無有日記

 

6/29

11)否定感情から自由でいる人の話や仕草に訳もなく不安を覚える人は、その感情を燃料に攻撃的な姿勢を強め、相手の心の自由を奪い取ろうとする。その理由は、自らの無意識が否定感情そのものであるゆえの、人間本来への抵抗。心ある柔らかな感性は、彼らにとって許し難い存在となる。

否定感情を大事に隠し持つ人は、生命としての原因を持たないので、頭は忙しく、変化を嫌う。その原因の無さは、柔らかな人の動きを簡単に止め、鈍ったその原因の中に、重たい否定感情を流し込む。それは、感性豊かな人が生きにくさを経験する、最大の原因となる。

否定感情を普通とする人が好む世界は、不自然で不健全な重たい風景。自然界も支配の対象となり、自然体で生きる人が辛くなる物や形を好んで作り出す。その理由は、姿は人間でも、その中には人間性が備わっていない、生命本来への抵抗。その異常な性質(生命の周波数)の力によって、地球自然界は生命力を失くす。

自然界のどこにも、否定感情は無い。そこに生きる生命たち全てに、否定感情は要らない。人間が、その例外であるはずはない。否定感情は、元々は無かった(外から持ち込まれた)地球の異物。生命本来を生きる身体時間で、その居場所を無くさせ、否定感情が全く無かった時代との融合を密に、人間の、生命としての真の進化の再スタートの時を創造する。

6/28

9)それまでの地球環境には無かった性質のものが、同じ人間の姿を持つ存在からなぜ伝わり出すのかの理由も分からないまま、いつのまにか感性を鈍らされ、人生までも支配されてしまった、生命本来を普通とする人間は、それでも自らの原因をそのままに希望を繋ぎ、何があっても、どんな時でも、その本来を生命の歴史に乗せ、地球に住む生命としての責任をさりげなく真剣に実践する。人間同士が争い合うという発想そのものが全く無かった時代の風景を知るから、彼らは、どんなに世が混乱しても、新たな原因に力を注ぎ、どんなに厳しい現実に向かわされても、力強い意思を次へと繋いだ。

その全てが変わり得る時をここに迎え、そのための原因は、強く、柔らかく、外へと流れていく。無くてもよかった負の歴史の基礎を作った2人も把握できるところにいて、同じようにはいかない時の中で力を失くしていく。もちろん他の主要な存在たちも同様である。思考と切り離した無意識を自由に操り、そこに本性を潜めるという、普通の人間には働かせることの出来ない脳のある次元層の部分に住み付いて事を為そうとする、支配・征服欲だけのその存在たちは、同じことが出来ない人間たちを容易に操りながら、我が物顔に人々を支配してきたが、時を経て、それが完全には為し得なかった人たち(彼らが企てを試みるずっと前から生を経験する生命たち)の生命の望みと、心の意思表現の進化の前で、終わりの始まりを経験することになる。

6/27

地球自然界が辛くなるのは、そこに生きる生命たちの不自然な生き方による、自然への抵抗。自然体で生きる動植物たちは、共に生きているはずの人間が、自然界のことを全く無視した生き方をしていることに涙を流す。

昨今のLEDという、生命への凶器。その存在は、感性の鈍化の極み。どれほどの健全な生命たちが悲しんでいるだろうか…。この数十年で一気に退化の(世を病ませようとする)スピードが加速し出した、人間の生活空間。その最大級の材料の1つであるLEDと共に地球が地球でなくなっていく時、その地球の自浄力(反発)に対して、人間はどう対処するのだろうか…。

「本心と安心」の中にも書いた、その理由となる原因の風景。未来のために、責任は重大である。

6/26

10個の文章をUPして終了した「心と感性」。1つのページにまとめようと、何気にそこに意識を向けたら、「まった〜!!」の合図。その後すぐに現れたのが、「否定感情の無い存在(人、空間、価値観)を怖れる人の本性は、人間のそれではない」のフレーズ。…で、1個増えます。(

6/26

ピンクのポスター(公明党)の正体を「人間本来」に書いたことで、それが貼ってある家にはどんな性質(本性)の人が住んでいるかを、たくさんの人たちが再確認する。それだけでも、不必要な融合から離れられ、同業他者(幸福の科学、真如苑、立正佼成会etc.)の歪な思惑(原因の性質)も、容易に把握することになる。

「人間本来」の内容は、誰もが読める、とても軽くて、優しいもの。読むべき人がさらりと読み、本性の危うさを隠し持つ心無い人は、当然近寄ることもしない。それによって、どんな次が引き寄せられるか…。実に面白いことが、すでに原因の世界では進行中である。

人の不幸が好き、というのは、人が苦しむ姿を見て快感を覚えるということ。人の不幸を利用して利益を上げようとする人は、人が死んでいく姿を内心は喜んでいるということ。それを考えれば、人が病気になったら(入院したら)、その本性が活発になる創価学会(池田氏)は、○○蒸しということになる。その単純な構図は、ちょっと考えれば誰でも分かること。ムーセンテンスは、どこまでも普通。事件物やサスペンスドラマを好む同質の人たちが、彼らの凶悪な性質を秘かに支えている。

7月から、無有日記のページが新しくなります。

6/25

8)問題事に明け暮れる人間社会の、その土台となる人生を生きた彼は、人口が増えるにつれ、その負の原因を増幅させようと、時代の節目に何度も生を持ち、人々の混乱と悲劇を楽しむ。彼の父親は、息子を中心とする仲間たちが世を病ませやすいようにと、彼らが簡単には立ち向かえない存在の脳を、身体を持たないエリアから支配し、破壊する。彼らは共同で負の原因づくりを分担しながら、「歴史は繰り返される」の言葉通りの、人々の諦めと絶望の年月を連ねていく。時に朝廷の中にいて、武将たちを操り、時に僧として、世の苦しみを演出し、好き放題人々を支配するために、その時々の権力者(豪族、大名、将軍)となって闘いを仕掛けて、大勢の人の命を奪う。

元々争うことの出来ない人たちがムリに争わされ、差別心を全く持てない人たちが他を隔てざるを得ない経験を否応無しにさせられたという事実が、この国の歴史の内側である。歴史に学ぶのであれば、人々の苦しみに蓋がされた結果ではなく、彼らみんなの、その苦しみの原因に触れてみる。それが出来ない理由は、人間であれば誰も持てない。

6/23

7)その存在は、地球に流れ込む破壊の意思が、その具現化を何度も試みる中で少しずつそれが望む形になった頃に、初めて人間を経験する。彼は、親、兄弟の誰よりも強力な獰猛さを備え、その悪質な発想は、同質の存在たちのお手本になる程である。以前からその地域に住む温和な人たちは、次々と引き起こされるあり得ない現実に精神を破壊され、生きる自由を奪われ、奴隷となり、命を絶たれる。その時の、人々への痛めつけ方や殺害の方法を具体的に指導した彼は、凶悪な集団の中心となり、恐怖支配の基礎を作る。そこで生じた惨劇を、ここに描写することは難しい。

そして、その体制を完全なものにし、力と力のぶつかり合いによって大勢の人の命が簡単に絶たれる負の歴史の、その最大の原因となる人間を生きたのが、彼の息子である。同質の仲間を利用して使い捨てにできるその姿勢は、後の、心無い武将の残忍な手腕に活かされており、現代における不公正や差別、独占の燃料にもなっている。

6/19

…という間に、6月、2回目の東京B。あと10日で、今月も終わるということか…。前半のME、脇目も振らず、ひたすら走り抜けた感がある。

特別に何もせず、ただそのままの存在で必要とすべきことをさらりと行い、引き寄せる風景をその気もなく本来へと変えていくその原因を安定させるために、何かを対象とする時間(ワーク)が必要だったこれまで。いつまでもそれを続けるわけには行かないことは分かっていても、いつそれが終わるかを意識することも出来なかった、そこでのプロセス。

そんなこんなで、少し長めのなか日となったこの5日間、普通の質をより成長、進化させるための新たな風をここに招き入れた。それは、遠い昔の、何も無くても全てがあった、柔らかで温かな風景でのみんなの想い。責任ある未来への原因に、その風も参加し、時は癒し色に染まっていく。またここから。

6/18

6)現代人の知る、歴史上の全ての戦いと争乱は、皆経験するまでもなかった出来事である。それらを何の疑問も持たずに肯定できる時、その人の内面には、人には見られたくない惨たらしい本性が隠されていることを意味する。多くの人の命が犠牲となる争いや衝突が、必然であるはずがない。それへの理解は、その人のかつての経験を顕にする。

他者の命を奪う行為は、人間であれば決して出来ないこと。しかし、脳が形成される過程でそこに取り込まれた(入り込んだ)暴力と破壊の意思が、身体の成長とともに恐ろしく凶暴な自我となって、それを普通に人間を生きる時、そこでの理解は、本来を大きく外れる。人の命を奪うことに平気でいられるそれは、柔らかな感性を持つ普通の人を物のように扱い、酷く苦しめる。どの戦も混乱も、そんな存在たちがその原因を作り、やむなくそうせざるを得ない状況に普通一般の人たちは引き込まれ、そして、彼らの思い通り、彼らが満足する凄惨な現実が展開される。人間が持てない残虐で凶悪な意思を本性とする存在に対し、人間は何も出来ない。彼らは、その本性からなる感情を力に、永いこと支配欲を満たし、そこでの全てを、人々の常識にしてしまう。

6/16

5)その本質が生命を貪ろうとする意思そのものであるような存在が、ある天体に住み付き、それを支配して、後に地球に近づこうとした際、そうはさせない要素が太陽を中心として高まり、その試みは永いこと不可能となっていたのであるが、人間が、本来をそのままに他の生命たちと生を営み、豊かな想いと生きる喜びを人生に重ねながら生き始めたおよそ数千年前、その存在は、人間の脳の中深くに巧く入り込み、そこに溶け、その支配・征服欲を人間を通して実践するという、とても恐ろしい現実を実現させてしまう。太陽の意思をそらすために、他のいくつかの天体を中継し、核となる所在を隠しながら、それ以外は何も知らない(持たない)自らの凶悪さで、地球自然界と融合する生命たちの希望を潰していく。

その手法は、彼らにとっては不本意なものであったが、地球の自浄力のあまりの強さに、思い通りにならない不自由さを覚え、地球表面を覆うようにして取るはずのその本質の破壊力(地球感覚のあらゆる存在の生命力が、その分子レベルから停滞、破滅する、彼ら独自の重く高密度な粒子の影響力)を、地球に住む人間の姿を利用することで確実に為し遂げようとする。

人生の歴史という観点のみ持つ人にとって、これらのことは、その全てが嘘になる。しかし、生命の歴史に触れられる人にとってのそれは、どういうわけか喜びでしかない。その理由は、前者の無意識にあり、後者の心(魂)にある。

6/14

4)しかし、なぜある種の人間は、多くの人の命を奪ってまで支配欲を具現化させようとしたのか? 闘う意思を持たない村人たちを、なぜ残虐な行為で殺害できるのか? その理由が隠され、真実に蓋がされたまま延々と続けられた、迫害と差別の永い年月。権力を持つ存在の意向に逆らえば、それだけで簡単に命を絶たれるという、恐ろしい時代の連続。なぜそうであるかの理由に意識が向けられることはあっても、誰もそうではない理由の選択が出来なかった世の中で、どうにもならない負の蓄積が続けられ、その理由となる原因の風景は一層深く闇の中に埋もれてしまった。

でも、それほど恐ろしく厄介な原因が、遠い昔にこの国で生じたためにその後の厳しく不穏な時代があるわけで、未来を思う時、その新たな原因に、これまでの元となるかつての原因を触れさせてはならない。この国の歴史という作品の中に、人間本来を食べ尽くそうとする虫が潜んでいれば、それを取り除く。喜怒哀楽という感情の装いに、ボタンの掛け間違いがあれば、最初に戻る。それは、この今の、次の時代への責任である。

6/13

「生命の歴史」の原稿は、軽く、優しく感じられ、「心と感性」のそれは、相当厳しいとか…。確かに前者は、実感できるものがなく、読み物のようにして読み進められる。後者は、だいぶ前に書いた「生命としての思考」の実践編のようなもので、責任の質を高めていく機会となる。

だがしかし、感覚はどこまでも人間的なもの。それよりも、なぜその感覚がそうであるかという理由が、より深いところで変わり得る機会は貴い。おそらく、と言うより、かなり必然なのだが、「生命の歴史」と「心と感性」は、このタイミングで同時進行を共にする、とても美味しい(貴重な)セットメニューだと思う。過去という名のかつての原因が動き、今尚重たいままの未来への原因が変わり出す。面白い6月である。

6/12

3)そのことを知った、他の地域で暮らす心優しい人たちは、自分たちの集落が同じことにはならないようにと対応を考え、やむなく闘う準備をすることになる。しかし、全くそれは経験したことがなく、その意識を持つこと自体が違和感であったため、後に散々な目に遭う。生きる自由を奪われ、暴力によって命を終える(殺される)という、人間が経験してはならない悍しい現実を、人々は為す術もなく経験させられてしまう。

人の命を奪うことなどどんなことがあっても出来ない心ある素朴な人たちが、凶悪な存在たちによって窮地に追い込まれ、そのあり得ない現実に抵抗する中で取った、捨て身の反発と行動。この国の負の連鎖の土台となる風景には、争い事とは無縁である人たちがムリやり闘わされて残虐に殺害されるという、実に悲しい惨劇がある。そしてまた、歴史上の幾多の合戦で捨て石のように命の犠牲を強いられ、早くに人生を終える(終えさせられる)人たちは皆、闘う姿勢に強くなれない、心優しい純粋な若者である。死と隣り合わせの苦しみに耐えるだけの、大勢の心ある人たちの悲惨な生活の背景には、それを喜び、満足する、凶悪な本性の存在たちの、類い稀な支配欲がある。

6/11

2)いつまでも続くはずのその風景が、そうではなくなってしまったことの理由は、遠くの場所で暮らしていた性質の異なる人間たちのその非道な力によって村々が破壊され、日常の全てを冷酷な感情に支配されてしまったためである。その時の様相は、至極悲惨で残酷なもの。略奪と焼き打ち、拷問と殺戮が繰り返し行われ、村は全てを失う。残った人は、充分なものを与えられずに重労働を強いられ、感情を操られて人間性を破壊され、苦しみと嘆きの中で、次々と命を絶たれる。人間として無くてもいい経験が、同じ人間によって無残にも引き起こされるという現実を前に、人間らしさの原因は、苦しい程に力を失くす。村人たちの誰の思考にもその類のものは無かったので、それを受け止めるという自覚も持てないまま、何も分からず、人間としての何もかもが終わってしまった。

6/10

1)素朴で正直な人たちが、健康的に平和に暮らす、いくつもの集落。それら全体を治める心温かな指導的立場の人の元、人々は皆、何気ない日常での触れ合いを楽しみ、交流を深め、助け合い、支え合いながら、活き活きと普段の生活を営んでいた。誰のためでもなく、大切な事は淡々と進められ、争いや衝突とは縁遠い風景がみんなで繋げられ、立場上の役割を気持ち良く分担しながら、共に本来の普通を経験する。そこでの自浄力は、とても滑らかで、力強い。不穏な空気は入り込めず、問題事という概念も、人々は知らないでいる。そんな日々をその意識もなく守り続ける大人たちの確かな想いの中、子供たちは安心して遊び、元気に育つ。それは、未来が喜ぶ、みんなの普通。

6/00

6/21

10)人間本来の世界には無い、人を病ませようとする意思が、思考の域にまで上がる(言動、表情に表れる)ことを何より怖れるそうである人は、それを感知されないために、見た目では全く分からない無意識の力で、巧みにそれを行う。

その力が何らかの理由で充分なものにならず、不調の原因が本来へと動き出した時、その影響を受けていた人は、体調が良くなるという経験をする。つまり、病気の多くは、経験しなくてもいい経験の原因を知らないうちに染み込まされたことでそうなってしまっている不自然な状態であるということ。

その本性で密に繋がる、人を病気にさせる人と、人の病気を治そうとする人。彼らは、「人は病気になるもの」の考えに守られ、病気にならなくてもいい原因を高める人の生き方を真っ先に潰そうと躍起になる。

自然発生的に経験し、それへの対処(医療的処置)を必要とするけがや病気もあるが、多くの場合のそれは、本来であれば、要らない経験である。そのことは、誰もが知るべき体験的知識の普通である。

(不安や怖れで思うように事が進められない時、その原因を自分の中に観ることも大切だが、時に、事が進むことで変わり出す風景を怖れ、不安になる存在の、その重たい価値感情と要らない融合をさせられているためにそうなっている、ということもある) 「心と感性」おわりです。

6/20

9)その人が優しい人を演じるのを得意とするのは、それを不自然に感じる心が無いから。心が無いから、覚えた優しい行為が心になり、人を思う気持ちや言葉が心になる。

心が無いと、得することに頭を使うことが上手くなり、そのために学び、行動する。思考で、心の世界まで知識の域に収め、その知識で、心ある自分を巧く生きる。心が無いから、それは正しいこと。正しいから、自信を持って良い人でいられる。

心無い人は、心ある人を心無い人に変身させるのが巧い。同じようには出来ない心ある人の姿勢を違和感(不快感)として扱い、その素朴な言葉と行為を好ましくないものとして評価する。心ある人は、心無い思考世界に付き合わされ、不得意なことに悩まされながら、心無い人になる。

その人が、自分が心の無い人間であることに気づけないのは、人の心に反応することが出来ないから。自分がそうであることの理由を奥に閉じ込め、そうではない自分を演じることでしか生きていけないから。

心が無いというのは、生命本来の意思が無いということ。作り物の魂で、頭(知識)だけの人間を生きるということ。その責任は、いつも結果(格好)だから、責任ある原因(心)の前で、異様な姿(人間とは思えない本性)が顕になる。

6/19

8)どんな人も、初めて人間を経験する時がある。現代社会での知覚できる様相とその空気感、そしてその感覚の元となる要素は、その時がどんなかで、様々にその影響を受けるものだが、多くの場合のそれが荒んだ時代背景でのことであるため、世の本質が充分感得されていることは珍しい。

突き詰めて言うと、人の命と人生の奪い合いばかりの重苦しく不穏な歴史が始まろうとしていた遠い昔の、人口がまだ僅か数万人程だった時代に初めて人間を経験し、後への(未来数千年分の)恐ろしく強大な負の影響の原因となるものをそこで作り出していた存在たちは、現代人が知り得る限りの災い全ての元凶と言ってよい。歴史上の惨劇も、苦しみだけの記憶も、元を辿れば、人間とは思えない彼らの本性に行き着き、後に続く同質の存在たちによって増幅・拡大され続けたその本性と凶悪な無意識の力は、永い年月での迫害と差別(追放)の燃料源となっている。

人間味の無い歴史の土台が作られてしまっては、いつ、どんな時に生を持っても、人は、人間として生きることが難しくなる。だがしかし、この「心と感性」に触れている人たちの現代社会での知覚(理解)は、世の常識とされるものとはどこかが違い、ここに居ることの意味も、身体時間における経験も、ずっとそのままだった内なる意思の切なる具現化であることを知ると思う。

不穏な歴史の始まりの時よりもずっと前に人間を経験し、その時も、その後もみんなで繋いだ、ありのままの優しさと喜び。そして、それに呼応し、共に歩いた人たちの真摯な姿勢。すでにこの時代に届いていた、あの時その時の確かな想いが、かつて生命としての人間を生きた人たちをここに案内する。心の自由と人間らしさを、理由も分からず失い(潰され)かけても、より元気に、快活になれる原因の時を支え合い、負の連鎖を砕きながら、繰り返すことのない真の歴史を創っていく。この今は、あの時の風の行方である。

6/18

7)知ることの変化は、知らされている、知るまでもないことと、知らされていない、知るべきことを知ることで、その機会を手にする。知ることの成長は、知らされていることの背景の思惑と、知らされていないことによる後への影響を観察することで、自然と身に付けていく。

知る知らないの違いによって、優劣や善悪の価値感情が動く時、そこには決まって、知られては困る性質を隠し持つ存在の妙な影響力がある。知ることより、感じることで生まれる空間の大切さを本能的に知る人は、そんな世界には入れず、そうだからこそ、知るべきことをその時に知り、知るまでもないことから自由でいて、健全な感性と責任ある直感を育み続ける。そこでの知るは、優しさそのものの世界と繋がる、生命としての思考である。

送り手の本質が脇に置かれた情報のように、知ることが、全く知らないことと同一であることは多い。知らないことで自分らしくいられた時が、知り得たあることを、次への大きな力に変えることもある。知ることは、知らないでいられる人が経験する、変化そのものである。

6/16

6)食べ物が腐ると、降って湧いたように虫が集まる。蘇生型の微生物が活躍できる環境であれば、同じようにはならないが、そうではない腐敗菌が働けば、有害物質を媒介とする負の絡みが繰り広げられる。どこから虫が来たかを人間は知り得ることは出来ない。

身体感覚(認識)のあらゆる概念を取り除けば、人間という存在を存在させている次元と接点を持ち得る原因の世界には、蘇生型と腐敗型の性質の粒子(エネルギー)があたり前に存在し、多種多様の働きを日々行っていることを体験的に知る。脳本来の仕事が為されているかどうかによってもその体験の質は異なるが、理由の分からない喜びや辛さを感じる時のように、把握しにくいその原因の影響の中で、人は、日常的に生命力を高めたり、弱めたり(高めさせられたり、弱めさせられたり)を経験している。

そんな経験を通して、原因の大切さを遠ざけ、分かり得ないことは全否定する人の、その生命の周波数が腐敗型であることを、そうではない人は感覚的に理解することになる。その原因が腐敗菌のような人たちは、心臓が何で動いているかの理由には近づこうとはしない。それ程、その本質が隠せなくなることを怖れている。

6/15

蛇を神様扱いするとか、蛇をお酒にいれておいてそれを飲むとか…、それだけでも、人間であれば決して出来ない、気持ち悪いことなのだが、形容すると、まさに蛇のような人、という存在に出会した時は驚いた。何をすればそんな風になれるのか、不思議だった。あれから60年。ムーの歩みを妨げようとそれ系の人間が近づき、その都度、アイアンメイデンの曲を聴かせて退治する(ん?)。

中でも、神道系の密教が絡んだ存在の姿(おかしな能力)は恐ろしい。「この国の病みの始まり」でもちょこっと触れたけど、彼らは、血も涙も無い呪術屋という感じ。しかし、なぜ蛇なのか? なぜ呪術を使えるのか? その中身をいつか書いてみたい。人の生命力を、無意識の意思の力で人知れず奪える存在の、その理由を知ったら、人間観(人生観)も大きく変わるだろうな。なんせ、蛇を祀ること自体が、歴史的な嘘(事実隠し)の極みなのだから。

6/14

5)人は皆、苦しみとは無縁でありたいと願う。他者が苦しむ姿を見るのも、知るのも辛い。大勢でそれを願えば、みんながそのようになれるとある人は言う。歌や映像にして、それを伝えようとする人もいる。

しかし、そうではない現実。それは、歌も映像も、教えも評論も、その多くが、苦しんでいる人たちの存在を前提に作られ、発信されているから。そこに医療や経済までが加わろうとするから、人の苦しみは慢性化し、それをどうにかしようと、心無い人の嘘が元気に活動することになる。

人助けが、行為から始まり、それが結果として人の記憶に残りやすいものであれば、助けられた人は、その立場でいる原因をそのままにさせられ、苦しみは、時を越えても続く、終わりのないものになる。人が嬉しいのは、誰もが皆、苦しみの原因から離れていられること。それを共有できない存在たちが、ずる賢く苦しみの風景を抑え込み、更なる負の原因を振り撒きながら、良い人でい続けようとする。

その象徴は、愛情の無い(人が苦しむのを本心が喜ぶ)人が歌う愛の歌であり、差別心を固めた(期間限定の価値観を巧く利用する)人が書く、真を問う文章である。それらを通して伝わる、残忍で狡猾な本性に、人の感情は刺激され、思考は操られていく。

苦しみの原因を執拗に作り出そうとする存在たちが、最も嫌い、その力を失くすことになる、何の裏返しでもない安心と余裕、健康と平和。さりげなくその原因でい続ける。

6/13

4)自由な思考でいろいろなことを表現することだけに使われる頭は、思考を自由にさせる中で表現されることの脇役でいられる頭を知らない。新しく何かを作り出したり、問題処理に能力を発揮したりする頭であるが、その何かの質や方向性を手前でキャッチしたり、問題が生じない路線を未然に生み出したりする際の頭は、それとは違う。

それぞれの後者の働きをメインとする頭が活躍すれば、人の心が辛くなる物や形が、人間を通して作られることはない。対処しなければならない事にやむなく頭を使わざるを得ない時もあるが、それを作り出さない原因でいることに頭が使われることの意味は何より大きい。

思考は、生命としてのそれであれば、それは頭から始まらず、頭を通る。常に原因でいて、頭(思考)は自由になる。脳を充分に働かせている時のその状態は、理由の要らない平和の大切な要素となり、生かし生かされる優しい風景をさりげなく支える。

人間は、考える力を持つから人間なのではなく、考えるまでもない時間(原因)の質を高めるから、人間でいられる。思考を自由にさせる普通の中で、真の自由と創造の時を、頭は経験する。

6/12

3)人は、経験したことを元に、その時々の体験を知識と知恵に変え、思考を使って、それらをより良い人生の道具にする。ただ多くの場合のそれは、他者を隔てた差別や優越と繋がる「いかに生きるか?」のためであり、「どんな自分が(を)生きるか?」という、生命としての人生をありのままに生きる、人間本来の姿からは程遠いものである。

結果を重視する生き方は、体裁と建て前に燃料を注ぎ、自分にではなく人に正直でいようとして嘘を覚え、心を言葉で扱う偽善にも無感覚になる。そして、世間的に良い人でいられる自分に安心し、変わるべき世間の必要性を放棄する。

知識や経験から自由でいる原因を普通とする生き方は、それ自体が人間らしさの燃料となり、心のままに想いを繋ぎ、次(の時)との融合を重ね、言葉や行為になろうとする内なる真実がさりげなく時を癒していく。そして、不安の裏返しではない安心で、縁ある風景を包み、それを望ましい未来の原因にする。

生命にとっての経験は、いつの時も、残すものではなく、創るもの。形ある結果の違いを通して覚える変化ではなく、ただ原因でい続け、ふと気づけばそれまでとの違いを覚える、変化に乗ることの大切さ。人間時間は、全てとの結びつきを望む、生命としてのそれでありたい。

6/11

2)私たちは皆、この地上で人間として生きているが、その手前では、この地球に住む全ての存在たちと同様、生命を生きるという根源的な生の基本形を、身体表現の大切な要素とする。それを元に育まれ、成長するものは皆、友愛と調和をあたり前とするので、頭を働かせるまでもなく、互いにとって、みんなにとって大切なことが形になっていく。争いや衝突の原因も知らず、それゆえ、それらが生じる時を経験することはない。

しかし、その普通を実践することより、理解することに重きを置いていては、何をしても、何にもならない。生命を生きることの理解より、生命を生きていれば持てない考え、出来ない行為を自分から外し、その上での体験を初期段階の理解として、そうである普通の実践を人間時間に重ねていく。

そのための材料は、「無有日記」の中の随所にある。不公正や不健全な風景をその気もなく支えてしまう、それと同質の原因が少しでも自分の中にあれば、それをそのままにできる生き方を、生命は望まない。嘆きも苦しみも、その原因を生命は知らない。

6/10

1)大切なことを考えている時、本当は何が大切か分からない中にいて、その不安から逃げるようにして、自分にとって都合の良い大切なことを考えているだけ、ということは多い。良いことをしようとする時、それは単にそれを好むからそうするのであり、良くないことをする自分を嫌うという、多分に個人的な良いこととなっていることは多い。

つまり、大切なことも良いことも、その多くが、人の価値判断に影響を与える世間の常識や環境(時代背景)が変われば、容易にその姿を変えてしまう程、脆弱で無責任なものであるということ。それは、大切なものを未来に繋ぐという、その想いまでが、個の経験枠に左右された多種多様なものになってしまい、意識することで為される良いことに、何をもってそれは良いことなのか、という心ある観察が付き添えなくなることを表している。

その由々しい事実。心や精神をテーマに言葉を扱う人は、誰よりもその在るべき姿を自らが実践し、表現することである。

6/09

日本という国は、二本の歴史を持つ。元々は一つだったけど、遥か昔、二つになってしまった。ずっとそうであった「生命の歴史」に、どうでもいい「人生の歴史」が付着してしまった。

大阪出張中にふと書き始めた、その原因の風景。ほぼ書き終えたので、少しの間、控え室でボケ〜っとしてもらおう。6月中にスタートできたらと思う。案外、どんな不調にも、それなりに効いてしまうのではないか、なんて思っている。なんせそれは、病みの原因の原因の、そのまた原因の原因が変わる機会にもなり得るものだから。その時(二つになった時)を知る人たちの、切なる希望でもあるから。

…と思っていたら、即出番です。

6/08

3000年近く前の数百年間の性質を、ここに繋がるその頃の原因を通して感じ取ることのできたこれまで。そんな時を経て、3千数百年前行きの列車に乗って旅に出るようにして、かつての風景での出来事をより詳しく観察する時を迎える。

どう考えても、それはあり得ない経験。支離滅裂度も甚だしい。しかし、土地にも空間にも、時空を超えて為される自浄作用があり、ある場所で起きた事実の全てが見えなくなっても、それを元に生じたその後と今(の原因)があるわけだから、脳のある次元層の働きとその可能性をもってすれば、それは決して難しいことではない。

「この国の病みの始まり」「再生」を経て、更に深くへ行く。人間らしくない人間が、世の常識人であってはならないから。

6/07

要らないものが外れるだけで、心身は軽やかになれるものだが、感性が壊され、心ある自分を放棄せざるを得なかった時をかつて経験していたとすれば、脳の深いところ(生命の意思)がしつこく病んだままであるゆえ、それは難しい。その場合、そうさせられた状況の原因となる存在、及びそれと同質のその現在の姿を通して、より深いところまで届く浄化作用が必要となる。心ある人が心苦しさを覚える時、関係性も環境も含め、人生の手前の世界にその重要な原因があることは多い。

その仕事を淡々と進め、より具体的にそれを高めていく、2015年の無有日記。ここまで書いたから、次にタッチすべきところが自然に姿を見せる。アホモードを全開に、マヌケ虫のムーが、空っぽの頭をヘイコラサッサと使っている。

6/06

「生命の歴史」という観点を普通とする中で諸々の怪しい事実を観察すると、池田だい作と大川りゅう法は、全く同質の人間時間をかつて経験しており、生命としての核となる部分を持たないゆえの現在の姿、ということが分かり出す。つまり、そうであるがゆえに、自分を大きな勘違い人として徹底させることが出来るということ。それはまさに、頭だけでしか生きられない、心無し草のような本性。彼らは、ずる賢さの元祖的存在と言ってよい。

エネルギーは、どんな時も正直。形や物(数や量)でその中身を隠しても、多次元的な原因の分母の上では、容易に把握されてしまうものがある。それを怖れる人(見られては困る人)ほど、原因の質の大切さに背を向けて、思考で物事を捉えようとする。心と感性が無いための彼らの普通ではあるが…。

6/03

追)凶悪で醜い本性をそのままに、いくつもの生を経験する人は、熟達させたその無意識の力で、普通自然体の人間らしい人の生命力(人生)を人知れず簡単に奪う。そんな人は、人間らしく振る舞う術に実に長けていて、自分と相性の悪い健全・健康な食べ物も美味しく食べてしまう。(その分、本性の醜さは増すが…)主に病みのネットワークの要所を占める彼らではあるが、その無意識を思考に上げさせられてその中身(異物となるかつての記憶と感情)を把握されることへの恐れと怯えは、想像を大きく超えるもので、現在進行中のそれによって、彼らも、少しずつその力を失くさざるを得ない状況にいる。何であれ、その意識もなく行ってしまっている、普通ではあり得ない彼らの負(凶暴、破壊)の影響力が、その原因のところから確実に変わり出すことは喜ばしいことである。2015年の無有日記を材料に、心のままに想いを形にし、人間本来の普通をどこまでも活躍させていく。物も形も、言葉も行為も、皆その本質は、細胞が喜ぶ食べ物の意思(望み)と繋がっているから。

6/02

11)食事は、人間を生きる上でとても大切な要素であるが、それによって健康になる心身が、どんな世界の健康と繋がり、どんな人たちの健康を応援するかという、そのままで動き出すその原因の性質の働きは、とても重要である。その健康が、病気の裏返しではないありのままの健康と繋がり、心優しい柔らかな人たちの普通の健康を支えていけるものであれば、感性の健全さが鈍ることも、本来の普通が力を失くすこともない。そんな人を、悪質な無意識を持つ人が病ませようとしても、その気もなくそうであってもそれは難しい。変化し続ける原因の成長とその具現化は、その意識もなくあたり前に健康で平和でいる原因を強くするので、重たい無意識の意思に入り込まれることはない。不必要な融合があったとしても、いつも変わらず、むしろその経験を更なる変化の機会(材料)にする。「本心と安心」は、そんな人を増やしていく。人間本来の健康と平和の原因を、みんなで、未来のみんなに繋いでいく。

6/01

2015

…というわけで、5月の日記がおわり、6月へ。5月の内容がかなり厳しいものだったので、6月は、ずっとやさしい文章を書いていきたいと思う。たぶん。

「本心と安心」の原稿もあと2つ。ふと気づけば、そんな時。先へ行く。大阪BS以降、風の流れが同じなわけがない。MEの風は、向かい風でも、追い風でもない、自在に時空を旅する、多次元的な回転そのものの風。(←ん?)そんなこんなで、あれやこれやと、歴史の原材料を吟味する。

 

5/31

10)不調や違和感の原因深くに入っていくと、殆どの病気は、人間本来を生きるのが出来ない人たちの無意識の意思によるものであることが分かる。問題事も滞りも、その手前では、健全な原因を持たない彼らの無自覚の影響力が働いていることも分かる。

毎日、油料理や揚げ物などの酵素の無い食品ばかり食べ続けられるというのは、身体細胞が普通ではなくなっている表れだから、その人は、無意識のところに危うい感情を潜めていることになる。(中には、味覚と感性を壊されたゆえにそうであり、自覚が無いまま生命力を失くす柔らかな人もいるが…)普通の人は、彼(彼女)と縁するだけで、不必要な融合を強いられ、脳の周波数も乱れて、その自覚も無く病気の原因を蓄積させることになる。IH調理器やLEDライトの近くにいても全く平気な人は、健全な感性も、人としての心も持たない存在であるゆえ、時を共にすることも危うくなる。

人間本来は、共に生きる他の生命たちのためにも、また地球の未来のためにも、その質を成長させ、安定させるものである。そうではない人は、そのことを表すいくつもの事実からそれを知り、自らの負の原因を力の無いものにする。そして、その意識もなく人を病ませる本性とその理由を再確認し、人間本来を普通に生きる人のジャマをしないという協力をする。それだけでも、それなりの大切な変化である。それを、人間は嬉しい。

5/30

9)そのことを考えれば、人々の価値意識と心の在り様に深く関わる宗教関係者や教育者の責任は重大である。食においては、人間本来(細胞が喜ぶ食事)をテーマにそれが進められなければ、心身の成長も思考型のそれとなり、心の教えを実践することはできない。理由の要らない喜びがその教えに重ねられなければ、健康も平和も、原因が動かない個人のものになってしまう。

不安を固め、差別心を強めて頭だけで生きる人が、その重たい無意識の力を無くせば、人生は誰にとっても楽しいもの。辛さも苦しみも、否定感情が居場所を失くす中で、経験しなくてもいいものになっていく。それを支え、主導する立場の宗教と教育が本来であれば、「人生は苦しいもの」なんて欺瞞は通らなくなり、心身を病ませる食材や調理器具も姿を見せなくなる。

インスタント食品や電子レンジ(IH)で調理する物を食べ続けても平気でいられる人の、その理由と影響力を余裕で把握し、その意識もなく負の原因を溜め込まされ、いつのまにか病気になってしまうプロセスからあたり前に遠くにいる。そして、人間本来の細胞活動を妨げる製品(LED、電気自動車、リニアモーターカー、利用頻度増の電子機器etc.)から離れ、流れない感情(嫉妬、優越、隔たり)からも自由でいる。

(※新鮮な果物と全粒穀物をないがしろにする宗教(教育、経済活動)は、人間性を無視した存在による悪巧みと言ってよい)

5/25

8)その経験しなくてもいい経験を何の疑いも無くずっと経験してきている理由は、昔からあたり前のこととして信じ込まされてきた教えが、人々の意識の変化を抑え込んでいるためである。生命としての人間の歩みを阻止する目的で作り上げられたそれは、人間本来を生きる人が増えたら自分たちが生きにくさを覚える、そうではない人たちが生み出したもの。その代表は、「人生は苦しいもの。どんな辛い状況でも耐え、一生懸命がんばるのが人間」の言葉。

地球自然界の生命の営みとして自然に生じることであれば、それがどんなことであれ、人間は、その意識もなく耐え、気負いもなくがんばることを普通とするが、そうではない状況では、耐えなければならない苦しみを繰り返さないための機会として、その経験を活かす知恵を人間は持つ。

しかし、その働きが為される間もなく次々と厳しい状況が作られ、苦労を強いられる生活を常とする中で、人の意識は、重く流れない不健康な環境で耐え忍び生きることをあたり前とする。それは現代に至っても尚存続しており(させられており)、病気になることや、辛く苦しい思いをすることが、その原因は変わらないまま、仕方がないこととして扱われてしまう原因にもなっている。

5/23

7)一般に良いとされているものが、良い影響を及ぼすわけではなく、良い影響を及ぼすものが、良いものとして一般化されているべきである。その本来の普通に背を向け、身勝手な価値判断でもって良いもの(こと)を捏造する、人間らしさを欠いた彼らは、まるで寄生虫のようにして、心ある人の健康と平和を貪り続ける。

その本能の原点が、「再生」の負の材料となる部分と同一であるゆえ、耐え難い現代の争乱無き平穏な世では、ひたすらそれを隠すことに彼らは努める。人間本来を普通とする人の細胞が悲しみ、心が辛くなる物や形が一般に良いものとして普及することは、彼らにとって重要な隠れ蓑になっている。

それによって心身を病む人がいれば、行為としての心で上手く対応し、問題事に直面する人がいれば、本心に蓋をした親切心で協力する。心を持たない人の普通が、心優しい人の本来を壊し、人間らしくない人が普通の人間として主導する妙な世界で、人間らしい人は、言いようの無い切なさを経験する。そのままをさりげなく受容する、純粋で素朴な人は、余計な思考を使わされつつ感度を鈍らせ、理由の分からない停滞感や動きにくさと闘わされることになる。

5/22

)その際の典型的な道具は、電子レンジとIHである。食材は、精白された穀物であり、白砂糖や添加物である。その他にもいくつも例はあるが、穀物本来の働きを削ぎ、その基本生命力を無くさせ、そして人工的に美味しさを作り出して、平然と人々にそれを摂らせようとする姿勢は頂けない。

その根底には、不健全さを心地良く思う彼ら独特の本性があるゆえ、その形態の維持を貫こうとする意思は強固である。そのために宣伝を駆使して、早いうちから体に悪いものに慣れさせ(味覚をマヒさせ)、自分たちとは異なる柔らかな人を次々と不調にさせる仕事は怠らない。精神を病んだり、問題行動を起こしたり、また以前には無かった厳しい病気に見舞われたりする人の多くが、生命力を奪う生命の無い食べ物をその原因とする。数字の上での栄養価で体裁が整えられ、その実質が無視されたまま、一般に良い物として粗悪品が出回る背景には、権威ある人の悪質な思惑が手伝っていることもある。

5/20

5)本来を無くした人は、本来ではない物や形を都合よく生み出し、それによって、自分たちの生きやすさを強めていく。それは、その原因のところに、隔たりや苦しみを生み出す彼ら特有の重たい感情があるので、経験から自由でいて自然体でいれば、様々なところにその感情の産物を観察することができる。動物園や毛皮、IHLED。新興宗教や品格と公正さを失くした情報産業(システム)もそうである。中でもその影響が大きく、人間本来を普通とする人が辛く苦しめられてしまう産物が、彼らにとっては普通となる、生命力の無い不健康な食べ物である。

「食の風景」でも触れているが、人間には、頭(舌)が喜んでも、徐々に体(細胞)がヘンになる食べ物は辛い。それを何でもなく食べ続けられる人たちが力を持ち、大切な食の情報までが彼らの都合で操られてしまえば、人間は、健全な感覚的判断力を失くし、慢性的に脳を病ませ、真に生きることからも外れてしまう。心の基本形も生きる意味も思考の域を出ることのない、人間本来の世界を頑なに遠ざける存在たち。「食べたものが体になる」素朴な事実を考えれば、心も感性も作り物(思考)である人は、生命としての人間らしさを破壊する、災いの製造者ということになる。

5/20

事実から、その背景となる様々な原因を感じ取ることはとても大切であるが、時に、それは単に分かり得る部分としての事実でしかない、という謙虚な姿勢もまた大切である。やっと分かり得た事実の傍らには、それまでそのことを分からずにずっと放って置いたという事実があり、その原因がどんなものであるかを厳しく観察することは、それ自体が新たな原因の貴い燃料になる。そのプロセスを経て、厳しさの質も変わり、知るべき事実を知るタイミングもその感触も全く違うものになる。

ある事実に落胆する時、その多くは、それまで無責任だった自分を顕にする。ただ責任ある原因でいれば、全ては自然現象となり、余計な思考が働く暇もスペースも要らなくなっていく。それを知れば、頭を忙しくさせるものの多くの原因が嘘であることが容易に分かり出す。形や結果(目的)に直線的に思考が使われる宗教ほど、その偽善振りの幅は大きい。

5/19

4)本来を生きるのが出来なくなっている人は、その普通ではない状態の人生をかつて同じように何度か経験しており、そうである原因をそのままに(何の対処もせずに)新たな身体経験を選んだことで、今のその姿がある。その殆どは、どの時代でも、人間味の無い不穏な感情を強めながら、心の無い悪質な本性のままに、その意識もなく、ずるく、さもしく頭だけで生きる。感性の無さによる理解の浅さと、精神の未熟さゆえの意識の低劣さを燃料に、本能的に、心ある人の本来の普通を破壊する。そして、その多くが、何らかの形で、かの一族(「再生」)のある人生と関わりを持ったり、時や歩みを同じくして、同質の感情を共有したりと、変化とは無縁の負の融合を経験している。

人間らしさとは程遠い脳の働きと、否定感情(怖れ、差別、不安)を普通とする経験を重ねる中で、その影響を受けつつ、代謝を繰り返す彼らの身体細胞は、人間本来ではない状態の中で健全さを保つという、普通の人間には経験できないことを普通にしてしまう。見た目は同じ人間でも、中身は全く違うということが、いくつもの時代で作り出されていたのだが、人間らしくない(人間とは思えない)人間の無意識の力とその影響力によってその違いはかき消され、彼ら主導の、思考レベルの(表面的な)人間観が常識となっていく。

5/19

2015年に入ってからの無有日記を通して多くの人が改めて理解するのは、その本性が危うい人ほど、中庸という価値観を怖れているということ。その理由はいろいろなところに書いてあるが、彼らは心が無いため、心ある風景を知らず、心のままに生きることもできない。つまり、心という世界を支える大きな要素、中庸(地球大自然の望み)の理解と実践がゼロであるということ。

ムーセンテンスという、人間誰もが大切にすべき普通をどこまでも避け続けるのは、自らの中の無意識が異常だから。それを隠し続けるために、覚えたこと(知識)だけの世界での二者択一的な価値観のみを大切にし、それに人を付き合わせて、嘘の上塗り人生を生きていく。

二者択一的思考世界というのは、ある時の、ある種の人たちにとっての良いことはそこにあっても、みんなにとって、生命(未来、自然界、人間本来)にとって良いことは、何処にも無い。それは、どこかゲームのようなもの。その世界に執着できる人、させる人ほど、人の不幸が好きな人である。

※中庸でいる人は、生命にとっての必要性から、二者択一的思考の拡大版を、その原因のところから容易に操ることもある。

5/18

3)人間本来からかけ離れた人というのは、人としての健全な感性が無いだけではなく、長い時を経て、細胞の働きも人間らしさを失くしている。それは、その無意識(本当の自分)の中に、普通の人間が持ち得ない経験の記憶があることを意味し、それによって、感情が冷たく(惨く)なり、普通の人との細胞レベルの融合も難しくなって、本来であれば要らないもの(身体を持つ前に浄化すべきもの)をそのまま連れ歩くいくつもの人生で、心身の鈍性を普通としてしまったためである。それと繋がる(それに続く)同質の人たちは、その本性(獰猛で暴力的な無意識)の遺伝子を同じくし、健康的な心を持つ人とは融合できないという共通項を材料に、残忍な感情と不健康な食習慣を体調維持の要素にまでしてしまう。

その元となる背景の一つには、遠い昔、蛇を繰り返し食べていたことで、脳(感情)が異常となって、人間としての普通の感覚を無くしてしまった存在たちが、たくさんの人たちにそれを薬草だと偽って飲ませたことの影響がある。(※細かく切って日干しにして、それを叩き潰して粉末にする)でも、それよりも重大な背景に、その時よりもずっと前の、人間であれば決して出来ない獣同然(いやそれ以下)の、「再生」の中での行為がある。

身体を活用して、生命を生きることを普通とする人間本来の世界とは次元の異なる危うい意思がそうであれば(身体を持てば)、細胞レベルの原因も変異を連ね、質を変え、その細胞は生命源との繋がりも不要となってしまう程、その人間らしさの無い存在の意思と融合し、歪な普通(不健康)をあたり前(健康)としてしまう。

5/18

…という感じで始まった、新シリーズ。タイトルは、前回の大阪の時に何気に出てきた「本心と安心」。ピッタシのようで、そうでないようで…。今回、動かすところがかなりのエリアなので、読み続けていく中で、反応も強いのではと思う。食事が絡んでいるから、細胞もドキッとするのでは…。

5/17

2)人間本来からかけ離れた人というのは、その言葉の通り、人間本来を生きるのが出来なくなっている人なのだが、そんな人に限って、人間らしく振る舞うのを得意とし、人を思う気持ちも持ち続けられるので、縁する人は誰も、彼がそんな人とは思わない。

でもそれは、表面的な関わりで済む間柄であることでそうなのであり、実際のその姿に、人知れず心身を病む人や、その人の言葉の奥にあるものに反応して生きる力を消耗させられてしまう人がいる。そんな様子を見て、親身になって動く彼ら。その姿に人は感心し、良い人の印象は定着する。仕事で悩み、人間関係で苦労する人が、その元を作った人に助けられる光景はよくあること。

本来ではない人は、何が本来であるかを感得する感性を持たないので、人間らしい原因を普通としていると、彼らのそれが作り物であることがよく分かる。彼らが良しとする歪な普通には、頭で考えたことが心になるというのがあり、心(想い)が言葉になり、行為になる本来を知らないので、感じる世界も、思考発である。それは、優しい感情を作為的に作り上げ、それを自分だと思い込んでしまう程の危うい普通である。

そんな彼らが何より苦手とする、どちらでもあり、どちらでもない人間本来の在り様。そのテーマの前では、本性を抑える力が急に強まって、精神が不安定になり、心の無さが簡単に顕になる。そうとは気づかれないよう、覚えたことを大事に知識で身を守り、不自然な人と思われないよう、世間的に良いこと、正しいことに執着する。

5/16

1)原因の無い結果が存在しないように、病気には、そこに至るまでの不健康な原因の積み重ねが存在する。しかし、多くの場合が、その気もなくそうなってしまった不本意な状態としてあることを考えれば、そこには、その気もなく人を病気にさせる力が働いていることを理解する。

誰もが感じ取れるその力は、人が辛くても自分は平気で、人が困っても自分は困らない思考(価値観)や物、スタイルを持つ人の何気ない言動。それだから、自分が伝えたことや勧めたことで縁した人が病むことになっても、彼は何も分からず、その責任を感じることもない。時にそれが好意として為されたものであれば、より人は病み、彼は人思いの善人になる。

しかし、その気が無いとはいえ、人が心身を病み、生命力を失くすその事実は、とても怖ろしいことである。自覚は無くとも、そこには、人間本来から大きくかけ離れたその人の、人間らしさの無い危うい意思を感じ取れる。

5/15

同じ人間なのに、ある人は、電子レンジ(and IH)で調理する食べ物やカップ麺を食べ続けても全く平気で、元気そのもの。けど、ある人は、それによって不調になり、病気になる(早死にする人もいる)。LEDライトに心地よさを覚える人もいれば、細胞が萎縮する感覚を経験する人もいる。動物園(水族館)に何度も行ける人、辛くなる人。

その背景には、様々な理由が絡んでいるのだが、脳の働きを支配する無意識の世界(意思)と、感情の元となる部分の性質が、永い時を経て大きく違ってしまっていることがその重要な原因として挙げられる。そして、実に奇怪なのだが、ここでも(前者は)、蛇が絡んでくる。日本独特の病みの原点。主要な神社(神宮、大社)もそれを支える、妖怪村のようなオカシな風景。食事や物を材料に、さらりとその事実を書いていこうと思う。生命本来からかけ離れた親鸞(浄土真宗)の教えも、この国の病みの素スタジアムの土台となっている。

真実は、何が真実か、という思考の要らない、シンプルな事実から自ずと見える、その原因と理解。知るべきことが、知らされていることの中にあることは珍しい。

5/13

追)創価学会が力を無くす分、未来空間がより健全で平和になるというのは、人間本来を普通に生きる人たちにとっては、ごくごくあたり前の常識である。もちろんそれは、表面的な数の力や権力の類ではない、その内側の悪質な感情。他の心無い組織や集団も、その感情で密に繋がり、同質の危うい無意識の意思で、互いに世を病ませ、それぞれにその存在感を維持しようとしている。その桁外れで、酷く怖ろしい否定感情が創価学会の中にはあるので、生命本来をテーマにそれが変化することが何より重要になってくる。彼らが担う役割は大きい。

この無有日記に触れたことを大切な機会とし、人間として、生命として、それを結果にせず、原因のまま、次へと繋いで欲しい。無有は何も知らず、ただその人にとってその時に必要とすること(原因)を、その人の思考をはるか超えたところで容易に知り得ることを普通とする。つまり、常に無限分の一の原因の分母が仕事をしているということ。まずは、このページをプリントアウトし、それとの融合を経験し、それによる変化を楽しんでみて欲しい。きっと、真の自分にとって、実に面白く、ステキな現実が、その手前のところから動き出すと思う。

5/12

11)時は、20155月。今ほど、人間の在り様が未来地球に影響を及ぼす時は無い。この国においては、この時の観察と実践の質の変化が、望ましい未来の貴い要素となる。

知らされていることから自由になり、知るべきことを知る。信じていることから、信じ込まされていることを外し、自らが真を生きる。そして、そうであってはならない現実の原因を、感じるままに余裕で変えていく。創価学会の本質を知れば、それが未来には持って行けないものの代表であることが分かり、それによって、同業多集団(組織)の重たい原因も崩れ出して、政治や経済は、人としての普通のそれになる。未来が喜ぶ原因を生きることは、どんな人の心も知る本来の普通だから、それを分かり得ない心の無い存在に付き合うという、あってはならない経験を生命の記憶に残してはならない。

ずっとこの時を待ち望んでいた姿無き多くの生命たちと共に、新たな次へと歩み出す。心ある人たちの安心を普通に、その原因を時の流れに乗せていく。この今、この時、力強い普通感覚をそのままに、生命を生き、人間をやる。

5/12

日付がずれずれの無有日記。5月の日記に連動して、以前とは違う軽さを覚えたり、動きやすさを感じたりする人が増えているのは、それだけ、創価学会&同質の他が人々の健康に影響を及ぼしていたということ。彼らがなぜそうで、心柔らかい人たちがなぜここまでダメージを受けてしまっていたか、という理由は、かつての酷い風景と同じものが、現代版として巧みに繰り広げられてしまっているということ。歴史の知識(情報)をゼロにして、平安や鎌倉の庶民の暮らしに意識を向けるだけでも、何か感じられると思う。

人間の心を持たない彼らは実に奇妙な力を持っていて、それは、初めて人間を経験した時のその獰猛な原因(動機)をそのままに、同質の人生を繰り返し送るという、普通の人間にはできないとても恐ろしいもの。素朴な想いと違和感を抱いて、みんなのために動いただけなのに、そのために惨たらしく殺害された人。彼を支えようとして迫害された人。彼(彼女)を殺した、人間とは思えないその存在は、次の生でも、また次の生でも、その人を近くに置き(その人の近くに居て)、彼を苦しめ、人生(命)を奪うことを平気で行う。(その背景は、「日のあたる人生の中庭」でも書いている)

創価学会&同質の他は、かつて集団でその類のことをした存在たちが現代仕様にその姿を変えただけで、本性(原因)は、あの時、その時のままである。だから、4月、5月の無有日記で、健全な感性を持つ人たちが楽になっているということ。「人間本来」も、もうすぐ。

5/11

10)悪質で残忍な原因(意思)を創価学会の中にあたり前に感じ、異常で恐ろしい思考の性質をそこに居る人たちから余裕で知り得る、そのことの責任を、ここに言葉として表現し、それを未来に繋げる。未来は、この今に生きる人々の心の風景をその原因とするから、かつての人々の未来となる今に、その時の、未来には持っては行けないはずのものが未だあれば、次の時代への責任として、この時代を本来にする。それは、この国のこの今に生きる人間として、この地球に住む生命として、大切な役割である。

誰もがそうである普通が遠ざけられたままだと、人間の心を持たない存在が、それらしく人間でいられ、地球が悲しむ。心ある想いと健全な感性があたり前でなければ、生命にとって大切なことが、個の思惑による思考で扱われ、共に生きる他の生命たちは辛くなる。未来はみんなの中にあり、その中の確かな原因を未来は嬉しい。過去はみんなに望みを託し、その質の成長と進化に過去は安心する。たださりげなく真剣に、責任ある原因を生きる。

5/10

9)現代に至るまでのこの国の歴史と、この時代の社会環境の変化を元に、人々が観察し得る事実を通して、その原因となる意思を感じれば、創価学会は、実に巧妙に、その凶悪な意思を実行する。それは、人口の減少。大勢の若者たちが生きにくさを覚える不健康な環境を秘かに作り続け、10年、20年…と年数をかけて人々を病ませ、心ある純粋な人たちの人生を奪って、自分たち(心の無い人間)の割合を増やしていく。50年後には、あり得ない病的な現実。100年後には、完全なる支配が為され、人口は徐々に増えるが、殆どが創価学会員(and同質の人間)となる。それは、その中枢にいる存在たちによって継承され続ける、彼らの本性、無意識の意思。集まる多数の人たちは、その意思の実行役として、その意識もなくそれを行う。

その原動力となる、記憶の中の経験とその性質は、かの一族と共に残酷な殺戮を繰り返し行っていたかつてのいくつもの時代の、人の命を奪う快感と人間らしさの破壊。現代ではその時と同じようには行かないため、同質の他と、その手段と影響力で巧く住み分けをし、世をオカシクさせていく。それは、世界各地で生じる紛争と迫害に、その燃料となる凶悪な原因(エネルギー)を供給する程である。

5/10

MEが(を)支え、守り続けている存在たちが初めて人間を経験したのは、その多くが「再生」よりもずっと前で、彼らの本質と融合する人たちが、その後のいくつもの時代に初めて人間を経験し、共にここにいる。

それを考えると、その本性を道具に、直接・間接的にどこまでもMEを潰そう(ジャマしよう)とする人や、MEの行く手を阻もうと、未来に取り返しのつかない負の原因を残そうとする人が初めて人間を経験したのは、その多くが「再生(2)」の時であることが分かる。「この国の病みの始まり」の中の凶悪さそのものの存在たちも、もちろんその時である。

「エネルギーは正直」というフレーズ。それは、彼らの今の無意識の中にある、浄化されないままのエネルギーの記憶(の性質)を、必要な時に、必要に応じて容易にキャッチする。

5/09

8)本当のことは、本当という言葉を使いたくないぐらいそう思え、感じられること。湧き上がる想いがそこに案内してくれる、みんなにとっての大切なこと。その理由を必要としない本当のことは、そうではない世界の原因を知らず、何が本当かどうかの観点も要らない。それは、身体を持つ前の生命の意思とも繋がり、あらゆる物事の原因深くで、存在としての責任を次(未来)に運ぶ。それに自然に触れることが宗教の姿であり、そうであるから宗教と言える。

そこから外れると、その自覚もなく、思考で宗教を扱うことを覚え、不穏な組織(集団)の不自然な活動を直接・間接的に支えてしまうことになる。その不自然さの最たるものが創価学会であり、本当や本物の言葉を掲げて(自らの嘘を隠して)真を弄び、苦しみの製造という、人間には出来ないはずのことを行っている。

いつか、この文章が笑い話となり、何をしてもしなくても、どこか嬉しくて、理由の要らない喜びに皆が笑顔になる。その時のために、今ここに触れる人がいて、その人を通して変わり出す世界がある。変わるべきことは、それを変えようとする力が強くなることよりも、それを変えさせない存在の力が無くなることによって、ふと気づけばいつのまにか変わっているもの。そのために必要なのが、ぶつからない原因。水や空気のように、どんなところにも伝わり行く、柔らかな想い。強弱、大小ではない、その次元の違いが、不自然な状況の原因をさりげなく変え、不調和な風景の重しを外していく。

宗教を隠れ蓑に暗躍する凶暴な組織が権力を持てる背景には何があるかを考えてみる。宗教心を持たない危うい人たちが普通の人として集団で生きていけるその原因の風景を感じてみる。それらを余裕をもって観察、把握できれば、創価学会の土台の中に隠されて見えなくなってしまっている、その恐ろしい意思を浄化する機会を創り出すこともできる。

5/09

もうすぐ出来上がるであろう、「人間本来」のページ。完成したら、しっかりと(?)プリントアウトして、多くの人に読んでもらってほしい。それだけで、辛い時を過ごすだけだった素朴で純粋な人たちが元気になれる機会を手にすると思う。なぜそのページの文章がその力になれるのか、という理由は分からなくてもOK。それよりも、そうなれることの普通のそれを、新たな理由にしてみると面白い。そして、新たな次へ。より快活になれる原因の時を、共に支え合う。

5/08

7)創価学会には、その気もなく何となくそこに居ることになってしまった人や、親の影響で(親に従うかたちで)その世界があたり前になってしまった人がいる。仕事上のお付き合いやある立場としてやむなくそうであったり、親戚付き合いの都合でそこに関わりを持ち始める人もいる。当然そんな人たちの中には、普通の感覚を持っている人もいて、そのために、心身を病むことになる。精神的な疲労(辛さ、苦しみ)をしつこく溜め込んだり、重病を患ったりする人もいて、苦労の絶えない家族は多い。

外から見れば、その原因が創価学会の歪な価値感情にあることは明らかなのだが、そこにいる人は、思考を自由にさせる間もなく勤行や奉仕を意識させられ、そんな時でも、信心やお布施が足りないと巧く思考を操られる。そして、頭が喜び、心と細胞が苦しむ人生を生きることになる。世の平和をポーズにご利益先行の集団は、それ自体が、強力な病みの発信源となる。

5/07

6)創価学会の世界での経験は、変化そのものの生命を生きる人間にとっては、経験するまでもなく容易に分かり得る、要らない経験である。浄化されないままだったその無意識の性質(異物の影響)を観察すれば、身体を持つ前に居た世界の次元もよく分かり、彼らがそうであったことを理解することが全く不可能であることも理解する。(だからこそ、他者を通して見える自分の認識が必要なのだが…)

であればどうすべきか、ということになるが、心(原因)を持たない彼らには、行為からなる価値判断しか出来ず、その質を成長させたり、その手前の自分を観察したりは、経験の外側の(思考の限界を超えた)ものとなるため、それは限り無く難しい。それよりも、経験しなくてもいい経験を重ねたこれまで(負の蓄積)を元にそれ以上何かをしようとはせず、ただそのままで何でもない時間を増やし、頭を不必要に働かせない時を過ごす。そのことで、不安や怖れ、こだわりなどいろいろな性質の感情が姿を見せることになるが、それは、自身を観察するという、それまでには無かった原因の機会を手にするということでもある。それを善悪、正邪の観点で捉えなければ、それだけで、人間の望むべく在り様の基本となる材料を、感覚的に経験する。それは、貴い出来事。行為の手前の存在の質に僅かでも感応し、心が育つ場所が誕生する時。それはまた、心を持たない人が心を経験し、心を育て始める、大切なプロセスである。

5/07

5)創価学会の人たちが今のまま行こうとすれば、彼ら自身、どこまでも無知のまま、人間を知らず、生命も生きられず、他者をその意識もなく災いに巻き込むという、辛い時(転生)を繰り返すことになる。

自分の中に在るべきものが無ければ、それを認め、創る。真の慈悲は、どんな重たい人の無意識の中にも入って行き、真の愛情は、そんな人の変化を余裕で支え続けるものだから。知らなければ、自分を知る人を通して経験の質を変え、新たな経験を創る。真の喜びは、中庸そのものの原因とのさりげない融合であり、真の幸せは、その質を高め、それを具現化することだから。それには、隔たりも争いも存在しないゆえのとても厳しい時の受容を要するが、それを外して先へと行くことはできない。

創価学会は、創る価値のあることを学ぶ会。でも、学んでばかりでは、何も学ばないのと同じ。形よりも心、思考よりも想い、結果よりも原因をあたり前に、共に人間らしい人間の経験を創る。

5/07

どうにもならないことがどうにかなってしまう時、その訪れは、とてもさりげない。いろいろなことがあったけど、少しでも動ける自分が嬉しくて、さらりと次へ行く。そうであった理由が外れて行けば、もうそうではない理由が背を押してくれる。

何もなくても全てがあった、優しさそのものの時の風が吹き続ける5月。それは、人生にとっての新しさ。生命にとっての懐かしさ。遠い昔の、はるか先の未来の今に、幼い時代のいくつもの顔が笑顔で集まり出す。

5/06

4)現代において、他の何よりも人を災いに招き入れる術に長けた創価学会には、自分に嘘をつける人がいくらでもいる。その姿はどこまでも軽く、表面的で、どんな時も心薄く、形式的なのだが、誰が見てもその人は善人風の良い人で、それなりに、それらしく人を思い、気は優しい。でも、その中身は、嫌な相手を容赦なく潰し切る、残忍な意思。何があってもそれに気づかれず、どんな状況でもそれを自覚することのない徹底した嘘(という意識もなく嘘を生きる手際の良さ)で、純粋な人の人生(命)を奪う。そのために、世間体と流れない(期間限定の)常識を利用することは忘れない。そんな自分を良識ある普通人として生きるその虚偽の姿勢には、自然界が苦痛を覚える程の無意識の凄さがある。

ふとその世界の違和感深くに入ってみれば、彼ら特有の無意識の原因の風景から見えてくるものがある。それは、その総体としての本性の遺伝子が、「再生」の中の一族と密に繋がっているということ。それは、自分たちの中に、本来の人間が持ち得るものが何も無く、その人間味の無さ(残酷さ、凶暴さ、全体への無知と感性の無さ)を隠すために、思考(頭)だけで生きられる世界を、互いに支え合って、維持しているということ。優しさも思いやりも、彼らにとってはキレイな包装紙のようなもので、心が無い分、その厚み(キレイ事)は終わりが見えない程である。

5/05

不安の総合点をテーマに話すことがあった。不安だから手にする物、不安だから行こうとする場所、そして、不安だからこだわり続けるもの。身勝手な思考と無責任な感情がそれに加われば、人の命が軽んじられる大きな紛争にまで転じる不安。普通の人の健全さまで飲み込んでしまう程の密度の濃い不安の持ち主に出会すことは容易ではないが(危険極まりないが)、時代の意思は、そのテーマを放って置くことはしない。5月の無有日記で、それを余裕で観察する。

5/04

3)心を思考(言葉)で扱うことしかできないその異様な無意識(本性)の影響力を考えれば、心のままに自然体で生きる人は、彼らの何でもない動きに本来を壊されてしまう。地域に創価学会の人が住んでいれば、それだけで、敏感な普通の人は体が疲れやすくなり、要らない頑張りを強いられてしまう。学校の中(特に教師)にいれば、子供は、子供心を失くしていく。自らがそうである原因そのものであるから、彼らには何も分からない。その分からなさを武器に、無意識の意思のまま、不穏で重苦しい空気を蔓延させていく。

不自然な事実がそこにある時、同じようなことが起きた時のための対応という、結果の学びではなく、二度とそうならないための、なぜそうなってしまったかという原因の学びが普通自然体の人間の姿である。放って置けない事実が長く続いているのも、問題事の原因を作らない人の姿勢よりも問題事の処理をする人の行為が重要視されてしまうという、生命を生きる人間としてはあり得ないオカシな現象に、人々の思考が慣れさせられてしまったためである。その巧さは、凶悪な意思表現を普通とする創価学会の性質そのものであり、それによって心ある人の原因は無視され、素朴な想いは抑えられてしまう。

5/03

2)つまるところ、創価学会というのは、心よりも形、想いよりも思考、原因よりも結果という、典型的なご利益onlyのビジネス集団で、昔で言えば、凶暴で残酷な意思を持つ支配者の元で、自分たちだけの安心のために他を隔てながら停滞と不健全を巧く生きた重たい人たちである。その意識もなくそうである現在の彼らの姿は、その本性の中に、かつての人間味の無い惨さ(の放任)の記憶が潜んでいることを意味する。それを喜ぶ、現代での「再生」の中に登場する一族たち。外にいて、創価学会とは無縁の立場で、彼らの負の原因づくりを応援する。

日蓮の言動(と言われる話)を利用するあたり、仏心の無さが顕になる。数の力で本心をごまかすあたり、愛情の無さを覚える。権力で利益専有(独占)を図るあたり、我欲まみれの醜さが見える。それは、心を持たない存在たちの妙な力。思考レベルの優位性(特別化)を維持しながら、慈悲心までをも作り物にしてしまう。

5/02

このところのシリーズ物は、カフェで書く割合が減り、ひたすら歩き続け、その都度立ち止まり、そしてノートを取り出して書く、というスタイルが増えた。ワーク前後は特にそれが強まり、大阪では、誰が見てもヘンなおじさんになっていた。なのだが、なぜか大阪に向かう新幹線の中では、かなりのスピードで書き続けてしまう、あぶないムーがいる。今回も、新大阪に着くまで、電子レンジやIHで調理する食べ物を食べ続けても全く平気で元気な人たちの、知られたくないその理由をテーマに、言葉になろうとする世界の意思にただただ付き合っていた。「人間本来」の後に続くかも。

いつだったか、「ムーが歩くと、違和感に当たる」と書いたけど、この頃は、その違和感を覚えた場所が姿を消したり、別なものに変わったりと、妙に忙しい。そう、原因がぐんぐん動いているということ。重たい原因のままの存在たちが、焦って、怒り、威張って、怯えて、実にオカシな表情を見せている。

5/01

2015

1)創価学会が世の中に影響を及ぼし始めた頃(70年代に入るあたり)から、子供たちの学校生活は乱れ始め、若者の突然死が少しずつ増えた、ということを知る人は多い。…なんてことを書くと、その根拠は?となる。もちろん根拠はいくつもあり、たくさんの人たちがそれを知るところだが、その中の一つに、生命(本来の人間)が喜ばない彼ら特有の価値観がある。

形でどんなに繕っても、中身(本心)は、自分たちだけの喜び(利益)。ありのままにみんなの喜びを普通とする一般の(健全な)子供たちは、その歪で重たい世界に反応させられ、心身は重くなる。大切なものを大切に出来なくなり、希望を失くす。

健全な感性を持たない人が殆どを占める創価学会には、細胞が悲しみ、心が辛くなる物(食品、品物)に対して違和感を抱く人がいないから(それほど成り立ちが人間ではなくなってしまっているのだが)、快活であるはずの素朴な若者は、慢性的に不健康になり、脳の働きも不健全になる。そして、早くに命を落とす。

創価学会は、それに対してどうにかしなければ、とポーズを取り、存在感をアピールする。無有日記の中の、「無意識で人を病ませ、思考で人を助ける」がそのままである。

とりわけ、彼ら創価学会(公明党)のポスターと??な会館は、恐ろしく不気味で、心ある人をどこまでも苦しめる。ポスターが貼ってある家は、凶悪な本性そのままの人が住んでいる証だから、それはそれで分かりやすいという点もあるが、それにしても、それらから伝わり、流れ出す、残忍さを秘めた動きの無い(純粋な人の動きを止める)原因は、限り無く暴力的で破壊的である。どこまで生命本来を無視し、人間を堕落させれば、そんなことが出来るのか? 組織全体で、じわじわと心柔らかな人の生命力を奪うその無意識の姿勢は、「この国の病みの始まり」と「再生」の中の存在たちと全く同質である。

創価学会の人が10万人集まっても、彼らの中に染み込んでしまっているものを観察すれば、未来が喜ぶ原因でいる人は1人もいない。それだけ、その心の性質は、時代の異物だということ。原因の世界(生命世界)では、それは分かり過ぎるぐらいの常識。創価学会は、望ましい未来の風景から見れば、「そうか、がっ○○」である。

どこに居て、どこを通って今回身体を選んだかをその無意識(本当の自分)は知っているはずの、その世界の親分たちは、同じようには行かないこれからをどうするのだろうか? 人間としてのチャンスをムダにすれば、生命としてのチャンスは永遠に無い。「この国のこれからのためにW」も参考になると思う。

 

狭い世界でのみ通用する考え(教え)の外の世界を知らずに(知ることを許されずに)成長した子の内面は、可哀想なくらい未熟である。それゆえ、その世界から離れるなんてことは殆ど不可能となり、その自覚もなく社会を病ませ、その病みを支えてしまう。手遅れになる前に、要らないものを外し、動き出す。人間であれば…。

そうそう、創価学会が力を持ち出してから、結婚しない人や子供を持たない人が増えたという、日本の将来にとってとても危うい面もある。感性豊かな人の健康を望まない彼らの無意識の意思を感じれば、その理由は明らか。

 

4/26

「再生」の中に出てくる一族には、時代を健康で平和なものにしていこうとする人の動きを徹底的にジャマする存在と、時代をどんどん病ませようとする存在の2つのグループがある。時代時代で入れ替わったり、混合したりといろいろだが、負の利害関係で密に繋がるその病みのネットワークは、実に不気味である。

MEの世界をあの手この手でジャマしようとしていた前者の存在たちは、ムーを意識せざるを得ない状況の中で本性を顕にし、無意識(本当の姿)を頭に上げさせられ、ネットワークもぐちゃぐちゃである。次の時代のために、彼らの居場所も、かつての惨い経験も、少しずつオープンになっている。

後者の存在たちは、歴史の中での残虐非道な支配者及びその層にいて、現代では、その本性を巧く隠しながらも、多くの人の分かるところにいる。(強者は、どこまでも姿を見せようとしないが…)「人間本来」は、後者の影響力の現代版とも言える。

ムーの頭の中は、相変わらず空っぽ。無意識も意識も何も無い。ムーの中には心が無く、心がムーになっている。だから、心が無い人、頭(思考)だけで生きる人がなぜそうなのかがよく分かる。分かり過ぎて、言葉にするのも億くうになるけど…。

4/25

5月に入るまでには、という気もなく、その時までに終わるべきことが終わっていた、と後で分かる感覚の中にいて、そのことがこれで、あれでと、不思議な時間を過ごしている。もうすぐ、5月。「人間本来」の原稿(創価学会の文章)がUPされる月。

創価学会の中心的存在というのは、「この国の病みの始まり」の中でちらっと姿を見せたことがあり、「再生」の中でも、息を潜めて隠れていた存在。現在の手法とその原動力は、その頃のあり得ない酷い経験を通してその本性に染み込ませたものであり、現在の、頭と切り離した無意識の中身は、そのままである。

純粋な人は、やむなく経験させられたことの記憶とそのエネルギーを、次の生のために浄化する。そうさせた、変化も浄化も知らないそうではない人は、その記憶を無意識に閉じ込めたまま、そのエネルギーを本性の力にする。もちろん彼は後者である。

4/24

ずっとセンテンスを書いてきて思うのは、まだまだだな〜ということ。感性が本来でいる人には、センテンスをUPする前から、全体をテーマに融合させてしまう程の原因が常に仕事をしているのだけれど、根っから重たい人や感性(原因)の無い人には、それが難しい。もちろん、そこには理由があるのだが、そんなことを言っている場合ではない。

「人間本来」に出てくる存在のように、長いこと洞穴から出ようとしない人たちには、太陽や自然の恵みをどう教えたらいいのだろうか? 体の中で全く栄養にならないものを食べ続けても平気な人たちに、細胞の意思(喜び)をどう伝えたらいいのだろう? 言葉(思考)としての心しか知らない人たちに、心が言葉になる生命世界の普通をどう経験させたらいいのだろう?

カレー愚鈍ばかり食べている、発展路上のムー。これからだね。なんせ、彼らは、IHLEDの恐さに全く無感覚な程、人(生命)を辛くさせても(苦しめても)、無自覚なのだから。

4/24

思考と裏腹の本心を隠し続ける人は、世間の常識を巧く利用し、庶民感覚の違和感も、都合よく自分のものにする。しかし、その原因には健全さが無いゆえ、平和や友愛を普通とする人は、そんな人との関わりの中で、時間のムダづかいを経験させられてしまう。

新興宗教に違和感を抱くという庶民感覚の立場を維持しながら、その存在をしっかりと支えている、それと同質・同類の人は多い。「この国のこれからのために」と重なる多くの人が、その類の上位にいる。その理由は、中身が新興宗教だから。

無意識で繋がり、その意識もなく共に時代を病ませようとする、その凶悪な本性。5月に入ったら、そんな世界の原因深くを、皆と旅してみよう。

4/24

そういうものだと思わされ、そうだと信じて生きて来たことで、様々な問題事や病気が生じるのもあたり前のこととなり、それらの原因など意識すら出来なかったこれまで。

結果を生きるという、人間には出来ないことをさせられれば、人間は心身を病み、問題事とも身近になる。過去が力を持ち得ていては、未来を想っても、心は強くなれない。

動き出した無有日記は、止まることを知らない。疲れも消耗も知らないそれは、動いた分、変わるべきエリアを新たな原因に変える。面白いのは、その無有日記を毛嫌いする(止めようとする)重たい存在は、その分無有日記の材料となり、よりセンテンスは力を付け(エネルギーが変わり)、彼らは、予想すらできなかった(自らの中にある)怖れを強めるということ。今までもそうであり、これからはもっとそうになる。隠れても、逃げても、知らない振りをしても、その分、大変さは増す。なんせ、無有の原因の3号車は、通りにくいところにより向かおうとするから。

4/23

「少子化(人口減少)の背後に創価学会」。純粋な人たちにとって、それは常識になりつつある。原因(想い)の性質が大切にされる世界では、事実を通して、その原因が容易に把握できる。その事実があまりの影響力を持つ時、その原因は深みも絡みも相当であるゆえ、感覚(直感)的理解の変化を伴って、把握されるべきそのタイミングを得る。つまり、ただ知るだけでは動かない原因がそこにあれば、まずは自らの原因の性質を高め、それによってその重たい原因が動かざるを得ない時を引き寄せて、余裕でその全てを知るということ。「少子化の背後に創価学会」。原因を生きる人(生命そのものでいる人)にとって、それは普通にうなづけることである。

まずは、「再生」のプリントを思い思いに活用してみよう。それから、「人間本来」へ…。

4/22

追)一族と、彼らと性質を同じくする他の多くの存在たちが破壊しようとするのは、差別心と無縁の原因をあたり前に持つ人の普通。それが意味するのは、差別心を隠し持って(無意識に閉じ込めて)生きることは、生命への裏切りだということ。真の人間を生きる気があれば、そのことをオープンにし、生き直しをする。事実を通して伝わる原因(エネルギー)は、いつの時も正直だから、ごまかしは効かない。

この時代に、生命としての確かな再スタートを切らなければ、ここに生を選んだ意味は無い。伝えるものではなく、伝わるものを通して未来に責任を持てなければ、この国にいる意味も無い。2人の意思(存在)を大切にする。そして、みんなの心ある原因の働き全てを大切にする。

4/21

10)地球人の良心が未だ息づいているこの国の宗教心は、人間(人類)の進化の礎となって、人々の変化・成長を見守り続けている。それが完全に止まってしまった遠い昔の、人間の理解が全く及ばないその負の出来事から、永い時を経て、それと、それ以降の概容(概要)がここにオープンになる。あくまで概容である。これ以上細かく記することは、今はそのタイミングではない。いつか、時代が、次の時代への原因として確実に安心した時に、より具体的にさせるべきことを文字にすると思う。

命を優先するために、やむ無く退かなければならなかった人たち。そうであってはならないと分かっていても、何も出来ずに悔しい思いをした人たち。未来のために、真を生きるその原因だけは繋ごうとした人たち。今、その時の(彼らの)想いを形に、責任を実践する。気負いも頑張りも要らない余裕の中で、感じるままを言葉にする。人間として、生命として。日本人として、地球人として、限りある人生のこの時を、限りの無い平和と健康の原因として、永遠の中に溶かす。

ふと思うのは、中庸という、思考レベルの表面的な理解を寄せ付けない、原因の世界での然るべき心の在り様が、この国に在るということ。その貴さと感動。改めてその意味を確認し、あらゆる性質の不調和と不自然さを浄化し得るその本質を、自分と重ねてみる。それは、全てに添って、全てを生きる、生命(人間として)の切なる望みであるゆえ、そうである人は誰でも、そのままで進化の機会を手にし、時を癒す光になる。思考を自由にさせ、経験(結果)からも自由でいて、自らが中庸と全体を普通に、生命を生きる。それは、人間らしい人間の、生命本来の姿である。

4/20

9)更なる病みの基礎工事に手段を選ばず専念し続ける、人間とは思えないその存在たちは、それまで自分たちの隠れ蓑として利用してきた歪な宗教(密教、浄土思想etc.)の本質に人が踏み込まないよう、心(原因)の性質を無視できるキリスト教を新たに取り込み、より本心を分かりにくくさせて、負の原因を増幅させていく。

学校間や職種での優劣・高低を人々の意識に擦り込み、努力した分差別心を持たざるを得なくなる(差別心の強い子ほど頑張れる)教育システムで、人々の純粋さと素朴さを破壊する。彼らが得意とする、生命の無い(細胞が辛くなる)食べ物をいくら食べても平気でいられるということを活かし、その類の食品を世に氾濫させ、人の健康と健全を潰していく。彼らが主導する中身の無い価値観に合わせないと、仕事が持てず、生活もしにくくなる状況に付き合わされ、人の心は病んでいく。

キリスト教を取り込んだことで一層見えにくくさせられた悪巧みは、否定感情が力を持つ歪な普通に何の違和感も覚えない人を増やし、頑なにそれを守る有力者を生み出していく。

4/19

8)さりげなく真剣に、原因を生きることは、地球に生きる全ての生命がその自覚もなく行っていることで、人間も、それを普通に実践することで、人間でいられる。それが全く出来ない人、そうとは気づかれないよう人にそれをさせない人、その意識すら持たない人は、かつての凶悪な存在(一族)の意識と容易に融合する、人間の心を持たない怪しい人である。彼らが過去の生において、直接・間接的に不合理な殺害を行い、弱い立場の人の苦しみの光景(迫害、拷問、惨殺)を好んでいたことは言うまでもない。

そんな彼らが現代において執拗に広めよう(浸透させよう)とするのは、人々が辛く厳しい状況下でひたすら苦しみに耐えて生きていたかつての風景のその原因と性質を同じくする、差別心と利己心。体裁や建て前で簡単に隠せるそれらは、危うい無意識を自分と切り離して生きる人の本性(威圧、破壊、加害)の格好の材料となる。

4/18

「創価学会が…」の出だしで始まる文章がとても楽しく書き始められたのは、それによって、心柔らかな純粋な人たちが次々と元気になっていくのを感じられたから。創価学会の中心のエリアから流れ出て、その世界に居る人の否定感情を通して、多くの人たちが理由も分からず病まされてしまうそのどす黒い思惑と残忍な原因(エネルギー)は、身体を持つ前の場所では全く浄化し得ない性質の、かつての人生での凶悪な無意識(異物)が、今回(現代)でもしつこく、ずる賢くうごめいている現れ。この国の将来のためにも、未来の子供たちのためにも、そのままであることは決してあり得ない。

形(行為、結果)を通してでしか価値判断できない存在の、その原因の風景は、嘘のように人間らしさが無く、悪質で凶暴な意思表現を普通とする。それをごく普通に把握するゆえ、それを言葉にする。その文章によって、たくさんの人たちが再生の時を経験すると思う。動きにくさと生きにくさを感じていた人たちが、笑顔になる。4/14の無有日記の中の連中の、お気に入りの手下のような存在たち。近いうちにUPできると思う。

彼らには、怖ろしく違和感でしかない、その文章に乗った生命源からなるエネルギーを、自由に活用して欲しい。私たちは皆、生命を生き、人間をやるその原因のままの、地球大自然の意思そのものだから。

4/17

4/01から書き続けている連続物が「再生」の中に集まるわけだけど、それにより、ふと気づけば…という感じで、ずっとしつこく付き合わされてしまっていたものが、それぞれの中から外れていくのではと思う。心ある人の動きを簡単に止めてしまう危うさそのものの人は、その原因(無意識)を奥に閉じ込めたまま、頭だけで生きることしか出来ないから、彼らが活動的になれば、心無い現実があたり前となり、感じる想いを大切にするという人間本来の普通が力を失くしてしまう。それを「この国の病みの始まり」と「日のあたる人生の中庭」の中で表現し、今、それに続く「再生」の原稿を書いている。という意識もなく、そのことが言葉になるわけだけど…。

大切なことを言葉にするのではなく、言葉になろうとする大切なことが、自ら動き出す。だから、文章の組み立てはゴチャゴチャ。脈絡も筋もてきと〜。でも、地球が喜び、自然界が安心するのを感じる。なんて言うと、??になると思うけど、海も山も、動物たちも、思考を使う人より、彼らと共に生きる想いが思考になる人間が好きだ。だから、言葉であって、言葉ではないセンテンスが無限の働きをする。それは、全てであるひとつの生命世界の、ひとつの普通。

4/16

7)2015年という、時代の重要な転換期となるこの時、心優しい生命たちは、想いをそのままに、未来が安心する原因の道を歩み続ける。この時を待ち望んでいた形無き想い人たちも、ここに集まり、共に未来に繋がる今を支え、過去は癒される。もちろん、その2人も、何度も極限のふちに立たされながらも、共に歩く姿は、みんなの見えるところにある。核となる原因の回転とその広がりは、どこにいても連動(融合)できる性質のままである。

理由の要らない喜びは、争いや病気の裏返しではない、そのままの平和と健康の重要な材料である。あたり前にその原因でい続けた風景が壊され、崩れ落ちてしまった昔の、それまでの普通を知る生命たちが絶え間なくそれを守り、繋いでくれたことで迎えられた、この今がある。どうしても分からなかったことが分かり、見えてなかったものが見え出す経験は、有ってはならない現実(歴史)が、変化を拒む心を持たない存在(人間であれば決して出来ないことを平気でする人)によってずっと固められてきたことを顕にし、その終わりの始まりが次へと動き出したことを意味する。

4/15

現在通過中の4月の無有日記。それは、雨の日のぬかるみから爽やかな砂浜へ移動してしまえる長〜い時空超えのトンネルのように、時の色を変え、空間をどこまでもクリアにする。重たい過去は付いて来れず、滞りを生み出す否定的な感情も、居場所を無くしていく。まだ続く、4月の無有日記。5月の風はどんなだろうか? これからも、これまでのように、どこまでもアホさを磨き、ドジ度をUPさせていく。

4/14

6)永い時を経て奇跡的に訪れた、人権が守られ、生活が保障される社会。その事実は、彼ら一族にとっては許し難い出来事であり、見たくもない現実である。それゆえ、総勢で結集し、それまで蓄積させた負の原因を本性に持つ大勢の人の思考を活躍させ、その意識もなく純粋な人の生きる力(生命力)を奪う経験をその無意識の意思に実践させて、新たな負(苦しみと嘆き)の歴史の土台の再構築を謀る。

その最も重要な仕事は、かの2人(病みの大元の原因を知る人)の全ての自由を奪うこと。それまでを知るからこそ、何が何でもその動きを止め、原因を潰そうと、一族一丸となって事を画策し、実行する。それは、2人のそれぞれの身内の立場を、何人もの人が確保する程周到なものである。そして、それを完璧にするために、あの時以来初めて、その存在は人間を選択する。

4/12

5)力を持つ人が対立する(抵抗、反発する)人の命を奪うという、そのあまりに野蛮で非人間的な行為が許されてしまう世の土台が、凶悪で破壊力のある存在(一族)の影響力によって作られてしまった、遠い昔。その負の原点の時の2人の男女を育てた両親は、それまでとその後との驚く程の違いを知るだけでなく、彼ら自身の本質が純粋(責任ある原因)そのものだったので、未来地球のために、出来るだけ多く同じ時に転生し、協力して原因を調整して、結果に引っ張ろうとする力の弱化と負の連鎖の粉砕に努めた。その時代時代で、想いを重ね、融合し、協力賛同する人は多くいたが、大変な難しさを強いられ、充分なものにはならなかったその理由には、あの時の一族の主要十数人がその都度同じ時代に生まれ、地位や立場(慣習や宗教)を利用して妨害し、酷いことを平気で行っていたことが挙げられる。とはいえ、かつての、争いも隔たりも何も無かった時代の原因を未来に通すべく、事は淡々と進められる。ありのままに自然体でいる心ある生命たちにとっては、それがそのまま自分たちの本能であるから。

ある時代では、蛇の粉末を薬草と偽って人に飲ませ、脳をオカシクさせて、それまでには無かった、山や川(滝)を特別視する異常な宗教に人々を引き込もうとする力と対峙する。ある時代では、土地を独占・所有して人々の平和を壊そうとする力と、女性や子供を好き放題扱おうとする人の感情を抑え、払いのける。そしてまたある時代では、命の犠牲を強いる、獣の脳を持つ権力者の弱点を突き、彼と繋がる徒党の悪行を顕にして、厳しく原因の修正をする。

時代が先へと進むにつれ、拡大する病みのネットワークの連繋はより強固になり、その都度要所を占め、分担する一族の元、世は混乱と低迷を連ね、差別と迫害も常態化していく。改めて、転生を選ばずに、別次空間で病み(怖れ、不安、恨み、怯え)を増幅させるだけの時を重ねながら、一族の動き(転生のタイミング)を指揮、支配する存在の影響力が際立つ。

4/11

困った人や苦しんでいる人を救いたい、という考えが正しいこととして人々の思考に擦り込まれてしまっているために、どうにもならない状況がいつまでも続いてしまっている、というあたり前のことを知らない病み人は多い。

困った人が困らないで済み、苦しんでいる人が苦しまなくてもいい原因を共に生きることが人間本来の普通であり、それは、人が救われたい(助かりたい)と思うまでの不本意な経験を不要とする、共に生かし合う人間の素朴な姿勢である。そして、それにより、心身を重くさせられている人は減っていき、皆が健康・健全を普通とし、人間は、共に変化・成長することと真の癒しを日常とすることになる。

この国のキリスト教と浄土真宗には、なぜかそのための原因が無い。実に不思議(不気味)。人々を救いたい(衆生救済)のであれば、苦しんでいる人たちの背景(原因の風景)を変え、苦しんでいる人を無くさせること。でなきゃ、人を救いたいと頭で思うだけで、その心(無意識)は、人が苦しむのを喜んでいることになる。

浄土真宗のお寺は、念仏を止め、誰もがいつでも食べに行ける、「食の風景」の食事屋さんに。(←親鸞系の飲食は??なので)街の教会は、十字菓や聖書がどこにも見当たらない、オーガニックのコーヒーが美味しく飲める音楽喫茶に。(←教会系のハッピー感は??なので)心ある生産者が喜び、心ある人たちがそれに応え、みんなで時を癒し、健康と平和を普通にしていく。この国(世界中)の負の連鎖が、それだけで砕かれやすくなる。とマジで思う。親鸞もイエスも笑顔になる。

4/10

どんな結果も、結果という名の次への原因であることを普通としているから、その結果に繋がるそれまでの原因は余裕で観察できる。さりげなく真剣にあたり前に原因を生きることは人間本来の普通であることを普通としているから、そうではない人の危うさと恐れが手に取るようにして感じ取れる。そして、そんな中で、どんな性質の意思をもってここに居るかがよく分かり、その奥に生命の進化とは無縁のものがあれば、その理由を、その人のかつての原因(人生)の中に観る。

「この国の病みの始まり」も「日のあたる人生の中庭」も、そして現在の「再生」の原稿も、普通感覚で生まれた。無意識のままでいると、無意識を閉じ込めている人のそれに容易に反応できるように、そこにある原因の質の違いから、重たいままで変わることのない無意識とその原因の記憶は、異様な風景として捉えることが可能となる。遠い昔に何度も生を持った人であれば尚更のこと。なぜ現代において、その人はそうであり、そうなのか? その原因の情報(本性の遺伝子)は、自動的に伝わってくる。

実は、それもこれも、皆普通のこと。ただその普通が経験の外側でのことなので??になっているだけ。ムーは頭を使ったことがない。そんな暇な時間は無い。ただ、ムーの頭を使いたいエリアが自由に使えるよう、フツ〜にそれに協力しているだけ。だから、書く(話す)べきことも、そのタイミングも、一切のズレが無い。なんて書いているムーの髪型(カツラ)はズレっぱなしだけど…。

要は、真実を知りたくない(知られては困る)人たちの真実であって欲しい世界の巧みな嘘で真実が見えなくなっているだけだから、思い悩むことはない。生命世界の真実は、実にシンプル。その時が来るまで何も知らないでいられる、何でも知っているかもしれないというつもりもない無知なムーが、レンタルしたこの頭で今日も行く。あっ、更新手続きを忘れた!

4/09

心の性質と、その奥で息を潜める無意識の影響力がどんなかを知ることはとても重要なことで、そこにある事実がオープンにならないと、常にオープンな心でいる人の本来は自由を失くし、動きにくさを経験する。現象としての結果に意識を向けさせられることで見えにくくなる、重たい人の重たさ。事実を知ることは、ごく普通のこと。それを知られては困る人たちが作る嘘の事実が力を持ったままだから、何も変わらず、誰も変えられない時がほくそ笑む。なんてことがまかり通っていたこれまで。

2015年の無有日記は、頭だけで生きる心の無い人をイライラさせる。人間時間を悪用する妙な異物(本性)を持つ人を不安にさせる。そして、責任ある原因の無い価値観と思考で偽善を固める人を分かりやすくさせる。心ある人は、ふと気づけば楽になり、動きやすくなって、本来を活躍させていくことになる。

4/08

4)古き良き平和な時代の普通が壊され、その頃の風景が全て消えてしまったその原因に意図的に関わった、それ以前の地球には見られなかった性質の存在たち。彼らは、当初の(最初に入り込んだ)両親の生まれ変わりを目の当たりにしたことで、自分たちもその凶悪な意思のまま再度生を選ぶ試みと実践を覚え、身体を持たない間は、独自に作り上げた次元層を利用して、人間の成長とは無縁の病んだ環境社会の維持に力を入れる。

その時、病みの元祖となる最初の男女は、転生せずにその層に居座り続けて、別次元層(普通自然体の人間が身体を持つ前に居る世界)からの転生の観察(監視)と、同質の人間への負の供給を行うという、とてもあり得ない仕事を可能とする。そのことで、より時代を病ませるために新たに誕生する(人間を経験する)人が母親のお腹にいる時に、その意思(他のエリアからのエネルギー)をそこに取り込ませやすくすることになる。

その頃から隙間無く病み続け、自浄力を付けないまま現代に至る、この国の辛いばかりの歴史。部族間や豪族同士による争い、権力者による圧政と迫害、そして、それらの中で行われる殺戮と裏切り。その全てがその基礎となる原因の風景を同じくし、そこから歪に広がり、力を持ち得た、かつての一族と質を同じくする存在たちが、いつの時代にも、病みの発信源となる立場として暗躍し、破壊と支配を共通目的に活動する。

そして、その事実と背景は、現代に転生した心を持たない大勢の人間(普通を装う普通ではない人)によって蓋をされ、惨殺を指揮した歴史上の権力者や覇権争いの勝者が英雄視されるという、人間が経験してはならない発想を普通としてしまう程、彼らは巧妙に振る舞い、人々の思考の動きを操作する。前時代までの凶悪で残忍な行為と、その後ろ盾となる非情な価値観は、原因の性質が無視された重たい言動と、過去や結果(形、見た目)を重視する世の常識(感じる想い(原因)を持たない人にとって都合の良い考え)となって、同質の負の原因を発酵させている。

4/07

そうであるのに、そうとは分からない人が多い、早朝の念仏の類の悪影響。6時ごろの時間帯に、なんとなく胸苦しさを覚える人が多いのは、腹黒い人たちが、それとは裏腹の平和を願い、危うい原因を強めているから。形だけ整え、どんな自分がそれを行うか、という手前の中身(原因)がないがしろにされれば、朝のお勤め(念仏、勤行)を行った分、彼らは病みを広げ、敏感な人は心身を重くさせられてしまう。そこに個人的なご利益を願う本性(無意識)があれば、そうではない人の早朝は、かなりキツクなる。太鼓の音も、破壊型の原因を増幅させる。

心優しい柔らかな原因でいる人のさりげない普通を壊そうとする、ご利益・依存系の朝のお勤めと教会系のかみ芝居。彼らがそれを止めるだけでも、人は健康になり、世は平和になる。…といっても、恐怖心が強く、それは難しいだろうから、それ系の世界がその力を失くす原因を流し込む。おかしな題目を唱えた分、それに反応する無有日記に彼らが包まれるようにしてみようと思う。

4/06

その意識もなく人を病ませるのが巧い人が嫌なことは、せっかく病ませた人が、いつのまにか元気になること。理由の分からない辛さの原因を作り出す人は、その辛さという結果に快く対処して、善人振るのを得意とするから、辛さを覚えているその人が、理由の分からないプロセスを経て改善したとすれば、イライラカリカリは増すばかりとなる。そこで為される、原因の世界での浄化作用。彼らにとってはあり得ない、負の力の弱化。そんなこんなが、あちらこちらで。

病んでしまっている自分を普通とすることはない。病んだままでいることも、どうにも出来ない強力な負の力がそうさせていることは多い。理由の要らない喜びを知らず、理由の分からない辛さを人に与える人ほど、この無有日記に抵抗・反発できるという恐ろしい理由を内に秘めている。

4/05

体の中での仕事が脇に置かれた商品の販売に長けているセブンイレブンに、炭酸水もミネラルウォーターも買いに行けなくなったのは、店内の照明がLEDに変わってから。(どの店もそうではないと思うけど)LEDを使用していない他の店に入ると、気持ちが楽になる。ライトの影響は大きい。細胞も空間も心も辛くなるLED。それに全く平気な人(健全な感性の無い人)が、病み街道を広げていく。

ちなみに、店の飲料水のコーナーに行くと、人々の健康を大事にしているかどうかが瞬時に分かる。

4/04

3)その悲惨な現実を誰よりも悲しみ、様変わりする集落の姿に苦しみ、自らを責めた、男女の産みの親(両親)は、どうしてか分からずにどうにも出来なかったとはいえ、その責任を強く感じ、そのために、自分たちのひ孫としての新たな生を選択する。

ところが、その頃には、どんな人も抵抗する気持ちすら持てない、非情で独善的な負の支配システムが彼ら一族によって確立されており、未来のために然るべき事を為そうとする意思を持ってそこに生まれ出た彼と彼女に、快く同調できる人は居なかった。

幼少期から、親たちのする残忍な行為を見させられ、苦しみ喘ぐ弱い立場の人の姿に心を押し潰され続けた2人であったが、一族が普通としていた、獣的征服欲の極みであるある取り込みだけは頑なに避け、人間的な食生活を営む外の人との交流をできるだけ持つようにした。

しかし、それはあり得ない事実として、一族みんなの感情を刺激し、そして、2人はかつて彼らが悪巧みを開始した時の、その直接的な関わりを持つ人間(子供たちの曽祖父母)と全く同質の意識の持ち主であることを知るに至り、その驚きと怒りと焦りは、彼らを、2人に対するあるまじき残虐な行為へと向かわせることになる。

4/03

4/01の日記で始まる文章を書けたことで、何かとてつもなく大きな仕事を終えられた気分。その文章に乗った原因(エネルギー)が動かそうとするエリアに意識を向けると、すでに、いろいろなところで(変わるべき場所で)、終わりの始まりが確実に動き出しているのを感じる。ここまで来れた…、ここを通って行ける…という嬉しさがある。純粋で温かで、優しくて柔らかい人たちの心が安心に包まれていく。

みんなにとっての確かな変化のために、変化しにくい厳しい時を敢えて選択(経験)した存在の、その人にしか出来ない力強い仕事と責任。そうであったから迎えられたこの時があり、こうしてみんなが先へと行ける道が新たに生まれた。この文章(4/01~)は、次の時代への大切な原因の贈り物。ずっとこの時を待ち望んでいた姿無き生命たちとの、希望の約束。

4/02

2)ある天体を中継点としてこの地球に流れ込んだ、破壊と征服の意思(のエネルギー)は、2人の男女のそれぞれの身体が母親のお腹の中で形成されつつある時に、その存在(生命)の意思の中にそのまま転写されるようにして取り込まれた。(その後、更に2人の男女が続く)生まれてすぐのその2人には、親も身近な人も、それまでの子とは何かが違うという感覚を覚えたが、それが、世の災いの始まりを意味することまでは知る術もなかった。

しかし、2人がそれぞれの場所で成長するに従って取る、奇行の域に収まらない恐ろしい行為に人々は愕然とする。それは、目に入る小動物を、次々とそのまま生で食べてしまうというもの。人は皆、友愛と調和を普通とするゆえ、否定感情を知らず(非難したり、隔てたり出来ず)、誰もそれを修正・浄化させるだけの経験は持っていなかった。

やがて2人は夫婦となり、子を持つ親になっていたが、その時にはすでに、意のままにならない人(自分たちに強い違和感を覚える人)の命を奪うこともためらわず、小動物同様、それを自分のものにした。親のコピーと化した彼らの子供たちは、凶暴さを普通とし、まるで獲物を狙う獣のようにして、気に入らない人間を襲う。標的になるのは、素朴で心ある、人間らしい人間。生きる基本形が自分たちと異なる人のその本質に、耐え切れない緊張を覚え、威嚇し、押さえ込み、その人の生命(人生)を奪う。やむなく闘わざるを得ない状況を経験する人も、生まれながら凶悪で残忍な存在の破壊力には到底敵わず、支配され、自由を失くし、命を絶たれる。

人が人の命を奪うという、それ以前の人間の発想には全く無かったことが、2人の男女を中心とする血縁一族の手によってここに始まり、それにより、恐ろしい程の様相が次々と歴史に連ねられることになる。

4/01

2015

1)現代の誰もが知る、人間であれば決して行わないはずの恐ろしい行為を、誰も知り得ない遠い昔のこの国で秘かに行っていた、人間とは思えない存在たち。それ以前は、平和そのものでいる空気があたり前にあったことを考えれば、彼らが最初に行ったそのことのその後への悪影響は、想像の域を超える。「この国の病みの始まり」の原因となる経験となった、およそ3000年程前の、どう考えてもあり得ないはずのそこでの普通。無限分の一の原因の分母の上で、この今に繋がるその時の風景を言葉にしたい。

それは、当時、世界中で始まった、ある存在たちによる企みの一環としての、この国の事実である。あまりに荒唐無稽で支離滅裂で、読む(聞く)に値しないものと思われるのは承知であるが、長い年月をかけて、その類のものが全くオカシな話の次元に収められてしまったために、ここまでそれが表に出なかったという話があることもある、と捉えてみるのもいいかと思う。何であれ、そうだから。

 

3/30

いかがわしい存在として人々から非難され、不気味だと縁ある人からも白い目で見られ、挙句、人の道に反していると、世間からも干される状況を秘かに願い続けても一向にそうにはならない相手が、そう願う自分たちの立場が危うくなる程の力(影響力)を付けつつあろうとする時、彼らは、願う(念じる)対象の域をずらし、不安定な思考でいる人の感情を操りつつ、大小様々な重苦しい問題事を相手に近づけ(擦り付け)ようとする。

しかし、彼らの大いなる弱点は、ずる賢く手にした地位や肩書きでどれだけ強がっても(威張っても)、その中身が嘘のようにいかがわしく、不気味で、人間とは思えない感情をそこで日々発酵させていること。

念仏の仏が外れれば、それは、執念、怨念の怪しい念。今日も何枚だ〜と札束を数える。

3/29

…という間に、3月も終わり、「4月になれば彼女は♪」の歌が聴こえてくる。2015年の無有日記が実践しようとしているのは、その意識もなく心ある柔らかな人の元気を奪おうとする人のその無意識の危うさ(の原因)を浮かび上がらせ、分けも分からず辛く苦しい思いでいる純粋な人たちの本来を元気にすること。それを困っている人たちは、無意識が顕になる無有日記を毛嫌いするから、このページをプリントアウトして、大いに活用して欲しい。特に、4月に登場するセンテンスは、かなり強力な魔除け、薬よけ、7・3分け、になると思うので、思い思いに使ってみて欲しい。

いつものことだけど、ムーセンテンスは、ごくフツ〜のあたり前のことばかり。それを嫌がる存在たちが、必死でその素顔(本性)を隠そうとしている姿は、実にこっけいである。怖れと怯えと欺瞞が、攻撃的な否定感情になっている。

3/28

神道系の呪術のルーツは、はるか昔に、罪無き多くの人に極限の苦しみ(生贄、拷問、人柱etc.)を与え続けた存在たちの、狂人的な儀式。その時のその悪行に関わった存在たちは、後の時代の生でも、執念の具体化を通して同質の残虐な行為を行ってきたが、時代環境が大きく異なる現代ではそれは難しく、その結果彼らは、土着性の強い悪趣味な祭事の内実の中にその凶悪さを忍ばせて、呪術的な負の影響力の存続に努めることにした。

その呪術の正体は、他者の生命力を犠牲に、自らの欲望を満たそうとする、妖怪も逃げる、極度の陰湿さと凶暴さ。非人間的で醜悪さだけが際立つ、絶望の原因。普通を装っていても、それ系の原因は、本来の普通の前ですかさず仕事(?)を始めるから、直ぐわかる。

3/27

この1週間ほど、ちょこちょこメモりながらほぼ完成させた文章がある。それは、「この国の病みの始まり1〜8」の元となる、それよりもずっと前の、人間の普通が根こそぎ壊された出来事と、その後のこと。それ以前は何も無かったから、人間の歴史において、それは、何をもってしても悔しいばかりの事実である。そのことを文章に出来る時をここに迎えられたことは、数千年分の1週間の奇跡という名の普通かもしれない。何はともあれ、近く、順にUPしていこうと思う。かつて、迫害と差別に苦しみ、命を落としていった無数の罪無き人たち。その人たちみんなが、その文章を喜んでくれている。安心して、次へ行ける、と。

3/26

4)身体を持つ前の世界のシンプルな事実は、生命の真実がそのまま原因となる、変化し続ける永遠の瞬間との融合を確認させ、それを人間時間に活かし、高め合う、生命源からなる真の普通の実践を応援する。それを無視する人間であってはならない。身体を持たない時を死後の世界と固定させて、人間の成長を止めようとする、地球の異物そのものの存在に付き合う時間も要らない。生命世界の普通を、異常な思考(個の思惑)で扱えば、それだけで、人間が人間ではなくなってしまう経験が増えていくことになる。

戦乱期や圧政の時代に初めて身体を持ち、真を外れた人間観や宗教観(死生観)が力を持つ世で転生を続けた人が生きる現代。その多くが、やむなく思考を強くさせ、生き長らえるために本心を抑えて過ごし、固めた無意識は、要らない負の影響力を強く持つゆえ、次の時代への責任と自らの成長のために、その無意識の性質に責任を持つ次への責任を実践する。そして、生きる自由が守られるこの時代環境で、これまでに経験の無い生命体験を、身体を終えた後に、次に身体を持つまでの安心のその時として経験する。それは、この地球の、この時代の望みである。

この国の人口がまだ数万人だった頃、何のためでもなく、あたり前に平和に生きていた人たちは、普通に生き、普通に身体を終え、そしてまた普通に生を始め、生を終えた。身体を持っている時も、そうでない時も、その全ては喜びであり、共に生きる自然界の生命たちも、人間たちのその自然な営みに安心する。

彼らが、身体を持つ前の控えの場所として居る世界は、地球大自然の全てがひとつに溶けてしまったような、何も無くて、全てが有り、無限に広がり、融合する(全てであるひとつの)意識が、自由に戯れ、歓喜する、澄み渡った世界。それを普通とする生命たちが主導権を握らなければ、未来がどんどん重たい過去に引っ張られてしまう現在。個の強固な粒子がひしめき、うごめく、重く暗いエリア(有ってはならない層)が自浄力を付けるべく、そのための人間時間が、心ある柔らかな存在たちによって創造される。永いこと、生命の進化が止まったままの人間社会。全てであるひとつの生命としての人間を生きる人生を、普通にしていく。

3/24

「この国のこれからのために」に親鸞が登場しなかったのは、現代におけるそれ系の世界があまりに低次であるため、書くに値しなかったから。他の存在は、その原因は不完全ではあっても、それなりに時代の変革の礎になる意思をもって動いていたが(とは言っても、かなり危ういが)、彼はそうではなく、次の時代への然るべき原因も志も持ってはいなかった。

それを喜んだのは、時の権力者たち。為す術もなく苦しみに喘いでいる人たちのその原因の浄化には何もせずに、ただ変化とは無縁の浄土思想を提唱し続けた彼の言動は、人々の素朴な疑問や違和感(反発、抵抗)を削ぐ燃料にもなったため、我が物顔に民を支配する権力者たちにとっては、都合の良いものであった。期間限定であるべき必要性を材料に、その意識もなくそうであった彼の本質は、何でもありの俗な普通人。自分が仏師(理由の要らない平和の原因でいる人)ではないことは、誰よりも彼自身が知るところゆえ、彼の名を利用して(仏教を偽装(僧)して)、道理に背を向けてはならない。

そもそも、なぜそれは、政治権力の中枢であった京都で力を持ち得たか? その理由を歴史に見れば、「この国のこれからのために」に親鸞が載らなかった必然さを容易に知る。その荷の重さ(偽善の覆い役、想像を超えた悪影響)に耐えかねている彼のために、それぞれが自ら真を生きる。

 

「原因が重たい人は日蓮、空海系に走り、原因が無い人は親鸞に走る。そして、原因を無視する人は教会に歓迎される。原因深くを覗くと、生きる基本形の性質(人間としての真の姿)が顕になる」

3/23

3)遠い昔の心無い存在たちの、人に知られ(見られ)たくない、人間とは思えない経験の記憶が、そのまま無意識の性質としてある意思を持ち、それがその後、地球の異物として誕生し、維持されてきているオカシな次元層が、人々の知る、身体を終えた後の世界である。次生への控えの場所(原因)ではなく、死後の世界(結果)として定着している理由も、原因を生きることも、変化に乗ることも出来ない人たちの思考が、その病んだ無意識を武器に、本来をねじ曲げてしまったためである。心に正直でいる自分をそのままに生命を生きられない人間が、次々と重く堅い粒子のエリアを固め、その人間味の無さ(無意識の危うさ、凶暴さ)の度合いによって、それを何層にも改装・改築(住み分け)してしまっている現在。天国や地獄、極楽浄土や神霊界と、進化とは無縁の偽善者たちが、そこで思考のお遊びに興じている。

心の無い本性を隠し、世間的に良い人でいようとする人の無自覚の負の影響力。人に、守られていると思い違いさせて、巧く支配欲を具体化させる人の感情。公平さを欠いた常識(知識)を利用して、秘めた差別心を満足させる人の精神。表面的な理解と直線的な思考だけで生きる、感性の無い人の無意識。それらは皆、身体を離れると、動きの無い凝り固まった粒子となり、かつては無かった薄暗く、重苦しいその層(人間の成長・進化の道から外れた世界)に吸い込まれるようにして移動する(行き着く)。しかし、自分なりにがんばった人生なのに、その場所のきゅう屈さと不自由さ、そして教えられていた世界とは全く異なるその醜さに驚き、早く身体を持ちたい(転生したい)と思う。自分に見合った場所から、なぜか逃げるようにして人間になろうとする。

居続けられる場所ではないその世界から転生した人は、その場所しか知らないため、別の世界と繋がる人との経験の共有無しでは、生命を生きる人間としての成長は永遠に無い。(人間本来のエリアに帰ることはない)それでも、生命の尊さと原因を生きる真剣さを学ばずにそれを繰り返す人が大勢いるから、社会は、全体が忘れられ、環境は、未来に繋がらず、人の心は、人間らしさを無くしていく。心も想いも頭で処理し、繋ぐ原因ではなく、残す結果に焦点を置いて生きる人の無意識(本性、正体)が元気なままだと、心ある純粋な人は辛くなり、生きる力を失くしてしまう。そうであるうちは、いつまでも生命としての成長の機会を手に出来ない、重たい異物(人間が持ち得てはならない性質の無意識)を何回も連れ歩く、頭だけで生きる存在たち。そうではない人の心を鏡に本性を見つめ、無意識を頭に登らせ、それまでと同じ場所に帰らない経験をする。一度そこから離れれば、二度とそこへ行く気にはなれず、望むべく変化にも乗り、その重く、暗く、粗い層は、次第に存在意義を無くしていく。

3/22

2)人間は、身体を終えると、身体レベルの全ての働きを無くすので、それを人間的に捉えようとする姿勢は、全くの無意味となる。それが教えるのは、生命の真実の実践。次の生の前日(控え室)へと移行した存在が持ち得る、その本質への理解と観察が本来の普通のそれであれば、それはそのまま、身体の域を超えた融合を生じさせ、それを互いは、生命を生きる存在(人間)としての、成長・進化の貴い機会とする。知識や経験にこだわる、未消化の感情そのままの人は、前日(身体を持たない世界)への理解が思考であるため、身体時間での生命の成長は為されず、本来の普通からも縁遠くにいる。

無意識と思考をひとつに(離れさせずに)、心のままに本来でいると、それ自体が生命としての人生を生きていることになり、隔たりを知らない空気や水のような、自然体でいる変化そのものになる。それは、その本質が、形の要らない自由創造の意識体となって際限なく回転し、広がり、他との融合を重ねながら成長する多次元的な生命であることを意味し、常に全てであるひとつの時の中にいて、絶え間なく地球時間を支え続ける。そしてそれは、身体を持たない時(身体を終えてから持つまでの間)、身体時間を道具に進化し続ける生命の基本要素を、ここに在って、ここに無い、その別次空間で、安心に包まれながら安定させていく。

無意識を思考から切り離すという、人間の世界には無かった形態が始まり出した数千年前、それまでの地球時間には存在しなかった、異常とも言うべき重たい次元が生まれ、そうである多くの人のその後の姿勢によって、それは存続することになる。その本質は、生命本来の変化に乗ることのない、滞りと衝突。他との融合を怖れる、回転することのない堅いかたまり。全ての中のひとつをより孤立させ、身体を終えた時、作られたその重く、暗い層で、同質の意識体と自らの粒子(浄化されないまま残る無意識)をぶつけ合い、否定感情を強めていく。そして、破壊と支配の具現化への意思を共有する。

3/21

1)全てであるひとつの生命としての人間を生きることは、全ての中のひとつの生命である人間にとって、最も重要で、普通とされることだが、そうではない時、その人間は、それへと自らの存在を変化・成長させていくことを、生命としての、人生での唯一の仕事とする。

それは、人間が地球自然界で他の生命たちと共に生きていることを考えれば、至極当然なことであるが、いくつもの時代を経て、それがそうではなくなってしまっている事実に反応させられる時、在ってはならない存在のあり得ない意思の力とその影響力を、その背景深くに感じざるを得ない。

本来、人間が身体を終えた後に向かう場所は、次の生へと向かうための一時の控え場所であるのだが、それをたどり着く場所(目的地)として捉え、そのための手法に頭を使い出したあたりから、人間は心に嘘を持つことを覚えた。人間が身体を持つ前段階では、誰もがそこで、余裕と安心をその意思に重ねるのだが、それを無視して、焦りと緊張をその動機に重ねるから、その世界には無くてもいいはずの層が出来てしまった。身体を終えた後から次に身体を持つまでの別次空間が、平面的な思考で扱われ、そこでの経験が身体時間に活かされなくなる時を経て(人間の成長のための経験がそこで為されなくなって)、人間という生命体は、自浄力を失くしていく。

3/20

分かっていないことに気づいていないことを分かっていない人たちの多くは、巧く思考を操られて、善悪の判断に心ある原因が参加できなくなってしまっているため、正しいと思っていることに熱心になりながらも訪れる不本意な状況を前に、ただ自分を責め、理解の浅さと性の悪さを思い、言われたことをそれまでよりももっとしっかりと実践し、徳を積もうとする。でも、その教えそのものがトリックであれば、望ましい変化など期待できるわけがなく、それに何の疑いもなく過ごしてきた時が、心の自由を奪い取ってしまったため、ただひたすら耐え、勤め、捧げて、何があっても「ありがたや〜」と自家中毒型の個(孤)の喜びを切り売りしていくことになる。

その気もなく嘘の人生を生きさせられてしまった人の姿は哀しい。そうとは知らずに嘘に加担させられてしまう姿は情けない。無意識の意思を切り離して頭だけで生きる人が教えを説けば、そこにある嘘が、思考のみの正しさの燃料となり、何があっても後ろ指をさされない術に長けていく。

だから、成長し続ける原因を、多次元的に活用する。MEのフィールドには、無意識の意思(本質、本性、かつての記憶)を照らす、無限分の一の原因(エネルギー)の鏡があるから。

3/19

これまでの時を経てこれからへと、何度も再スタートの機会を手に歩み続けたからこそ通り抜けられた場所を後方に、それぞれが、それぞれの時を癒す風になる。

さて、そろそろと、リンクのページを登場させたいと思っている。それぞれが担い、経験するものは、軽く時を超え、形無き生命たちの喜びと重なり合う。過去が癒され、未来が安心する原因の具現化。あらためて、この今、この時の、(人生ではなく)生命のタイミングを思う。2015年も、3月…。

3/18

例えて言うならば、俗に言われる死後の世界というのは、大きなエレベーター内に在るゴミ(浄化されないままの危うい本性、正体)の集積所のようなもの。どの階も質は同じで、上か下かと、低次の満足を競い合う。偉そうな人にズルイ人、臆病な人に小賢しい人、個のままの人に変化を拒む人。皆、重たい無意識を持っている。そこの世界にあたり前に無縁でいる人は、人間社会で、彼らの心の無さにドキリとする。同じ人間なのに…と。

元々どこにも無かった、霊界、神界、そう界? 分からん界? の吐き層と人間世界を、飽きもせず何度も往復し続ける存在たちが、その臭い本性を無くせるよう、そのエリアのシンプルな事実をさらりと書き上げてみた。少しずつUPできると思う。そういや、魂という言葉は、一度も出てこなかった気がする。

3/15

見た目重視の(建て前に比重を置いた)人生を送るというのは、人間としての自然な成長が一切無視された異質な生を生きていることだから、身体を終えた後も、それによる予想外のエリア(苦しさ)から逃れるようにして直ぐにまた(何の浄化もされず)人間生活に移行し、同じような人生を送る。

数百年前のことをここに繋げれば、その頃に、心優しい素朴な人たちを苦しめ、命を奪う(殺害する)という、人間としてあってはならないことを行っていた人は、その本性をそのままに、ここに生を持ち、世間体と体裁づくりに神経をつかいながら、連れ歩くかつての危うい感情の記憶に厚い蓋をする。

彼らは、次回も同じ性質の人生を送れるよう、そのために、重たい負の原因を残して社会を病ませることに熱心になる。宗教施設や進学塾の乱立は、その典型であり、格好の病み玉である。それらを主導する(支持する)存在たちの無意識の危うさに、数百年前の度重なる惨劇の首謀者たちもほくそ笑む。

3/15

身体を終えた後に向かうところというのは、決して死後の世界と言われるところではなくて、次の生への控え室のようなところなのだが、それをマヌケな偽僧や宗狂人たちが、たどり着く場所(目的地)として扱い、素地が全く見えなくなるぐらいのオカシな作り話を重ねてしまった。

無意識の性質によっても大きく変わる、その場所の空気感は、思考が及ぶ次元には無い。天国も地獄も、浄土も霊界も、ぜ〜んぶ頭で作り上げられた、異聖人たちによる嘘。いつか書かなきゃ。その事実を知ることは、知るべき事実の質を変えていくから。

3/14

「自分は○○(偉い人)の生まれ変わり」なんてことを平気で言える人や、ご利益、依存集団を率いる人の、かつての残忍で卑怯な生き様はほぼ定番である。教育界や医療世界でのその重たい偽善システムを支え合う人たちの元となる、かつての狡さとさもしさも呆れんばかりである。その他、凝り固めた否定感情だけで生きる著名、有名人の正体もまた必見である。

今生は、かつての人生の未来生。姿、形は違っても、原因の性質は、その全てに責任を持たない限り変わることはない。どんな自分が何をし、何を創り、どこへ行こうとしているか? 原因の分母を変調させつつ(多次元的な直感を伸ばしながら)今の姿を見れば、本性に蓋をする人の過去は、原因の世界では重たい異物の持ち主だから、それは普通に見えてくる。

3/12

物事の本質から離れたところで、欲深く事を為し得ようとする人が僧侶になる時、神仏や成仏という言葉が妙に活躍する。自らの未消化の感情(怖れ、嫉妬、差別etc.)とも遊びながら、「極楽浄土」や「罰が当たる」「地獄に落ちる」とかの表現も利用し、威圧的な態度と偽装した威厳で、その本性を隠す。そこに集まる、同質、同類の人たちに支えられながら。

いつの時代も、嘘を生きる人は、そうとはバレないよう、言葉から始まり、言葉で終わる。教えられた言葉に覚えた言葉。感動を呼ぶ話に、涙をさそう話。ずる賢い分、特別意識を強くさせ、性悪な分、表面的な善悪、正邪の判断を良しとする。

どんな自分が仏心(仏教)を生きるか? その意識が全く無い人は、全く普遍的な性質を持たない念仏世界で、仏教もどきを食べ続ける。

3/11

ムーセンテンスに反発する人が妙に苛立っているけど、本当の自分を隠し通せる人であれば、ムーを論破することなど簡単である。ムーの普通に悔しがる人もいるけど、真に生きることを放棄した異常な人なら、ムーを負かすこともた易い。

縁すれば、その時から生命の変化が始まるのに、逃げ回る時間を記憶に残していては寂しい。ムーは、いつでも負け、どこにいても打ちひしがれる弱虫の蒸し焼き。世の病みの原因(となる存在)に対する学びはまだまだ未熟な、ドジ眉星人である。

3/07

8)大切なことを大切にし、守るべきものを守り続ける、素朴で心優しい人たちの自然体の姿。ただ、大きな力に引き込まれ、為す術もなく従うしかなかった時があまりに不要に流れていたことを知る人は多くはなかった。

時を経て、その儀式そのものに疑問を抱き始めていた家族の子が生贄に選ばれた時、それでもそれを止める力は無く、皆悲しみに暮れるだけだったが、それまで犠牲になった子たちの悲しみと無念さを自分のこととして感じ取る健全さを普通としていたその少年は、嘘と知りながらそれを受け入れ、真を心に、力強い変化(修正)への原因をその全ての中に残した。

その儀式を尊ぶ気持ちも、巫女らへの畏敬の念も一切見せずに、執行人の内面をじっと見ているかのようにしてその時(極限を超えた厳しさ、絶命)を迎える彼の姿は、彼女たち(特に儀式を首謀し、我が物顔にそれを支配した母娘)の隠された嘘と心(魂)の無さを刺激し、征服できない性質のその原因に対して、自らの中の恐怖心を一層強めるきっかけとなった。それにより、彼女らの精神は不安定になり(嘘がバレてしまっていると思い)、日々怖れは増し(嘘の代償への脅威を感じ)、威厳と権力を保てなくなって、儀式は終わりへと向かう。

その後、少年の父親は、3人の執行人の男性に、彼らの本性を突く疑問を投げかけ、少年の祖父は、それでも慈悲を女性たちに向けながらも、少年の命を奪い(殺し)続けた彼らには厳しく反省を促し、その罪の深さと無意識の残虐さを認めさせようとした。しかし、そのことは、調和や友愛の心を全く持ち得ない(人間の本質を共有できない)彼らには、闘争本能の材料でしかなく、その内なる凶悪さと残忍さを増幅させることになる。彼らは、目的を同じくする数人の巫女らと共謀して、自分たちに対して違和感(反発心)を持つ人への迫害(追放、虐待、殺害)を行い、支配者として、いくつもの村を統治することになる。この国の負の連鎖(歴史)の土台がここに在る。

彼らにとっての一番の不安材料は、嘘の儀式が終わるきっかけとなった少年家族とその仲間たちが、その時の記憶をもとに行動することであり、実際の歴史上、何度も少年たち(エネルギー(魂)の意思を同じくする次生の姿)によって、彼らの悪だくみと暗黒の原因は阻止、修正されてきている。それでも尚、凶悪な無意識による悪行は続けられ、人々の脳を支配し、特別意識と差別心を植え付け、数と量、地位と権力(and 宗教と財)を悪用しながら、現代にまでそれは至っている。

そして今、これまでの歪な普通と否定感情で作られた常識、そして沈められたままの負(病み)の原因の全てが浄化されるべき時を生きる仲間たちの、その真の普通世界を尽く否定し、破壊するために、その3人と、その時に彼らに協力した同質の存在たちがここにいることは、皆の了解事項である。もちろん、あの時の少年も、家族も、仲間たちもここにいる。

残された歴史の内実は、その殆どが真を外されたもの。今に繋がるかつての心ある想い人たちの原因をここに、皆で進化し続ける歴史を創り続ける。過去が喜ぶ未来は、ここに在る。

 

…と、現象として在った、かつてのこの国の病みの原点となる出来事を書いてみたけど、なぜそれはそうであったか、という負の歴史の始まりのその原因となる姿(風景)は、なかなか文章になりにくい。けど、それは、存在そのものが重たさである人のその理由でもあるから、いつか書けたらと思う。生命としての真を知ることは、真の力になるから。

3/06

7)彼女らが、自らの中で暗黙の了解事項としているのが、病みのネットワークづくり。力(利害)関係だけで繋がる彼女らは、決まって同じ時代に生を持ち、自分たち(心ある原因が無い人)が住みやすい環境を固めるために、それに反応する人の人生(生命力)を奪うことを共通目的として協力し合う。夫婦や親子でいる関係を最強に、友人や仕事仲間、親戚関係など、互いを利用し合い、力を補いながら、健康的な風景の原因を、その無意識の力で潰していく。

戦乱が続いた時代では、自分たちがその原因である利点を活かし、時の権力者の残虐な行為を影で支える生を生きる。戦は無くても、人々の心が疲れ果てて気力を失くしている時代では、農民への乱暴、狼藉を謀る豪族やその後ろ盾となる有力者の立場を選び、世を混乱させる。時代(政治)の節目ではいつも、支配、権力側で巧く住み分けし、殺戮の限りを尽くす。

どんな理由であれ、他者の命を奪うことが許されない今の社会において、彼女らは、命を奪うまでもなくそれと同じような状態を人に経験させようと画策する。動物の命を奪うシステムを定着させて、心ある人の感性を壊したり、学力優先(至上)の教育システムを安定させて、頭だけで生きる人を活躍させたり。健全な違和感を鈍らせる食品や製品を流通させたり、世を不穏にする心無い有名人(歌手、スポーツ選手、タレントetc.)を応援したり。それらの背景(原因)に敏感に反応する純粋な人は、何も出来なくなってしまう。凶悪さは、大小強弱様々に蔓延する。

そんな存在が、この世で最も嫌うのは、理由の要らない喜びと、健康・健全の原因の成長。人としての心の基本形をサポートするそれをほんの少しも持たない彼女らにとってのそれは、恐怖の対象となり、自らの異常な性質(無意識)を維持するために、純粋な人の健康的な価値観を潰すことに専念する。

すでに分かっている人は多いと思う。二千数百年前のあの時、それまで続けられていたその残酷な儀式が、1人の少年の犠牲によって終了へと向かわざるを得なかったその背景での、彼女(巫女、黒幕)たちと執行役の男性たち、及び同質の村人たちの、そこに在る力強い生命本来の原因に対する恐怖心。何度も原因の修正(悪行の頓挫)に見舞われた悔しい時代を経てここに集まった彼女たちは、あの時の少年とその家族、そして少年と心を通わせた村人たちの今を、利害関係で繋がる多くの心無い(逆恨み的感情を強くする)存在たちと共同で破壊しようと躍起になる。

その原動力は複雑怪奇で非人間的な執念の類ゆえ、それを言葉にするのは至極困難であるが、ここで更なるとてつもない原因の修正が為され、「歴史は繰り返される」という低次の原因が外れていく流れだけは、誰も止めることは出来ない。そのためにこの時代があり、そのための、みんなが具現化させたみんなの今がある。

生命の進化の原因は、無意識と意識(頭)をあたり前に同一化させている人の中で活動的になり、人は、その周りで、それに連動しながら自らの原因を変化、成長させることができる。それが滞っていた永い時を経て、ここから、過去や結果が力を持てない、生命としての進化(歴史)が動き出す。まずは、病み続けたこの国の、二千数百年分のその原因を浄化する。そのための材料となる原因(エネルギー)を、ひとつひとつのムーセンテンスに乗せていく。

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現在の日本人のおよそ99%以上の人が、飛鳥、奈良時代を経て、初めて人間を経験できた人たち。つまり、日本人の殆どは、戦乱や差別に明け暮れる不穏な時代の空気を幾度も脳に染み込ませながら、生命本来を知らないまま、人生を転々としているということ。

今のこの国が必要とする、時代が喜ぶ生命の智恵は、紀元前500年よりも前に身体を持ち、真の普通人としての人生を淡々と送った人の今の素朴な想い。無有は、それをどこまでもサポートする。これ以上、日本の歴史に厚化粧させるわけにはいかないから。1〜8)の病みの原点と、いつか書くであろうその元となる原因の風景が、この国の負の歴史の欠陥、手抜き基礎工事だから。

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6)普通一般の人にとって、それは、知らなくてもいいテーマの内容であるが、知ったとしても、どこまでも意味不明で理解し難いことなので、軽く読み流してほしい。ただ、そのことを知る普通一般の人が増えることによる、その世界の住人たちの恐怖は尋常ではなく、人知れず心ある人に悪影響を及ぼす力もこれまでと同じくは行かなくなるので、この時を大切な機会にしたい。

人の命を奪うことに快感を覚えるかつての彼女たちと融合し得る存在たちは、現代において、自分の中には無い(理解できない)「生命としての人間の在るべき姿とその原因」を普通に持つ人に、病的で強烈な違和感(嫉妬、恐さ)を覚え、本能的にそれを感知し、すかさず攻撃を始める。

その時の手法は、普通の人間が持ち得ない、自らの中の異物(人間世界では浄化し得ることのない凶悪、凶暴な本性の遺伝子)を燃料に増幅させた不安と怖れの感情に、柔らかな感性を持つ人(無意識を心と思考に重ねて生きる人)の無意識を無理やり引き寄せ、脳の働きを鈍らせるというもの。彼女(彼)らは、人に感じ取られては困る、恐ろしく獰猛な感情の病み(意思)を、頭と切り離した無意識の中に閉じ込めているため、それに付き合わされた人は、健全な無意識を壊され、それと重なる頭も大きなダメージを受ける。そして、心身が重くなったり、前向きな発想が持てなくなったりして、辛さが慢性化することになる。

それでもどうにか動き、健康的に生きようとする姿勢を持ち続けていると、更なる攻撃を彼女らは試みる。それは、生命力を吸い取るというもの。この手法は、人間世界では最も許されないことであるが、動物の怒りや苦しみの感情さえも取り込んでしまう程のその本性は、そのあり得ないことを可能とする。その時、彼女は、その胸のところから、相手の命の源(生命エネルギー)を自動的に吸い取り始める。例え距離があっても、すでに意識を向ける対象として融合しているので、それは容易に為される。そして彼女は元気になり、その人は、理由の分からない気力の無さと、体力の低下を覚え始める。疲れやすく、気落ちしやすくなる。(蛇を支配する呪術は、相手の足首に巻き付いて、全身を冷えさせたり、腰の力を抜き取って、動きにくくさせたり、また、心臓や胃腸の働きを極度に低下させたりもする)

心優しい無意識を持つ人の無自覚の不調の原因が浄化される時に覚える、胸の痛みや違和感は、それまでに、知らないうちに生命力を吸い取られていたことの表れである。無意識にそれを行うという、誰にも気づかれないはずの彼女らの悪だくみは、無意識の意思を前面に生命を生きる人の心ある想いによって、力を無くす。

時間をかけざるを得なかったこれまでを経て、連なるこの今が、未来の力強い原因になる。人間の魂(本質)を持たない彼女(彼)たちが、それでも人間として生きていけるよう、その無意識の影響力をゼロにしてもらう。そして、これまでの負の連鎖とは無縁の時を生きてもらう。

3/04

人口が数十万人だった、2500年程前の日本。ということは、12600万人以上の人がその後出てきたということか…。

このあたりで、魂や転生、神や仏の概念を一旦リセットした方が…。だって、作り物の魂を貸し借りしながら生きている(本性と頭を一つにできない)人たちが、永い間この国の宗教(仏教)を支えてきているわけだから。それに、弥生時代以降にはじめて身体を経験した人は、日本のオリジナルの風景を、記憶に持たないわけだから。

1年に1円ずつ貯金すると、2500年で2500円。CD1枚分。そんなもの。

3/03

山を歩き、滝に打たれる。時に動物の死骸を身にまとって獣化し、崖から吊るされたり、坂を駆け下りたりの否定感情そのままの修行(奇行)で、高度な自己満足を得る。

仰々しい式典(行事)で形ばかりの平和を祈り、勘違い人を募る。皆に海を忘れさせ、病ま人にする。そして、只々偽善を押し通す。

山が嬉しいのは、海も好きな人の素朴な心。どこにいても自然体でいる人のさりげない優しさ。山が最も嫌う(辛くなる)のは、自然な心を持たない修験道の行者(山伏)たちである。

 

感性を鋭敏にしようとして、健全さへの鈍感度を強め、精神力を高めようとして、その軽薄な精神構造に重しを付けるのが、修験道である。是非、普通の人間として生きていけるよう、南国の浜辺でボケ〜っと寝そべってほしい。

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5)優しい行為で、心の無さを隠し、相手の話に合わせることで、内なる感情の危うさをごまかす。しかし、人の心に応える難しさ(心の機微の分からなさ)はどうにもできず、そうとは分からないよう、杓子定規の姿勢が通用する(表面的な理解で済む)立場や肩書きを手にする。

それを認めず、自分を心ある人間と思い続けられる妙な力は、無意識の意思(本当の姿)と頭を簡単に離れさせ、分からないこと(感じられないこと)は認めなくてもいい価値観を、同質の人と支え合う。そんな風にして、感性の無さも、人間性の欠如も、全て頭での理解のみで通せる状況の中で巧く隠し通す。

その世界にいて、人々(及び未来)に対して負の影響力を誰よりも強く持ち得る存在が、かつてのその儀式(生贄)で執行役の数人の男性であった、現在の人間である。実際の力とその性質は、当時も、女性たちの凶悪さを上回るものであったが、それゆえの狡さも底無しで、誰も望まないその役を、みんなのためと買って出て、仕方が無いことだからと少年の命を奪い(殺し)続けられたその内面の恐さは、今も変わらず、である。

女性たちの凶悪さの供給源であったその男性たちは、自分たちのことを誰の記憶にも残させない(誰にも意識させない)恐ろしい力を持ち、それは、その儀式の存続が危ぶまれ始めた時に、何も無かったかのように身の振りを瞬時に変え、後にその残忍な本性と破壊力で、人々を難なく服従させてしまう程である。

ただしかし、今回は、変化し続ける永遠の瞬間の中で、繰り返しその性質は全体(生命源からなる真の変化)に記憶、意識され、これからのために、ここにそれは残ることになる。病みの原点となる出来事を主導した人の背後で、命を残酷に弄んでいた彼ら。蛇たちも、やっと苦しみから解放され、草むらで友だちと遊び回ることができる。無有は、どこまでもヘビー級のヘビメ爺である。

3/02

頭を使うのがもったいないぐらい、頭を使っていては生まれないものをさらりと普通感覚で形にすることが面白く、記憶(経験)や知識の枠外で生まれる(始まる)文章は全くその性質を変えてしまうことを、ごくフツ〜にあたり前としている。

それによってアプローチできるエリアは、その必要性もタイミングもオートマチックで、そんなだから、一切の順番を違えない変化のプロセスを、自由に遊び感覚で差し出すことができる。もちろんそこには、期間限定の価値観は通用しないけど。

今書いていることも、これから書くことも、そのテーマのフィット感は普通だと思う。普通だから、そのままで普通の質を成長させることができる。嘘や偽り、偽善や欺瞞が力を無くすことは、人間としての基本中の基本の普通。その上で初めて人間は、真の変化を経験する。

3/02

4)辛く苦しくなる話だが、未来への責任と、残してはならない負の原因を浄化する意味でも、今尚暗躍する呪術系の、その元となる光景(惨殺)を、ここに登場させたい。それは、慎ましく健気で、聡明で朗らかな人々の普通の暮らしが、心(感性、原因)を持たない存在によって蹂躙された悲しみの時。それは、この国の、無くてもいいはずの負の連鎖の始まりの時。

村人は、呪術を操る存在の力によって、思考の健全さと心身の自由を失くし、呪文を唱え、舞を踊る彼女らの奇妙な姿も、超自然的で神々しいものと思い込まされ、言われるままに生贄を捧げる。巫女の元祖である彼女たちの、人を殺める姿は実に惨たらしい。人間の苦しみと悲しみの感情も、そこから始まる。

村全体が災難に見舞われたり、村人の間で処理し難い問題事が生じたりした時に執り行われる、人間ではない儀式。台風などによる甚大な風水害に遭えば、大地の怒りを鎮めるためと、少年を生き埋めにする。村人の間で病いが流行れば、病魔を追い払うためと、少年を火あぶりにする。そして、作物の不作が続けば、高い所から突き落とし、雨が降らなければ、縛り首を行う。その他諸々、嘘とこじつけで生贄を演出する。

彼女らは、縛り首の際に使う縄を蛇に例え、「蛇は神の使い(化身)である」と村人を騙し、その形式の正当性を捏造する。そして、その昔から在った、人々の土着型の(生活に根ざした)蛇との付き合いを、最大級に悪用する。蛇を神(and 神の化身)として崇める神道系の起源はここにあり、そのおぞましい姿の元となる本性は、その後、各地に散らばる彼女らによって広まり伝承された形式に隠れ、成長を続ける。それは、現代に至り、風習や伝統とされる物や形の中に溶け込み、人知れず、その意思(凶悪な無意識とその実践)を繋いでいる。

(健全な感性を持つ人は、蛇を特別視する発想は一切持たず、当時、その惨い儀式に何の疑問も持たなかった人たちとその本性を同じくする人は、今も蛇を崇め(ご利益がある、縁起が良い)、それに何の疑問も持たない)

今現在、命が奪われるまでもなく、多くの心柔らかな純粋な人たちが、思うように身動きが出来ず、自由に思考を使うことも難しくさせられている。彼らは皆、その辛く切ない状態を見て快感を覚える人たちによって生命力を奪われ続ける、現代版の生贄である。立場や地位を利用し、表面的で心の無い知識や行為を材料に満足を得ようと(本性を満たそうと)、その切り離した無意識で、心ある人の人生をがんじがらめにする(脳を支配する)。

3/01

2015

3)その儀式に純粋な子が選ばれる理由は、恨みや憎しみを持てない彼らは、無抵抗でそれを受け入れ、苦しみを他に与えないから。村人たちは、自分たちが助かる安心感を高めつつ、そのための犠牲は仕方が無いこと、それは尊いこと、彼もそれ(生贄になること)を望んでいると思い込み、儀式は肯定される。‘その時’までは。

人の命を奪うことに快感を覚える彼女たちは、自らの本能が、純粋で心優しい人のそれと全く違うことを知っているので、誰が純粋か(自分と違うか)がすぐ分かる。人間が持ち得ない異物(呪術)を無意識のところに備えていることで、人間らしい人間に対する嫉妬心と支配欲は驚く程強く、それに同じにはなれない絶望感が手伝い、その本性はより凶悪で残酷になる。

本来が純粋な人は、虐げられても、傷つけられても、その感情の記憶をそのままにはせず、身体を終えた後、次の生のために、責任をもってそれを浄化する。惨さを本来とする人は、その全ての記憶を無意識の中に閉じ込め、次の生で、更なるそれを生きる。後者の記憶の奥で今も息づく、悲しすぎる歴史上の迫害と惨劇。それらを、その凶悪な無意識の意思の燃料にさせてはならない。

意図的(作為的)に残された古文書の陰で、形を持つことも許されなかった真の実が、そのタイミングを手にし、意思表示をし始める。

 

残す力を持ち得た存在によって残された(残させられた)その時の結果ばかりではなく、残り得なかった時の記憶を持つ人のその中に、今に繋がるその時の原因を観る。歴史は2通りある。

 

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あることに対して、自分はどう思うか、という次元をさらりと超え、どんな自分がそう思うか…、そう思う自分はどんなか…と、手前の想いを何気ない発想にあたり前に重ね、ふと思うこと、感じることを、人としての本来のそれにする。

それは、成長し続ける想いの、その自然な具現化のプロセスでもあるから、そのままで、求め探す時間を不要とする、ありのままの平和と健康の確かな原因(土台)となっていく。

何を思い、何をするか、の何よりもずっとずっと大切な、どんな自分がそれを思い、どんな自分がそれをしようとしているかの原因の性質。そこから外れなければ、あらゆる問題事は次第に姿を変え、形を無くしていく。そのための原因は、ただ成長・進化し続けるだけだから。

2/27

2)現在の巫女の基本スタイルを作り上げた彼女たちが、自分たちを神がかり的な存在と思わせるための手段として悪用した怪異的呪術の体得、錬磨の際、その犠牲となった蛇たちは、あまりに可哀想でならない。

体に巻き付いた(巻き付かされた)彼(蛇)は、彼女に手で強く握られることで危機感を覚え、本能のまま彼女の体に噛み付き、それを待っていた彼女は、彼の怒りと彼自身が備える性質(荒々しい感情)を自分の中に取り込み、苦しみ暴れる彼の全てを支配し、手で命を奪う。周りの人(女性たち)は、それを見届け、共有し、次々と順にそれを行う。その夜は、彼(蛇)の屍と一緒に過ごし、彼の悲しみさえも自分の意識に取り込み、彼の生命エネルギー(魂)との異常な融合を成し遂げて、蛇そのものになる。それは、人間が決して行ってはならないこと。

そのことで(それを繰り返すことで)、意識するだけで、相手の脳にダメージを与えて心身の自由を奪うという、人間では出来ないことを可能にする。その後、意識するまでもなく縁ある人の全ての自由を奪う力にまで、それを成長させる。

人間が持ってはならないもの(力)を持ったまま身体を終えると、それは人間のソウルエリアでは異物なため、そのまま残り、消す(浄化する)ことも出来ず、次の生でもそれを活用する(できる)人生を生きる。その次の生でも…。現在での彼女(彼)らは、縁ある純粋な人の脳をオカシクさせて大変な問題事を起こさせたり、彼を通して、彼の身近な人や友人に悪影響を与えたりと、誰にも気づかれずに何人もの人の人生を、苦しみばかりのそれにすることを得意とする。

その時が来るまで何も知らないでいられるムーが、次々と知るべきことの質を変えて、いくつもの‘その時’を迎えつつあるわけだけど、小学生の時に、心身を病んだ白蛇がムーのところに訴えに現れたことを、連中は知らなかったのだろうか?

蛇は被害者。蛇信仰(崇拝、ご利益)は、人が苦しむのを内心は喜ぶ人たちの、病みの溜まり場。ヘビそのものの人の(無意識)の匂いは、かなりヘビーである。  つづく

2/24

会話している時は、それなりに好印象を覚えても、文章のやりとりを通してだと、全くそうではない姿を見させられることがある。文章は、ごまかしの仕様の無い、その人の内面の顔。焦点がどこに置かれ、心がどんな風に育まれ、言葉や言い回しがそれをどんな風に扱い、どんな風景とそれは繋がろうとしているか? 様々な感情の性質も容易に乗る、文章としての言葉の世界。生きる姿勢や人としての在り様(変化の質)までが、そこから伝わり出す。

2/23

1)この国の病みの原点というものに無意識を重ねる時、自然界と共に人々があたり前に平和に生きていた、二千数百年前の素朴な風景が、全くあり得ないプロセスを経て完全に破壊されてしまったという、後世へのその強力な負の影響力を思う。

それまでは無かった生贄という儀式。人の命を奪うことに快感を覚えるという、残忍で凶悪な本能を持つ人によって作られたそれは、村人を騙し、欺き、誰も抗えない尊いこととして偽装され、純粋な人(少年)たちの生命を残酷に殺めるものであった。

その儀式に携わる女性たちが、蛇を苦しめながら身に付ける呪術は、人々の脳の働きを支配して、その儀式をやりやすくするための、人間とは思えない力。蛇を神の化身とする嘘は、生贄の一つである縛り首形式の正当性と、呪術存続のための象徴作り。それは、神道の闇の中で活躍する。

神主という役を作為的に作り出して、それまで身内や友人たちで行われていた村人たちの結婚式を独占、運営し始めたのは、嘘の上塗りで、彼女たち(十数人の元祖巫女)の無意識の醜さを強固に隠すため。異様で変質がゆえに異性と無縁であった彼女たちの嫉妬心は、そのまま殺人欲求の燃料となっていたが、その感情を隠し続けるためには、男性(神主)の存在が必要だった。

人を苦しめ、命を奪うことに快感を覚える彼女たちが主導する生贄には、村人を代表してそれを執行する数人の男性がいて、彼女たちと同じく(またはそれ以上の)凶悪な本性を隠しつつ、惨殺を繰り返す。それと、その悪業に欠かせない、その光景を見て満足する、同じ性質の一部の村人たち。それは、生命としての人間世界が大きな傷を負った、実に悲しい風景。

その時の陰惨極まりない状態が重く堅固な原因(雛形)となって次々と引き起こされた、その後の戦乱と殺戮、搾取と差別、そして、悪政と悪徳。日本神話誕生の力にもなったその病みの原型は、神道の姿をとり、いくつかの怪しい宗教(宗派)とも融合し、彼女たちと同じ性質を持つ人の無意識の奥でその質を肥大させながら(病みのネットワークを広げながら)、現代でも暗躍する。

その存在たちは、この無有日記を通して、奥に潜めたままのその凶悪な無意識を頭(思考)に昇らさざるを得なくなる。この国のこの時代の意思が、かつての自分を癒し始める。

 

当時の出来事に関わった存在の本性は、力を強めながら、その後のあらゆる災い(圧政、乱、不平等、戦争etc.)の負の燃料源となっているゆえ、現代の姿も含めて、もっと細かく書けたらと思う。ムーミミズの友人のヘビが可哀想だから。

2/22

健康面を考慮すれば、IH同様、LEDのライトは避けたい。健全な感覚を持つ人の細胞が辛くなることを考えれば、LEDが環境に優しいなんてことはあり得ない。省エネって、安心感や温もりを犠牲にする場所でも通用するのだろうか? 地球が喜ぶのであれば、虫や植物も喜ぶはず。熱くならないライトは、ただ空間や感性を鋭く刺すだけ。

2/18

1千年以上も前の、その当時の時代背景が必要としたからこそ生まれた浄土思想(信仰)が、その後も延々と受け継がれ、未だ存在し得る理由を考えてみれば、健全な感性を持つ人であれば、そこに、導く側にとって都合の良い嘘の教えがあることが分かる。

どんな自分が僧(信徒)であるか、という心の性質を高める発想など初めからそこには無く、何をしても(心無い自分でいても)、何を求めても(他を隔てても)、念仏を唱えるだけで全ては良しとなってしまうオカシな思想。それはただ幼稚で軽薄な個の価値感情でしかない。

偽僧たちは、親鸞の名を巧く利用することで、内なる欲深さも執念深さも然るべき姿として捉え、人に極楽浄土の観念をすり込むことで、人生における原因(存在の質)の成長も、心に正直でいる自然な生き方も無きものにする。それは、公正・公平でいる社会の基本が育たなくなる原因にもなるゆえ、心無い支配層は嬉しい。権益を欲しいままに欲をむさぼる親乱暴もほくそ笑む。その当時の人々の救済を取り敢えず感覚で担ったしんらんが不憫でならない。彼ら皆、嘘をつかない家電をもっと使わなきゃ。…たぶん続く。

2/17

不安や嫉妬の入り混じった直線的な感情を持ち続けられる人の、気に入る、気に入らないことへの執着心は、甚だ強力である。何かにつけて持論を前面に優位でいようとするその頭の中には、自分に対する、他者からの素朴な想いも発想も存在しない(届かない)。その悔しい経験も、許せない出来事も、皆心の冷たさからなる個人的なもの。感情を熱くさせ、意固地さを増幅させ、耳の痛い話をする人や本質を突く人との接点を無闇にカットする。そして、病みの不燃物となる。

2/16

みんながあたり前に大切にすべきことを大切にする(させる)ためにある対象と闘うという姿勢は、全く不要である。ただその原因でいて、それによる自由な表現をし続け、伝わり、流れ行く力を付けていくこと。原因が揺らいでいては、要らない衝突を生み、表現が滞っていては、具現化される現実も変わり得ない。

闘うという世界の本質は、調和である。闘いは、何もせずに変えられる力(原因)を持つ(持つべき)人に許される、本来への調整である。個人の感情や思惑の入り込んだ低次のそれから離れ、みんなにとっての大切な原因をさりげなく表現する(闘う)。

2/15

不安に蓋をして頑張れる人が注目されるから、それが出来なくて不安になる人は肩身の狭い思いをし、表面的な優しさに癒される人が普通に見られるから、優しさを普通とする人は思うように動けなくなる。個人的な望みを支える常識が強いから、みんなに繋がる望みを育む人は変わり者になり、そんな社会に何の違和感も覚えない人が活躍できるから、健全な違和感を持ち続ける人は生きにくさを覚える。

前者を援護するこの国の妙な宗教集団(創価学会、幸福の科学、真如苑etc.)が生命を生きる人間の基本形から大きくかけ離れていることは、「コンパスと分度器がケンカしました。どちらが勝たかな?」の答ぐらい明らかである。

2/14

問題事の理由の殆どは、それが生じるであろうその原因に対して無頓着であったことによるものであるから、あれこれ思い悩むより、そのままを受容し、責任ある新たな原因を選択・実践することが、人としてごく普通に大切にされるべきことである。

言い切ってしまえば、頭ばかり働かせてあれこれと考えている人ほど無責任に暇であり、淡々と確かな原因を生きている人には、暇な時間も、忙しいという感情も無いということ。限りある身体時間、使うべき時は普通に使う頭だから、思い悩み、頭ばかりが忙しい暇な時間は持つべきではない。

2/13

東京BSを通して見えてくるのは、いつのまにか不安を抱え込まされてしまった人のそれを材料に経済(教育、宗教)活動する存在たちの、類稀な心根の悪さ。元々不安も怖れも無い人間が、ふと気づけば不安になり、怖れを覚えるその理由は、不安が在ることをあたり前とする世の中で生まれた不安の裏返しの常識の原因に、日々触れさせられてしまうから。その不安の存在を頑なに守り、支え続ける、経済や教育の世界の腹黒い(新鮮な不安を好物とする)存在たち。宗教界でのその力の入れ方は、けた外れである。

そのことが意味するのは、人は、これまでの歴史において、少しも進化して来ていないということ。人間の本質には不安は存在せず、不安によって生まれるものが人間本来の営みに関わり続けることは、それ自体が退化であり、在ってはならないことである。作られた不安と、それを材料に生きようとする存在の更なる不安に付きあうことの、生命としての危うさ。真の普通をそのままに、真を生きる。何よりも普通で、どこまでもあたり前のMEの世界を、遊び感覚で、てきと〜に実践する。…と偉そうに言ってるムーの頭の中は、空空の空ムーチョ。マヌケ顔も板に付いてきている。

2/09

誰にも分からないように人に恐怖心を植え付けていた人が自ら恐怖心を覚えるという全くあり得ない事実を経験する時、彼らは、その材料となる世界を尽く無視し、逃げるようにして姿を変え(隠し)、身を守る。

その材料とは、彼らが普通とする価値観とは対極の全体をあたり前に、形(結果)を通してではなく、心(原因)を通して生まれる生命本来の世界のこと。成長し続けるそれを話題にも出来ず、ほんの少しの意識すらも向けられないことによる恐れと怯えは、好き放題人の心を苦しめていた分、想像の域を超える。

そんな時が、日々進行中。原因の性質がオープンになる世界で、彼らの周波数は雑音に変わる。

2/07

時間はかかりそうだけど、やっと「食の風景」の再編集モードに入った。まずは、第1章の「身体(身体細胞)のことを想うと…」の読み直し。かなり完全な状態で長いこと漂っていたその箇所を読むと、崩せないけど、入り込んでみたい部分、変えられないけど、新たな風を送りたい部分を感じている。少しずつだけど、今書き始めたような気分で、それまでのものを、ずっとずっとこれからのものへと変えていく。と言っても、殆ど同じだったりするけど…。みんなの食事の質とその原因の風景が本来のものであるからこそ、迎えられる今があると思う。

2/06

支配・征服欲を満たすことと、人心(人身)を操る悪趣味に興じることに精を出す密教の世界には、その人と同じような人が増えたら世の中お化け屋敷になってしまう、という人が集まり、それを本能的に知る普通の人たちは、彼らのために、抵抗もできない動きにくさや意味不明の停滞感を経験させられてしまうことになる。…という話は、現代でのこと。惨いことや酷なことが蔓延していた時代の驚くべき様相。彼らの無意識の意思の根源には、その時々の非情な権力者たち(支配層)に可愛がられた記憶があることは言うまでもない。

平和を生きずに、平和を念じ、健康を無視して、健康を願う。それによって、彼らの本意である争いと病み(闇)は生き長らえ、世は混乱する。未来には残せない負の原因を歴史に学ぶ時、陰陽道や修験道の類のガラクタ度数は、屋根より高い。

2/03

その必要性の中に、未来の風景への責任ある原因がある時、人は、良いことをするとか、正しいことを選択するとかの良し悪しの基準に触れることもなく、さりげなく淡々と言うべきことを言い、すべきことをする。

期間限定の価値観(常識とされる世間の感情)の中に生きるそうではない人は、みんなにとっての力強い原因を望む未来を忘れ、かつての存在たちの切なる想いを無視する。そして、強い自意識で発酵させた自己満足のために、世間の良いことに執着する。

未来の安心と健康の雛形になれる原因がそこに溶けてなければ、良いことは、そのための悪いことを増幅させてしまう。

2/02

2015

遊び感覚でいろいろな病気を簡単に改善・回復させていた10年以上前、どういうわけか、霊感の強い人や自称霊能者も次々と来ていた。その頃のムーの仕事は、脳の冷え性へのアプローチがメイン。痛みや不調の原因が段階的に変わり、面白い現実を日々体験した。

霊感は(霊能力)は、屈折した精神によって脳が慢性的に冷えることによる表れ(病気)だから、当然、彼女らのその能力は無くなってしまった。健康になって、嫌われた。それ系の存在たちがMEに近づきたくない理由には呆れてしまう。思わず、零脳者と連想してしまう。

ちなみに、今は、病みの原因のそのまた原因の原因へのアプローチ。ムーセンテンスが読めて、その世界を普通感覚で実践できれば、そのための存在の質は、どこまでも成長・進化させることができる。

所詮、れいきも気功も前世療法も、全体や未来への責任(原因)を忘れた、思考のお遊び。心の性質を覗かれたくない人たちの厚化粧。前世だんごにお払いようかん、除霊あんみつにれいきんとき、おまけにカルマ焼きせんべいにマントラ焼き(+ちゃんと気功)。どれを食べても、無責任思考物体になれる。

 

1/31

心のままに人間本来を生きている人に、決断と実行という言葉は似合わない。自然な感覚で人生の質を変化・成長させている人に、「一度決めたことは何が何でも…」の発想は近づけない。

心の性質が他者に伝わるのを怖れる人ほど、思考に力が入り、感情で物事を判断する。不安を固めた分、結果にこだわり、決断したことに日々とらわれるという、オカシな実行力を手にする。

決断力の要らない、生きる質の原因の選択と心ある想いの具現化。形(言葉、意見、見た目)にこだわり、心に無責任でいる人には、それは難しい。

1/30

建て前と体裁といった見た目重視の価値世界に身を置く人は、その中身の無い人間性をごまかすために、真の普通とは異なる歪な普通を、数と名の力で支え合い、ずる賢く、欲深く、心ある人の生きにくさを演出する。それを、その原因深くから調整・修復する、どちらでもあって、どちらでもない所から眺める無有の世界。Mu Energy & ムーセンテンスに対して「宗教だ」「洗脳(マインドコントロール)されている」と口にする人の根性の悪さ。見られては困るもの、知られては大変なことになるものを隠し持つ人ほど、無有の世界を毛嫌いする。…という行為を通して、そのことを顕にする。

1/28

何人もの人が、電車やバスの中で電子機器の画面に見入っている様子は、まるで痴呆人向けのゲームセンターのよう。まともな人間であれば経験することのない、時間の質の低下と無責任。何気ない気配りも思いやりも、人としての自然な温もりも、そこには無い。

ファッションや娯楽先行の平面的な価値観は、積み重なる不安と怖れを奥に閉じ込めてしまう。そして無感覚になる、人としての本来の在り様。それが無くては生きていけないものが心ある原因(次への責任)を持たない時、無自覚の負の影響力ばかりが潜在化する。人といる空間では、人といることをただ大切にする。

1/27

原因の分母を限りなく大きくしても尚そこにある力強い真の普通をもって為される時代を超えた修復作業のその縮図の中に、確かな意思をもって参加している生命たちのかけがえのない想い。それが現象世界の原因の風景を縦横無尽に飛び交い、進化の融合を重ね、そのひとつひとつのプロセスを喜ぶ未来と、それに癒される過去と一つとなって、ここに、生命としての仕事を揺るぎ無いものにする。

2015年という、魂の母船がより心ある意識層に近づく、真の変化の礎となる大いなるステージ。全てであるひとつの粒子が、それぞれの色を持つ光を放ちながら、時を癒す心の風になる。時代の意思も、通るべき道すがら、その風の力添えをする。

1/24

分からないことにはいつも、分からなくてもいい理由か、分かり得ない理由のどちらかがあるわけだから、分からないといって、安易にそれを否定したり、隔てたりする未熟な姿勢は取ってはならない。

人間としての心の基本形をさりげなく普通に表現している人は、それを意識することがないから、人にそのことを分からせることは難しい。優しさも思いやりも、それそのものでいる人は、その理由を知らない。

「分からない」という言葉の奥深くに入ってみれば、そこには、凝り固めた重たい感情があることが多い。時に、みんなにとっての原因(生命を生きる人間)に対する妙な怯えから、動物的な二面性(逃避と攻撃)を潜ませている人もいる。

どんな自分が、そう思うか? そう思う自分は、どんな原因を経て来ているか? 全体や中庸は、分かるものではないから、「分からない」というセリフは不要である。

1/23

首(and 手首)に動物の死骸を巻き付けて過ごせる人の神経は、すでに人間のそれではなく、その姿は、生命としての成長を放棄した、野蛮で狡猾な○足りん子である。その思惑も、無自覚の意思も、化け物級。ファーを売る人、使う人の後姿を闇夜に照らせば、尻尾が見える。

1/22

感覚的理解とその実践を生活に馴染ませている人は、その必要がある時、分かりやすく論理的に物事の筋を説明する。それは、話す手前の想いが、他者との融合を普通とするから。

思考のみの理解を常とする人にはそれは難しく、どんな時もそのスタイルは論理的になる。それゆえ、他者の心が安心する説明には縁が無い。

「理屈が通らない」とか、「論理にかなってない」とかのセリフをよく口にする人に寒気を覚える理由は、その原因の中にある。理屈好きと心の冷たさは、同類である。

1/21

トイレに石けんの無い駅が多い。理由は、どこまでも不明。今のこの時、あり得ない現実。それを、駅の係員も、併設された飲食店の従業員も使っていると思うと、その不衛生さに、思わず引いてしまう。テツandトモにこのこと歌ってほしい。

ちなみに、ムーのバッグの中には、hands be で買ったラベンダーの紙石けんがある。

1/19

いつのまにか持ってしまっていた差別心は、いつのまにか姿を消すこともある。しかし、いつのまにか人に差別心を持たせてしまう人の場合のそれは、消えることはない。そうである理由は、その類の感情を凶悪化させて生きた記憶を無意識の意思層に収めたままだから。そんな人が教育や政治の世界に関わる時、人知れず、人は苦しみ、自然(健全、公平)と思える不自然なことが普通になっていく。普通自然体の感性をもってすれば、その重たい感情に、健全でいようとする細胞はあたり前に反応する。責任の質を、より深く原因のそれにする。

1/16

隠すほどに伝わるその人の本心の奥に人間性のかけらもない危うさを見る時、その原因が、かつての人生での不穏な姿と繋がっていることを理解する。桃色の金平糖のポスターを常時貼っている家の住人の多くはまさにそう。弱い者を支配し、人の人生を奪うことに何の抵抗もなく生きていた人たちの現代は、そんなところからも垣間見ることができる。

1/15

なかなか変われない理由が、謙虚さと素直さを失くしてしまったためであるとすれば、謙虚さと素直さが普通になった時、その理由の奥にあるもう一つの理由、つまり、なぜ謙虚さと素直さを失くしてしまったのかというその原因の部分が動き出して、何もしなくてもいつのまにか変わっている自分を発見する。

謙虚さと素直さを普通にするには、ただひたすら、感情を観察すること。日常の何でもない普通が、その大切な時を支えてくれる。

1/14

読書好き、という人に会うと、可哀想になる。その経験が無ければ、もっと自分に正直な人生を歩めたのにと思うと、切なくなる。

読書という経験は、その姿勢如何では、経験を創るという本来の姿から離れた、過去に居座る(経験にこだわる)重たい経験になってしまうことがある。みんなにとっての原因がそこに無ければ、みんなを忘れてしまう読書。そのつもりになって、そんなつもりもなく、そうであり、そうでない読書。自らの生き方が本になれる本を読む。本の進化のためにも、自らが本になる。

1/13

その時が来るまで知らないでいられる直感的思考の背景には、全てを知るゆえの全く何も知らないフシギな余裕があり、そのひとつひとつのタイミングがさりげなく案内する風景を感じると、そこには、深みと広がりが増していくようにして成長する、生命本来のプロセスが普通にある。

だから、形ある言葉や文字を感覚(感性)に付きあわせず、ただ感じるままに、形無き想いを言葉にする。そこに在り続けるのは、変化し続ける原因(在り様)のみ。そこに、固められた思考スタイルや動かない感情が残ったままでは、成長も発展も、個人の経験枠に止まる嘘になる。

知らない(分からない)でいられる時が普通自然体のそれとなる時、人は、生命としての可能性を拡大させることになる。繋がる次の原因も、それを更なる次へと繋ぐ役を担い、平和や愛情の意味も知らないまま、それそのものになる。優しさも温もりも、そのための経験を知らず、ただそれになる。知ることに力を入れ、知ることの質(次元)を低下させてはならない。結果は、原因によって簡単に砕かれてしまうものだから。

1/12

12/28の東京Bの後、Healing Workのあらゆる概念が全て消えてしまう程の新たな普通体験を経て、1/05に、偶然の中の偶然のひらめきという名のとてつもない変化のタイミングが訪れ、そして1/67とずっと長いこと強力な重しとなっていた(どうにもならなかった)形無き別次の理由が次々と砕かれ、浄化された。

その時のワーク空間と時を超えて融合し得る人たちの存在が嬉しい。それは、終わりの始まりがやっと終わったようでもあり、ここに至る原因の連なりがずっと先の未来にまでしっかりと繋がったようでもある。 ここから新たに、更なる次へ。この今、この時に、ただ感謝。

1/11

LEDライトに触れたくない理由は、その光を感じると、細胞が辛くなるような妙な冷たさを覚えるから。虫が近づけない程のその不気味な性質に、自然界の生命の嘆きを感じるから。そして、身体ではなく頭(舌)が喜ぶ思考食同様、健全・健康を蝕む意図がその背景(原因)にあることを容易に感得できるから。

巨大な茶番劇に付き合わされている大勢の人たち。確実に進行する、脳の冷え性と鈍性。お肌の曲がり角は30歳頃だけど、肌を照らすライトには、曲がり角も間借り過度もないから、細胞(自然、生命)が安心を覚える、いつものままがいい。

1/10

パンケーキは普通に焼いてくれるので、時々利用している、永山駅間のカフェ。カウンターでパンケーキセットを注文している時、前のお客さんが注文していたパスタ×2を作っている様子が見えてしまった。冷凍パスタを透明な容器に入れ、そこにお湯をたくさん注いで、電子レンジで温め、その後お湯を切り、キレイに皿に盛っていた。具の混ぜ具合までは見逃してしまったけど、実に不気味で不健康な光景だった。

美味しく作り、美味しく食べる技術だけが先行し、身体細胞たちの健全な働きには意識すら向けない昨今の外食の事情。脳がオカシクなる下地がじわじわと作られてしまっては、政治も経済も教育も、不健全なルートから外れる力を失くしてしまう。電子レンジという、破壊の象徴。それに鈍感な人の鈍性が、人間の本来を鈍らせ、意識を退化させていく。

ここでは、日常の風景での違和感を、よりダイレクトに書いていく。そこにある、そうであってはならない現実の原因を、在るべき姿へと変えていく。嫌われ度数が一気にUPするこれから。ムーも歩けば、違和感に当たる。

1/09

柔らかく敏感な人が少しずつ生きる力を失くし、健全な感性を普通とする人が突然動けなくなる原因の深くに入っていくと、普通ではあり得ない妙な性質の影響力を持つ存在たちのどこまでも普通な姿と振る舞いが見えてくる。

まずは、彼らの無意識の無が外れるよう、12/252931の日記で、○○ホイホイをセットした。そして、その影響力がこれまでのようにはいかないよう、12/30の日記で、病みのミルフィーユを食べるミミズを放した。

そんなことがなぜそうであったのか? それを可能としたのは、何がどうで、どこで何があったのか? 人間技ではない負の力を人間社会に持ち込んではならない。その化けの粧も、次々と落ち始めている。

1/08

ふと思うのは、この日記のムーセンテンス、じわじわと「も〜ゆるせんてんす」になるであろう予感。無視もできず、逃げることも考えられない状況の中で、どれだけの重たい人が、ペンキ塗りたてのベンチで居眠りをするであろうか? どれだけの心優しい人が立ち上がり、歩み出すであろうか? きっと、おかしなくらい面白く、とてもステキな日常が、そこかしこで普通になると思う。

歪な普通がそのままでいられなくなる原因そのものの存在たちのフィルターを、より強力な心の風が通り抜ける。

1/07

31日から1日にかけて甲州街道を歩いていて、大多数の人たちの意識が現代版のものや形に向いていたこともあり、時を遡る形無き歴史散歩を楽しめた。途中、あるテーマに差しかかった時、突然台風のような現象が起き、思わず手の内を見せてしまったオカシな連中の顔も見ることができた。年末年始は、その時だからこそ触れられる、ここに繋がる原因の風景のいろいろな性質を通しての、かなり密度の濃い面白ワークの実践の場となる。

そして、集まり出す、これからに必要な、その材料となる現実と感覚。そのひとつひとつを見ていても、やはり2015年の重要度はこれまでの比ではないことが分かる。この時のほんのわずかの時間が、かけがえのない時に繋がる風を吹かせてくれる。

1/06

2015

…というわけで、2015年も6日が過ぎ、今年ならではのワークモードへと、新たな気分で動き出す。2013年に「この国のこれからのために」をまとめ、昨年2014年は、「心の風」の原稿となるセンテンスを書き続けた。

2015年がどんなかは全く分からないけど、これまでのものとはかなり違ってくる感触はすでにずっと前からある。それがどんなプロセスを経て、どんな展開になるか…。原因が高まっていても、具体化される文章はその時にならなきゃ分からない。

2015年って、意外性がそこにあっても、実は全くの必然的な出来事としての好転反応が強まっていく感がある。しつこく滞っていたところが流れ出し、崩れるべき場所は、芯のところから崩れ出す。そのための材料となる原因は、しっかりとした成長を経験している。

そんな時、事実を思考で判断せず、事実を受け止め、その原因(背景、プロセス)を学び、思考の質と判断力をより人間本来のそれにする。それは、変化に乗る際の、シンプルな基本形。

さて、この1年、どれだけヘンテコで、ドジでマヌケなムーがいるであろうか? まずは、東京Bから。そして東京Gへ。

 

 

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