<心の風景>

 

1.遠くにいても、同じ時を生きているというだけで嬉しい。そう簡単には会えなくても、いつか会えると思っただけで嬉しい。もう会えない人でも、その人の想いが自分の中に在ることを感じる。ずっと昔の人であっても、その人の暮らしがここまで繋がっていることを思う。

 この地球で旅を始めた人間は、友に出会い、仲間をつくり、皆で歩むことを覚えた。創り出すひとつひとつの経験を理由の要らない喜びを元に繋ぎ、その質を共に支え、育んでいた。それは、さりげなく自然で、とても豊かなものだった。

 いつのまにかそうではなくなってしまった人間世界。不必要に頭を使い、他を隔て始めた人間。動物たちは、それまでとは違う空間に生きにくさを感じ、じっと待つ(耐える)ことになった。そこから人間は、傷つけ合い、殺し合うことに何の疑問も抱くことができなくなるほど本来の歩みから外れ、退化を始めた。この数千年の人間の歴史は、負の連鎖そのもの。

 永い時を経て訪れたこの時に姿を見せた存在たち。同じ時を共に生きることを約束してここに集った、心強い生命たち。その仕事は、時代の流れを元に戻すこと。そのための道筋をつくること。そして、数千年分の再スタートをしっかりと切ること。

 『心の風景』は、その道づくりに必要なエネルギーを送り(注ぎ)続けるアンテナ。ここに生きるひとりひとりの人生を永遠に変え、続く時代を照らし、見守る光になってもらう。

 かつて、ここに繋がる原因の時を大切に守り、心のままに生きていた、たくさんの想い人たち。今僕らは彼らの希望の約束の中にいて、共にこの時を喜び、互いをたたえ合う。時代の意思に生命の意思を重ね、これまでを、そしてこれからを祝福する。

 どこにいても、この時を共に生きているというだけで嬉しい。どんな時でも、こうしてここにいることがただ嬉しい。かつての存在たちも、この時に呼応する次なる時の存在たちも、皆、理由の要らない喜びの中で、心の風になる。

 

2.愛情は、有る無しの世界には存在せず、初めから終わりまですべての原点で息づいている、生命の力である。動物たち親子の様子を見れば分かるように、それは生命であれば自ずと持ち合わせている、本来の姿である。だから、人間には愛情は無く、愛情が在るのが人間である。人間誰しも生命を生きるのが仕事だから、愛情が有る無しの次元にいることはあり得ない。

 愛情という言葉がもてはやされ、その大切さが強調される時、それは、愛情が在ることを忘れたまま(忘れさせられたまま)、愛情の無い生活を送っている人が多いことを意味する。彼(彼女)らに必要なのは、愛情を学び、感じ、教えられることではなく、ただ思い出してもらうこと。愛情の有る無しの中でずっと出番の無かった愛情を自由にさせること。そして、愛情が在るから人間をやれることを、心が実感すること。

 そのための力強いサポート役になるのが、『原点』。それは、そこにある風景を自分の心に重ね、本来であれば自分の中に在るべき足らないものを補い、余計なものとして居座る要らないものを外すという、生きる上での重要な基本形を安定させる生命のツールである。その中で、愛情の性質を全体から観察する機会を持ち、本来の自分が初めから在る愛情を育んできたか?それとも、愛情のある言葉や行為を大切にしながら、愛情の無い自分を生きてきたか?を知る強さを経験する。そして、様々な変化(浄化)のプロセスを経て、元気になった子供心が生命本来の愛情をここに運び、しっかりと再スタートを切ることになる。

 人を愛することも、人を大切にすることも普通のこと。人は皆、子供の時、親がつくり出す安心と余裕の空間の中で、自らの中の愛情の核を解き放つようにして自由にし、安心してそれを育み、成長させていく。言葉や行為から始まる思考の通り道を全く通らずに、無限に広がる心のフィールドでその意思を活躍させていく。

 何らかの理由でそれが為されなかったとしても、それは自分の責任ではない。でも、無責任ではいられない。だから今、『原点』から、これまでを深く癒し、本来をこれからに繋ぐ。誰もが皆、ここから、初めから在る愛情を元気にし、愛情そのものになる。そして愛情の意味を忘れる。そのすべてが普通の中に溶け、すべての時を癒していく。

 

3.ある人たちのある状況に不自然さを感じ、それをどうにかしたいと思う時、どうにかしなきゃならないその状況のそれまでの原因の蓄積を考えれば、それだけでどうにかなるものではない。まずはその場所から自由になり、どうにかしたいという気持ちを無しに(どちらでもない状態に)すること。そして、どんな自分がそう感じていたか…という手前の想いの中に、その世界の価値観(感情)と同質のものが少しでもあるかどうかを観察してみること。もし、そこに(思考や行為の原動力となる部分に)何らかの共通のものがあれば、“どうにかしたい”と思う分、その世界(病み、滞り)を支えてしまうことになる。原因同士が呼応し合う様は、思考世界の因果関係を軽く超える。

 世の様々な不自然・不調和な状況が変化しにくくなっているのは、心(原因)の中に同じような不自然・不調和なものを残したままそれらを変えようとする人が多いから。行為は善かもしれないが、善悪の価値感情(結果に対する思考型の判断)で悪の原因は動かない。元々、善悪という世界はこの世には存在しないのだから。

 原因の世界の密度が濃くなり(中庸でいる想いの分母が大きくなり)、“なんとなく”の感覚の中に、空間が喜ぶ安心と余裕(経験枠を超えた真の理解)が育まれると、この世の本質を思考を働かせるまでもなく容易に感得できるようになる。原因の世界で他とぶつからなければいいだけ。心が主導権を握り、思考(感情)がそれをジャマしなければいいだけ。それによって、どうにかしたい状況なんて、どうにかしなくてもどうにかなってしまい、いつしかそういった状況とも全く縁遠くなっていく。そして、どうにかなるべく状況(本来に戻ろうとする意思が動き出した不自然な風景)が順番に訪れ出し、自分を通して自然に癒され、フツ〜に姿を変えていく。ひとりひとりの手前の想い「どんな自分(原因)でいるか…」が成長していけば、この世のすべてはどうにかなることばかり。

 

4.闘えば、結果だけが残る。闘わなくても出来ることをすれば、闘うまでもなくそれを変えられる時を創り出す。そして、次への確かな原因が残る。もちろんそれは、感性にフタをすることでも、素朴な違和感を脇に置くことでもない。ただその原因が動かなければ、真の変化が生じないことを知ること。どんな現実でも、それまでの原因に呼応する結果という名の原因であることを知ること。そして、時代を超えて生命たちが喜ぶ原因の時を生きること。それは、あらゆることがあるべき姿となる、変化そのものの本来の力である。

(闘いの多くは、互いの中にある力を持った未消化の感情が勝手に自己主張しているだけ。癒されないままの感情の記憶を人一倍蓄積している人ほど、闘いたがる。あたり前に平和で、愛溢れる世界に、その性質は要らない)

 

5.感じるままでいられず、何かと頭を働かせがちな人は、不自然な状況を強力に引き寄せる原因を日夜作り続けるという、風変わりな病気の持ち主である。ただ、感じるままでいれば、それは直ぐにでも改善へと動き出すので、その病気のままでいられることはとても珍しい。

 その状態が無責任に放って置かれると、周りの人はその影響を受けて、心を重くさせられてしまう。心身の不調や関係性の不自然さなど、いろいろなことが彼らの身に起こる。そんな時当人は、当然のように周りの人を責め、被害者になる。そして一層頭を使う。相手から見た自分など何処にも居なくて、いつも自分から見た相手に不満を抱き、勝手気ままに人(他)を批判する。

 自分が誰よりも病んでいることに気づかず、平気で周りの人を不調(病気)にする、重たい感情を燃料に頭を使いたがる人。彼(彼女)らは、誰よりも頭を使ってはならない人。頭で心を扱うのが精いっぱいの、心と思考が大きく離れた心無い人。感じるままでいる時をそのままに、病んだ原因の蓄積を自ら癒して欲しい。周りの人たちはじっと耐え続けている。

 

6.人の話や書物の中で語られる大事なことは、どこまでいっても“大事なこと”レベル。その殆どが何を大事に思うか…であり、どんな自分がそれを大事に思うか…という、それを生み出す心の性質にはタッチできない。

 体験的に事の本質を感じ取り、確認作業のようなプロセス(感覚的な理解)をもって、知るべきことを知り、知るまでもないことから余裕で離れている本来の姿。どんな自分がそれを知ろうとしているか…という手前の原因が確かなものであれば、知ることがそのまま大きな力(貴い経験)となり、それを次への力強い原因にする自分がいる。そうでなければ、頭ばかりが忙しくなり(否定感情を増幅させ)、1000冊の本を読んでも、1000人の話を聞いても、それだけ…となる。知ることが経験ではなく、経験の中に“知る”がある。

 

7.心身のキツサの原因には自らの生き方と価値感情が深く絡んでいることがあるけど、その人の生き方と価値感情の原因にその心身のキツサがしつこく絡んでしまっていることも多い。つまり、それは何で、何ゆえにそれがそうで、それは何処から始まり、何処へと向かっているか……なんてことを考えるより、思考を自由に、ただただ思考を自由にそのままでいることでしか、心身のキツサも、生き方も価値感情も変わることはないということ。思考も感情も、心も身体細胞も、何ではないところ(空間)にいる時間を最も欲している。

 

8.みんなが普通ではできないことをしようとする凄さは、どこまで行っても普通にはなれない、期間&地域限定の思考のお遊び。みんなが普通にすべきことをしようとする凄さは、どこまで行ってもそのテーマは普通だから、時を超えてそれは繋がっていく。凄さは普通。普通ではないことが凄いのではなく、凄いことが普通だから凄い。そこに、比較や優越の感情は近づけない。

 他には無い世界を手にする凄さを経験しても、その燃料が否定感情(不安、怖れ、隔たり、嫉妬etc.)であれば、それは皆、原因の影響を無視したガラクタに過ぎない。思考(経験)レベルに停まる凄さは、真の凄さとは無縁のあまりに歪な普通。凄さのままでいる凄さは、病み続ける情け無さと同一である。

 

9.辛い状況にいる人に対して何も出来ない自分が許せない気持ちになる時、情(憐れみの気持ち)が動く。多くのそれは、そこで終わり。そんな時の情は自己憐憫と性質を同じくするから、何もしてあげられないことに刺激される感情と遊ぶだけ。時にそれはZurusaとなる。

 行為の手前の想いが、その原因の部分から責任あるものとして成長していれば、情を感じるタイミングは逃さない。そして、動き出す時は、力強い変化の時。それまでの原因を包み込み、共に分かち合い、共に新たな原因を創り出して支え合う。そこに在るのは、さりげなく真剣でいる普通の愛情。

 情は、その感性がある状況のいろいろな性質の原因に余裕で反応するぐらいでなきゃ、辛く哀しい現実をそのまま支える燃料になってしまう。相手の心が強く元気になれる、原因の世界での変化のエネルギーそのものであることで、情は“生命を生き人間をやる”生活空間で大切なスパイスになれるもの。それを抱く人が辛さを感じ続ける暇は無い。相手の辛さを無視して演技者になってはならない。

 

10.これまでと比較できる今は何処にも無い。ただ、これまでがそうであったから、この今がある。これまでを直線上の出来事として捉えれば、思考ばかりが力を持ち、現実を創り出す抽象的な世界の原因の変化は望めない。これまでの全てがこの今に在り、これからに繋がる今がここに在る。

 そうではない結果を頭で生きるのではなく、そうであったことに抵抗せず、そこから自由になって、それらが次々と癒される次への原因をありのままに生きてみる。思考で扱える(扱おうとする)変化は、その時点で変化もどきとなる。確かな原因を生きる時、これまでがここに溶ける。

 

11.中庸でいようとする人は、左と右と真中の三者択一的な思考に支配されていることが多く、いつもどちらかに動こうとする自分の調整に思考を使う。その結果、二者択一的な世界からはいつまでも自由になれず、中庸という言葉を何かと意識することになる。

 中庸は、全ての存在を生かし、包み込む、太陽や空気、水のようなもの。常にそれらに触れている私たち人間には、いつもその中庸のエネルギーが流れ込んでいて、人間を生きる上での重要な‘生命本来’の燃料になっている。その意識もなく中庸でいるということ。そこには、どこまでも原因でいる存在としての責任と喜びがある。そう、中庸も全体も思考の域には無く、ただ余裕で‘生命本来’が思考を操るだけ。思考は、中庸の中で真の力を発揮する。

 

12.言葉にするよりも早く動き、その動きに言葉をつき合わせる。気づいたことを言葉にせず、気づいたからこそ変わっている部分に任せてみる。後戻りすることのない変化は、反省を必要としない気づき。やっと気づいたのなら、それこそそれを言葉にせず、周りとの関わりの中でそれが本物かどうかを観察してみる。やっと動けたのなら、その理由を探さず、ただ動き続ける。

 気づきの言葉の多くは、無くてもいいもの。それによる変化も、簡単に言葉がついては行けないもの。だから、気づきが言葉になる時は、それが思考の域を超えて心の風景に溶けてしまうぐらい普通になった時に、そのあたり前の姿の反映としてふとその必要性が自然に生じた時のさりげないものでありたい。「無責任な自分がつくり出して(引き寄せて)いた現実を前にして被害者になっていた自分に気づいたにすぎない」レベルのものであれば、言葉は要らない。無責任の上塗りをしてはならない。

 

13.引き受けやすい人は、人にそれを与えやすい。敏感のようで、単に病みの裏返しの感情の為せる技(過敏、病的)ということは多い。

 引き受けやすい人は、不必要な融合を平気で行ってしまうので、病みの溜め込みも慢性的で活動的。それゆえ、縁する多くの人が無意識のところでその影響を受ける。

 状況がどうであれ、引き受けた(引き受けている)ことより、与えた(与えている)ことに敏感になる。それによって、引き受け方も変わり、引き受けさせた存在の力も無くなっていく。つまり、被害者でいれば、いつまでも加害者であるということ。

 癒しを手法に頼っていては、病みの引っ越し業務が忙しくなるだけ。無意識の危うさの払拭は誰も手伝うことができず、自らがそれを責任を持って行わない限り、周りの人は次々と病んでいく。

 

14.抵抗する人と抵抗される人との間には、距離が無い。同じ性質のものがそのまま続くことはあり得ないけど、仮にそうであれば、同じ穴のムジナ状態ということになる。

 原因の性質からなる観点で、距離を置くべき存在がいる時、それが自然に為されるためには、誰もが抵抗できない普通を自らの中にしっかりと育み、力強くさせればいい。そのひとつ「食の風景」の実践においては、それを普通にすれば、人との関係性で不必要な融合をすることがなくなり、共にいるべき人といて、そうでない人とは自然に距離ができる原因が動き出すことになる。

 みんな(全体)や未来への責任(連繋)を心の基本形に重ねれば、問題事の原因を持ち込もうとする存在とは、その手前の手前のところで距離ができる。事が滑らかに流れ、創り出される何気ない現実が更なるその原因となっていく。

 そんな中での衝突は、互いにとってのかけがえのない変化のエッセンスでしかない。ひとつひとつの現実を、これまでの結果という名のこれからへの原因として捉えれば、そこには嘘は無い。

 

15.全体(中庸)をテーマとする時、崖っぷち感覚は経験するまでもないものになることが大切だけど、退路(逃げ道)を断つスタンスは、それだけで力強い。それによって道は歩いてくれることを喜び、次第に歩きやすく豊かなものになっていく。その都度風景も、全体と呼応する。

 何も要らない感覚はそれに近い。理由の要らない喜びもそう。経験や記憶から自由でいることも、その材料になる。

 道が2つに分かれた場所で1つを選べば、もう1つは姿を消す。2つのリンゴの1つを選んで先に食べれば、残った1つはもう2つの1つではない。本当の意味でABを比較することは、人間の思考では不可能。2つのことを同時に経験することはできないから。

 全てが全ての原因でしかないこの世界で、心の性質がそのまま選択の道具となる本来の在り様では、ただ何気にそれを望み、それを選ぶ、流れるような瞬間(原因)の連なりだけがある。選ばなかったこと、行かなかった場所が経験に残ることはなく、「なぜ? どうして?」も無くなる。今いる場所が、自分にとっての全ての今。この今、この時。いつかSomethingより、今Everything

 

16.大切にすべきことを大切にし、大切にすべき人を大切にする。それは、自らが創り出す空間での事実とそこでの関係性(そこにいる人)の中で実践すること。大切なのは、正直でいること。思考レベルの正直になるではない、正直でいることで、優しさも思いやりもあたり前になり、生かし合うことも支え合うことも、自然体でのこととなる。その大切さが普通である時、感情は、互い(空間)にとってのスパイスのそれとなり、思考は、心ある想いとひとつになる。受容も感謝も、責任も観察もさりげない。

 大切にしたいことではなく、大切にすべきこと。そしてそれが、あたり前に大切にしていることへと変わっている時、人は、人間としての成長を経験する。その基本形は、ずっと変わらない。

 

17.「原因を生きる気持ちが足りないから、しっかりと自己観察して真剣に歩もう」と、いつまでも変化に乗れない人は思う。でも、いつまでも変化に乗れない状態がその思いの中身を顕にする。そう思えない自分が、そう思うことで満足して終わり。たくさんの人たちのため息が聴こえてくる。

 彼(彼女)らは、気持ちが足りないのではなく、気持ちが無いから変わらないでいる。それを認めないから、どうどう巡りを続けている。原因を生きる責任より、結果に居座る身勝手な感情が元気であることを認めようとしないから、チャンスを逃し続けている。

 ゼロから始めなければ、永遠に変化を体験できないことがある。自分の中にそれが無いことを認めなければ、それを手にすることができないことがある。変化に乗ることは、元気な子供心の遊びの風景のようなもの。その子供心が無ければ、それを認めない限り、無責任な人生を送ることになる。再スタートは何度切ってもいいけど、その性質が同じままという再スタートは無い。それを知れば、足らないものは気持ちではなく、責任と勇気(覚悟)であることを知る。

 

18.生きた食物たちの仕事を通して改めて気づかされるのは、存在そのものによる生命の仕事。ただそのままで縁する(食べてくれる)人を力強く支えていく、その優しさ。それは人間誰にとっても、生命を生きる上でとても大切にすべきこと。この地球で生きていく上で、ずっと携えていく、かけがえのない心の性質。

 食物たちの世界に否定感情は無い。人間が生きるこの自然界にも否定感情は無い。なのにこの現実(歴史)。簡単にそれをつくり出し、争いや衝突の原因へとそれを発展させる、あまりに未熟な人間の存在に彼らは驚き、不思議がる。生きた食物たちの意思を感じれば、癒し合うことも、助け合うことも、どこまでも普通であることが分かる。それは、そのままで生かし合い、支え合う世界の単なる手段であり、その意識もなくあたり前につくられていくものであることが分かる。そしてその基本(前提)となる、存在としての仕事。さりげなく真剣に原因を生きる、本来の在り様。そこには、ただ共に生きる存在を愛しく思う、優しさと安心の想いがある。共に心を重ね、想いをかたちにする、生きる喜びと平和な普通がある。

 

19.農業の元気が失くなれば、人々の健康の土台が崩れ、その地域や国の方向性は不健康なものになっていく。病人が増え、経済的な格差が広がり、身勝手な人のわがままに大勢の人たちが付き合わされることになる。だから、とにかく前へ前へと歩いていく。

 しつこく固められた負の連鎖を見せつけられたら、水になり、空気になる。力強い原因の選択で、根底からそれを崩し、またいつものように歩いていく。ずっと長い間、生命食の材料を作り続けてくれている存在たちに感謝し、その想いをしっかりと次へ繋いでいく。

 いつか必ず、後戻りすることが考えられない確かな流れができる。それは、みんなが創った道を、次々とたくさんの人たちが楽に歩く時。それは、『食の風景』が連れて来る風景かもしれない。中庸をベースに感情の主導権を握り、思考を操り、感じるままに時を癒していく。

 

20.考えるのが好きな人って、そのテーマは自分のことばかり。人のことや社会のことを考えても、自分が思う人であり、社会であって、みんなにとってのそれらではない。「みんな」がテーマであれば、考えるよりも早く動く必要性が生じ、想いがそのまま状況に応じた形になる経験をする。言葉も行為も、通る場所(時間)さえ要らなくなる。

 生きた言葉は、その手前の想い(エネルギー)と同一だから、簡単には思考と重ならない(記憶に残らない)。死んだ言葉は、想いからかけ離れているから、経験枠内の思考にばかりヒットする。形になった言葉(文章)や行為は、その人の心がみんなをテーマに生きているかどうかを顕にする。人間は、考えるから人間なのではなく、考えることができるから人間。考えてばかりいれば、ポーズばかりが板(鼻)につく。

 

21.そう簡単には落ち着く状況へ向かえないほど、負の蓄積の反動による揺り戻しの意思が次々と外へと噴き出している。それは、ずっと生きにくさを感じていた地球大自然の生命たちの正直な心模様のよう。原因の無い結果は無い。それは自然界の事象も同じ。そこに住む存在たちの不自然な営みもそのまま(不自然な原因のまま)残ることはなく、結果という名の次なる原因の世界で、そのタイミングが訪れた時に深くから調整される。そこに強固な負の連鎖とそれへの強力な無責任と無感覚があれば、時に大規模な変動を伴って、本来への洗い直し(淘り分け)が為される。そして必ず、それまでとは違った風景(というより、本来の普通の姿)が力強く風を吹かせる。

 不安も怖れも形が無いものだから、それらを原因に形を求めなければ、次第にそれらは存在すらできなくなる。元々存在しないものを存在させて、負の連鎖をつくり出すことはない。不安と闘い続けて、負の連鎖を支えてはならない。人間は元来、安心そのものを生きるのんきな動物。そうさせてはくれない存在や空間に反応することはあっても、いつまでもそれにつき合うことはない。そこから自由でいて、さりげなく真剣に原因を生きることで、負の連鎖は面白いように姿を変えていく。

 

22.想い(気持ち)がそうであっても、その想いに呼応する結果(現実)という名の次なる原因がそうではない時、その想いの背景にある形を取らない原因(エネルギー)の性質を全体をテーマに厳しく観察してみる。相手のことを大切に思う自分に満足していないか? 相手が喜ぶことを一生けんめいする行為が優しさだと勘違いしていないか? 相手を大切にするのも、相手が喜ぶのを嬉しく思うのも、普通のこと。それが普通でないうちは、どんな想いを抱いてもそれだけしかない。頭で作り上げた身勝手な思考を大切な気持ちと思っているに過ぎない。

 積み重ねたそれまでの原因によって作られる風景は、正直にその性質を反映(形に)する。エネルギーは正直。あたり前に心が謙虚で、その在り方が優しさそのものであることを、人間は基本とする。

 

23.実践することでしか分かり得ない体験的知識の世界は、常に原因から始まり原因でい続けることそのものであり、その質を坦々と高めていくだけで、その人の生き方は生命本来のそれとなる。

 世の賢者と言われる人たちは、それを身をもって伝えていただけで、その教えもそのための手段でしかない。彼らの真実(本質)に触れたければ、彼らが残したものではなく、彼らがそれを残さざるを得なかったその時代の風を彼らと同じになって感じ、それをこの今を生きる自らの人生の原因にすること。確かな原因を連なり続ける実践の世界は、どんな時代においてもその本質は同一である。そこでは、いつもシンプルな真実が脈打っている。

 

24.平気で他を隔て、独善的なスタンスで事を進めようとする現世利益系団体の会員がその町に大勢住んでいたとすれば、そこの構成員が町の行政に参加し(役員に選ばれ)、権力を握ることは簡単なこと。そのあり方に疑問を投げかけ、それを本来のものに直そうとする人がその役を担おうとすれば、それはとても難しい。民主政治も民主主義も、質が伴わなければ、それはとても危ういもの。その質が悪化し続ける、この世の茶番劇のような病んだ風景。やるべきことは一つだけ。思考で心を扱わず、心がそのまま言葉になり行為になるプロセスを大切にし、その質を成長させること。それを続けていくことで、心を離れた思考世界の産物が居場所を失くしていく。例え時間がかかっても、それ無しでは先へは行けない。争いの裏返しの平和(否定感情が底辺にある優しさ)では、心ある人たちが病んでいくばかり。

 所詮、この時代の病みは地上でのこと。地上300mの上空にも、地面の下にも病みは無い。だから、どんなに不自然な状況でも、自然体で、自然と共に本来を生きていく。たださりげなく大自然の意思に想いを重ね、生命を生きていく。『心の風景』がしっかりとその援護をする。

 

25.例えそこに自分の意思とは違う現実があったとしても、それは自分のもうひとつの大きな意思。それは何人もの人を関わらせ、いくつもの出来事をつき合わせる無意識の危うさ。そこに人間的な思考は通用しない。

 時に、幼い子と離れて暮らす(別れる)親がいる。それは単に、生まれてくる子供と“共に生きる”約束ができなかっただけのこと。“生きること”への理解が未熟で、生命への慈しみと尊さを少女(少年)期から育んで来なかった現れ。つまり、人間的にはそうせざるを得なかった理由がいろいろあるだろうけど、エネルギー的には(無意識のところでは)その気が全く無かったと言って良い。それを認め、深くからそれを受容していかなければ、子供は辛い。経験しなくてもいい経験をさせられているのに、親が被害者顔では、子供は永遠に悲しい。

 『心の風景』との出会いは、真の普通(人生)を生きる機会。形を取らない原因の全てを受容し、その性質を生命(エネルギー)の意思に重ねる。それは何があっても外してはならないテーマ。原因(無意識)の影響を無視して、限りある人間時間をムダにしてはならない。

 

26.自分の病みの影響でいつのまにか力を失くした人を巧く自分に依存させ、誰もが表現できる行為としての癒しでその人を元気にしてオカシな関係性をキープする。ある時、その人が自らの力で変化に乗れるタイミングを手にしようとすると、そうはさせない力で再び元の場所へと彼(彼女)を落とし、それまでのように頼りになる人の立場をキープする。なかなか浮上できず、何度もキツサを経験すれば、その度に手を差し伸べてくれる人の存在は有り難い。その気持ちに不安の裏返しの安心で応え、自分に意識を向けさせながら病みのサークルを回し続ける。その怖さは人間の理解を超える。

 これまでの人間の歴史の中でどういうわけか生き長らえてきたそのエネルギー(影響力)。様々な個の価値観とある性質の宗教観と融合し、世界各地であり得ない(本来からかけ離れた)現実を支え続けている。この時代に、その全てが変わるべく原因を確かなものにする。皆と共に、ただその原因を生きる。

 

27.あり得ない出来事、想像が追いつかない現実…。そのどれもが全くの自然現象なのだが、回転(考えるまでもなく感得できる次元の広がりと動き)が人それぞれに違うため、時に不思議としか言いようのない事に突然出会すことがある。

 簡単に言えば、超重たい人と超柔らかい人が同じ空間にいれば、その時も、その後も、(良くも悪くも)??な出来事が起きやすいということ。それは、予期せぬ現象というより、急激な変化と言った方がいい。

 経験からあたり前に自由でいると、存在の性質は自ずと柔らかくなり、全体をテーマに微細な原因の経験を創り続けていくと、そこに、力強さが備わっていく。そんな人に、過去に執着し、結果に生きる人が近づけば、奇妙な出来事が生じやすい。つまりそれは、原因の次元差による、ごくフツ〜の物理現象。目には見えない世界が全く違えば、目に見える世界も、細胞レベルから、予想すら出来ない現象を創り出す。

 引き受けたもの、通すものが浄化される中で、人は、その意識もなく事を本来へと変化させる力を身に付ける。当然そこには、差別や優越等の否定感情は無く、求めるのではない、表現する健康と平和がある。そして、その原因に抵抗する、そうではない重たい原因の持ち主たち。成長と発展と縁の無い奇妙(不思議)な現象は、いつの時もいただけない。

 

28.“生きる意味”という言葉をふと思う時、感じるのは、それを探し求める世界に安易に入り込んでしまう人間の危うさと自覚の無さ。生きることは、それ自体が意味のあること。なぜなら、身体を選択する手前からその(魂)の意思は、すでに人間を生きる上での実践すべき基本テーマを携えて人間時間をスタートさせているから。その意思は、そのままで友愛と調和そのものでいる全体。テーマは、それを、人間時間の中で生じる無意識世界の意思に重ね合わせること。つまり、生きる意味は、初めからそうであることを、ただそのように生きることそのことであり、考える思考の中にも、探し求める行為の中にもそれは存在しないということ。

 その何でもない普通のことが永いことそうではなかった大きな原因は、生きる意味の原因の本質を人間社会の原点の風景から切り離そうとする意思が、あらゆる人の人間時間の中で暗躍×跋扈していたから。それは、地球に生きる一生命としての人間の負の歴史そのものと言える。

 人間は、生まれた時から始まる脳の学習プロセスにおいて、その原点の風景で縁する人や環境の影響を簡単に受ける。原点のその時に、重たいエネルギーの乗った言動をとる人と触れ合ったり、流れない空間の中で過ごしたりすると、そのままその性質(エネルギー)を脳組織に残し、それを基点(基盤)とする成長・発達を経験しながら、その影響の元で形を取らない抽象世界(無意識)の基礎を創り出していく。生命としてその風景を思う時、その後の人生へのその影響はあまりに大きい。親(and 身近な人)の無意識が重たいと、子供の人生は容易に本来ではなくなってしまうから。そしていつのまにか、生きる意味を探し求める人生を良しとする発想が普通と思われてしまう程、本来の“生きる意味”から遠く離れた人生を大多数の人たちが普通に生きることになってしまった。

 争いも衝突も、病苦も貧富の差も皆、人間時間が始まってから創られる無意識世界に、その人間時間を選択したエネルギー(魂)の意思が入り込めなくなってしまっているから。だから、本当にこのあたりで、その修正をやらなきゃならない。無意識の意思を本来へと浄化していくこと、それは、全ての生命の平和と健康、そして友愛と調和の重要な鍵である。

 

29.責任を取るという姿勢は、喜ばしいことかもしれない。しかし、生命としての人間を生きる上で望まれる本当の姿勢は、責任を取るという行為を必要としない状況をさらりとつくり出す、責任ある原因を生きることである。

 そこに争いや混乱が生じた時、明らかなのは、それまでの原因(プロセス)に関わる人の中に責任が無かったということ。その争いの責任を取ろうとする気持ちを強くしたとしても、それは本当の責任ではない。結果に対する責任は、望ましい次を創り出す原因にはなれず、思考レベルの経験(満足)として身勝手に記憶されるだけ。真の学びや気づきからも程遠い。

 責任を取るという形ある行為に何の疑問も抱くことのない人は、責任を取りたくないという不安な気持ちを常に抱いている。それゆえ、不安にさせる状況には執拗に反発し、不安の裏返しの安心を求めて、責任問題を持ち出す。そして、自分も関わるその原因への無責任を強め、責任ある振りを覚える。

 なぜ人間は、それまでの原因の性質の影響に責任を持たず、それによって生じた結果にのみ責任を取ろうとするのだろう? それでは、いつまで経っても責任を経験することはできない。責任ある現実を生きることもできない。責任を取るという低次の発想から自由になり、責任ある原因を遊び心いっぱいに生きていく。それ無しでは、何度人間をやっても成長は無い。進化という言葉を使う資格も無い。

 人生においてとてもシンプルで大切なことを忘れたままだと、ガラクタが心地よい。人生を無責任に生きる人ほど、責めたり、責められたりして、責任を意識する。それはあまりにこっけいな世界。責任ある原因がそこに無ければ、人々の心も地球環境も病み続け、無責任な結果(という名の原因)だけが残る。

 

30.敏感な子(人)の心がとても辛くなった時、それをキャッチしてくれる人が近くにいれば、彼(彼女)は、安心して“ありのままでいる”という信号を送る。それは意味不明な行為であったり、感情を高ぶらせた話し方であったり、時に暴力的であったり…、いつもとは違う姿がそこにはある。

 思考では上手く処理できないためにずっと辛さを蓄積させてしまったわけだから、本人にとっても何を、どこに、どんな風にして表出すればいいかなんて分からない。どういうわけかイライラし、何をしていても心は落ち着かない。湧いて来るいろいろな感情に思考は振り回され、言いようの無い悲しみと怒りがぶつかり合う。

 でも、彼にとってのそれは、まさに新たなチャンスの時。やっと訪れた変化の時。強さを取り戻した心が、思考のすき間から外へと姿を見せることのできた瞬間。誰もその姿を責めることはできない。誰もその原因の風景に無責任ではいられない。

 行為としてではないその存在そのものに安心を覚える時、敏感な子(人)は、その人といる空間で心を力に変える。安心に包まれ、思いのままに感情を形にし、心と思考を一つにする機会を得る。次回彼に会った時、言葉を交わすまでもないその空間は以前とは違うもの。まだいろいろあるだろうけど、その性質は微妙に変化している。理由の要らない嬉しさと優しい素顔がそこにはある。

 敏感な子たちは皆風になりたがっている。あるがままの想いでこの世を包み、ただそのままで生かし生かされる温かな風景の原因になりたがっている。だから、彼らの心にある辛さを解放させる。心のままに思う存分生きてもらう。ひとりひとりが力強く原因を生き、彼らのこれまでの原因を、これからへの原因に変える。それは、誰もが担うべき未来への責任、大切な仕事。

 

31.変化を嫌う人は、同様に他者の変化も好まない。ポーズはそうであっても、心の意思はそうではない。そんな場合でも、全体からの観察の中で全体と繋がる想いを真剣に表現し続ければ、それによって動き出すかすかな生命源の鼓動(エネルギー)によって否定感情を浮き上がらせ、それと向き合う(原因が動く)時間を持つことができるけど、そうではない場合、他者の変化を容易に止めてしまえるほど、変化とは全く無縁の状態を自らの中に安定させていく。

 彼(彼女)はそうである自分を決して他者に気づかせない。そんな彼を誰も気づくことはできない。彼と縁した人は、いつのまにか自然な変化が鈍り(=理由の分からない不安や怖れが生じ、頭の働きが滞る)、言いようのない辛さを感じて自分を責め、それをどうにかしたいと思う状況の中で、むしろ彼に支えられてしまうことになる。それを彼は嬉しい。

 縁した人の変化を誰にも気づかれずに巧みに止めてしまう、変化の意思を持たない人。彼(彼女)には決まって、人の同情心を誘う境遇や経験(性格)が付いている。それを安易に他者に差し出して人の感情をもてあそんだり、多くの人が意識を向けざるを得なくなる場所を上手くキープしたりと、想像できない程の危うさ(怖さ)を持つ存在もいる。

 人は、彼(彼女)なりに変化していると錯覚してしまうほど、なかなか変化できないその大変そうな姿に情を刺激され、時に心を揺さ振られて、不思議と大切にしてあげたい特別な存在として彼を扱う。そうさせられてしまう。彼の意思は、滞りの増殖。そこに生命(原因)を生きる姿勢は無い。同じ性質を持つ存在たちと密に繋がり、縁する人に余計な仕事をさせ続ける。気力・体力を消耗させられて大病を患ったり、生きる力を失くして命を縮められてしまったりする人は多い。

 

32.ある場所で、他の人の意識を妙に引っ張る一人の人がそこにいる時、一般には、その人の持つ他の人には無い独特の空気感(個性?)を好意的に捉えて、存在感という言葉にそれを変換して言うことがある。しかしそれは、認識の浅さ(思考で感性の域を扱おうとする無知)からくる大きなカン違いであって、不本意な状況を引き寄せる原因にもなり得る無責任な思い込みの類でしかない。

 多くの場合、存在感は恐怖心である。それは、思考を自由にさせることで否定感情の世界からも自由でいるという自然体の姿から離れ、思考で身を守り、思考で他を隔てる中で身に付けてしまった、怖れや不安を燃料とした否定感情である。それが人といる場所で外へと流れ出し、違和感として他へ伝わっているわけだけど、それをそこで浮き出た不自然さではなく、“他の人とは違う何か”という視点で捉えて(つき合って)しまうため、知らずうちにその人のペースで事が流れ、感情の忙しい不調和な現実を経験することになる。

 心ある人生からその人を外れさせる否定感情は、それから自由でいる人の空間ではそのままではいられない。その内側でそれまでにない動きが生じ、時に強い好転反応を伴って本来へと向かう変化が始まる。しかし、いくつもの不安や心配(and 怖れ、嫉妬、執着etc.)を原因とした選択(経験)を持つ人の空間ではそれは難しく、いつのまにか、否定感情の裏返しの姿にも簡単に好感を抱くというオカシな関係性が出来上がってしまう。そしてその人自身も存在感のある人間になる。

 恐怖心が作り出す存在感。指導的な(責任ある)立場でいる人の恐怖心(存在感)につき合わされて、大勢の人たちが本来を見失わされてしまうことは多い。どんな時でも、どこにいても、誰といても、否定感情がそのままなことほど危ういものはない。感情の主導権をあたり前に握りながら、体験的にそれを知り、存在感という概念の要らない、健康で平和な空間を創り出していく。

 (※無自覚のまま不安や怖れを内に溜め込んだ存在感のある人は、そうではない安心でいる人に存在感を感じることがある。存在感を感じさせない存在感というのもある)

 

33.分からないままでいられる時って、思考に力が入らず、感情もムダな働きをしない。どこか不安定な感じもするけど、事はスムーズに流れ出し、いろいろな事がそれまでと違った展開を経験することがある。その場合、それまでに育んだ心の性質が未だ不安と仲良しだと簡単に事は好転しないけど、その不安からも自由でいると、“分からないままでいる”はとてつもない力になる。

 どんな出来事でも人間関係でも、それらは折り重なるそれまでのいくつもの原因が連れて来た結果という名の原因。そのひとつひとつを要らない思考である場所に止めなければ、次への原因として動き出そうとするそれぞれの意思(エネルギー)に自分の原因(心の性質)が共振・融合し、思考での理解を超えたところでの変化が生じることになる。

 思考に力が入らなければ、想い(心)が力を持つ。心は思考では扱えないエネルギーそのものだから、その心が主導権を握れば、思考を自由に操る余裕の中で、それまでの原因の性質を力に変え、容易に事を変化させることができる。だから変化に乗れない人には、分からないままでいることが何より重要となる。それまでの原因を見つめ、それらの影響力に責任を感じ、望ましい次なる風景の原因を選択する。

 『心の風景』は、よく分からないけど、いつのまにか何かが生じ、何かが変わっている、その何かを創り出す原因。自由に触れ、活用し、原因の部分での成長を体験的に感じてみて欲しい。すでに変わっている現実があれば、その理由なんて全く分からなくていい。

 

34.動物性食品の摂取から自然と遠のく中でその質を高めていく感性。もちろんそれだけではないいくつもの要素が他にもあるけど、その意識もなく肉料理や乳製品から離れていたことによる心身への効果は大きい。いつしか動物たちに対する気持ちも変わり、人間の勝手な都合で彼らを扱ってはならないこと、それが自然で普通であることを、理由の要らない感覚的な理解として知ることになる。

 人間と同じ種の仲間としてこの地球に住む、多くの哺乳類動物たち。彼らと人間は、食物連鎖の位置づけが同じだけでなく、共に生かし合い、共に地球大自然の健全な営みを支え合う役を担う。その中で海中を選んだクジラやイルカたちが担うのは、海の世界での平穏で平和な暮らしと、そこでの生命たちのあるがままの成長と進化を見守り続けること。永い間彼らはそれを楽しみ、それを喜び、そのことに地球は安心した。地球表面の70%を占める海洋での彼らの生き方(在り様)は、地上に生きる人間や他の哺乳類動物の“生命の基本形”となってそこに存在し続けている。

 地球全体の健康をテーマとする時、そこから外れた人間の不健康な生き方と愛情の無さは大きなハンデとなっている。人間の身勝手な感情に付き合わされる動物。ファッションや思考食のために命を奪われる動物。自由で平和に生きることを忘れさせられる動物。それらのことに無感覚でいて、感性を鈍らせたまま日々暮らすというのは、地球に生きる一哺乳類動物の人間としてとても基本的で単純なことを全く理解せず、生命としての責任を少しも果たしてないということ。

 共に支え合い、共に生きるということ…。特別でも何でもないそのことを、その原因の質を高めながら真剣に表現していく。地球に否定感情は似合わないから。

 

35.気づきは、すでにそうである確認作業でありたい。それと分からないくらい気づき(変化)そのものとなり、余裕で観察する風景のひとこまのように、それはさりげなく自然なものでありたい。

 「気づき病」というのがある。ずっとそうであることを気づけなかったに過ぎない気づきの時に、感情を乗せ、反省のポーズを見せ、それを言葉に思考を満足させて自分の世界に浸る癖を持つ。責任転嫁術にたけたその患者たちは、周りでじっと耐えて待ち続けている存在たちの優しさに甘え、個人の喜びのために生きている。「変わりたい」気持ちを人一倍強くさせて、そうじゃない心をごまかし続ける。

 ただ気づくだけなら、「思うだけなら、思わないと同じ」レベルで、それは気づいてないということ。気づきは、気づくまでもない心の具現化の中でさりげなく風を感じる心のアクセントのよう。そのプロセスに個のままでいる価値観(経験枠)は通用しない。

 次に繋がる喜びと安心の通り道でいれば、気づくという行為を大きく包み込む気づきの中にいて、気づいているからできること、ふとしてしまうことを余裕で楽しむ自分がいる。気づきは、気づきじゃない。気づけなかった自分に気づいたって(気づかされたって)、それだけのこと。まだ何も変わっていない。気づいているうちは、それまで気づけなかった自分に力を与えることはできない。平和は、争いの果てにはないのだから……。

 

36.白米食が人々の生活に積極的に取り入れられるようになってから、この国はオカシサを増幅させていった。それは時を経て、調理済み食品や油料理をいくら食べても平気な人間を生み出し、電子レンジで離乳食を作ってしまう程の危うい現代の病みへと繋がっていく。それは何を意味するのか? 人間の中身が変わってしまったという嘘のような話が起きたということ。

 人間は、身体と精神と魂という三つの意思が、健康・健全をテーマにムリ無く融合していて人間でいられる。その身体(細胞)の元となる食物が本来から大きくズレたままの生活を子々孫々と永く営まれれば、当然人間の精神(無意識の意思)は不健康・不健全となり、魂(エネルギーの意思)も低次のものとなる。そのため、「歴史は繰り返される」という発想が普通になってしまう程、争いや衝突の原因が平気につくられる人間社会を生じさせ、負の連鎖を無意識に支える人間の姿を普通にしてしまった。実に情けない話である。

 ソウルエリアの風を変え(風になり)、ソウルフルな精神でいて、それをそのまま身体活動に重ねて(融合させて)いく。低次の魂(エネルギー)が住みやすくなってしまった、不健康・不健全のままでいられる人間の身体を本来に変えていくには、かなりの時を必要とするけど、少なくとも『食の風景』によってその存在たちの姿が顕になり、その影響による不自然・不調和な状況(社会、世界)を少しずつ変えていくことは出来る。健康・健全のエネルギーを人々の精神に染み込ませ、その中身(魂)を変えることも出来る。みんなで読み、みんなで実践する。そして、次の時代への責任を、この時代にしっかりと担う。そう、さりげなく真剣に、確かな原因でいる心を主人公に…。

 

37.50年以上ずっと食事の内容に無頓着だったムーがそれでもどうにか病気知らずで来れたのは、頭を働かせるよりも早く感じるままを言葉に行為にしてきたからかもしれない。何かのために何かを考えるということが苦手だったから、そうさせられる状況からは縁遠かった。それを細胞たちも喜んでいたから、彼らはほんのわずかの燃料(栄養)でも信じられないほどの仕事量をこなしてくれていた。

 人は、そのタイミング(必要性)が来れば、考えようとしなくても自ずと考えているわけだから、その行為は極力持たない方がいい。でなきゃ、直感的に物事を感じ取る(捉える)ことが出来ず、細胞たちも辛い。考えるという行為の性質如何では、どれだけのエネルギーがムダに使われ、どれほどの重たさや滞りが生まれることになるか? それを体験的に知らないままだと、要らないことばかりを経験し、いつしか痴呆を旅することになる。

 これまでを通して何気に思うのは、結果を生きることほど危ういものはないということ。あたり前に原因でいると、その影響が驚くほど分かる。教育も経済も、食環境も宗教も、原因ではなく結果を生きる人が未成熟な精神と否定感情を材料に歪なものへと引っ張り、多くの人の思考がそれに引っ張られてここまで来ている。生命は原因そのものなのに、そうじゃない結果に意識を向けて考えてばかりいるから、あの人もこの人も、あの場所もこの場所も病みの中にいる。

 調和のある風景も、喜びに満ちた社会も、それを考えるまでもなくそうである原因が“考える”というタイミングを余裕で引き寄せるぐらいじゃなきゃ、いくら考えても何も変わらず、考えた分、そうにはならない状況を固めてしまうだけになる。考えてないからこそ、考えるべきことを普通に考えられ、知らないでいるからこそ、容易に知るべきことを知ることの大切さ。そのエッセンスは、細胞たちがいつも届けてくれる。彼らの意思を感じれば、生命を生きる上で何より大切な原因の世界で、本来の自分を活躍させることになる。

 

38.多くの人の辛さや切なさの原因が置き忘れられたままの世界では、感動ゲームが流行る。感動したがる人と、感動させたがる人。両者の間で、感動という名の商品が売り買いされ、感動畑が広がっていく。

 人間には、自分の中に在るべきものが無い時、それを自ら育んでいくという大切な仕事がある。しかし、その仕事を放棄し、心を未熟なままにその在るべきものを外に探し求めて嘘の人生を送る人は多い。

 愛情も優しさも思いやりも、そして責任も誠実も勇気も皆、自らがそれとなって思い思いに外へと表現するもの。表現することでそれらは心に育まれ、心に育むことで、それらはその意識もなく人を癒し、互いの空間を生かす力になる。他に求めていては、それらが自分の中に無いことに平気でいるという、オカシな自己表現になってしまう。

 外に感動を求める行為の中にいると、そこで得た(と勘違いしている)ものは、心に染み込まずに直に消える。そしてまたそれを得ようとして外に求め、どうどう巡りの人生を送る。その間、頭は忙しく、心は余裕を失くし、助けを必要とする人には背を向け、厳しさの中にいる人の心の嘆きには無感覚になる。そのままそれを続けることは、人間としてあってはならないこと。

 感動の中身を覗いてみるといい。それは、自分の心の中に溶け、真剣にこの今を生きる燃料になるものか? それとも、そうではない自分を燃料にそう生きようとする際の、期間限定の材料でしかないものか? それは、心ある自分(生命本来)を強くする原因か? それとも、未消化の感情を刺激する個の満足の結果か?

 心無い人たちが増え、生命に無責任な価値観のもとに物事が流れ出す時、大勢の愛情の無い人たち(愛情のある振りをする人たち)によって、感動ゲームが流行る。命のはかなさや切なさを執拗に強調する送り手と、それに応える、病んだままでいたい人たち。この世は今、薄っぺらな感動が社会の隅々で売り買いされるほど、心寒くなってしまっている。

 辛く苦しい生活を強いられている人たちや、厳しい状況を受容しながらも真剣に生きる多くの存在たちのことを知れば、その原因をどうにかしたいと心ある人は思う。そして、恵まれた生活空間での、不幸の裏返しの幸せやその時だけの感動を求める姿勢が、回り回ってそれらをつくり出しているということを理解する。感動は、個であってはならない。感動は、二者択一的世界のものであってはならない。感動は、自分のものであってはならない。

 地球に住むみんなが安心の中でありのままに生命を生き、人生を楽しむ様子。平和や健康という言葉が使われることもないそのものの世界で普通に暮らす人々。そう簡単ではないけど、いつか未来のどこかでそんな世界が普通になる時の原因になれることほど、心が嬉しいものはない。感動ってそういうもの。そこへの通り道であり、そこへと繋がる確かな想い。軽く時を超え、地域を超える全体の喜び。

 ムーは、雨にも風にもミミズにも感動する。美味しいコーヒーにも、ベトベトになってしまった玄米にも感動する。そして、地球の自転にも公転にも、光にも闇にも感動する。だけど、本当の感動は、感情の性質が全体をテーマに進化しなければ誰も経験できないことも知っている。ある事やある対象に対して感動するしないの世界にはそれは存在しないことも…。だから、さりげなく真剣に原因を生き、その原因の分母を大きくしていく。ただいつものように、あたり前に平和で愛溢れる未来空間への道を歩き、その道になる。

 生きる上での大切な感動って、理由の要らない世界からふと訪れる、変化という名の生命の意思そのものなのかもしれない。永遠の瞬間の中で輝き出す、人間の、人類の希望の原因そのものなのかもしれない。そのひとつひとつの感動の時に、ただ感謝でしかない。

 

39.なんとなく感じた時は、なんとなく動けばいい。そのタイミングでなければ、そこから自由になり、感じたことも自由にさせるといい。

 なんとなく感じることにパワー(感情)は要らない。ずっとそこに居続ければ、いつのまにか自家中毒のような状態になり、「誰も分かってくれない」「どうして人は感じないのだろう?」になる。

 ふとした感覚が心(感情)にヒットする機会は大切なものだけど、それが記憶の中で妙に息づいていると、自らも不調和な原因となって、知らずうちにその対象(違和感)と同調することになる。“感じる”ことは、不自然な風景を変える力にもなるけど、感情的に為されることは何も無い。

 分かっているけど、そう簡単ではない時、分からない方がいいこともある。心ある人は皆それを分かっているから、その時を待つ(未来に託す)しかないことを知っている。必ずその時が来ることも…。

 みんなの周りには、たくさんの心ある存在たちがいる。それぞれが今いる環境の中で、共に歩み出すタイミングを手にするところにいる。彼らが知りたいのは、“その時”の訪れ。望みは、未来のために力いっぱい動き出すこと。そのために、ずっと“感じる”ことから自由でいて、ただひたすら時を刻み、すべてを受容して待ち続けていた。そして今、それは多くの人に伝わり出している。だから、この今、この時がある。そう、その何気ない縁の風景のように…。風は流れている。

 

40.縁ある想い人との何気ないやりとりの中で大切なのは、相手の中にあるものではなく、相手を通るもの、相手が伝えたいことではなく、相手から伝わることをありのままに感じてみること。心のままに心ある自分を表現できずに、頭で心を扱い、頭でそうであろうと(心ある自分でいようと)動いていたとすれば、緊張した精神と心の寂しさが痛いほど伝わってくる。差し出す処方箋は、相手が安心して心を形(感情)にできる存在としての余裕と、中庸でいる自由空間。そこでは、要らない思考(価値観)が次々と言葉になって繕っていたものを解放し、ずっと身動きの出来なかった本来が強さを手にしようとする。その仕事は、『この国のこれからのために』と縁した誰もが出来る普通のこと。たださりげなく原因を生きることで、縁する人の原因(心)も動き出す。そこに妙な動きにくさがあれば、より力強い原因を生きるだけ。それを楽しみながら実践しなきゃ、自分らしさとは縁遠い人生を良しとするカン違い人生を送ることになる。

 心が主導権を握る(感じる想いに身体(思考)をつき合わせる)人生をたくさんの人が普通に送る時、求めなくても、探さなくても、そこには平和があり、健康がある。どこにも愛情があり、優しさがある。それを頭で望み、頭ばかりを働かせていては、平和も愛情も形ばかりで、中身の無い薄っぺらなものになってしまう。負の連鎖を支える負の人間活動を人は行ってはならない。『心の風景』との出会いをムダにしてはならない。

 

41.回転が鈍っている(=心が主導権を握れず、変化に乗れない)のは、次には持っていけない流れない価値観をずっと大切にしているから。何気に手にする物や状況がそのことを教えているのに、その「原因」に背を向けて、思考を強く「結果」を歩いてしまう。それだと、頭ではそうではなくても心の状態がそうである、争いや衝突が絶えない世界を支える自分を生きてしまう。平和を思うから平和が訪れるのではない。その意識もなくただ平和でいること、あたり前に平和を生きることで、自然とそれはここに引き寄せられ、それになる。

 ムーは世の中を平和にしようと思ったことが無い。ただ未来(あたり前に平和な世界)の原因となるこの今を心のままに生きているだけ。現実を創り出す心の性質(エネルギー)を限り無くオープンに、どんどんそれを大きくしているだけ。コケようが、落ちようが、打たれようが、蹴られようが、否定感情がそのままの争いの対極にある平和ではなく、その意味さえどうでもいい平和そのもののエネルギーを増幅させていく。誰(何)もそれをジャマすることはできない。だってそれは、本来を生きる原因(生命)の意思そのものだから。

 

42.人から“いい人”と言われながら、その実全くどうでもいい人の装いは実に巧みで完璧。どこまでもそうとは分からず、そうではないその嘘の姿に人は簡単に惑わされてしまう(本来を見失う)。そんな人の周りには、必ずと言っていい程、強力な勘違いに浸った(思考が麻痺してしまった)心強い理解者がいる。それが心優しい身内や友人である時、彼(彼女)の影響はより分かりずらくなる。彼の無意識の意思に操られる彼らは、彼の体裁や体面の大切なピースとなり、彼が縁する人の心が重くなるのを手伝ってしまう。

 人はとかく「良い(善い、好い)」に弱い。「良いこと」「良い行い」「良いところ」といった良し悪しの良い方に居ようとするあまり、表面的で見た目の判断を良しとする人たちの“良い”に引っ張られ、彼らの評価・評判に何の疑問も持てなくなる。

 (俗にいい人と言われるどうでもいい人は、なぜか人の上に立とうとしたり、人に良いことを教える仕事に就こうとしたりする。そのままで伝わるものが何も無いゆえ、表面的な(形だけの)良さを思考でのみ扱い、人を病ませていく)

 どんな良い人でも、見方を変えれば「?」だったり、「△」や「×」であったりしてもいいのだが、“いい人だ”とその人を支えて、彼の評判を利用する人たちがそうはさせてくれない。人の弱さと愚かさは、そんなところからよく見える。

 素朴な感性と責任ある選択の大切さをキープするためにも、まずは、どんな風に思われてもいい自分をセットしてみる。そして、正直でいる自分を普通に生き、ただ危ういだけの“いい人”の影で辛く切ない想いを抱かされている人を助け、癒してあげる。

 その“良い人”の現実(事実)の元となる心(原因)の風景には、あたり前に平和があり、健康があるか。その優しさは、その人の空間から自然に伝わるものか。要はそれだけ。それを外して簡単に“良い人”というセリフを使える人の危うさも知る。中身が無い人間ほど“いい人”でいようとし、そんな人の集まりが、偽善者を次々とつくり出していく。

 

43.時にその必要性があれば、感情をうまく操り、人の感情のかたまりを砕く。例えその姿が他者からは感情的に思えるものであっても、優先すべくは、固められた感情の計り知れない負の影響への対応。そんな時に、見た目を気にしている時間は無い。

 思考を自由にさせる経験が普通である時、自由な思考で質の伴わない経験を続ける人の病みの原因が強力な違和感として伝わってくる。経験からあたり前に自由でいる時、個の経験枠の中で要らない経験を引きずる人の重たい経験が容易に分かり出す。

 そこに在る、歪で流れない価値感情の原因(エネルギー)のかたまり。それが無意識の意思の燃料として使われる時、多くの人が、理由(原因)の分からない辛さとキツサを引き受けさせられることになる。生きる希望を失くし、生きる力を極端に落としてしまう人は多い。脳に大きなダメージを受ける人もいる。

 それへの力強い原因の仕事を、全体発の想いを具現化させながら、自由に、喜びいっぱいに行っていく。感情を操り、思考を自由に確かな原因の経験を創りながら、思い思いに「理由の要らないハッピー感」を表現していく。

 

44.原因の世界での不自然な融合と衝突。時に絡み合いとでも言うべき、鈍く不自然な状態。それを放って置くことはできないけど、それへの(それを繰り返さないための)対応を取るべくタイミングを引き寄せるために、ある程度放って置かざるを得ないこともある。

 どんな状況であれ、それを経験枠内の価値観で扱わなければ、そこにある不穏な動き(重く流れない原因の意思)は力を落とし、次なる原因の連なりの中でそれは次第に姿を消すことになる。それは思考レベルの発想も理解も通用しない経験の外側での営みそのものだから、その理由を分かろうとしない方がいい。その事実を事実として、その原因のところからありのままに受け止めれば(認めれば)、分かっても分からなくても、全体(生命本来)と繋がる空間の意思がその人の原因を望ましい次へと運んでいく。

 分からないことに感情が乗り、思考でそれが操られる時、その性質如何では、それは原因(エネルギー)の世界の絡みを増幅させるだけ…ということがある。謙虚さや素直さ(正直さ)を伴わない“分からない”は、無意識に人をあざむき、自分をごまかす逃避の道具。それが他者を隔てる武器になる時ほど、重く不穏な世界が喜ぶことはない。

 

45.『心の風景』の先に見える風景は、大勢の人たちの理由の無い喜び。人から人へと伝わるそれは、時の流れに添うようにして、どこにでも流れていく。喜びは、生きる燃料。生きるためではなく、ただ生きることの基本燃料。個の枠内での何かではないみんなにとっての何かが、それによって安定感を強くする。理由の要らない喜びは、過去になることもなくさらりと次を連れてくる。その連なりは平和そのもの。そのままで縁する空間は安心に包まれる。

 「喜びって何?」って聞かれると、「何じゃないから分からない」としか答えられない。ここにいること、この時代に身体を持って‘自分’を表現できることがもうすでにこの上ない喜びだから、ただ普通に生きていくだけ。それをこの時代が、この地球が喜んでくれればいいかな…と思う。この時代の喜びは、これまでの時代と未来の喜びでもあるから…。

 

46.宗教心を全く持たない宗教(という名の権力・悪徳)組織や団体が活動する地域(空間)、及びその会員(信者、構成員)たちが住む場所は、形を取らない原因の世界での闇のウイルス群(病弊)とも言える、実に奇妙で怪しく、恐ろしい世界である。そこはとても暗くジメジメとしていて、重苦しくもあるはずなのだが、太陽の魂の光を嫌い、地を這うようにして否定感情(執着、嫉妬、隔たり、優越etc.)そのものを生きる彼らにとっては、実に楽園のような世界。腐敗菌の増殖(重たい感情の記憶の暴走)もその基礎になっている。

 普通一般に生命としての責任を感じ、心ある人生を生きる人間にとっては、その原因のところで、その闇のかたまりに近づくことはない。自然な融合も、互いに生かし合う想いも共有できないゆえ、それは当然のこと。生きる手前(原因)のところで、すでに次元の違いがある。その次元の違う存在たちとムリに融合させられたとしたら、純粋で素朴な原因のままを生きる(生きようとする)人たちはどうなってしまうだろう?

 敏感の質が高まるというのは、言葉や行為の手前の原因の奥深くまであたり前に責任を覚え、その反映としての思考を普通に使い、行動するということ。そうである人たち(元々その性質を持つ人たち)が、あまりに強力な負の影響を受け、何も出来なくなっている。不必要な融合を強いられ、脳の健全な働きも経験できないまま、動けなくて、外に出られなくなっている。

 彼らのソウルフルな光の輝きは、闇のウイルス群の中に住む存在たちにとっては恐怖の対象でしかない。それゆえ、人間レベルの常識(世間、世俗の便宜)という道具を巧みに使い、彼らが最も避けたい、原因のところでの融合・打撃を講じることにした。それが、宗教心の無い宗教組織(団体)の元の意思(本性、正体)。形ばかりの“良いこと”“ありがたいこと”でその原因の世界での仕業(無意識の意思)を隠し、大勢の人たちの心の自由を奪う。心ある想い人たちを不幸にし、彼らの命を食べる。

 ひきこもりも、何も出来ない精神状態の人も、その元は、生きる原因の世界での不必要な融合から。それが具体化された(それと繋がる)世界が、宗教心の無い人たちの集まりと、それに影響される人たちとの不自然で不健康な風景。重苦しいその原因の世界での融合によって、柔らかで素朴な人の精神は深くダメージを受け、思いがけない悲しい現実を引き受けさせられることになる。

 闇のウイルスのような原因からなる人生を送ろうとする人たちが、地位・権威を持ち、力を具体化させようとした時から、社会の腐敗が始まる。それが極まり、後戻りできなくなる程の状況へと押しやられている僕らの未来。蘇生型(生命本来)の原因のエネルギーをもって、不必要な融合を砕き、その割合を逆転させる。今はその始まりの時。みんなの心の風景を元気にする。

 この日本という国の実に情けないところは、多くの人が、慢性化させた自らの病みに鈍感のまま、無自覚に宗教心を持たない宗教組織や集団(団体)のズルサとワルサを支えてしまっていること。政治も経済も教育も皆、それらの心を持たない人たちによってがんじがらめにされ、本来が全く見えなくなってしまった。

 理由も分からないまま心身を病み、どうにかしたいけどどうにも動けなく(何も出来なく)なってしまっている人たちに元気になってもらうために、ゼロに戻る選択をする。「この国のこれからのためにW、X」が少しでも当てはまる集まり(組織、集団)に身を置く自分がいれば、生命としての人間に戻ることを選び、それまでの無意識の意思の影響を省み、自ら責任を実践する。

 それは、生きる基本の再スタートの機会。手遅れになる前に(影響に責任が取れなくなる前に)そうした方がいい。時代の意思は、すでにとてつもない風を吹かせているから。

 

47.真剣に生きる気持ちが無い人ほど、力に惹かれ、力を得ようとする。思考の質を高めることのない彼らは、言葉で心を扱い、実践する調和ではなく、頭で作り上げた形だけの調和を良しとする。その寂しい思考と心無い生き方が、力を求めるオカシな原動力となる。

 社会、経済における役割と責任。教育や宗教の世界での本質(本来の在り様)の共有…。そこに在るのは、当然力ではなく、強さ。差別化や特別化を生み、争いや衝突を引き起こす力ではなく、互いに生かし合い、支え合う、共に成長・進化し続ける強さ。

 時に力はお金を意味し、武器に姿を変え、権威・権力となって、不安定の極みである嘘の安定(平和)の道具になる。時に力は普通を壊し、人々の生活(生命)を脅かし、未来に無責任な原因のかたまりとなって、他の力とぶつかり合う。その全てが未熟の代名詞。進化とは無縁の寂しい現実。

 強さを伴わない力は、弱さそのもの。強さの無い力は、偽善の隠れ蓑。真に強い自分をみんなが普通に生きる時、人間は初めて、成長・進化のスタート地点に立つ。それを無視して人間の成長・進化を語ることは、誰もできない。

 

48.全体を大切にしようとか、みんなのために生きようとか、思わなくてもいい。そう思わなきゃそうにはならないことに気持ちを向ける時、未消化の否定感情が容易にそれに乗る。それよりも、要らない価値感情の居場所を失くさせてみる。心(想い)と言動がズレていたそれまでの原因を受容し、善人振っていた自分の愚かさと危うさを自覚してみる。

 全体もみんなも、どこまでも普通であたり前のこと。全体があって個の責任と役割があり、みんながいて、ひとりひとりが主人公になれる。それらが普通でなきゃ、人間が生命を生きることは出来なくなる。

 『原点』を経て、プレイグランドのステージを大きく変えた現在、自らの生き方が、多くの人の生きた知識となり、知恵となる。体験的知識が普通となり、思考から始まる思考世界との不必要な融合が無くなっていく。ムーセンテンス(冊子)との時間が読書になることはない、というのは「体験は知識」の一つ。過去が癒され、未来が喜ぶ原因を、さりげなく真剣に生きていく。

 

49.何か(見えない未来)に向かおうとすると、それまでの経験の性質を無視できるので、頭は心地良さ(充実感)を覚えて、心を離れた形だけの変化を変化だと思う(勘違いをする)。

 自分に引き寄せられた何か(新たな現実)を迎え入れていると、それまでの経験をそのまま受容し、かつそこから自由になる責任を選択するので、頭は厳しさを覚えて、自分は全く変化していないと思う(勘違いする)。

 現実や出来事の元となる原因(想い、感情、思考、姿勢)の性質が責任あるものであれば、結果という名の次への原因とその手前の原因がムリなく重なり合うので、求めるという意識もなく、望むべき現実を淡々と生きることになる。

 その原因が無責任なままだと、いつのまにか依存心と被害者意識が強くなり、それによって目の前の結果(現実)の中に自らのその原因が在ることを簡単に無視できるので、淡々と生きているようで、常に無意識と感情を忙しくさせている(外へ、他へと求め続けている)。

 つまり、自分がある生き方を外に求める時、そこには自分を通るものが何も無く、自分にとって必要な生き方をありのままに創り出している時にだけ、変化し続けるそれまでが喜んで自分を通るということ。

 平和で健康的な生き方は、平和で健康的な原因が自然に自分を通って具現化する中で、あたり前に普通のこととなる。それを外に求める人は、原因(心)を切り離して結果だけを生きる、偽り人である。

 

50.望ましい未来に繋がる原因をテーマに全体から観察される際、変わる(消える)べきガラクタが頑なにそれに抵抗して居場所を確保しようとすれば、それだけ好転反応は大きくなる。そのガラクタに関わる人たちの否定感情がいつまでもそのままでいようとすれば、嘘のような厳しさと然るべき変化を経験することになる。そのガラクタとは、みんなにとっての望ましい未来に繋がる原因がそこには無い価値観と、それを基とする繋がりと集まり。実に多い。実に多岐にわたっている。

 抽象的な世界には、思考の原因(燃料)となるエネルギーの層のようなものがあるのだが、「思考を自由にさせる」中で育まれるその核となる部分のその性質がきゅう屈で息苦しさを覚える程に、そうではない性質の思考がそこでの厳然たるべく在り様を覆い、崩し、不調和なものにしてしまっている。それはまさしく、この世に居続けようとするガラクタの原因とその影響。

 人間誰もが自然で普通に表現できるはずの、「どんな自分がそこにいるか?(それをするか?)」という言葉や行為の手前の原因の大切さを、そのガラクタは、「正しいこと、良いことをする」という行為からなる短絡化した方向性に「自由な思考」を重ね合わせ、直線的で二者択一的な価値感情をこの世に蔓延させてしまった。それが全体発の原因が引き寄せる未来には無要なものであるわけだから、覚悟が必要となる。殆どの人がその影響を受けているのだから。

 時代の好転反応。それに巻き込まれ、強烈な洗い直しを経験する存在たち。それによる深くからの大きな変動、変化、変革。生命食で細胞たちを元気にし、希望の約束と共に、淡々と歩み続ける。望ましい未来に繋がる原因の中に自らの原因を重ね、そのひとつひとつを具現化させていく。

 

51.電子レンジを生き物に例えれば、それは生命を食べる気味の悪い妖怪。鈍感で人間味の無い人を増やし、健全な感性を持つ人の生命を奪う。

 電子レンジで作られた物を食べると、細胞は嘆き、脳は疲労を覚える。生命食で本来の味覚を取り戻し、健康の基本が安定する中でそれを経験すれば(わざわざ経験することはないが)、それは簡単に分かること。

 但し、「自分は全く平気だから」と、思考で食を扱い、強くそのことに反発されると、その危うい感覚(鈍性)と修復不可能とも思える病みの深さに、ただ距離を置かざるを得ない。それは、感性がことごとく鈍化(退化)して(遺伝子レベルまでが侵されて)、その本質が全く本来ではなくなり、生命の営みを破壊する程のことを無意識に行ってしまう性質の反映でもあるから。

(思考食を好む原因に未消化の感情の記憶がしつこく絡んでいる場合、生命食に抵抗しつつ、その浄化と確かな変化の機会をうかがう動きを取ることもある)

 自らの自由意思で食事の内容を選ぶことが出来ない幼児や就学児童たち。彼らの食事が電子レンジで作られる時、敏感で感性の鋭い子ほど、脳及び細胞全体に大きなダメージを受ける。それに慣れ、平気になってしまう子は、感覚的に正直でいることが出来なくなり、間接的に他者(敏感な子たち)にダメージを与えることになる。

 そうではない状況へと動き出すことの大切さを本能的に感じ取る子は、どうにもできないその原因をそのままに、身体で意思表示する。言動が荒々しくなったり、暴力的で攻撃的になったり、また体調を崩し、極端に元気を失くしたり、病気になったりする。

 それに対して鈍感な大人(親)は、その原因を感知することが出来ず、被害者顔になる。表面を繕い、体裁を整える個の思考がそこにあれば、著しく子供を病ませてしまうことになる。『食の風景』の世界と自分を重ね、細胞が喜ぶ生命食を普通にする。子供たちに負の原因を抱えさせず、味覚を本来に、心身を元気にする。

 電子レンジ一つとっても、健全な生活空間は簡単に壊れる。電子レンジやIHand コンビニ弁当類、冷凍食品(食材)etc.)に平気でいられる、生命の破壊者(人の命のエネルギーを食べるモンスター)になってはならない。あらゆる病気の原因となる脳の疲労が生命力を持たない食品によって為される時、それは確実に命が削られることを意味するから。

※電子レンジで温めた水を冷まして植物に与えた時、植物はその強力な破壊力に簡単に負けてしまう。人間がそれを摂れば、何が生じ、何が起きるか…。子供たちが集まる学校での問題事も、若者たちの病気(病死)も、その背景には、そのことが大きな原因の一つとして在る。

 

52.想いがそのまま言葉になるスタイルが普通となり、言葉よりも早く湧いてくる想いに言葉をただつき合わせるだけの自然な感覚が馴染み出すプロセスを経て、文章は変わる。文章力や表現力という世界はつまらないもの。想いの狭さ(無さ)、心の寒さ(危うさ)が際立っているだけということは多い。

 文章(言葉)で何かを表現するのではなく、形になりたがっている想いと心の動きに、文章を通して表現させてみる。その想いがそのまま本物であり、本来であれば、文章の域を超えてそれに乗った想いの性質(エネルギー)が読み手の心に伝わり、溶ける。そこに流れない個の思惑と感情があれば、言葉が言葉として心にヒットし、残る。

 読み手の心に残る文章というのは、その多くが読み手の思い込みか、または双方の自己満足の共有と思って良い。その実、それは単に頭(経験枠内の思考レベル)に残っているに過ぎない。頭で心を扱う人が文章(本)を読む時って、いつもそう。心に残っても、決してそれが心に溶けることはない。だから、あれこれと読み、何も変わらない。そんな人が文章を書く時もそう。

 言葉は、心の具現化、心の大切な仕事のひとつ。だから、言葉から始まり、言葉で終わる文章も、心を思考で扱う心無い文章も、在ってはならない。感動ごっこや知識欲の道具になってはならない。

 読書好きの日本人。でも中身は、変化・成長(進化)とは縁遠いオカシな日本人。何を書く(読む)かではなく、どんな自分がそれを書く(読む)か。言葉(文章)の本質に、さりげなく真剣でありたい。

 

53.平和な想い(原因)を持たなくても、平和を思う行為(結果)だけでそれを良しとする、思考世界の嘘の正しさ。念・密系の行も、キリスト教のシンボルも皆、空間を病ませる病原菌のようなもの。平和な原因を生きようとしないから、熱心に平和を願い(祈り)、世を混乱させていく。

 思考を働かせず、感性だけで生きる幼児たちは、その世界に触れさせられ、言いようの無い辛さを経験する。念系の太鼓(題目)の音(声)に体が萎縮するのを覚え、あんまりやの像(and 10字菓)に気味の悪さを感じる。それは、その音や形を通して伝わる、否定的な個の思惑の、暗く重たい病みのエネルギー(原因)。嘘や偽り、差別や執着の乗ったそれに、子の感性は敏感に反応する。

 不自然・不健全な食事や飲料水、遊び道具などの影響で、脳を不必要に疲れさせ、感性を鈍らされる子供たち。『原点』と『食の風景』、そして『この国のこれからのために』を通して、親(大人)と子(子供)で、望ましい未来の原因を生きていく。この今を確かなものにしなきゃ、この時代が、嘘の上塗りの絵の具になってしまう。人間は、未来が喜ぶ原因(を生きること)に真剣だから、人間でいられる。その質を、これ以上退化(悪化)させてはならない。

 

54.何かを変えようとしても、その何か(結果)を対象とした動きの中に、自らも無意識にそれに同調していたそれまでがあれば、一時期好転しても、再び同じような(変わりにくさを増した)状況になる。

 変わるべく何かが真に変わる時、その何かの背景(原因)と縁遠い自分があたり前にそこにいることで、それは変わらざるを得ない原因を自らの中で経験する。それを知り、実践することは、そのまま全体発のシンプルな生き方を意味する。無責任なことが繰り返されるのは、原因と結果を切り離す思考と、オープンでいられない心の性質が力を持っているから。全てが原因であるこの世界に不自然・不調和な歪な普通(現実)が存在する理由を、無自覚に支えてはならない。責任ある原因無くして、未来に責任を持つことはできないから。

 

55.どんな現実も、それまでと、これからを繋ぐ、動き続ける通り道であり、永遠の瞬間が具現化した、形ある原因(変化)である。そこに、滞りとは無縁の時間と、人間時間に付き添う空間の意思が加わり、人は、様々な性質の現実と連れ添い、それを引き連れながら生きることになる。縁する人との関係性を育み、互いの心を共振・融合させ、その全てを現実に重ねる中で、創られる次なる現実も、そこに居る人の原因に合わせて、その質を変えていく。

 現実は、次々と人を迎え入れ、人は現実を創り、変えていく。平和も健全も、争いも衝突も、人が創った現実のその性質の正直な姿(反映)であり、それまでの人々の営みが原因となった結果(という名の次への原因)である。現実は、人の性質(本質、正体)も顕にし、人は、現実の中で、自らの原因の力を知る。

 

56.身体時間において、人は、再スタートは切れても、リターンマッチは出来ない。「あの時、もし〜であれば…」と思っても、そうではなかった原因の今にいるわけだから、頭を使っている暇は無い。何年もの間、変化とは無縁だった自分に気づく時、それを悔やみ、情けなさを覚え、そこに滞ったまま、更なる変化とは無縁の年月をつくり出す人は多い。負の連鎖の燃料となり、望ましい未来に繋がる原因を壊していく。

 頭を働かせて生み出される処方箋の類は、期間限定の価値観を支え、重たい原因を残す。それまでとは異なる変化を望むのなら、頭を使っている暇は無い。病みのかたまり(変化しにくさの原因)は、その頭の中に在るのだから。

 

57.真剣でいる姿勢には、リラックスが欠かせない。そうである時、思考も自由でいるので、すでにその原因のところからムダの無い動きが始まり出す。ボケ〜っとアホになる時間も心地良い。

 何に対しても一生けんめいが好きで、常に頑張ることを良しとする??な人は、頑張れない時でも頑張り、一生けんめいになれない自分を決して認めない頑なさを持つから、いつも思考は忙しく、人のさりげなさまで簡単に壊していく。

 健康と快活の基本要素でもあるリラックスは、創造の可能性とタイミングの必要性を高め、さりげない真剣さと望むべく原因を強くして、みんなの喜びを大きくする。人間は、普通に出来ることを増やし、その質を成長させることを仕事とする。一生けんめい(直線的な価値感情、頑張り)が大好きな人の心(原因)の風景に在るのは、具体化されたら困ってしまうものばかり。みんなにとっての普通が無い。

 

58.細胞が喜ぶ「生命食」を作り、食べる、日常の何でもない風景で、目には見えないいろいろな性質の意思(影響力)が表へと出てくる。生命食は、身体と心と魂(エネルギー)の健全なバランス調整において、決して欠かせないもの。細胞の意思を感じれば、それは考えるまでもない本来の常識。生命としての人間を生きる際、生命食は誰も無視できない。

 それをことごとく否定し、拒否する存在に出会すことがある。彼(彼女)らは、電子レンジ食品やコンビニ食、冷凍食品などの酵素の無い食事を摂り続けても、全く体調を崩さないほどの次元の違う病み(特異な能力)を持ち、その影響を他に及ぼし、人を病気にさせる無意識の力を持つ。彼らには、心身(魂)のバランスを調整する必要性が無い。つまり、在るのは、身体だけ。

 脳が変わりつつある中、そのことをよく理解できると思う。無意識のところで不必要に影響を受けないためにも、「生命食」を大いに活用する。それを作り、食べる、何でもない風景が、存在の性質を容易にオープンにすることになる。

 

59.全ての出来事は、その原因の世界で多次元的に繋がっている。どんな現実も、そこに至るまでのいくつもの原因が形となり、現象となる。ならば、自らの原因の性質を高め、その仕事の可能性を拡大させ、次に続く現実のひとつひとつを確実に変えていく。そのための原因でいて、ただ原因を生きる。

 真に生きる時、全てと繋がる原因の確かさを、自らの中に見る。真にそうである時、全てに繋がる普通が心地良く、ただそのままでいる。全てにとってすべきことをする時、その原因も、次なる原因も、ただ喜びでしかない。

 

60.完全・完璧な状態でいようとすると、簡単にはそうではない自分と闘い続けることになり、心身も、創り出される空間も、常に不完全で不自然なものになる。そして、それを埋め合わせるために(ごまかすために)、頭忙しく、他に完全を求めるようになり、精神の不安定感は次第に安定感を増していく。

 頭を使いたがる人の思考の性質は、自ら病むか、他者を病ませるかのどちらかをいつも実践していて、心の成長とは無縁の負の原因の空間で活躍する。脳の使い方が間違っていると言える。純粋で素朴な人は、真似できない。

 完全、不完全の世界を余裕で包み込む、真に完全な世界では、不完全な要素がその完全を支えている。どんなに不完全に見えても、その原因の営みは完全そのもの。細胞たちは喜び、物や空間も喜んでその在り様を応援する。脳の働きも健全だから、不穏な空間が創られることは無い。

 完全とか不完全とかの世界から自由でいると、完璧なタイミングで、最高の原因をあたり前に選択する自分がいる。想いに案内された心身も、自由に本来を表現する。完全・完璧は、全くそうではない世界に普通に居られる時に、いくらでも経験できるもの。だから、思考を自由にさせる。思考を働かせるより、思考を自由にさせる中で、想いのままに生きてみる。それは、どこまでも不完全な完全な世界。それは、理由の要らない平和のエッセンス。

 

61.思考の域を出ることのないスピリチュアルな世界をさまよい、念系やご利益・依存系の(宗教)世界にいるというのは、原因(無意識の意思、存在、エネルギー)の質を高めるという生命の真の仕事を嫌いつつ、その上で真の世界をずうずうしく求めよう(得よう)とするごう慢の極みそのものであるから、当然、永遠に真の世界に触れることはない。理想を求めながらその(自らの)原因の風景がそうではない存在の側に真実が近づくことは、何度人間をやってもあり得ない。

 真実は、真実を生きる人が、その意識もなくそうである(触れられる)、普通の世界。生命としての人間を生きる上で、要らないものを外し、経験しなくてもいい経験から離れて真の経験を創り続ける人の、何気ない日常。いかに愚かな存在たちが、徒党を組んで、思考レベルのお遊び(お遊戯)をしているか。それは、悲しい程の病みの恩賞(温床)である。

 

62.事実をそのまま言葉や文字にして表現する時、自ずと手前が問われる。その対象から自由でいて、自らが変化に乗っていないと、感情が乗り、抵抗、非難の類になる。それは、自分の中にも同じ性質のものが宿っていた証し。表面的な変化を良しとし、その原因はいつまでも変わらない。

 食物アレルギーの子供が大勢いると聞く。被害者顔で誰かを責め、責任の所在を探っても、専門的な見地からなる様々な対応策を練っても、その事実を結果として固めてしまう感情型の対応では、事は悪化していくだけ。その事実を原因(それまでの原因に呼応する結果という名の次への原因)として捉えれば、食事を変え、価値観を変える責任を選択する。

 動物性食品を減らし、電子レンジ、IHを使わなくなるだけでも、確実に病気は変化する。コンビニ食やジュース類から離れ、全粒穀物や生野菜、果物を多く摂るだけでも、病気の原因は力を失くし、姿を消す。かつてはこれほどまでではなかった、食生活の質の低下。(←食品、飲食関係の責任は重大)アレルギー患者増加の事実は、生命を生きる人間として、要らないものを外す必要性を教えてくれる。手前がオカシな人が事実を扱うから、次々とオカシな事が生じてしまう。

 

63.全体というテーマを普通に生きている人にとっての‘その時’は、みんなにとっての、みんなに繋がる、そのままでどこまでも広がり行く大切な時。さりげなく動き出し、影響が及ぶ世界に限りは無い。

 彼(彼女)にとって必要とする情報や知識は、生命表現の大切な材料。ただ知り、ただ話し、書くための(個の感情と重なりやすい)それらとの縁は無い。

 知るまでもないことや、不必要に知らされようとすることから縁遠い人の表現は、皆頭の中には無く、事実を前にして、頭を通る。意見も考えも頭には無く、事実への観察の際に、頭を通り、意見(考え)になる。

 そんな時の話や言葉(文章)は当然思考の域を通らないゆえ、それを聞く人も読む人も、言葉にならない心(想い)の変化を経験する。

 知ることそのものに意味は無い。知ることが‘その時’だから意味がある。そのままそれが、みんなにとっての原因(の材料)になるから、知るという経験が生きてくる。頭ばかり働かせて何かを知ろうとすること自体が、すでに頭の退化(痴呆)の始まりである。

 (読んで(聞いて)分かることは、読んで分かるレベルのこと。その手前の“どんな自分がそこにいるか”が柔らかく広がりのあるものでなければ、その分、無自覚に人を病ませる原因になる)

 

64.時に、「こんなことが、なぜ?」と、辛く苦しくなる出来事を耳(目)にすることがある。そして、受け止めるべき事実としてその性質(本質)は記憶され、後方へと流れて行く。その時、そうであってはならない選択と生き方が自ら力を持ち、そのための原因が確かな想いの中に溶け出していく。争いを必要としない平和と、病気の裏返しではない健康の原因を、余裕をもって、力強く実践していく。

 そんな時、力となるのは、思考ではなく、直感。観念的な発想ではなく、感覚的な動き。もちろん、その基礎には、理由の要らないハッピー感と、経験から自由でいる経験がある。

 無意識の世界に重たさを備えた人が悲しい出来事を耳にする時、事は複雑に絡み、無責任な原因が、変わりにくさを固めていく。無意識の意思によって、生命力が奪われることも、誰かが犠牲になることも、あってはならないこと。『この国のこれからのために』を自らに重ね、繰り返し触れてみる。

 

65.いつのまにか変わってしまっていた現実。以前とは違って、ずいぶんと軽くなった人。優しさと思いやりが普通の中に溶けている、温かな風景。なんてことはないのに、なぜか嬉しくなってしまう瞬間。ある人の経験が、それに呼応する何人もの人の経験へと繋がり、同じ風を感じて、同じ想いになる。それは、終わりのないハッピーロードとなる。

 喜びって、そのための“何”が無いから喜びなのかもしれない。その全てに理由は要らない。ただ、なんとなく覚える嬉しさと安心が、元気な明日を連れてくる。“いつか、きっと”が、“今、確かに”になる。

 

66.曲がり角で会うのは、新しい人ではなく、何度も会ったことのある人の前とは違う新しさでもいい。出会いを求めてさまようことより、求めなくても出会える日常の方がいい。

 『食の風景』の実践は、人生において、とても大きな出会いだと思う。『原点』の風景も、新しい自分も含め、たくさんの思いがけない人に出会う。新しさは、外には無く、内に在る。自分の中の不調和な原因が癒されるだけでも、新しい風景を創る道ができる。『心の風景』は、その役を喜んで担う。

 いつ、どこにいても、滞りをつくらず、結果にぶつからずに歩み続けるだけでも、それ自体が新しさの創造であり、出会いそのものだと思う。自分って、思っているよりずっと大きいものだから。

 

67.ただ真剣でいれば、普通にできることが増えていく(という自覚も無くスムーズに事が流れていく)。

 頑張ってできることの多くは頑張らなきゃできないことだから、頑張れなくなった時、当然それはできなくなる。それが平和や友愛をテーマとする時、その原因づくりが普通にできないことは寂しい。

 共に生きる上で大切なことは、頑張らずに、普通にそれを選び、普通にそれを実践する自分でありたい。未来へ繋ぐ想い(原因)の大切さも、それを学ぶという低次の発想を離れ、ただ普通にそれを表現する自然体の姿でありたい。

 みんなにとっての普通が普通に為される時、そこに理由(結果)は無い。未消化の感情も個人枠の思考もそこには近づけない。普通であることは、始まりも終わりも無いごく普通の自然な世界。それを求め探す時間は、何処にも無い。

 

68.生命(エネルギー)として、人間として、そしてあらゆるテーマにおける基本形として最も大切となる、原因の世界でのエネルギーの価値基準。それをムリ無く学び、体験的に感得しながら真の変化(生命の成長・進化)を経験するMu Energyは、この時代に生きる全ての存在が様々なスタイルで触れ、実体験できる、限り無い原因の営み。

 だから、ただ実践するだけ。否定感情と相性の良い思考型の到達感や、二者択一的な頑張りなどはそこには無いから、形を創る形無き原因のエネルギーの性質だけが全ての基本となり、全ての材料となる。それは社会を創り、時代を支え、あらゆる出来事や形ある世界の元となって多次元的に働き続ける。

 そのことを無視して生きることは誰もしてはならない。だって、その原因は、身体活動(時間)の元となる生命のこと。原因の成長無しに人間を生きることは、生命世界の自然な営みへの抵抗であり、魂の無い形だけの(中身の無い)人間を意味するから。

 どんな現実(現象、関係性etc.)でも、そこに在るのは、そこへと繋がるそれまでのいくつもの原因が多次元的な力となって創り出した、結果(現実)という名の次なる原因。そのひとつひとつは、単にそれまでの原因に呼応したに過ぎないもう一つの原因。そのシンプルな真実から離れた時、人間は、問題事の多い世界でその処理に明け暮れ、形ある結果にだけ喜びを覚えるという、原因にそれが無い“裏返しの喜び”を望むスタイルを普通のことにしてしまう。それは人間の退化(退廃)そのもの。それをそのままに先へと行くことは、何があっても避けなければならない。

 永い時を経て想いを繋ぎ、この時にその時を皆で引き寄せたMu Energy。これまでの時の中に深く染み込んだ負の原因(の影響)を新たな原因で浄化することは想像できない程の経験が必要となるけど、ここに「希望の約束」を実践するという、歴史上これ以上無いタイミングを創り出した皆によって、それは姿を変えていく。何かをすることであることが動き変化するという次元を遥かに超えた原因の世界での確かな活動。そこでの普通は、ただ力強い原因でいて、現象世界の先の風景にそれを具現化させるという、思考世界の理解を寄せ付けない生命源の仕事。あらゆる出来事の元となる原因の連なりがそれによって調整され、未来には残せない負の歴史とそのエネルギーが、その原因の深くから浄化され、崩れ出し、居場所を失くしていく。無自覚のまま負の連鎖を支え続けようとする存在たちも、ME的な好転反応を経験する。

 長い間普通とされてきた歪(異常)な普通が本来の在るべき普通へと変化していくわけだから、当然様々な場所で、思いがけない厳しい状況や展開が生じる。例えどこまでも繰り返しそうであっても、どこまでも繰り返しそれを新たな原因にして、皆で全体の変化に乗る。誰もMu Energyにブレーキをかけることは出来ない。だって、全ての存在がこのタイミングの中にいて、全ての出来事が、すでに“そうである”原因の世界での確認作業だから。エネルギーの意思が主導権を握る原因の仕事とはそういうもの。大勢の生命たちがそのために身体を持ち、次々と連繋の時を生きている。

 「希望の約束」は、全ての時代の全ての生命たちの望み。原因の世界でのエネルギーの価値基準の働きによって、それは普通に中に溶ける。(by 無有 11/11 2011