心と感性

 

1)大切なことを考えている時、本当は何が大切か分からない中にいて、その不安から逃げるようにして、自分にとって都合の良い大切なことを考えているだけ、ということは多い。良いことをしようとする時、それは単にそれを好むからそうするのであり、良くないことをする自分を嫌うという、多分に個人的な良いこととなっていることは多い。

 つまり、大切なことも良いことも、その多くが、人の価値判断に影響を与える世間の常識や環境(時代背景)が変われば、容易にその姿を変えてしまう程、脆弱で無責任なものであるということ。それは、大切なものを未来に繋ぐという、その想いまでが、個の経験枠に左右された多種多様なものになってしまい、意識することで為される良いことに、何をもってそれは良いことなのか、という心ある観察が付き添えなくなることを表している。

 その由々しい事実。心や精神をテーマに言葉を扱う人は、誰よりもその在るべき姿を自らが実践し、表現することである。

 

2)私たちは皆、この地上で人間として生きているが、その手前では、この地球に住む全ての存在たちと同様、生命を生きるという根源的な生の基本形を、身体表現の大切な要素とする。それを元に育まれ、成長するものは皆、友愛と調和をあたり前とするので、頭を働かせるまでもなく、互いにとって、みんなにとって大切なことが形になっていく。争いや衝突の原因も知らず、それゆえ、それらが生じる時を経験することはない。

 しかし、その普通を実践することより、理解することに重きを置いていては、何をしても、何にもならない。生命を生きることの理解より、生命を生きていれば持てない考え、出来ない行為を自分から外し、その上での体験を初期段階の理解として、そうである普通の実践を人間時間に重ねていく。

 そのための材料は、「無有日記」の中の随所にある。不公正や不健全な風景をその気もなく支えてしまう、それと同質の原因が少しでも自分の中にあれば、それをそのままにできる生き方を、生命は望まない。嘆きも苦しみも、その原因を生命は知らない。

 

3)人は、経験したことを元に、その時々の体験を知識と知恵に変え、思考を使って、それらをより良い人生の道具にする。ただ多くの場合のそれは、他者を隔てた差別や優越と繋がる「いかに生きるか?」のためであり、「どんな自分が(を)生きるか?」という、生命としての人生をありのままに生きる、人間本来の姿からは程遠いものである。

 結果を重視する生き方は、体裁と建て前に燃料を注ぎ、自分にではなく人に正直でいようとして嘘を覚え、心を言葉で扱う偽善にも無感覚になる。そして、世間的に良い人でいられる自分に安心し、変わるべき世間の必要性を放棄する。

 知識や経験から自由でいる原因を普通とする生き方は、それ自体が人間らしさの燃料となり、心のままに想いを繋ぎ、次(の時)との融合を重ね、言葉や行為になろうとする内なる真実がさりげなく時を癒していく。そして、不安の裏返しではない安心で、縁ある風景を包み、それを望ましい未来の原因にする。

 生命にとっての経験は、いつの時も、残すものではなく、創るもの。形ある結果の違いを通して覚える変化ではなく、ただ原因でい続け、ふと気づけばそれまでとの違いを覚える、変化に乗ることの大切さ。人間時間は、全てとの結びつきを望む、生命としてのそれでありたい。

 

4)自由な思考でいろいろなことを表現することだけに使われる頭は、思考を自由にさせる中で表現されることの脇役でいられる頭を知らない。新しく何かを作り出したり、問題処理に能力を発揮したりする頭であるが、その何かの質や方向性を手前でキャッチしたり、問題が生じない路線を未然に生み出したりする際の頭は、それとは違う。

 それぞれの後者の働きをメインとする頭が活躍すれば、人の心が辛くなる物や形が、人間を通して作られることはない。対処しなければならない事にやむなく頭を使わざるを得ない時もあるが、それを作り出さない原因でいることに頭が使われることの意味は何より大きい。

 思考は、生命としてのそれであれば、それは頭から始まらず、頭を通る。常に原因でいて、頭(思考)は自由になる。脳を充分に働かせている時のその状態は、理由の要らない平和の大切な要素となり、生かし生かされる優しい風景をさりげなく支える。

 人間は、考える力を持つから人間なのではなく、考えるまでもない時間(原因)の質を高めるから、人間でいられる。思考を自由にさせる普通の中で、真の自由と創造の時を、頭は経験する。

 

5)人は皆、苦しみとは無縁でありたいと願う。他者が苦しむ姿を見るのも、知るのも辛い。大勢でそれを願えば、みんながそのようになれるとある人は言う。歌や映像にして、それを伝えようとする人もいる。

 しかし、そうではない現実。それは、歌も映像も、教えも評論も、その多くが、苦しんでいる人たちの存在を前提に作られ、発信されているから。そこに医療や経済までが加わろうとするから、人の苦しみは慢性化し、それをどうにかしようと、心無い人の嘘が元気に活動することになる。

 人助けが、行為から始まり、それが結果として人の記憶に残りやすいものであれば、助けられた人は、その立場でいる原因をそのままにさせられ、苦しみは、時を越えても続く、終わりのないものになる。人が嬉しいのは、誰もが皆、苦しみの原因から離れていられること。それを共有できない存在たちが、ずる賢く苦しみの風景を抑え込み、更なる負の原因を振り撒きながら、良い人でい続けようとする。

 その象徴は、愛情の無い(人が苦しむのを本心が喜ぶ)人が歌う愛の歌であり、差別心を固めた(期間限定の価値観を巧く利用する)人が書く、真を問う文章である。それらを通して伝わる、残忍で狡猾な本性に、人の感情は刺激され、思考は操られていく。

 苦しみの原因を執拗に作り出そうとする存在たちが、最も嫌い、その力を失くすことになる、何の裏返しでもない安心と余裕、健康と平和。さりげなくその原因でい続ける。

 

6)食べ物が腐ると、降って湧いたように虫が集まる。蘇生型の微生物が活躍できる環境であれば、同じようにはならないが、そうではない腐敗菌が働けば、有害物質を媒介とする負の絡みが繰り広げられる。どこから虫が来たかを人間は知り得ることは出来ない。

 身体感覚(認識)のあらゆる概念を取り除けば、人間という存在を存在させている次元と接点を持ち得る原因の世界には、蘇生型と腐敗型の性質の粒子(エネルギー)があたり前に存在し、多種多様の働きを日々行っていることを体験的に知る。脳本来の仕事が為されているかどうかによってもその体験の質は異なるが、理由の分からない喜びや辛さを感じる時のように、把握しにくいその原因の影響の中で、人は、日常的に生命力を高めたり、弱めたり(高めさせられたり、弱めさせられたり)を経験している。

 そんな経験を通して、原因の大切さを遠ざけ、分かり得ないことは全否定する人の、その生命の周波数が腐敗型であることを、そうではない人は感覚的に理解することになる。その原因が腐敗菌のような人たちは、心臓が何で動いているかの理由には近づこうとはしない。それ程、その本質が隠せなくなることを怖れている。

 

7)知ることの変化は、知らされている、知るまでもないことと、知らされていない、知るべきことを知ることで、その機会を手にする。知ることの成長は、知らされていることの背景の思惑と、知らされていないことによる後への影響を観察することで、自然と身に付けていく。

 知る知らないの違いによって、優劣や善悪の価値感情が動く時、そこには決まって、知られては困る性質を隠し持つ存在の妙な影響力がある。知ることより、感じることで生まれる空間の大切さを本能的に知る人は、そんな世界には入れず、そうだからこそ、知るべきことをその時に知り、知るまでもないことから自由でいて、健全な感性と責任ある直感を育み続ける。そこでの知るは、優しさそのものの世界と繋がる、生命としての思考である。

 送り手の本質が脇に置かれた情報のように、知ることが、全く知らないことと同一であることは多い。知らないことで自分らしくいられた時が、知り得たあることを、次への大きな力に変えることもある。知ることは、知らないでいられる人が経験する、変化そのものである。

 

8)どんな人も、初めて人間を経験する時がある。現代社会での知覚できる様相とその空気感、そしてその感覚の元となる要素は、その時がどんなかで、様々にその影響を受けるものだが、多くの場合のそれが荒んだ時代背景でのことであるため、世の本質が充分感得されていることは珍しい。

 突き詰めて言うと、人の命と人生の奪い合いばかりの重苦しく不穏な歴史が始まろうとしていた遠い昔の、人口がまだ僅か数万人程だった時代に初めて人間を経験し、後への(未来数千年分の)恐ろしく強大な負の影響の原因となるものをそこで作り出していた存在たちは、現代人が知り得る限りの災い全ての元凶と言ってよい。歴史上の惨劇も、苦しみだけの記憶も、元を辿れば、人間とは思えない彼らの本性に行き着き、後に続く同質の存在たちによって増幅・拡大され続けたその本性と凶悪な無意識の力は、永い年月での迫害と差別(追放)の燃料源となっている。

 人間味の無い歴史の土台が作られてしまっては、いつ、どんな時に生を持っても、人は、人間として生きることが難しくなる。だがしかし、この「心と感性」に触れている人たちの現代社会での知覚(理解)は、世の常識とされるものとはどこかが違い、ここに居ることの意味も、身体時間における経験も、ずっとそのままだった内なる意思の切なる具現化であることを知ると思う。

 不穏な歴史の始まりの時よりもずっと前に人間を経験し、その時も、その後もみんなで繋いだ、ありのままの優しさと喜び。そして、それに呼応し、共に歩いた人たちの真摯な姿勢。すでにこの時代に届いていた、あの時その時の確かな想いが、かつて生命としての人間を生きた人たちをここに案内する。心の自由と人間らしさを、理由も分からず失い(潰され)かけても、より元気に、快活になれる原因の時を支え合い、負の連鎖を砕きながら、繰り返すことのない真の歴史を創っていく。この今は、あの時の風の行方である。

 

9)その人が優しい人を演じるのを得意とするのは、それを不自然に感じる心が無いから。心が無いから、覚えた優しい行為が心になり、人を思う気持ちや言葉が心になる。

 心が無いと、得することに頭を使うことが上手くなり、そのために学び、行動する。思考で、心の世界まで知識の域に収め、その知識で、心ある自分を巧く生きる。心が無いから、それは正しいこと。正しいから、自信を持って良い人でいられる。

 心無い人は、心ある人を心無い人に変身させるのが巧い。同じようには出来ない心ある人の姿勢を違和感(不快感)として扱い、その素朴な言葉と行為を好ましくないものとして評価する。心ある人は、心無い思考世界に付き合わされ、不得意なことに悩まされながら、心無い人になる。

 その人が、自分が心の無い人間であることに気づけないのは、人の心に反応することが出来ないから。自分がそうであることの理由を奥に閉じ込め、そうではない自分を演じることでしか生きていけないから。

 心が無いというのは、生命本来の意思が無いということ。作り物の魂で、頭(知識)だけの人間を生きるということ。その責任は、いつも結果(格好)だから、責任ある原因(心)の前で、異様な姿(人間とは思えない本性)が顕になる。

 

10)人間本来の世界には無い、人を病ませようとする意思が、思考の域にまで上がる(言動、表情に表れる)ことを何より怖れるそうである人は、それを感知されないために、見た目では全く分からない無意識の力で、巧みにそれを行う。

 その力が何らかの理由で充分なものにならず、不調の原因が本来へと動き出した時、その影響を受けていた人は、体調が良くなるという経験をする。つまり、病気の多くは、経験しなくてもいい経験の原因を知らないうちに染み込まされたことでそうなってしまっている不自然な状態であるということ。

 その本性で密に繋がる、人を病気にさせる人と、人の病気を治そうとする人。彼らは、「人は病気になるもの」の考えに守られ、病気にならなくてもいい原因を高める人の生き方を真っ先に潰そうと躍起になる。

自然発生的に経験し、それへの対処(医療的処置)を必要とするけがや病気もあるが、多くの場合のそれは、本来であれば、要らない経験である。そのことは、誰もが知るべき体験的知識の普通である。

(不安や怖れで思うように事が進められない時、その原因を自分の中に観ることも大切だが、時に、事が進むことで変わり出す風景を怖れ、不安になる存在の、その重たい価値感情と要らない融合をさせられているためにそうなっている、ということもある)

 

11)否定感情から自由でいる人の話や仕草に訳もなく不安を覚える人は、その感情を燃料に攻撃的な姿勢を強め、相手の心の自由を奪い取ろうとする。その理由は、自らの無意識が否定感情そのものであるゆえの、人間本来への抵抗。心ある柔らかな感性は、彼らにとって許し難い存在となる。

 否定感情を大事に隠し持つ人は、生命としての原因を持たないので、頭は忙しく、変化を嫌う。その原因の無さは、柔らかな人の動きを簡単に止め、鈍ったその原因の中に、重たい否定感情を流し込む。それは、感性豊かな人が生きにくさを経験する、最大の原因となる。

 否定感情を普通とする人が好む世界は、不自然で不健全な重たい風景。自然界も支配の対象となり、自然体で生きる人が辛くなる物や形を好んで作り出す。その理由は、姿は人間でも、その中には人間性が備わっていない、生命本来への抵抗。その異常な性質(生命の周波数)の力によって、地球自然界は生命力を失くす。

 自然界のどこにも、否定感情は無い。そこに生きる生命たち全てに、否定感情は要らない。人間が、その例外であるはずはない。否定感情は、元々は無かった(外から持ち込まれた)地球の異物。生命本来を生きる身体時間で、その居場所を無くさせ、否定感情が全く無かった時代との融合を密に、人間の、生命としての真の進化の再スタートの時を創造する。by 無有 6/25 2015

 

 

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