LED感染(1)

 

1.太陽の光は、活力を生み出し、月の明かりは、安心を届ける。人間が使う光は、それらの愛情と重なり合うものでありたい。

 自然界の優しさとその力には、個の思惑も、直線的な思考も通用しない。ただそのままでいて生命は生かされ、時は癒される。そこでの人間発の明かりは、その自然界が笑顔になるものでありたい。

 

2.敏感な感覚と繊細な神経を持つ虫や動物がLEDのライトを避けたがるのは、紫外線云々の低次の理由を大きく超えた、生命としての純粋な意思。これからもずっと、これまでのように自分たちの本来の生命活動を大切にしたいから、それを共有できない原因の存在からは離れることになる。

 形ある現象から何かを学ぶ時、学び手本位では、何も学ばないと同じ。動物たちの気持ちになること。自然界の意思を感じること。動物たちは本能的にそれを知るから、LEDの本質にも反応し、そのままでいようとする。

 

3.光は、熱(温かさ)とセットで、その存在でいられるもの。そこには光ならではの活動が為され、様々な生命体も、それにより、共に生きることになる。光は、暗闇の中での安心であり、その温もりは、優しさである。光は、あらゆる生命体にとって、いつの時も喜びである。

 

4.明かりは、元来、温もりと安心を覚えるもの。その役を全く果たしていない、突き刺すような冷たさと要らない不安を抱かせるLEDは、明かりの基本を持ち合わせない異様な世界。夜道で、LEDのライトに出会す時、細胞の緊張と抵抗が思わず目を閉じさせ、危なさを経験する。明かりは、自然な明かりがいい。

 

5.省エネを考えるのなら、良いものを長く使うことを皆で心がけ、消費経済のサイクルをゆったりとしたものにする。求めさせられているものに敏感になるだけでも、廻り回って全体の消費電力は大幅に減り、必要とさせられているものから離れるだけでも、生産のムリ・ムラ(ムダ)が無くなっていく。

 LED化は、良いものに心(細胞)が反応できなくなり、要らないものや経験しなくてもいいもので社会が溢れてしまう原因となるものである。省エネは、健康的な価値観と健全な暮らしの中に普通に在るもので、求めすぎず足ることを知り、体を動かし自然と親しむ、それだけでも、LED化の何百、何千倍もの効果を生むことになる。何でもないあたり前の姿勢である。

 

6.使いたいだけ電気を使う姿勢をそのままに、昼夜休み無く営業するコンビ二の、「節電のため」「地球にやさしく」とLEDを使う偽善。その気があれば、その前に他にすることが…。何より転写しやすい性質のものを扱う立場とすれば、自動販売機(飲料水)にはLEDを使う気にはなれないはずなのに、「省エネ」「環境保全」と独善(欺瞞)に走る。その気があれば、設置を減らすことも…。

 ポーズは、どこまで行ってもポーズの域。本心はそうではない。そんな存在たちを活躍させるLED。不気味で冷たく、愛情の無い光が、同質の場所で妙にフィットする。

 

7.LEDが伝えられてから、こんなところにまで、と今まで無かったところにまでしつこいぐらいLEDが使われ出し、当初の謳い文句がその大量使用で覆され、まるで侵食されているような煩さがある。何のためのLED? 向かうところはどこで、そこへとどんな原因を連ねるのだろう?

 結局、社会全体の電力消費量は増え続け(エコに逆行)、人々は慢性的に疲れを溜め、環境は気味悪くなっている。思考型の負の原因のトリックは、一度かかったら外せなくなる。

 

8.植物の生育に影響を及ぼすLED(夜間照射)。送り手は、そうならないよう研究する。目(網膜)への悪影響があるLED(青色成分)。送り手は、そうならないよう工夫を促す。LEDの光に触れ続け、体が疲れやすく、気力が出なくなる人がいる。送り手は、それは(健全な)少数派だから無視する。

 心身や環境が、影響を受けていると分からないくらい影響を受けるLED。その正体は、問題事を作り出す世界とその原因の性質を同じくする、招病上手な悪徳照人のようである。

 

9.環境のことを大切にするのであれば、環境に優しい自分でいるか、今日までの生活の中身を観察し、然るべき行動をするだけで充分である。

 動物たちの苦痛は、自然界(地球環境)が最も辛くなる現実だから、クローゼットに毛皮やレザーの衣類、ファー等があれば、その愚かさを知り、意識を変えていく。肉料理大好きも、それを支える状況が繋がるのは、環境破壊である。

 IHで料理し、電子レンジ食品を普通に食べていれば、それは生命力の無い物や価値観(感情)が循環するだけでなく、蘇生型の微生物が住めなくなる不健康な空間を広げることにも繋がるので、そこから離れ、生きた(体の中で栄養になる)食物の摂取こそ環境保護の基本材料であることを知り、実践する。車や家電、電子機器など、新しいものを執拗に求める自分がいれば、それこそ恐い程環境を破壊していることとなるので、その全ての原因を修正することである。

 新しい製品に、省エネや環境への配慮が施されているとしても、製造プロセスでの環境負荷を考えれば、長持ちする物には比べ物にならず、更なる電磁波が放出され続けることも、環境は辛いものがある。スマートフォン画面をいつも見続けている人の「環境に優しく」も、偽善と同一である。そんな中、真に環境を大切にする人は、LED仕様が環境対策であるという大きな欺瞞を、体験的に知ることになる。

 

10.生命力が少しずつ力を失くしても、その過程を自覚するのは難しい。気力が湧かない時の理由を、その手前で処理することも難しい。ただ、それぞれのその時において確かなのは、体内の水分が、人間の思考(技術)では触れられない次元でその質を変えてしまっているということ。

 心の性質や感性の柔らかさが計測出来ないように、それらに瞬時に反応し得る水分の変化も、人間の知では分かり得ない。心と感性が健全である人ほど、細胞に負担をかけるものに体内の水分が反応する。

 どんなものにも水分は含まれており、皆人間の思考の域には収まらない反応を、LEDを通して生じさせる。それは、原因不明の問題事や心身の不調を引き起こす力にもなり得るもの。飲料水や食べ物はもちろんのこと、LED照明を生命に触れ(浴び)させてはならない。

 

11.水族館の魚たちのストレスは、まさに異常事態である。敏感な種ほど、体の色が変わったり、泳ぐ力を失くしたりし、その理由を理解しようとしない人たちは、命を終えた魚たちを変死扱いする。

 生き物の生命力を弱化させ、神経をヘンにさせるLED照明。(もちろん人間も、健全な感性を持つ人ほどそれを被るが…)人間の欲のために犠牲となる彼らは、海を忘れさせられ、あり得ない負荷をかけられ、生存本能まで異様な物体(光)に支配される。

 植物の悲鳴の比ではない、魚たちの苦痛。海の仲間たちもそれに同調し、悲しみの中にいる。(家での水槽へのLED使用は、魚たちの恐怖の始まりである)

 

12.LEDの照明に敏感に反応し、様々な影響を被ってしまう植物ほど、人間の身体細胞にとってとても重要な仕事をしてくれる貴い生命たちである。それは、この自然界が、いつでもどこでも健康と平和をあたり前とする原因によって成り立っていることの現れであり、そうではない性質のものに覚える感覚は、それを大切にするための意思表示となるものである。

 人間が、不自然なものに反応できなくなってしまう時、すでに多くの動植物もそれに連動し、本来ではなくなっている。敏感さを保ち続けてくれているある種の植物や動物は、言わば、そのことを切に訴え続ける最後の砦である。

 

13.車のLEDライトは、光を大切にする人たちにとって、身が縮むような公害である。どう見てもその光は、攻撃的で威圧感があり、安心・安全とは無縁のように思える。近づくことも、見ることも恐れてしまう車の存在に、気持ちは不安で一杯になる。

 光は、照らした物との間の空間を、自らの性質に見合ったものに変える。遠くからでも多くの物が照らされる車のライト。そのLEDの光は、そこに在る全てに要らない緊張を与え、空間から安心と余裕を奪う。自転車も然り。それらは、不健康と問題事(事故)の原因と繋がるものである。

 

14.さりげなく自然体で心のままに生きている人は、思考による判断の力が弱いので、その責任ある直感が、あたり前にLED照明を遠ざける。自然な感覚を育むこともなく知識世界に住み続ける人は、心による判断が無いに等しいので、その無責任な思考が、好んでLED照明を使用する。

 あまりにさりげなく、自然にオープンになる、その人の原因の風景。もちろん前者は、世を健全にし、人の心を生かそうとする。後者は、世を病ませ、人の心を不自由にさせる。

 

15.市販の物を自由に購入して、簡単に取り付けられ、電球の交換も、業者による修理もムリなく普通に出来る、従来の室内灯。省エネの基本は、自分で簡単に扱えることであり、その後のフォローが自然であることである。そこから大きく離れ、故障したら買い替えなきゃならなくなる、LEDの室内灯。それは、省エネに逆行して心身に負担をかける、重く不健全な材料である。(広がる光の白熱灯には、心が安心する温かさがある。そうではないLEDは、不安の光である)

 

16.植物や動物本来の生命活動を不自然なものにするLEDは、当然人間にも様々に影響を及ぼすものであるが、細胞に取り込まれる食べ物の栄養までがその害を被ると、将来、見た目は普通でも中身は全く異常な状態の体を持つ人や動物が生まれることになる。(科学的根拠(因果関係)の次元を超えるその負の原因は、具体化した時には手遅れである)

 食材を保存する場所(冷蔵庫etc.)にLEDライトが使われているとすれば、それはそのまま、理由の分からない辛さや悲しみの姿の見えない原因となり、心身は少しずつ蝕まれていく。食物を扱う店のショーケースもそう。生命を危ぶませる形無き原因の悪循環は、LEDライトの得意技である。

 

17.感じる人は、そのままでいることの大切さを知るので、そのことを人に分かってもらえたらと思う。感じない人は、それがどこかで望ましいものではないことを知るので、それが正当であると人に分からせようとする。とかく感じないことは意見になりやすく、感じることは意見になりにくい。

 情報伝達の速さや量に比重が置かれ、その質や原因への責任が無視されるネット世界。LED照明に違和感(辛さ、気味悪さ)を感じる人たちの健全さが、そこで大切にされることは難しい。

 

18.防犯や治安のためであれば、街灯にLED照明は使用できない。

 安心を求める不安な親の、行為としての優しさに、子供の精神は不安定になり、安心そのものの何でもない親の優しさに、子供の心は健全で元気になる。LED照明の性質は前者と重なり、安心から縁遠い人に支持され、行為としての自己満足を演出する。そして、問題事(犯罪、事故)に繋がる重たい原因を、人(子供)の精神に植え付ける。(優しい人は、その優しさがさりげない行為となり、そうでない人は、優しい(とされる)行為でそうあろうとする)

 街灯は、人が人として、共に時や空間を癒す際の、その支え役でいてくれる安心の明かりでありたい。その中で、人は、自らが安心そのものでいる責任を実践する。

(街灯のLED化が省エネや環境のためであるとすれば、それこそ形を持たないその影響力を無視する、全くの見当違いである)

 

19.新しく開業したお店に行ってみたけど、照明がLEDであったためにがっかりし(心身が拒否し)、二度とそこには行けなくなったという人は多い。IHand 電子レンジ)で調理するのを知らずに入ったカフェ・レストランで、体調を崩す人もいる。彼らは皆、平和な社会と健康的な暮らしの、その貴い原因のままでいる普通の人たち。LEDIHも、健全な生活環境を妨げる、不気味な不純物。争いや不健康の原因でいる存在(の本性)を燃料に、その居場所を維持し続けようとする。

 

20.感じるままに本来を生きる純粋な動物たちは、LEDの照明に危機感を覚え、逃げようにも逃げられない中で、やむ無く命を削られていく。植物たちは、装飾や夜間の照明に使われるその光を浴びさせられ、これまでの永い歴史の中で最も辛い時を経験する。それを知る、心柔らかな人たちは、LEDのその重たい原因の風景に覆われ、動きにくく、生きにくい時を過ごす。

 純粋さとは融合できないLED。それは、純粋な生命たちを育む地球環境の大きな悲しみである。

 

21.環境に全く優しくないLED。環境は、目に入り、目に映る、自然の世界。LEDは、その目には優しくないわけだから、環境の中には在ってはならない(居られない)ものとなる。それは、誰もが分かる普通のこと。

 環境に全く優しくないLED。環境の主人公は、そこに生きる動物たち。LEDは、その動物の最小となる虫たちに嫌われるわけだから、環境が怖れる存在となる。それは、誰もが分かる普通のこと。

 環境に全く優しくないLED。環境は、太陽に生かされ、共に生かし合う生命たちの自然な営み。LEDには、その生かし合う心が無いわけだから、在り続けようとする意図が環境のためではないことが分かる。それは、誰もが分かる普通のこと。LEDは、環境への配慮が全く無い擬い物である。

 

22.物を大事にし、素朴な感覚をそのままに自然体で生きる人は、それ自体が環境に優しい暮らしとなるので、不自然さばかりが伝わるLEDの危うさに敏感に反応する。物の大事の仕方が、自然界が安心できない身勝手なものである人は、その自覚もなく環境に負荷をかける暮らしを常とするので、LEDには何も感じず、彼らにとってのそれは良いものとなる。

 本能的にその原因の嘘を力で見えなくさせようとする存在たちの危うさ。そもそも、LED化を推進すること自体、その原因の性質全てが出来すぎた嘘である。

 

23.電気代が得すると言われても、照明自体に温もりも優しさも無いわけだから、気持ちが損した気になる。少しのお金より、たくさんの健康を大切にしたいから、不自然・不健康な光には触れたくない。健康でいると、自ずと支出が抑えられるので、それだけでも相当な省エネに繋がる。

 

24.要らないはずのものがいつのまにか無くてはならないものになってしまった時、その代償は大きい。それが細胞や生命体に影響するものである時、言いようのない辛さは時代を連ねて続き、未来に大きな負の遺産を残すことになる。

 邪な思惑とその負の原因の働きかけが、IHの時を遥かに上回るLED。どこに居てもLEDのライトを浴びざるを得なくなる時、未来への責任ある想いは力を無くし、人は、本来に戻れなくなる原因を蓄積させることになる。

 

25.白熱灯や蛍光灯で何ら問題が無かったのは、人間の普通感覚に充分にフィットするユニットの耐久性と電球の寿命があったから。そして、子供でも扱える使いやすさ。

 だから、それよりもずっと長く交換しなくてもいいという理由を、人は特に長所とは思わない。電球は、空間を共にする友人のよう。その感覚は、そのまま環境に優しくなれる、人としての普通。何かと負担増になるLED照明は、家庭的な空間には最も相応しくない物である。

 

26.電気店やスーパーの家庭用品売り場に行くと、LEDばかりになっている。(良心的な店はそうではないが…)それだけ、嘘と欺瞞が大きいのだろう。その力の入り方は、人間らしさゼロの証である。

 生きる上での選択の自由。その質が人間本来を基に維持されることの大切さ。それを抑え込み、力無いものにしようとする存在の病的な恐怖心は、隙を見て、凶暴な権勢に変わる。

 その全てが、心ある人たちが経験しなくてもいい経験である。要らないものは、必要とさせられるものだけではなく、それを促そうとする存在の、内に秘めた強力な否定感情である。

 

27.売りたい側の、異様な思惑。買わなくてもいいと思える側の、素朴な思い。

 LEDが普及しないのは、人としての普通が、その普通ではないものとの融合から離れていようとするから。しかし、権力と繋がる売りたい側は、それを許さない。利害関係で結びつく会社を巻き込み、力で押し、人々の普通を壊していく。

 LED化は、世にも珍しい、生命にとっての悪事が許されてしまう社会(現象)の模範例である。

 

28.何も感じない(分からない)ことが1つの個性であり、価値観(となるもの)であるとすれば、せめてその域に留まっていて欲しいのだが、利益優先という個人主義の空気が蔓延すると、人間本来の姿勢は簡単に押し潰され、健全な感性(違和感)と健康的な思考を軽んじる存在の思惑が妙な力を持つようになる。

 人間には、生きる原因の質を成長させる、生命としての人間と、それを無視する、人間だけを生きる人間の二通りある。地球が嬉しいのは、もちろん普通の人間である前者である。

 

29.人は、自らの在り様が性分であり本質であるから、「私は良いことをしています」なんてことはまず口にすることはない。優しさも、それを普通とする人は、その手前の原因がどこまでも普通なので、意識がそこに向くこともない。

 電車のドアやスーパーの玄関に貼ってある、「環境に優しいLEDを使用しています」のシール。実際にはそうではない(環境に良いことではない)証である。環境への優しさを人と共有するのであれば、「LEDは使用していません」だけでいい。

 

30.電子レンジで温めた水を冷まして植物に与えると、それは枯れてしまう。IHで調理すると、生命源と繋がる細胞の意思が著しく抑えられてしまい、心身のバランス(代謝、免疫)は崩れる。

 LEDの光を浴びるとどうなるか? 心柔らかな人は、感性を潰されて元気を失くし、心を持たない重たい人は、妙に元気になる。自然界と融合できないものは、自然体でいる人を生きにくくさせる。心を持たない人は、人の心を怖れ、あの手この手でその動きを抑え込もうとする。

 

31.不安を燃料に(不安の裏返しの頑張りで)何かを求め、どこかへ向かおうとする人は、傍から見ても様々な性質の感情が漏れ出しているのを分かるが、不安をしつこく固めてそれを無意識の奥に幾層にも重ねて沈めている人は、身を繕うことも体裁を整えることも上手く、人知れず人を不安にさせて(人の不安を操って)、思い通りに個の欲求を満たそうとする。

 そんな彼らが数字(データ)や理想を前面に事(LED化)を進めようとする時、その心の無さによる不穏な原因により、人は力ある嘘に付き合わされ、そこに在る不都合な真実を知る力を無くす。

 その不安の塊は、澄んだ水の流れる川底でその姿を次第に変える、粘土質の堆積物。「LED感染」は、人の変化・成長を阻むその滞りを砕き、浮き上がらせる仕事をする。知るべき事実と知り得る(知らされる)事実との違いは大きい。

 

32.どんな人が、どんな姿勢でLED化に関わっているのだろう? やむ無くそうである人。何よりそれを大切にする人。よく分からない人。

 体の中で栄養にならない電子レンジ食品を食べ続けたり、IHを使って淹れたコーヒーを飲み続けたりしても、全く平気な人がいる。差別心や嫉妬心を強く持ち続けても、心身は何も反応せず、むしろそのことが元気の源になる人もいる。そして、そのどれも辛くなる人がいる。

 感性の様が際立つLEDは、その人の思考や感情の奥に潜む本当の姿(本質)を顕にする。それへの鈍さは、鈍くさせられた側のそれであって欲しい。

 

33.LED照明の危うさが分からない人は、一部屋だけ蛍光灯を残し、買ってきた生野菜や野菜を主とした新鮮な惣菜を2つに分けて、蛍光灯とLEDの二部屋に別々に置いてみる。体の中で仕事をする敏感な野菜ほど反応し、その姿(と味)の変わり様に、LEDの恐さを知り得ることになると思う。(添加物漬けの物は、LEDと同じ細胞を破壊する性質を持つので、そのままである)それでも分からない人の頭は、きっとLEDで出来ているのだろう。

 

34.数十万から数百万年単位での大規模な変化と、その中で数万年単位で生じる小規模な変化。地球規模の変動は、太陽に生かされる地球という巨大な生命体が息づく様であり、その鼓動による、年に数cm程動く大地のいろいろな場所の変化によってもたらされるものである。(年1cmでも、1万年で100m移動する)

 当然そのことで気候も影響され(太陽の動きへの反応は大きい)、現在の温暖化とされる様も、地球の自然な営みの、自然な現象となる。つまり、地球温暖化を防止するためにLED照明を使用するということそのものが全くつじつまが合わず、二酸化炭素の削減においても、地球のこと(望み)を無視した人間主体であってはならないということ。

 もちろん、自然界と共に生きる上で、温室効果ガスの排出量を減らすことは大切である。そのために、電力(電気)を使いたいだけ使う姿勢を修正する。要らないものを作らず、要らない時間に身体(電気)を休める。地球大自然の未来に、LEDという負の原因を残すことはあってはならない。

 

35.LED照明に違和感を覚える人に対する、全くそれに違和感を覚えない人の怖れは強烈である。それは、自らの存在の性質が他者に伝わってしまうことを意味するゆえ、そうはならないよう、LED化の正当性を徹底的に言葉にする。そして、より一層、自らの本性の危うさを顕にする。

 みんなが使うものや触れるものが、権威や情報量で下支えされる時、その殆どは、必要とさせられている(要らない)ものである。その権威と情報量が並外れているLED。そのことが意味するのは、人間社会だけでなく、自然(地球)環境にとってもそれは要らないものであるということ。常識の出発点は、いつの時も健全な感性である。

 

36.LED照明が当たると、そこに在る物は皆、生命が育まれない(細胞活動が異常となる)LED品になる。LED大好きという人は例外だが、それに何らかの不自然さを覚える人は、LEDで照らされた食品や飲料水を摂るのは控えた方がいい。LEDの光を受けて自然界の異物となったそれらは、体の中でも異物となる。

 LED照明に当たっていると、人は、不健全さがあたり前(LED人)となる。LED大好きという人は例外だが、それに何らかの他との不調和感を覚える人は、LEDで照らされた場所に居続けることは控えた方がいい。LEDの光に脳が馴染んでしまったら、それに反応する健全で人間らしい感性も無くなってしまう。

LED照明のスーパーやドラッグストアの食品は、普通の人が摂取してはならないものへと変質しているので(成分は同じでも、その働きかけの原因が全く異なるので)、そうではない店を利用する。LED大好きという人は、本質のルーツが同質なので、何ら問題はない)

 

37.自然界の調和のある風景を、自らの生命の意思で、健気に、ありのままに支え続ける植物たち。それを感じれば、木の幹や枝にLEDのライトを巻き付けて装飾を演出することはあり得ない。楽しみや喜びの質が低次のそれは、「みんなの喜びのため」と、内に秘めた破壊願望を形にする。そのままそれは、環境破壊へと繋がり行くものである。

 

38.光に鈍感でいるというのは、人として、通常はあり得ないこと。光に対する普通感覚を持つ人は、夜間、車を運転する時、眩し過ぎるLEDライトの光に運転しにくさを覚え、日々危なさを経験する。目に大きな負担をかけ、注意力を低下させるその光は、経験しなくてもいい問題事(事故)に人を近づかせ、そこから離れようとする緊張と怖れを生み出し続ける。交通環境を悪化させるだけのLEDの光に、夜の街が、不安と恐怖心のそれへと様変わりする。

 

39.人間の感覚器官の中で、目の働きが何より大事なのは、誰もが知るところである。それゆえに、目に優しい色が活躍し、目に負担をかけない光が人々の暮らしを支えて来たこれまでがある。

 人間よりはるかに敏感な感覚を持つ動物たちの目は、光の色や性質によって影響を受ける場所も大きく、彼らの目の安心は、自然界の健康な姿そのものである。

 そんなことへの理解が全く無い中で生まれた、LED照明。目に優しくないその光が存在すること自体、人間の欲の暴走と愚かさの具体化(象徴)である。人間にも動物にも、生命として決して馴れてはならない光がある。

 

40.ビジネスチャンスは、お金。体に良くないものでも、将来に負の影響を及ぼすものでも、売れて、お金になれば、OKとなる。それを、心無い権威と権力が保障する。

 LEDは莫大なお金を生み、作り手や送り手に利益をもたらす。指導者もそれを喜び、未来を忘れる。一気に後退した、人の心と、望むべく社会の変化。未来地球のためにも、ビジネスチャンスの基本要素に、自然界の意思と人間性を組み入れてもらいたい。

 

41.生命にとって大切なことやものをそのまま未来に繋ぐ(残す)という、人間には、それを意識するまでもなく淡々と実践すべく重要な責任がある。それは、思考や感情の健全な働きを支える心の意思でもあり、人は皆心ある想いを普通とすることの現れでもある。何気ない必要性も方向性もありのままで、そのための比較・対象(競争)といったプロセスを寄せ付けない望むべく選択(真の維持)が自然に為される。

 そこでは、理由の要らない喜びが共有され、大切なこと(もの)が大切にされる理由も存在しない。頭は心の脇役なので、その基本が侵されるものが生まれることもない。

 そんな人間の姿に安心する、地球に生きる動物たちとそれを支える太陽の光。LEDの世界は、その原因の意思も含め、その普通で自然な生命の営みとは融合できない、この自然界には要らないものである。心と細胞の反応がその理由であり、その事実を共有できない存在の心の無さが、もう1つの理由である。生命の選択に、LEDは無い。

 

42.知らずうちに本来の在り様が崩され、そのことがずっと先の未来にまで影響することになるLED。それは、健全さを嫌う存在が、健全さを無くさせられた大勢の人たちを、誰にも気づかれずに危ない世界(命の犠牲を強いられる状況)へと引き込んで行った、その昔の重苦しい風景の原因のそれとよく似ている。

 事の本質との接点を避けたがる情報世界に、心ある人たちの声は無い(届かない)。人として、何より大切な未来への責任ある原因を忘れてはならない。

 

43.自然界の自然な音や生命たちの声。そこにLEDを持ち込めば、自然な生(営み)を破壊する意思を持つそれによって、自然は不自然となる。耳に届く音は変わり、肌に感じる自然界の息吹きも元気の無いものになる。そして、無自覚に、そこに居る生命たちを追い詰め、環境破壊を行う。

 それは、家の中でも職場(学校)でも同じ。目や耳の働きの、その細胞の意思のところから生じる不自然さにより、優しさを普通とする人ほど、自然なやりとりが難しくなっていく。いろいろな物に使われ出しているLED照明。それは、細胞たちの苦難の時を意味する。

 

44.自分の中に在る未来への原因が、理由の要らないみんなの喜びのそれである時、要らないものとして、LEDは姿を消す。そうではなく、不穏な原因がそこに居座る時、その無責任さがLEDを支える。

 何でもないことである。LEDとの関わりは、自分の本当の姿を顕にし、次にどんな自分(原因)を選択するかという、新たな機会の1つの材料である。「本心と安心」でも書いているように、それは、その意識もなく人を病ませる存在の格好の道具となるものである。

LED化に力を入れる指導者(権力者)は、未来が最も嫌がる負の原因である)

 

45.食品を異物にするだけでなく、LEDは、衣料品や日用品まで、不自然で異様なものにする。敏感な人は、その色の変わり具合や、手にした時(触れた時)の感触の違いをすかさず感じ取る。生活空間が健康的である程、その異質振りは際立ち、人間らしさを応援できない物体となる。

 LEDの光に何日も照らされていると、衣類も、帽子も靴も、独特の空気感を持ち、蛍光灯の場所では不似合いとなって、要らない緊張を心身に経験させる。LEDがスポット照明として使われている場所の日用品となると、柔らかな家庭環境では、妙な負の影響力を備える程の存在感を醸し出す。LEDの光は、照らす物全てを、それまでとは違う性質のものにする力を持つ。

 

46.農作物の作り手は、出来るだけ新鮮なうちに消費者に食べてもらいたいと思う。しかし、LED照明のスーパーに並べられた途端、それらは皆、鮮度が落ちるよりも最悪な、全く違った性質の作物に変わる。

 魚も肉も果物も、味はそれなりのものを出していても、(LED照明を浴び続けるうちに)同質の性質を帯び、同質の負の働きかけをする力を持つ。それは、細胞の世界では実に危うい原因となる、収縮と破壊、停滞と侵食。

 人は、微妙な色(表情)の変わり方や味の違いからでもその危うさを理解するのだが、LEDを好む専門職の人たちは、体験的知識の質が常に個の思考の域なので、どこまでもそれを分かり得る普通を持たない。実に不気味で恐ろしい、LED品ばかりのLED照明の店。食べてもらうことで自らの役を果たす農作物たちが、可哀想。

 

47.心無い専門家は、消費電力やCO2排出量を絡めた環境指数のようなものを導き出し、LED化の良さを訴える。しかし、数値化できない無数、無限の世界がこの世の自然を日々支えていることを彼らは知らない。そして、それらがLED化によって力を失くすことも。

 生命力、気力、心、優しさ、感性、細胞の意思…。数値化できない世界に背を向けることで成り立たせる専門職であってはならない。

 

48.要らない頑張りを強いられても、何の疑問も持たずにそれを良しとして(大事な仕事として)従順に努力し続ける人は、未来の風景や自然環境のことを思うより、自分が仕える人が喜ぶことを喜びとし、感謝も好意も、その意識もなく個人的な関わりの中でのそれとなる。

 それは、未来空間に負荷をかける原因を作り出す、不自然で無責任な在り方。その姿は、LED化が美味しい経営者や企業の喜びを具体化させ、未来の風景の悲しみの下地となる。

 

49.大勢の人たちが、毎日移動手段として利用する、電車やバス。その場所がLEDになれば、健全さを普通とする心柔らかな人たちは、病院への予約チケットをムリやり手渡されることになる。それは、あってはならないこと。

 生きる基本形が頭から始まる人を活躍させ、それが心から始まる人を動きにくくさせる、LED絡みの負の原因の世界。その光を浴び続けさせるということの、その許されない悪質さと、嘘のような無感覚振り。純粋な人の心は、友愛と調和の原因になれないことを悲しむ。

 リラックスできる空間でありたい、電車やバスの中。長距離バスや特急電車(新幹線)がLED化されたら、この国全体が、心疾患の病棟になってしまう。

 

50.結果が嘘でも、原因が本当であれば、何ら問題は生じないが、結果が本当で、原因が嘘だと、その悪影響は計り知れない。LEDはまさにそれで、環境や省エネのためという形ある本当の結果に全くそうではない性質の嘘の原因を引き連れて進行しているため、その恐ろしさは、軽く数百年先の人間や動物たちの生活環境にまで影響を及ぼす程の力を持ち得ている。

 人間は本来、嘘を知らない。原因はいつもありのままであるから、そのままで生命の変化に乗り、様々に形を変えながら、それを次の原因へと繋ぐ。原因が嘘である分、結果を大事にしようとする、作られた本当の世界。生命が喜ぶ真実(本当)は、LEDのどこにも無い。

 

51.環境に優しくできない人は、生活習慣も価値観も不自然なため、頭だけで環境に優しくしようとする。その結果、その鈍性が、LEDIHの嘘(環境や身体細胞への悪影響)を支えてしまう。

 環境に優しくしたいのであれば、それが出来る自分になる。肉料理を減らすだけでも、歩く時間を増やすだけでも、廻り回って、地球環境は本来へと変わり出し、その人の心身も、快活になれる機会を得る。病院の世話になる時間が減れば、生活空間も変わり、環境はぐんと健全になっていく。価値観が、人間本来のそれであれば、地球環境が病むことはない。今よりも情報がずっと少なかった時代、人は、その意識もなく、地球環境を大切にしていた。

 

52.LEDの光に全く違和感を覚えない人たちへの違和感は、健全さを普通とする人たちの、何でもないあたり前の感性。IHもそうだけど、人としての感覚が健康的であれば、そこには近づくことはできない。街を歩くと、そこにはお金と物だけがあり、人が居ないように思うことがある。この20年程、そこかしこが嘘のように病み、大切な普通が蝕まれている。

 人間らしく、感じることをそのままに本来でいようとする心ある人たちは、経済優先の思惑や心無い存在の鈍性により、経験しなくてもいい経験を強いられている。それは、IHLEDに違和感を覚えない人たちが理解し得ない、それらに(その原因の性質も含めて)敏感に反応する人たちの心身の不調と辛い現実。分からないから、その原因は放って置かれ、感じない人たちが主導するから、全てがヘンになる。そして、それに対する、要らないはずの仕事が増える。

 都営新宿線の電車の多くにLEDが使われているため、思うように移動が出来ない時がある。そこでの風景は、不気味で生気の無い、ぞっとする病みだまり。皆、能面のように心を削り取られ、本来の人間ではなくなっていく。

 地球感覚を大切にするのであれば、頭ではなく、心で判断し、思考ではなく、想いで事を進める。地球が嬉しいのは、地球に優しくしようとする行為(思考の満足)ではなく、優しい人たちのありのままの風景。彼らが不健康になることほど、地球が悲しむものはない。そこにはLEDIHも存在しない。

(さすがに昨今、IHを選ぶ人はだいぶ減ってきているが、LEDは、心を持たない人たちがどういうわけか躍起になっている。鈍性は、生命世界にとって、危うさそのものである。不自然に作られた時流は、凶器である)

 

53.人のため、世のために運営されているはずの、数々の宗教集団。人々の、健康的で平和な暮らしを何より大切にしようとしているはずの、そこでの人たち。

 なのに、この社会では、動物たちが人間の所有物のように扱われ、自然環境は、人間の利益のために簡単に壊される。食事は、全粒穀物や新鮮な生野菜・果物の摂取が普通にならず、電子レンジ食品が出回る始末。街には、細胞の意思が潰されるLED

 結局この国の宗教集団は、その殆どが、人間としての感性を持ち合わせない人たちの趣味の集まりであることが分かる。心ある生き方の基本に、生命としての食事があり、動物たちとの健全な関わりがある。人としての健康的な暮らしの要素に、自然と融合する自然体の姿勢と、空間の原因への責任がある。そのどれをも無視する、この国の宗教集団(組織)。それらの中心に居る存在たちの脳は、きっとLEDのくもの巣で出来ているにちがいない。彼らは、最も宗教心からかけ離れた、臭凶人である。

 

54.なぜLEDなのか? なぜIHなのか? それらは、どんな時を経て生まれたのか? 隠されたその場所に入ってみれば、そこに在るのは、利害と権益、名誉と権力。そして、心無き感情の暴走。それらを見えなくさせるために、耳触りの良いフレーズを後付けし、人の思考を操作して、偽善を蔓延させる。

 思考型の経済(力)に比重が置かれれば、心寒い人ばかりが活躍し、心温かな人は元気を失くす。そこに在る原因の性質がみんなの未来に繋がるものでなければ、それは、健全で柔らかな人たちを生きにくくさせ、そのことを更なる経済(ビジネス)にしようとする凶暴な存在まで生み出すことになる。

 心ある世界に、心の無いLEDIH)は住むことは出来ない。それを生み出し、広めようとする存在たちの原因には流れない個の思惑と嘘の優しさだけがあるLED。その嘘が大きい分、彼らは妙に躍起になる。

 

55.LEDライトに何の違和感も覚えないのは、その人間本来の大きく崩れた無意識(本性)の危うさにより、健康的な感覚的判断が為されず、感性も想いも、心あるそれではなくなってしまっている現れであるから、そのことをしっかりと学び、その責任ある実践として、自分たちとは違う、健全で心ある感性を持つ人たちのLEDに対する素朴な違和感を尊重し、優先させ、他の生命たちのためにも、それを要らないものの1つとして、彼らの何気ない感覚を大切にすることである。

 地球のために考える人間ではなく、地球が喜ぶ人間でいること。それは、地球自然界との融合を意味し、共に生きる動物たちの辛さや悲しみがそこには無いことを基本とする。動物たちの声無き声を無視してはならない。感性を不健全にさせたまま思考だけで生きる人間の不自然な姿を、地球は喜ばない。

 

56.求めさせられ、必要とさせられる事や物で動く不穏な経済は、しばしば「時代のニーズ」や「地球環境」という言葉でその真が偽装され、次第に人々(組織、団体)の利害が絡み、そしてその影響力が拡大する中、それは、健全な感性を持つ人の素朴な疑問や違和感を次々と押し潰し、人としての在り様を人間味の無いものにしつつ、時代を重くさせ、頭だけで生きる心無い人の力を増幅させつつ、未来を壊す。

 それを率先するのは、その意識もなく人の健全な動きを止め、彼らの心ある暮らしを人知れず壊そうとする力をその本性に潜める存在たち。いつの時も、その時代に合った(力を持つ存在によって作られた)良いことでそれを隠し、力と富を囲って、自分たちには無関係の健康と平和の原因を力無いものにする。LEDのライトは、正にその道具である。その展開振りは、夏の日の蛇烏のようである。

 

57.動物たちの切なる望みを感じる人は、LEDの危うさをあたり前に知る。細胞の意思を大切にする人は、IHの存在に恐さを覚える。

 地球に生きる喜びを普通とする人は、地球の悲しみの原因となるそれらが人間発であることを嘆き、強い責任を覚える。そして、自らの原因の中の、生命本来の意思を改めて確かなものにする。

 人間も動物も、LED仕様にはなっていない。と言うより、それはこの地球には異物であり、生命世界が無縁であることを望むものである。

 それを考えれば、LEDIHをやけに好む存在たちの本質(正体)が見えてくる。「本心と安心」でも、そのことに柔らかく触れているが、その実、その姿は、「復活への道」の、人間とは思えない存在と容易に融合し得る性質の持ち主たちである。それを知り、それを次への原因にする。そして、人として、生命として、さりげなく地球人を生きる。

 

58.不健康な食環境と心無い宗教や教育の背景からなる不穏な原因が、人々の脳の働きを徐々に不健全にし、気づけば、LEDが、まるで地球環境の救世主のように扱われても、全くそれに違和感を覚えられない程人の感性は鈍化し、そこからどうにか離れている人たちも、それに異を唱えることも出来なくなる程、巧く、緻密に、かつ強力にその病みづくりは行われて来ている。

 この世の病みの根源的な部分と繋がっている、LEDand IH)の世界。そこに見え隠れする、これまでの歴史で、大勢の人たちに犠牲を強いた(命を捧げさせた)存在たち。彼らの喜び(無意識の意思)は、心ある人たちが理由も分からず辛くなることと、心無い人たちが、その上で満足を手にすること。LEDは、そのための下地を更に固める、その恐ろしい現実の強力な道具となるものである。by 無有 12/27 2015

 

 

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