本心と安心

 

1)原因の無い結果が存在しないように、病気には、そこに至るまでの不健康な原因の積み重ねが存在する。しかし、多くの場合が、その気もなくそうなってしまった不本意な状態としてあることを考えれば、そこには、その気もなく人を病気にさせる力が働いていることを理解する。

 誰もが感じ取れるその力は、人が辛くても自分は平気で、人が困っても自分は困らない思考(価値観)や物、スタイルを持つ人の何気ない言動。それだから、自分が伝えたことや勧めたことで縁した人が病むことになっても、彼は何も分からず、その責任を感じることもない。時にそれが好意として為されたものであれば、より人は病み、彼は人思いの善人になる。

 しかし、その気が無いとはいえ、人が心身を病み、生命力を失くすその事実は、とても怖ろしいことである。自覚は無くとも、そこには、人間本来から大きくかけ離れたその人の、人間らしさの無い危うい意思を感じ取れる。

 

2)人間本来からかけ離れた人というのは、その言葉の通り、人間本来を生きるのが出来なくなっている人なのだが、そんな人に限って、人間らしく振る舞うのを得意とし、人を思う気持ちも持ち続けられるので、縁する人は誰も、彼がそんな人とは思わない。

 でもそれは、表面的な関わりで済む間柄であることでそうなのであり、実際のその姿に、人知れず心身を病む人や、その人の言葉の奥にあるものに反応して生きる力を消耗させられてしまう人がいる。そんな様子を見て、親身になって動く彼ら。その姿に人は感心し、良い人の印象は定着する。仕事で悩み、人間関係で苦労する人が、その元を作った人に助けられる光景はよくあること。

 本来ではない人は、何が本来であるかを感得する感性を持たないので、人間らしい原因を普通としていると、彼らのそれが作り物であることがよく分かる。彼らが良しとする歪な普通には、頭で考えたことが心になるというのがあり、心(想い)が言葉になり、行為になる本来を知らないので、感じる世界も、思考発である。それは、優しい感情を作為的に作り上げ、それを自分だと思い込んでしまう程の危うい普通である。

 そんな彼らが何より苦手とする、どちらでもあり、どちらでもない人間本来の在り様。そのテーマの前では、本性を抑える力が急に強まって、精神が不安定になり、心の無さが簡単に顕になる。そうとは気づかれないよう、覚えたことを大事に知識で身を守り、不自然な人と思われないよう、世間的に良いこと、正しいことに執着する。

 

3)人間本来からかけ離れた人というのは、人としての健全な感性が無いだけではなく、長い時を経て、細胞の働きも人間らしさを失くしている。それは、その無意識(本当の自分)の中に、普通の人間が持ち得ない経験の記憶があることを意味し、それによって、感情が冷たく(惨く)なり、普通の人との細胞レベルの融合も難しくなって、本来であれば要らないもの(身体を持つ前に浄化すべきもの)をそのまま連れ歩くいくつもの人生で、心身の鈍性を普通としてしまったためである。それと繋がる(それに続く)同質の人たちは、その本性(獰猛で暴力的な無意識)の遺伝子を同じくし、健康的な心を持つ人とは融合できないという共通項を材料に、残忍な感情と不健康な食習慣を体調維持の要素にまでしてしまう。

 その元となる背景の一つには、遠い昔、蛇を繰り返し食べていたことで、脳(感情)が異常となって、人間としての普通の感覚を無くしてしまった存在たちが、たくさんの人たちにそれを薬草だと偽って飲ませたことの影響がある。(※細かく切って日干しにして、それを叩き潰して粉末にする)でも、それよりも重大な背景に、その時よりもずっと前の、人間であれば決して出来ない獣同然(いやそれ以下)の、「再生」の中での行為がある。

 身体を活用して、生命を生きることを普通とする人間本来の世界とは次元の異なる危うい意思がそうであれば(身体を持てば)、細胞レベルの原因も変異を連ね、質を変え、その細胞は生命源との繋がりも不要となってしまう程、その人間らしさの無い存在の意思と融合し、歪な普通(不健康)をあたり前(健康)としてしまう。

 

4)本来を生きるのが出来なくなっている人は、その普通ではない状態の人生をかつて同じように何度か経験しており、そうである原因をそのままに(何の対処もせずに)新たな身体経験を選んだことで、今のその姿がある。その殆どは、どの時代でも、人間味の無い不穏な感情を強めながら、心の無い悪質な本性のままに、その意識もなく、ずるく、さもしく頭だけで生きる。感性の無さによる理解の浅さと、精神の未熟さゆえの意識の低劣さを燃料に、本能的に、心ある人の本来の普通を破壊する。そして、その多くが、何らかの形で、かの一族(「再生」)のある人生と関わりを持ったり、時や歩みを同じくして、同質の感情を共有したりと、変化とは無縁の負の融合を経験している。

 人間らしさとは程遠い脳の働きと、否定感情(怖れ、差別、不安)を普通とする経験を重ねる中で、その影響を受けつつ、代謝を繰り返す彼らの身体細胞は、人間本来ではない状態の中で健全さを保つという、普通の人間には経験できないことを普通にしてしまう。見た目は同じ人間でも、中身は全く違うということが、いくつもの時代で作り出されていたのだが、人間らしくない(人間とは思えない)人間の無意識の力とその影響力によってその違いはかき消され、彼ら主導の、思考レベルの(表面的な)人間観が常識となっていく。

 

5)本来を無くした人は、本来ではない物や形を都合よく生み出し、それによって、自分たちの生きやすさを強めていく。それは、その原因のところに、隔たりや苦しみを生み出す彼ら特有の重たい感情があるので、経験から自由でいて自然体でいれば、様々なところにその感情の産物を観察することができる。動物園や毛皮、IHLED。新興宗教や品格と公正さを失くした情報産業(システム)もそうである。中でもその影響が大きく、人間本来を普通とする人が辛く苦しめられてしまう産物が、彼らにとっては普通となる、生命力の無い不健康な食べ物である。

 「食の風景」でも触れているが、人間には、頭(舌)が喜んでも、徐々に体(細胞)がヘンになる食べ物は辛い。それを何でもなく食べ続けられる人たちが力を持ち、大切な食の情報までが彼らの都合で操られてしまえば、人間は、健全な感覚的判断力を失くし、慢性的に脳を病ませ、真に生きることからも外れてしまう。心の基本形も生きる意味も思考の域を出ることのない、人間本来の世界を頑なに遠ざける存在たち。「食べたものが体になる」素朴な事実を考えれば、心も感性も作り物(思考)である人は、生命としての人間らしさを破壊する、災いの製造者ということになる。

 

)その際の典型的な道具は、電子レンジとIHである。食材は、精白された穀物であり、白砂糖や添加物である。その他にもいくつも例はあるが、穀物本来の働きを削ぎ、その基本生命力を無くさせ、そして人工的に美味しさを作り出して、平然と人々にそれを摂らせようとする姿勢は頂けない。

 その根底には、不健全さを心地良く思う彼ら独特の本性があるゆえ、その形態の維持を貫こうとする意思は強固である。そのために宣伝を駆使して、早いうちから体に悪いものに慣れさせ(味覚をマヒさせ)、自分たちとは異なる柔らかな人を次々と不調にさせる仕事は怠らない。精神を病んだり、問題行動を起こしたり、また以前には無かった厳しい病気に見舞われたりする人の多くが、生命力を奪う生命の無い食べ物をその原因とする。数字の上での栄養価で体裁が整えられ、その実質が無視されたまま、一般に良い物として粗悪品が出回る背景には、権威ある人の悪質な思惑が手伝っていることもある。

 

7)一般に良いとされているものが、良い影響を及ぼすわけではなく、良い影響を及ぼすものが、良いものとして一般化されているべきである。その本来の普通に背を向け、身勝手な価値判断でもって良いもの(こと)を捏造する、人間らしさを欠いた彼らは、まるで寄生虫のようにして、心ある人の健康と平和を貪り続ける。

 その本能の原点が、「再生」の負の材料となる部分と同一であるゆえ、耐え難い現代の争乱無き平穏な世では、ひたすらそれを隠すことに彼らは努める。人間本来を普通とする人の細胞が悲しみ、心が辛くなる物や形が一般に良いものとして普及することは、彼らにとって重要な隠れ蓑になっている。

 それによって心身を病む人がいれば、行為としての心で上手く対応し、問題事に直面する人がいれば、本心に蓋をした親切心で協力する。心を持たない人の普通が、心優しい人の本来を壊し、人間らしくない人が普通の人間として主導する妙な世界で、人間らしい人は、言いようの無い切なさを経験する。そのままをさりげなく受容する、純粋で素朴な人は、余計な思考を使わされつつ感度を鈍らせ、理由の分からない停滞感や動きにくさと闘わされることになる。

 

8)その経験しなくてもいい経験を何の疑いも無くずっと経験してきている理由は、昔からあたり前のこととして信じ込まされてきた教えが、人々の意識の変化を抑え込んでいるためである。生命としての人間の歩みを阻止する目的で作り上げられたそれは、人間本来を生きる人が増えたら自分たちが生きにくさを覚える、そうではない人たちが生み出したもの。その代表は、「人生は苦しいもの。どんな辛い状況でも耐え、一生懸命がんばるのが人間」の言葉。

 地球自然界の生命の営みとして自然に生じることであれば、それがどんなことであれ、人間は、その意識もなく耐え、気負いもなくがんばることを普通とするが、そうではない状況では、耐えなければならない苦しみを繰り返さないための機会として、その経験を活かす知恵を人間は持つ。

 しかし、その働きが為される間もなく次々と厳しい状況が作られ、苦労を強いられる生活を常とする中で、人の意識は、重く流れない不健康な環境で耐え忍び生きることをあたり前とする。それは現代に至っても尚存続しており(させられており)、病気になることや、辛く苦しい思いをすることが、その原因は変わらないまま、仕方がないこととして扱われてしまう原因にもなっている。

 

9)そのことを考えれば、人々の価値意識と心の在り様に深く関わる宗教関係者や教育者の責任は重大である。食においては、人間本来(細胞が喜ぶ食事)をテーマにそれが進められなければ、心身の成長も思考型のそれとなり、心の教えを実践することはできない。理由の要らない喜びがその教えに重ねられなければ、健康も平和も、原因が動かない個人のものになってしまう。

 不安を固め、差別心を強めて頭だけで生きる人が、その重たい無意識の力を無くせば、人生は誰にとっても楽しいもの。辛さも苦しみも、否定感情が居場所を失くす中で、経験しなくてもいいものになっていく。それを支え、主導する立場の宗教と教育が本来であれば、「人生は苦しいもの」なんて欺瞞は通らなくなり、心身を病ませる食材や調理器具も姿を見せなくなる。

 インスタント食品や電子レンジ(IH)で調理する物を食べ続けても平気でいられる人の、その理由と影響力を余裕で把握し、その意識もなく負の原因を溜め込まされ、いつのまにか病気になってしまうプロセスからあたり前に遠くにいる。そして、人間本来の細胞活動を妨げる製品(LED、電気自動車、リニアモーターカー、利用頻度増の電子機器etc.)から離れ、流れない感情(嫉妬、優越、隔たり)からも自由でいる。

(※新鮮な果物と全粒穀物をないがしろにする宗教(教育、経済活動)は、人間性を無視した存在による悪巧みと言ってよい)

 

10)不調や違和感の原因深くに入っていくと、殆どの病気は、人間本来を生きるのが出来ない人たちの無意識の意思によるものであることが分かる。問題事も滞りも、その手前では、健全な原因を持たない彼らの無自覚の影響力が働いていることも分かる。

 毎日、油料理や揚げ物などの酵素の無い食品ばかり食べ続けられるというのは、身体細胞が普通ではなくなっている表れだから、その人は、無意識のところに危うい感情を潜めていることになる。(中には、味覚と感性を壊されたゆえにそうであり、自覚が無いまま生命力を失くす柔らかな人もいるが…)普通の人は、彼(彼女)と縁するだけで、不必要な融合を強いられ、脳の周波数も乱れて、その自覚も無く病気の原因を蓄積させることになる。IH調理器やLEDライトの近くにいても全く平気な人は、健全な感性も、人としての心も持たない存在であるゆえ、時を共にすることも危うくなる。

 人間本来は、共に生きる他の生命たちのためにも、また地球の未来のためにも、その質を成長させ、安定させるものである。そうではない人は、そのことを表すいくつもの事実からそれを知り、自らの負の原因を力の無いものにする。そして、その意識もなく人を病ませる本性とその理由を再確認し、人間本来を普通に生きる人のジャマをしないという協力をする。それだけでも、それなりの大切な変化である。それを、人間は嬉しい。

 

11)食事は、人間を生きる上でとても大切な要素であるが、それによって健康になる心身が、どんな世界の健康と繋がり、どんな人たちの健康を応援するかという、そのままで動き出すその原因の性質の働きは、とても重要である。その健康が、病気の裏返しではないありのままの健康と繋がり、心優しい柔らかな人たちの普通の健康を支えていけるものであれば、感性の健全さが鈍ることも、本来の普通が力を失くすこともない。そんな人を、悪質な無意識を持つ人が病ませようとしても、その気もなくそうであってもそれは難しい。変化し続ける原因の成長とその具現化は、その意識もなくあたり前に健康で平和でいる原因を強くするので、重たい無意識の意思に入り込まれることはない。不必要な融合があったとしても、いつも変わらず、むしろその経験を更なる変化の機会(材料)にする。「本心と安心」は、そんな人を増やしていく。人間本来の健康と平和の原因を、みんなで、未来のみんなに繋いでいく。

 

追)凶悪で醜い本性をそのままに、いくつもの生を経験する人は、熟達させたその無意識の力で、普通自然体の人間らしい人の生命力(人生)を人知れず簡単に奪う。そんな人は、人間らしく振る舞う術に実に長けていて、自分と相性の悪い健全・健康な食べ物も美味しく食べてしまう。(その分、本性の醜さは増すが…)主に病みのネットワークの要所を占める彼らではあるが、その無意識を思考に上げさせられてその中身(異物となるかつての記憶と感情)を把握されることへの恐れと怯えは、想像を大きく超えるもので、現在進行中のそれによって、彼らも、少しずつその力を失くさざるを得ない状況にいる。何であれ、その意識もなく行ってしまっている、普通ではあり得ない彼らの負(凶暴、破壊)の影響力が、その原因のところから確実に変わり出すことは喜ばしいことである。2015年の無有日記を材料に、心のままに想いを形にし、人間本来の普通をどこまでも活躍させていく。物も形も、言葉も行為も、皆その本質は、細胞が喜ぶ食べ物の意思(望み)と繋がっているから。by 無有 6/05 2015

 

 

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