。信じていることから、信じ込まされていることを外し、自らが真を生きる。そして、そうであってはならない現実の原因を、感じるままに余裕で変えていく。創価学会の本質を知れば、それが未来には持って行けないものの代表であることが分かり、それによって、同業多集団(組織)の重たい原因も崩れ出して、政治や経済は、人としての普通のそれになる。未来が喜ぶ原因を生きることは、どんな人の心も知る本来の普通だから、それを分かり得ない心の無い存在に付き合うという、あってはならない経験を生命の記憶に残してはならない。

 ずっとこの時を待ち望んでいた姿無き多くの生命たちと共に、新たな次へと歩み出す。心ある人たちの安心を普通に、その原因を時の流れに乗せていく。この今、この時、力強い普通感覚をそのままに、生命を生き、人間をやる。

 

追)創価学会が力を無くす分、未来空間がより健全で平和になるというのは、人間本来を普通に生きる人たちにとっては、ごくごくあたり前の常識である。もちろんそれは、表面的な数の力や権力の類ではない、その内側の悪質な感情。他の心無い組織や集団も、その感情で密に繋がり、同質の危うい無意識の意思で、互いに世を病ませ、それぞれにその存在感を維持しようとしている。その桁外れで、酷く怖ろしい否定感情が創価学会の中にはあるので、生命本来をテーマにそれが変化することが何より重要になってくる。彼らが担う役割は大きい。

 この無有日記に触れたことを大切な機会とし、人間として、生命として、それを結果にせず、原因のまま、次へと繋いで欲しい。無有は何も知らず、ただその人にとってその時に必要とすること(原因)を、その人の思考をはるか超えたところで容易に知り得ることを普通とする。つまり、常に無限分の一の原因の分母が仕事をしているということ。まずは、このページをプリントアウトし、それとの融合を経験し、それによる変化を楽しんでみて欲しい。きっと、真の自分にとって、実に面白く、ステキな現実が、その手前のところから動き出すと思う。by 無有 5/10 2015

 

 

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