LED感染(2)

 

1.何となく不自然に思うところはあったけど、それがここまで自分と周りを不自然にさせるものであるとは思わなかったと後になって気づけても、崩されてしまったそれまでの原因を修正・浄化するには、相当の覚悟と時間が要される。

 目が不調になり、疲れやすく、気力が出にくくなったことのその原因が、そうだと思っていた仕事上の人間関係によるものではないと後で知り得た時には、すでに抱え込まされたものも多く、本来へと戻るのもかなり難しくなる。

 自然界を不自然にさせ、人間や動物から自然体の営み(細胞活動)を奪うLED。気づきは、健全な感性による、責任ある原因のそれでありたい。通らなくてもいい道は、通らなくていい。

 

2.みんなの未来を想う時、期間限定の価値観は要らなくなる。未来の人たちに、「なぜ、あの頃の人たちは私たちが要らないものを作り、私たちに無くてもいい経験をさせるのだろう?」と思われる程の悲しみは無い。未来に無責任な原因づくりを、人は経験できない。

 生活用品の危険度断トツのLED照明には、人の思考を忙しくさせて、感性を鈍らせてしまう力があるため、その危うさが見えにくいまま使われ、未来への負の原因は固められていく。一度それが設置されれば、連鎖的に生命(細胞)世界の動きは止まり、みんなの未来が見えなくなる。思考レベルの無責任の次元を超えた、無責任そのもののLEDの世界。時代は常に、次の時代への責任を担う。

 

3.人の心を重くさせ、動植物たちの生きる自由を奪う発明品を決して発明させないという発明品があったとすれば、当然存在し得なかったであろうLED

 この世には、調和と友愛の原因を絶えず創り続ける、地球という名の巨大な発明品がある。その地球が嬉しいのは、人も動物も、みんなが安心する、みんなのための発明。ノーベル自身もその賞自体も、この地球から見れば、完全なる不良品である。

 

4.消費電力(電気代)が少なくて済むと言われても、LED自体が本当の光ではないわけだから、それは当然なことで、その光を浴び続けることで心身が不調になりやすくなることを考えれば、支出は増え、LED照明は全く省エネではないことを人は理解する。

 それに加え、修理は難しく、気軽に扱うことも出来ない。食べ物は生命力を失くし、音(and 匂い)を通す空間は不健康になる。

 見た目や印象をどんなに繕っても、伝わるのは、細胞たちの自然な働きを妨げる不自然さと、その光ではない光で利益を上げる(立場的に得する)存在たちの冷たさ。着地点(止めどころ)を逃し続けるLEDは、自然界を破壊しつつ、欺瞞飛行をし続ける。

 

5.電気店で、LED以外のものも置いてあれば、多くの人がそれを普通に購入すると思うのだが、LEDだけだと、消費者は「??」になる。大型電気店の実に危険なところは、消費者のニーズまで、製造元と勝手に作り上げ、そこへと人をむりやり誘導してしまうこと。頭の中は利益のみ。商売の基本を忘れ、人としての心ある姿勢(対応)も形ばかりとなる。

 従来の蛍光灯を使用できる照明器具が全く無い電気店があるとすれば、それはもはや電気店ではない。冷蔵庫やテレビもそう。選択の機会を与えずにLED製品を強制的に買わせる販売店とメーカーは、人間として行ってはならないことを行い、あれこれと理由を付けながら、自らをごまかし、分を忘れる。それは、寂しく、情けない風景である。

 LED家電品は、心身の活力を低下させ、健全な感性を持つ人を生きにくくさせるものである。販売店は、商品を売る前の人としての姿勢を洗い直しし、人々が生活する上で大切なものを提供する側の責任を実践する。LEDだけというのは、普通では考えられない、気味の悪い暴挙の類と言える。

 共に支え合う社会では、人として、当然のように近寄ることのない発想がある。誰のためでもなくみんなのために生きることを普通とする人間は、その自覚もなく心ある選択をする。LED化を無理強いする電気店のその異常な様は、人間が人間らしく生きる社会を否定し、人としての在るべき姿を壊すものである。

 

6.自然と不自然とでは、闘う意思を持つ不自然に自然は負ける。しかし、時を経て、自然は不自然を浄化する。真と偽とでは、征服欲を持つ偽に真は力を失くす。しかし、真は、生命世界の基礎であるゆえ、それを持たない偽がそのままであることはない。安心の光と不安の光とでは、何より安心を嫌う不安に、安心は圧倒される。しかし、不安を知らない安心は限り無く安心そのものなので、いつしかその不安さえ包み込んでしまう。

 不自然で、偽りと不安を備えるLED照明が在り続けられる理由を支えること程、生命として、時間の無駄づかいはない。先には無いものにぶら下がる理由も、人は持ち得ない。

 

7.普通の人の病気の原因は、心身が辛くなるものを取り込んでも全く平気でいられる普通ではない人の健康である。彼が不調感を抱くのは、普通の人が理由もなく健康になる時。その自らの本質を隠すために彼は、困った人の困った状況で活躍し、人の思考に善人の印象を植え付け、困りごと(病気、争い、貧困)の原因を流し込む。

 その類の存在たちが何より大事にする健康の材料は、不健康な食環境と不健全な価値観。もちろんLEDも、自分たちが病まないようにと、人を病ませるためにその場所で生み出されたものである。「人間本来」の中の主要な存在たちは、その本性の典型である。

 

8.LEDを推進しようとする人たちの頭には、生命世界の根源と繋がる、「どちらでもあり、どちらでもない」発想が無い。そのため、それを正しいとする情報を盾に、直線的に事を進めることしか考えられず、それ以外のことに思考を使う余裕(能力)は、彼らには無い。

 そのことが意味するのは、彼ら自身がもうすでに(その本性の遺伝子から)LEDの本質そのものになってしまっていて、その事実が今の事実とキレイに重なり、分かりやすく、自らの心の無さを伝えているということ。実に寂しい現実である。

 心が無いから進められる、人間味の無いLED化。心が無いから平気でいられる、心ある人たちが生きにくくなる生活環境。LEDにまつわる聞こえの良い話は皆、そうでなければならない直線上の、良いことのポーズである。

 

9.自由選択の余地も無く進められてしまうものが、人や動物たちの心の自由を奪う性質のものである時、未来は悲しい。その空間が重なる度に、動こうにも動けない原因が固められていく。

 その危うい現象を操る存在たちは、人が平和で平穏に暮らすことに我慢ならず、不安も怖れもなく人が生かし合う風景には耐えられない。それゆえに手にした立場と力で、LED化への原因づくりをずる賢く重ねて来た彼らであるが、有無を言わせず事を進行させ得るその驚くべき手腕は、彼ら特有の本性の為せる業である。

 そう、あの時もこんな風にして人の心が抑えられ、常識の質が低下し続けて、心ある人たちは生きる力を無くさせられて(犠牲を強いられて)いった。そう、あの時と同じ、心無い人たちが力を付けて、人を欺き、支配欲と凶暴さを強めていく。時代背景が大きく違っても、連れ歩く原因の重たさ(残忍な本性)はそのままである。

 限り無く負の影響を及ぼし続けるLED。次第に明らかになる、見過ごせない事実の隙間からその奥へと原因の扉を開けていくと、嘘のような、あり得ない性質の顔(本質、正体)がいくつも見えてくる。

 

10.LED感染症にかかってしまったような、歪で不健康な現代社会。それへの唯一の抗生物質は、心ある選択。LED照明から離れているという、生命としての責任ある原因づくり。そこには、失くしてしまっていた本来の自由があり、平和がある。友愛と調和の、優しさそのものの風景がある。

 LEDが全く平気で、それに心地良ささえ覚えるような存在の思考に付き合うことはない。その素朴な感性を大切に、切なる想いを形にする。LED照明の店にはそれを伝え、人間らしい生活を未来に繋ぐ。LEDの本当の姿を人に気づいてもらい、自然界の生命たちを守る。元来それは経験しなくてもいいはずの経験だけど、次なる時代の安心と感性豊かな子供たちのために、この時の全てを受容し、その原因深くを変えていく。

 LED感染という言葉。それは、どこまでも力強く、柔らかい。それは、この時代の意思であり、地球大自然の望みである。「LED感染」は、心が主導権を握るための貴い原因の力である。

 

11.煩い光は、煩い音同様、人が生きる世界には要らないもの。音は、記憶されるレベルであるが(とは言っても、変化を止める重たい音もあるが…)、光は、染み込み、そこに在るものを変える。時空間を多次元的に捉える時、自然界と融合できない光は、いつまでもそこに残り、次の時代への負の影響を及ぼし続ける。

 LEDは、形ある現象世界を支える、形無き抽象世界に大きな負荷をかけるもので、そのままそれが存在し続ければ、自然界の調和とその自然な変化の基本形は、その大元から大きく崩されてしまうことになる。原因の性質が無視される中で具現化されたその怪しい光は、生命たちの感覚器官を鈍化させ、自然界に生かされる彼らに、その自覚もなく生きにくさを経験させるものである。

 そんな物を作り出し、力でそれを広めようとする存在たちの隠された動機(無意識の意思)は、「生命の歴史」や「地球の良心」でも触れているが、その手法は凄まじい。形だけの正しさに人を付き合わせて、人知れず嘘の原因との融合を拡大させていく。LEDは、そのための最強の道具となっており、情報媒体を操り、宗教まで利用するその姿は、まさに喜劇級(嘘つきたち)の災いづくりである。

 

12.一言で言えば、LED照明に当たると、老けやすくなる。但し、それは普通の人の場合であり、人間味の無い残忍さを隠し持つ異常な人は、何の影響も受けない。だから、LED照明になったら、老けないために残忍になる。なんてことは普通の人にはムリだから、結局すべきことは1つ。LEDを使わず、見ず、近づかず…で行く。普通の人にとって、従来の照明は、若さと美肌の必須である。

 

13.人間社会では通用しても、自然界の全てと繋がる生命世界で通用しないものは、次第に姿や形を変え、自然と消えていく。その消えていくものに費やされる労力は、本来は要らないもの。その性質のものが繰り返し生み出される状況は、生命世界の停滞であり、成長・進化への抵抗と言える。

 LEDは、その停滞と抵抗をより効率良く人に経験させる材料として生まれた、歴史上最も危うい負の原因を備える、生命世界の嫌われものである。そこに群がる存在たちの表情を見れば、それは頷ける。皆、生命としての顔を持たない、人間オンリーの心無し草である。

 

14.「LED感染」を読んで困る人は、どこにも居ない。もし居るとすれば、それは、人が困っていることに気づけなかった自分を困ったと思うぐらいのもので、そのことを、たくさんの心ある人たちが喜んでくれている。

 それとは違って、強い悔しさや嫌悪の感情を伴う困り事として経験している人が居るとすれば、その人は、誰にも気づかれずに人を困らせる思惑が上手く行かなくなることを恐れ、困っている。原因の世界は、正直に動き出す。「LED感染」は、その人の本当の姿を顕にする。

 人が困ることを平気でする人は居ないはずなのだが、LEDは、そんな人の本性に火をつけた。人が困っていても、それを優越や慢心の材料に良い人を演じる人を次々とLEDは引き寄せ、彼らを合流させて、影響力を高める。困っている人たちは、よく分からないまま、その場所から出られなくなる。

 困る人が増えることで活躍できる仕事と密に繋がるLED。それを知る機会を手にしたら、次へと動き出す。困っている場合ではない。

 

15.建築物や車両など、そこに在るLED照明が基礎設計の段階からのものであると、それへの対応は大変難しく、その修正には大幅な出費を余儀なくさせられる。

 それを狙いとする意図がLEDの背景には存在するのだが、どうにもならない状況と向かわされれば、人はやむ無く諦めと妥協を選択する。そして、その意図は完結し、心ある風景は、後方へとその姿も見えなくなる。

 少しずつ確実に、不自由さが底上げされる、LED照明。それ関わりの技術は、容易に人の心の自由を奪うものである。

 

16.権威ある存在がある物の支え役となる時、その多くは、事の本質が大きく外れてしまっていることを意味し、そこには安易に近づいてはならないことを伝えている。

 大切なものは、それを大切にしている人からでしか伝わらない。その機会を逃し続ける人は、大切なものを大切にする意思を持たないことの表れであり、そんな人ほど、頭だけで大切さを作り出す権威や心無い評判を大事にする。そして、その意識もなく人の暮らしを重くさせる。

 頭だけで作り出された大切さの代表であるLED化は、光を大切にしている人から何も学ぼうとしない存在たちの病みそのものであり、権威や情報を利用して大切なことを偽装しようとする彼らの、未熟で不健全な現実である。

 大切なものは、個の思惑で作られるものではなく、それを大切にしている人から伝わり、流れ、繋がり行くもの。LEDは、どこから見ても、どこまで行っても、大切なものにはなり得ない、空間の不純物である。

 

17.差別や不公正といった、普通自然体の人には無縁の感情が、それを普通とする人の中で力を持つ時、その影響で、いつのまにか無くてもいいものが生み出され、要らないはずの争いや衝突へとそれは発展する。

 しかし、手にするものや取り入れるかたちの背景に在るものを把握するのは難しく、多くの人が、送り手主導の消費経済の中で、その自覚もなく問題事を引き寄せる重たい感情と融合することになる。

 だからこそ、LED照明に違和感を覚える人たちの感性を大切にする。それを通して伝わる、攻撃的で冷淡な感情は、触れる人の心を不安定にさせ(心が無い人は何でもないが…)、社会を後戻り出来なくなる程病ませていく。

 ものやかたちを通して繋がる、その手前の原因と後の結果(という名の次への原因)。重く流れない感情からなるLEDは、何をどう工夫しても、強力な負の原因である。

 

18.将来は、その恐ろしさゆえに誰も意識すら向けなくなるであろうLEDの、その異様で異常な悪業振り。健全な人が覚える辛さは、徐々にがんばりが効かない程となり、気力・体力の低下を慢性化させていく。柔らかで敏感な感覚を持つ人ほど、肌荒れや視力低下を被り、脳も心臓も、要らない負荷と闘う。味覚も聴覚も不自然になり、本来の健康には戻れなくなる。

 原因不明の病気のその原因の筆頭株主になろうとするLED。病院は喜び、心無い指導者は仕事がしやすくなる。新しい仕事が増え、それに、LEDに無感覚な人が就く。そして、人間らしさや人間本来が、全く人間のそれではなくなっていく。

 この国には、生命や人権を尊ぶ専門家が1人も居ないのでは、と思ってしまう、余りに酷いLED事情。それは、未来が悲しむ、嘘のように未熟で野蛮な風景である。

 

19.昔、悲惨な戦や争乱で、大勢の人たちがやむ無く人生を終えざるを得なくなる際、そこには決まって、腹を空かせた蛇や烏が集まりだす。飛躍し過ぎかもしれないが、LEDばかりの街灯で照らされたその異様な空間は、人々の生命力(命)が奪われていくのを感知して忍び寄る、その彼らの姿と同質の何かに眺められているような、寒々しく、ひんやりとした不安を抱かされる。

 今までそこに普通に在った大切なものが無くなる時、そこには決まって、人知れずそれを成し得ようとする存在の、陰湿で狡猾・非道な感情がある。それだから、そう思えるのだろうか…。LEDの街灯に照らされた場所は、まるで、人が自分のために犠牲になる(命を捧げる)ことを喜ぶ存在(の本性)と繋がる彼ら(蛇、烏とそれ系の人間)の、形無き仕事場のよう。その存在たちが嫌う心ある人たちが、知らずうちに生きる力を失くしていく。

 

20.照明をLEDに換えた後になって、その負の影響力を実感した場合、当然のこととして、それを以前のものに換えるだけでいい。何も分からず間違えてしまったのだから、それを正し、自然な姿を取り戻す。病む原因を蓄積させる前に、健康の原因を選択する。LED照明に平気な存在の怪しい普通に合わせることはない。

 LEDにどこまでも鈍感でいる人たちのその理由は、かつての経験や感情の背景となるその人の無意識(の意思)が、健全さからかけ離れた不自然そのものの性質であるから。その分、頭だけで生きる姿勢が強まり、心を失くし、感性は鈍る。それが普通となり、真の普通を拒絶する。

 心ある人は、無意識も意識もなく、ありのままに本来を生きる。LEDへの反応も、思考の域を包み込む心の世界の、素朴な普通感覚。自然界の意思と融合するその感覚に、動植物たちも未来の子供たちも安心する。

 

21.永い歴史の上での地球規模の変動は、太陽もそれに関わる、自然で普通の変化であり、気候の変化も、その一部である。現代における温暖化と言われる現象も、それは、人間が問題視する次元のものではなく、地球の意思により自然に生じた、その自浄力の働きと調整作業の一環でしかない。

 つまり、人間社会が排出する二酸化炭素が温暖化の主要因だとする言説自体が全くの見当違いであり、そのことが一般に認識されていることの恐さは、そうであることで存続させようとするある種のはかりごとが人知れず為されているとしか言いようがない。そこに結び付けられているLED化。それは実に悍しく、不気味な世の始まりの時に思える。

 温室効果ガスの排出量を減らすことは、この地球に住む生命として、当然の原因の仕事である。しかし、LED化がそれに利用されることは、愚かさの極みであり、そのことが温暖化防止には全く関係無いことは、思考を自由にさせ、経験からも自由でいれば、誰もが容易に分かり得ることである。

 地球人として、生命を生き、限られた身体時間を、人間らしく生きる。人間には、未来の子供たちががっかりする原因(環境)を残してはならないという、あたり前の役がある。

 

22.優しい人が優しい行為を知らないように、正しさの中に居る人は、正しい(とされる)ことを知らない。ただそれそのものでいて、ありのままにその普通を実践する。それゆえ、優しい行為でそうではない性質(本性)を隠そうとする人には、優しくない行為でそのことを刺激し、正しさの原因(本質)を育まずに正しいことにこだわる人には、その人にとっては正しくないことを形にして、その未熟さを見つめさせる。その全てが、優しい人にとっての自然な姿であり、正しさを生きる人の何でもない普通である。彼は、存在そのもので時代を担い、次の時代へと確かな原因を繋ぐ。

 そんな人たちの普通から大きくかけ離れた(次元が極端に低い)、LEDの作り手と送り手。彼らは、嘘の優しさと作り物の正しさで、内なる凶暴さを具体化させる。本来を無くさせられた人たちを巻き込み、世を病ませる。見え隠れする、残忍な支配欲。LEDの本質は、どの角度から見ても、地球の嫌われものである。

 

23.その背景の不健全さゆえに馴れてはならない因習から学ぶのは、同じような不健全な性質の原因を作らないことと、そこに在れば、その原因を浄化しないまま先へとその姿を残さないこと。しかし、LEDは、全国展開の不健全さゆえ、それを背負わされる未来の子供たちは、はるかマイナスのところから人生をスタートさせるという、恐ろしく辛い現実に馴れさせられてしまうことになる。その時、その責任を取れる人は何処にも居ず、誰一人、その原因には触れられない。その深みと広がりの重苦しさは、想像すら出来ない巨大な重しとなって、いくつもの時代を蝕んでいく。

 その負の原因が流動的であるうちに、未来のために対処すべきことがある。蓄積し、固められてしまう前に、ここに居る責任として選択しなければならないことがある。単なる光や照明の問題と考えてはならない。今も、これからも、人間は、LEDの存在を喜ぶ生命であってはならない。

 

24.悲しみの連鎖の接着剤のようにして誕生したLEDは、次第にその接着部分の面積を広げ、悲しみを感じる感覚を失くさせてしまう程の威力で、人から、人間味を奪おうとする。徐々に進行するそれは、形ある結果や動きの無い(回転の止まった)ものへの執着を煽り、優しさや思いやりまでが、形無き想いを無視した見た目重視のそれとなる。そして、それを得意とする、LEDに何の違和感も覚えない人たちが事の良し悪しを先導し、心を思考で扱える心無い能力者(専門職)が人を集め、その嘘を発揮する。

 LEDの前も後も、そこに居るのは、人の悲しみを好物とする○のような奇怪な存在である。新興宗教が盛んなのも、LEDを生み出す程のこの国の特徴である。

 

25.照らされたどんなものも、細胞レベルの形無き原因のエリアで負荷をかけられてしまうLEDは、実に恐ろしい。その恐ろしさに全く無頓着でいられる人たちの感覚にも、寒々しさを覚える。

 他人に正直になることで、自らも正直な人間だと思い違いできる人は、自分に正直でいることで自然と為される、他人に対してのありのままの姿(その自覚もなく正直に反応する感覚)を経験できない。謙虚さも誠実さも、自分との約束の上で普通となり得るもので、他を意識しての他との約束によるものだと、心あるそれらが自らの中で生み出されることはない。

 正直でいる自分との約束が出来ないために、心の性質を見つめることもなく外に求め、想いのままでいることもなく形にとらわれる人たちの、真や実への無意識の抵抗。彼らにとってのLED化は、実にありがたい病みのフィールドである。

 

26.LEDの光は、借り物の心(魂)と相性が良い。

 無いものは、無いままでいられる時を経て、有っても無くてもどちらでもいい感覚に包まれ、そして、有ることを経験する。そのプロセスが無視されれば、無いことは攻撃的な怖れとなり、有る世界への支配欲へとそれは拡大して、不安の裏返しのものやかたちを作り出す流れへと展開する。人々の暮らしは、そこには無いはずの不安に付き合わされ、元から普通に有る心が、作り物の心に侵されていく。

 生命としての営みが人間時間で為される時、心は、借り物でも作り物でもあってはならない。無い者は、無いところから始める。それを応援する心ある存在たちの友愛の原因は無限である。歩み出せば、LEDは、無い場所へと消えていく。

 

27.次の時代への無責任度が甚だしいLED化は、どういうわけか責任ある立場の人の判断で先へと進められていく。その責任を覚える場所の狭さは、責任ある立場に就く前にすでに人としての責任感覚を無くしてしまっていたということ。

 然るべき原因の連なりであるべきそれは、いつの時代のどんな場所でも、生命としての真の責任に支えられ、さりげなく自然に形になり、次の時代への責任をあたり前に担う。人としての役割は、それを自らに通し、その質を成長させつつ、維持すること。それは、人間の、生命としての基本要素である。

 そこから離れていられるということは、そのことで得する自分が、そうではない自分を遠くへと切り離してしまっているから。その切り離されてしまった自分の姿がわずかでも見えれば、普通を取り戻す。普通を元気にさせれば、未来が喜ぶ選択しか出来ない。何の力も要らず、自然体で、心ある生き方を人と共有する。

 責任ある原因の連なりの中のどこにも存在しないLEDは、責任ある立場でいる人の無責任な選択そのものと言える。要らないものが有る理由を支える責任ある無責任は、未来の人たちがどこまでも心ある選択(責任)が出来なくなる負の原因の力となる。

 

28.人のために、社会のためにと思うことが好きな人は、ただ単に時流に乗って、自分を売ることに長けていたいから。その対象が利己心を強くする人や不健全な社会であっても何ら関係なく、そんな人たちから喜ばれる自分でいようとする。

 人生の指針が個人的である人ほど、変化しにくい世では自由に動き、行きたいところへと行く。そこに漂う不穏な空気とも融合し、やりたいことをする。それは、自由に動けて、行きたいところへ行ければ、心ある多くの人の元気に繋がることをいろいろとやりたいと思う人が、思うようには生きられない状態でいることで可能となること。LEDは、その状態を固めるもので、動けなくなっている人たちが動き出す(動けるようになる)時の輝き(光)を何より怖れる存在たちの、病み(抑圧)の上塗り品である。人のために、社会のためにと思うことが好きな人たちが善人に成りきり、心ある人の人生を抑え込むために、それを利用する。

 

29.柔らかな感性を持つ人の感情を刺激し、その消耗を促すのは、重たい感情を凝り固めて、それを内に秘めたまま平静を装う人の無自覚の嘘。彼らの殆どが、人を思う素振りや理解ある人を演じることを得意とするため、その理由を上手く言葉にすることも出来ずに、言いようのない辛い感情を人は抱かされる。

 LEDの照明には、細胞への害だけでなく、人としての感情の、その大切な原因となる心の動きを封じ込めてしまう力がある。心ある人は不安を煽られ、緊張を強いられ、要らない出来事へと引き寄せられる。その場所で待っているのは、心を持たない、心ある振りの名人たち。彼らの酷く冷たい感情が、LEDの負の影響力を増幅させる。

 

30.危うい本性を隠し続ける人が、そのことを見透かされ、指摘されると、見た目は全くいつもと変わらないが、内面の怒りは凄まじい。しかし、その感情を熱くし続けることで変貌してしまう表情や言動のことを恐れ、その人は、質はそのままに、動きを操り、その感情を執拗で陰湿な憎しみの類へと変えていく。

 ところが、それさえも感知され、その影響を把握されると、そのことへの焦りが本能を防御へと向かわせ、彼ら流の逃げに入る。そっと姿を消し、対象への意識を外し、一切の関わりを持たず、身を守る。

 ただしかし、普通では分かり得ない、無意識のところに潜んでいたものが観察されるというのは、すでにその全ての原因が、意識世界のものと同じように手に取るようにして知られているということ。隠れ続けても、無視しても、物理空間を余裕で包み込む多次元的な原因の世界では、どこに居ても、それは余裕で触れ得るものとなる。

 その時は、通るべき道をずっと後方に置いた、新たな次を迎える時。地球の異物であるLEDの原因は、どこまで行っても異物である。

 

31.法規制で固めてしまえば、後は自動的に、人の心と細胞は病み続けて行くだけ…と、平和や健康の原因を尽く無視する心無い指導者は、その醜い素顔を隠しつつ、人々を支配しようとする。

 さすがにあからさまにその本心(本性)を表に出すことは出来ないから、彼らは、数や量の力がもたらす影響力を武器に、人々が肯定せざるを得ない状況を作り、健全さ(抵抗)を抑えて、事を進める。

 しかし、永い時を経てやっと訪れた、命の奪い合いとは無縁のこの時を、ずっとどこまでもその質を成長させながら繋ぎたいと心ある人は思う。少しずつ何かがオカシク、何処かがヘンになってしまっている今の社会の風景を、決してそのままにしてはならないと、そのための新たな原因の選択・実践が何より大切であることを普通の人は感じている。

 その健全で、健康的な想いを形にする、人としての未来への責任。誰もそれを止めることは出来ない。そのために要らないものを外す動きも、誰もじゃま出来ない。この国の将来を思い、未来の子供たちに平和と健康の原因を届けたいのなら、例え固められて行くものであっても、その重く、不穏な原因を、共に浄化し続ける。LED化という、恐ろしく危険な原因をそのままにできる程、人間は愚かではない。

 

32.LED化は、病み化の代名詞。それは、何かのためなのだろうが、何のためにもなっていない。

 人のことを思うのでも、ただ思うことで良しとする世界がある。勝手な価値判断や個の欲がそこにあっても、思うことには変わりはないというその姿勢は、人を大切にしようとして、人を傷つける。みんなのためになると言いながら、隔たりを作る。

 人や自然を大切にする気など全く無くても、それを何度も言葉にすることで、偽善を徹底する。心が無くても、有るように見せれば何も困らず、語ることを磨き、心ある人を生きる。

 人のためと思って行うのだから、結果、そうではなくても、責任は無いとする。責任感覚など少しも持たないから、人一倍人を思い、人のために行動する。人々は、それに付き合わされ、気づけば、オカシな状況の中で身動き出来なくなる。

 その周りでは、心無い存在たちが、満足気な表情で、人助けに勤しむ。心が無いから、心が痛むことを知らず、どんな時でも、心ある自分を元気に生きている。人を思うことで、人を困らせ、困った人を助け、人は喜ぶ。

 そんなからくりの名人たちが、LED化という病み化の中心に居て、事を進める。人間とは思えない。

 

33.見方を変えれば、LED化の動きというのは、これまでの嘘が全て結集するようにして表出した、重たい存在たちのその本性の具現化であるわけだから、長いこと体裁や体面で巧く隠されていて見えなかったものが、何もせずに容易にその姿を把握できるところに思いがけず来ているということになる。

 理由も分からず辛い時ばかり経験している人や、心を抑え込まれて思考が本来ではなくなっている人たちのその理由が、LED化の動きに乗って伝わり出す。あり得ない状況での心身の不調(病気)や、どうにもならない厳しい関係性の原因も、LEDを通して感知されていく。そして、全く新しくて、懐かしくもあり、何でも有り、何も無い大いなる原点が姿を見せる。

 心は、そこへと近づきつつある。想いは、そこへと身体を案内する。夜明け前の闇の中で、終えるべきものが、太陽の光で溶けていく。by 無有 12/31 2015

 

 

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