無有日記

 

8/13

文章は、そこに在る内容を知ろうとする頭の働きが要されるため、書き手も、内容を頭で作り上げるという、読み手が抱くであろう印象を考えたり、実際とは微妙に異なることも良しとしてしまったりと、送り手と受け手両者の原因の融合からは遠いところで、それぞれが自己満足して、何も変わらずそこで終わり、ということが日常的に為されてしまう。

ところが、動植物たちの姿を写真に撮るというのは、撮り手の目(心の欲求)を通して、そこにある彼らの動きが動きの無い形に残されるという、通常枠には収まらない経験がそこで為されるので、頭で作り上げることは何も出来ず、自らのその原因への責任の性質が、そのまま写真を通して(通り越して)見る人に瞬時に伝わる。

文章は、その殆どが、結果に収まる、変化とは縁遠い個人的な作品。写真は、次元の異なる2つの原因を繋ぎ得る、その人の心の姿である。だからこそ、今、動植物たちの(LED化の原因による)悲しみを映像にし、新たな原因にその姿を変える。それにより、どうにもならなかった時のその理由の世界からは離れられ、力強く変化の主導権を握る。ずっと心のどこかに秘めていたことが本物であることを、自らの想い(原因)の具現化で、共に生きる自然界の未来に放つ。

人生のチャンスではなく、生命のチャンスは、実にシンプルである。「LED感染」の表現無くして、生命たちの希望は無い。気づけば、文章の中身もその性質も、責任ある原因のそれへと変わっている。

8/05

2016

嘘の原因を生きる人は、当然、その結果は嘘であり、現実も、嘘を本当として疑わない、偽りそのものの世界となる。彼らは、そのことが人としては余りに未熟であることを本能的に知るゆえ、作られたこの世的な正しさに執着し、嘘の正しさを熱心に支え、それを信じて生きる。

LED化がここまで続いているのも、嘘の原因しか生きられない人の心無い(差別心を強めた)結果という事実に否応無しに付き合わさざるを得ない人たちの中の、そこに在る次なる現実を創り出す原因が、どこまでも本来から遠ざかって(遠ざけられて)しまったから。人々の知るこの国の歴史の原因がそもそも嘘である(人間本来ではない)ゆえ、そこで生まれ、伝わる価値認識の中身も嘘である。LED化は、その上に在り続けようとする。

正しさの経験は、自然界の意思との融合無しには、限りなく難しい。自然界のありのままの正しさに、人間の思考発の正しさは、永遠に近づけない。ところが今、自然界は、正しさの原因をそのままに、心ある人間の世界に近づこうとする。永い時を経て、人間の基本中の基本である本来の普通が、自然界の意思と初めて重なり合う。

それは、単に、真実が、自ら意思表示しただけ。その中に居るのが人間であり、嘘の原因のままでいる人は、そこには近づくことも出来ない。生命を生き、人間をやるという、真の普通。それが、より分かりやすく、ここ(「LED感染」)に在る。「心の遺伝子」も、力強くこの今を支える。

 

7/26

植物たちの悲しみとの出会いは、彼らに託された、彼らの望み。それを受け取るべく自分でいて、それを繋ぐ新たな自分となる。

植物は、言葉を知らないから、考えることもなく訪れるその時が、すでにそこへと向かっていた、互いの融合の意思(具体化)。植物は安心し、仲間たちのために、笑顔になる。担い手は、ただそれを大切にする。

悲しい出来事は、それを終わらせてくれる人のその原因の中で浄化されようと、精一杯の姿を見せる。辛い現実は、そうではない世界の原因を生きる人の中で、その役を果たそうとする。今のこの季節の次回は、来年。動植物たちの辛そうな姿に対する、悲しみも怒りも要らない。彼らには出来ない、人間には出来ることを、淡々と実践する。

7/23

LED感染(7)」を経て一気に引き寄せた、それまでには無かった、力強く大きな原因の時。この時をずっと前から知っていたかのように、人は動き出す。ゲームは未だ途中だけど、風は変わり、呼応する次なる風景もその姿を変える。

細かく滑らかに流れる想いが主導権を握る時、繋がる抽象世界の具現化は、どこまでもさりげない。3日前のことが1か月も前のことのように思えてしまう程、そのひとつひとつの原因はぶつかりを知らず、確かな未来を引き寄せる。そして、思考(経験)枠に収まらない現実の行方を、余裕で観察する。

結果のままでいようとする(過去にしがみつく)価値観に支えられた世界が、次第に砕けていく。良い人でいようとする姿勢を武器にそうではない本心を隠していた人の嘘が、次々とこぼれ出す。「LED感染」も、ウォーミングアップを終え、みんなで、思い思いに遊び呆ける。動植物たちの声になり、遊び相手になる。

7/17

LED照明を使用する店は、自然環境のことを全く無視し、無責任にその自覚もなく問題事の原因を作り出している、ということが、普通一般の(健全な感性を持つ)人の常識になっていくこれから。そして、いつまでもLED照明を使い続けていることに何の違和感(問題意識)もなくいられる店は、人としての心の基本形と生命としての健全さ(本来の感性)を持ち合わせない、実に危険な存在(責任者)がそこに居て、その根っからの悪質な本性をそのままに、どこまでも生命への脅威に対して無頓着でいるということ。

どんなに非道なことでも、権力を持つ存在が決めたことであれば、それに従うのが意味のあること、という、永いことこの国で力を持ち得ている、人間味ゼロの未熟な価値観。それを擦り込まれた普通の人たちと、巧くそれを利用して、心無くても生きていける世を支える異常な人たち。

LEDへの扱いひとつで、その人の本当の姿が容易に顕になる。この世は、心と思考をひとつに、あたり前に本来を生きる人間の世界である。心(魂)を持たず、頭だけで生きる、そうではない偽りの人間がLED照明の世界に群がる。LED好きは、心が無いことの証明であり、心ある人を人知れず病ませようとするその本性の現れである。それは、ミミズやケムシたちが教えてくれる、自然界の、余りに危険な異常な異物である。

7/10

LEDの光に異様な感覚(違和感)を覚えたり、辛い気持ちになったりするのは、その人が健全で健康的な感性を持ち合わせているから。決してそれは、過敏であるとか、どこかがへんだとかの次元ではない。その感覚的判断は、自然界の生命たちにも支えられているから、当然彼らが悲しむLEDにも普通に反応する。それを、大切にする。

リンクを通して、心ある人は、「この国は、(地球の将来に対して)恐ろしく大変なことを仕出かしてしまった」と気づかされる。人間として、未来への責任を僅かでも持ち合わせていれば、どんな人でもそれを感じる。そして、そこからが重要である。即実践。それは、生きることと繋がる、人生の基本。やってはならないことをそのまま放って置ける理由を、人は持たない。

7/07

16.否定感情から縁遠いことで、生きる原因は人間本来のそれとなり、脳の働きは、少しずつ人間の本質世界と重なるようになる。そして経験するのは、否定感情を知らない世界で心のままに生きていた人たちの、その素朴な想いと純粋な感性との融合。それは、1万数千年振りに人間が出会うことになる、縄文時代と呼ばれる世界の、何でもない優しさの風景。それは、その時を知る(「心の遺伝子」と融合する)人たちの今に、時を超えて繋がり出す。人間だけを生きる存在たちの歴史を通り抜け、みんなの生命の歴史の原点が、この場所と重なり合う。

縄文土器(の変遷)に含まれるその作り手の意思は、人間が人間らしく生きるための基本要素を思い出させ、それを次に繋ぐという、生命としての責任ある表現を促す。その質を繰り返さず成長・進化して行く歴史を見守り、結果に留まることもなく原因でい続ける人間の、創造と連繋の姿を応援する。その全ては次第に活動的になり、未来への原因の性質は、この数千年分の内実を余裕で包み込む、地球感覚のそれとなる。

生命を生きる人間にとって無くてもいい経験が繰り返し連ねられたこれまでの、その原因であり続けた存在たちが、ここで新たに繰り広げようとする、その手の内(本性)丸出しのLED化。変化し続ける永遠の瞬間の‘生命の歴史’の中では、そうではない(結果に居続けようとする生命の無い)歴史は、繋がる場所をどこにも持たない幻の類である。

それをずっと知っていた生命たちは、「LED感染(7)」の時を喜び、想いのままに、さりげなく真剣に時を癒す。あたり前に本来の普通でいる原因を高め、繋がる風景の風となり、水となる。そして、子供心を元気に活躍させ、子供たちは、太陽の心になる。

7/06

何をしても、どこかが上手く流れず、どうにかなるような気がしても、なかなかそうにはならない状況を何度も経験すると、気力も何かに抑え込まれるようにして沈んでしまい、湧き上がる想いも、繋がる場所を失くしてしまっているのでは、とさえ思ってしまう。

ここまで書いてきた「LED感染」。(7)のラストの時を待っていたかのように、食物や植物たちは、ここぞとばかり、その意思(切なる想い)を表現してくれている。同じこの時は、二度は無い。まだ元気な生命たちがそのままでいるうちに、LED感染の映像を力強く活躍させる。

この今は、生命としての人間を生きる誰にとっても、人生で最も重要な自由創造(具現化)の時である。生きにくい理由(LEDの原因)に付き合うことはない。自らの原因を、この時代に使ってもらう。

7/02

2016

15.歴史的にも、これまでには全く無かった、戦や争乱とは無縁の現代の様相。それでも、人間の性分(原因)は、これまでの延長上としてそのまま在るゆえ、無意識に引き寄せられようとする現実のその性質は、姿・形は違っても、ある不穏な力により、かつてのように非情で非道なものになる。LED化は、その非人間的な性質の原因全てが、所狭しと潜んでいた場所から一気に噴き出した、病みだまりの病原菌のようなものである。それは、人の人生(命)を思うままに奪えない今の世での、彼らの苦肉の策であり、(LED照明によって経験する)心柔らかな人たちの辛さも、動植物たちの悲しみも、その恐ろしく凶暴な無意識(本性)がその原因の中に在るためである。

そんな現実が作り出されようとする流れの中、この時だからこそ可能となる望ましいこともある。それは、LED化の原因が浄化されていけば、どんな病気も確実に姿を無くす道が生まれ、争いも衝突も、不公正も差別も、その力を失くして、そのままではいられなくなるというもの。これまでの時代のあらゆる病みの原因がLEDの世界には存在するため、その影響が及ぶ、現在の不自然・不調和などんな状況も、その元から変わり出す。それは、「LED感染」を通して、ここに繋がるこれまでの歴史の本質を知ることで動き出す、本来の普通。「生命の歴史」も、「地球の良心」や「1000年目の夜明け」も、その材料となる。

 

6/26

14.危うい本性をそのままに現代に生を持ったその存在たちの無意識の意思の性質は、「LED感染(番外編)」との融合を機に(自らの内面深くから)浮き上がり、切り離される、彼らによる影響力の程を通しても感得できると思う。そして、どれ程の不穏な意思がLED化の原因となって集まり出し、そこでうごめき、暗躍しているかも理解する。

永いこと負の連鎖(歴史)を支えてきた存在たちは、そうではない未来に繋がろうとする原因を抑え込もうと、少しずつ人の感性を鈍らせ、心を思考から離れさせ、そして、この現代仕様の病みづくりの手段として、LED化を実践する。そこには、普通ではあり得ない凶悪な力と重たい感情が在るが、それでも、それらとぶつからずに時空が本来へと変わり出す原因は活動的に働き、その確かな支え役に、「LED感染(6)」も仕事をする。それは、この「LED感染(7)」によって質を高め、より力強くなる。

6/20

ずっと前から分かっていたはずのことが、どこまでも分かりにくくさせられていたためになかなかその時が来なかったけど、やっとそのタイミングは訪れ、LED照明の余りのその恐さは、人から人へと伝わり、心ある人が普通に知る、みんなにとっての常識となっている。LED照明の悪影響は、計り知れない。体験的知識を大切にする、人としての良識をあたり前に持つ人にとっては、それは当然過ぎる話である。

電車(新幹線)やバスにLED照明を使用するなんてことは、以ての外。生命にとって(健全さを維持しようとする細胞にとって)、許されるものではない。スーパーやデパート、住宅や街灯も同じ。そこでのLED照明の使用は、未来への無責任さの極まる、実に悪質で愚劣な行為と言える。

LED化を推進するという、嘘のように低次の姿勢でいる(心と感性の無い)人は、数の力と妙な権威で、真を潰し、嘘を通す。実に厄介な、時代の異物となる極上の負の原因。(7)で「LED感染」は終わりだけど、その働きは、まだ始まったばかり。まだまだこれから。

6/19

13.彼らの普通ではないその姿は、「LED感染(4)」で簡単に記したが、何をするにしてもその姿勢には、人としての心ある原因が無いため、その意識もなくあたり前に、不公正で不健全な環境を作り出し、人々の思考をそれに付き合わせて、思い通りに支配する。いつの時代も、当然のように手にする優位な立場で、彼らはその否定感情そのままの体制を整え、それを確固たるものとして繋ぎつつ、形ばかりで中身の無い平和と自由に満足する人を増やしていく。

変化・成長とは無縁の病み世の安定を共通テーマに、様々な位(武士、公家、僧、神官etc.)での力を利用する彼らは、支配・征服欲からなる残酷な常識を作り上げ、自分たちの都合優先で、人の命を次々と奪う(殺害する)。心ある人たちの素朴な感情が反抗心へと発展しないよう、迫害と殺戮も平気で行う。それらは、弥生時代が始まる頃からの、この国の数千年間の内実である。

6/13

12.その原因となる存在たちは、現代に至るこれまでの中でも、特に邪馬台国の時代にその影響力を格段に強め、病み世の土台を完璧なものにする。(「復活への道」)縄文時代が終わる頃から現代まで、人間が人間らしく生きることの出来ない時代を支え続けてきたその存在たちであるが、この今の、封建的な世から離れた、人権と平等が尊重される社会の訪れには、彼らは、耐え難い程の激しい憤りを覚える。それがそのまま続くことで生じるであろう、新たな世界の平穏な世の安定は決して許し難く、かと言って、以前のように武力(権威、権力)でその流れを封じ込めることも出来ず、結果、その存在たちは、その本性の活動を最大限に強め、疑問の余地も与えない程の緻密で完全な案を講じ、それを実行する。それが、今のLED化である。

6/09

11.不健康な食事を食べ続けて病気になるにしても、そこには、その不健康な食べ物が存在する原因、それを食べてしまう原因、他の人は平気でも、自分はそうではない原因がある。不注意で事故を起こす場合でも、その時の不安定な精神の原因、それを作り出す環境的な原因、人は何でもなくても、自分はその状況に引き寄せられるように向かってしまった原因がある。

そして、そのどれも辿っていくと、そんな状況(状態)を経験すべく選んだ今回の人生の、その前のところに大きな原因があり、それが浄化されないために(影響力を持ち続けているために)、病気や事故が生じてしまったということが分かり出す。

永いこと、やむ無く負の影響を受け続けてきた心ある人たちが、その原因の性質と向き合えるぐらいの力を付け、それが(その影響力が)力を失くし、浄化されることで、人間は初めて、健康で平和な社会のその原因となる人生を生きることになる。数千年振りに、人は、真の人間時間を過ごすことになる。

6/05

2016

10.平穏とは無縁の、争いの絶えない混乱の世。厳しい制約の中、普通の質をどこまでも低下させていく圧政の世。そして、生きる希望を抱くことも考えられない、戦乱の世。

それぞれの時代に、責任の質を成長させることもなく、責任を取らされ、人生を終える人。自由で健全な感性を知らないまま、不自由で不健全な決まり事に縛られる人。そこでは、誰もが修正しようにもどうにもならない人生を歩みながら、そうであるその元となる否定的な原因(価値観、体制)の性質を、そのまま感情や思考に染み込ませる。決められた対象に害を及ぼすよう(厳しく対処するよう)教育・指導され、人間としての在り方を歪めて、非人間的な原因を溜め込む。

それは、完全に仕組まれ、操られた社会の偽りの姿である。彼らの誰にも、その責任は無い。ただしかし、その時々の経験は、今尚ここで影響を及ぼし続け、無意識の中に在るその記憶の性質に応じた様々な問題事を、人は経験する。

この場所に至り、読み手は、容易に理解すると思う。そう、病気も貧困も(事故も争い事も)、その大元の原因は、かつての争いの元となる価値観を作り出した存在であり(にあり)、それが有ることで否定感情そのままの人生を送ることの出来た人たちが、ここで、それらの(病気や争い事の)手伝いをしているということを。

 

5/31

人はとかく、知っていることに価値を置き、なかなか知り得ない、知るべきことを遠ざける。頭の使い方も、知識(言葉)の組み立てにばかり力を注ぎ、知識の元となる世界に漂うことを怖れる。そして、その気もなく、無責任に、負の連鎖の繋ぎ役となる。

人間は、不要に知らされる、知るまでもないことから離れるだけでも、問題事の原因と縁遠くなる。そして、問題事が無ければ活躍できない世界の存在意義が姿を消し、その意識もなく、人は、平和の中で生きる。

オカシイままの脳による歴史がこのまま力を持ち得ないよう、「LED感染(7)」で、この今、誰もが知るべき知識を形にする。然るべき原因の無い知識や個の思惑でもって、それを否定することは出来ない。真実の本質は、この世の知識世界(人の頭の中)には無い。

5/30

9.問題事は、不安や心配、不注意などから生じるものだが、その手前では、その状態を誘発する関係性や気になる存在の姿がある。更にその手前では、その状況を作り出した出来事や、そうせざるを得なかった選択や判断があり、自分だからこその感じ方・捉え方がある。そして、そんな自分の性分と、他者との感情の絡み、価値観の相違。それらの性質全般の在り様のその原因には、それまでのいくつかの人生での経験があり、未消化であったり、浄化されないままであったりするその原因によって、関わるべきこと(人)と関わり、働かせるべき脳(感情)を働かせ、それらが、現在の心身の状態や出来事(関係性、環境)へと繋がっているのである。

そのシンプルな生命としての事実を、原因の世界から厳しく、余裕で観察すると、今とは時代背景の異なるかつての風景で、大勢の人の脳が記憶することになる苦しみの現実を、その背後で恐ろしくも巧妙に作り出していた存在の、その大きな影響力が姿を見せる。

傷を負い、命を落とすことを分かっていても、闘う以外の選択肢を持たされない人たちは、その、人間が経験するはずのないことの原因の性質を、そのまま残す。戦(争い)が無ければ友人にもなれた人の人生を奪い、もがき苦しみながら命を終える自他の姿に、極限の悲しみを残す。人々は、抗えない力を持つ存在によって引き起こされる争いに、否応無しに関わりを持たされ、いくつもの(時代の)無くてもいい経験を通して、人間らしく自由に、平和に生きることを難しくさせる原因を、その無意識の中に蓄積させてしまう。

5/29

今現在、リンクページに10個ほどの映像がある。そのどれもが、生命たちの嘆き。自然界を破壊する、災光のLED。もちろん、人間(身体細胞)にとっても、それは災いでしかない。

心あるたくさんの人たちに伝え、気づかせ、LED関わりの危うい状況から離れさせる。映像のアドレスをコメントに添えたり、直に見せたりして、自由にそれらを活用し、「LED感染」のページで、病み世を明るくさせる。

それは、人としての普通感覚を原因に動き出す、人間本来の姿。LED照明は、どこまで行っても、自然界の嫌われもの、地球の異物である。それを良いものとしてしつこく広めようとする非人間的な存在は、「人間失格の条件」の映画に出演してもらおう!

5/21

8.ここに繋がるかつての人生での原因(生命としての意思表現と、人間本来の脳の働きの実際)を思考で切り離すという愚かなことをしなければ、心身の不調も、様々な問題事も、その殆どが、今回の人生の手前から始まっている(先天性からなる)ことを理解する。多くの病気の形無き重要な原因は、人の命を奪うことに平気だった存在の影響が今尚(現代でも)続いていることによるものであり、環境的な要素が色濃く関わる時のそれは、かつての悲惨で重苦しい(苦しみばかりの)時代背景そのものであった存在の影響によるものと言える。

身体を終えた後(の世界)に焦点を置く、真の無い宗教の嘘を外し、繋がり行く経験の性質とその原因による、前も後も無い、生命の身体表現を大切にする。それを尽く無視する存在は、縁する人に、簡単に大変な問題事(病気、事故etc.)をもたらす程の経験の記憶を、その無意識の中にいくつも潜めている。

(※同じように育てられた双子でも、性格や健康状態が違ったり、同じような環境にいても、ある人は病気がちだったり、ある人は何でもなく元気だったりするのは、それらの原因が、今回の身体表現の場を選ぶ(選ばざるを得なかった)前からのものであることを意味する。良くも悪くも(未来への影響がどんなであれ)、時流に上手く合わせられる人と、それが出来ない人の場合などもそうである)

5/20

嘘で固めた作られた真実が力を持ったままだと、どんな現実を人は生きることになるか…という、無くてもいい嘘のような苦難の経験を積み重ねてきた(積み重ねさせられてきた)、この国の人々の歴史。その嘘が極まったのは、邪馬台国あたりからの数百年程の間。そこには、嘘のオンパレードがあり、人間を色で位分けするという、実に愚かで不気味な、化け物のような存在(権力者)や、嘘人たちのルーツである蛇(の脳)を祀らせるという、人間には無縁であるはずの蛇教を力で広めた、獣のような恐ろしい存在もいる。

人間の永い歴史の中で、この3千年程のこの国の歴史は、世界で最も災い深い原因で居続けた、真の無い嘘史と言える。その理由は、いくらでも言える。(すでにその100分の1程は書いているが…)そろそろ、メディアも、LEDの明らかな嘘と罪を突っつかないと(それによってあたり前に責任を果たさないと)、この国の人間には良心(心ある原因)が無いということが定着してしまう。

LED感染(7)」は、経験の外側から余裕で観察する、世の原因の世界の真の姿である。原因は、変化であり、生命。それを無視する(ことでしか生きられない)存在は、この先一層無知になり、蛇化する。(←ん?何のこと?)

LED感染(7)」が終わる頃までには、映像(リンク)も増えると思う。LED関わりの文章が終わりに近づいたから、この時を待っていたかのように動き出した(具現化した)それぞれの想い。タイミングは力であり、変化し続ける必要性には終わりは無い。その時の連なりに、「生命の歴史」は、その奥深くから躍動する。

5/15

7.人生(命)の奪い合いというものを人間がする事自体、一切の言い訳が通用しない、実に愚かで未熟な、悍しい現実である。しかし、その殆ど全ては、それが許される世を作り出した存在たちによって仕向けられたもので、人々は、事の良し悪しの判断力を著しく欠いたまま(身に付けられないまま)、生きていく上での当然の理解としてそれに付き合わされ、そこでの常識に従う。永いこと続けられたそれは、奇跡的とも言える、退廃と無知の歴史である。

そんな中でも、人々は、衣食住の質を高めるべく工夫を凝らし、技を磨いていく。それらの作風や様式は、その時代時代での文化と称されるが、実際は、人間の本能からなる切なる感情と意地の形であり、そうとは分からない不自由空間での、精一杯の創造的直感の表出である。人々の経験枠を乱暴に仕切る存在たちは、何もせず(人間的なことは何も生み出せず)、その文化を、自分たちのためのものとする。

5/14

この世には、批判するに値しない、存在自体が嘘のような人間がいる。その存在価値をゼロ以下にすることは、良識ある人間の未来への仕事である。

自由には、責任が伴う。それは、誰もが承知のことである。なのに、その責任が、いつのまにか力を失くしてしまう場所がある。そこに、その存在は居る。

平和の基礎に、不安や怖れは無い。それは、誰の心も知り得ること。なのに、争いや不安の裏返しのそれへと、いつのまにか向かわされてしまう場所がある。そこに、その存在は居る。

嘘のように危うい存在というのは、その本性の力(無意識の意思)で、人の生命としての在るべき姿を抑え込み、人間の変化・成長を簡単に止める。そのことを感じ取る人が居たとしても、その人は、批判する力を無くさせられる。ただ、批判するに値しない存在として扱えば、その存在の本性は暴走して、厳しく観察され、存在価値の無いものへと変わり出す。

人間が持つことの出来る力は、心ある生命たちを生かし、彼らを支え、守る、自然体の、自然な力である。その力を持たない存在が、力を持ってはならない。

5/08

6.その事実を前に、今在る記憶から自由になり、そのことで動き出す無意識の働きにより、人は、今回の身体時間の元となるそれまでの(経験の)記憶の性質を、段階的にその深くから浄化し得る機会を手にする。それは、初めてのようでも、どこか懐かしい時の訪れ。ずっと不自由だった心の意思は解放され、その中に在った、切ない感情と身体的な辛さ(苦しみ)の記憶は癒される。そして経験する、真の普通。普通だから、健康の原因は力強く、理由の要らない喜びと、ありのままの平和は繋がっていく。

それが可能となるのも、どちらでもあり、どちらでもない中庸の世界の、その無限(永遠)の意思により、人の生きにくさの材料となっていた歴史認識の嘘の原因が、顕になって力を無くすから。永いこと人間の思考に染み込んでいた非人間的な不穏な原因は、少しずつその居場所を無くし、繰り返されていた歴史は、その病みの土台を無くす。

5/08

人間失格の条件があるとすれば、それは、心柔らかな罪無き普通の人たちの人生(生命力、命)を平気で奪うこと(奪うことに平気でいること)。何かのために命を終える(捧げる)ことも、誰かのために人の命を奪うことも、人間には出来ない。

それが行われた時代があるとすれば、その時代そのものが、人間とは思えない恐ろしく獰猛な無意識の力を持つ存在によって操られていたと思ってよい。人間としてあり得ないことが常識とされる世である時、そこには、人間失格の条件そのままの権力者や有力者がいる。歴史上の人物への理解が本来となる時、未来へと繋がる道も、確かなものになる。

癒されないまま、これまでの中に残る、無数の心ある生命たちの痛みと苦しみの原因。彼らみんなを、みんなの未来に連れて行く。彼らの切なる想いは、真の歴史の事実そのものだから。

5/05

5.人が人の命を奪うということ。人間の精神は、決してそれを可能とはしない。人の人生を操ることも、人の生きる自由を抑え込むことも、人間であれば、その発想すら持つことはない。それは、生命を生きる人間としての基礎となるもの。人間の存在の原型に組み込まれるその意思により、人は、その意識もなく変化に乗り、成長・進化を経験する。

その人間の基礎が無くなるというのは、何をしても人間ではなくなる(人生とは呼べない)原因の中に留まることになるため、この生命世界ではあり得ないこと。それが、形容する言葉を持たない程恐ろしい意図を持った存在によって完全に覆された、縄文時代の末期。その嘘のような経験の性質を染み込まされた人間の脳は、その頃から現代まで、何もかもが人間のそれではなくなる現実を生きることになる。地球自然界に生きる一生命としての責任を担うこともなく、酷く低次化させた歪な普通を普通とし、時を刻む。

5/05

…というわけで、大阪を出る頃から始まった、「LED感染(7)」のNo.5が近づいて来たからこそ生まれた新たなアプローチ(EW)で、抽象世界の原点となる風景を見えにくくさせていた、そこに在ってはならない幾層にも溜まったホコリを、日々払っていく。無くてもいい経験に付き合わされていた時の要らない感情がそこに在れば、細胞レベルから、それは動き出す。細胞の意思は、どこまでもシンプルで、正直である。

元々、人間世界には存在しなかった、病気(不安)や争いの、人間らしさを無くした異質の原因。それらが普通とされてしまっている現代の、その土台には何があるのか?すでに始まっている数千年振りの再スタートの更なる材料は、「LED感染(7)」がここに連れて来る。ひとつひとつの始まりはいつもさりげなく、気づいた時には、その全てが未来に溶ける。

5/04

4.縄文時代を通り抜ける原因の(性質の)、その変化による事実の様相は、「連繋の意思」に載せる。この2千年程の負の歴史の土台となる、凝り固められた重石のような原因の風景は、「復活への道」に記す。そして、「再生」と「この国の病みの始まり」。それらのどの時代のどの時も、人は、そうであることへの疑問も反発も無くそこに在る不自然さを通念とし、守るべき常識も仕事の目的も、心ある感覚がそこに関わることのない、質の伴わない既定枠のものを普通とする。

そのために繰り広げられる様子(社会)は、一言で表せば、人としての次元の低さ。生命としてあるまじきことが蔓延し、それが繰り返し積み重ねられるという退化そのものの世(治世)の連綿は、どこから、どんな風に観ても、本来の人間が経験するものではない。

5/04

責任感覚が普通である時というのは、自分が書いたものや話す言葉に、自らのそれまでの原因(の性質)がそのまま乗ることがあたり前となり、当然、他者のそれへの反応も敏感なものになる。それだからこそ、行為の手前の原因にブレは無くなり、頭を使うことも、感覚的なアプローチが普通となるため、その時間は減る。体裁や建て前といった世界の不穏な原因からも縁遠くなる。

責任感覚が本来のそれである人が快活に動き出すと、放って置いても、社会は健全で、優しいものになっていく。言葉に乗った(言葉を通して)その人の本心とそれまでの原因が常にオープンになるわけだから、ごまかしも嘘も、存在し得なくなっていく。

LED感染(7)」が連れて来る世界は、その人の真の姿である原因(無意識の意思)の性質をありのままに外へと流れさせ、人がそれに反応し、感覚的に心でそれが処理・理解されるという、思考では一切繕えない本質そのままの関係性を生み出していく。それはまだ、人間の進化の初歩の初歩の営みだけど、生命としては、確実なひとつの成長。初めて、その場所へと、人は歩み出す。

感じることに、言葉は要らない。感じるままでいるから、言葉は、言葉ではなくなる。そして、その感覚が大切な仕事をしようとする時、言葉は、感じるままのそれとなる。言葉はいつも、言葉にならない(できない)想いのその原因(本質)への、通り道である。

5/03

3.不自由さを常とする中で、それをあたり前とする(させられた)脳の働きは、それ以前の本来の姿を忘れ、それをそのままに時を連ねるうちに、全くそれまでと質の異なる生活空間に心身を馴染ませていく。それが数千年もの間続けられていたとすれば、どんな時代(歴史)が生み出されることだろう?人間は、その状態が完全に固められてしまったおよそ数千年前以降、人としてあり得ない現実を普通とする(普通とさせられる)、まるで悲しみの歴史の材料でしかないような、辛く厳しい時を生きることになる。誰もが脳に本来の仕事をさせられないまま、地球に生きる生命として決してあり得ない不安発の感情で、争いと差別の原因となる材料を作り出してしまう。弥生期以降、現代までのこの国の歴史は、その全てが、異常な原因しか知り得ない(普通ではない)脳によって人間が経験した、本来であれば経験するはずのなかった現実と出来事の連続(集合体)である。

5/03

これまでには全く無かった、力強い安心と健康の中に居られる経験というのは、それだけ、僅かのズレが、自分発の病みの原因として発展してしまうということ。これまでは、着させられた要らない服。これからは、自分で選び、自分で着こなす服。影響を受けていた自分から、影響を与えられる自分へと成長したから、心身も元気になり、そして責任も大きくなる。

(6)と(7)は、いつ、どこでも、個人の欲求からなる発想は一切受け付けない。姿無き次なる世界もそう。だから、時代が癒し色に染まる。だから、未来が笑顔になる。いつでも普通の責任は、わざわざ意識を向けられる無責任を嫌う。

5/02

2.そのことを否定する人は、それが出来る理由をどこにも持たない。もちろん肯定する場合もそう。そこに在る原因(無意識に働かせる脳の方向性)が、僅かでも、知識・思考世界特有の変化を拒む(結果の)要素を帯びていれば、その自覚もなく、これまでの歴史(の原因)を切り離す。

事実の本質は、軽く時を超え、正否や真偽の次元の外側で、時代を包み込む。過去と現在(未来)を直線的に捉える歴史認識では、真の歴史を知ることはない。脳の働きの、その原因の深みを地球感覚の責任で感じれば、形になり得ない(なり得なかった)生命世界の事実を、心の意思が誘い出す。

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…という間に、いつにないハイペースで(6)が終わりです。さて(7)へ。さすがに(7)で終わりであろう、「LED感染」。これまでの歴史の病み(の原因)のはく離剤のようにして、ゆっくりペースでUPします。縄文土器子の歌が聴こえてきそうな、あったか〜いいにしえの風をここ5月の風に合流させて、さて、2016年、もっとしっかりと、ずっとてきと〜に、きちんとちきんと、シャキッとボケボケで行きますか〜! どこへ? まずは、全粒粉争に巻き込まれた今日も活き活き玄米炊くんジャーを助けにソーセージパンを買いに行かなきゃ! ん??

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2016

1.「経験の中心」というテーマを基に生命の歴史を旅する時、その時々の身体時間を包み込むようにして存在するそれぞれの本当の姿が教えるのは、この国全体の、その負の歴史の始まりの時の風景。それは、縄文時代のおよそ後半部。よりその質を悪化させて行くその期間を数千年単位で分割すると、順を追って、人の脳(の原因)から本来の力が失われて行っていることを理解(感得)する。(「連繋の意思」)そして現代にまで、その時の負の原因の意思(影響力)は波及し続け、今それは、LEDという、新たな負の歴史の更なる負の原因と繋がろうとしている。

人間誰にも想像すらさせない、その思考による理解を遥かに超えた世界からの、信じ難い思惑と奇怪な普通。歴史が沈み行く時、そこには、全くその要素(理由)を持つことの無かったそれまでの時代が、突如、恐ろしく暴力的な無意識世界のある威力により、抗う間も無く崩されてしまうことで事が始まる。現代は、遠い昔のかつての風景の、その大幅縮小版の時と言える。

 

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15.太陽の光で照らされた場所で文字を読むと、楽で、読みやすく、時間の流れも滑らかになる。それがLED照明の空間だと、急き立てられるような緊張感を抱かされ、余裕の無い読み方になる。

照明は、太陽の光が届かない時間帯に、太陽の代わりになって照らしてくれるもの。その役は、LEDでは無理。生命(微生物)の働きを不自由にするその光に、照明の役は務まらない。

人間は、他の生命たちと同様、太陽に生かされ、太陽と共に生きる、地球自然界の生き物である。そして、人間だからこそ具現化し得る物を通して、創造と連繋の責任を経験する、心ある存在である。そこでの照明は、どこまでも心と重なるものでなければならない(と言うより、それ以外の理由による照明を人が具現化させることはしない)。LEDは、そこに居場所を持たない。

人がわざわざ意識を向けることもなくただそこに居てくれる太陽は、安心そのものである。安心から始まるその光は、生命の喜びそのものである。それとは対極のLED。それだけで、LED照明がこの地球では異物(嫌われもの)であることを知る。LEDは、太陽への抵抗であり、生命たちに、普通に生きることを放棄させようとする、危うさそのものである。

安心無くして、光とは言えない…という認識は、人間であれば、誰も否定できない。そこから外れることを、動物たちも望まない。「LED感染」で、改めて原点に返り、光(照明)の本質を大切にする。この文章に触れたことを活かし、未来地球が喜ぶ原因を生きる。そして、経験の質を高め、この身体時間を、生命として大いに活用する。LED照明の存在しない未来が、笑顔を見せる。

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14.LED化を実行することが責任ではなく、LED化が、人や動植物の健康的な暮らしに本当に必要なものかどうかを体験的に厳しく観察することが責任であり、実行は、みんなにとって望むべきものであれば、意識することもなく自然に為されるものである。それは、考えるまでもなく分かり得る、生命を生きる人間としての、普通の理解。どんな人の思考も、それを外してはならない。

その余りに常識的な普通が、なぜ無視されてしまったのだろう?LED化を肯定するという異常さは、知性と感性を僅かでも持ち合わせていれば決して縁することのない、要らない経験である。その照明の、刺すような冷たい、暴力的な眩しい光は、人にも、動物にも、そして環境にも異物であり、そこに潜む危うい原因により、生命たちの生きる力は削がれてしまう。その光を良しとする神経は、人として、限り無く信じ難い。

LED照明は、使用することが無責任であり、使用しないことが責任である。それは、ものやかたちを創り出す、その手前の原因(心)の性質を大切にしている人の、普通の理解。互いにとって、みんなにとっての感覚と、動植物たちの声なき声が大切にされていれば、それは、誰の思考の中にも当然在るべきことである。

LED化の理由って、知れば知るほど、そのお粗末で、陳腐な様が際立ってくる。そこに安心の原因は無く、健康への責任も無い。未来に繋がる確かな想いも、これまでの過去を癒す優しさも無い。生命たちの活動を支える意思も、愛情も、どこにも見えない。有るべきものが無いLED照明の嘘の世界に、付き合っている場合ではない。

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13.形式的で権威あるとされる世界が重んじられる間は、人が人として人間らしく生きることは難しいと気づいた人たちがそれを言葉にし始めると、その動きを封じ込めようと、新たな決まり事が誕生し、形式はより堅固になっていく。一見とても辛く、悲しいことだが、それは、それまで経験することの無かったその世界の住人たちの、焦りと不安の現れ。心に正直に生きることは、人としての基本であり、そこでの、心がそのまま形(言葉)になる感性は、水や空気のように、大きな負の塊を砕く確かな原因となる。

LED化は、まるで人の心を力ずくで形式世界に付着させる接着剤のような、普通ではあり得ない、とても危険な決まり事である。それだけ、当事者は、その非人間的な本性が、隠し(押さえ)切れない程思考に上がって来てしまっているのだろう。その支え役の同質の人たちも、連動して、焦りと不安を強めている。

何をしてもどうにも対処し難い、重く、動きの無い巨大な力(形式)は、そこに(その本質世界に)いつのまにか接近していたことで、対処し得る対象としてそれがあることに気づかされる。それは、絡み合うこれまでの原因がほどけ出し、抑え込まれていた心ある人たちの本来の感性が元気になったことによる。人の頭の働きを不健全にし、人の心を不自由にさせる形式的(封建的)な決まり事の、その原因の部分に反応する力を、人は取り戻す。

LED照明は、人々が人間らしく、心のままに生きることを好まない存在たちの、その意思表現の代替品のようなもの。LED化は、この自然界のあらゆる生命活動に、余計な負荷をかけるもの。それが形式で固められようとしても、その中身には真が無いことに気づいた人たちがここに引き寄せたこの今のタイミングは、まさに生命のチャンス。原因の世界から観た時、LED化は、これまでの永い間の負の連鎖の終わりが始まったことを意味する。

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12.どんな物も、始まりは、形無き想いである。ふとした想いが、心の風のように、時空を超えて未来に放たれ、少しずつ心ある思考を刺激して、具現化されていく。想いから始まり、流れ出すその原因は、いつの時も正直である。思考も感情も心を離れず、ただ自然に、それに付き添う。

具体化されようとすることが、思考から始まる時、すでにそれは、大小様々な争い事を生み出す原因を乗せ、衝突や停滞の材料を含んだまま、心無い現実での物となる。永いこと、その思考から始まる物によって埋め尽くされてきたこれまで。その大いなる修正・浄化の機会となる現代に、LED照明は、それまでの負の原因(変化を拒む思考と権威・排他的な感情)を凝集させて、立ちはだかろうとする。

心ある想い無くしたLED照明の世界に、本質は無い。本質は、想いから始まる、その原因の、生命としての具現化。それは、どんな時代にも、揺るぎない心の基本形として存在する、生命の喜び。もちろんここにも、これまでになく力強いものとして在る。それを前にして、LEDのその危うい思考発の性質は、手に取るようにして把握される。悲しみばかりの負の歴史の理由も、次々と浮き上がる。LEDのその原因の中に、真実を覆っていた、これまでの全ての闇が在る。

思考から始まる物が意思表示し出すと、思うことで良しとする嘘の正しさが力を持つようになる。病気を減らす(無くす)より、病気を治すことが立派とされ、心を生きるより、心を扱う人の生き方の方が影響力を持つ。そして、邪な宗教がはびこり、事の本質は、権威によって擬い物になる。そんな場所から生み出されたLED照明。それを未来に運べるほど、人間は愚かではない。

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11.知識欲の背後で息づく支配・所有欲を熱くする人は、覚えたことを力に否定感情を強め、そうではない人との表面的な差(違い)を喜び、心無くした貧しさそのものの人生を生きる。

知識だけで成り立つ仕事などどこにも無いはずなのだが、知識だけでしか生きられない人によってそれは作られ、権威や肩書きがそこに添えられ、人を巻き込み、心を全く育まずともそれだけで生きられるという、人間味の無い(非人間的な)オカシな環境が作られてしまう。

そんな人が企業や役所の要職に居ると、そこから伝わり、広がる全てのことやものが、病みの原因となる。心無いことが、心有るように扱われ、感じ得ないことは何もかもが否定されて、通り一遍の杓子定規な体裁で、人の心は、大変な消耗を強いられる。

その類の心寒い存在は、LED絡みの世界で活躍する。その心の無さは、LEDの原因の危うさと同質。感性も他者への想いもゼロで良しとするその場所で、進めるべく当然の自分の仕事として、LED化を支える。人の世を不健康にするものを作る(送り出す)企業ほど、そうとは分からないよう偽装するために、彼らの本性を重宝する。

知識には質があり、それを得る前に、その原因の性質と不要な融合をするまでもなく確かな自分でいるという、心ある本来が安定していることが望まれる。言葉も情報も、それを知り、活用する際には、常にその(どんな自分がそれをしようとしているかの)原因への責任が伴い、次の風景のために、必要に応じてそこから離れ、自由になることも大切となる。

それらを尽く無視し、押え込んでしまうLED化の、そこに隠された病みだまりの思惑。LED照明は、要らない知識と相性の良い、生命にとって要らない物である。

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10.執念を燃やす程、常に優位で居ようとする人は、苦しむ人を憐れみつつ、その苦しみの原因を人知れず作り続ける。彼は、心が脇に置かれた価値観を同質の存在たちと支え、有利な立場で不利な人を隔てて、自分だけの利益を手にしようとする。そして人を苦しめ、苦しんでいる人たちのためと、形ばかりの善で自己満足に浸る。

感じる心を持たないその存在たちは、その無意識の中に、人が苦しむことに妙な安心を覚えるという不気味な感情を持ち、それゆえに引き寄せる重たい現実の中で、感じるままの心ある人たちの生きにくさを演出する。その中でもより強力な負の感情を持つ存在は、たくさんの人たちが毎日利用する空間(サービス及び公共施設etc.)でその仕事をし、広く、深く、苦しみの原因を、人々の暮らしに染み込ませていく。

彼らが、その道具としてLED照明を利用しないわけがない。極度の感性の無さと、凶悪な本性(無意識の意思)を具体化できる立場で、善人気取りで、胸を張って人を病ませていく。その姿は、現代版の「悲しき怯え人」のようである。

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9.不自然で不健全なことでも、それによって事が流れやすく、形が守られやすいからそれを良しとする世界があるとすれば、その事も、形も、崩れるべき時まであがき続けているということになる。繰り返されてはならない現実がある力によってそのまま維持されようとする流れに加わる(賛同する)というのは、自らの精神性が人間本来のそれではなくなっていることを意味し、その狡く無責任な生き方で、人々の人生を流れにくく、不自由にさせるということ。その意識もなくそうであるとすれば、酷く野蛮な本性がその感情を支えていることになる。

選択・判断の基本材料が権威ある名目である時、無くてもいい経験が、みんなの経験になりがちになる。その責任は、形無き力関係の中で次々と姿を消し、人々の自由意志も、力無いものになる。考えれば普通に分かるはずの由々しいことも、そこでは、みんな(の原因)をテーマに考えることをしない存在によって良しとされ、体験的知識を大切にする人の素朴な意見も無視される。

そんな弊害の代表である、世のLED化。その情報が庶民に行き渡るまでにはかなりの数の責任ある立場の人が存在するのだが、全くその(責任ある)顔は見えない。それは、責任と無責任を巧く使い分けて世を渡り歩く人たちの怪しさ。普通に人間を生きていれば、有りえない事実である。

力ある背景での判断に、それを笠に着る弱々しい人が追従して、ひとまとまりとなって事が進められる、危うい原因を備えたままのLED化。そのことで、地球自然界に生きる生命たちは、これまでに無い危険な状況を経験させられることになる。

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8.闘う姿勢の燃料は否定的な感情であり、その感情の性質は、二者択一的世界に付き合わされてきた、それまでの不安である。そうである人は、責任を取らざるを得なくなるまで無責任でいて、挙句、自分よりもずっと無責任な有力者にすがるか、逃げる。闘う人は、闘うまでもなく事が変わり出す原因を持たず、そうなる前にすべきことから離れていた弱さを、内に隠す。そんな性分を潜める人が、LED化の背景には多い。

彼らの居る場所が公共の機関である時、人々の健全さはいつのまにか抑え込まれ、半ば封建的な二者択一世界で、心の意思を発現させないままの人が増える。それを喜び、安心する、弱さを燃料に強気でいる、人としての健全な原因を持たない存在たち。彼らは、邪な原因(思惑)が具現化したLEDの、その本当の姿を前に、どこまでも嘘を通そうとする。

その茶番劇のような嘘明かりの舞台で演技し続ける役者たちは、その無責任さを押し通せるまで押し通し、その間に利益を上げて、将来の更なる利益の舞台(材料)のために、人々を病ませ、自然界を壊そうとする。LED化への違和感の無さは、そのままその意思の現れである。

平和を求めず、平和を生き、健康を意識せず、健康でいる。ただ安心と優しさの心でいて、時を癒す。それは、争うことを忘れ、闘うことも知らない平和の原因となり、確実に、未来を、理由の要らないみんなの喜びの風景にする。不安と弱さと闘う否定感情による存在感(LED照明)に、付き合う時間は無い。

4/12

7.明かりは、太陽の代わりに夜の暮らしを支え、太陽と同じように自己主張も無く、さりげなく安心の時を作り出してくれる。それは、満月の温もりに包まれているような、心柔らかな優しさの時間。明かりはいつも、人が人らしく生きていけるよう、想いを温め、心を癒してくれる。

その基本を無くした明かりは、太陽の心を忘れる。月の優しさにも背を向け、流れる時を個(の思惑)で固める。人が人として生きる上でのありのままの活動を守り続ける、健気で、心強い明かり。その有り様は、どこまで行っても自然で柔らかく、その基本は、太陽と月に生かされる生命体の支援である。

その基本形に照らしてみれば、LED照明は、未成熟な意思の暴走であることを知る。ボタンの掛け間違いは、間違った分全てを外すことでしか再スタートは出来ない。その未熟さを受容する。そして、太陽の心を思い出し、太陽のように生きる。LEDは、そこから最も遠い場所の、自らの分を知らない、明かりもどきである。

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6.有ってはならない現実をその気もなく支えてしまっていたことに気づいたら、どんな人も、それまでとは違う現実の、新たな原因を選択する意識を持つ。ずっと気づけなかったことの責任は大きいけど、それよりも、そう思えることで動き出す内なる本来の意思を活躍させる。そして、自らが愛溢れる未来の原因となり、互いにとって、みんなにとっての現実を、その気もなく支えていく。

生命への愛しさを普通とすれば、誰もがLED照明の危うさに気づく。心の風景を温める人は、照明の在るべき姿を知り、動植物たちの想いを感じる人は、LEDの原因と融合することもない。立場や境遇を理由に、そうではない思考を先行させることは出来ない。

未来に繋がる望むべく原因を想う時、人は、その選択肢から、LED照明を外す。それは、時代の意思であり、未来の望み、過去の希望である。

4/08

5.滞りそのものの原因が力を持ち得たLED照明により、人としての変化・成長を普通とする人の脳は、その殆どがオカシクさせられる。頭が重くなり、集中力が減少し、気持ちが落ち、気力も削がれる。不安が募り、優しさも見えなくなる。それは脳にとって、経験したくない消耗である。

その健全な反応を不自然なものとして捉え、無視する人たち。自分たちには無い感覚(体験)に違和感を覚え、過敏であると突き放す人もいる。LEDに反応する健康な人は、いつのまにか病気になり(病人扱いされ)、そうでない人は、いつになく元気でいる。切なく悲しい現実である。

LED化されなければ、心身を病まずに済んだ人。全くそれに無感覚な、いつも元気な人。前者と後者は、その原因のところでは、被害者と加害者である。LEDの原因と融合できない健康な人は、理由の見えない辛さや厳しさを経験させられ、LEDの原因と同質の人は、人を病ませる理由をその気もなく作り出してしまう。LEDを通して、その人の存在の性質(無意識の影響力)がどんなかが、容易に分かることになる。

どんなものにも、どんなことにも、そこには原因があり、それに反応する、あたり前に健康の原因でいる人と、全くそれに反応しない、結果だけ(見た目だけ)健康であればいい人がいる。その違いは、まさに進化と退廃、蘇生と腐敗。LEDの恐ろしく危険な原因に何の反応も無く普通でいられる人の影響は、計り知れない。

4/06

4.人の健康的な暮らしをさりげなく応援してくれる、安心と温もりのある従来の照明。それがそのまま在り続けることで困る人は、どこにも居ない。もし居るとすれば、その存在は、人が苦しみ、世が腐敗していくのを喜ぶ(死に神級の)本性を持つのであろう。省エネや環境保護の名目で、心ある柔らかな人たちの健康の原因が壊されてはならない。

結果(見た目)重視の価値観が馴染む人の集まる場所では、人のためと言いながら、全くそれとは正反対のことをその自覚もなく行っていることがある。LED化は、その典型である。優しさの原因が育まれないまま、優しさが具現化されることはない。人のために生きる普通が、専門であったり、特別であったりしてはならない。

思考を自由にさせ(自由な思考とは次元が異なる)、結果に囚われる原因を解放すれば、自ずと謙虚さが備わり、LED関わりの事実から、そこに在るそれまでの原因を学ぶ姿勢を経験する。そして、未来のために、それまでとは質の異なる選択を実践するという、新たな事実を普通とする責任を経験する。その未来の原因に、LEDは無い。

4/05

3.人は、伝える(伝えられる)ものではなく、互いに伝わるものに自然と想いが応じ(重なり)、それが言葉になり、行為となって、交流が営まれるものである。言葉への解釈も、行為への理解も、その多くは、伝わるものに無感覚な人の個人的な思考世界のものであり、調和ある空間が普通に創り出される世界では、それ以前の融合が基本となるので、意味を為さない。

想いが身体を案内するような、言葉や行為がいつも脇役である生活を普通とする人は、覚えた知識や記憶する言葉(の組み立て)のみで生活する人から伝わる、そのどんよりとした重たさに、心の自由を無くす。しかしその人は、それに気づけない。それを感じる感性も無く、自分にとってはあり得ないそのことに、付き合うこともない。それは、LED化に何の疑問も持たない(好感を抱く)人の、隠された性質でもある。

伝わるものは、その人のそれまでの原因なのであるが、それへの責任を持ち得ない、伝える(伝えられる)ものにばかり焦点を置く人は、その重たい原因に無頓着なまま、無責任に結果を生きる。結果を生きれば、偽善も板に付き、困る人の存在を前提とした博愛主義も得意となる。その自己満足は、LED化を材料に次第に拡大し、同質の人たちと、望むべく変化の無い形式主義を固めていく。彼らの、伝わるものへの無責任と、結果を生きる姿勢は、LEDの危うい原因そのままである。

4/03

2.人のためになる生き方をしたいと思う前に、そう思わなければそれを行えない自分の性質を知り、なぜ、その対象となる困った人たちが存在するのか、その原因を知る。事の本質を自らに重ねなければ、病気の人を元気にしても、病人は減らず、問題事を処理できても、新たな問題事が生じる。本質の世界に、繰り返す病みは無い。

LEDの原因による悲しみの現実をしっかりと受け止めたら、もう悲しみの感情は要らない。人知れずLED照明が作り出す、辛く切ない出来事を知ったら、それ以上知る時間は要らない。(新たに知るべきことは、自然と訪れるから…)二度とそうではない現実の、その確かな原因を生きる。同じことが繰り返されない次への責任を生きる。それが、人間である。

自分には異物である未消化の重たい感情を抱え込んでいる人は、それが浮き上がり、浄化される「無有日記」との出会いを大切にする。その重たい感情の元となる、この自然界の異物のような存在は、「無有日記」を拒否・否定するという姿勢で、その本性を顕にする。事の本質との接点を避け続けるというのは、人として有ってはならない、生命の悲しみである。その本質がそのまま基本となる「LED感染」の世界に、背を向けてはならない。

4/01

2016

1.LED照明に対して何の違和感も覚えない場合でも、それに辛さや厳しさを感じる人の気持ちを考慮する姿勢がそこにあれば、社会環境も自浄力を失くさずに済むのであるが、そんな人たちに限って、どういうわけか心から人を想う気持ちを普通とせず、形ばかり(作り物)の優しさを好物とするので、LEDが備える負の原因とその影響力は力を持ち続けてしまう。

そしてまた、彼らの多くが、その無意識の中に、他を隔てる感情を未消化のまま持ち合わせているため、それを見えなくさせる立場や地位(肩書き)に付き合わされる中、人は、理由の分からない動きにくさと、健全さを具体化できない不自由さを経験する。

LED照明を良しとする姿勢の、その奥に在る原因の風景には、普通一般の素朴な感性を持つ人が経験することのない性質の感情と、それをそのままに出来る彼らの不思議な力がある。その力を少しでも失くさせ、その変化を次への確かな原因にするために、皆で、共に未来が喜ぶ心の風になる。風になった心は、優しさと温もりをどんなところにも届け、生命世界のみんなの原因を癒し色に染める。LEDの嘘の光をはるか後方に、地球自然界が、太陽の光に包まれる。

 

3/28

LED照明が、街や家庭に急速に広がり出したのも、「蛍光管(白熱球)の製造が終わる」というフレーズに、消費者が反応させられたため。それが明らかに間違いであるという事実を前にしても、その訂正とお詫びの情報が公に(一般に)流されないままなのは、なぜなのだろう?LED化の背景が、無責任の原因そのものであることを、そのことが照明(証明)する。

3/28

・収穫された農作物を選別する機械がLEDであると、すでにそこから、それらは本来の姿(性質)ではなくなっていく。お米も果物も、食べた分、不健康の下地が作られるようでは悲しい。普通の店で、普通に売られているものが、腐りやすかったり、味がへんだったりすれば、それは、出荷前のLED絡みと考えてよい。

3/27

・目がちかちかし、鼻がむずむず(皮膚がひりひり)し出したら、免疫系のシステム異常が生じているためと思ってよい。そして、早くにそこから離れる。どんなに自然な装いを講じても、LEDLEDである。普通自然体でいる人ほど、その不自然さに細胞が反応し、それまでとは違った感覚を経験する。

病気の原因となるその下地に染み込んだら大変なことになる、どこまでもその影響が分かりにくいLED照明。それへの敏感な反応は、たくさんの人たちの生きる基本形を、その細胞レベルから支えるものである。

3/27

LED漬けという料理があるとすれば、それを食べた感性の柔らかい人は、一気に生命力(生きる力)を奪われる。チェーン展開しているレストランには、それそのものという店があり、その自覚もなく心ある人は病んでいく。食事を提供する側が、不健康そのものの(病気の原因づくりをする)LED照明との接点を持つことは考えられない。LEDを使用しないという姿勢は、訪れる人の健康のために、第一に守られるべきである。

店を選ぶ時、食事の内容や店の雰囲気などが大切な判断材料となっていたこれまで。照明は、従来のものか?まずはそこから。

3/27

・敏感で、普通の感性を持つ人がLED照明のレストラン(カフェ)に入ると、注文した食事が運ばれてくるころには、気持ちが落ち着かず不安定になり、皮膚がひりひりしたり、目に不調を覚えたりと、いつもと違った感じになる。頭がぼ〜っとして意識が散漫になったり、前向きな姿勢が削がれたりすることもある。LED照明によって本来の動きを止められた細胞たちは、思考世界の次元を超えて、これから始まる異様な経験の原因に反応し始める。

何となく体の調子が落ちたままの時、何気に入った店での飲食の風景を振り返り、確認する。LED照明から離れているだけで、細胞たちは安心し、元気の原因を高めてくれる。さりげなく健康の原因でいる人の胃腸や肝臓は、皆自分らしく活動しているので、LEDの負の原因とは一切融合できない。

3/27

IHや電子レンジをあたり前に使う調理姿勢がそこにあるとすれば、食べる側は、何を注文しようかと構えてしまう。店内がLEDの不健康な光に照らされていると、注文する前に、身を守る手段を講じることになる。食べたいものを食べたいだけなのに、それが出来なくなってしまうLEDのカフェやレストラン。それは実に奇妙で、哀しい風景である。

心身があり得ない程の辛さを覚えさせられるのは、LEDIHと電子レンジのセットで人間らしい感覚全てを壊されてしまうこと。自然な空気感を何より望む身体細胞にとって、体の中で栄養にならないものへの要らない経験は避けたいものである。LED照明は、その中でも分かりにくく破壊の意思を具体化させる、恐ろしい存在である。

3/25

・街並み、道路(歩道)、公園など、人が常に行き来し、思い思いに時を過ごす場所がLED化されるというのは、どう考えても何かがオカシク、嘘のように信じ難い、情けない光景である。人には、思考を働かせるまでもなく大切な何かを感得し、すでにその結果(という名の次なる原因)を知っていたかのように、望ましい原因を選択・実践する力がある。だからこそ後手にならずに事は流れ、不穏な事実が固まらずに済むのであるが、その嘘が余りに周到で、巧みなのだろうか…。LED化という不穏そのものの原因は居場所を確保し、世を病ませる下地(土台)を固めつつ、心ある人々から真の普通を奪う。LED化された街や地域は、温かな心が住めなくなり(育まれなくなり)、その未来は、生命本来のそれではなくなる。

3/25

・自然界と融合できない(自然界が違和感とする)LEDの光は、それだけに自己主張も強く、冷たくて、攻撃的である。それと同じような性質を持つ人間がLEDを使いたがる理由も、そこにある。街を歩くと、こんなところにもなぜ?というぐらいしつこくLEDが使われている様は、素朴な人たちの何気ない温もりと優しさが、彼らの冷酷で非情な、その重たい感情の力によって汚染されてしまっていることを意味する。LED照明の広がりは、心の無さの蔓延である。

3/25

・見させられているものは、そこから離れることも出来るが、見なければならないものがLED仕様だと、それに触れざるを得ない状況の中で、人の健全さも、さりげない思いやりも、力を無くしてしまう。光本来の姿から大きくかけ離れたLEDのその分かりにくい(隠れた)負の影響力によって、健全な感覚的理解を普通としている人ほど、その普通を壊され、動きにくく、先へとは進みにくくなる経験をする。人が頼りにする情報の掲示板や案内灯など、LEDであってはならない。

3/25

・看板やポスターに使われるLED電飾以上に危ういのが、人が注意して見ざるを得ない、未熟な精神性からなる、各種表示板のLEDである。駅の案内表示板や道路の信号などは、その極みと言える。何が面白くて、人の感性を潰し、健全さを普通とする人の心身を病ませようとするのだろう?ここでも、そこでも、人としての本来の感性を持たない、思考の強い(心無い)専門家の見解が力を持つ。

3/25

・空間にも動植物にも害を及ぼすLEDをイルミネーションに使用するという神経を、人は理解できない。それを人集めの(人を楽しませる)催しとして企画する側の姿勢も、人は理解できない。

何も分からない心柔らかな人は、楽しんだはずなのに、妙な疲れを覚え、満足したのに、心は不安定になる。提供する側も、受け取る側も、そこでは、最も質の悪い病的な喜びを経験する。

3/23

・不自然なものに自然に反応する人にとって(特に脳疾患とまではいかないにしても、頭痛を慢性化させていたり、神経系の処方箋を服用していたりする人にとって)、車内の各種ライト(ランプ)がLED仕様となっている車を運転するというのは、とても危険である。大変な状況が生じても、それがLEDのせいだとは誰も考えないため、災いの原因をそのままに、どうにもならない悲しみだけが残る。注意しても、注意力を削がれるLEDの車は、事が生じてもその理由にはならないまま、トラブルの原因となる。

3/23

LEDへの動植物たちの驚きと苦痛は、人間のそれをはるかに超える。山や川、田畑や森林などの近くをLEDライトの車が通る度に、そこに居る動物たちは気力を奪われ、植物たちは、自分たちの役割を忘れる。その負の影響が積み重ねられる中、自然は、次第に不自然になり、不健全な人間主体の、生命本来が外された異様な風景へと向かって行く。微細な生命たちまでがその活力を無くす時、自然界は、取り返しのつかない状況へと接近する。

3/23

・街中で、何台も連なる車の、その直線的で冷たく、攻撃的(暴力的)なLEDライトを浴びさせられると、健康的な人は、要らぬ負担を心に強いられ、それへの調整機能の一環として、気持ちの収縮(諦め)や拡張(怒り)を経験する。それは、余裕の無さと高ぶる感情の原因にもなり、その意識もなく、無くてもいい経験をする燃料となる。心ある人の精神を不安定にさせる車や自転車のLEDライトは、安全を心がける運転手のその意識をも低下させ、心身に不調を抱える人や、予期せぬ事故に見舞われる人を作り出す。

3/19

LEDの光で照らされたスポーツや音楽関連の施設に足を運ぶことは、感性の柔らかい人にとっては、それだけで、後に大変な状態を経験する原因を溜め込むことになる。そこでは、観続け、感情移入をして意識が高まる分、何の自覚も持てずに多大な負の影響を脳は被り、LEDの否定的な原因も、密度濃く深くに染み込む。心身の健康のためにも、スポーツ施設やコンサート(ライブ)会場などは、LED照明の無い場所の選択を基本とする。

3/19

・照明のために、心身が要らない負荷をかけられ、疲れやすく、気力・体力が低下する体験はしたくない。その性質により、脳の働きが健全でなくなるなんて、考えたくもない。

体調を崩した時、人は病院の世話になることがあるが、その病院がLED照明だとしたら、それまで以上に要らない経験と仲良しになる。学校や図書館がLEDであれば、思考を働かせる時間が多い分、脳は不自然な状態を慢性化させ、健全な判断力や心ある想いは全く育まれなくなる。

どんな人も、経験や知識(情報)から自由になって観察すれば、あの人やこの人のそれまでとは違う姿や、自分の何気ない感情の性質や心身の状態の変化が、照明がLED化されたあたりから始まり出したことを知る。どれだけそうではない理由が並べられても、そうである事実は、そのままこれからへの大切な理由である。形ある結果に引っ張られなければ、形を創る原因は、力強く健全に本来へと動き出す。

3/19

・その危うさを体験的に知る人から、LED離れが進んでいるのだが、それも、体験するまでもなくそこから離れている普通感覚の人の健全な日常があってのこと。健全さは、人として要らない経験から縁遠い状態でいることでもあるので、その危うさに気づいたら、LED照明をそのまま使い続けるという経験を重ねてはならない。

作り物の愛情と平和を好物とする人は、健全さも、人間らしい心(感性)も備わってないため、見た目や形式での良し悪しを基準にその不健全さを強め、他者の心への無責任さをその気もなく磨いていく。本来が無い分、鈍さも桁外れで、頭の中ではいつも、差別心の裏返しの優しさで良い人を演じようとする。

そのような人が建物の責任者であったり、それを経営する側であったりすると、状況はとても恐ろしい方向へと向かう。彼は、省エネや環境保護(CO2削減)のためと、何の疑いも無くLED化を進めて善人を気取り、その場所に関わるたくさんの人たちの生命を削り取っていく。LEDの危うさへの無感覚振りは、災いの強力な原因そのものである。

3/19

・この世に生きる全ての生命の、そのあらゆる生の場面に連れ添うようにして調和ある仕事をし続けている甦生型の微生物は、LEDの登場により、居場所を失くす。建物内がLED照明になると、そこはまるで、生命のサイクルが途絶えた特殊空間のような、言わば仮死空間になる。微生物の存在は、人間(の細胞活動)にとっても、とても重要なものである。

たくさんの人たちが集う商業施設や公共の場がLED照明となると、その影響で、皮膚が荒れたり、休んでも疲れが取れなかったり(睡眠の質が低下したり)と、原因がよく分からない不調を覚える人が増える。微生物の仕事を阻止するLEDの悪影響は、実に厄介なものである。

3/19

・省エネを進めているわりに、どう見ても省エネとは思えない電気の使い方をしているケースがある。電気の消費量が少なくて済むという理由に惹かれ、やたらと電気を使おうとする姿勢の中にいる存在もいる。点けっ放しに、流しっ放しにと、電気を大切に使おうとする空気感が全く見えなくなっているところもある。

得する部分に熱くなれば、そうではない部分の性質を知る機会は訪れにくくなる。LEDは、最新の技術によって省エネが為された新時代の光…という文句の背後を覗けば、LEDは、悪質な算段によって省エネ化を利用する、時代が悲しむ嘘の光…という本当の姿(文句)が見えてくる。

建物内に設置したLED照明によって得した分、そこで過ごすたくさんの心ある人たちは、大切なものを失くす。光は、どんな時も、利益云々からではなく、健康と安心、健全と安全からのものでありたい。

3/16

・蛍光灯や白熱球の明かりは、その照明器具のデザインやスタイルなど、好みのものを自由に選び、思い思いに楽しめるものだが、それがLEDだと、使い手の空間の主導権は一気に姿を消す。明かりの本当の仕事は、省エネより、安心と健康であり、機能性より、優しさと温もりである。家族の健康のために、みんなが安心してくつろげる、温かみのある空間を支えてもらう。照明は、電化製品の中でも、最も大切なものである。

3/16

・収穫された果物や野菜がLED照明を浴びると、その本来の働きが阻止されるので、持ちの良いもの(その後も活発に仕事をし続けるもの)は腐りやすく、持ちのわるいもの(細胞が早くに仕事を終えるもの)は腐りにくくなる。

見た目は何も変わらないようなものでも、LEDによって生命力を奪われてしまっているので、中身は完全に作物本来の性質(食べられることで他を生かす生命の意思)ではなくなっている。家庭では、従来の明かりに戻すまで、LED照明の近くに食べ物は置かない。

3/16

・蛍光灯(白熱灯)の部屋とLEDライトの部屋の2つがあれば、人は誰も、心と体が馴染む蛍光灯の部屋で過ごしたいと思う。人は、異質なものに心が感じ、体が反応するから、どんな人も、LEDライトは選ばない。もし、何らかの理由で、LEDライトの光を選ばざるを(浴びざるを)得ないとしたら、その原因もプロセスも結果も皆、大きな間違いと言える。その重く、動きの無い(動きを止める)異質な光に、身体細胞を付き合わせてはならない。

3/16

・分からないことでも、他に流されなければ、自然と分かる時(どこかで分かっていたとしか思えない望ましい時)を引き寄せ、不穏な原因とも無縁でいられる。負の連鎖の圧縮版のようなLED化。それによって、家庭環境が害を被る経験は要らない。家庭の健康に、照明が担う役割は大きい。

考えるまでもなく分かることだと思うのだが、ずっと長いこと普通に使い続けてきた照明を、その光の性質から全て換えてしまうという試みは、普通に人間としての感覚が大事にされていれば、余程のことが無い限り経験したくないことである。それを、何の躊躇もなく、そういうものだからと行えてしまう、信じ難い光景。家庭の照明のLED化は、そこにみんなを想う心があれば、縁しなくてもいい世界である。

3/16

LED照明は、安心感とは縁遠いものなので、心ある生き方を普通とする人ほど、本来の気力を抑えられ、疲れやすくなる(疲れが取れなくなる)。リラックスできるはずの自宅が緊張の場となり、心身は不調を慢性化させていく。唯一従来の照明に換えることが、その修正・修復の機会となる。

家庭では、その意識もなく普通であるべきものが普通であるから、みんなで安心してくつろぎ、健康的な時を共に重ね合う。LED照明のある空間では、それとは全く違った原因が生まれ、不安の裏返しの安心で繋がる不健康な意識が普通となるため、心は居場所を無くす。本来、家庭では、わざわざ省エネに向かうのではなく、さりげなくいろいろなことが省エネとなる。

3/13

LEDによる悪影響の事例は、庶民レベルでいくらでもあるのだが、それをなぜか歓迎しないスーパー(ストア)側は、専門機関発の、LEDによる好影響の説を取り入れ、LED化を正当化する。

その専門家という人たちは、地に足を付け、等身大の食生活を普通感覚で送っているのだろうか? 彼らの説を後ろ盾とするスーパーの経営者は、庶民感覚を大切に、誰よりも健康の原因を生きているのだろうか?

嘘から始まれば、正しいと思いたいことが正しさとなり、その嘘を人に押し付け、苦しみを作り出すことになる。食は、誰にとっても生きる基本であるから、何があっても、そこに嘘があってはならない。食品スーパーのLED照明は、不健康と停滞を作り出す嘘の小道具である。

3/13

・従来の照明では困る理由を作り出し、LED照明でないと上手く行かない方向性を生み出した、利益(権益、役得)優先の存在たち。そこから、何より離れているはずの食品を扱うスーパーが、同じ路線に乗ったとすれば、食べ物がそのまま体となる人間にとって、それほど悲しい出来事は無い。

LED照明のスーパーは、今直ぐにでも照明を従来のものに換え、人々の健康と安心を守る。それは責任という次元ではない、そのはるか以前の、幼児級の正しさである。

3/13

・普通の人が居続けられない場所に長く居て、普通の人が摂りたくない(摂ってはならない)物を日々扱い続けるLED照明のスーパーの人たちは、その多くが、自分たちのその異常さに全く気づけないくらい脳を不健全にさせている。それでも心身の不調を覚える人がいると思うのだが、安心と余裕を馴染ませない彼らの思考は、それがLEDのせいだとは考えない。

彼らの感性の鈍さにはとても驚かされるが、それ以上に、あたり前にLEDから離れて健康的な食物を作り続けている人の、その想いが潰されてしまっていることは哀しい。オーガニックの作物も、天然の魚も、LEDという光の農薬(毒物)によって、細胞が辛くなる粗悪品となる。

3/13

LED照明のスーパーは、基本的にそこで買うものは何も無いので、行くことはない。やむ無く利用せざるを得ない場合、スポット照明が当てられる場所のものは、決して手にしない。小さなLEDランプが連続してセットされた照明近くのものも、一切無視する。そして、照明が当たっていないところに在るものを選び(とは言ってもかなり難しいが…)、必要最小限にする。店外で販売が行われていれば、そこで購入する。

消費者の健康と安心を大切にする商店は、LEDを使用していないので、みんなでその店を応援する。省エネが理由となってLED照明が使われているとすれば、それは、地域の人たちのためのスーパーではない。

3/10

・本音と建て前を使い分け、本心を隠して、見た目重視のキレイ事で済ませる人ほど抵抗の無いLED。街灯がLEDになるというのは、そんな性質の地区役員によって、その地域が治められているということ。街灯の明かりは、その街(市、町)の質を顕にする。

街灯のLED化を進める人は、誰よりも強い不安と怖れを内に秘めているのだろう。それをごまかすために、自分よりもっと大きな不安を内に固める有力者の言うままに従い、LED街灯で人々を不安にさせて、嘘を通りやすくする。LEDの本心(原因)とムリなく融合する並外れた不安の持ち主によって、恐ろしく強力な病みづくりの街づくりが展開されようとする。

3/10

・街灯の明かりにホッとし、安らいだ気持ちになる人は多い。夜、人通りが少なくなっても、街灯のおかげで不安を抱かずに済むこともある。それは、伝わる光の優しさに包まれ、温もりを感じるから。その存在に守られ、癒される気持ちになれるから。どこを探しても、街灯がLEDになる理由は見つからない。

照射する場所(空間)のあらゆるものから本来の動きを削いでしまう性質を考えれば、LED照明は、その存在自体が、環境負荷の原因ということになる。街灯の本質を忘れてはならない。街灯に、不安発の不気味な光(LED)を使ってはならない。

3/10

・街灯は、夜間の照明として、人々の安心・安全のためには欠かせないものなのだが、それが不安と不健全の代名詞のようなLEDに換えられてしまうという現象は、この世の珍事級の情けない話である。もしそれが、電力消費削減という省エネを目的とするものであるとすれば、それこそ信じ難い愚挙である。街全体を運営する側が、人々の安心と安全の道具で、街を不安にさせてはならない。

LED化(プロセス)の最も危ういところは、記録として触れられないエリアで、安心と健康の原因を抑え込んでしまい、それを然るべき原因を持たない存在が、感じない(分からない)ことを理由に悪用してしまうというもの。LEDの街灯で毎晩照らし続けられるということ。健全な感性を普通とする感じる人にとってのそれは、悲劇でしかない。

3/07

・虫が食べない果物や野菜は、成分が同じでも、その性質は、細胞が辛くなるものになる。虫が近づかない光は、見た目は光でも、中身は生命の営みを壊す性質のものであり、虫のように敏感ではなくても、その影響力の蓄積を身体細胞は嫌う。LED照明の電車(バス)の中に虫を入れたらどうなるか? そこに毎日入ったら、人はどうなるか?

3/07

・毎日のように使う電車やバスのLED照明によって、そのせいとは分からないところで、体(身体細胞)は弱っていく。柔らかな感性を持つ通勤客の精神は、そのバランスが崩れやすくなり、純粋さを普通とする通学客は、気力・体力を消耗しやすくなる。時に、その途中経過も分からず、大変な状態に陥ることもある。たくさんの人たちが毎日利用する電車(バス)で、その自覚もなく人が病まされていく姿は、誰も見たくない。

3/07

LED照明の電車の中に居ると、自然で健康的な人は、頭の働きが微妙に鈍くなる。それは、体内の細胞活動や水分・微生物等の異常事態に対しての、脳の予想外の仕事(苦労)が生じたため。電車内のLED照明は、疲れやストレスが抜けにくくなる原因にもなり、人を不健康な世界へと招き入れる。実に恐ろしいことである。

3/04

・小動物が近寄れないのは、命の危険を覚えるから。そんなLEDの負の力を受けながらそこで作られたものを食べるというのは、細胞たちに、通常枠を大きく超えた厳しい仕事をさせるということ。健全・健康を維持しようとする彼らにとって、それは余りに悲しい経験の連続。酵素も、治癒力もどんどん無くなり、命は削られていく。

食事を提供する係の人が全く何の違和感も覚えずにそうであるとすれば、かなりの割合で、厨房も、食材を保管する場所もLED照明と思われる。彼らが平気な分、食事をした人は、大変な負荷を体内に抱え込まされる。健康的な人が、LED空間での食事を通して不健康になるという経験は、この社会の病みの象徴のひとつである。

3/04

・その思考の満足を刺激するキレイさに、人は不思議と快感を覚え、思わず見入ってしまう。そして、LEDの害毒により、脳は負荷を強いられ、心は思考に占領される。感度が落ち、感性が鈍っても何も気づけないまま、病みの土台の燃料として染み込む、LEDのイルミネーション。夢中になった分、自分らしい人生を放棄せざるを得なくなる。

3/04

・車の運転手は、夜間、安全のために、対向車のヘッドライトや前方の後部ライトに注意を向ける。ところが、敏感で普通自然体の人の脳は、そのLEDの光によって知らずうちに負担を溜め込まされ、運転のスタイルや気持ちまでがいつもと違ってしまう。いつのまにか注意力(集中力)も低下し、いつもの安全な運転が難しくなる。

3/03

LEDの危うい性質を体験的に知る中で、人は、改築や新築の際に照明をLEDにすることが、どれほど危険でお金のムダづかいであるかを理解する。そのままでは先へとは行けず、従来のものに換えなければならないわけだから、省エネがどうのとかの次元ではない。

そこに、規則・規制が存在するからと、LEDに執着する姿があるとすれば、それは、その気もなく人を病ませる(人が病ませられる)理由を支え、人が苦しんでも責任を取ることもないから、平気でいるということ。情けなさそのものである。

食品を扱う店が改築(新築)の際にLED化するということのその異常さは、心ある誰もが寒気を覚えるものである。大勢の人たちが集まるショッピングモールやデパートがLED照明であるということも、どう考えても尋常ではない。生命力を奪い、生きる基本形を抑え込んでしまう原因を備えたLED照明を使用することは、どんな理由があっても、あってはならない。

3/03

・従来の照明(白熱灯、蛍光灯)の場所が残されていれば、そこで、食前・食後の体の動きや気持ちなどを観察しながら、電子レンジやIHとは無縁の普通の食事を食べてみる。数日後、それをLED照明の場所へと移動させ、同じように行う。よほど感覚が鈍ってない限り、人はその違いに愕然とする。食感、時間の流れ、胃腸の具合に身のこなし…。LED照明は、人の暮らしの普通を壊す。

3/03

2016

・細胞が健全さを無くしてしまう(動きが阻害される)ことを恐れ、生き物は、LED照明との接点を避けようとする。それとは別の、鮮度を徐々に失くしていくだけの、畑や果樹から収穫されたものは、LEDの影響によりその自然な動きを止められ、不自然に長持ちするように仕掛けられる(偽装される)。見た目や味は変わらないようでも(厳密には変わっているが…)、体の中では本来の仕事をすることはない。

旬の作物は、育つ過程がとても自然なので、収穫後も、そのままで鮮度を維持し、元気でいられる。ところがLED照明を浴びると、その特性が削がれて、自由な意思活動も抑えられてしまうため、作物は、それまでにはない反応を見せる。水分を多く含む作物であっても、皮や殻に守られ元気でいられるはずなのだが、芽が出なかったり、腐りやすかったりと、LEDによって、その本来の姿を壊される。

 

2/28

LEDは、光本来の要素を持たない不自然さそのものであるため、それが街路灯に使用されると、街全体が不気味な空気感を帯びる。それまでの優しい光を知る人は、自らの優しさを抑えられ、温もりのある光に癒されていた人は、心の余裕を失くす。家庭では避けられても、街の中でその嘘の光に付き合わされてしまうと、人としての責任感覚も力を失くしてしまう。

街灯は、そのスタイルが固定されてしまうため、LED照明が連なると、その場所は、そのまま病みのスポットとなる。界隈の住人は、心柔らかな人ほど、理由も分からず不安を覚えるようになり、老けやすく、疲れやすくなる。毎夜のようにその場所を通る人は、知らずうちに不調の原因を溜め、問題事に接近する。

2/28

・電車やバスで移動中、意識は向かう場所にありがちなので、車内のLED照明の影響は分かりにくい。しかし、それが続くと、電車(バス)に乗っていない時に、思いがけずその影響が心身に現れる。のどの痛み、皮膚の荒れ、髪の毛の質の低下、風邪のような症状、目のかすみ、イライラ、気力の無さ、その他いろいろ。それらは、普通感覚の人が経験する、身体細胞の自然な反応である。

心の働きを支える細胞(の意思)が健全である人ほど、その対極の性質であるLEDに、心身が様々に反応する。電車(バス)に乗る前から、その原因のところで違和感を覚えたり、妙な動きにくさを経験したりすることもある。

2/27

LED照明を浴びながら、LEDの影響を受けた食事を食べると、普通一般の人は、それだけで意味不明なオカシな状態になる。しかも、その空間にずっと居られる人が給仕するわけだから、時間の経過とともに、心の主導権は全く無くなってしまう。健全な人は、その影響にしつこく悩まされ続ける。

単に空間の問題であれば、そこから離れることで持ち直すことも出来るが、体の中にLED食が入ってしまうと、それへの対応は難しい。細胞の声(意思)を大切にしている柔らかな感性でいる人は、その前と後とでの大きな違いを経験し、恐さを覚える。LED照明のカフェやレストランは、二重三重と健康の原因を奪っていく。

2/27

・悪趣味の自己満足の類であるLEDの電飾(イルミネーション、装飾)は、空間を汚し、植物を傷つけ、その異様な光の公害によって、人は、夜道の歩きにくさを経験させられる。電源をオンにし、後はその影響に無頓着でいられるその姿は、人間のそれではない。そのLED頭に見合うよう、自分の部屋で行って欲しい。

2/27

・車も自転車も、ライトがLEDだと、ごく普通の感覚を持つ歩行者は、その異常な性質の光に目を閉じたり、そむけたりして、歩行のリズム(バランス)を崩されてしまい、思いがけない問題事(けが、精神的圧迫感etc.)へと引き込まれそうになる。健全な人は、夜間の外出にストレスを感じるようになり、その自覚もなく不調感を慢性化させることになる。それに馴れさせられることで、精神は、いつしか争いや衝突を生み出す性質のものになる。

2/25

・検査の基準が数値化可能な次元に留められるために、胸を張って無視される、数値化できない次元の、微妙で確かな影響力。LEDの負の影響は、そこに事実として有っても、そんなはずはないという異常な力(思考)によって無いものとされるため、その原因不明な確かな負の原因により、取り返しのつかない状況が人知れず積み重ねられていく。

分かる人には分かる危険なLED照明を、何が何でも使わなければならない状況があるとすれば、その理由の背景には、恐ろしい程の嘘とからくりがある。言い訳は通用しない。市役所や公共の施設、学校にLED照明が使われれば、みんなの未来は完全に壊れる。

2/25

19)大切なことを大切にする気持ちが、それを言葉にする。言葉にするまでもなく皆がそうである時、普通にそこにある風景に、人は安心する。その風景が見えにくくなる時、人は、それを言葉にし、言葉にならない想いに主導権を握らせる。そして、大切なことを、ただ普通に大切にする。

そのことが普通に為される原因の連なりは貴く、そうであるからこそ人は人でいられ、他の生命体には無い人間としての責任と役割を、人は自然体で表現する。自然界はそれを喜び、人間もそれが嬉しい。誰のためでもなくみんなのために生きる姿勢が、あらゆる生命間で共有される。

LEDの世界の本質(本当の姿)を体験的に知れば知るほど、大切にすべきことが自ずと言葉になり、想いが力強くなる。その普通感覚が、普通に時を癒し、未来に確かな原因を繋ぐ。大切なことは、大切にされるから嬉しい。そうでなければ、人としての資質を全く持ち合わせてないことになる。

人は、どんな時であれ、頭ではなく、心が大切にする世界を守る。それを期間(地域)限定の立場や境遇がじゃますることは出来ず、それに背を向けて生きることも、人としての選択肢には無い。心ではなく、頭の世界でのみ在り続けようとするLED。そこに、生命としての普通は無い。

LEDの背景に在る原因を眺めた時の、そこに在る様々な人間的な性質とその本質的な姿を、この「LED感染(4)」で言葉にする。そのどれもが、真の普通世界からの観察である。そのどこにも、生命を生きる人間としての大切なことが載せてある。いつかこの文章が要らなくなる時が来る。そのために、全体発の必要性をここに記す。この場所と繋がるこれまでと、これからのために、皆で、思い思いに責任を表現する。

2/22

・家の照明を全面的にLEDに換えても、何の問題もなく平気でいられる時、それは感覚がマヒしてしまっているためなのではと、自らのその平気さ(鈍さ)の原因を見つめてみる。健全さをどこかに持ち合わせていれば、それ以前には無かった不自然なことが生じていたことを知り得ると思う。自分は平気でも、他者を観る目を持てば、新たな気づきもあると思う。全く何も無いとすれば、その人は、虫も好かない(怖れる)性質の存在ということになる。

2/21

・スーパーやストアにLED照明が使われているというのは、考えてみると実に恐ろしく、苦しいことである。毎日たくさんの人たちが何も分からずそこで買ったものを食べ、大切なことは何も気づけずに心身を病ませていくその姿は、自らの体験(感覚的理解)を通してLEDの危うさを知り得た人にとっては、とても辛く、耐え難いことである。

心ある思考と人間らしい感性が、動きの無い歪な常識と重く流れない期間限定の価値観によって抑え込まれてしまった中で、突如更なる重量級の重しの役として誕生したLED照明。食物や飲料水を販売する店のLED化は、人に、人間らしく生きることを難しくさせ、心ある温かな食環境を、その根底から損なう大きな原因となる。

2/21

18)自然界に生きる動物たちは皆、変化し続ける時の流れに気持ち良く乗るようにして、自らの分に見合った営みを淡々と実践し、生きる(生きられる)ことそのものを喜びとしながら、大いなるその普通を共に育み、支え合い、それぞれの本能の奥に在る生命としての意思を、ありのままに表現する。

その意思の中には、調和を基本とする責任があたり前に在り、全てと繋がる時を皆で連ねるべく形無き原因での触れ合いを、種の違いを超えて高め合う。その全てが、彼らの普通。それは、人間社会の未熟な様を余裕で包み込み、人間の、生命としての無責任さも、その次元の低さを感じ取るゆえ、ただ受容する。

その世界から離れ、人間のエゴによる欲求との結び付きを深めながら、破壊と腐敗の原因を心無い人間と一緒に拡大させているのが、ある種の蛇と烏である。残忍さと狡猾さの象徴である彼らが好むのは、生命力を奪われ、生きる力を無くしていく生き物たちの苦しみ。他の動物たちが真似できないその凶悪さは、同質の人間たちの支配・征服欲に活かされ、互いは融合を密に、その本性の危うさを増大させていく。

そこから生まれた、嘘の光のLEDは、普通自然体の人と、蛇と烏以外の動物たちの脳をオカシクさせる。その攻撃的(破壊的)な、刺すような危険な光は、彼らの他者への姿勢そのものであり、伝わる冷たさと気味の悪さは、その内面のそれである。LEDの光に照らされた場所は、生命体が居られなくなる腐敗空間となり、それに触れる人や動物たちの健全な感性と生命力は、そうであることも気づけずに奪われ、その失われたものを、彼らは貪る。それは、災いの原因が容易に入り込める嘘の光ゆえの力である。

生命本来の基本路線(生命の歴史)から大きく外れた存在たちによって引き起こされてきた、これまでの時代における幾多の苦しみ、そして現在(LED)。この今、この時、人間も動物も、LED照明を普通に使ってしまうところには居ない。健全な感性は、連繋の意思そのものであり、未来への財産である。「LED感染(4)」は、その普通から生まれた、生命世界の普通の声である。

2/21

理由の分からない辛さや原因不明の不調を抱えているたくさんの人たちのその原因(理由)を深く深く浄化し、ずっと楽で、もっと元気で、人間らしく自由に本来を生きてもらえることを切に望み、その材料となる「LED感染」を書き続ける。

LED化の背後には、病気や格差が減らない理由がしつこく固められており、不安や怖れを人一倍潜める存在たちの、その類まれな強力な否定感情がある。それらがずっと人を不安にさせ、普通であれば要らないはずの病気や争いを作り出してきたこれまで。だから、LED化の原因を突っつくと、いろいろなあり得ない程の(量の)病みが姿を見せる。そのどれも、「この国の病みの始まり」から「悲しき怯え人」までの文章の中での風景とも繋がり、面白いくらいに、その本性は把握される。

LED感染(5)」の原稿が次々とUPされるこれから。居場所を無くす病みの原因を後方に、心のままに、心を生きる。LED化を推進して、地球環境と生命たちの営みを破壊しようとする存在たちが永遠に経験できない本来の普通を生きる。元来、人間は、争いも、戦うことも出来ない生命だから。

2/19

・街路灯がLED照明になると、その自然界とは融合できない異質の光により、辺りは、薄気味悪く不健康になる。最初は、敏感な植物の疲労と健康な虫たちの退散。そして、腐敗型の生き物の出現。徐々に人の心は元気を失くし、不健全さのよく似合う街になる。

住民の健全な感性を応援し、彼らみんなの健康的な暮らしを支えるはずの自治体。そこから発信されるLED化の理由に、‘住民’の文字が後付けされる。最初に‘住民’が在れば、街灯のLED化は存在しなかった。

2/19

17)LED照明の動きの無い原因と融合できる人たちは、生命本来の(生命を生きる人間としての)心を知らないわけだから、彼らが、人の気持ちが心から分かるとか、未来の風景に人として責任を覚えるとかの、それまでとは違う自分を経験する新たな変化・成長というのが全く不可能であることは理解できるのだが、せめて、人の変化を簡単に止めてしまう力を減少させ、段々とそれを無くさせていって欲しいと、切に思う。それは、みんなの願い。

LED化を推進できること自体、人間本来の基本形を持ち合わせてないわけで、そこには、平和を求めるより平和を生きるとか、困った人を助ける以上に困った人を生み出さない社会を作るとかの発想が全く無いことは理解できるのだが、せめて、ありのままに平和で、健康的な想いを普通とする人の自然な生き方をじゃましないでくれたらと思う。それは、みんなの望み。

そのためにも、体裁や建て前(立場や肩書き)で、本心(本性)をごまかすのを止める。その心の無さと隠された人間味の無い感情を正直にオープンにしてくれれば、たくさんの人たちが勘違いしなくて済み、対応もしやすくなる。心ある人にとって、心無い人の嘘に付き合わされる時間は要らないもの。そのためにみんなの社会が、みんなの時代と切り離されて悲しむ姿は見たくない。

LED関わりを通して、自分の中に在るものを観察・修正する機会を手にしたわけだから、そのまま負の影響を及ぼし続けることはあってはならない。その気もなく(良いことと思って)そうであった事実は、かなりの危うさが内に秘められていたことを意味するから、まずは、今直ぐにでも、LED照明を未来の原因から外す。それは、無くてもいいものではなく、有ってはならないものであるから。

人間にとって、自分をごまかすこと程、難しく、嫌なものはない。ところが、なぜかそれを得意とする存在たちがいて、誰よりもそのことに長けた有力者が、LED劇を主催する。題目は、「病み世の嘘明かり」。それを観続ければ、心柔らかな人は、無料で、嘘入り病み大福を持ち帰りすることができる。

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実に不思議な話なのだが(とは思ってはないが)、LED照明が街に出回ると、カラスが妙な鳴き声と態度で動き出す。それを、太陽の光と満月の明かりを嫌う蛇(系)が喜び、共同で、重苦しさと停滞感を増幅させる。彼らは、LEDの本質が好き。そこにいる同質の存在たちと、独特の怪しい融合を愉しむ。

極端な言い方をすれば、LED照明により、普通の人間は腐る。それは、カラスや蛇がそれを好むことを考えても分かると思う。昔、合戦や殺戮の場で、罪無き大勢の人たちが命を終えさせられた時、そこには決まってカラスが集まり、蛇は太った。その時の原因を連れ歩く存在たちとLEDが深いところで繋がっていることを知る人は多い。(→2015年の無有日記)実に不気味な話だが、いつの時も原因(エネルギー)は正直である。

LEDは、まるで蛇の心臓であり、その光は、蛇の目である。生命の健全なリズムを壊すそれを、人が生きる生活空間に招いてはならない。

2/17

16)言葉が上手く見つからないが、敢えてその姿をそれらしく例えるなら、LED照明を浴びるというのは、拷問のひとつの形なのだろうと思う。人間だけでなく、食物も空間も、動物も環境もみんなで経験させられるそれは、これまでとは全く次元の異なる最悪なものと言える。時に途中経過を省く(違和感を抱かせず生きる力を奪う)LEDは、異常さの権化のよう。

LED感染(4)」では、真に生きることをテーマに何をしてもどうにもならなかったその原因の風景で人知れず暗躍する存在たちの、その普通ではない、酷く、惨い本性にムリなく触れ得る機会をつくる。そして、それを知ることを力に、それが新たな原因として望ましい未来を引き寄せるべく原動力となる時を、皆で経験する。

元来、不安も怖れも、人間社会には存在しなかったもの。(「心の遺伝子」)永いこと経験させられ続けてきた、不安の裏返しのがんばりも、争い事の原因に蓋がされた平和も、真が外され、実が隠されたことによる、虚偽の人生(歴史)。その背景と原因のところで密に繋がるLEDは、更なる負の燃料としてここに形造られた、病み世の担い手たちのための、無謀・無理押しのフィールド。まさにそれは、歴史的な、心ある生命たちみんなの病みの現場である。

食物の性質が変わり、植物の生育が不自然(異常)になるLED照明を浴び続けても全く平気で、何でも無い人の生きる原因(活力の源)って、何なのだろう?と思う。結局、その姿(本質)は、LEDと同じ性質で、同じ仕事をする、嘘の人間ということになる。

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15)非情で非道な意識状態を普通とする人は、自分には無い心の働きが他者の中で活動的になることを本能的に恐れ、それを抑え込もうと、心が後方に置かれる思考世界での表面的な取り決めを利用する。常に頭を働かせざるを得ない状況へと人を招き、心ある人の素朴さや健全さに主導権を握らせない。

そこでは、元来無くてもいいものや、本来であれば、触れたり手にしたりしなくてもいいものが生み出され、そのひとつひとつが、心ある人に要らない思考を使わせ、思考だけで生きる心無い人を活躍させる。普通でいいものが普通ではなくなり(自然に生じ、さりげなく訪れるものが姿を消し)、求め(向かい)、苦労し、所有する不自然な世界が力を持つ。

いつのまにか、隔たりや優越といった感情に人の心は汚染され、と同時に、悲しみや苦しみの中に居る人の、その原因のところに同調する力を失くす。思考世界での表面的な取り決めは、恐ろしい。それは、正しくないことを正しくさせ、要らないものと経験を作り出す。そこでの心の消耗は、思考の満足の道具となる。

その代表級の存在たちが、LEDがもたらす影響力にしがみつく。人の心の動きを抑え込むための材料として、これまでになく最強であるLEDは、思考(頭)だけで生きる人たちにとってこの上ない喜びの物体であり、LED化という歪な取り決めを名分に、事を進め、人を操り、心ある世界の全てを力無いものにする。それは、彼らの、総仕上げ剤のような、実に分かりやすい不気味な意思表示である。

LED事情を少し離れて眺めてみると、少しずつ、確かな感覚で、その内実が見えてくる。「LED感染」の原因は、すでにそのエリアの不純物を浮き上がらせている。どこか、笑えるオカシさもある。

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心のままに動けなかった人は、少しずつ動けるようになり、人の動きを止めていた心無い人は、自らのその本質を顕にする。言葉にならない想いをそのままに生きる人は、困ることが減り、人を困らせる言動に無頓着でいた人は、それが通用しなくなることに困る。「LED感染(4)」あたりから、形無き心の風景が本来へと力強く動き出し、2月に入ったあたりから、多くの心ある人たちの原因から、重しが外れる。

人の動き(生命のリズム)を簡単に止めてしまう妙な力を潜める存在は、その不健全で不健康な性質に上手く人を付き合わせることで、元気で快活な姿を維持しようとする。ところが、健全で健康的な原因の高まりの中、その存在は、予想すらしなかった動きにくさを経験する。

そんな存在たちが最も嫌がる「LED感染(4)」の文章と、それに乗った全体発(未来が安心する)原因のエネルギー。「LED感染(4)」の世界を自分のことのように読み、それとの融合が経験できない危うい存在の影響から自由になる。そして、「LED感染(5)」への流れで、あの頃のように元気になり、快活に動く。「LED感染」のページは、ずっと永いことつきまとわれていた重たい世界(の意思)を遮る防波堤でもある。

2/16

世の問題事の殆どは、そこに至るそれまでの原因に対処しなかったために具体化されたもの。そこから観れば、この今のLED関連の原因の修正は、この国の人間にとって、何より重要であることが分かる。

知るべきことを、知りたいことで見えなくさせれば、何も出来ないけどどうにかしたいと、体よく偽善者でいられる情報(知識)収集に明け暮れることになる。この時期、LED問題を外して、世を語ることは出来ない。LED化を放って置ける人の知識や理想は、全て然るべき原因の無いガラクタである。

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・乗客の安心(安全)と健康(健全)を基本とするのであれば、LED照明という、温もりも優しさも無い嘘(不安)の光を使用することはあり得ず、ある枠内の利益と都合のために、それらが犠牲になることも考えられない。

たくさんの人たちに負の原因を及ぼすことを考えれば、どんな状況でも避けるべきである、電車やバスのLED化。「人体への影響は従来の照明と同等、もしくはそれ以下」と、数値化された個の名目(思惑)の外側で、数値化できない多大な影響力が日々活動する。

・電車やバスのLED照明に馴れる人が増えれば、それは、廻り回って人を巻き込むトラブルへと発展する。LED照明によりその自覚もなく精神の不安定を慢性化させる人が増えれば、車内やホーム、踏み切りなどで、不慮の出来事が生じる。常にトラブルと隣り合わせの原因でい続ける、電車(バス)のLED照明。それは、有ってはならない由々しい現実である。

2/14

14)将来、LED照明を使用していること自体が大きな誤りであることを人は知り(すでに多くの人がそうであるが…)、有ってはならない病みづくりの象徴として、誰もそれに関わることを避けるようになる。それは、考えるまでもなく普通のことなのだが、よく分からない人は、少し考えれば分かることである。自然環境や動植物たちへの影響を考える際、思考の忙しい人間主体では、どこまでもポーズ(偽善)の域からは出られない。LEDの世界に人を付き合わせようとする姿勢そのものが、自然界の意思を無視し、動植物たちの自由を妨げるものである。

わざわざ考えるまでもなく分かるべきことから縁遠い時、そこには、考えるべきことを考えずに要らない思考ばかりを働かせていたそれまでの経験があり、それを良しとする価値世界を支え、それに守られてきた、無責任な自分がいる。

そんな人は、責任ある原因を形にすることもなく、強いものに流され、弱いものを遠ざける。人のために何もせず、自分のために、何かでいようとする。そして、事が起きるまで無知でいて、事が起きれば、その無知で責任を逃れる。LED化への無感覚振りは、そんな性質の、何でもない狡さの具現化である。

そもそも、なぜ省エネのために、人の暮らしや自然環境が犠牲を強いられなければならないのか? 省エネを真剣に考えるのであれば、消費量(電力)という結果からではなく、その確かな原因となる、消費姿勢から始めるべきである。これ以上、世を要らないもので溢れさせ、動植物たちに涙させてはならない。LED化は、その大切なことを尽く覆い隠そうとする存在たちによる、病み化への(災厄を招く)絶妙な仕掛けである。

2/14

LEDライトを外して、従来のものに戻した自転車に乗ってみると、普通の人は、それまでとは全く違う優しい感覚を覚える。心は軽く、気持ちにも余裕を感じ、自転車が楽しくなる。そして、気づく。LEDライトの自転車に乗るって、とても恐いことなのだと…。

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LEDに囲まれた生活を強いられてもどうにか守り続けてきた本来の姿勢(子供らしさ)も、街灯がLEDになったことで、大きくそれは力を失くし、その理由も分からず、純粋な子の精神は、短絡的で直情型の感情に支配されてしまう。

子供たちによる普通ではない行動も、若者たちの悲しい出来事も、LED照明がその原因に関わっていると思って良い。未来が安心する原因の世界では、そうではない原因でい続ける(結果に留まる)存在に容易に反応する。街灯のLED化自体、人としてあり得ないことである。

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LED照明に困っている人と、そうではない人とを安易に比較することは出来ないが、ただその様子を観察すると、LED照明に困っている人への配慮が全く無い人ほど、LEDに平気でいられるという事実がある。つまり、LED照明の空間に普通に居られるというのは、人としての本来からかけ離れてしまっていることを意味し、それをそのままに生きようとすれば、彼らは、その気もなく人を困らせ、未来への負の原因を固めてしまうということになる。常に物事をキレイ事で済ませ、他人事に出来るその本心は、心の無さの典型でもある。(そのことを自覚し、その原因を自ら浄化し、さりげなく真剣に、人として本来を生きる)

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13)省エネというテーマで進められているLED化は、そのことが今の時代において何より重要なことであると人々に思い込ませてしまう妙な力によって、半ば病的に、偏執的に展開されている。

どこからどう見ても、省エネではないLED化。せっかく収穫した野菜や果物がLED照明によって味が落ち(ヘンになり)、腐りやすくなったり、LED照明の職場で働く人(特に感性が本来の人)の心身が疲れやすく、余計ながんばりを強いられたりする風景の影響を考えれば、それは誰でも分かることである。LEDの器具は扱いにくく、修理も難しく、その落ち着きの無い(不安を抱かせる)光に寒々しさを覚えてストレスを感じれば、その流れは、省エネから大きく外れる。LEDによって自然界に生きる生命(動植物)たちの生きる力が削がれる事実は、廻り回って、とてつもないエネルギーの消費・消耗へと繋がるのだが、そんな常識的な理解を、哀しいかな、LEDを推進する人は持ち合わせない。そのために、その嘘は、嘘のように力を持ち続ける。

ごく狭い枠内の利益のみに焦点を置くという、誰も否定できないその事実(電気代)を盾に事が進められる分、その代償は大きい。枠外に目を向ければ、新たな環境負荷となるLED関わりの物品製造と、使い手の自由選択の機会を奪う、その歪で不健全な維持・運営。そして、何と言っても、全く省エネではない、細胞に負担をかける嘘の光(発光体)への代価処置。枠内も枠外も繋がっていることを考えれば、LEDが省エネではないことは、常識である。それを苦肉の策のようにしてごまかし続ける、実に悪質に脳を働かせる存在たちの思惑。それは、笑うに笑えない、重大な不始末の次元である。

省エネという嘘に乗せられる、自治体や建築関係者。それをほくそ笑む、LED関連の企業と腹黒い政治家。一般の人たちは、要らない不調の原因を抱え込まされ、心の自由を抑えられ、気づけば、人間本来ではなくなる。LEDの原因が作り出す世界に、自然界が喜ぶ省エネは無い。

(※省エネを理由にLED照明を使用するというのは、自己の利益だけを考え、自然や動物、食物や人の健康など一切どうでもいい本心の現れである)

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12)体験的に知る感覚的な判断には、ありのままに感じる(感じられる)そのことへの責任も自ずと重なるので、根拠や説明など要らないところで、それは次のための確かな情報となる。それとは違い、頭から始まり、頭で終わる、次に繋がりにくい思考型の判断というのがある。生活感覚が脇に置かれたそれは、その手前にあるべき白紙の状態が外されているので、その自覚もなく、無責任さが伴う不健全なものとなる。LEDに対する危うさは、前者であり、それを安全とする危うさは、後者である。

食べ物の質(味、色、鮮度)が変わり、動植物たちが辛くなる事実認識は、活きた知識である。視力が落ち、気力が低下し、頭の働きが鈍り、疲労感が増す体験は、貴い判断材料となるものである。それらのことを、自分は平気だからと否定することは出来ず、そんなはずはないと、独自の発想にこだわることもあってはならない。もしそこに、他者の体験的知識を尽く否定する姿勢があるとすれば、それは大きく人間性を欠落させているか、普通感覚を持ち合わせない程、思考を固めて、感覚を鈍らせていると言える。

LED照明から離れているべき理由は、そのための体験的知識が増えていくばかりなので、いくらでもある。微生物関わりの停滞・消滅を伴う変化は、中でも重要なものである。それを共有できない存在たちは、焦りと怒りをないまぜにLEDの原因そのものとなり、その姿は、怪しく異物化する。そうならないためにも、自らの本質を知ることである。普通であるべきことが何気ない体験から大きく外れたままでいることは、人として、あり得ないことだから。

体験的知識は責任である。知ることから始まる体験は、その前段階でしかなく、そこに居続ければ、それは無責任となる。その無責任な世界と相性の良いLED。それは、心の無さを力に、病的なまでに病みを振り撒く怪物のよう。

2/09

11)LED化狂騒には、永い間の封建的な風土によって染み込まされたものと、奪われたものとが大きくかい離したことによる、その典型的な日本人気質が利用されている。今尚現代に受け継がれるその悪しき気質の内実は、心のままに生きることへの嫌悪。正しさを発信せず、繋ぐ平和を持たず、言われたことは何も考えずに受け入れ、促されたことは、何の疑問も挟まずに従い、行動する。それで生きていける(生活できる)のだからと、有り難く思い、それが良いことだからと、心を忘れる。

多くの人が辛さを覚えることになっても、仕える(上の)人の望みを優先し、未来に無責任であっても、居る場所の方向性には逆らわない。身を守るために、思考のみで生きる術を身に付け、手にした立場と動きの無い関係性を支えるために、感覚を鈍く、重くさせる。

そんな日本人気質に、心の自由は無く、未来への愛情も責任ある想いも無い。そうであるから、その性質が最大利用されて、LED化は広まり出す。心も感性も、本来のそれを知らない人たちは、かつての風景と同じように、言われたことに従い、与えられたものを大事にしながら、余計なことを考えずに、心無し草を生きる。

時代の異物(LED)と容易に融合する日本人気質持参で、未来に行くことは出来ない。(と言うより、未来にとってそれ程迷惑なものはない)なぜそうであるかの原因については、2015年の無有日記の中にある程度載せてあるので、改めて、望ましい未来の原因を生きる。LED照明を使っている場合ではない。

2/08

・無くてもいいLED化を推進するためには、LED化せざるを得ない状況に人を陥らせる上質の嘘と欺き(罠)が必要なため、それを担う存在たちは、躍起になって人を不安にさせ、それへの安心を作り出す。蛍光灯の製造中止も、税金を使った資金援助(補助制度)も、その世界発の、分かり過ぎるぐらい分かる非人間的な思惑による言動と手段である。伝えられるものではなく、伝わるものの中に秘められたその本性の性質は、「生命の歴史」にも、「復活への道」にも登場する。

2/05

・品質や鮮度にこだわる店が従来の照明であることは当然だけど、だからといって、それで充分というわけではない。作物が育てられる場所(近く)、集積所、市場などでLEDが使われていれば、それだけで、品質も鮮度も保証できるものではなくなってしまう。

LEDを使用した公共の交通車両で働く人の疲労度は想像以上である。脳に無くてもいい負担をかけられ、集中力を削られながら一層の集中力を働かせるわけだから、安心・安全からも遠のき、問題事(事故、故障)にも接近しやすくなる。LED照明の車両は、乗客にとってはもちろんのこと、健全な運転手にとっても、避けたい空間である。

LEDの空間から離れていることで徐々に心身が楽になれるのは、その光を浴びてないだけではなく、LEDを生み出し、それを広めて不穏な世を作り出そうとするその重たい原因からも離れているから。生命は、変化・成長し続ける原因であるから、結果に居続けようとする、そうではない動きの無い原因が支えるLEDは、どこまでも生命世界の異物である。LED照明に、心身の健康の原因は全く無い。

2/04

10)権威ある学者や専門家がLEDを支持する立場だと、何も知らない一般の人たちは、彼らの言説を判断の材料にする(材料にせざるを得なくなる)。しかし、専門職の人たちの殆どが事の手前の原因の性質には無頓着で、結果を生きることしか知らないことを知れば、彼らの方向性が心ある風景と繋がっていることは珍しいことを知る。どんな自分が、どんな想いでその場所にいて、どんな性質の原因を形(結果)にしようとしているのか? そこから観る時、LED化を支える彼らの中に、心は見えない。人間らしい柔らかな感性も無い。

多くの人が手にするであろう物が新たに創り出されようとする時、そこには、権益や役得といったものが一切外れた、みんなにとっての、みんなの安心と喜びの原因が無ければならない。社会全体に影響すると予想されるものであれば尚更そうでなければならず、その責任を普通感覚で担えるからこその権威であり、専門職の存在がある。

当然そこには、ある思惑による偏った姿勢も、力関係による既定路線の類も存在せず、それだからこそ、人々は安心してそこで発信されることを受け入れ、共に支え合い、生かし合う材料として、それ(物、形、理解)を手にする。

感性の無さが桁外れのLED絡みの専門家たちを通して、責任ある立場としてあってはならない嘘のような話が伝わり出す。その極みは、「LEDは従来のものより害が無い(少ない)」という、実に恐ろしい嘘。専門職である前に、人としての人生を生き、地球に住む一生命であるはずの彼らは、一体何がしたいのだろう? そこにどんな理由があるにせよ、自然体で生きる生命たちのその原因を抑え込む姿勢は許されない。心の無い権威は、苦しみを作り出すだけの、時代のお荷物である。

2/04

LED照明を通して、新たに顕になるもの、更に隠れようとするもの、いろいろである。無有日記でその世界を扱い出して、2ヶ月ほどになる。その時が来るまで終わりの時を知らず、ただフツ〜に書き続けている、LED狂騒のいろいろ。半分ぐらい過ぎただろうか? 終わる時は、ふといつのまにか終わっていた時。まだまだこれから。

2/03

9)LED照明に何の違和感も覚えず、平気でいられる人たちの心の風景を何気に感じてみると、そこには共通して、本来であれば要らないはずの非情な差別心が在ることを知る。今まではそれを本能的に隠し、普通に良い人を演じ続けられたのだが、LEDという、生命の変化・成長を妨げる不気味な物体(発光体)に反応できないという姿を通して、内に秘めた様々な人間味の無い性質が、思いがけず顕になってしまった。差別心はそのひとつであり、暴力的な嫉妬心や支配欲など、普通ではないものが、LEDを通して漏れ出している。

ただ、その姿の原因に触れ続けていると、芯のところではそれとは違い、その気もなくそうさせられてしまっていた時を重ねて今に至り、いつのまにか、無くてもいいはずのものと同一化してしまったような状態を経験している人がいる。辛い現実だが、そのままにしては置けないこととして、その原因を浄化する機会を手にする。そのためにも、「LED感染」との出会いを機に、従来の照明へと、自らの心と一緒に本来を取り戻す。そこから始まること、それを外しては先へは行けないその場所を、その原因のところから選択・実践する。

差別心は、心無い人の中で成長し続け、それを良しとしない社会環境の中では無意識の中に巧く閉じ込められて、そこで、人知れず負の影響力を及ぼす仕事をする。その人の本当の姿は、思考で扱える頭の中(考え、理解する世界)には無く、その頭で見えなくさせている内側の中に在る。差別心がそこに在れば、それは人を争わせ、混乱させる力となり、終わりの無い衝突や病気の原因となって、不穏な社会を下支えする負の燃料となる。その力が強い人ほど、同質の存在を増やし、彼らに守られ、良い人を徹底して生きる。LED照明は、大きな争い事を引き起こす程の強力な差別心に支えられ、作り出された、良い人を演じ続ける(続けられるはずだった)人たちの格好の道具である。

2/02

8)LED照明がそこに在るだけで、問題事を引き寄せる原因は確実に強まっていく。それは、あの人が居ると、柔らかな人が皆動きにくさを覚えて元気を失くしてしまうという、負の力(不穏な経験の記憶)を持つ存在の無意識の影響力に似ている。

健全な感覚と思考の働きが容易にその力を無くしてしまう、然るべき原因の無い作られた(偽装された)名目は、いつの時代も、心ある大勢の人たちの犠牲を生み、それによって満足を手にする人間とは思えない存在の負の影響力を増大させることになる。「省エネのためのLED化」という名目は、まさに現代仕様のそれであり、その中身は、凶悪な感情の策略の類と言える。(健全さを普通とする人は、あたり前にそれを知るが…)

省エネという名目で、実際には全くそうではない(様々な要らない代価を生み出す)状況を作り出すLED。照射される空間の流れを止め、そこに居る人や動物の生命活動を鈍らせるLED照明。それでもそれを推し進めようとする存在たちのその執拗なこだわりは、本質(本性)が人間本来のそれではないことを顕にする。人々の切なさや苦しみの燃料源でい続ける彼ら。それは、かつての重苦しい悲惨な風景の原因のそれと繋がっているよう。

省エネの基本は、生きる姿勢の健全さである。それを外して作られる、真の無い形(名目)は要らない。都合優先の数字頼りに独り歩きするLED関わりは、省エネから最も遠い存在である。

 

1/31

有機化合物が発酵する際に活躍する微生物(細菌、酵母、乳酸菌)は、LEDにより、その力を失くす。生命が生命でいられなくなる原因を作り出すLED照明は、自然界の生態系まで崩す意思(影響力)を持つ、危険極まりない存在である。…という文章が、(5)に登場する予定です。

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じゃがいもの芽が出なかったり、豆類が発芽しなかったり、また発酵食物の蘇生型の菌が仕事を止めてしまったりする姿を観れば、どれだけLED照明が危険であるかは誰でも分かる。

今年のみかんは、集積、出荷段階ですでにLED漬けになってしまっているのだろうか…。買った時から腐りかけていて、味も不味い。みかんは、高級果物になる意思を全く持たない素朴さそのものだから、LEDが怒ったのだろう。

とにかく、LED照明には気をつける。それだけでも、心身は楽になる。不健康な症状も消えてしまう。LED照明を浴び続けると、健全な感性を持つ普通の人は、老けが早まり、脳も細胞も??になる。

1/30

7)人の心の自由が抑え込まれることで力を持ち得る心無い人の邪な発想を通して、社会環境は、途中経過も分からないぐらいの不気味な流れで、病みを固めることになる。

その時に使われる手段(武器)は、格差。生活の安定を維持するためであれば、本音を呑み込み、言われるままにするしかないという立場の人を増やし、生活の安定を手にするために多くの人が従わざるを得ない状況に、不健全さ(不公正、不平等)を注ぎ込む。それにより、ロボットのように働く人が増え、経済は発展する。

心の無さゆえの負の原因が放って置かれれば当然生じる、それまでには無かった病気や争い事。たくさんのお金(税金)と労力(仕事)がそれらに安易に使われ、経済は活性化し、心(原因)の健全さを抑え込む蓋の重さも増していく。

格差を前提に、そして格差と同時進行で進んでいく、魔物のように気味の悪い、この国の社会経済の素顔。その不穏な空気をより重くさせようとする意思が、新たな経済活性(という名の病みづくり)のために送り出したLEDは、凄腕の病み玉である。素朴で心優しい人たちが病気になりやすくなるための、その原因の底上げ役を担うそれは、心の無い人を簡単に豊かにさせ、心ある人をどこまでも辛くさせていく。

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6)不安も怖れも、元来どこにも存在しなかったものであることを、「心の遺伝子」の世界と融合する人たちは、自然に思い出す。そして、人が要らないことばかり経験させられていることの原因には、不安も怖れも無い世界では生きて行けない存在の、その危うい本性の性質(影響力)が深く絡んでいることを知ることになる。

知らなくてもいいことを知らされ、無くてもいいものを持たされ経験する不自然な風景は、人を不安にさせることで生きやすさを覚える、不安そのものの存在によって作り出される。安心でいる人は、人を安心で包み、不安とは無縁の想いを淡々と重ねるのだが、その安心が嫌悪の対象となる程、否定され、無視されれば、それは普通の人間にとって、大変困った状況を引き寄せる原因となる。

そんな彼らが、LEDを材料に巻き起こす、世の混乱を喜び、人の不安に安心する、その本性の具体化。それを妨げられれば、圧力と攻撃へとその感情の質を発展させ得る彼らの存在の意思は、この世のものとは思えない。その原因深くに入って行くと、この国の負の歴史の内実とその背景が見えてくる。幾多の苦しみも悲しみも、元来無くてもよかったものである。

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5)形無き原因の世界の性質を共に高め、成長させるという、生命を生きる人間としての基本作業を、彼らはどこまでも放棄し続ける。人間が唯一、他の生命(動物)たちと共存し得る、その大切な要素である原因の世界への責任は、この地球での生を体験する全ての存在にとって、生きることそのものである。それぐらい普通で自然なことであるから、誰もその自覚もなくそうであるのだが、それを拒否されると、地球感覚をあたり前に大切に生きようとする人々は、言いようのない不安を抱かされることになる。その理由に触れ得る次元には居ない普通の人々は、人間として無いはずのその事実に、怖れを覚える。

動物たちの原因は、生かし合う意思とその営み。人間のそれは、隔たりを知らない本質(無意識の意思)で、ありのままに変化に乗る様。どちらもそこには、初めから調和があるから、不自然さを経験することはない。そのことが優しさに包まれていることだから、全てがそのままで癒されている。その原因を無視するという原因を蓄積するだけのLED。水も空気も、光も音も、自然でいる姿しか知らない。

1/23

LED照明を従来のものに戻したり、LEDランプを隠したり、また、LED照明の店を極力利用しないようにしていると、いつのまにか心身は元気になる。と同時に、ずっとLEDの悪影響下にいたことを知らされる。

LED感染」は、(4)が始まったばかりだけど、生きる力をどういうわけか失くしてしまっている人たちを元気にする力がそれらにはある。というのも、理由の分からない辛さや不調(病気)の原因の殆どが、LEDの元となる風景と、その深くで繋がっているから。LED照明の存在に全く違和感を覚えない人や、それを積極的に使おう(使わせよう)とする人の(無意識の)中には、酷く重苦しい現実を支えていたかつての経験2015年の無有日記の中のいろいろ)の記憶があるから。

LED感染(4)」はまだこれからだけど、是非、多くの人にリアルタイムで触れて欲しい。きっと、そのひとつひとつが、面白く、ステキな風景を引き寄せる力になると思う。原因の世界に嘘はあってはならないから、それに付き合わされて、よく分からないうちに心身を病まされてしまった心ある柔らかな人たちを元気にする。そして、理由の要らないハッピー感と、争いや病気のことを忘れてしまうぐらいの平和と健康の原因を力強くする。「LED感染」は、まだまだ続く。さて、大阪。

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4)LED絡みの有力者(責任ある立場の人)は、「どうしてこんなことも分からないの?」というぐらいの、人間としての、ごく初歩で基本的なことが分からない自分を他者に把握されることを極端に嫌う。分からないことは分からないでいいと思うのだが、その発想も理解できないので、彼らは、分かり合う世界からも離れ、我欲のままで行く。

普通ではあり得ないその状態も、かつてはそのままで済んだが、時代背景が全く異なる現代、それが一般には望ましくないことを、その頭が学習する。しかし、人間性の無さはどうしようもない。心ある想いの具現化を知らない彼らは、どの人生でも連れ歩く重たい感情(支配、所有欲)を巧く操り、人々の喜びの質を低下させていく。お金の価値を前面に、地位や名誉で心の無さを見えなくさせ、思考で扱えるレベルの行為としての心で、良い人を生きる。

心の安心と繋がる真の普通が辛く、心ある人の本来が辛くなる歪な普通が心地良い、LEDの原因の中に居る、心を持たない存在たち。「どうしてこんなことも分からないのだろう?」という話に耳を傾けるより早く、それを否定し、潰し切ろうとする姿勢は、そのままLED化の基本燃料であり、心を知らないゆえの彼ら流の満足である。LED化は、心の無さが腕力を手にした、異常事態と言える。

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わざわざヘンな店に入る人はいないと思うが、もし間違って、LED照明のレストランに入ってしまったら、ドリンクぐらいにして、早くに店を出る。すでに実体験している人もいると思うが、そこで食事をすると、普通の人は、心身の本来の動きが止まり、次の日も力が出なくなる経験をする。

理由は、LED漬けの食べ物、空間、人によって、生命力を奪われてしまうため。LEDから離れて普通感覚を取り戻している人は、そんなレストランに10分も居ると、皮膚がひりひりしたり、目が痛み出したり、頭がぼ〜っとする。それだけでも、かなりのダメージである。

余裕があれば、その辛い感覚を店員さんに伝えてみる。それによって、不思議と回復が早くなることもある。

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3)元々責任感覚というものを持たないから、LED化という無責任なことを進められるわけだが、彼らには、無責任でい続けるために役職(肩書き、地位)を手にするという、他の人には無い特技があり、同じようなことを同じような場所で行う仲間と仲良く、どんな時でも責任を取らなくて済む組織体系を支え合う。

その基本姿勢は、要らないものを大事にする嘘を本当にし、空間を重く、時間を流れにくくすること。それが不自然であればあるほど、問題事や仕事が増えるので、いつのまにか、その要らないものの原因は姿も見えなくなり、そのことに責任を覚えることもなく、彼らは嘘を生きる。

LEDの嘘は、その最たるものであるゆえ、それを本当とする力も強く、そこで生じる、不安や怖れ、混乱や破壊の事実を抑え込む立場(役柄)や仕事まで生み出し、利益拡大(拡散)を強めつつ、その本質を見えなくさせる。

要らないものを、無くてはならないものにする仕事が好きな、真の無い人は、それが許される間はどこまでも正しい人を生き、そうではなくなる時、すかさず身を隠す。しかし、LEDは、普通の人(健全な感性を持つ人)がすぐに分かるぐらい、正しさとは無縁であるため、その手法は通用しない。

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LED照明というのは、設置してしまったら、それを元のものに戻すまで、ずっと細胞たちに大きな負担を強いらせてしまうので、とにかく、使わない方がいい。そのことに全く??な自分に、改めて??になる。LED照明は、その危うさゆえ、好き嫌い、賛成反対の次元には無い。

…という感じで、LED関連の日記は続く。省エネのために(その実、LEDは省エネではないが)、食物や水、動植物や人間の健康・健全が犠牲になることはない。

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2)「LED感染(2)」で、その作り手や送り手の中に在る危うい感情や心無い姿勢について書いたが、それを分かりやすく一言で表せば、彼らは、人が困ることに快感を覚える性分を持ち合わせているということ。それ自体、人として許されないことなのだが、彼らにとってはそれが普通で、それを元に働かせる頭で利益を手にすることを何よりの喜びとするので、自らの分を客観視する機会がそこで生じることはない。

それゆえ、彼らは、その感情を隠し通す技を磨き、現代では、分かりにくく人を困らせ(病ませ)、分かりやすく得するために、LEDを利用する。同質の、権力を持つ存在もそれに協力し、権威ある説(見解)も、その病みの上塗りに参加する。彼らみんなの共通項は、感情の質の低次さである。

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LED感染」のページは、「食の風景」(←未だ編集中)や「原点」がベースなので、そのどれもが、さりげなく力強い。

体験を通して知り得る場合でも、その感覚的理解の元となる細胞たちの意思はどんなか…。体の中で栄養になるものを摂り、頭ではなく、身体が欲するものを優先的に選んでいるから、感性も健全さも、普通で強力。

新鮮な果物、生野菜、そして全粒穀物や無調整の国産豆乳、その他いろいろ。ここに至るプロセスが自然で、健康で、ありのままだから、「LED感染」も、地球大自然の生き物たちの折紙付き。なわけで、「LED感染(4)」をじわじわと…。

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これからは、どんなものでも、LED照明の店で売られていれば、それは粗悪品で、そうではない個人の店などで食品や日用品を買う人が増えていくと思う。(市場やトラックの中でLED照明を浴びてしまうとどうにもならないが…)LEDの本当の姿を知ろうともせず、省エネだとかで安易にそれを使用するスタンスも、実に危うい。生きている食物は、正直である。もちろん、空間も動物も、そして人間らしい人間もそうである。LED照明の存在に全く違和感を覚えないこと自体、恐ろしく怪奇である。

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1)「LED感染 (1) ~(3)」を通して、心ある人たちが素朴に思うのは、なぜそんなものを作り出し、広めようとする人がこの世に存在するのかということ。どこから見てもそれは普通ではなく、人として、あり得ない現実である。考えるまでもなく分かるはずのその異常さに気づけないということのその理由を、考える気にはなれないのだが、そこには決して放っては置けない性質の原因があるゆえ、この国(地球)の未来がその影響を被ることのないよう、この(4)では、改めて、この時ならではの時代の必要性に応えてみる。

その原因に触れることで、形(言葉)になるもの。そのことで動き出す、責任ある流れ。LED感染症のオリジナルのような存在たちの、頭にではなく、内面にある本心(本性)を観察し、その意思を、無有日記の世界に招き入れる。

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簡単にダウンしてしまう程、生きる力を奪われてしまっている人。簡単にダウンしてしまう程の強い力で、生きる力を奪われている人。蛇頭(のような凶悪な存在)が最も恐れるのは、後者が本来の力を取り戻すこと。それによって、前者が自分らしさを普通に生きること。

そんなこんなの時を経て、ここから先へと動き出す。「LED感染」は、世の病みが拡大する原因を確実に浄化するもの。白蛇に乗った玉子が、オムライスを食べ始めた。その間にその場をかけ抜ける。(←ん?)

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あるテーマで主張の違う相手に対して批判的な立場を取る多くの人が、自分自身の正しさを余裕をもって言葉にすることが出来ない。良し悪しのレベルの正しさというのは、所詮、間違っている(と思いたい)ことを前提に存在し得るもので、時代背景や社会環境が変わればその質(感性の健全さ)が変わってしまう位、力無いものである。正しさは、平面世界を包み込むようにして存在する、全ての生命にとっての普通である。

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結局、あの症状も、この不調感も、皆LED照明に触れざるを得なくなってからだ…と、多くの人の困った経験の声が届く。ただ今は、余りに非人間的な力がうごめいているため、心ある人たちにとっては、まさに受難の時。意識的にその影響を受けないようにする。

このままだと、この国の、人としての感度は極端に低下する。だからこそ、「LED感染」があるのだが、自然界や未来の子供たちのことなど全く考えてない人たちがLEDを先導するため(ポーズは上手いが…)、嘘のような現実が繰り広げられていく。今は、歴史的にも、地球環境においても、異常中の異常の時。LED関わりの文章をどこまでも継続させる必要性が高まる。おそらく、そろそろ「LED感染(4)」。

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久し振りにフレンチフライを少しだけ食べてみようかなと、バーガーキングへ。ジンジャエールとフレンチフライ(S)を注文すると、「只今、ラージサイズが半額です」の声に、「では、それで」と応えてしまった。なんと、Sサイズより、Lサイズの半額の方が安い。かなりマヌケなムーは、ほんの少しだけ食べるつもりが、お腹いっぱい食べてしまい、晩ご飯が入らなくなった。次回は失敗しないよう、勇気を出して、「それでは、Lサイズを2個」と注文しよう!(ん?)

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みかんもりんごも(その他たくさん)、今年のものはなんか元気が無く、味もへんで、腐りやすいな…と思うのは当然のことで、その殆ど(と言うより全て)がLEDのせい。彼らは、農場から消費者のところに届くまでに、どれだけのLED照明を浴びさせられるのだろう? 水分を多く含む野菜や果物ほど(と言っても殆どだが)、簡単に生命力を奪われ、自然の作物ではなくなっていく。

それを科学的に証明するための根拠は? と、腐ったみかんのような脳を持つ人は言う。生命は正直である。それが理由。果物をたくさん食べ、全粒粉のパンや玄米を食べている普通感覚の学者や専門職の人がいれば、LEDのような毒は誕生しなかったのにな〜。

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22)かつて、IHand 電子レンジ)でたくさんの人たちの健全な感性が抑え込まれてしまった時、それでもそこには自由選択の余地があったので、無難に切り抜けることが出来たが、LEDは、その背景(原因)も、送り手の姿勢(力)も、その性質がこれまでのものとは大きく違うため、自然界と生命世界の本質が、後戻り出来なくなる程壊されてしまうのではと、心ある想い(感性)をそのままに生きる人たちは危惧する。そこにある原因の嘘と欺きの力は強烈で、それへの対応は簡単ではない。

しかし、簡単ではなくても、未来への責任として、淡々と連ねなければならない原因がある。責任は、責任ある原因の選択の中に在る普通のことで、責任を取る取らないの低次の発想は、その普通を持たない存在たちの世界で生じるものである。ここに、未来の心ある生命たちへの責任ある原因として、LED感染 (1) ~(3)」を形にする。手にした人は、それを次へと繋ぎ、外へと広げていく。それは、この時代を生きる人間の、生命としての責任であり、次の時代が笑顔になれる、心の選択である。これまでから、これからへ。全体発の原因は、いつも未来が喜ぶみんなの原因と繋がっている。

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21)感覚が健全なものになると、自然で健康的な感性が意思表示するようになる。体を動かしたくなったり、今まで行ったことのない場所に行ってみたくなったり。歩きたくなったり、想いを人に伝えたくなったり。

そのことで、LEDから離れている時間も自ずと増え、自然界の中で生かされる自分の姿も、愛しく思える。手のひらはオープンで(電子機器が無く)、視界は広く、心は自由で、歩みは軽い。何でもないその普通があたり前に時を癒し、その原因が未来へと繋がっていく。

頭を忙しくさせていた頃の経験ははるか後方にあり、そこから自由となって生きる生活は、理由の要らない喜びの原因と重なり合う。「LED照明って、一体何だったのだろう?」と、笑い話のようにそれは姿を消し、自然で安心感のある光(照明)の存在を皆で大切にする。それは、いつのまにか忘れさせられていた、真の普通。失くしていたことも気づけずに、何も分からないでいた、真の在り様。光は、かけがえのないものである。それが自然であることで、自然は安心する。

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19)そして、ふと気づけば、LED照明の無い空間の心地良さをあたり前に感じると思う。思考の働きもゆったりとムリが無く、体も軽く、気持ちにも余裕を覚えるようになる。それが如実に現れるのが、心ある人たちとの間での交流。温もりと優しさが普通となり、何があっても無くても、安心に包まれる時を共にする。心も身体も、想いも言葉(行為)も、自然で柔らかなものになる。LED照明が無いことを基本とする生活は、それだけで、人間らしさを育む大切な原因となる。

 

20)普通の人間の生命力を低下させるLEDの原因の風景には、生命のリズムが無い。それは停滞と収縮を生み出し、破壊へと発展する。LED照明のある空間で音を奏でてみると、それはよく分かる。自然で精妙な音源ほど不自然になり、音を大切にする人の耳に届く音質も違ってくる。たくさんの人たちが集まる音響施設でそれがあれば、思考の外側で、細胞たちが嘆く。生命体からその生命のリズム(鼓動)を妨げようとするLED。動植物たちは、ずっと前からそれを知っている。

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17)室内の照明を蛍光灯や白熱球に換えるのも、自分の家であれば簡単だが、借りた部屋となると、それは難しい。なので、引っ越す際は、必ずLEDが使われてない部屋を選ぶ。もちろんIHも控える。

LEDは、人の暮らしを支える明かりでも光でもなく、害をもたらす(毒を持った)発光体と考える。それを使用するというボタンの掛け間違いは、容易に、心ある人の純粋さと柔軟さを壊すものである。

自宅の玄関や庭を照らす光にも、LEDは使用しない。よく利用する建物の内外にそれがあれば、その危うさを伝え、従来のものに換えてもらうようにする。虫たち(小動物)が姿を消すというのは、生命が危ぶまれるということ。当然、身体細胞も影響を受ける。ペット用品のLEDも、彼らならではの生を守るために、使用は控える。

 

18)段々と脳の働きが本来になり、感覚も健全なものへと変わりつつある中、LED仕様の文字や画面にも強い違和感を覚えるようになる。駅の表示板や店の看板(特に周りのランプ)など、見入らないよう注意する。それらに馴れてしまう状態は、人間味が深くから崩れてしまっていることを意味する。PCなどの画面にも気をつける。(使用を最小限にする)

仕事でLED画面を集中して見続けなければならない状況だと(レジスター、PC etc.)、気づかぬうちに被る害も大きい。そこに居る時間を減らし、体を守る。それに平気でいる人のペースに合わせたら、心は完全に力を無くす。

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14)健全さも健康も、そして平和も友愛も、それらは皆、思考(頭)で扱われるのを嫌う、人としての基本要素である。それがいつのまにか、求め探し、失い、手にするものへと変わってしまったために、LEDという異物が幅を利かせる状況を人は引き寄せてしまった。責任は大きい。健全さを無くした人の選択・判断は、人の人生を簡単に奪う。影響力を持つ人のそれは、凶器である。

思考では把握できない性質の原因がそこに在るから、この文章がある。繰り返し触れ、要らないものを外し、ありのままの質を、病気の裏返しではない健康と、争い事を知らない平和の原因のそれにする。「LED感染」は、そのサポートをする。

 

15)LEDの光には、健康的な要素が全く無く、それをごまかすように、あの手この手で欠点を分かりにくく、良さを押し付けながら、「多くの人が普通に使用している」と、嘘のように鈍感な人たちのことを引き合いに、先へ先へと進められていく。

何となく体が重く感じたり、気持ちが晴れなかったりしても、それが使用しているLEDのせいだとは思わせない力がLEDにはあり、何らかの変化の直接的な原因にはなりにくいことと、それに平気でいる人が多くいることを材料に、その世界は、簡単に疑問(批判)類を撥ね除ける。

LED照明の空間で思いがけず意識が散漫になれば、自分を責め、ミスをすれば、何でも無い人になだめられ(注意され)、その原因は隠れる。目がちかちかしたり、妙に喉が渇いたり、肌が荒れたりしても、他の人はいつもと同じなので、そこに何か特別な理由があるとも思えず、食事や睡眠、ストレスなどの分かりやすい理由で済ませてしまう。そして、LEDはほくそ笑む。

 

16)そんなだから、仕事や勉強などで頭をフルに使っている時は、よりその影響は分かりにくくなり、後々大変なことになる。もちろん原因不明だから、その理由は分からない。専門の人に聞いても、答えは無い。その恐さは、途中経過を省いてしまう。

家で使う電気スタンドは、LEDのものを控える。それは想像したくない光景である。健康な人の生きる原因は、確実にしぼんでいく。

LED仕様の小物も、極力控える。子供が遊ぶ玩具類にそれがあれば、その子のその後の人生は、普通感覚のそれではなくなる。LEDは、心優しい素朴な人の自由な動きを止め、そうではない性質を潜めて嘘を生きる人の自由を応援する。

心身の活力が少しずつ削られても全く分からない、その原因の場所となる冷蔵庫の各種庫内灯にも注意する。せっかくLEDの光に照らされてない食材を購入しても、家庭で浴びせては何もならない。

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13)店の照明がLEDに換わったために、今までのように買い物には行けなくなったという人は多い。車のライトが辛くて、夜間の外出は控えているという人もいる。家庭の照明を早くに蛍光灯に戻したことで、心身は元気になったけど、会社がLEDなので、疲労感が増しているという、実に困ったケースもある。

LED関わりの問題事は、日々増えているのだが、感覚が鈍ってしまった(鈍くさせられた)人たちが安易にそれを支えてしまうため、柔らかな感性のままにそれに違和感を覚える人たちが、逆にオカシイ人として扱われてしまう。それ程広範囲で、深く、しつこく世は病んでしまっているため、ここに「LED感染(3)」がある。改めて、感じる感じないの世界を離れ、そこに在る、感じなさの理由と、その影響を観察する。それは(実に恐ろしい)元々なのか、そうさせられてしまったのか…。どこかに後者の性質があるとすれば、LED照明から離れ、細胞が喜ぶ食事と価値観を自らに重ね、その気もなく人の心を重くさせてしまっていたこれまでから自由になる。そして、感性を本来にし、未来が喜び、過去が癒される原因を共に生きる。

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11)直ぐにでも出来る安心と健康の原因づくりは、室内の照明を従来のものに換えることで、それは早ければ早い方がいい。他にも、自転車のライトの交換は、お願いすれば簡単に済むこと。自分発の原因を処理し、他者の心身に負担をかけないようにする。そして、利用する場所との関わりを修正する。

LEDばかりの大型電気店は控え、人々の健康的な生活を応援してくれる良心的な店(小規模店、庶民的なホームセンターやスーパーの日用品売り場etc.)を活用する。どんな時でも、どこでもいつでも、大切にすべきは、心身の健康(生命)である。その対極にあるLEDオンリーの店には、近づかない方がいい。健全な社会のその基本的な原因の風景にはいつも、健全な感性を持つ人の心があり、彼らの心ある選択がある。

 

12)「LED感染」を通して知り得たことや、思い出せたことを、一切の気負いもがんばりも無く、次へと流す。どんなに固められた状況でも、想いを伝え、感じてもらうことで、責任は力強くなる。形ある利益のために、失ってはならないものがある。ある枠内の良し悪しの次元を超えて、大切にされなければならないものがある。無くても良かったものが有り続けることの悪影響は、計り知れない。

そのままであってはならないものは、やんわりと確かな想いで距離を置き、そこから自由になって、次への責任ある選択をする。身体細胞にも、自然環境にも負荷をかけ続けるLEDの危うさを、要らない思考で曇らせて(見えなくさせて)はならない。ましてや、人間のせせこましい欲で、それを支えてはならない。無自覚の無責任ほど、強力な災いの原因は無い。

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10)可能な限りLEDから離れていることで、細胞たちも本来の意思を呼び覚まされ、少しずつ自浄力を付けて、力強い働きをするようになる。元々健全さを備えていたのだと気づけるぐらい、感覚も敏感になり、人間らしい感性がLED(の原因)によって抑え込まれていたことも、体験的に知る。

そして、染み込んでしまっていたLED絡みの不安や怖れの感情が段階的に癒される中、平穏で、安心に包まれる時をごく自然に過ごせるようになる。LEDは、その原因の危うさが強力であるゆえ、その意識もなく感じにくさ(不健全な感覚)を普通としていた人は、それなりの時間を要するが、それでもそこから離れることで、縁する柔らかな人たちは気分良く、楽に過ごせるので、何となく自分も、以前とは違う感じを覚えると思う。

要らない思考を使わず、頭を働かせ過ぎず、淡々と、LEDの無い空間が創り出そうとする原因の流れに乗ってみる。周りの風景は、重い荷物を持ったままでは、自然に見えることはない。

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7)個人レベルで、最も他者への悪影響を考えずにその不健全振りを形にしているのが、家の塀や周りの木の枝や葉にLEDのライトを連ねる行為(装飾、イルミネーション)である。直ぐに止めるべく行為として、その危うい事実を認識する。

子供たちは、何も知らず、そのキレイさに目を向ける。感性が自然で子供らしい子ほど、体(脳)はボロボロになり、その原因も分からずに不調を抱え込まされる。頭の働きが健全さを失くし、不機嫌で暴力的な精神状態になる子もいる。

普通ではあり得ないそのLEDへの無感覚の様は、多くの人から健全さを奪うものであるゆえ、その気もなく人を病ませてしまう自らの(無意識の)危うさを、改めて知る。空間や植物たちへの影響も大きい。

 

8)LED照明のモールやショッピングセンター、デパートで買い物をすると、思考を使う分、対応も後手となり、知らずうちに感性は失われていく。不健全な人はより不健全になり、健全な人は、その健全さを発揮できなくなる。健全さを取り戻しにくくなるどころか、心身は後戻り出来なくなる程オカシな状態になってしまうので、そこへは行かない。どうしても行かざるを得ない時は、店全体の照明を消してもらうか、走って買い、走って帰る。(?)

どんなに鈍い人でも、ゆっくり買い物をして、そこの化粧室で鏡を見れば、LEDの恐さが分かるはず。それでも分からない人は、きっとヘビー級の病ませ人に違いない。

LED照明のコンビ二は、その経営スタイルからも、不健全さの濃縮具合が強いので、そこに在る物を口に入れることは控える。蛍光灯のコンビ二を選ぶ。

 

9)食品や雑貨、衣料品などの販売店の場合、LEDを使用していない店を選ぶことで、健全さと健康を守ることが出来るが、通勤や通学で毎日利用する電車やバスがLED照明だと、どうにもならなくなる。

少しでもその影響を受けない(減らす)ために、可能な限り、乗る時間を減らし、車内では座席に座り、目を閉じている。(照明から離れたところで、外の風景を見ているのもいい)

関係者に「LED感染」を伝え、「何が何でもLED」の世界の恐怖を知ってもらう。電車やバスのLED化は、最も恐ろしい負の原因が具体化した、病みづくりの象徴である。それはまるで、純粋な人の人生を奪う、走る‘命の吸い取り館’のよう。

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4)LED照明の影響を受ける生鮮物は、廻り回って、恐ろしく悲しい風景を作り出す。異物によって生命力を無くした食品は、体の中でも当然異物となり、疲れやすさや気力・体力低下の材料となって、心身を蝕む。

スーパーやドラッグストアなど、「LED感染」の内容を伝え、食品を扱う責任を実践してもらう。照明を蛍光灯に戻してもらうよう促し、それまでは、LEDの無い店で買い物をして、健康を守る。LED照明の当たる食品を食べること程、健全な人の細胞にとって辛いものはない。

 

5)街路灯のLEDは、夜間ずっとその空間を照らし続け、その影響力もしつこく深く入り込むものなので、以前のものに換えてもらう。自治体への働きかけを優先し、街の健全さを取り戻す。本来のものへと感性の土台を練り直そうにも、街全体が不健全だと、それも難しい。自宅からも目に入る場所にそれがあると、夜は常に、重く冷たい不安の光を浴びることになるので、精神は不安定になりやすく、生活感覚も乱れていく。

LEDの光で照らされた道は歩かない方がいいのだが、そうも行かない状況では、光を見ず、近くに寄らず、足早に通り抜ける。健全さを普通とする人にとって、街路灯のLEDは、耐え難い辛さである。

 

6)LEDライト(ヘッドライト)の車を購入してしまった場合、極力夜は車に乗らない。車のライトの負の威力はかなりのもので、田畑や林、川や丘(山)が近くにある場所を通るだけで、それは小さな生命たちの生きる力を奪う。自然は簡単に壊され、街の中でも、郊外でも、車に注意しようとそのライトを見た人の脳は、要らない負担を強いられる。敏感で、心柔らかい人ほど、被る影響は大きい。

目をそむけなければならなくなる車のLEDライトは、対向車にとっても、歩行者にとっても、交通安全ではなく、交通危険の道具となっている。

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二度と通らなくてもいい道(時)の圧縮版のようにして、ただただ歩き続けた2015年。そのひとつひとつの経験は、その時の未来のこの今にしっかりと繋がっていて、だからこその今と、次々と形になろうとするこれからがある。

本来であれば要らないはずのことに費やさざるを得ない経験は、その経験をムダにしないという確かな原因を連ねることで、この先もずっとそれらが誰にとっても要らないものとして、それを(その原因を)発展させることが出来る。

みんなのこれまでが引き寄せた、みんなが過ごしやすいこの時の風景。地球の産みの親の太陽が喜んでいる。

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2)健全な感性の基礎が無くなっている状態から離れるために、家庭の照明を蛍光灯(and 白熱球)にする。これは真っ先に行うべき大切なことである。LEDに違和感を覚えず使っていた状態というのは、感性が人間本来のそれではなくなっているか、またはそれ程鈍さを慢性化させているかなので、いずれにせよ、更なる負の蓄積から離れる。過ごす時間の多い家庭での照明がLEDである時、感じる感じないの外側で、それは予期せぬ状況へと心身を病ませていく。

 

3)身近なところで次にすべき簡単なことは、自転車のライトを従来のものにすること。使い手にとっては普通でも、柔らかな感性を持つ人にとってのそれは、脅威である。健全な人ほど、その光で心身(脳)は害を被り、理由も分からず動きにくくなる。

健全な感性を取り戻すためにも、健全な人の心に負荷をかけてはならない。そのことに無頓着でいる時間を重ねてはならない。LEDライトの自転車が増えてから、夜道は確実に気味悪くなっている。

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ムーセンテンスは、水や空気のように、重く流れないものを確実に浄化する。その理由はシンプルで、そこに乗っているもの(エネルギー)は、その無意識の意思で人知れず世を病ませ続けようとする存在たちが何より嫌うものであるから。だから、頭ではなく、心でみんなの未来を想うのであれば、ムーセンテンスを自らに通す。

時を経てしつこく固められた(動きの無い原因のかたまり)への対応は、それなりのプロセスを要するが、そのままでいることはない。誰も平和や健康の意味を知らない、それそのものでいる生命本来の風景の力強い原因でい続ける、無有日記の世界。真に生きることを楽しみ、繋ぐことの責任に喜びを感じながら、皆で淡々と時を癒す。

通すために、通るべき道として、思考をより本来にする。「LED感染」をきっかけにこのHPに縁した人は、「人間本来」や「1000年目の夜明け」にさらりと触れ、「本心と安心」や「地球の良心」なども通り抜ける。2016年は、心ある想いが、より具現化される時。

1/06

1)感性が健全であること。それだけで、責任ある人生をその意識もなく普通に生きることになる。責任は、いつの時も、人としてのありのままの原因と、生命としての自然界との融合が基本となるゆえ、そうである人にとって、そのことが意識されることはない。その時々で思うこと、感じることが、そのまま次への責任ある原因の仕事をする。

責任という言葉を意識しなければならなくなる程、普通であるべきその世界が自分から外れてしまったことで、ものやかたちを創り出す人の心は、その自覚もなく無責任な出来事に無感覚になっている。責任が安易に結果と結び付けられる価値観の中で、その状態は次第に固められ、人は、生きることも、繋ぐことも、原因のままでいる本来から遠ざかってしまう。

健全さは、分かろうとする思考の域には無く、経験して身に付けられるものでもない。すでにそれが無くなっていることに気づけないままでいたから、LEDという存在との接点を引き寄せてしまったわけで、まずは、新たな原因の選択を通して、要らない重しを外すことから始める。そして、責任感覚を原因のそれに戻すべく流れに乗るために、LED感染 (1) (2)」を大いに活用する。そこに書いてあることは、全て普通のことであり、理由も分からず崩されてしまっていた本来を元気にするものである。それは、誰にとっても必要な、責任という名の普通の実践である。

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2016

かなりの密度で書き続けた、「LED感染 (1) (2)」。その2つのページが完成したことで、さて次へ…と思っていたら、何気にメモッたセンテンスの中には、またまた「LED」の文字が…。ん? もしかして、(3)?

なわけで、2016年、「LED感染(3)」になるであろうセンテンスから行きます。頭の中がLEDの人たちは、かなりカリカリするかも…。アホモード全開で、気楽に、てきと〜に書いて行こうと思う。

 

 

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