LED感染(3)

LEDの影響(6)

1.体の中の水分の性質が異常をきたすと、健康状態は大変なことになる。それは、地球に住む生物たち全てに言えること。だから皆、そうであってはならない現実の原因を、淡々と自らの普通に重ねて生きている。

 地球をひとつの大きな生命体として考えてみれば、海の水が不自然になることだけは、地球に生きる全てにとって、永遠に避けたいところ。海に住む生命たちは、太古の昔から、地球環境の健全な姿を、その水と一緒に、見守り、支えて来ている。その尊さは、土の上でのその次元を大きく超える。

 地球に存在してはならないLEDの光によって病み続けるこの国の土壌と空間は、健全な人間と動植物たちに犠牲を強いつつ、歴史的にも最も異常で不気味な様を、列島全体にもたらす。それは、周りを囲む海にも当然影響を及ぼし、それまでは一度も無かった、不調和な水(海中)環境を作り出す。

 そのことに敏感に反応する海の生命たちは、長い距離を移動できる種は、遠くへと離れ、そうではない種は、連繋の意思を削がれて、姿を消す。サンゴも生きて行けず、海産物は(川や湖の物も)、壊滅へと向かう。灯台のLED光や船のLED照明の影響からも逃げるようにして、魚たちは、無くてもいいはずの混乱と闘いを経験する。

 地球規模の災いの原因でい続けるLEDにより、その自覚もなく自然体で、永いこと地球を守り続けてきた生命たちが、生物史上初めて、存続の危機に瀕する時を経験する。土を侵し、水を破壊するLED。全てが、全体でいる調和から切り離されようとする。

 

2.植物たちの目線で環境を観、動物たちの気持ちを考えて事を進める知恵があれば、人間が決して触れてはならない場所にLED照明が在ることを、人は理解する。しかし、人間社会枠内の、平面的で、直線的な知恵に止まることでしか存在意義を見出せない人たちの、その非生命的な(まるで暴力行為のような)愚かな生き方により、ここにLED照明の広がりが作り出されてしまう。

 未来が望むこの時代の意思を感じ、地球から観た価値観(地球感覚)を馴染ませる生命本来でいる時、当然の常識として、そこにはLED照明の地球環境への悪影響振りがあるのだが、地球感覚から程遠い思考で人間だけを生きる存在にとっては、それは、どこまでも無知・無理解のまま。LED化という、悍しい現実は、それだけ退化した人間が力を持ったことを意味する。

 喜びも自由も、互いにとって、みんなにとってのそれであれば、それらの言葉の意味が忘れられてしまう程、世の平穏は普通となり、誰もが、優しさと愛情の中で、自然に生きることになる。そこでは、動植物たちの素朴な望み(意思)が抑えられるということも無くなり、彼らの気持ちを大切に、彼らと共に、人も環境の一部となる。

 そう、LED照明の広がりは、互いにとって、みんなにとっての発想を内に持たず、動植物たちの気持ちになって生きることも全く出来ない、恐ろしく粗末な人が主になって進められているということ。地球感覚を普通に、人としての本来であれば、それは、誰もが分かること。人間は、動植物たちの生きる環境が侵されることを望む生き物ではない。

 

3.問題事は、お金を動かし、不健全さ(病気、不健康)は、特定の存在に富をもたらす。差別心は、心無い人に力を与え、同質の人たちは、その力にすがる。そのどの場所にも、LED化の原因が潜む。精神性の希薄さと心の貧しさは、そのための大切な燃料となる。

 自然界の健全な在り様を応援する人は、問題事の原因を作らない。しかし、その原因を凝り固めた人や空間に出会すと、その気もなくそれに反応し、言動も不自然さを帯びてしまうため、他者の目には、問題事としてそれは(自身の姿は)映ってしまう。

 動植物たちの気持ちになれる、彼らを愛する人は、病気の原因を作らない。しかし、その自覚もなく柔らかな人を病ませる原因(無意識の意思)を内に秘める人やものに出会すと、知らずうちに負荷をかけられて動きにくさを覚え、傍らからは、病気のように思われてしまう。

 自然環境を大切に、問題事や病気の原因からも縁遠い人は、LED照明の危うさに、あたり前に反応する。人知れず問題事を作り出し、不穏で不健全な価値観を力に世を病ませようとする人が、そのLEDの原因と密に絡み合っていることも、感覚的に知る。そして、LED照明に平気な人と、そうではない自分たちとの、そこに在る感性(次元)の違いにも、唖然とする。

 先の風景に、問題事も病気も無い世界を望めば、そのための頑張りは、そうと意識する(される)こともなく、普通で、自然なもの。安心や喜びの質が、何かの裏返しではないそのままのものであれば、そうである原因でい続けること程の尊さは無い。それらの基礎となる世界が強まることを何より嫌がる、LED化の原因と自らを重ねる存在たち。問題事と不健全さの原因が具現化したLEDの、そこでの感性の違いには、あり得ない程の本性の違いがそこに潜んでいることを教えてくれる。

 

4.紅葉の季節に花を咲かせてしまう程の混乱状態を経験させられる、様々な植物たち。それは、朽ちる前の、抵抗と悲鳴。辛い現実である。

 思考の満足のために心無いことも平気で行えてしまう人のその形無き原因に、植物たちは正直に反応する。イルミネーションや生育の操作など、LEDを通してのそれは、地球自然界の意思と繋がる彼らだからこそ、限界を超える苦しみである。現代の人間ほど、植物たちが奇異に感じる人間はいない。

 LED照明に平気な人の存在(心、無意識)の性質は、そのまま、植物たちの悲しみである。どんな状況であっても、ありのままに生きる(生きて来た)彼らにとって、LED化を支える存在に覚える反応は、まさに恐怖とあきらめ。そこに在る、嘘で隠された本性(形無き原因)に、植物たちは、全てを狂わされ、生命を繋ぐ道を絶たれる。

 植物たちは、いつも、人間の本質を観ている。そんな彼らを、地球は見守り、太陽は応援する。この地球で最も愚かな、LEDライトを中心に動こうとする人間。この時ほど、自然界から人間が離れた時は無い。それは、悲し過ぎる、自然界の怒り。

 植物は、全てを転写し、全てになる。水や空気(風)の性質、人間や動物の在り様とその原因。自らの中に、それらを取り込み、そのままを反映し、伝え、流し、時を刻む。

 彼らが季節感を失くすということの、惨事の始まりを、見失ってはならない。それは、人間の本質の、信じ難い非人間化。そのままであってはならないと、自然界からの反動も必至である。

 

5.病気の原因が力を無くすことで、健康は普通へと向かうのであるが、その先には、健康の原因が力強く安定し、病気が姿を消す風景へと繋がり行く流れが生まれてしまうため、病気の原因は扱いにくいものとしてしつこく存在し続けることを、医療機関は欲し、当然のごとくそこでは、その原因には決して触れない。(ポーズは見せるが…)

 LED照明は、それを良しとする発想がすでに病みの原因であるのだが、その物自体が不調の原因として生き物(人間、動植物)に及ぼす影響は、計り知れない。ただしかし、その性質は、そこに在る負の部分が、分かりにくさの極みとも言うべき恐ろしいものであるため、病気を利用してお金儲けをしようとする医療関係者にとっては、それは絶好の道具(機会)となる。

 病気にならない(病気にさせない)原因に関わっていてはやっては行けない、彼らの思惑。始まりが結果(病気)でなければ、存在意義も危うくなる、彼らの価値観。そんなだから、LEDにも無感覚になり、LED化を支え、LED照明を平気で(率先して)使う。LED照明が世に広まることで、自分たちの経営は、好き放題のレベルへと押し上げられる。

 LED照明を使用する病院の、その分かり過ぎる本音は、人の命よりもお金、健康よりも病気の、未来への無責任。「病気(の苦しみ)は無くなっていくことが重要。そのための原因として、そこへと向かう通り道として(ある期間の必要性として)、病院が在る」という、医療の本質を理解することはない。LED照明は、心無い医療と相性が良い。

 心ある人たちの健康と安心のために、病院では、LED照明は使ってはならない。それを使うことの、心の貧しさと、生命への無理解(破壊行為)を、さりげなく自覚する。苦しみや悲しみの無い未来に繋がろうとするこの時代は、健康の原因を大切にする医師(病院)を応援する。病気を治し、病気を無くす、真のプロの力になる。医療人は、誰よりも、力強い健康の原因でいる人でありたい。

 

6.たくさんの人たちが、日々移動の手段に利用する、電車やバス。乗り降りの場所(駅、ホーム、バス停etc.)も含め、それらがLED照明になることの、人の健康や環境に及ぼす悪影響は、直ぐにそれが形に現れにくい分、現代の形無き恐怖の原因の最たるものである。

 LED照明から離れた生活を送ることで、(人としての)健全な感性を取り戻した人は、そのことに心身が反応するなどして、LEDの危うさは、よく理解する。そうではない人でも、「LED感染(映像)」等を通して、身近なところでのLEDの負の影響力を知り、その判断が後手であっても、身を守るために、理解と認識の質は変わっていく。そして、LED照明への違和感も、普通となる。

 旅行や出張などに利用される、長距離バスや新幹線。長いこと親しまれ、愛されてきたそれらが、なぜ健康的な細胞活動を削ごうとするLED照明を使用するのか、人は理解できない。普通感覚を持ち合わせていれば、どんな人もそのことに疑問を抱く、LED照明。この地球に存在しなかったものは、この先も地球に異物として残り続け、自然破壊の強力な原因でい続ける。それをサービスと称して進めていく、気が狂ったとしか思えない、電鉄やバスの経営。地球規模の災い(殺人級の行為)へと走るその姿は、人間とは思えない。

 数時間もの間、LED照明の車両内で(LED漬けになった空間で)じっとしている姿は、拷問を受けている状態と言える。この自然界で人間を生きる私たちは、自然界に自然に在るものを通して、生きる姿を安定させることが出来る。そうではない場所に否応無く居させられれば、人間は、その質を限り無く低下させてしまう。LED照明の新幹線(バス)は、自然界の自然な営みを尽く嫌う、野蛮で危険な存在が主導していると思ってよい。

 新幹線は、幼い子にとっては夢の乗り物であり、大人にとっても、どこか嬉しさを覚えるものである。スピードと心地良い椅子、外の景色を見るのも、居眠りするのも自由で楽な、快適な空間。その全てがLED照明でゼロになり、人の心身はいつのまにかマイナスになるという、辛く切ないその悲惨な姿。LED照明の新幹線や長距離バスは、全額返還しても足らない程の負の原因を、乗客(の未来)にもたらすものである。

 

7.LED照明の部屋を借りたり、購入したりしてしまったことは、それはそれは悲しい出来事。お店や通りの場合は、避けることも出来るが、住むところとなると、日夜、LED漬けである。LED化は、無責任の原因が形になったものだから、誰もその責任は取ってはくれない。そんな未熟な社会に、私たちは生きている。

 LED照明の部屋に居ても、何でもなく過ごせる人は、それだけ、異常が普通になっていると考える。全くそれに平気であれば、その分、その不自然さで、自然体でいる人にその気もなく影響を及ぼしていると考える。人の心の健全さと健康的な生活環境とは融合できないLED空間(部屋)に居ることで失われるものは、真っ先に人間らしさである。

 LEDは、自然に生まれ、自然に育つものを破壊する。果物も野菜も、酷く農薬漬けであったり、添加物を多く含むものであったりすれば、(害を及ぼすものとして)それなりに平気だが、作物そのものの良さが大切にされたものだと、LEDの負の影響を受けやすい。人間も同じで、頭忙しく、心を忘れた、不自然な精神を普通とする人は、普通の人が心を重くさせられるその(LEDの)異常さが、心地良い。そこでは、電子レンジとIHが活躍する。

 LEDの光は、細胞活動に負荷をかけ、安心を奪い、余裕を無くさせる。人の感度は鈍り、心の意思も抑え込まれる。それに平気でいられるというのは、素朴で心優しい、柔らかな人の生き方をジャマするということ。LED照明は、普通の質を成長させる人間にとって、要らないものというより、有ってはならないものである。

 照らされた空間のもの全てが、何らかの負の影響を被ることを考えれば、LED照明を室内に設置してはならないことは、言うまでもない。他者への影響を思えば、庭や玄関にも使用できない。LEDの負の影響力に無感覚であれば、そのことの意味(理由)を見つめて、LEDを外し、健全な道を歩む。人間は、LEDの光を普通に扱える(愚かで、危うい)脳を持たないから。

 LED照明の部屋を借りたり、購入したりしてしまったら、蛍光灯のものを新たにセットするか何かして、LEDは使わないようにする。蛍光灯のスタンド一個でも、心身の調整役を担ってくれる。感情を動かせば、疲れるだけ。どこに、どんな風に話をしても、責任を取ってくれる人は居ない。その原因が嘘のままの、LED化とLED照明。何よりも、自身の健康と本来の普通を大切にする。

 

8.何世代にも渡って生き続け、これからもずっと自然界の一部として健気に生きようとしていた木々が、枝を切り落とされ、無残な姿を見せる。幹が酷く病んでしまった木は、根元近くからその姿を無くして切り株状態となり、根が深く張ってなければ、根こそぎ抜き取られる。それは、余りに悲しい風景。そのあり得ない現実に、彼らも、何が起きているのか理解できない。

 車や自転車が多く通る道沿いに植えられた木々は、増え続けるLEDライト(ランプ)の影響により、日々、耐え難き苦しみを経験し続ける。内側の水分を異質なものへと汚染・破壊され、枝葉の部分から生命力(活力のある姿)を無くしていくもの。芯の部分の生きる意思を削がれ、形状や色まで変えてしまうもの。自浄・修復力を限り無く奪い取ろうとするLED(の原因)に、木々は、その源から崩れ(溶け)、乾燥し、表面は剥がれ落ち、異様な姿(表情)を見せて朽ちる。キノコが付いたり、こぶのようなものが出来たり、代謝を狂わされて胴ぶきしたり。苦しみの余り、幹の部分に穴を開け、その極限の様を差し出す木もある。

 イルミネーションや街灯、店舗の照明などのLEDは、植物にとっては辛いばかりであるが(もちろん人間も動物も様々な悪影響を被っているが…)、車と自転車のLEDライト(ランプ)となると、その度合い(破壊力)の次元は全く異なる。それに無感覚のままでいたり、その状況を放って置けたりする人が居るとすれば、同じ人間として、この地球自然界に生きる生命として、彼らは、最も恥ずべき存在(恥人)となる。

 人は思う。なぜ、ここに至るその手前で、修正・浄化出来なかったのかと。そこまで私たちの精神は退化し、堕落していたのかと。LED化は、自らの心の性質と、これまでの生き方を顕にする。LED照明を通して、人は、在るべき真の普通を経験する。木々の悲しみは、心ある人間の切なさの極み。そうであってはならない原因の時を選択し、自然界を元気にする。そのためのこの今、この時を大切にする。

 

9.普通に人を想い、ものを大切にする感覚を持ち合わせていれば、誰もがあたり前に分かる、LEDの害。その情報が公に流れ、伝わって行かない今の現実が顕にするのは、それだけ、要らない情報がこの社会には溢れ、その影響下に人々が居るということ。つまりそれは、人を想い、ものを大切にすることが難しい、良心欠如の、危うい人たちが情報世界に関わっているということ。情報社会の、その薄っぺらで醜い性格(本質)が、時代にさらけ出されている。

 LED化の社会環境がこのままだと、地球環境に恐ろしい程の悪影響を及ぼすという事実は、自然環境の中でありのままに生きる動植物たちのそれまでには無かった姿を通して、思考を働かせるまでもなく、人は理解する。しかし、情報は、そうはさせない思惑を全開に、次々とその事実を都合よく抑え込み、捏造し、焦点をぼかして、内実をごまかす。その時の情報は、まさに凶器である。人々は、不安とその裏返しの安心を巧く操られ、その意識も無く感性を鈍くさせていく。

 本来の光(照明)の要素を持たないその負の原因で、心ある人の心身は無自覚に病まされ、動物は住む場所を失くし、移動できない植物は、そこで生命力を無くす。そのことを物語る体験談や映像はいくらでも在るのだが、心無い情報(の送り手)が、執拗にその伝わりをジャマする。地球に住む生き物の将来にとって最も重要な(危惧されるべき)ことが流されないままでいるという、この今の情報媒体の、余りの悪質振り。それは、人間であって、人間ではない(人間とは呼べない)時を刻んでいる、世も末の精神編である。

 車両事故やライフラインのトラブル、人との要らない軋轢や食環境の悪化。その他、心身の不健全さ(不調、不自然さ)や心の無さなど、そのどれもに、LEDの形無き負の原因が大小様々に絡んでいる。LED照明が姿を消せば、世の問題事は、その元から動き出し、望むべく流れ(好転反応を伴った自浄作用)を経て、本来へと変わっていく。情報は、そのための機会でなければならない。平和で健康的な自然環境の原因を支えずして、情報とは言えない。LED化に乗った情報は、全て、自然界の悲しみ、未来地球への破壊行為である。(いつの時も、さもしい人間は、ガラクタ同然の情報(知識)を利用し、弱者を作って、得する立場を維持しようとする)

 

10.悪徳振りを地で行く、大手ショッピングセンター(スーパー、モール、デパートetc.)の経営幹部は、利益優先思考(志向)には格好のその頭の鈍さで、率先してLED照明を使い、人々の心身に、直接・間接的に犠牲を強いる。

 頭の鈍さは、その多くが狡さを秘める。分からないことを巧く武器にし、分かってもいいはずのことに無頓着のまま、無責任でいられる場所で、責任ある自分を演じ続ける。LED被害の事実を知らされても、何もせず、個の利益のために、その全てを無視する。人の健康よりもお金、環境のことよりもお金である。

 そんな状況が世間的に危うくなるまで、彼らはその路線を曲げない。つまり、知らないままでいられれば(知らない振りが通用すれば)、どこまでも偽善を通し、お金儲けを第一とするということ。仮に、追い詰められそうになれば(責任を覚えざるを得なくなれば)、都合良く身を守るためだけに、彼らは、「そうとは知らなかった」と、善人の顔をする。そして、「消費者のために…」と、見映えの良いポーズづくりが始まる。それが、LED照明を使用し続けようとするスーパーやデパートの素の顔である。知ろうとすれば知り得ることも、知らないでいることで利する立場を優先させるために、簡単にそれら(LEDにまつわる負の事実)を退け、演者になる。LED照明の店の本心は、人や環境のことより、「売れればいい」「得すればいい」である。そのための無知・無感覚は、店(責任者)にとって、大事な大事な性分である。

 誰もが分かるLEDの害について、店舗の経営者が知らないはずはない。本当にそれを知らないのだとしたら、経営者失格である。人々の健康的な暮らしと、安心・安全な環境に様々に関わり続ける店が、LEDの負の原因(影響力)に無感覚であるとすれば、その店(小売店)の存在価値は無い。心(原因)の嘘は、幼子が最も嫌う(見たくない)大人の姿である。

 知っていても、知らなくても、そして、知りたくても、知りたくなくても、LED照明は、直ぐにでも外さなければならない。そのまま使い続けようとすれば、そのスーパー(ショッピングセンター、デパート、コンビニetc.)は、いつまでも嘘を通して、偽りの経営をし続けようとする店の典型となる。社会や環境に影響を及ぼす店を持つ社会人の一人としてやらなければならないことは、身を正し、心を純粋に、非LED化を実践することである。後手になれば、偽善・偽装の代表として、言い訳も無くす。

 大型スーパーやデパートは、その経営を通して、何をしたいのだろう?もしそこに、人々の健康的な生活を少しでも支える(社会貢献の)意識があれば、それに見合ったことをする。LED照明(の設置)は、それとは真逆の行為である。それを実体験できない程頭が鈍っていれば、他(外)の人の体験と動植物たちの現状を謙虚に受け止め、生き直しをする。それも出来なきゃ、店を閉じる。人として、それは当然の責任である。そして、どれ程の危うい原因を作り、どれだけ人々の心の風景に負荷をかけていたかを知る。そこから、健康・健全の普通が、外へと広がり出す。店を通して人へと伝わる物の、その作り手も、その環境も、安堵する。みんなで、安心と平和の原因を共有する。

 

11.作為的に世を煽り、人を巻き込み、作り出される時流は、時に、酷い人間味の無さをそれに乗せて、環境のことなど全く感知させない程の無責任振りを、人々の思考に植え付ける。その代表とも思えるものが、LEDライトによるイルミネーションである。

 人工的に生み出されたその光景を、人工的な喜びに浸る人(の思考)が支え、その不自然な環境で、不自然に、人やお金は動く。そのことによる木々や草花への悪影響には全く意に介せず、素朴で柔らかな感性が侵されることにも、彼らは無感覚である。それ程の無責任さにも、人はそうとは気づけず、「楽しければいい」「キレイだから嬉しい」と、低下させた普通の中で、その歪な感覚(悪質さ)を安定させていく。

 LEDライトのコードを巻き付けられた木は、なぜ経験させられるのかも分からずに、その痛みに嘆き、苦しむ。その想い(感情)は、心優しい人の何気ない感性に届き、切なさを重ね合う。人間としての責任も、人間らしい感性も持たない人たちが作り上げる、その異常な(非生命的な)楽しみ方に、涙を流す。(※木々の悲しみは、映像としても、実際の姿としても、数限り無く目にすることが出来る)

 LEDライトのイルミネーションは、健全な感性を無くし、人間らしい感覚的判断が困難になると、人はこんな風な(愚かな)状況を生み出すことになるという、その一つの典型となる負の実例である。自然界の生き物が辛くなる(生きて行けなくなる)LEDを利用して、人間がそれを楽しむ風景は、実に気味が悪く、悍しい。そのことに(そうであり続けることに)、どんな言い訳も理屈も通用しない。思いやりの無い風潮を作り出し、それに経済や文化の色を染み込ませて、身勝手に満足に浸ろうとする人々の姿は、お先真っ暗の原因そのものと言える。

 感度が鈍くなると、喜びの質は表面的になる。感得する世界が、原因のそれから離れると、楽しみも、個のままの直線的(平面的)なものになる。そして、責任は、心と重なり得なくなり、心の風景では、作り物の嘘の心が活躍する。その道沿いに、LEDライトのイルミネーションがある。

 人生の無駄遣いの原因には、大きな勘違いがあり、その勘違いの材料には、無自覚の心の無さがある。その心の無さがそのまま形になり、多くの人が、人生とは呼べない道を歩まされることになる、LEDライトのイルミネーション。心ある人の、心ある人生に、その次元のものは存在しない。

 

12.近くにLEDの街灯か防犯灯が設置されていると、そのことで周辺の植物や小動物たちが異常な状態へと引き込まれるように、人も、何らかの負の影響を被り、理由の分からない不自然な現実や、そのせいだとは誰も気づけない、不調や不健全さを経験する。LED仕様の街灯(防犯灯)は、決して未来には持っては行けない不穏な原因の代名詞でもあるゆえ、「LED感染(映像)」を材料に、実体験を踏まえて撤去(交換)を促し、自らの(家族やみんなの)健康と平穏を守る。事実を事実として伝え、人としての良識ある行動を応援する。

 LED街灯は、健康的な人々の暮らしよりも、名目や立場が優先されて始まった、恐ろしい現実。そのための体の良い理屈が並べられ、その危うい本質をごまかし進められた、生命への破壊行為。そのどこにも、健全さの原因は無く、将来への責任も、自然環境への優しさも、皆無である。どんな顔をして、それを進められるというのだろう?それ自体、世にも珍しい、不思議で野蛮な行為と言える。

 LED街灯(防犯灯)は、人や空間を病ませ、動植物たちの生きる力を奪う。それを否定することは、まともな人間であれば、出来ない。事実から学ぶという、人としての最低限の知恵を持っていれば、街灯に、LEDは使用できない。その事実(LEDの危うさ)は、いくらでもあり、目をそむけ、逃げても、そこにも事実はある。それでもLEDを街灯(防犯灯)に使おうとする人がいるとすれば、もはやその存在は、人間とは呼べない。実に愚かしい、オカシナ世である。

 LED街灯の近くで、生命力を無くして朽ちていく植物は、自身の姿である。苦しみ喘ぎながら逃げ惑う小動物も、自身の姿である。LED街灯一つで、失われるものは、際限が無い。その流れを止め、縁ある人や空間を本来にする。動植物たちへの思いやりを失わず、健康と平和の原因を次へと繋ぐ。責任は、LED街灯(防犯灯)を外すことから始まる。

 

13.次の世代にも、次の時代にも繋いで行きたい、皆が自然体でずっと大切にしてきたもの。それがかなわなくなることの悲しみは、誰にとっても耐えられない。植物にも動物にも自然と伝わる、人の心の、その性質。彼らがそれを避けるようになることだけは、決して経験したくない。だから、LED照明を無くす。そのための今を、次の世代に、次の時代に経験させてはならない。

 僕らは皆、この地球に一生命として生きる、人間という生き物である。自然環境も社会環境も、そこでのその本質は、誰(何か)のためでもなく、みんなにとっての、ありのままの全体であり、どちらでもなく、どちらでもある、変化そのものの中庸である。そこに、平和と健康のエッセンス(原因)はあり、未来へのさりげない責任も、みんなの地球感覚もある。それを外して、人が人を生きることは出来ず、当然のことながら、環境のことも、エネルギーのことも、語れない。

 LED化は、その人間の、本来の在り様を否定することから始まる。LED照明は、その人間らしい人間の姿を避けるようにして、負の原因の仕事を担う。「LED感染」を自らの体験的知識に重ねたら、人としての当然の義務としての、未来への責任ある原因(の選択)を実践する。次の時代の子供たちのために、この今、すべきことをする。

 「LED感染(3)」は、自然界発の、ありったけの愛情を形にする。そこにある厳しさも、鋭い指摘(辛辣な表現)も、自然界の包容力のひとつでしかなく、そのどれもに、生命世界の喜びと安心がある。

 人間が、これからも真の人間であるために、形(文章)になろうとする彼ら自然界の意思に、余裕で思考を預けてみた。難しいことは、何も無い。ただ、さりげなく真剣に、未来が喜ぶ原因を選択し、本来を生きる。それだけ。地球は、みんなのこの時代に、みんなの地球になる。(by 無有 12/17 2016

 

 

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