LED感染(3)

 

1.感性が健全であること。それだけで、責任ある人生をその意識もなく普通に生きることになる。責任は、いつの時も、人としてのありのままの原因と、生命としての自然界との融合が基本となるゆえ、そうである人にとって、そのことが意識されることはない。その時々で思うこと、感じることが、そのまま次への責任ある原因の仕事をする。

 責任という言葉を意識しなければならなくなる程、普通であるべきその世界が自分から外れてしまったことで、ものやかたちを創り出す人の心は、その自覚もなく無責任な出来事に無感覚になっている。責任が安易に結果と結び付けられる価値観の中で、その状態は次第に固められ、人は、生きることも、繋ぐことも、原因のままでいる本来から遠ざかってしまう。

 健全さは、分かろうとする思考の域には無く、経験して身に付けられるものでもない。すでにそれが無くなっていることに気づけないままでいたから、LEDという存在との接点を引き寄せてしまったわけで、まずは、新たな原因の選択を通して、要らない重しを外すことから始める。そして、責任感覚を原因のそれに戻すべく流れに乗るために、LED感染 (1) (2)」を大いに活用する。そこに書いてあることは、全て普通のことであり、理由も分からず崩されてしまっていた本来を元気にするものである。それは、誰にとっても必要な、責任という名の普通の実践である。

 

2.健全な感性の基礎が無くなっている状態から離れるために、家庭の照明を蛍光灯(and 白熱球)にする。これは真っ先に行うべき大切なことである。LEDに違和感を覚えず使っていた状態というのは、感性が人間本来のそれではなくなっているか、またはそれ程鈍さを慢性化させているかなので、いずれにせよ、更なる負の蓄積から離れる。過ごす時間の多い家庭での照明がLEDである時、感じる感じないの外側で、それは予期せぬ状況へと心身を病ませていく。

 

3.身近なところで次にすべき簡単なことは、自転車のライトを従来のものにすること。使い手にとっては普通でも、柔らかな感性を持つ人にとってのそれは、脅威である。健全な人ほど、その光で心身(脳)は害を被り、理由も分からず動きにくくなる。

 健全な感性を取り戻すためにも、健全な人の心に負荷をかけてはならない。そのことに無頓着でいる時間を重ねてはならない。LEDライトの自転車が増えてから、夜道は確実に気味悪くなっている。

 

4.LED照明の影響を受ける生鮮物は、廻り回って、恐ろしく悲しい風景を作り出す。異物によって生命力を無くした食品は、体の中でも当然異物となり、疲れやすさや気力・体力低下の材料となって、心身を蝕む。

 スーパーやドラッグストアなど、「LED感染」の内容を伝え、食品を扱う責任を実践してもらう。照明を蛍光灯に戻してもらうよう促し、それまでは、LEDの無い店で買い物をして、健康を守る。LED照明の当たる食品を食べること程、健全な人の細胞にとって辛いものはない。

 

5.街路灯のLEDは、夜間ずっとその空間を照らし続け、その影響力もしつこく深く入り込むものなので、以前のものに換えてもらう。自治体への働きかけを優先し、街の健全さを取り戻す。本来のものへと感性の土台を練り直そうにも、街全体が不健全だと、それも難しい。自宅からも目に入る場所にそれがあると、夜は常に、重く冷たい不安の光を浴びることになるので、精神は不安定になりやすく、生活感覚も乱れていく。

 LEDの光で照らされた道は歩かない方がいいのだが、そうも行かない状況では、光を見ず、近くに寄らず、足早に通り抜ける。健全さを普通とする人にとって、街路灯のLEDは、耐え難い辛さである。

 

6.LEDライト(ヘッドライト)の車を購入してしまった場合、極力夜は車に乗らない。車のライトの負の威力はかなりのもので、田畑や林、川や丘(山)が近くにある場所を通るだけで、それは小さな生命たちの生きる力を奪う。自然は簡単に壊され、街の中でも、郊外でも、車に注意しようとそのライトを見た人の脳は、要らない負担を強いられる。敏感で、心柔らかい人ほど、被る影響は大きい。

 目をそむけなければならなくなる車のLEDライトは、対向車にとっても、歩行者にとっても、交通安全ではなく、交通危険の道具となっている。

 

7.個人レベルで、最も他者への悪影響を考えずにその不健全振りを形にしているのが、家の塀や周りの木の枝や葉にLEDのライトを連ねる行為(装飾、イルミネーション)である。直ぐに止めるべく行為として、その危うい事実を認識する。

 子供たちは、何も知らず、そのキレイさに目を向ける。感性が自然で子供らしい子ほど、体(脳)はボロボロになり、その原因も分からずに不調を抱え込まされる。頭の働きが健全さを失くし、不機嫌で暴力的な精神状態になる子もいる。

 普通ではあり得ないそのLEDへの無感覚の様は、多くの人から健全さを奪うものであるゆえ、その気もなく人を病ませてしまう自らの(無意識の)危うさを、改めて知る。空間や植物たちへの影響も大きい。

 

8.LED照明のモールやショッピングセンター、デパートで買い物をすると、思考を使う分、対応も後手となり、知らずうちに感性は失われていく。不健全な人はより不健全になり、健全な人は、その健全さを発揮できなくなる。健全さを取り戻しにくくなるどころか、心身は後戻り出来なくなる程オカシな状態になってしまうので、そこへは行かない。どうしても行かざるを得ない時は、店全体の照明を消してもらうか、走って買い、走って帰る。(?)

 どんなに鈍い人でも、ゆっくり買い物をして、そこの化粧室で鏡を見れば、LEDの恐さが分かるはず。それでも分からない人は、きっとヘビー級の病ませ人に違いない。

 LED照明のコンビ二は、その経営スタイルからも、不健全さの濃縮具合が強いので、そこに在る物を口に入れることは控える。蛍光灯のコンビ二を選ぶ。

 

9.食品や雑貨、衣料品などの販売店の場合、LEDを使用していない店を選ぶことで、健全さと健康を守ることが出来るが、通勤や通学で毎日利用する電車やバスがLED照明だと、どうにもならなくなる。

 少しでもその影響を受けない(減らす)ために、可能な限り、乗る時間を減らし、車内では座席に座り、目を閉じている。(照明から離れたところで、外の風景を見ているのもいい)

 関係者に「LED感染」を伝え、「何が何でもLED」の世界の恐怖を知ってもらう。電車やバスのLED化は、最も恐ろしい負の原因が具体化した、病みづくりの象徴である。それはまるで、純粋な人の人生を奪う、走る‘命の吸い取り館’のよう。

 

10.可能な限りLEDから離れていることで、細胞たちも本来の意思を呼び覚まされ、少しずつ自浄力を付けて、力強い働きをするようになる。元々健全さを備えていたのだと気づけるぐらい、感覚も敏感になり、人間らしい感性がLED(の原因)によって抑え込まれていたことも、体験的に知る。

 そして、染み込んでしまっていたLED絡みの不安や怖れの感情が段階的に癒される中、平穏で、安心に包まれる時をごく自然に過ごせるようになる。LEDは、その原因の危うさが強力であるゆえ、その意識もなく感じにくさ(不健全な感覚)を普通としていた人は、それなりの時間を要するが、それでもそこから離れることで、縁する柔らかな人たちは気分良く、楽に過ごせるので、何となく自分も、以前とは違う感じを覚えると思う。

 要らない思考を使わず、頭を働かせ過ぎず、淡々と、LEDの無い空間が創り出そうとする原因の流れに乗ってみる。周りの風景は、重い荷物を持ったままでは、自然に見えることはない。

 

11.直ぐにでも出来る安心と健康の原因づくりは、室内の照明を従来のものに換えることで、それは早ければ早い方がいい。他にも、自転車のライトの交換は、お願いすれば簡単に済むこと。自分発の原因を処理し、他者の心身に負担をかけないようにする。そして、利用する場所との関わりを修正する。

 LEDばかりの大型電気店は控え、人々の健康的な生活を応援してくれる良心的な店(小規模店、庶民的なホームセンターやスーパーの日用品売り場etc.)を活用する。どんな時でも、どこでもいつでも、大切にすべきは、心身の健康(生命)である。その対極にあるLEDオンリーの店には、近づかない方がいい。健全な社会のその基本的な原因の風景にはいつも、健全な感性を持つ人の心があり、彼らの心ある選択がある。

 

12.「LED感染」を通して知り得たことや、思い出せたことを、一切の気負いもがんばりも無く、次へと流す。どんなに固められた状況でも、想いを伝え、感じてもらうことで、責任は力強くなる。形ある利益のために、失ってはならないものがある。ある枠内の良し悪しの次元を超えて、大切にされなければならないものがある。無くても良かったものが有り続けることの悪影響は、計り知れない。

 そのままであってはならないものは、やんわりと確かな想いで距離を置き、そこから自由になって、次への責任ある選択をする。身体細胞にも、自然環境にも負荷をかけ続けるLEDの危うさを、要らない思考で曇らせて(見えなくさせて)はならない。ましてや、人間のせせこましい欲で、それを支えてはならない。無自覚の無責任ほど、強力な災いの原因は無い。

 

13.店の照明がLEDに換わったために、今までのように買い物には行けなくなったという人は多い。車のライトが辛くて、夜間の外出は控えているという人もいる。家庭の照明を早くに蛍光灯に戻したことで、心身は元気になったけど、会社がLEDなので、疲労感が増しているという、実に困ったケースもある。

 LED関わりの問題事は、日々増えているのだが、感覚が鈍ってしまった(鈍くさせられた)人たちが安易にそれを支えてしまうため、柔らかな感性のままにそれに違和感を覚える人たちが、逆にオカシイ人として扱われてしまう。それ程広範囲で、深く、しつこく世は病んでしまっているため、ここに「LED感染(3)」がある。改めて、感じる感じないの世界を離れ、そこに在る、感じなさの理由と、その影響を観察する。それは(実に恐ろしい)元々なのか、そうさせられてしまったのか…。どこかに後者の性質があるとすれば、LED照明から離れ、細胞が喜ぶ食事と価値観を自らに重ね、その気もなく人の心を重くさせてしまっていたこれまでから自由になる。そして、感性を本来にし、未来が喜び、過去が癒される原因を共に生きる。

 

14.健全さも健康も、そして平和も友愛も、それらは皆、思考(頭)で扱われるのを嫌う、人としての基本要素である。それがいつのまにか、求め探し、失い、手にするものへと変わってしまったために、LEDという異物が幅を利かせる状況を人は引き寄せてしまった。責任は大きい。健全さを無くした人の選択・判断は、人の人生を簡単に奪う。影響力を持つ人のそれは、凶器である。

 思考では把握できない性質の原因がそこに在るから、この文章がある。繰り返し触れ、要らないものを外し、ありのままの質を、病気の裏返しではない健康と、争い事を知らない平和の原因のそれにする。「LED感染」は、そのサポートをする。

 

15.LEDの光には、健康的な要素が全く無く、それをごまかすように、あの手この手で欠点を分かりにくく、良さを押し付けながら、「多くの人が普通に使用している」と、嘘のように鈍感な人たちのことを引き合いに、先へ先へと進められていく。

 何となく体が重く感じたり、気持ちが晴れなかったりしても、それが使用しているLEDのせいだとは思わせない力がLEDにはあり、何らかの変化の直接的な原因にはなりにくいことと、それに平気でいる人が多くいることを材料に、その世界は、簡単に疑問(批判)類を撥ね除ける。

 LED照明の空間で思いがけず意識が散漫になれば、自分を責め、ミスをすれば、何でも無い人になだめられ(注意され)、その原因は隠れる。目がちかちかしたり、妙に喉が渇いたり、肌が荒れたりしても、他の人はいつもと同じなので、そこに何か特別な理由があるとも思えず、食事や睡眠、ストレスなどの分かりやすい理由で済ませてしまう。そして、LEDはほくそ笑む。

 

16.そんなだから、仕事や勉強などで頭をフルに使っている時は、よりその影響は分かりにくくなり、後々大変なことになる。もちろん原因不明だから、その理由は分からない。専門の人に聞いても、答えは無い。その恐さは、途中経過を省いてしまう。

 家で使う電気スタンドは、LEDのものを控える。それは想像したくない光景である。健康な人の生きる原因は、確実にしぼんでいく。

 LED仕様の小物も、極力控える。子供が遊ぶ玩具類にそれがあれば、その子のその後の人生は、普通感覚のそれではなくなる。LEDは、心優しい素朴な人の自由な動きを止め、そうではない性質を潜めて嘘を生きる人の自由を応援する。

 心身の活力が少しずつ削られても全く分からない、その原因の場所となる冷蔵庫の各種庫内灯にも注意する。せっかくLEDの光に照らされてない食材を購入しても、家庭で浴びせては何もならない。

 

17.室内の照明を蛍光灯や白熱球に換えるのも、自分の家であれば簡単だが、借りた部屋となると、それは難しい。なので、引っ越す際は、必ずLEDが使われてない部屋を選ぶ。もちろんIHも控える。

 LEDは、人の暮らしを支える明かりでも光でもなく、害をもたらす(毒を持った)発光体と考える。それを使用するというボタンの掛け間違いは、容易に、心ある人の純粋さと柔軟さを壊すものである。

 自宅の玄関や庭を照らす光にも、LEDは使用しない。よく利用する建物の内外にそれがあれば、その危うさを伝え、従来のものに換えてもらうようにする。虫たち(小動物)が姿を消すというのは、生命が危ぶまれるということ。当然、身体細胞も影響を受ける。ペット用品のLEDも、彼らならではの生を守るために、使用は控える。

 

18.段々と脳の働きが本来になり、感覚も健全なものへと変わりつつある中、LED仕様の文字や画面にも強い違和感を覚えるようになる。駅の表示板や店の看板(特に周りのランプ)など、見入らないよう注意する。それらに馴れてしまう状態は、人間味が深くから崩れてしまっていることを意味する。PCなどの画面にも気をつける。(使用を最小限にする)

 仕事でLED画面を集中して見続けなければならない状況だと(レジスター、PC etc.)、気づかぬうちに被る害も大きい。そこに居る時間を減らし、体を守る。それに平気でいる人のペースに合わせたら、心は完全に力を無くす。

 

19.そして、ふと気づけば、LED照明の無い空間の心地良さをあたり前に感じると思う。思考の働きもゆったりとムリが無く、体も軽く、気持ちにも余裕を覚えるようになる。それが如実に現れるのが、心ある人たちとの間での交流。温もりと優しさが普通となり、何があっても無くても、安心に包まれる時を共にする。心も身体も、想いも言葉(行為)も、自然で柔らかなものになる。LED照明が無いことを基本とする生活は、それだけで、人間らしさを育む大切な原因となる。

 

20.普通の人間の生命力を低下させるLEDの原因の風景には、生命のリズムが無い。それは停滞と収縮を生み出し、破壊へと発展する。LED照明のある空間で音を奏でてみると、それはよく分かる。自然で精妙な音源ほど不自然になり、音を大切にする人の耳に届く音質も違ってくる。たくさんの人たちが集まる音響施設でそれがあれば、思考の外側で、細胞たちが嘆く。生命体からその生命のリズム(鼓動)を妨げようとするLED。動植物たちは、ずっと前からそれを知っている。

 

21.感覚が健全なものになると、自然で健康的な感性が意思表示するようになる。体を動かしたくなったり、今まで行ったことのない場所に行ってみたくなったり。歩きたくなったり、想いを人に伝えたくなったり。

 そのことで、LEDから離れている時間も自ずと増え、自然界の中で生かされる自分の姿も、愛しく思える。手のひらはオープンで(電子機器が無く)、視界は広く、心は自由で、歩みは軽い。何でもないその普通があたり前に時を癒し、その原因が未来へと繋がっていく。

 頭を忙しくさせていた頃の経験ははるか後方にあり、そこから自由となって生きる生活は、理由の要らない喜びの原因と重なり合う。「LED照明って、一体何だったのだろう?」と、笑い話のようにそれは姿を消し、自然で安心感のある光(照明)の存在を皆で大切にする。それは、いつのまにか忘れさせられていた、真の普通。失くしていたことも気づけずに、何も分からないでいた、真の在り様。光は、かけがえのないものである。それが自然であることで、自然は安心する。

 

22.かつて、IHand 電子レンジ)でたくさんの人たちの健全な感性が抑え込まれてしまった時、それでもそこには自由選択の余地があったので、無難に切り抜けることが出来たが、LEDは、その背景(原因)も、送り手の姿勢(力)も、その性質がこれまでのものとは大きく違うため、自然界と生命世界の本質が、後戻り出来なくなる程壊されてしまうのではと、心ある想い(感性)をそのままに生きる人たちは危惧する。そこにある原因の嘘と欺きの力は強烈で、それへの対応は簡単ではない。

 しかし、簡単ではなくても、未来への責任として、淡々と連ねなければならない原因がある。責任は、責任ある原因の選択の中に在る普通のことで、責任を取る取らないの低次の発想は、その普通を持たない存在たちの世界で生じるものである。ここに、未来の心ある生命たちへの責任ある原因として、LED感染 (1) ~ (3)」を形にする。手にした人は、それを次へと繋ぎ、外へと広げていく。それは、この時代を生きる人間の、生命としての責任であり、次の時代が笑顔になれる、心の選択である。これまでから、これからへ。全体発の原因は、いつも未来が喜ぶみんなの原因と繋がっている。by 無有 1/11 2016

 

 

トップページへ