LED感染(2)

LEDの映像1

1.みんなの未来を想う時、期間限定の価値観は要らなくなる。未来の人たちに、「なぜ、あの頃の人たちは私たちが要らないものを作り、私たちに無くてもいい経験をさせるのだろう?」と思われる程の悲しみは無い。未来に無責任な原因づくりを、人は経験できない。

 生活用品の危険度断トツのLED照明には、人の思考を忙しくさせて、感性を鈍らせてしまう力があるため、その危うさが見えにくいまま使われ、未来への負の原因は固められていく。一度それが設置されれば、連鎖的に生命(細胞)世界の動きは止まり、みんなの未来が見えなくなる。思考レベルの無責任の次元を超えた、無責任そのもののLEDの世界。時代は常に、次の時代への責任を担う。

 

2.消費電力(電気代)が少なくて済むと言われても、LED自体が本当の光ではないわけだから、それは当然なことで、その光を浴び続けることで心身が不調になりやすくなることを考えれば、支出は増え、LED照明は全く省エネではないことを人は理解する。

 それに加え、修理は難しく、気軽に扱うことも出来ない。食べ物は生命力を失くし、音(and 匂い)を通す空間は不健康になる。

 見た目や印象をどんなに繕っても、伝わるのは、細胞たちの自然な働きを妨げる不自然さと、その光ではない光で利益を上げる(立場的に得する)存在たちの冷たさ。着地点(止めどころ)を逃し続けるLEDは、自然界を破壊しつつ、欺瞞飛行をし続ける。

 

3.自然と不自然とでは、闘う意思を持つ不自然に自然は負ける。しかし、時を経て、自然は不自然を浄化する。真と偽とでは、征服欲を持つ偽に真は力を失くす。しかし、真は、生命世界の基礎であるゆえ、それを持たない偽がそのままであることはない。安心の光と不安の光とでは、何より安心を嫌う不安に、安心は圧倒される。しかし、不安を知らない安心は限り無く安心そのものなので、いつしかその不安さえ包み込んでしまう。

 不自然で、偽りと不安を備えるLED照明が在り続けられる理由を支えること程、生命として、時間の無駄づかいはない。先には無いものにぶら下がる理由も、人は持ち得ない。

 

4.自由選択の余地も無く進められてしまうものが、人や動物たちの心の自由を奪う性質のものである時、未来は悲しい。その空間が重なる度に、動こうにも動けない原因が固められていく。

 その危うい現象を操る存在たちは、人が平和で平穏に暮らすことに我慢ならず、不安も怖れもなく人が生かし合う風景には耐えられない。それゆえに手にした立場と力で、LED化への原因づくりをずる賢く重ねて来た彼らであるが、有無を言わせず事を進行させ得るその驚くべき手腕は、彼ら特有の本性の為せる業である。

 そう、あの時もこんな風にして人の心が抑えられ、常識の質が低下し続けて、心ある人たちは生きる力を無くさせられて(犠牲を強いられて)行った。そう、あの時と同じ、心無い人たちが力を付けて、人を欺き、支配欲と凶暴さを強めていく。時代背景が大きく違っても、連れ歩く原因の重たさ(残忍な本性)はそのままである。

 限り無く負の影響を及ぼし続けるLED。次第に明らかになる、見過ごせない事実の隙間からその奥へと原因の扉を開けていくと、嘘のような、あり得ない性質の顔(本質、正体)がいくつも見えてくる。

 

5.LED感染症にかかってしまったような、歪で不健康な現代社会。それへの唯一の抗生物質は、心ある選択。LED照明から離れているという、生命としての責任ある原因づくり。そこには、失くしてしまっていた本来の自由があり、平和がある。友愛と調和の、優しさそのものの風景がある。

 LEDが全く平気で、それに心地良ささえ覚えるような存在の思考に付き合うことはない。その素朴な感性を大切に、切なる想いを形にする。LED照明の店にはそれを伝え、人間らしい生活を未来に繋ぐ。LEDの本当の姿を人に気づいてもらい、自然界の生命たちを守る。元来それは経験しなくてもいいはずの経験だけど、次なる時代の安心と感性豊かな子供たちのために、この時の全てを受容し、その原因深くを変えていく。

 LED感染という言葉。それは、どこまでも力強く、柔らかい。それは、この時代の意思であり、地球大自然の望みである。「LED感染」は、心が主導権を握るための貴い原因の力である。

 

6.人間社会では通用しても、自然界の全てと繋がる生命世界で通用しないものは、次第に姿や形を変え、自然と消えていく。その消えていくものに費やされる労力は、本来は要らないもの。その性質のものが繰り返し生み出される状況は、生命世界の停滞であり、成長・進化への抵抗と言える。

 LEDは、その停滞と抵抗をより効率良く人に経験させる材料として生まれた、歴史上最も危うい負の原因を備える、生命世界の嫌われものである。そこに群がる存在たちの表情を見れば、それは頷ける。皆、生命としての顔を持たない、人間オンリーの心無し草である。

 

7.「LED感染」を読んで困る人は、どこにも居ない。もし居るとすれば、それは、人が困っていることに気づけなかった自分を困ったと思うぐらいのもので、そのことを、たくさんの心ある人たちが喜んでくれている。

 それとは違って、強い悔しさや嫌悪の感情を伴う困り事として経験している人が居るとすれば、その人は、誰にも気づかれずに人を困らせる思惑が上手く行かなくなることを恐れ、困っている。原因の世界は、正直に動き出す。「LED感染」は、その人の本当の姿を顕にする。

 人が困ることを平気でする人は居ないはずなのだが、LEDは、そんな人の本性に火をつけた。人が困っていても、それを優越や慢心の材料に良い人を演じる人を次々とLEDは引き寄せ、彼らを合流させて、影響力を高める。困っている人たちは、よく分からないまま、その場所から出られなくなる。

 困る人が増えることで活躍できる仕事と密に繋がるLED。それを知る機会を手にしたら、次へと動き出す。困っている場合ではない。

 

8.建築物や車両など、そこに在るLED照明が基礎設計の段階からのものであると、それへの対応は大変難しく、その修正には大幅な出費を余儀なくさせられる。

 それを狙いとする意図がLEDの背景には存在するのだが、どうにもならない状況と向かわされれば、人はやむ無く諦めと妥協を選択する。そして、その意図は完結し、心ある風景は、後方へとその姿も見えなくなる。

 少しずつ確実に、不自由さが底上げされる、LED照明。それ関わりの技術は、容易に人の心の自由を奪うものである。

 

9.権威ある存在がある物の支え役となる時、その多くは、事の本質が大きく外れてしまっていることを意味し、そこには安易に近づいてはならないことを伝えている。

 大切なものは、それを大切にしている人からでしか伝わらない。その機会を逃し続ける人は、大切なものを大切にする意思を持たないことの表れであり、そんな人ほど、頭だけで大切さを作り出す権威や心無い評判を大事にする。そして、その意識もなく人の暮らしを重くさせる。

 頭だけで作り出された大切さの代表であるLED化は、光を大切にしている人から何も学ぼうとしない存在たちの病みそのものであり、権威や情報を利用して大切なことを偽装しようとする彼らの、未熟で不健全な現実である。

 大切なものは、個の思惑で作られるものではなく、それを大切にしている人から伝わり、流れ、繋がり行くもの。LEDは、どこから見ても、どこまで行っても、大切なものにはなり得ない、空間の不純物である。

 

10.差別や不公正といった、普通自然体の人には無縁の感情が、それを普通とする人の中で力を持つ時、その影響で、いつのまにか無くてもいいものが生み出され、要らないはずの争いや衝突へとそれは発展する。

 しかし、手にするものや取り入れるかたちの背景に在るものを把握するのは難しく、多くの人が、送り手主導の消費経済の中で、その自覚もなく問題事を引き寄せる重たい感情と融合することになる。

 だからこそ、LED照明に違和感を覚える人たちの感性を大切にする。それを通して伝わる、攻撃的で冷淡な感情は、触れる人の心を不安定にさせ(心が無い人は何でもないが…)、社会を後戻り出来なくなる程病ませていく。

 ものやかたちを通して繋がる、その手前の原因と後の結果(という名の次への原因)。重く流れない感情からなるLEDは、何をどう工夫しても、強力な負の原因である。

 

11.将来は、その恐ろしさゆえに誰も意識すら向けなくなるであろうLEDの、その異様で異常な悪業振り。健全な人が覚える辛さは、徐々にがんばりが効かない程となり、気力・体力の低下を慢性化させていく。柔らかで敏感な感覚を持つ人ほど、肌荒れや視力低下を被り、脳も心臓も、要らない負荷と闘う。味覚も聴覚も不自然になり、本来の健康には戻れなくなる。

 原因不明の病気のその原因の筆頭株主になろうとするLED。病院は喜び、心無い指導者は仕事がしやすくなる。新しい仕事が増え、それに、LEDに無感覚な人が就く。そして、人間らしさや人間本来が、全く人間のそれではなくなっていく。

 この国には、生命や人権を尊ぶ専門家が1人も居ないのでは、と思ってしまう、余りに酷いLED事情。それは、未来が悲しむ、嘘のように未熟で野蛮な風景である。

 

12.昔、悲惨な戦や争乱で、大勢の人たちがやむ無く人生を終えざるを得なくなる際、そこには決まって、腹を空かせた蛇や烏が集まりだす。飛躍し過ぎかもしれないが、LEDばかりの街灯で照らされたその異様な空間は、人々の生命力(命)が奪われていくのを感知して忍び寄る、その彼らの姿と同質の何かに眺められているような、寒々しく、ひんやりとした不安を抱かされる。

 今までそこに普通に在った大切なものが無くなる時、そこには決まって、人知れずそれを成し得ようとする存在の、陰湿で狡猾・非道な感情がある。それだから、そう思えるのだろうか…。LEDの街灯に照らされた場所は、まるで、人が自分のために犠牲になる(命を捧げる)ことを喜ぶ存在(の本性)と繋がる彼ら(蛇、烏とそれ系の人間)の、形無き仕事場のよう。その存在たちが嫌う心ある人たちが、知らずうちに生きる力を失くしていく。

 

13.照明をLEDに換えた後になって、その負の影響力を実感した場合、当然のこととして、それを以前のものに換えるだけでいい。何も分からず間違えてしまったのだから、それを正し、自然な姿を取り戻す。病む原因を蓄積させる前に、健康の原因を選択する。LED照明に平気な存在の怪しい普通に合わせることはない。

 LEDにどこまでも鈍感でいる人たちのその理由は、かつての経験や感情の背景となるその人の無意識(の意思)が、健全さからかけ離れた不自然そのものの性質であるから。その分、頭だけで生きる姿勢が強まり、心を失くし、感性は鈍る。それが普通となり、真の普通を拒絶する。

 心ある人は、無意識も意識もなく、ありのままに本来を生きる。LEDへの反応も、思考の域を包み込む心の世界の、素朴な普通感覚。自然界の意思と融合するその感覚に、動植物たちも未来の子供たちも安心する。

 

14.優しい人が優しい行為を知らないように、正しさの中に居る人は、正しい(とされる)ことを知らない。ただそれそのものでいて、ありのままにその普通を実践する。それゆえ、優しい行為でそうではない性質(本性)を隠そうとする人には、優しくない行為でそのことを刺激し、正しさの原因(本質)を育まずに正しいことにこだわる人には、その人にとっては正しくないことを形にして、その未熟さを見つめさせる。その全てが、優しい人にとっての自然な姿であり、正しさを生きる人の何でもない普通である。彼は、存在そのもので時代を担い、次の時代へと確かな原因を繋ぐ。

 そんな人たちの普通から大きくかけ離れた(次元が極端に低い)、LEDの作り手と送り手。彼らは、嘘の優しさと作り物の正しさで、内なる凶暴さを具体化させる。本来を無くさせられた人たちを巻き込み、世を病ませる。見え隠れする、残忍な支配欲。LEDの本質は、どの角度から見ても、地球の嫌われものである。

 

15.照らされたどんなものも、細胞レベルの形無き原因のエリアで負荷をかけられてしまうLEDは、実に恐ろしい。その恐ろしさに全く無頓着でいられる人たちの感覚にも、寒々しさを覚える。

 他人に正直になることで、自らも正直な人間だと思い違いできる人は、自分に正直でいることで自然と為される、他人に対してのありのままの姿(その自覚もなく正直に反応する感覚)を経験できない。謙虚さも誠実さも、自分との約束の上で普通となり得るもので、他を意識しての他との約束によるものだと、心あるそれらが自らの中で生み出されることはない。

 正直でいる自分との約束が出来ないために、心の性質を見つめることもなく外に求め、想いのままでいることもなく形にとらわれる人たちの、真や実への無意識の抵抗。彼らにとってのLED化は、実にありがたい病みのフィールドである。

 

16.法規制で固めてしまえば、後は自動的に、人の心と細胞は病み続けて行くだけ…と、平和や健康の原因を尽く無視する心無い指導者は、その醜い素顔を隠しつつ、人々を支配しようとする。

 さすがにあからさまにその本心(本性)を表に出すことは出来ないから、彼らは、数や量の力がもたらす影響力を武器に、人々が肯定せざるを得ない状況を作り、健全さ(抵抗)を抑えて、事を進める。

 しかし、永い時を経てやっと訪れた、命の奪い合いとは無縁のこの時を、ずっとどこまでもその質を成長させながら繋ぎたいと心ある人は思う。少しずつ何かがオカシク、何処かがヘンになってしまっている今の社会の風景を、決してそのままにしてはならないと、そのための新たな原因の選択・実践が何より大切であることを普通の人は感じている。

 その健全で、健康的な想いを形にする、人としての未来への責任。誰もそれを止めることは出来ない。そのために要らないものを外す動きも、誰もじゃま出来ない。この国の将来を思い、未来の子供たちに平和と健康の原因を届けたいのなら、例え固められて行くものであっても、その重く、不穏な原因を、共に浄化し続ける。LED化という、恐ろしく危険な原因をそのままにできる程、人間は愚かではない。

 

17.LED化は、病み化の代名詞。それは、何かのためなのだろうが、何のためにもなっていない。

 人のことを思うのでも、ただ思うことで良しとする世界がある。勝手な価値判断や個の欲がそこにあっても、思うことには変わりはないというその姿勢は、人を大切にしようとして、人を傷つける。みんなのためになると言いながら、隔たりを作る。

 人や自然を大切にする気など全く無くても、それを何度も言葉にすることで、偽善を徹底する。心が無くても、有るように見せれば何も困らず、語ることを磨き、心ある人を生きる。

 人のためと思って行うのだから、結果、そうではなくても、責任は無いとする。責任感覚など少しも持たないから、人一倍人を思い、人のために行動する。人々は、それに付き合わされ、気づけば、オカシな状況の中で身動き出来なくなる。

 その周りでは、心無い存在たちが、満足気な表情で、人助けに勤しむ。心が無いから、心が痛むことを知らず、どんな時でも、心ある自分を元気に生きている。人を思うことで、人を困らせ、困った人を助け、人は喜ぶ。

 そんなからくりの名人たちが、LED化という病み化の中心に居て、事を進める。人間とは思えない。by 無有 12/31 2015

 

 

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