無有日記

 

12/31

33.見方を変えれば、LED化の動きというのは、これまでの嘘が全て結集するようにして表出した、重たい存在たちのその本性の具現化であるわけだから、長いこと体裁や体面で巧く隠されていて見えなかったものが、何もせずに容易にその姿を把握できるところに思いがけず来ているということになる。

理由も分からず辛い時ばかり経験している人や、心を抑え込まれて思考が本来ではなくなっている人たちのその理由が、LED化の動きに乗って伝わり出す。あり得ない状況での心身の不調(病気)や、どうにもならない厳しい関係性の原因も、LEDを通して感知されていく。そして、全く新しくて、懐かしくもあり、何でも有り、何も無い大いなる原点が姿を見せる。

心は、そこへと近づきつつある。想いは、そこへと身体を案内する。夜明け前の闇の中で、終えるべきものが、太陽の光で溶けていく。

12/31

32.LED化は、病み化の代名詞。それは、何かのためなのだろうが、何のためにもなっていない。

人のことを思うのでも、ただ思うことで良しとする世界がある。勝手な価値判断や個の欲がそこにあっても、思うことには変わりはないというその姿勢は、人を大切にしようとして、人を傷つける。みんなのためになると言いながら、隔たりを作る。

人や自然を大切にする気など全く無くても、それを何度も言葉にすることで、偽善を徹底する。心が無くても、有るように見せれば何も困らず、語ることを磨き、心ある人を生きる。

人のためと思って行うのだから、結果、そうではなくても、責任は無いとする。責任感覚など少しも持たないから、人一倍人を思い、人のために行動する。人々は、それに付き合わされ、気づけば、オカシな状況の中で身動き出来なくなる。

その周りでは、心無い存在たちが、満足気な表情で、人助けに勤しむ。心が無いから、心が痛むことを知らず、どんな時でも、心ある自分を元気に生きている。人を思うことで、人を困らせ、困った人を助け、人は喜ぶ。

そんなからくりの名人たちが、LED化という病み化の中心に居て、事を進める。人間とは思えない。

12/31

31.法規制で固めてしまえば、後は自動的に、人の心と細胞は病み続けて行くだけ…と、平和や健康の原因を尽く無視する心無い指導者は、その醜い素顔を隠しつつ、人々を支配しようとする。

さすがにあからさまにその本心(本性)を表に出すことは出来ないから、彼らは、数や量の力がもたらす影響力を武器に、人々が肯定せざるを得ない状況を作り、健全さ(抵抗)を抑えて、事を進める。

しかし、永い時を経てやっと訪れた、命の奪い合いとは無縁のこの時を、ずっとどこまでもその質を成長させながら繋ぎたいと心ある人は思う。少しずつ何かがオカシク、何処かがヘンになってしまっている今の社会の風景を、決してそのままにしてはならないと、そのための新たな原因の選択・実践が何より大切であることを普通の人は感じている。

その健全で、健康的な想いを形にする、人としての未来への責任。誰もそれを止めることは出来ない。そのために要らないものを外す動きも、誰もじゃま出来ない。この国の将来を思い、未来の子供たちに平和と健康の原因を届けたいのなら、例え固められて行くものであっても、その重く、不穏な原因を、共に浄化し続ける。LED化という、恐ろしく危険な原因をそのままにできる程、人間は愚かではない。

12/31

30.危うい本性を隠し続ける人が、そのことを見透かされ、指摘されると、見た目は全くいつもと変わらないが、内面の怒りは凄まじい。しかし、その感情を熱くし続けることで変貌してしまう表情や言動のことを恐れ、その人は、質はそのままに、動きを操り、その感情を執拗で陰湿な憎しみの類へと変えていく。

ところが、それさえも感知され、その影響を把握されると、そのことへの焦りが本能を防御へと向かわせ、彼ら流の逃げに入る。そっと姿を消し、対象への意識を外し、一切の関わりを持たず、身を守る。

ただしかし、普通では分かり得ない、無意識のところに潜んでいたものが観察されるというのは、すでにその全ての原因が、意識世界のものと同じように手に取るようにして知られているということ。隠れ続けても、無視しても、物理空間を余裕で包み込む多次元的な原因の世界では、どこに居ても、それは余裕で触れ得るものとなる。

その時は、通るべき道をずっと後方に置いた、新たな次を迎える時。地球の異物であるLEDの原因は、どこまで行っても異物である。

12/30

22.優しい人が優しい行為を知らないように、正しさの中に居る人は、正しい(とされる)ことを知らない。ただそれそのものでいて、ありのままにその普通を実践する。それゆえ、優しい行為でそうではない性質(本性)を隠そうとする人には、優しくない行為でそのことを刺激し、正しさの原因(本質)を育まずに正しいことにこだわる人には、その人にとっては正しくないことを形にして、その未熟さを見つめさせる。その全てが、優しい人にとっての自然な姿であり、正しさを生きる人の何でもない普通である。彼は、存在そのもので時代を担い、次の時代へと確かな原因を繋ぐ。

そんな人たちの普通から大きくかけ離れた(次元が極端に低い)、LEDの作り手と送り手。彼らは、嘘の優しさと作り物の正しさで、内なる凶暴さを具体化させる。本来を無くさせられた人たちを巻き込み、世を病ませる。見え隠れする、残忍な支配欲。LEDの本質は、どの角度から見ても、地球の嫌われものである。

12/30

21.永い歴史の上での地球規模の変動は、太陽もそれに関わる、自然で普通の変化であり、気候の変化も、その一部である。現代における温暖化と言われる現象も、それは、人間が問題視する次元のものではなく、地球の意思により自然に生じた、その自浄力の働きと調整作業の一環でしかない。

つまり、人間社会が排出する二酸化炭素が温暖化の主要因だとする言説自体が全くの見当違いであり、そのことが一般に認識されていることの恐さは、そうであることで存続させようとするある種のはかりごとが人知れず為されているとしか言いようがない。そこに結び付けられているLED化。それは実に悍しく、不気味な世の始まりの時に思える。

温室効果ガスの排出量を減らすことは、この地球に住む生命として、当然の原因の仕事である。しかし、LED化がそれに利用されることは、愚かさの極みであり、そのことが温暖化防止には全く関係無いことは、思考を自由にさせ、経験からも自由でいれば、誰もが容易に分かり得ることである。

地球人として、生命を生き、限られた身体時間を、人間らしく生きる。人間には、未来の子供たちががっかりする原因(環境)を残してはならないという、あたり前の役がある。

12/30

20.照明をLEDに換えた後になって、その負の影響力を実感した場合、当然のこととして、それを以前のものに換えるだけでいい。何も分からず間違えてしまったのだから、それを正し、自然な姿を取り戻す。病む原因を蓄積させる前に、健康の原因を選択する。LED照明に平気な存在の怪しい普通に合わせることはない。

LEDにどこまでも鈍感でいる人たちのその理由は、かつての経験や感情の背景となるその人の無意識(の意思)が、健全さからかけ離れた不自然そのものの性質であるから。その分、頭だけで生きる姿勢が強まり、心を失くし、感性は鈍る。それが普通となり、真の普通を拒絶する。

心ある人は、無意識も意識もなく、ありのままに本来を生きる。LEDへの反応も、思考の域を包み込む心の世界の、素朴な普通感覚。自然界の意思と融合するその感覚に、動植物たちも未来の子供たちも安心する。

12/30

19.昔、悲惨な戦や争乱で、大勢の人たちがやむ無く人生を終えざるを得なくなる際、そこには決まって、腹を空かせた蛇や烏が集まりだす。飛躍し過ぎかもしれないが、LEDばかりの街灯で照らされたその異様な空間は、人々の生命力(命)が奪われていくのを感知して忍び寄る、その彼らの姿と同質の何かに眺められているような、寒々しく、ひんやりとした不安を抱かされる。

今までそこに普通に在った大切なものが無くなる時、そこには決まって、人知れずそれを成し得ようとする存在の、陰湿で狡猾・非道な感情がある。それだから、そう思えるのだろうか…。LEDの街灯に照らされた場所は、まるで、人が自分のために犠牲になる(命を捧げる)ことを喜ぶ存在(の本性)と繋がる彼ら(蛇、烏とそれ系の人間)の、形無き仕事場のよう。その存在たちが嫌う心ある人たちが、知らずうちに生きる力を失くしていく。

12/29

9.自由選択の余地も無く進められてしまうものが、人や動物たちの心の自由を奪う性質のものである時、未来は悲しい。その空間が重なる度に、動こうにも動けない原因が固められていく。

その危うい現象を操る存在たちは、人が平和で平穏に暮らすことに我慢ならず、不安も怖れもなく人が生かし合う風景には耐えられない。それゆえに手にした立場と力で、LED化への原因づくりをずる賢く重ねて来た彼らであるが、有無を言わせず事を進行させ得るその驚くべき手腕は、彼ら特有の本性の為せる業である。

そう、あの時もこんな風にして人の心が抑えられ、常識の質が低下し続けて、心ある人たちは生きる力を無くさせられて(犠牲を強いられて)いった。そう、あの時と同じ、心無い人たちが力を付けて、人を欺き、支配欲と凶暴さを強めていく。時代背景が大きく違っても、連れ歩く原因の重たさ(残忍な本性)はそのままである。

限り無く負の影響を及ぼし続けるLED。次第に明らかになる、見過ごせない事実の隙間からその奥へと原因の扉を開けていくと、嘘のような、あり得ない性質の顔(本質、正体)がいくつも見えてくる。

12/29

8.LEDを推進しようとする人たちの頭には、生命世界の根源と繋がる、「どちらでもあり、どちらでもない」発想が無い。そのため、それを正しいとする情報を盾に、直線的に事を進めることしか考えられず、それ以外のことに思考を使う余裕(能力)は、彼らには無い。

そのことが意味するのは、彼ら自身がもうすでに(その本性の遺伝子から)LEDの本質そのものになってしまっていて、その事実が今の事実とキレイに重なり、分かりやすく、自らの心の無さを伝えているということ。実に寂しい現実である。

心が無いから進められる、人間味の無いLED化。心が無いから平気でいられる、心ある人たちが生きにくくなる生活環境。LEDにまつわる聞こえの良い話は皆、そうでなければならない直線上の、良いことのポーズである。

12/29

7.普通の人の病気の原因は、心身が辛くなるものを取り込んでも全く平気でいられる普通ではない人の健康である。彼が不調感を抱くのは、普通の人が理由もなく健康になる時。その自らの本質を隠すために彼は、困った人の困った状況で活躍し、人の思考に善人の印象を植え付け、困りごと(病気、争い、貧困)の原因を流し込む。

その類の存在たちが何より大事にする健康の材料は、不健康な食環境と不健全な価値観。もちろんLEDも、自分たちが病まないようにと、人を病ませるためにその場所で生み出されたものである。「人間本来」の中の主要な存在たちは、その本性の典型である。

12/28

6.自然と不自然とでは、闘う意思を持つ不自然に自然は負ける。しかし、時を経て、自然は不自然を浄化する。真と偽とでは、征服欲を持つ偽に真は力を失くす。しかし、真は、生命世界の基礎であるゆえ、それを持たない偽がそのままであることはない。安心の光と不安の光とでは、何より安心を嫌う不安に、安心は圧倒される。しかし、不安を知らない安心は限り無く安心そのものなので、いつしかその不安さえ包み込んでしまう。

不自然で、偽りと不安を備えるLED照明が在り続けられる理由を支えること程、生命として、時間の無駄づかいはない。先には無いものにぶら下がる理由も、人は持ち得ない。

12/28

5.電気店で、LED以外のものも置いてあれば、多くの人がそれを普通に購入すると思うのだが、LEDだけだと、消費者は「??」になる。大型電気店の実に危険なところは、消費者のニーズまで、製造元と勝手に作り上げ、そこへと人をむりやり誘導してしまうこと。頭の中は利益のみ。商売の基本を忘れ、人としての心ある姿勢(対応)も形ばかりとなる。

従来の蛍光灯を使用できる照明器具が全く無い電気店があるとすれば、それはもはや電気店ではない。冷蔵庫やテレビもそう。選択の機会を与えずにLED製品を強制的に買わせる販売店とメーカーは、人間として行ってはならないことを行い、あれこれと理由を付けながら、自らをごまかし、分を忘れる。それは、寂しく、情けない風景である。

LED家電品は、心身の活力を低下させ、健全な感性を持つ人を生きにくくさせるものである。販売店は、商品を売る前の人としての姿勢を洗い直しし、人々が生活する上で大切なものを提供する側の責任を実践する。LEDだけというのは、普通では考えられない、気味の悪い暴挙の類と言える。

共に支え合う社会では、人として、当然のように近寄ることのない発想がある。誰のためでもなくみんなのために生きることを普通とする人間は、その自覚もなく心ある選択をする。LED化を無理強いする電気店のその異常な様は、人間が人間らしく生きる社会を否定し、人としての在るべき姿を壊すものである。

12/28

4.消費電力(電気代)が少なくて済むと言われても、LED自体が本当の光ではないわけだから、それは当然なことで、その光を浴び続けることで心身が不調になりやすくなることを考えれば、支出は増え、LED照明は全く省エネではないことを人は理解する。

それに加え、修理は難しく、気軽に扱うことも出来ない。食べ物は生命力を失くし、音(and 匂い)を通す空間は不健康になる。

見た目や印象をどんなに繕っても、伝わるのは、細胞たちの自然な働きを妨げる不自然さと、その光ではない光で利益を上げる(立場的に得する)存在たちの冷たさ。着地点(止めどころ)を逃し続けるLEDは、自然界を破壊しつつ、欺瞞飛行をし続ける。

12/27

3.人の心を重くさせ、動植物たちの生きる自由を奪う発明品を決して発明させないという発明品があったとすれば、当然存在し得なかったであろうLED

この世には、調和と友愛の原因を絶えず創り続ける、地球という名の巨大な発明品がある。その地球が嬉しいのは、人も動物も、みんなが安心する、みんなのための発明。ノーベル自身もその賞自体も、この地球から見れば、完全なる不良品である。

12/27

2.みんなの未来を想う時、期間限定の価値観は要らなくなる。未来の人たちに、「なぜ、あの頃の人たちは私たちが要らないものを作り、私たちに無くてもいい経験をさせるのだろう?」と思われる程の悲しみは無い。未来に無責任な原因づくりを、人は経験できない。

生活用品の危険度断トツのLED照明には、人の思考を忙しくさせて、感性を鈍らせてしまう力があるため、その危うさが見えにくいまま使われ、未来への負の原因は固められていく。一度それが設置されれば、連鎖的に生命(細胞)世界の動きは止まり、みんなの未来が見えなくなる。思考レベルの無責任の次元を超えた、無責任そのもののLEDの世界。時代は常に、次の時代への責任を担う。

12/27

1.何となく不自然に思うところはあったけど、それがここまで自分と周りを不自然にさせるものであるとは思わなかったと後になって気づけても、崩されてしまったそれまでの原因を修正・浄化するには、相当の覚悟と時間が要される。

目が不調になり、疲れやすく、気力が出にくくなったことのその原因が、そうだと思っていた仕事上の人間関係によるものではないと後で知り得た時には、すでに抱え込まされたものも多く、本来へと戻るのもかなり難しくなる。

自然界を不自然にさせ、人間や動物から自然体の営み(細胞活動)を奪うLED。気づきは、健全な感性による、責任ある原因のそれでありたい。通らなくてもいい道は、通らなくていい。

12/23

50.結果が嘘でも、原因が本当であれば、何ら問題は生じないが、結果が本当で、原因が嘘だと、その悪影響は計り知れない。LEDはまさにそれで、環境や省エネのためという形ある本当の結果に全くそうではない性質の嘘の原因を引き連れて進行しているため、その恐ろしさは、軽く数百年先の人間や動物たちの生活環境にまで影響を及ぼす程の力を持ち得ている。

人間は本来、嘘を知らない。原因はいつもありのままであるから、そのままで生命の変化に乗り、様々に形を変えながら、それを次の原因へと繋ぐ。原因が嘘である分、結果を大事にしようとする、作られた本当の世界。生命が喜ぶ真実(本当)は、LEDのどこにも無い。

12/23.

49.大勢の人たちが、毎日移動手段として利用する、電車やバス。その場所がLEDになれば、健全さを普通とする心柔らかな人たちは、病院への予約チケットをムリやり手渡されることになる。それは、あってはならないこと。

生きる基本形が頭から始まる人を活躍させ、それが心から始まる人を動きにくくさせる、LED絡みの負の原因の世界。その光を浴び続けさせるということの、その許されない悪質さと、嘘のような無感覚振り。純粋な人の心は、友愛と調和の原因になれないことを悲しむ。

リラックスできる空間でありたい、電車やバスの中。長距離バスや特急電車(新幹線)がLED化されたら、この国全体が、心疾患の病棟になってしまう。

12/23

48.要らない頑張りを強いられても、何の疑問も持たずにそれを良しとして(大事な仕事として)従順に努力し続ける人は、未来の風景や自然環境のことを思うより、自分が仕える人が喜ぶことを喜びとし、感謝も好意も、その意識もなく個人的な関わりの中でのそれとなる。

それは、未来空間に負荷をかける原因を作り出す、不自然で無責任な在り方。その姿は、LED化が美味しい経営者や企業の喜びを具体化させ、未来の風景の悲しみの下地となる。

12/23

47.心無い専門家は、消費電力やCO2排出量を絡めた環境指数のようなものを導き出し、LED化の良さを訴える。しかし、数値化できない無数、無限の世界がこの世の自然を日々支えていることを彼らは知らない。そして、それらがLED化によって力を失くすことも。

生命力、気力、心、優しさ、感性、細胞の意思…。数値化できない世界に背を向けることで成り立たせる専門職であってはならない。

12/23

46.農作物の作り手は、出来るだけ新鮮なうちに消費者に食べてもらいたいと思う。しかし、LED照明のスーパーに並べられた途端、それらは皆、鮮度が落ちるよりも最悪な、全く違った性質の作物に変わる。

魚も肉も果物も、味はそれなりのものを出していても、(LED照明を浴び続けるうちに)同質の性質を帯び、同質の負の働きかけをする力を持つ。それは、細胞の世界では実に危うい原因となる、収縮と破壊、停滞と侵食。

人は、微妙な色(表情)の変わり方や味の違いからでもその危うさを理解するのだが、LEDを好む専門職の人たちは、体験的知識の質が常に個の思考の域なので、どこまでもそれを分かり得る普通を持たない。実に不気味で恐ろしい、LED品ばかりのLED照明の店。食べてもらうことで自らの役を果たす農作物たちが、可哀想。

12/22

45.食品を異物にするだけでなく、LEDは、衣料品や日用品まで、不自然で異様なものにする。敏感な人は、その色の変わり具合や、手にした時(触れた時)の感触の違いをすかさず感じ取る。生活空間が健康的である程、その異質振りは際立ち、人間らしさを応援できない物体となる。

LEDの光に何日も照らされていると、衣類も、帽子も靴も、独特の空気感を持ち、蛍光灯の場所では不似合いとなって、要らない緊張を心身に経験させる。LEDがスポット照明として使われている場所の日用品となると、柔らかな家庭環境では、妙な負の影響力を備える程の存在感を醸し出す。LEDの光は、照らす物全てを、それまでとは違う性質のものにする力を持つ。

12/22

44.自分の中に在る未来への原因が、理由の要らないみんなの喜びのそれである時、要らないものとして、LEDは姿を消す。そうではなく、不穏な原因がそこに居座る時、その無責任さがLEDを支える。

何でもないことである。LEDとの関わりは、自分の本当の姿を顕にし、次にどんな自分(原因)を選択するかという、新たな機会の1つの材料である。「本心と安心」でも書いているように、それは、その意識もなく人を病ませる存在の格好の道具となるものである。

LED化に力を入れる指導者(権力者)は、未来が最も嫌がる負の原因である)

12/22

43.自然界の自然な音や生命たちの声。そこにLEDを持ち込めば、自然な生(営み)を破壊する意思を持つそれによって、自然は不自然となる。耳に届く音は変わり、肌に感じる自然界の息吹きも元気の無いものになる。そして、無自覚に、そこに居る生命たちを追い詰め、環境破壊を行う。

それは、家の中でも職場(学校)でも同じ。目や耳の働きの、その細胞の意思のところから生じる不自然さにより、優しさを普通とする人ほど、自然なやりとりが難しくなっていく。いろいろな物に使われ出しているLED照明。それは、細胞たちの苦難の時を意味する。

12/22

42.知らずうちに本来の在り様が崩され、そのことがずっと先の未来にまで影響することになるLED。それは、健全さを嫌う存在が、健全さを無くさせられた大勢の人たちを、誰にも気づかれずに危ない世界(命の犠牲を強いられる状況)へと引き込んで行った、その昔の重苦しい風景の原因のそれとよく似ている。

事の本質との接点を避けたがる情報世界に、心ある人たちの声は無い(届かない)。人として、何より大切な未来への責任ある原因を忘れてはならない。

12/22

41.生命にとって大切なことやものをそのまま未来に繋ぐ(残す)という、人間には、それを意識するまでもなく淡々と実践すべく重要な責任がある。それは、思考や感情の健全な働きを支える心の意思でもあり、人は皆心ある想いを普通とすることの現れでもある。何気ない必要性も方向性もありのままで、そのための比較・対象(競争)といったプロセスを寄せ付けない望むべく選択(真の維持)が自然に為される。

そこでは、理由の要らない喜びが共有され、大切なこと(もの)が大切にされる理由も存在しない。頭は心の脇役なので、その基本が侵されるものが生まれることもない。

そんな人間の姿に安心する、地球に生きる動物たちとそれを支える太陽の光。LEDの世界は、その原因の意思も含め、その普通で自然な生命の営みとは融合できない、この自然界には要らないものである。心と細胞の反応がその理由であり、その事実を共有できない存在の心の無さが、もう1つの理由である。生命の選択に、LEDは無い。

12/22

以前は、引越しをする際、健康のための基本材料として、IHではなくガスレンジの部屋を人は選んでいたが、今は、「室内灯がLEDの部屋には入らないように」というフレーズが、基本材料の域を超え、人生の基本条件となるところに来ている。

これからどんどん増すであろう、人としての健全な感性を持つ人たちの意識。LED化を何が何でも進めようとする人たちのその本質が、2015年の無有日記のいろいろなところから姿を見せている。

12/21

40.ビジネスチャンスは、お金。体に良くないものでも、将来に負の影響を及ぼすものでも、売れて、お金になれば、OKとなる。それを、心無い権威と権力が保障する。

LEDは莫大なお金を生み、作り手や送り手に利益をもたらす。指導者もそれを喜び、未来を忘れる。一気に後退した、人の心と、望むべく社会の変化。未来地球のためにも、ビジネスチャンスの基本要素に、自然界の意思と人間性を組み入れてもらいたい。

12/21

39.人間の感覚器官の中で、目の働きが何より大事なのは、誰もが知るところである。それゆえに、目に優しい色が活躍し、目に負担をかけない光が人々の暮らしを支えて来たこれまでがある。

人間よりはるかに敏感な感覚を持つ動物たちの目は、光の色や性質によって影響を受ける場所も大きく、彼らの目の安心は、自然界の健康な姿そのものである。

そんなことへの理解が全く無い中で生まれた、LED照明。目に優しくないその光が存在すること自体、人間の欲の暴走と愚かさの具体化(象徴)である。人間にも動物にも、生命として決して馴れてはならない光がある。

12/21

38.光に鈍感でいるというのは、人として、通常はあり得ないこと。光に対する普通感覚を持つ人は、夜間、車を運転する時、眩し過ぎるLEDライトの光に運転しにくさを覚え、日々危なさを経験する。目に大きな負担をかけ、注意力を低下させるその光は、経験しなくてもいい問題事(事故)に人を近づかせ、そこから離れようとする緊張と怖れを生み出し続ける。交通環境を悪化させるだけのLEDの光に、夜の街が、不安と恐怖心のそれへと様変わりする。

12/21

37.自然界の調和のある風景を、自らの生命の意思で、健気に、ありのままに支え続ける植物たち。それを感じれば、木の幹や枝にLEDのライトを巻き付けて装飾を演出することはあり得ない。楽しみや喜びの質が低次のそれは、「みんなの喜びのため」と、内に秘めた破壊願望を形にする。そのままそれは、環境破壊へと繋がり行くものである。

12/21

36.LED照明が当たると、そこに在る物は皆、生命が育まれない(細胞活動が異常となる)LED品になる。LED大好きという人は例外だが、それに何らかの不自然さを覚える人は、LEDで照らされた食品や飲料水を摂るのは控えた方がいい。LEDの光を受けて自然界の異物となったそれらは、体の中でも異物となる。

LED照明に当たっていると、人は、不健全さがあたり前(LED人)となる。LED大好きという人は例外だが、それに何らかの他との不調和感を覚える人は、LEDで照らされた場所に居続けることは控えた方がいい。LEDの光に脳が馴染んでしまったら、それに反応する健全で人間らしい感性も無くなってしまう。

LED照明のスーパーやドラッグストアの食品は、普通の人が摂取してはならないものへと変質しているので(成分は同じでも、その働きかけの原因が全く異なるので)、そうではない店を利用する。LED大好きという人は、本質のルーツが同質なので、何ら問題はない)

12/20

35.LED照明に違和感を覚える人に対する、全くそれに違和感を覚えない人の怖れは強烈である。それは、自らの存在の性質が他者に伝わってしまうことを意味するゆえ、そうはならないよう、LED化の正当性を徹底的に言葉にする。そして、より一層、自らの本性の危うさを顕にする。

みんなが使うものや触れるものが、権威や情報量で下支えされる時、その殆どは、必要とさせられている(要らない)ものである。その権威と情報量が並外れているLED。そのことが意味するのは、人間社会だけでなく、自然(地球)環境にとってもそれは要らないものであるということ。常識の出発点は、いつの時も健全な感性である。

12/20

34.数十万から数百万年単位での大規模な変化と、その中で数万年単位で生じる小規模な変化。地球規模の変動は、太陽に生かされる地球という巨大な生命体が息づく様であり、その鼓動による、年に数cm程動く大地のいろいろな場所の変化によってもたらされるものである。(年1cmでも、1万年で100m移動する)

当然そのことで気候も影響され(太陽の動きへの反応は大きい)、現在の温暖化とされる様も、地球の自然な営みの、自然な現象となる。つまり、地球温暖化を防止するためにLED照明を使用するということそのものが全くつじつまが合わず、二酸化炭素の削減においても、地球のこと(望み)を無視した人間主体であってはならないということ。

もちろん、自然界と共に生きる上で、温室効果ガスの排出量を減らすことは大切である。そのために、電力(電気)を使いたいだけ使う姿勢を修正する。要らないものを作らず、要らない時間に身体(電気)を休める。地球大自然の未来に、LEDという負の原因を残すことはあってはならない。

12/20

33.LED照明の危うさが分からない人は、一部屋だけ蛍光灯を残し、買ってきた生野菜や野菜を主とした新鮮な惣菜を2つに分けて、蛍光灯とLEDの二部屋に別々に置いてみる。体の中で仕事をする敏感な野菜ほど反応し、その姿(と味)の変わり様に、LEDの恐さを知り得ることになると思う。(添加物漬けの物は、LEDと同じ細胞を破壊する性質を持つので、そのままである)それでも分からない人の頭は、きっとLEDで出来ているのだろう。

12/19

…と、LEDをテーマに書き続けている、12月の日記。LEDが心地良い人の思考は、それを言葉にする力を持ち、LEDが苦手な人は、その感性が言葉になりにくい。でも、言葉にならない素朴な想いをその意識もなく大切にするのが人間。感じることは、意見であり、何気ない違和感は、貴い姿勢である。そして、そのままでいて、確かな原因でいる。

12/19.

32.どんな人が、どんな姿勢でLED化に関わっているのだろう? やむ無くそうである人。何よりそれを大切にする人。よく分からない人。

体の中で栄養にならない電子レンジ食品を食べ続けたり、IHを使って淹れたコーヒーを飲み続けたりしても、全く平気な人がいる。差別心や嫉妬心を強く持ち続けても、心身は何も反応せず、むしろそのことが元気の源になる人もいる。そして、そのどれも辛くなる人がいる。

感性の様が際立つLEDは、その人の思考や感情の奥に潜む本当の姿(本質)を顕にする。それへの鈍さは、鈍くさせられた側のそれであって欲しい。

12/19

31.不安を燃料に(不安の裏返しの頑張りで)何かを求め、どこかへ向かおうとする人は、傍から見ても様々な性質の感情が漏れ出しているのを分かるが、不安をしつこく固めてそれを無意識の奥に幾層にも重ねて沈めている人は、身を繕うことも体裁を整えることも上手く、人知れず人を不安にさせて(人の不安を操って)、思い通りに個の欲求を満たそうとする。

そんな彼らが数字(データ)や理想を前面に事(LED化)を進めようとする時、その心の無さによる不穏な原因により、人は力ある嘘に付き合わされ、そこに在る不都合な真実を知る力を無くす。

その不安の塊は、澄んだ水の流れる川底でその姿を次第に変える、粘土質の堆積物。「LED感染」は、人の変化・成長を阻むその滞りを砕き、浮き上がらせる仕事をする。知るべき事実と知り得る(知らされる)事実との違いは大きい。

12/19

30.電子レンジで温めた水を冷まして植物に与えると、それは枯れてしまう。IHで調理すると、生命源と繋がる細胞の意思が著しく抑えられてしまい、心身のバランス(代謝、免疫)は崩れる。

LEDの光を浴びるとどうなるか? 心柔らかな人は、感性を潰されて元気を失くし、心を持たない重たい人は、妙に元気になる。自然界と融合できないものは、自然体でいる人を生きにくくさせる。心を持たない人は、人の心を怖れ、あの手この手でその動きを抑え込もうとする。

12/18

29.人は、自らの在り様が性分であり本質であるから、「私は良いことをしています」なんてことはまず口にすることはない。優しさも、それを普通とする人は、その手前の原因がどこまでも普通なので、意識がそこに向くこともない。

電車のドアやスーパーの玄関に貼ってある、「環境に優しいLEDを使用しています」のシール。実際にはそうではない(環境に良いことではない)証である。環境への優しさを人と共有するのであれば、「LEDは使用していません」だけでいい。

12/18

28.何も感じない(分からない)ことが1つの個性であり、価値観(となるもの)であるとすれば、せめてその域に留まっていて欲しいのだが、利益優先という個人主義の空気が蔓延すると、人間本来の姿勢は簡単に押し潰され、健全な感性(違和感)と健康的な思考を軽んじる存在の思惑が妙な力を持つようになる。

人間には、生きる原因の質を成長させる、生命としての人間と、それを無視する、人間だけを生きる人間の二通りある。地球が嬉しいのは、もちろん普通の人間である前者である。

12/18.

27.売りたい側の、異様な思惑。買わなくてもいいと思える側の、素朴な思い。

LEDが普及しないのは、人としての普通が、その普通ではないものとの融合から離れていようとするから。しかし、権力と繋がる売りたい側は、それを許さない。利害関係で結びつく会社を巻き込み、力で押し、人々の普通を壊していく。

LED化は、世にも珍しい、生命にとっての悪事が許されてしまう社会(現象)の模範例である。

12/17

26.電気店やスーパーの家庭用品売り場に行くと、LEDばかりになっている。(良心的な店はそうではないが…)それだけ、嘘と欺瞞が大きいのだろう。その力の入り方は、人間らしさゼロの証である。

生きる上での選択の自由。その質が人間本来を基に維持されることの大切さ。それを抑え込み、力無いものにしようとする存在の病的な恐怖心は、隙を見て、凶暴な権勢に変わる。

その全てが、心ある人たちが経験しなくてもいい経験である。要らないものは、必要とさせられるものだけではなく、それを促そうとする存在の、内に秘めた強力な否定感情である。

12/17

25.白熱灯や蛍光灯で何ら問題が無かったのは、人間の普通感覚に充分にフィットするユニットの耐久性と電球の寿命があったから。そして、子供でも扱える使いやすさ。

だから、それよりもずっと長く交換しなくてもいいという理由を、人は特に長所とは思わない。電球は、空間を共にする友人のよう。その感覚は、そのまま環境に優しくなれる、人としての普通。何かと負担増になるLED照明は、家庭的な空間には最も相応しくない物である。

12/17

24.要らないはずのものがいつのまにか無くてはならないものになってしまった時、その代償は大きい。それが細胞や生命体に影響するものである時、言いようのない辛さは時代を連ねて続き、未来に大きな負の遺産を残すことになる。

邪な思惑とその負の原因の働きかけが、IHの時を遥かに上回るLED。どこに居てもLEDのライトを浴びざるを得なくなる時、未来への責任ある想いは力を無くし、人は、本来に戻れなくなる原因を蓄積させることになる。

12/16

23.電気代が得すると言われても、照明自体に温もりも優しさも無いわけだから、気持ちが損した気になる。少しのお金より、たくさんの健康を大切にしたいから、不自然・不健康な光には触れたくない。健康でいると、自ずと支出が抑えられるので、それだけでも相当な省エネに繋がる。

12/16

22.物を大事にし、素朴な感覚をそのままに自然体で生きる人は、それ自体が環境に優しい暮らしとなるので、不自然さばかりが伝わるLEDの危うさに敏感に反応する。物の大事の仕方が、自然界が安心できない身勝手なものである人は、その自覚もなく環境に負荷をかける暮らしを常とするので、LEDには何も感じず、彼らにとってのそれは良いものとなる。

本能的にその原因の嘘を力で見えなくさせようとする存在たちの危うさ。そもそも、LED化を推進すること自体、その原因の性質全てが出来すぎた嘘である。

12/16

21.環境に全く優しくないLED。環境は、目に入り、目に映る、自然の世界。LEDは、その目には優しくないわけだから、環境の中には在ってはならない(居られない)ものとなる。それは、誰もが分かる普通のこと。

環境に全く優しくないLED。環境の主人公は、そこに生きる動物たち。LEDは、その動物の最小となる虫たちに嫌われるわけだから、環境が怖れる存在となる。それは、誰もが分かる普通のこと。

環境に全く優しくないLED。環境は、太陽に生かされ、共に生かし合う生命たちの自然な営み。LEDには、その生かし合う心が無いわけだから、在り続けようとする意図が環境のためではないことが分かる。それは、誰もが分かる普通のこと。LEDは、環境への配慮が全く無い擬い物である。

12/15

20.感じるままに本来を生きる純粋な動物たちは、LEDの照明に危機感を覚え、逃げようにも逃げられない中で、やむ無く命を削られていく。植物たちは、装飾や夜間の照明に使われるその光を浴びさせられ、これまでの永い歴史の中で最も辛い時を経験する。それを知る、心柔らかな人たちは、LEDのその重たい原因の風景に覆われ、動きにくく、生きにくい時を過ごす。

純粋さとは融合できないLED。それは、純粋な生命たちを育む地球環境の大きな悲しみである。

12/15

19.新しく開業したお店に行ってみたけど、照明がLEDであったためにがっかりし(心身が拒否し)、二度とそこには行けなくなったという人は多い。IHand 電子レンジ)で調理するのを知らずに入ったカフェ・レストランで、体調を崩す人もいる。彼らは皆、平和な社会と健康的な暮らしの、その貴い原因のままでいる普通の人たち。LEDIHも、健全な生活環境を妨げる、不気味な不純物。争いや不健康の原因でいる存在(の本性)を燃料に、その居場所を維持し続けようとする。

12/14

18.防犯や治安のためであれば、街灯にLED照明は使用できない。

安心を求める不安な親の、行為としての優しさに、子供の精神は不安定になり、安心そのものの何でもない親の優しさに、子供の心は健全で元気になる。LED照明の性質は前者と重なり、安心から縁遠い人に支持され、行為としての自己満足を演出する。そして、問題事(犯罪、事故)に繋がる重たい原因を、人(子供)の精神に植え付ける。(優しい人は、その優しさがさりげない行為となり、そうでない人は、優しい(とされる)行為でそうあろうとする)

街灯は、人が人として、共に時や空間を癒す際の、その支え役でいてくれる安心の明かりでありたい。その中で、人は、自らが安心そのものでいる責任を実践する。

(街灯のLED化が省エネや環境のためであるとすれば、それこそ形を持たないその影響力を無視する、全くの見当違いである)

12/14

17.感じる人は、そのままでいることの大切さを知るので、そのことを人に分かってもらえたらと思う。感じない人は、それがどこかで望ましいものではないことを知るので、それが正当であると人に分からせようとする。とかく感じないことは意見になりやすく、感じることは意見になりにくい。

情報伝達の速さや量に比重が置かれ、その質や原因への責任が無視されるネット世界。LED照明に違和感(辛さ、気味悪さ)を感じる人たちの健全さが、そこで大切にされることは難しい。

12/14

16.植物や動物本来の生命活動を不自然なものにするLEDは、当然人間にも様々に影響を及ぼすものであるが、細胞に取り込まれる食べ物の栄養までがその害を被ると、将来、見た目は普通でも中身は全く異常な状態の体を持つ人や動物が生まれることになる。(科学的根拠(因果関係)の次元を超えるその負の原因は、具体化した時には手遅れである)

食材を保存する場所(冷蔵庫etc.)にLEDライトが使われているとすれば、それはそのまま、理由の分からない辛さや悲しみの姿の見えない原因となり、心身は少しずつ蝕まれていく。食物を扱う店のショーケースもそう。生命を危ぶませる形無き原因の悪循環は、LEDライトの得意技である。

12/14

15.市販の物を自由に購入して、簡単に取り付けられ、電球の交換も、業者による修理もムリなく普通に出来る、従来の室内灯。省エネの基本は、自分で簡単に扱えることであり、その後のフォローが自然であることである。そこから大きく離れ、故障したら買い替えなきゃならなくなる、LEDの室内灯。それは、省エネに逆行して心身に負担をかける、重く不健全な材料である。(広がる光の白熱灯には、心が安心する温かさがある。そうではないLEDは、不安の光である)

12/13

14.さりげなく自然体で心のままに生きている人は、思考による判断の力が弱いので、その責任ある直感が、あたり前にLED照明を遠ざける。自然な感覚を育むこともなく知識世界に住み続ける人は、心による判断が無いに等しいので、その無責任な思考が、好んでLED照明を使用する。

あまりにさりげなく、自然にオープンになる、その人の原因の風景。もちろん前者は、世を健全にし、人の心を生かそうとする。後者は、世を病ませ、人の心を不自由にさせる。

12/13

13.車のLEDライトは、光を大切にする人たちにとって、身が縮むような公害である。どう見てもその光は、攻撃的で威圧感があり、安心・安全とは無縁のように思える。近づくことも、見ることも恐れてしまう車の存在に、気持ちは不安で一杯になる。

光は、照らした物との間の空間を、自らの性質に見合ったものに変える。遠くからでも多くの物が照らされる車のライト。そのLEDの光は、そこに在る全てに要らない緊張を与え、空間から安心と余裕を奪う。自転車も然り。それらは、不健康と問題事(事故)の原因と繋がるものである。

12/13

12.LEDの照明に敏感に反応し、様々な影響を被ってしまう植物ほど、人間の身体細胞にとってとても重要な仕事をしてくれる貴い生命たちである。それは、この自然界が、いつでもどこでも健康と平和をあたり前とする原因によって成り立っていることの現れであり、そうではない性質のものに覚える感覚は、それを大切にするための意思表示となるものである。

人間が、不自然なものに反応できなくなってしまう時、すでに多くの動植物もそれに連動し、本来ではなくなっている。敏感さを保ち続けてくれているある種の植物や動物は、言わば、そのことを切に訴え続ける最後の砦である。

12/13

11.水族館の魚たちのストレスは、まさに異常事態である。敏感な種ほど、体の色が変わったり、泳ぐ力を失くしたりし、その理由を理解しようとしない人たちは、命を終えた魚たちを変死扱いする。

生き物の生命力を弱化させ、神経をヘンにさせるLED照明。(もちろん人間も、健全な感性を持つ人ほどそれを被るが…)人間の欲のために犠牲となる彼らは、海を忘れさせられ、あり得ない負荷をかけられ、生存本能まで異様な物体(光)に支配される。

植物の悲鳴の比ではない、魚たちの苦痛。海の仲間たちもそれに同調し、悲しみの中にいる。(家での水槽へのLED使用は、魚たちの恐怖の始まりである)

12/12

10.生命力が少しずつ力を失くしても、その過程を自覚するのは難しい。気力が湧かない時の理由を、その手前で処理することも難しい。ただ、それぞれのその時において確かなのは、体内の水分が、人間の思考(技術)では触れられない次元でその質を変えてしまっているということ。

心の性質や感性の柔らかさが計測出来ないように、それらに瞬時に反応し得る水分の変化も、人間の知では分かり得ない。心と感性が健全である人ほど、細胞に負担をかけるものに体内の水分が反応する。

どんなものにも水分は含まれており、皆人間の思考の域には収まらない反応を、LEDを通して生じさせる。それは、原因不明の問題事や心身の不調を引き起こす力にもなり得るもの。飲料水や食べ物はもちろんのこと、LED照明を生命に触れ(浴び)させてはならない。

12/12

12月の無有日記は、LED関連のみで行き、「別の日記」では、それ以外のものを書く。たぶん。今月はすでに9個(+5)書いたけど、まだまだ続く。「LED感染」のページにどれだけ集まるか、全く分からない。

LEDは、それがこの地球に居続けるうちは更なる異物が増えて行くであろう、実に恐ろしい、次元の異なる、生命世界の病原菌のようなもの。それはまるで、「連繋の意思」のある場面の再現のよう。永い間続いた負の歴史にぽっかり穴が開いてしまったような現代、その存在たちは、力が入る。LED化は、まさにそれ。あれもこれものいろいろなことが、より顕になる。

そんなだから、201512月、LED感染症にかかってしまったことを全く分からない人たちのその原因の風景を言葉にする。縄文時代を前半と後半に分け、その後半を三分割して、1,2,3と順に浄化し、そのEWをこの「LED感染」に乗せる。大切に出来なかった大切なことが、自由になる。元気で、快活に、それは動き出す。

12/11

9.環境のことを大切にするのであれば、環境に優しい自分でいるか、今日までの生活の中身を観察し、然るべき行動をするだけで充分である。

動物たちの苦痛は、自然界(地球環境)が最も辛くなる現実だから、クローゼットに毛皮やレザーの衣類、ファー等があれば、その愚かさを知り、意識を変えていく。肉料理大好きも、それを支える状況が繋がるのは、環境破壊である。

IHで料理し、電子レンジ食品を普通に食べていれば、それは生命力の無い物や価値観(感情)が循環するだけでなく、蘇生型の微生物が住めなくなる不健康な空間を広げることにも繋がるので、そこから離れ、生きた(体の中で栄養になる)食物の摂取こそ環境保護の基本材料であることを知り、実践する。車や家電、電子機器など、新しいものを執拗に求める自分がいれば、それこそ恐い程環境を破壊していることとなるので、その全ての原因を修正することである。

新しい製品に、省エネや環境への配慮が施されているとしても、製造プロセスでの環境負荷を考えれば、長持ちする物には比べ物にならず、更なる電磁波が放出され続けることも、環境は辛いものがある。スマートフォン画面をいつも見続けている人の「環境に優しく」も、偽善と同一である。そんな中、真に環境を大切にする人は、LED仕様が環境対策であるという大きな欺瞞を、体験的に知ることになる。

12/10

8.植物の生育に影響を及ぼすLED(夜間照射)。送り手は、そうならないよう研究する。目(網膜)への悪影響があるLED(青色成分)。送り手は、そうならないよう工夫を促す。LEDの光に触れ続け、体が疲れやすく、気力が出なくなる人がいる。送り手は、それは(健全な)少数派だから無視する。

心身や環境が、影響を受けていると分からないくらい影響を受けるLED。その正体は、問題事を作り出す世界とその原因の性質を同じくする、招病上手な悪徳照人のようである。

12/09

7.LEDが伝えられてから、こんなところにまで、と今まで無かったところにまでしつこいぐらいLEDが使われ出し、当初の謳い文句がその大量使用で覆され、まるで侵食されているような煩さがある。何のためのLED? 向かうところはどこで、そこへとどんな原因を連ねるのだろう?

結局、社会全体の電力消費量は増え続け(エコに逆行)、人々は慢性的に疲れを溜め、環境は気味悪くなっている。思考型の負の原因のトリックは、一度かかったら外せなくなる。

12/08

6.使いたいだけ電気を使う姿勢をそのままに、昼夜休み無く営業するコンビ二の、「節電のため」「地球にやさしく」とLEDを使う偽善。その気があれば、その前に他にすることが…。何より転写しやすい性質のものを扱う立場とすれば、自動販売機(飲料水)にはLEDを使う気にはなれないはずなのに、「省エネ」「環境保全」と独善(欺瞞)に走る。その気があれば、設置を減らすことも…。

ポーズは、どこまで行ってもポーズの域。本心はそうではない。そんな存在たちを活躍させるLED。不気味で冷たく、愛情の無い光が、同質の場所で妙にフィットする。

12/07

5.省エネを考えるのなら、良いものを長く使うことを皆で心がけ、消費経済のサイクルをゆったりとしたものにする。求めさせられているものに敏感になるだけでも、廻り回って全体の消費電力は大幅に減り、必要とさせられているものから離れるだけでも、生産のムリ・ムラ(ムダ)が無くなっていく。

LED化は、良いものに心(細胞)が反応できなくなり、要らないものや経験しなくてもいいもので社会が溢れてしまう原因となるものである。省エネは、健康的な価値観と健全な暮らしの中に普通に在るもので、求めすぎず足ることを知り、体を動かし自然と親しむ、それだけでも、LED化の何百、何千倍もの効果を生むことになる。何でもないあたり前の姿勢である。

12/06

4.明かりは、元来、温もりと安心を覚えるもの。その役を全く果たしていない、突き刺すような冷たさと要らない不安を抱かせるLEDは、明かりの基本を持ち合わせない異様な世界。夜道で、LEDのライトに出会す時、細胞の緊張と抵抗が思わず目を閉じさせ、危なさを経験する。明かりは、自然な明かりがいい。

12/05

3.光は、熱(温かさ)とセットで、その存在でいられるもの。そこには光ならではの活動が為され、様々な生命体も、それにより、共に生きることになる。光は、暗闇の中での安心であり、その温もりは、優しさである。光は、あらゆる生命体にとって、いつの時も喜びである。

12/04

2.敏感な感覚と繊細な神経を持つ虫や動物がLEDのライトを避けたがるのは、紫外線云々の低次の理由を大きく超えた、生命としての純粋な意思。これからもずっと、これまでのように自分たちの本来の生命活動を大切にしたいから、それを共有できない原因の存在からは離れることになる。

形ある現象から何かを学ぶ時、学び手本位では、何も学ばないと同じ。動物たちの気持ちになること。自然界の意思を感じること。動物たちは本能的にそれを知るから、LEDの本質にも反応し、そのままでいようとする。

12/03

2015

1.太陽の光は、活力を生み出し、月の明かりは、安心を届ける。人間が使う光は、それらの愛情と重なり合うものでありたい。

自然界の優しさとその力には、個の思惑も、直線的な思考も通用しない。ただそのままでいて生命は生かされ、時は癒される。そこでの人間発の明かりは、その自然界が笑顔になるものでありたい。

 

12/19

原因不明の病気への対応に、医療機関は困ってしまうけど、それよりも困るのは、病気が原因不明で改善・回復してしまうこと。つまり、病む原因も、改善する原因もどこにでもあり、それが見えにくく、把握しにくくなってしまっていたということ。

そんな原因の世界が、近くUPする(×20ぐらい)LED関連のセンテンスで、いろいろなところから原因不明(?)で動き出す。この世の病みの大元となる世界と密に繋がる、LEDの原因の風景。それに何の違和感も覚えさせない手法(それ以前からの下地づくり)は実に巧妙である。本質を持たない、残人さそのもののば獣のような存在たち。2015年ラストとなる「LED感染」の原稿を、リアルタイムで、多くの人たちに読んでもらってほしい。私たちは、普通感覚を普通とする、どこにでもいる(はずの)普通人であるから。

12/18

これまでの時代の負の連鎖の中で人々の生きる自由を奪い続けてきた、多くの心の無い存在たち。本質の世界を恐れる彼らは、無視を力に、無意識の影響力で不穏な世の原因づくりをする。もし…ということはないが、この時代でなかったら、無有日記は存在しない。それぐらい今は、人生のチャンスではなく、生命のチャンスの時。

本来の自分が力を無くせば、他者を病ませるように巧く病まされ、そうさせた存在が良い人となり、自分は悪者になる。そして、その自覚もなく、負の連鎖の材料となる。そんな時を何度も経験したこれまで。人間には、要らない経験というのがある。

12/18

白米も白いうどんも、その元を辿れば、白蛇を祀る(崇める)蛇と同質の脳を持つ存在たちの、不健全づくり。自分たちには、栄養の無いものが栄養だから、やたら白く、色を削り、住みやすくする。

神社関わりの白は(正月の諸々も)、皆白蛇さん家の白塗り妖怪の姿。そして、白色の大蛇が口を開けた時…。その赤は、赤く染められた鳥居と密に繋がり、垂やしめ縄とセットで人の純粋さを食べ、自分に正直でいられなくする。素朴な疑問も健全な違和感も、皆封じ込めて、押し潰し、人々を逆らわせずに仕えさせる。昔の残虐な光景と繋がるそれらは、人を欺き、支配する側にとって、かなりの威力である。

12/17

このところの「復活への道(2)」の番外編を通して、2月頃に書いた「この国の病みの始まり」のことを意識することが増え、改めてその時の風景の中に入ってみる。そして、そういうことだったのか…と、あの時には全くその必要性が無かった、この今だからこその(この今に一気にすべき)アプローチができ、微調整を加える。その理由は、言葉にはなりにくいが、ここまでのその原因のプロセスには、ほんの少しのズレも許されない生命世界からの厳しさのようなものがあったということ。主導権は、無限分の一の原因(生命)の世界からの必要性。理解はより深まり、次は変わる。

12/17

やまたい国が、実はやみたい国で、それは誰も関わりたくないじゃまたい国だから、負の連鎖をもうやめたい国となって、終わる。

大勢の人たちが苦しみの中で命を終えることになる戦等を喜ぶのは、各地に在る神社と鳥居の妙な力でその危うい本心を隠す存在たちと、戦の終了を待ちわびる蛇と烏。同質の神経を持つ彼らは、様々な風習と伝統の中で仲良く住み続ける。

この国は、蛇のようで、烏のような人間が幅を利かせるオカシな国。力を持つと、自分のために多くの人を犠牲にさせようとする彼らの本性が、その残忍さを具体化させる。

そろそろ、2000年間の思い込みから醒めてもいい頃。でなきゃ、普通感覚の人間が居なくなってしまう。

12/16

LEDライトに何の違和感も覚えないのは、その人間本来の大きく崩れた無意識(本性)の危うさにより、健康的な感覚的判断が為されず、感性も想いも、心あるそれではなくなってしまっている現れであるから、そのことをしっかりと学び、その責任ある実践として、自分たちとは違う、健全で心ある感性を持つ人たちのLEDに対する素朴な違和感を尊重し、優先させ、他の生命たちのためにも、それを要らないものの1つとして、彼らの何気ない感覚を大切にすることである。

地球のために考える人間ではなく、地球が喜ぶ人間でいること。それは、地球自然界との融合を意味し、共に生きる動物たちの辛さや悲しみがそこには無いことを基本とする。動物たちの声無き声を無視してはならない。感性を不健全にさせたまま思考だけで生きる人間の不自然な姿を、地球は喜ばない。

12/16

心が育まれていれば生まれることはなかったものが、今は存在し、それが姿を消すこともなく増え続けて、不穏な空気を作り出しているその代表となるものが創価学会であることは、心ある誰もが知るところ。公明党が連立に参加し始めてから、この国は、取り返しのつかない方向へと突き進み、彼らと質を同じくする政治家たちが力を持つオカシな世の中になっている。その誰もが知る空気感の危うさ。大ちゃんの正体は、別のところに書いているが、彼の本性の遺伝子は、至極恐ろしい。人に、決して心を育ませないその力の源は、「復活への道」関わりである。公明党のポスターは、まるで、かつての残虐非道な風景で命を奪われた心ある人たちの悲しみのようであり、会館は、その場所と繋がる、悲劇(惨たらしさ)の象徴のよう。切なさと苦しみが伝わってくる。

12/15

LEDIHのことは、「本心と安心」ですでに触れたけど、そういや、無有日記の中で何度か書いていたな…と思い出し、それらを「LED感染」として1つのページに集め、近くUPしたいと思う。動物以下の人間の世に嫌われ、人間以上の動物たちの自然界に好かれる「LED感染」。UPの前に、いくつかそれ関わりの日記を書き、数を増やして行こう。出来上がったら、冊子にして、是非、鈍性丸出しの人たちの元へ。永い時を経て、せっかく本来に戻りつつある脳を、これ以上ヘンにさせることはない。

12/15

18)数百年前に生を持った人は、無意識の中にその時の経験の性質を記憶していて、2千年程前に何度か生を持ったことのある場合も同様に、その時々の自分の姿を抽象的に記憶する。

その記憶の殆どは、普通ではいられなかった時の違和感と、要らない感情。心と密に繋がる脳は、人生に何らかの支障を来すことがあってもそれを携え、その性質全てを無意識から解放できる時を創ろうとする。それをその意識もなく妨げる、心を持たない脳は、その負の原因を無意識に閉じ込め、そこに在る危うい感情で人の動きを止める。

「心の遺伝子」の風景を知る人たちは、地球感覚の責任を普通とするゆえ、その実践を通して彼らならではの原因を連ね、そこに、真の普通(真実)の本質を乗せる。それが簡単ではなかった永い時の記憶をここで解放し、復活への道を歩み出す。

連繋の意思は、永遠である。生命の歴史もそう。そして、永遠は、いつの時も自然で柔らかく、滑らかなものである。

人は、柔らかいから人であり、ありのままの原因を自分とするから、人間でいられる。未来のために、かつての未来のこの今にこれまでを溶かし、「心の遺伝子」の風景をここに重ねる。201512月。連繋の意思が、この場所を通り抜ける。

12/14

17)現代において、人が縄文土器に触れられることは偶然ではない。そこから伝わる遠い昔のその原因に感応できることも、不思議ではない。そう、それは、あの時の自分が作った土器との再会。あの時の想いが深くから癒される、この上ない喜び。みんなで作った未来へのメッセージが、1万5千年もの時を超えてここに繋がる。無有日記は、自由に時空を旅する、その案内人。生命の歴史の見通しもずっと良くなっている。

3000年程前から現在に至る、生命にとっての大切なことは、2015年の無有日記の中で書いている。ここでは、それらがなぜそうであったかの、その原因となる重要な部分を、これからへの必要性を元に、形になろうとするところだけ言葉にする。

大切なことは、それを知ることではなく、それを知り得る自分でいることを知ることで動き出す、そのこと(大切なこと)による変化である。そこには肯定も否定も無く、ただそれを体験するという事実だけがある。当然、真実は知識(思考)世界に居続けることはなく、知識になり得ない事実への理解を通して、それは普通へと姿を変える。

そして、ここにその真実があり、変化がある。この文章との出会いを引き寄せた原因が生命としてのそれであることで経験する、これまでにはない力強い変化。そのこと自体が真実であり、何よりも大切とすべき、新たな事実である。それにより、永い時を経て、やっと脳も本来になる。

12/14

この時期、無有日記がUPされる度に、要らないものが動き出し、居場所を無くしていく。いつのまにか軽くなり、頭もクリアになる。

心身の不調の原因って、結局は、目には見えない負の影響力を及ぼす存在の、その無意識の重たさ(危うさ)と、そこに在る残忍な感情の記憶。心が辛くなる原因は、心を持たない存在の心ある装いから自然と伝わり出す、その本質(本性)の姿。そして繰り返すのは、その原因が無視されたまま、対処されてしまうから。

心を病んだ柔らかい人は、無有日記で変わり出す。柔らかい人の心が違和感で心(という名の頭)を病んだ人は、無有日記で○○になる。いずれにせよ、無有日記を活用する。

12/13

…という間に、「連繋の意思」もラストへ向かう。何気に淡々と、さらりと終える。何のこと?の連続で進行したそれは、意外に簡単に書き進めることが出来た。一切の知識が通用せず、経験もじゃまできないから、集まり出す原因の風景は、どこか楽しげだった。とてつもない厳しさの中での歴史だけど、それをひとまとめに…というタッチに、皆喜んでくれていた。ふと、たくさんの人たちが縄文土器を作っていた当時のことを思う。この2015年の無有日記の流れは、どこまでも面白い。

12/12

16)3000年程前、ついにそれが現実のものとなる。この国のそれは、「再生」の中に書いているが、この時、世界各地で次々と恐ろしい現実が引き起こされる。この国では、それまでの時代が終わり、次第に、「生命の歴史」の前半部のような風景へと向かっていく。歴史的には、縄文時代の終わり頃とされるその時であるが、内容としては、人間本来の脳が完全に力を無くした時である。その後に続く、心を持たない存在たちによる負の歴史。弥生時代も、大和や飛鳥時代も、残されたものではなく、残り得なかったものと想いを重ねる。

時をほぼ同じくして、蛇の中に居た意識体たちも、人間の脳に入り込む(人間になる)。心の無い彼らは、残虐非道な人生を普通とし、すでに脳をオカシクさせた(させられた)人を巧く操り、新たに生まれる心ある人たちの全てを支配する。転生には相変わらず関与し、病みを増幅させる。(平安期頃まで、ある残酷な必要性から、蛇のままでいたり、交互に変わったりする存在もいる)

唯一その影響を受けなかったかの存在に対しても、彼が何処にいてもすかさずその姿(本質)を見つけ、力で抑え、命を奪う。(「この国の病みの始まり」「再生」「復活への道」を参照)実に酷いことである。これが今いるこの場所の、かつての風景である。そして今尚、その本性の遺伝子をそのままに、この時代仕様で暗躍する彼らの姿がある。それは、無有日記を通して分かり出す。

12/11

15)今から5000年程前、その存在たちは、自分たちの力(脳への破壊力)が全く及ばないかの人間への決定的な打撃を具体化させるべく道づくりを進める。それは、かつて蛇の脳に入り込んだ時と同じようにして、蛇との融合を密にする(蛇化した)人間の脳に入り込み、武力と数の力で彼の命を繰り返し奪うというもの。それにより、蛇のような人間として効率良く世を病ませられ、支配欲も満たすことになる。蛇の時とは質の異なる快楽を実行することもでき、彼らにとっては、より本能を活躍させられる場が生まれる。

永い時をかけて、蛇に入り込んだ存在たちがその下地を作ったことで、人間の脳に入り込む手段(構想)が現実味を帯びる。理由の分からない辛さに耐えながらも、かろうじて争い事から縁遠い時代を連ねて来た人間であったが、その脳は彼らの本性に同調させられてしまう状態になっていたため、予期せぬ重大な出来事として、その可能性は高まる。

それを強く願うのは、彼らの燃料源となる次元層(天体×2)に居る、凶悪な意識体。思いがけず強い抵抗に遭った以前の記憶を持つその存在たちは、その質を変えつつある地球自然界の様を喜び、その時を待つ。

12/11

何か大切なことを伝えようとしているのだろうが、それとは全く異なるばい菌級の病みだけが伝わり出す、公明党のポスター。(選挙期間でもないのに…)頭で何を考えても、その元となる原因の性質が病みそのものだから、彼らが動き出すだけで、負の原因が未来へと流れ出す。

心が無いからそのポスターを貼れる人たち。この国がどれ程病まされているかがその風景からも分かり出す。それは、見た目は普通でも、中身は全く違う存在たちの典型。伝わるものに無感覚でいられる悪質な存在は、良いこと(良いとされること)を伝えようとして、その腹黒い本性を隠すもの。公明党のポスター(and 創価学会の会館)は、性悪の代名詞のひとつである。それはまるで、合戦場で出番を待つ、蛇やカラスのよう。

12/10

14)我が物顔に時代を暗躍し、その凶暴さに支配欲を絡める蛇らは、数百年の荒々しい時を何度も積み重ねる中、人間らしさを鈍化させて、自分たちと同じような感情を持ち得る人間を増やす。独自に進化させた脳組織を持ちながらも、その使用を忘れさせられた人間が、自分たちと融合しやすく、空間を重くさせる無意識を働かせていることにも、喜びに浸る。

いつしか、蛇に愛着を抱き、蛇のすぐ近くで生活したがる異常な人間まで生み出し、自然界の生命たちを自在に病ませられる土台を固めていく。この地(国)でその核となる存在(意識体)は、よりその質量を高め、密度を濃くし、その影響力を巨大化させていく。

12/09

13)それでも紛争は起きず、人々が互いの人生を奪い合うことも無く、形ある風景としては平和が続く。それだけでも良しとする部分で、それではいけないと思う部分を補い、人々は、生かし合い、支え合う普通を維持していく。

頭の働きが自由にならなくても、ひとりひとりの心の意思は本来と繋がっているから、心が活躍出来なくても、心無い現実に何の違和感も覚えない自分を知らない。それが滑らかなものでなくても、互いに協力し合う関係性を本心とするから、要らない頑張りを強いられても、健気に、懸命に、みんなでみんなの時を守り続ける。

それが時代を重ねるごとに予期せぬ不本意なものになって行くことをどこかで感じながらも、自分たちの原因を連ね、調和を繋ぐ。そして、どの時にも土器を作り続け、そこに、未来の自分への希求の約束を乗せる。

12/09

1万年以上も、脳の働きを不自由にさせられた人々は、2000年程前、完全に脳疾患を患う。そして今日まで、その自覚もなく嘘を生き(生かされ)、その気もなく病み続ける世を支えることになる。

この国は、神の国という。そうであれば、命を奪い合う歴史を人は経験することはない。神の国であれば、ある特定の人間が神になるという、犠牲や差別を引き起こす原因が作られることはない。もし神の国だとすれば、神社(神宮、大社)の存在自体、要らなくなる。

その全てが作り物。その全てが、神という概念を悪用して為された、残酷な風景。呪術系の怪しい力と残虐な意思で、人としての心は破壊され、脳は、健全さを忘れさせられる。全ては、その事実を隠すために演じられた、「地上3cmの神芝居」。その真の姿をさりげなく感得し、ありのままに把握する。

無有日記は、原因でい続ける生命の変化(進化)のエッセンスであるから、そこに一切の滞りは無い。そこから観れば、本性の危うさと作り物の真実(存在としての嘘)の類は、それが遥か昔のものであっても、容易に顕になる。要らないはずの経験の原因。嘆きや苦しみのその理由。そのひとつひとつを確実に外していく。そして、心ある感性と本来の在り様を元気にする。それは、みんなと会えた無有の仕事。楽しみながら、和気あいあいと、てきと〜に、真剣に、アホさ全開でそれをし続ける。

12/08

12)自然界の健全な営みを破壊し、徐々に人間の脳をも完全支配する企てを実践する彼らであったが、自分たちの負の影響力が一切及ばない人間が存在することを知り、逆に恐ろしさを覚える。認めたくはないその事実に怒りを覚えながらも、へたすると自分たちの存在全てが無に帰されてしまうのではないかと不安になり、そこには近づかないことにする。

ところが、その人間を通して、問題事が大きくならずに処理され、争い事が広がらずに済んでいることを知るに至り、どんなことをしてもその存在の力を潰す必要を覚え、恐る恐る策を練る。

彼は、蛇が異常な姿を見せていることをすでに知り、その頃から人々の生活が乱れ出したのも、感覚的に理解する。転生の主導権を握り、生を持つ然るべき場所で不穏な方へと向かう流れを止め、その原因を可能な限り浄化する。そのことに多大な厳しさを覚えても、何よりそれを優先させ、実行するのだが、思うようには行かず、目には見えない重たい力に押し潰されそうになる中、彼は、直感的に心の意思を未来に放ち(伸ばし)、そうではない現実を引き寄せるべく道を探る。

そして、辛く苦しい時代がこの先ずっと続く(続けられてしまう)ことを感知し、共に生きる人たちに、土器作りを促す。その時の訪れを、切なる想いで未来に託す。

12/07

11)地球が異物として拒絶したその意識体が、全く不可解な方法で地球に入り込んでから後、人間は、次第に転生のバランスを崩す。特に、何らかの形で蛇(の威力)の恐怖を実体験した人のそれは度合いが強く、生まれながらに不安や怖れの感情を抱き、心ある想いを持ちにくくなる程となる。そこには、その意識体の凶悪な意思が絡んでおり、脳の健全な働きを酷く鈍らされた人は、生命本来(人間らしさ)という次の生への基本要素を安定させられないまま、記憶の中に不自然さを重ねていく。

その中でも、蛇に食べられたり、傷つけられたことをきっかけに身体を終えたりした人の場合は、脳の中枢を完全に支配され、その転生の中にまで入り込まれ(自由な意識の多次元的作用まで操られ)、次の生では、蛇化という言葉が当てはまるような、荒々しさと横暴さを備えた人生を送ってしまう。その影響は延々と及ぼされ、数百年の時を経て、人の暮らしも自然環境も、重苦しく不穏で、不健康なものになる。

自動制御のようにして病み続ける様を(その実行役として)支える存在たちは、よりその構造を確固たるものにするために、意識体の質を高めるべく凝集を行い、密度を濃くして、少数で完璧を計る。その燃料の供給元もそれを喜び、征服の意思活動を徹底させる。蛇の生息する地球各地でそれは実践され、その核となる存在たちは、それぞれにその力を拡大させる。

12/07

現代に至るまで、この国では、蛇が神として、真に人々から崇められたことは一度も無い。それが何処かで在ったとすれば、それは、蛇同然の、心を持たない異様な存在たちが、人を欺き、彼らの心を抑えつけようとして、その獰猛な精神(脳)の働きに無理やり人々を付き合わせたことによると思ってよい。

現在でも、蛇を祀ったり、蛇絡みの祭事(神事)が行われたりする神社(大社)があるとすれば、それは、世にも珍しい、不気味で怪し過ぎる珍事と言える。その事実はまた、時を経ても、今尚、蛇(のような存在)に人々が操られていることを表すものである。

蛇を崇める対象として特別視する人は、人間としての感性を完全に無くした、危うさそのものの残忍さを潜める存在である。

12/06

縄文土器から伝わるものは、抽象媒体の百科事典のようである。真実と希望をそれに乗せて、永い時を淡々と生き続けた、素朴な想いそのままの人々。その頃の人たちが今もここに居るから、そこまでたどり着けた。弥生時代以降の歴史が余りに酷かったから時間がかかったけど、この時の生命のチャンスは逃さない。

この場所の向こうではなく、この場所のあの頃の風景。その全ての原因がここと繋がり、それが道になる。それは、形無き真だけの道。動きの無い結果(異物)は外され、自由を失くしていた原因(心)は繋がり出す。

縄文土器を知識先行の頭(現代人の病み)で扱わなければ、驚くほどのメッセージ(原因)に触れることが出来る。そして、この国の、人間本来を押し潰そうとする歪な価値感情の元に在るものを観ることも出来る。15000年振りに訪れる、連繋の意思の具現化。この12月、改めてそれをかみしめる。

12/05

10)手段を大幅に変え、地球に入り込んだその存在たちは、思うままに破壊と支配の経験を積み、地球の良心である人間の、その心ある在り様を力の無いものにしていく。動物たちは活力を失くし、その反動による暴力を覚え、植物たちは腐りやすく、陰湿さを作り出す。それらは皆、彼ら蛇の望む普通。自然界は、どうにも出来ない事実の連なりをただ受容する。

人間は、以前とはどこかが異なる感覚を覚えながらも、その理由に触れられる機会を持てず、少しずつ負荷をかけられるようにして窮屈感を抱かされる生活の中、淡々と時を刻む。蛇と一体化したその存在たちは、地球に住む動物としての生を獲得したことで、人間の脳を操り、その動きを支配して地球を病ませるという、今までに経験の無い新たな喜びと快感の時を楽しむ。

その過程において、人間世界は、何をするにしてもそのための意識づけが必要となる程、異様な現実が各地で生じ、直面する辛さや問題事に取り組む不本意な姿勢をやむ無く経験する。人の脳は完全に蝕まれ、人間らしさはその力を失くしていく。余りに自然に事が進められていくために、それへの術を何も持たないまま、人は、経験しなくてもいい経験の中を漂うことになる。

12/05

社会の平和をみんなで思ってもなかなかそうにはならない理由が姿を消すことを思う。人の健康を願っても心身を病む人が増えているその原因が無くなることを願う。正しいことを考える際のその背景にある正しくないことの存在理由がなぜ力を持ち得ているかを考える。人間は、頭を使う前の段階でその本領を発揮する、頼もしい動物である。

12/04

9)時を経て、その自浄力が活発化したことによる(地球の)変動が収まりかけて行く頃、新たな試みを次々と具現化させていくその存在(意識体)たちは、出会す動物をその本能の力で威嚇し、捕えて食べる。それを難なくこなしてしまうのは、蛇の脳に入り込んだ彼ら特有の破壊と停滞(腐敗)の強力な意思により、意識を向けられた動物の脳(の働き)が萎縮し、壊されてしまうため。蛇であって、蛇以上の恐ろしい力を持つそれらは、移動するだけで、その場所の空気を重くさせ、水や土を活力の無いものにしてしまう。奪われた自然界の生命力は、彼らの中に取り込まれ、その体を太らせ、人間よりも長生きする力の元となる。

その存在たちは、人間と出会す時、そこに在る、自分たちには無い高度な仕組みの脳に強い嫉妬を覚え、本能を刺激されて凶暴化する重たい感情を攻撃的な力に変える。そのことで、普通ではあり得ない状態が人間の中で起きる。それは、脳の中枢となる場所の働きが鈍り、それを元に保たれていた他組織(器官)同士の調和が乱れてしまうというもの。何でもないことに力を要し、大切なことにも意識を向けざるを得なくなり、普通感覚であるはずの暮らしに、ムリ・ムラが生じるようになる。

次第にそれは、動きにくさを慢性化させ、人間がそれまで経験したことの無い頑張りや集中といった、不自然な様を作り出していく。それはまさに、(蛇が持たない)人間独自の脳組織の機能が不健全となり、彼らの意識とその生命活動の周波数に人間が合わさせられてしまうことを意味する。

12/03

8)時を追い、どうにも思うようには行かない状況を重ねる中、その存在たちは、少しずつ軸足をずらし、退散ではなく、それへの新たな対策を練る流れを計る。軽く数十年単位の攻防を繰り返すところから離れ、中継して来た天体(その生命力を全て潰し切った星)に戻り、その支配・征服欲の本質を強めつつ、機を窺う。身を引くことを知らない彼らにとって、地球の抵抗は許し難い経験であるゆえ、その意識からは、怒りと憾みが増幅し、次第に、陰湿さと狡猾さを備える獰猛な動物のような感情を操るようになる。

そして始まる、恐ろしく奇抜で、何を以てしても抗えない、その存在たちの試みる次なる企て。地球自然界の生命たちが、身を守るための術を全く持ち得ない(その隙を一切与えられない)彼らの手法は、ある部分で自分たちと同調しやすく、融合も容易とする、地上に住む蛇の脳の中に入り込むというもの。

他の動物(人間も含む)には為し得なかったそのことが可能となったのは、蛇の本能と、繁殖する際の環境的な要素が、彼らの本質世界の一側面と適合するものであったから。その存在たちは、意識の質(次元)を大きく変え、その働きかけの焦点をより凶暴な種の蛇との融合に合わせ、それまでとは全く異なる手段を講じ、事を先へと進めていく。太陽を避け、月の出ていない夜に活動的になる蛇の習性は、その生態も含め、彼らの意思活動の重要な道具となる。

12/03

別の日記で終了した、「復活への道(2)」の原稿。ラスト6コあたりは、体が重くなったり、頭がぼ〜っとしたりと、反応もいつになく強いのではと思う。

この国の負(病み)の歴史の土台を作った存在たちと、彼らに続く同質の存在たちが、悔しさと怒りで、その本性を顕にする。その分、ずっと負の影響を受けてきていた人たちは、今までにない感覚を覚え、本来を元気に動き出す。

その内容は、かなりセーブしながら書いている。思いがけない反動が強くならないよう、ワーク処理しつつ進めている。それでもそこにある否定的な影響力。それが、じゃまたい国の本質である。

この国は、その気もなく嘘の中で生きることが大人とされてきている悪しき風習(伝統)がある。この2000年間、真実を生きた人は多くはいない。時代は、その彼らの原因によって、生命の歴史の再スタートを切る。人間は、人間でいることを忘れてはならない。

12/02

半分ぐらいUPできた「連繋の意思」。「悲しき怯え人」と「復活への道1,2」同様、そこに在る原因を大切にする。それは、ここに居て、共に歩み、未来の確かな原因でい続ける存在たちのその道を、限り無くサポートし続ける。

全ての疑問の答えは、そこに在り、全てと繋がるエッセンスも、そこに在る。そして、皆で、時を癒し、心の風になる。この時、未来もその色を変える。過去(というかつての原因)は、すでに皆の歩みによって癒され、深くまで浄化されてきている。

無有日記を通しての面白体験。それは、時代の意思に応えたみんなの、かけがえのない時の生命の仕事である。土器の真意で、ドキッとさせる。

12/01

2015

7)その意識体は、分散と凝縮を自在に重ね、その重く動きの無い粒子の作用を変調させながら、地球を覆うようにして、その征服欲の実践を行使する。母船の役を果たす、そう遠くはないかつて居た天体(支配済み)が、そのエネルギーの供給地。その場所を中継して、同質の存在たちが数限り無く地球に集まり、本能のままに暴れ、動き回る。

ところが、他の天体の時とは全く質の異なるその強力な反発の力に、彼らは図らずも苦戦する。地球大自然の自浄力はどこまでも力強く、そこに入り込もうとする異物への抵抗も凄まじい。地球本来の調和を維持すべく、その全ては痛みに耐え、自らを守り、変動と放出を繰り返して、止めてはならない変化の原因を高める。

当然、子の異変に親は気づく。宇宙の奇跡であり、希望である地球を生み出した太陽は、地球の生命たちの自動修復の燃料となるエネルギーを注ぎ続け、彼らを見守り、応援する。太陽の意思(魂)と繋がる存在たちも、より高次な原因の世界で活躍する。

 

11/30

6)その存在たちがなぜその意思を持っているかの理由は、言葉では表しにくいが、何であれ彼らは、地球を自分たちの新しい住処にし、その全てを支配して、ありとあらゆるものを破壊しようと、2万年程前にそれを試みる。その姿は、地球のどこにも無い性質のもので、例えれば、収縮と停滞そのものである腐敗型の意思が、形無き意識体として、異空・異次元の周波数を発しながら、形而上の粒子を保持しているようなもの。ただそこには、退廃・破滅への進行を経験し続けようとする活発な力があるため、それと質を異する物質は、皆その世界に関わると、彼らの流れに乗せられてしまう。

その存在たちは、それまでにいくつもの天体を完全に支配し、そこでの生命体(のエネルギー)全てを破壊してきた経緯を持つ。彼らは、変化(生命)のサイクルとその力を潰し切った天体を負の燃料源に移動し続け、今までに触れたことのない次元の、未知の生命力を備える地球の存在を知り、そこに近づく。地球にとっては至極迷惑な話であるが、彼らの本質と本能にとっては、単なるその機会である。

11/29

良いものを大事に長く使う習慣が馴染んでいる人たちの暮らしは、送り手と受け手の間に、心優しい素朴な空気感が普通にあるので、政治や経済がオカシな方向へと進むことはない。

それは、使ったり触れたりするものを大切にする気持ちが、どこに居てもあたり前となるものなので、何かを大切にしようとする姿勢をわざわざ経験することもなく、生きる上で大切なことが自然と育まれていく。

使い続けることの大切さではなく、大切なものがいつまでも使われ続ける風景。人から人へと自然に伝わり、世代から世代へとムリなく流れ、ずっと大切にされるものは、何もしなくても平穏な時の原因となり、時を癒していく。そろそろ、江戸城跡地全てが、みんなの公園になってもいい頃。

11/28

この国から神社が姿を消したら、気候は「再生」以前のようになる。からっとして、爽やかで、空の色も光を帯びて、ぐんと優しくなる。

そうもいかないから、その理由を知り、原因を変えていく。人間らしい原因を、さりげなく生きていく。

神道系の新興宗教(天理教、金光教etc.)は多くあるけど、皆、その本質は蛇。しかも、大元は、凶悪な存在たちと仲良く、殺害された人を食べる恐ろしい蛇。彼らは皆、無意識に太陽を嫌い、海を避ける。風通しの良い場所を離れ、しめった山や茂みを好む。その蛇と同質の本性(生き方)が、じめじめした天気の原因にもなっている。風景は、人の脳が大きく影響するから、それは常識中の常識。

天理教の中を覗いてみれば、それはそれは…と、心ある感性豊かな人は動けなくなってしまう。なぜそこまで…と、さりげない純粋さは、瞬時に潰されてしまう。人々を支配するために蛇が大活躍した、奈良の時代。かつての普通の人たちの嘆きと苦しみが、今尚癒されないままでいる。(神道系の重しで押さえ込まれている)

天理教の街は、蛇の目顔の似合う、蛇系の理想郷らしい。でもそこは、「この国の病みの始まり」で生贄の実行役だった主要な存在たちが、奈良時代に、朝廷(宮廷)を後ろ盾に、心柔らかな人たちの殺害を繰り返した時空と密に繋がる場所である。神道の世界は、人としての素朴な感性(疑問)が通用しない。蛇だから、やむを得ないが…。

と、この日記を読んで、何らかの妙な反応が生じるのでは、と思う。(中にはかなり強く、厳しく…)それが、天理教(神道)の正体である。その姿はまるで、人々の住む村(街)に現れた、脳神道を患った○○い○のようである。

11/26

2015年は、2月あたりから、蛇が繰り返し登場する。だいぶ身近になったのではと思われる、蛇関わりの世界。この国の要らない歴史の内幕には、どこにもヘビーなヘビジンが居て、現在では、それ系の存在たちが、心優しい人たちの感性を悪用して、金儲けに走る。

歴史上の悲惨な出来事や苦しみの風景には、全て蛇系の(蛇のような)存在が絡んでいると言って良い。その理由は、2万年前に遡る「連繋の意思」の中の風景にある。彼らは皆、脳が人間のそれではないので、心ある想いの具現化や、理由の要らない喜びを経験することはない。(ポーズは上手だが…)動きの無い(動きを止める)形式や伝統、風習や世間体を重んじ、その流れない思考で、生命世界の真を押さえ込む。

すでに登場した親鸞も秀吉も、もちろんそうである。現代においては、突然変異・増殖した創価学会や真如苑も、純粋な人たちの心を好物とする蛇友の集まりである。この国は、なぜここまで怪しく、気味が悪いのだろう? その最も危うい蛇頭は、かの上皇の、今の姿(存在)であるが…。

11/24

不幸印の幸福を実現させようとする隆ちゃんが、たくさんの思考のお遊び本を書いたのは、心無い人たちが活躍するこの世の風潮を巧く活かそうとしたから。かつての身内の、不幸大好きの大ちゃんも、それを喜んでいる。2人して、病み病み音頭を踊る。彼らの建物は、不健全な経済(心ある人たちの辛さ)の象徴である。そのどちらも、弁当のおかずにもならない。

11/22

大切なことを担うというのは、その人だからこそ為し得る事への普通感覚の対応であるので、その人は、その自覚もなくその大切なことを大切に生きる。つまり、担うということに意識が向くようであると、それは直線的な思考が先になっていることを意味するので、具現化される心(無意識)の性質は、その(担う)次元ではない。

揺るぎない想いも、確かな原因も、その意識もなく大切なことを担う人のあたり前の姿。それを知れば、感応する場所も、その性質も、当然、生命としてのそれ(思考の手前の原因)になる。担う人は、担おうとする行為から始まることを知らない。

11/20

元来、人間は、心ある想いがその存在の質の基本となるので、無意識とか意識(潜在意識と顕在意識)とかで、心の世界を分けることは出来ない。それがそうでなくなってしまったのは、心を持たない存在たちが、そのことを隠すために、思考(頭)のみで生きることを強め、その心の無さによる悪影響を見えなくさせたことによる。

彼らは、本性のままに生きられない現代、無意識と意識をあたり前に1つに生きる人の何気ない原因で、隠した無意識の意思(凶悪さ、残忍さ)が顕になることを何より怖れる。心が無いことを知られたくないから、心ある行為でそれをごまかし、良い人でいようと、そのための場所(立場、肩書き)の確保に躍起になる。

しかし、争いも衝突も、病気も不公正も、心を持たない存在たちの無意識の望み。そう、そこから始めることが、真の平和への最短距離である。それにより、心ある人たちの脳は本来になり、やむ無く離れさせてしまった無意識も元気になる。そして、思考も感情も、無意識や潜在意識の存在を忘れる。

11/18

※これからは、全く信じ難い、非現実的な話になるが、そもそも、人が命を奪い合う歴史をこれまでに経験し、そして今尚それと質を同じくする争い事が起きていること自体、この地球にとっては非現実的であり、その重要な原因に触れるために、非現実と思えるかつての現実を知ることの意味は大きい。どんな風に読んでも良しとするが、そこに在る原因は全て事実であり、それを形(言葉)にすると、具現化された真として、そのようになる。

生命を生きる人間として、その原因が大切にされる時、真実は、軽く時を超える。「連繋の意思」は、これまでの全ての時の望みでもある。

11/16

5)その後人々は、いつしか素朴さやさりげなさから離れ、それまでに使ったことのない脳のある部分を頻繁に働かせ、何かに向かい、何かを求めることで日常の事を為し得る姿勢を常とするようになる。それにより、一度も経験したことのない性質の感情が人との間で交わされ、どこにいてもそれらが心身の動きの原動力になるような、不思議で落ち着かない生活を営む。それはまるで異空間に住み続けたような、緊張と戸惑い。人々は、脳を忙しくさせ、人としての、心の自然な動きを止めてしまうことになる。

現代人が抱える不安や怖れの感情が、人間社会に初めて生じたのは、この時である。心ある想いを抑えられ、理由も分からず引き込まれたオカシな現実で、要らない思考と感情を経験させられる中、人は、その不自然さを精神に馴染ませてしまう程本来を無くし、そこにどこからか入り込んだ、生命の成長・進化の原因を破壊する感情(不安、怖れ)を、その自覚もなく息づかせ、成長させてしまう。不安は、元々どこにも無かったもの。なのに、形無き巨大な力に抑え込まれるようにして、人は、異様な経験を繰り返し強いられ、どうにも出来ずに、その類の感情を育み、流してしまう。

11/15

なぜ人間は、LEDのライトに何も感じない程の性質になってしまったのだろう?という問いさえも、何のこと?と意に介さず、無視できる人たちが多数を占めるこの世の中、その有り様は、実に恐ろしい事実である。ここまで退化するのだと、人間の負の変化の様にただ驚くしかない。

何も感じない(分からない)ことが1つの個性であり、価値観(となるもの)であるとすれば、せめてその域に留まっていて欲しいのだが、利益優先という個人主義の空気が蔓延すると、人間の本来の姿勢は簡単に押し潰され、健全な感性(違和感)を軽んじる存在の思惑が妙な力を持つようになる。

つまり、オカシな話に思えるが、LEDライトを推進する人たちは、もはや地球人としての、生命を生きる人間ではないということ。その理由は、2015年の無有日記の中で書いている。未来のためにそのままであってはならない大切なこととして、LEDの性質(正体)そのもののような人間の無意識深くにも入って行きたいと思う。人間が人間でなかったら、地球自然界は苦しいだけだから。

11/14

4)今から1万6千年程前、それまで続いていた平和な風景が崩れていく。600年程かけて進行したその時の変遷は、信じ難い現実というより、理由も分からず経験させられた未知の世界。人も動物も、物理的に力を無くすのではない、自由にならない自らの意思と闘わされ、生命力を消耗させていく。なぜそうなのかを知ることも出来ず、ただそうなってしまう事実だけを学ばされ、どうにもならない辛い変化に引き込まれていく。

新たに生を選び、重たい経験から自由になろうとしても、異様な抑圧に意識を奪われ、精神は自由を無くす。頭を極力働かせないことで、感性をより活動的に身体を先へと運ぼうとしても、気力を縛られているようでそれは続かず、切なさを蓄積させる。

分からないとはいえ、その理由を探し、あり得ない風景を見せられても、そうではない場所を求め、その原因を高める。それ自体が全く無かった経験であるゆえ、焦りと覚悟が交叉する。感じ合い、触れ合う友との交流も困難になる程、それまでの普通は壊され、あたり前に繋いでいたみんなの生活の原因も、届く場所を無くす。

それでもやらなければならないことは、真の普通の連繋。生命の歴史の道を途絶えさせない責任。人々は、少しでも動ける人が動き、伝えられる人が伝え、多くの場所で、未来へと、この時の全ての原因(想い、望み、真実)を乗せた物を作る。遠い日のいつか見つけてもらうために、その時まで残り得るものを丁寧に残す。その原因に触れてくれれば、必ずや自分たちの経験が浄化され、時代が本来を取り戻すことを望み、その姿に全てを託す。それが(縄文)土器である。

11/13

ずっと書いてきた、歴史の主要となるテーマの文章も、8日からのものがラストになるのでは、と思う。あくまで予定だけど…。そのラストとなる文章は、縄文時代をテーマとする。なぜ書けてしまうのか? ムーも分からない。書こうとして書いたわけではなく、ここに来て、言葉になろうとするそれらの原因が、次々と形になった。

彼らは、皆順番を間違えない。その必要性には、厳格なものがある。そして、「連繋の意思」として、その縄文時代に生きたみんなの想いが、ここに文章になる。大切に読んで欲しい。考え過ぎず、気持ちを楽に触れて欲しい。そこに在るひとつひとつの原因によって、本来の脳を取り戻してくれたら、と思う。

11/12

3)その風景は、「心の遺伝子」が伝える、本来という言葉も要らなかった時代の、心豊かな優しき人々のありのままの姿。誰のためでもなく自然体で生きる暮らしは、そのままでみんなを生かし、その何気ない普通は、みんなに見守られ、時を繋ぐ。共に生きる動植物たちも、それを喜び、安心に包まれる。安心は、誰のものでもない自然の今をみんなで生きること。

風に乗り、水に流され運ばれる、自然界の愛情。そこでの基本形は、それまでの風景の原因との融合。かつての今と未来の今がひとつになる時の中で、同じ場所で、変わらぬ優しさを愛しき人々への想いに乗せる。それぞれの本質は、時を透過し、呼応する、純粋な心そのものであるゆえ、人は、自由に時と戯れ、空間を癒す。空間は時を重ね、この今に、これからに繋がるこれまでを通す。

大地は、海も陸地も、否定感情を知らない柔らかな生命たちの生きる場所。自然体で、不自然な原因とは無縁の存在たちが住む自然界。この星は、素朴で心ある人間が融合の主導権を握る、完全なる調和と友愛の時空間。それは、地球の意思であり、それを普通とする生命たちの基本的な責任である。

11/10

2)そのことへの理解は、理由の要らない喜びの中で息づく、生命の智恵。知識の域には収まらない、流れる普通。普通だから、大切なことを求めることを知らず、大切なことが自分から離れることもない。変化し続ける原因と心が同じ場所に居るから、滞りを生み出す経験を経験することもない。

創り出される空間は、そこに居る人たちの存在の質と同一となるので、いつでも透明感があり、どこも柔らかな想いで満たされている。時間の流れは、その密度が想いと重なるので、意識されることもなく人の感性に連れ添う。その全ての大いなる原因と自由創造の経験の中で、人は、通じ合い、重ね合う個性ある原因を互いに高め、形を創る(形になる前の)形無き交流を楽しむ。現代の特異能力(テレパシー、精神感応)も、そこでは誰も意識すらしない普通の営みである。

11/08

1)水や空気のように、心の素朴さをありのままに連ねる人は思う。なぜ心を思考で扱い、わざわざ心をきゅう屈にさせる人がいるのだろう?と。優しさの意味を知らない、優しさそのものの人たちは、互いに素朴な疑問を共有する。なぜ彼らは、人に優しくしようとして、湧き出ようとする優しさを抑え込んでしまうのだろう?と。

人は、心であり、優しさは、その自然な姿である。形を持たない心に支えられ、形をつくる優しさに添われ、人は、形ある人でいられる。それは、全てと繋がる心の意思が、優しさを繋ぎ役に全てであるひとつ(全体で中庸そのもの)の時へと人を案内し、そこでの道を皆で一緒に歩む共同作業のようなもの。心無くして人は生きられず、優しさが外れた人生も存在しない。心も優しさも、思考を遠くに、それへの言葉も寄せ付けず、そのままで変化(進化)の材料となる原因の連なりを人に託す。人は、それに応え、生命を生き、人間をやる。

11/07

この数十年の間に…はどう考えてもあり得ないけど、100年後、200年後と時が経つ中で必ずやそうであって欲しい(そうなる)望ましい風景の確かな原因として、この数十年間を大いに活用する。15000年もの間、人間は皆脳がヘンだったのだから(ヘンにさせられてしまったのだから)、それぐらいはやむを得ない。そのための最短距離を通るべく人生の原因はすでにセットしているから、淡々と行く。30日間のEWで、30年分の仕事をする。未来地球のために、この時代の自分たちの役割をしっかりと担う。

さて、11月。もうすぐ、1111111111秒が来る。(←ん?)

11/06

追)ヒミコがそのあり得ない力で人々を苦しめ、支配していた場所(邪馬台国)が、これまでに知らされてきた場所とは大きく違うことを知ることで、彼女(及び彼女関わり)の影響を直接・間接的に被った大勢の人たちの心は楽になる。大切なことはいつも再確認のように知るプロセスを普通とする人間本来の世界では、知ることから始まる思考世界(知識の組み立て)の危うさからあたり前に離れ、それが力を持つことで生じる要らない時間に付き合わされながらも、そうではない時の原因をさりげなく創り続ける。

形ある(形として残る)結果を通しての知識世界を大きく包み込む、その原因の性質を自由に知り得る、生命の知識。それを普通とする人たちの心の風景で、知るべきことの原因が動き、その時を引き寄せ、形になる。遠い昔の出来事は、力強く原因を生きることでしか、真に知り得ることは出来ない。原因のまま、通るべき場所の原因の中に入って行き、いつの時も変わらない生命の意思が、そこでの必要性を形(言葉)にする。

そこから見えてくる、本当の中の嘘。常識の中の非常識。心無い嘘や非常識は、重たいままの原因を、それを普通とする(利用する)人の思考に乗せ、時代を突き抜けて心ある風景を破壊する力になる。ヒミコの姿(と場所のこと)が顕になることで、心柔らかな人たちの、かつてのいくつもの時代の切ない記憶が癒され、素朴で純粋な想いが活躍する。

(※人間は、かつての人生での経験の記憶を現在の生の原因(無意識の意思)に様々に重ねて、その質を同じに生きることを普通とする動物なので、その原因の中に在るものへの反応を通して、今に繋がる遠い昔の風景(の原因)に触れることが可能となる。人間は、その原因(本質)が自然に伝わり合うことを本来とする)

11/04

16)争いの絶えない時代が続き、同じような低次の歴史が繰り返されて来たのも、元はと言えば、本来を生きようとする人たちの心の意思が尽く潰され、時代の変化の可能性が完全に絶たれた2000年程前の、その時のその全てを成し得たヒミコの悪巧みが原因である。その後、次々と質を同じくする存在たちが心ある人々を支配し、人間とは思えない悪行を重ねて、ずっと先の時代にまで悪影響を及ぼす重たい原因を固めたため(結果として固定させたため)、人は辛く厳しい時を何度も経験することになる。

人間の真の変化と成長のために、ここに原因の世界から眺めた真の事実を記す。それによって動き出す、ひとりひとりの本来の意思表現を応援する。そこから始まる、生命を生きる人間としての歴史を支える。

この時に想いを繋いだこれまでの自分と、その時々を共に生きた心優しき生命たち。この時を喜び、安心するこれからの自分と、時を共にする、心のままに次へと想いを繋ぐ生命たち。生命を生き、人間をやる。人として、本来を生きる。

11/02

15)思考の世界を余裕で支え、包み込む、変化し続ける永遠の原因に触れる時、真実は、知識のそれではなくなる。そして、知ることは、想いを繋ぐ力となり、みんなの喜びの貴い原因となる。知識も、その質を変え、争いや衝突、事の歪みや病気のその中心となる存在を段階的(多次元的)に浄化し得る大切な材料となる。

原因を生きる(無意識が思考と重なる)人間本来の姿が普通であるから、その質を高める、心ある風景と繋がる想い。結果を生きる(無意識を思考と切り離す)ことを普通とする人の世界では、心が違和感となる程だから、心無い風景のその原因となる彼らの歪な普通を知り、その理由との融合から離れる。

いつの時も、原因は、ある状況の以前と以後とで分断されることはなく、それは過去と今の生でも同じで、身体を持たない状態のその前後の原因は密に繋がり、その全てが無意識の意思の性質となって、身体時間での経験を生み出していく。それゆえ、人間がその原因の本質世界を無視して生きることは出来ず、そのことを否定すれば、無意識に蓋がされ、今に繋がるそれまでの原因に無責任でいる本心を思考でごまかして(善人を装って)、その無意識の意思で、人や空間をその自覚もなく病ませることになる。つまり、原因を生きることに抵抗する人は、それだけ、人には知られたくない(見られたくない)性質のことをかつて経験しているということ。

そのことを把握し、その存在たちの恐さを知り、決して彼らに恐さを抱く必要の無いことを理解する。凶悪で残酷なことを平気で行っていた人ほど、原因のままの無有日記の本質に強く抵抗するので、その影響を知り、自らの原因を確かなものにする。

11/01

2015

10月の東京Bあたりから書き始めた、およそ16000年前の頃の原因の風景をテーマとした文章が、先日の大阪出張中にほぼ終わり、と同時に、どういうわけか、実に不思議な感覚で、「復活への道」の続編のような文章が始まった。それは余りに意外なペースで進み、東京に戻った日には終わっていた。まだシミコとノブガナを更新中だけど、そこに新たな2つが出番を待ち構えることになる。近いうちに、両方とも登場させたいと思う。

そんなこんなで、2015年の無有日記がおわりへと向かう。改めて、とてつもない2015年だと思う。その始まりも、終わりも、リアルタイムでの感触を楽しんでほしい。

 

10/30

歴史の中には、次の時代には残させない執拗な力によって大切なものが残り得なかった重要な事実が多々あり、当然それを無視して歴史を語ることはあってはならないのだが、残ったもの(残されたもの)だけに焦点を置いて表面的な理解・解釈を良しとする無知を人は連ねて来たため、歴史的にとても大切なことは深く深くへと沈み、見えなくなってしまっていた。

しかし、原因の連なりという生命の歴史から眺める時、その全てが段階的に形になるプロセスが生じ、人は、歴史を創る(歴史を繰り返さない)という新たな経験をすることになる。

歴史は、結果として留まる過去には無く、未来の原因として現在に合流しようとするそれまでの原因の中にある。経験枠内の個の思考で、その歴史(真実)を捉えることは出来ない。歴史に学ぶより、未来にその学びを必要とさせない歴史を創ることを学ぶ。

10/28

14)現代に生を持ったヒミコは、価値感情も思考の働きもこの世的で、常識とされることを懸命に学び、人に好かれ、社会にも上手く適応する。そして、縁する全ての心柔らかな人の純粋さを吸い取り、彼らの人生をオカシなものにする。それらのことを難なく実践する彼女は、人に喜ばれ、社会にも求められ、世間が認める結果を残し、人のために頑張り続ける。そして、多くの普通の人の感性を鈍らせ、思い通りに彼らの人生を操る。

彼女が身体を持った西暦2000年少し前、それだけで何かが始まり、その頃から(その頃に)理由も分からず辛い現実が続いたり、心身に不本意なことが生じたりと、どうにも合点の行かないことを経験している人は多いと思う。それがヒミコである。彼女がこの時代に居るというだけで生じる、誰もその原因には触れられない幾多の出来事。無有日記は、少しずつ確実にそこに入り、しつこく固められた重く流れない(ヒミコ関わりの)これまでの結果を砕き、その全てを未来が喜ぶ新たな原因に変える。彼女の本質に触れたことのある多くの人たちの経験がその力になる。(時を合わせるようにして、その頃に、怪しさを秘めた思惑でこの国を離れた、彼女繋がりの存在もいる)

10/26

13)神道系の世界が、人間の生命としての変化・成長を忌み嫌うのは、その危うい成り立ちと、人知れず人々の自由意思を束縛して、生きる自由を奪っていることの事実をひた隠すためで、それは、そこにある偽善が処理されれば、多くの人が健康・健全を取り戻せることを意味する。それを考えれば、ヒミコについて教えられてきた嘘がその原因のところから浄化されれば、心優しい大勢の人たちの今がこれまでとは大きく変わり、楽で元気な心身を皆が経験できるということになる。

但し、彼女のことが嘘のまま継続されないと困ってしまう、原因の無い(変化に乗ろうとしない)人が多数居るため、不必要に思考を働かせず、感じることをそのままに心に正直でいて、形になろうとする想いを自由にさせる。認識を新たにするだけでも、柔らかな人は、不安や怖れから離れられる機会を手にするので、知識が作り出す平面的な価値世界を白紙に、自らの、何気ない反応と感触を楽しむ。ここでのテーマは、それをさりげなく促し、支えるものである。知識枠に収まらない地球感覚の真実は、争いや病気の原因を持たない、生命そのものの事実だから…。

10/24

卑弥呼関連で、余りにヘンで、笑うに笑えない世界チャンピオン級の勘違いが、「お告げ」と「人とは会わない生活」と「邪馬台国の場所」の嘘。それに付き合わされている人は、それだけで、この国の負の連鎖の支え役にさせられてしまう。

卑弥呼は、怖面の性悪女。知性など微塵も無い。時折見せる怒りの表情は、鬼も逃げる程。人々は、数人の男性を連れて姿を見せる彼女と目を合わせることも出来ず(脳がヘンになる程の重たい感情を浴びてしまうので)、黙々と辛い現実を耐え忍ぶ。

近くには、お告げづくり担当の男女が居て、卑弥呼との共謀で、気に入らない人は次々と生贄にされてしまう。その場所は、九州でも近畿でもない、○□。(←「復活への道」の編集後に伝えたいと思う)

ここに繋がり得るかつての原因は、原因を生きる(創る)ことでしか知り得ない。つまり、結果を生きる(形に頼る)人は、永遠に真の歴史を学べないということ。その頃の人たちが現代に居ることも大きい。切なる想いは、少しずつ確実に癒され、そして生かされていく。

10/23

12)生命の進化とは縁遠い嘘の歴史が永いこと続いたことで、人の常識は結果(過去)から離れられなくなり、心ある発想を遠ざけ、素朴な違和感をはじくものになっている。価値観は、そのための原因を伴わずに思考の域に留まり、変化を避けて、隔たりを生むものになっている。宗教も教育も、政治も環境も不穏な無意識が望む嘘の上で成り立ち、それをあたり前とする暮らしに安心感を覚える人たちの感情で、経済は動く。その心貧しい在り様は、ヒミコ以降、自浄力を身に付けることもなく、心無い思考だけで進められたことによる、この国の姿。心ある人たちにとっては、実に不気味で不可解なものである。

極端な言い方をすれば、人は、この2000年程の間、心が主人公である人間らしい現実を何一つ創り出して来なかったと言える。風が通らず、光も全く入らない、水はけの悪い土地の欠陥住宅に長いこと住まわされていたようなものだから、心はいつも湿ったままで、身体は重だるく快活さを忘れ、自分らしさや人間らしさを素朴な想いに重ねるなど、考えられない。自由にならない心身を頑張って動かし、課せられたことは懸命にこなして期待に応えようと、緊張と疲労を溜め込み、そうではない道を歩む発想など何一つ抱くこともなく、人間として大切な心の働き一切を滞らせて、その意識もなく負の連鎖を支えていく。

10/22

11)この国の歴史の基礎を呪術まみれの材料で仕上げ、その上に積み上げられる不穏な世を陰で下支えしたヒミコ。二度目に(病みの土台の確認のために)人間を経験したのは仏教が伝わった頃で、その本質である原因、変化、中庸(全体)を完全否定する彼女は、更なる呪術的能力を駆使して、仏教を骨抜きにする。その後の仏教が権威(形式)主義を帯び、密教色や浄土色(ご利益)を強めて本来のそれからかけ離れてしまったことの悲しみは、この国での仏教の始まりの時に、その真が壊され、そこに強力な嘘が染み込まされてしまったためである。それにより、ヒミコと同質の存在たちが住み続ける神道絡みの世界が支配層で妙な力を持ち、人々は感性を鈍らされたまま、心を動かせずに、辛く苦しい時代を生きることになる。

病み世の基礎づくりを完璧に行った彼女は、その後、転生する必要性を持たず、負の燃料を供給する側で過ごす。しかし、彼女の性質全ては、以前の地球には無かったもの。脳を完全に操られ、人生を支配されても、人の心の奥で息づく、地球に住む一生命としての意思は無傷である。心を粉々に破壊出来たとしても、心を持たない(知らない)存在が、その全てを無しにすることは出来ない。西暦数百年以降に初めて人間を経験した人たちが持ち得ない、時空を透過する程の純粋さと全てに繋がる責任を普通とする、「心の遺伝子」の頃の風景を知る人たちの、その心の確かさ。彼らは、どんな時でも、地球感覚の(望ましい未来のための)知恵を以て、生命としての人間を生きる。それしか知らないから…。

10/21

ピミゴの病みが思考から外れると、たくさんの人たちが楽になる。(もちろん人の場合であるが…)大社も神宮も(and 神社も)元々は、呪術・怨霊系の力と蛇系の脳を持つ有力な存在たちが、ある邪な意図を持って作り出したものであるゆえ、その基礎に絡むピミゴの勘違い(作られた嘘)が正されることの意味は大きい。当然、怪しく不気味な巫女も、蛇の使いのような神主も、その本性を隠せなくなっていく。

この国の病みの原因には神社が大きく関わっている。その神社は、蛇と繋がっている。その蛇がなぜそうなのかの原因は、(縄文)土器に乗っている。そして、その土器の原因となる風景に触れてもいい時を迎えている。

1000年目の夜明け」と「2000年分の癒し」が普通になったら、15千年振りの元気をみんなで経験する。

10/21

…というわけで、別の日記では、信長が登場。現代に生きる彼の中深くに入ってみると、そこには全く信じ難い性質の顔があり、どこか哀しげである。その背後に見え隠れする存在。ん…

遥か昔のある風景から観た時、そんな信長でさえ、その全て(無意識)を支配され、操られてきた原因があり、それを顕にするためにも、彼を特別な人とすることから完全に離れる。彼もそれを望み、これからへの必須として、それはある。

だがしかし、行ったことは決して許されないこと。歴史上の怯え人の代表として、その原因の性質を言葉にしていく。無意識の中の辛い記憶の影響から自由になるためにも、信長を、恐ろしく愚かで、虫にも劣る低次の人間として扱う。それにより、彼の表情も明るくなる。癒しは奥が深い。ムーの眉は濃い。(…先日、前髪を少し切ろうとして、はさみの角度を違えて、左眉の半分をごっそり切ってしまった。その時はオバケである)

10/20

10)現在の彼女にとって最も悔しい事は、後の世に残り得てしまったヒミコという言葉を通して、かつての自分の所在が意識されてしまうこと。これまでの時代であれば何らそのことによる影響は生じないが、現代では、限り無く原因深くを浄化する無有日記が在るゆえ、それは怒り狂う程である。2000年分の失態とも言えるそのことを意識すればその分、無有日記の材料になってしまうので、極度の意味不明な状態を彼女は経験する。

その煽りで、精神や頭の働きを不安定にさせられる人もいるが、その殆どは、甦生しようとする細胞の意思の健全な反応。長い眠りから醒めるようにして、真の普通を取り戻す心の喜び。次第に、人間の手前の、生命としての本来が強くなっていく。

そんなこんなを見越して、歴史の浅い外の国に生を持ち、そこからあらゆる負の原因を注ごうとした彼女であったが、容赦はしない。その全ては、全てであるひとつの世界で把握されているゆえ、かつての心柔らかな人たちの今を次々と元気にさせ、歴史に残された異物(動きの無い重たいままの原因)を順に取り除いていく。ここに繋がる、これまでの生命の歴史を皆で再生させる。

10/19

9)生命の意思とその性質の連繋が為されることのない、作られた(強烈な粘性を持つ闇黒の)次元層に留まっているはずだった彼女が、今回人間時間を選んだのは、ここに至る負の蓄積をより固め、更なる上塗りをするため。それを指揮した、3000年程前のあの時(「再生」)以来初めて人間を経験するかの存在と共に、互いの融合を密に無意識の意思の力を増幅させ、人間の知覚世界の外側で、人々の心と感性の働きを止め、未来への原因を押し潰す重たい結果を積み重ねていく。

ただしかし、その動きの中身を中庸の世界に照らせば、それは焦りと緊張。この時代、選ばなくてもいいはずのことを選ばざるを得なかった2人のその姿は、それだけ、この今を生きる心ある人たちの純粋さと柔らかな想いが原因の世界で強まっている現れ。無意識と思考をひとつに重ねる類稀な人たちの力添えもあり、無意識を思考と切り離して頭だけで生きる心を持たない(心を知り得ない)存在たちは、これまでのようには行かない予想外の状況を初めて経験する。遠い昔の、優しさそのものの平和の風が、時をくぐり抜けてここに繋がる。

10/18

8)その後、ヒミコ(であった存在)は身体を持たず、進化とは無縁の歪な転生の世界を別次層の特殊空間(退化・腐敗の核となる場所)で扱い、かつての(脳を破壊された人々の)子孫とそこに紛れ込んだ自分と同質の存在たちが、生命を軽んじ、蛮行をし続ける非人間的な様を、その大元から支え続ける。それは無意識世界の闇の番人のようにして、永いこと続けられる。

人間としてどう考えても違和感でしかない出来事が歴史の中で繰り返し生じた重大な理由は、ヒミコの存在の意思によって、人間の基本となる生命の意思が抑え込まれ、それに続く時の中で、望むべく変化の原因全てが力無いものになってしまったためである。原因を生きられないことは、人間にとってとても辛く悲しい。それは不穏な現実の元となる部分がいつまでも動かず、そのままで平和な普通世界からはどこまでもかけ離れてしまうということ。本来を尽く奪われたまま始まり、真を学ぶことも、体験の質を高めることも出来ずに進行した、この国の人間の歴史。ならば、この時に真を学び、真を知る。体験の質を高め、本来を生きる。

10/17

「復活への道」の原稿となるこの無有日記を読んで楽になる人が増えているのは、ヒミコ繋がりの存在たちの影響力から自由になれているから。最もダメージを受けていた脳が本来の力を取り戻し、心も体も変わっていく。

ある意味、彼女の存在が、歴史上の幾多の惨劇の元となる原因と考えていい。そこには、なぜ彼女が存在出来たか、という別次の原因が存在するが、この無有日記を通してその事実に触れられる程であれば、あらゆる原因が動き出し、脳はよりクリアになる。

ピミゴのこと(本性の遺伝子、正体)は全て把握済みである。順を追う必要があったため今回になったけど、知識を溜めることも、頭を使って書く(話す)ことも無縁のムーだから、生命にとって大切なことは、その原因の世界で、いつの、どんな事も、思考の外側で分かってしまう(ということも知らないでいられる)。

ムーの仕事は、心ある人たちが、心ある原因を未来に繋ぐサポートをすること。今は、遥か昔の自分と、想いを重ねる時。

10/16

みんなのために生きている人がみんなのための仕事をしている人に辛さを覚えさせられる(潰される)ことは多い。みんなのために生きている人は、どんな仕事でも、縁する人の心を楽にさせ、それが伝わり、繋がる中で、次第に安心に包まれた風景が創られていく。

みんなのための仕事をする人の多くは、それだけに喜びを覚え、他の仕事には全く関心を示さない程本心が個人であるため、同質の人と思考の満足を共有しながら、その心の無さで未来を壊す。(この国の病みを引きずるキリスト教系の牧師(教師)や親鸞系の僧侶はその典型である→「地球の良心」)

人のための仕事に妙にこだわる人の本性は、その対象となる困った人たちを作り出した(人が困るのを喜ぶ)悪質な有力者の思惑とキレイに繋がっている。両者は互助関係である。彼らは、感性も知性も作り物で良しとする、人間らしい脳を持たない○○の存在と言える。(←ん?)

10/15

7)人として在ってはならない現実に違和感を覚える時、そこに在る、結果にい続けようとする(次への責任ある原因にはなり得ない)意思を把握し、そこに繋がるそれまでの重たいままの結果(という名の危うい原因)を知り、その塊を砕き、浄化する。それを最も難しくさせる現実が、現代に生きる人の誰の中にも違和感の対象として残っていない、遥か昔のヒミコの時代の、当時の人々にとってのそれである。

人間世界のどこにも無い手法で、歴史に一切の負の痕跡を残さずに病みの土台を作り、その確認のために数百年後に再度人間を経験した彼女は、自らが残した、人間の無意識層で息づく強い停滞の意思の存在を見届け、至極満足する。陰湿で粘着質で、人生の足枷のような仕事をするそれは、人が成長しようとする際の健康的な発想の原因を食い潰し、そこに不安の小片(燃料)を植え込む。心を育み、精神を高めることの一切に蓋をして、無意思・無自覚に生きることを人間生活の基本にさせようと、その恐怖の原因を際限無く供給する。それが彼女の普通である呪術によって為されたことの影響は、武力や権勢による次元のそれを裕に超える。恐ろしい限りである。

10/12

6)人間的な知覚によって判断・認識できる世界とは次元の異なる、原因の世界。そこでは、形ある全ての、その元となる創造の意思が多次元的に働いていて、唯一それに感応できる心(魂)の存在を通して、人は、その性質を人間本来のそれへと調整・維持し続ける。心が主導権を握る本来の普通においては、当然結果は、それがどんなであれ、それまでの原因が引き寄せた結果という名の次への原因であり、そのままでいることがあり得ない、変化し続ける形ある原因である。心ある人たちの世界では、その原因が柔らかく純粋であるため、創られるものやかたちは皆、みんなのための原因の仕事をし続け、その中で人は、より確かな想いと責任を、そうであろうとする気もなく普通にその原因の流れ(成長)に乗せていく。

心が大切にされれば自ずと力を付ける、原因を生きる姿勢。それが普通であるから、人間の感性は健全さから離れず、争いや衝突を引き起こす感情も生まれることはない。心ある原因が、心ある風景を引き寄せ、それを原因とする新たな風景のどれもが、心のそのものになる。

10/11

人のことなど全く考えられない自分の姿を認めている人から優しくされると、嬉しい。人のために生きていると信じて疑わない、本心(無意識)がそうではない人から優しくされると、苦しくなる。

前者は、そのひとつひとつの体験が新たな学びとなり、後者は、全てが嘘となる。でも、一番嬉しいのは、優しさそのものの人から、正直に感じることが伝えられる(伝わる)時。それは、優しさという概念も不要となる、心ある普通の世界。

新たな学びは、それへと向かい。嘘はそこから離れる。

10/10

5)人間として普通に大切にすべきことの全てをその自覚もなく放棄させられた人たちが身体を終える時、そうであったことの理由が全く分からない中で人生を送っていたために、普通に次の生を選ぶ生命の意思までがその力を失くし、自らを浄化し得ることもなく、地上の時間軸から離れられない時を限り無く過ごすことになる。それは、変化とは無縁の(無縁にさせられた)存在が形を持たないまま人間世界に留まることを意味し、その後に生まれてくる人たちは皆、その異常な姿に、無意識のところで厳しさを伴う影響を受け、その存在たちも、その意識もなく人間の変化を止める(自分たちと同じことをさせる)働きかけをしてしまう。

本来無くてもいい経験を人々に仕向けたヒミコは、彼らに強力な呪縛系の呪いをかけ、人としての在り様の全てを捻じ曲げ、皆生きているようで、生きていない操り人形のような、悍しい現実を普通のこととして生きらされる。体は自由にならず、心は何も感じず、それでいてヒミコのことは崇めるべく尊い人として、彼女のために献身的に働き、懸命に努力する。

ほんの少しの集中力で周りの誰もが能面になってしまう程の彼女の威力は、本来の転生を難しくさせられた人の、その本質からなる意思までをも支配し、身体後のその姿を、普通に生きようとする他の人の精神にまとわり付いてどこまでも世を病ませ続ける形無き存在として、自分の代わりに仕事をさせる。そのために、時代はいつまでも自浄力を持てず、彼女の時代に築かれた、その嘘のように怪しく醜い基礎の上で、人間らしさから程遠い歴史を刻むことになる。

10/07

4)この頃から少しずつ病みを固め始めた、神道の原型となる存在たちは、彼女の人間業ではない能力を基に勢力を強め、支配層という、それまでには無かった場所に居て、その危うい本性の具現化を愉しむ。その中心に居た彼女が、ヒミコ(という立場の存在)である。

彼女の負の力は途轍もない。それ以降現代に至るまで、同質の存在は多く居たが、その力量となると、彼女に敵う人はいない。それゆえにその時代を選び、自分にしか出来ないことを行ったのであるが、それを言葉にするのは、その後のこの国の歴史の様を思うと、大変な難しさがある。悲しみは、全ての生命にとってのそれであり、その信じ難い影響力は、人間の次元を遥かに超える。

しかし、「心の遺伝子」はここに繋がり、彼女の影響下で辛うじてそれを守り得た存在たちもここに居る。彼らの真剣な姿勢とその歩みは、未来が何より望む生命本来の意思のそれであるから、この時、人としての、生命を生きる人間としてのかけがえのない機会に皆をいざなう。知ることは、自らの原因を高めつつある人にとっては、予想すら出来ない大きな変化をもたらす力になる。

10/06

3)今から2000年程前、この国は、他の国同様、将来に大きく影響するであろう重大な局面にいて、戦乱の続く世とは質は異なるが、人々は、抗えない巨大な力によって、生きる自由を失っていた。それは、その時に生まれ出た、怪しい能力を持つ存在の恐ろしい呪術によって、多くの人の感じる心が壊され、人間としての自由な発想も全て潰されて、彼女の意のままに人生を操られてしまうというもの。そこに居る人たちは皆、脳の働きを支配され、思考は、彼女から聞かされ、伝えられることだけを頼りに生きることを善とする危うさを普通としてしまう。

日頃は、体が重く、思うように動けないけど、彼女のことを(ためと)意識すると突如動き出す、というぐらいその生活全てを完全に牛耳られているのに、彼らは、「動けるのは彼女のおかげ」と信奉を強め、従順な僕となる。(その要素は、心無い多くの宗教の中に取り込まれている)それによって繰り広げられる異様な風景は、次第にその時代の価値観として定着し、殆どの人がそれに違和感を覚えることもなく、生活環境は人間らしさの無いものとなっていく。

10/04

LEDの光に全く違和感を覚えない人たちへの違和感は、健全さを普通とする人たちの、何でもないあたり前の感性。IHもそうだけど、人としての感覚が健康的であれば、そこには近づくことはできない。街を歩くと、そこにはお金と物だけがあり、人が居ないように思うことがある。この20年程、そこかしこが嘘のように病み、大切な普通が蝕まれている。

人間らしく、感じることをそのままに本来でいようとする心ある人たちは、経済優先の思惑や心無い存在の鈍性により、経験しなくてもいい経験を強いられている。それは、IHLEDに違和感を覚えない人たちが理解し得ない、それらに(その原因の性質も含めて)敏感に反応する人たちの心身の不調と辛い現実。分からないから、その原因は放って置かれ、感じない人たちが主導するから、全てがヘンになる。そして、それに対する、要らないはずの仕事が増える。

都営新宿線の電車の多くにLEDが使われているため、思うように移動が出来ない時がある。そこでの風景は、不気味で生気の無い、ぞっとする病みだまり。皆、能面のように心を削り取られ、本来の人間ではなくなっていく。「本心と安心」の文章を是非読んで欲しい。「心と感性」の内容を大切にして欲しい。

地球感覚を大切にするのであれば、頭ではなく、心で判断し、思考ではなく、想いで事を進める。地球が嬉しいのは、地球に優しくしようとする行為(思考の満足)ではなく、優しい人たちのありのままの風景。彼らが不健康になることほど、地球が悲しむものはない。そこにはLEDIHも存在しない。

(さすがに昨今、IHを選ぶ人はだいぶ減ってきているが、LEDは、心を持たない人たちがどういうわけか躍起になっている。鈍性は、生命世界にとって、危うさそのものである。不自然に作られた時流は、凶器である)

10/02

1)命の危険も無く、普通に暮らしていけるこの国のこの時、確かな想いを具現化させないと未来が荒んだものになってしまうとしたら、どんな原因でいて、どんな自分を生きるだろうか? その性質如何でこの先2000年もの間、人々が対立し、公平さを無くした厳しい時代が続くとしたら、何を望み、そのために何を選択するだろうか?

 

2)人が人としての大切なことを意識しなければならないことへの素朴な違和感を抱く時、原因は軽やかになり、そのままそれは責任あるものへと変わり出す。人はなぜ生き、いかに人は生きるか、の発想に触れるまでもなくその世界から自由でいる時、何気に生きる姿勢は本来のそれと重なり、創り出される空間までが、柔らかな時を連ねる仕事をするようになる。

この地球で共に生きる生命たちへの愛しさを普通とする時、望みは、その理由を必要としないささやかなものとなり、ありのままに時を癒し、生命を生かす。そこで選択されるものは皆、心ある想いに案内されて未来に届き、それが自然に為される時、人は、その意識もなく真を生きることになる。

10/01

2015

…という間に10月。ここからまた、本来の普通を支えるべく材料(原因)を言葉にする。一度掛け間違えたボタンがそこにあれば、それを修正しない限り、嘘の時間が流れ、生きることも、真から外れたままとなる。順を追って書いてきている、2015年の、原因の世界から(経験の外側から)観た、あまりにオカシな風景と、それをしつこく固めようとする存在たち。織田信長が超が付くぐらい小心者であったことは、彼のその本性(正体)に触れてみると容易に分かる。人は、恐怖心を精神に馴染ませている人ほど、人間味を無くし、人間技ではない凶悪な方法で強さを身に付ける。それは、弱さの証明。強い人は、戦うことを望まない。別の日記で書いていこうと思う。

このページの日記は、全く次元の異なる病み玉を形にする。その内容は、誰もが??になるほど、長いこと本当のこととして伝えられ、学ばされてきた、とてつもない嘘のつくり話。「心の遺伝子」の風景と今を繋ぐ道をキレイにするための、その重要なコーナーを走り抜ける。原因(生命本来)の世界では、歪みがそのままであることはあり得ない。

 

9/27

15)人が生きていく上で最も大切にされるべき普通は、自らが創り出す空間への責任と、その手前の、責任ある原因の具現化である。空間は、時空を超えていろいろな場所ともあたり前に繋がっているから、もちろんその性質にも、その影響にも、その意識もなくさらりと責任を持つ。

それは、人間が、この地球に生きる生命として普通感覚で表現する自然な姿。それが永いことそうではなくなっていた理由は、2015年の無有日記の中で書いている。これまでの負の連鎖と繰り返される歴史の背景も、その原因となっている。だからこそ改めて、新たな原因の時を皆で創り出す。未来が安心し、過去が癒されに来る今という原因を共に連ね、成長させていく。

そうである理由を知り得るということは、その理由となる原因が大きく力を失くす程の、そうではない新たな理由そのものを皆が力強く生きているという証。その時を迎えたから動き出す、これまでの時。その全ての時に、癒し色の風を送る。それを喜ぶ未来の風景で、月を誘い、太陽と遊ぶ。

9/26

ふと気づけば、身体が軽く、気持ちも前へと向き、どこか動きやすくなっている。そんな話を聞くと、とても嬉しい。どちらでもあり、どちらでもない中で、生命としての望むべき原因を差し出す無有日記の世界。その始まりは、遠い昔の、心優しき柔らかな存在たちとの融合。その全てが、全てである生命たちの希望の歩み。

通らなくてもいい道ははるか後方に…。歩むことで道はでき、そのことで歩むべき道も成長する。生命の進化って、素朴で単純なもの。思考も感情も全て自由にさせ、経験や記憶の一切からも自由でいて、そこに在る(残る)ものを見つめ、全体になる。そして全体を生きる生命そのものとしての思考と感情をありのままに表現し、経験を創る。その難しく思える、全くそうではない(簡単な)プロセスを、皆で体験する。心も身体も、本来が活躍する。

9/25

14)心温かな普通の人が、多くの人が元気になれる仕事に就いても事が上手く進まない理由は、一緒にその仕事に関わる他の人の中に、人々の苦しみと嘆きを愉しむ不穏な無意識と、いくつもの悲惨な出来事のその原因と繋がる心寒い感情があるから。

学校や職場、身近な人間関係(身内、友人間)でもそう。普通の人が普通に行けなくなるのは、その無意識の意思が、重苦しさや惨たらしさのあるかつての空間と繋がり、それを原因とする本性(本心)をそのままに普通を装う、全く普通ではない人がそこに居るから。

そんな彼らは、平和を願い、平和を遠ざける。未来を思い、未来を壊す。時に彼らは、心優しい人の素朴な想いを巧く利用し、自らが人の辛さの原因でいながら、その状況を材料に善人でいようとする程だから、知るべき事実を知り、その理解を力に変える。原因の質の成長は、その大きな要素となる。

9/23

13)行かなきゃ、と思っていても、なかなかその場所には行けず、会った方がいいと分かっているのに、どうしてもその人に会う気にはなれないのは、簡単に言葉には出来ない大切な理由がそこにはあるから。それは、繋がる空間の危うさ、融合し難いその原因。これまでにも何度かそうであった時を経験してきているから、感じるままに判断する。感情の主導権を握り、淡々と想いを形にする。

ある一つの場所には、そこに住む人の生き方や価値観と繋がるそれまでのそこでの暮らしが、その原因の風景の中に幾重にも重なり合っていて、そこに在る建て前や風習の中にも、現在に繋がるその原因となるいくつもの出来事や関係性が、多次元的にその性質のまま存在する。

その昔にその場所で犠牲になった人の悲しみの原因がそのままである時、足を運ぶタイミングは今ではないことを感覚的に覚えることがある。その切ない出来事に関わった存在の感情と同質のものがその人(会った方がいい人)の中に在る時、それを感知して、会わなくてもいい流れを本能的に作り出していることもある。

その人の何気ない言動や喜びとする対象から自然と伝わり出す、彼(彼女)と繋がる空間での人々の暮らしと、様々なかつての出来事。ある性質の人たちを生み出す場所の、その原因となる以前の風景。感性の健全さは、生命としての人間の在るべき姿をさりげなく守ってくれている。

9/20

「…。信長としての時代には、それまでの特殊経験で鍛えた冷酷さと異常な征服欲を余裕で働かせ、一緒に世を病ませる仲間たち(かつての仲間)が驚くほどの残酷な様を展開させていく。この頃の惨たらしい数々の様相に震え慄き、不合理な処罰を受け、命を奪われた数万の普通の人たちは、その後の人生のいつの時も、同時代に転生したその存在たちの無意識の影響により、理由の分からない辛さと厳しさを経験させられてしまう…」という箇所が含まれる文章を執筆中である。完成はまだ先だけど、その文章の存在をひと足先にここに載せてみる。「1000年目の夜明け」とセットメニューのようなそれは、多くの人の心の風景での廃品回収をしてくれる。

歴史上、最弱添加人の信長。怯えも怖れも転下一。それによる悪影響の度合いは、絵辛煮も恋心を抱くほど。偽り人の親らんが可哀想に思える。

3人は、現代において、複雑怪奇な三角関係になってしまうのだろうか? いや、秀吉も、彼女に恋文を送ったとか…。ギャラリーは、人生を奪われた人たちで満席である。みんな、思い思いに無くしたものを復活・再生させている。

9/17

12)純粋で感性豊かな人のさりげない原因は、太陽も月も地球も安心する、大自然の生命の意思そのもの。時代の財産でもある彼らの心を潰そうとするその存在たちへの対応は、次の時代への、大いなる責任の仕事である。心無い人たちの無意識の中に、人間とは思えない感情の記憶(経験)があれば、いつまで経っても形ばかりの平和が力を持ち、思考でそれを支えようとする彼らの負の影響力は消えないままである。そんな彼らに人生(命)を奪われた人たちの原因がそのままでは、どこまで行っても、現実は酷く悲惨な過去(という名のかつての原因)に引き込まれ、未来は繰り返し壊されてしまう。

創り出す空間とその原因は、これまでの何処と繋がり、これからのどんな未来を引き寄せようとしているか? その原因の性質は、かつての風景をどれくらい浄化でき、共に未来の原因として、どれくらいそれを(未来を)ここに招き入れられるか? ムーセンテンスは、心ある全ての人に、そのための材料を提供する。

9/15

不安も怖れも無い世界の原因を何より怖れ、不安になる、結果を生きることしか知らない、人の動きをその無意識の病みで簡単に止めてしまう存在たち。彼らが永いこと固めてきた、流れない価値世界と、それによる動きの無い環境を本来の在るべき姿へと変えるのはどう考えても不可能であるけど、実は、考えなければ、それがいつのまにか変わってしまうという面白い現実を、今、たくさんの人たちが実感するところにいる。

言葉や行為の手前の原因の仕事は無限であり、必要に応じてそれはどんなにも変われるということ。それが形になったムーセンテンスは、とても難しい(とされる)テーマが平易な言葉でさらりと表現されていて、読んでいる時は分かっても、読み終えたらす〜っとこれまでの思考世界から消えてしまうということ。そして、あたり前に平和で愛溢れる世界の基本となる原因は、ただそうである自分でいればいいということ。

ふといつのまにか変わってしまう、変わるべき世界のガラクタは、皆不安と怖れを材料に出来上がっているから、その類の性質が全く通用しない時間を過ごし、そのままで空間を変える。何ともぶつからずに(ぶつかって来る??な存在はいるけど)、未来と繋がる水となり、空気になる。

9/13

待つしかない時は、やむ無くそれをそのまま受容することが大切な仕事となるけど、待たなくてもいい時の大切な仕事は、決してこれまでのようには待たないこと。表現し、自らを見つめ、表現し直し、自らを知る。そして更に表現し、その原因全てを責任とする。

この時の身体経験は、一度だけ。永遠の生命を基礎に、何度も人間時間を重ねて引き寄せたこの今だから、切なる想いとさりげない感覚を形にし、密度の濃い原因の時を過ごす。それが難しかったこれまでの言いようのない重たい理由は、2015年の無有日記で確実に砕かれ、「おまけ」の登場で、見通しの良い風景が目の前に広がり始める。

待ち続けた中で溜め込んでしまった要らないものは、脱力感などを通して、同じ場所にいることもなく動き出し、と同時に、前へと進み行く、子供心いっぱいの気持ちが力強くなる。今回の人生を、ここでの心の具現化を大いに楽しむ。

9/11

11)彼らの闇の原点は、数千年前の(「再生」の頃)、いくつもの温泉が湧き出る場所近くの、森に囲まれた高原。太陽から隠れて行動できるその場所は、人々に恐怖心を与えやすく、闇夜の活動を安定させ、支配欲も満たすことになる。

姿・形は普通でも、中身は全く異なるその存在は、今の時代、人の目に容易に映る場所に居て、たくさんの人の耳に届く声(言葉、歌)を発信し、人々の、特に若者たちの感性を病ませていく。昼夜が逆転し、太陽が沈む頃から動き出す人。カーテンを閉め切って、部屋にばかり居る人。人工的なものばかりに興味を持ち、人との関わりを避ける人。健康的な生き方に関心を持てない人。彼らの脳はすでに支配され、周りの空間は、常にその存在たちの無意識世界の闇と繋がり、恐怖心も強まり、生きることも難しくなる。負の歴史の黒幕的存在として永いこと重要な場所に居続けてきたその存在たちは、この「時空間の記憶」を、太陽や満月のように忌み嫌う。

9/09

今起きていることをいろいろ知りたがる分、それらがなぜ起きているか、というその原因に触れることは難しくなる。悲しい出来事が後を絶たないのは、何でも他人事にできる(ポーズはそれらしいが…)人たちがそれに関心を示し、まるで趣味感覚のようにして、その出来事を詳しく知ろうとするから。結果としてその出来事は固められ、その原因となる部分は何も変わらず、同じような次が引き起こされる。それを楽しむ、その原因に関わる危うい存在たち。情報が氾濫する社会は、それだけで、起きなくてもいい出来事が日常化するということ。

情報(知識)が先になれば、感性は姿を消し、原因は力を失くす。そんな中、出来事の原因に触れる人は、その確認作業のようにさらりと情報を把握し、次へ行く。そして確実に、起きている出来事の質を変えていく。

9/06

「おばけ」のような「おまけ」のページ。この秋に間に合って良かったと思う。2015年の無有日記を読み進めていける人たちの中に在る、切なさや悲しみ(辛さ、苦しみ)の記憶が、そこで癒される。

当初は、番外編として「1000年目の夜明け」に添えようと思ったけど、いつのまにかボツになり、その後、その好影響の程を実感する人が増え、新たにページを設けた。

要らないものを溜め込んだ(溜め込まされた)分、心身の反応も大きい。遠い昔に何度か人生(生命)を潰された人は、疲労感や不調感がかなりのものになるかもしれない。そして、徐々に元気の源を取り戻し、楽になる。動きにくさを覚えていたその理由の元が遠のいていく。

「おまけ(おばけ)」のページの日記は、あと少し増やしていこうと思う。その必要性は、生命の歴史と次の時代の望みでもあるから、更新の度に、普通の質をUPさせる。文章に乗った原因(エネルギー)は、これまでにない経験を創る。

9/05

10)心優しい柔らかな人がありのままに創り出そうとする、未来が喜ぶ、みんなの空間。それを阻止しようとする重たい人は、自らの空間が昔の惨たらしい空間と繋がるその異常さを力に、執拗で悪質な手を使い、みんなの空間を壊す。

彼(彼女)の本性の遺伝子には、どういうわけか闇を好む性質が在り、太陽を嫌い、満月を避ける。安心して活動的になれるのは、月の出ていない夜。その無意識の意思は、地を這う動物のようにうごめき、獲物を狙う獣のように世を暗躍して、嫌悪の対象である健全な感性の持ち主の脳に害を与える。

自分たち以外の人間と動物たちの生命力が高まる満月の時は、その不安定な精神状態と非人間的な本性が妙な高揚感(興奮状態)を作り出し、その自覚もなく攻撃的で凶暴になる。地球自然界が活力を高める太陽の光は、自分たちにとっては、苦しみの原因そのもの。それを避けられる場所を確保し、そこに人を引き込み、陰湿で残忍な関係性を広めていく。それはまるで、遠い昔に、生命の歴史を破壊した人間に懐いていた獰猛な蛇のよう。

9/04

9)昔に惨殺が行われた場所や、迫害に苦しむ人たちが住んでいた地域は、普通の感覚を持っていれば、そこに何らかの違和感を覚えたり、心身に微妙な変化を感じたりすることがある。しかし、原因(生命)を無視して生きる人の殆どは、何も感じないか、自らの本性(非人間的な感情)を本能的に隠すために、ある種の能力でやけに反応する動きに出る。その様子は、不気味にも思える。

冷酷で非情な人間(人とは思えない存在)であった経験を持つ人の、その心の無さは現代でもそうであるので、その表れである、建て前や体裁(世間体)を何より大事にする人や、言葉や行為の手前の自分の性質を無視できる人の多くは、人が苦しむ姿を喜び、迫害(殺害)する側でいることに快感を覚えていた経験(重たいままの原因の記憶)を、思考と切り離した無意識の中に閉じ込めていることになる。心が無いからこそ可能とするそれは、知識を武器に頭だけで生きる(頑張れる)人や、ご利益心を強く抱き続ける人にも観られる。原因の世界では、どんな時も、その人のそのままを容易に顕にする。

9/03

9月に入り、昨年の今頃とは全く違った場所にいるこの今から、新たな時を創り続ける。

1000年目の夜明け」の後、ふと気づけば、20年ぐらい前のそれぞれの表情が柔らかになり、この10年の歩みを共に讃え合える今を楽しむ。その意識もなく原因を生きる姿勢の基礎となる部分が、本来をテーマにとてつもない勢いで変わり出した、8月のラスト1週間。できる事も、行ける場所も増えていき、その人らしさが、自然で、力強く活躍する。経験しなくてもいい経験が、近寄れなくなっている。

9/01

2015

n.いつの時代でも、それぞれの性別による互いの特性を活かしながら、男女が共に協力し合い、生かし合う空間は貴いものがある。ただしかし、同じ時が繰り返されてはならない非人間的な現実が、それまでの男女間においてしつこく繰り広げられていた事実(歴史)がそこにある時、その時期ならではの(その時期にしか出来ない)時代の切なる必要性から、男女の縁とその関係性を本来にすべくかけがえのない仕事としての、異性間の概念を超越した生命としての真を生きる役を、その志を自らの原因(生命の意思)とひとつにする存在が担うことになる。その時がまさに鎌倉の時代であり、それを厳かに実践したのが、その頃の心ある純粋な僧たちである。

彼らの、全ての生命を尊ぶ、隔たりも優越も無いその精神性は、男女が互いに望むそれぞれの姿を愛情と平和の要素の中で融合させ、それを時を超えて通用するものへと安定させるための、その基礎となる人間(生命)の本質を力強くさせていく力。それによって、素朴で温かな普通の人たちは、生命としての自由と、人間としての責任を、家族間や友人間で育み、男女それぞれが持つ性質(性)を尊重し合い、支え合って生きていく。

その最も重要な時にその仕事を放棄したのが親鸞である。彼は、人間としての自由を前面に、生命としての無責任を実行する。彼がまともな人間であれば、その後永きに渡って女性たちが苦しみに耐え、辛い想いを抱き続けなくてもよかった、その悪質な思惑による、嘘のような病みの融合(妻帯)。逃すことはあってはならない変化の時に親鸞が取った行動は、後の心ある人々(特に女性たち)の切なさの強力な原因となり、社会は健全さを失う。

女性であるがために辛く悲しい現実を当然のようにして経験させられていたその時代の、世の常識は、不公平感が力を持つ、歪で人間味の無いもの。自らがそうではない時代の原因となるべく生を生きた僧たちの姿は尊い。その時の未来となる今。心優しき男女は、ありのままに本来を生き、互いにとって、みんなにとっての友愛と調和を表現する。

 

8/31

m.植物は、命を貰う。動物は、命を奪う。ある生活環境での特殊な必要性から、やむ無く動物の命を貰うこともあるが、そうではない時、それを常とすることは、人間としてあってはならない。

それは、代謝等を考えた然るべき食習慣という観点でのことではなく、そのことにより、健全な細胞活動を支える心の意思と精神性は不自然・不安定となり、次第に凶暴さを帯びた感情が脳を支配するようになって、その自覚もなく人間本来(人間らしさ)を失くした生活感覚を普通としてしまうためである。

詳しくは「本心と安心」の中に書いているが、それは柔らかな感性を持つ人の人生を確実に壊し、人間味の無い重たい本性を持つ人の攻撃的な否定感情(支配、破壊、権勢etc.)を強める原因にもなる。それはまた、差別や偏見、嘘や偽善を生み出す力の燃料にもなるものである。

時代背景を考えても、当時の環境ではまずはあり得ない、仏教の僧による肉食。親鸞の、その存在の意思からなる目的は、自らの言動そのものが負の遺産になること。そのために僧となり、そのために法然を、その根っからの嘘で上手く利用する。まるで大義名分のようにして、悪質な感情を隠し持つ人たちに大事にされる親鸞のその蛮行は、心ある人たちの生きにくさの重量級の原因となって人間の細胞にまで染み込み、それを嬉しい野蛮で残忍な存在たちを活躍させる。

人間の心と精神から健全さが奪われ、重苦しく病んだ世が永遠に続いていくその原因となる意思だけで身体を選んだ親鸞。彼が獣食を実行したのもそのためであり、その獣のような正体(本性の姿)を思えば、それは彼にとっての普通行為である。人間のために殺され続ける動物たちの苦しみの風景の元を辿ると、そこには親鸞がいる。

8/29

…という間に「1000年目の夜明け」が終わろうとしているけど、どう考えても順番がオカシイ。まだ「時空間の記憶」も終わっていない。最終節(15番目)には、親鸞の彼女がちらっと姿を見せるけど、その箇所に触れた時の反応はかなりのものなのでは、と思う。(と、その彼女を意識しただけでも、強烈な反応を覚える人もいると思うが…)

隙間なく書き続けたのも、ほんの僅かでも隙間を作ってはならないテーマであったから。人間としての普通の心を持たない人は、何を言っても(行っても)全てが嘘であるという、原因(生命)の世界での真実。その嘘の元祖的な存在の文章を通して、ずっと溜め込まされてきたものが動き出し、外れていく。どんどん人間本来を活躍させて欲しい。

8/28

8)場所の原因に対する生命本来の健全な感覚は、当然、人にも同様に自動的に行われる。もちろんその基本には、「心の遺伝子」との自然な融合が大切となるが、縁する人が結果(過去)に居続けようとする時、そこに在ってはならない原因が、言葉(声)や行為からあたり前のようにして伝わってくる。

不必要な融合を経験させられ、不本意な変化しにくさの中に居させられている人がいるが、そんな原因となる要素を無意識の中に持ち、純粋で心優しい人の動きを簡単に止めてしまう人がいる。その理由は、その人の中に、心ある人たちの素朴な原因(生き方)を尽く潰した過去(という名のかつての原因)が今尚活動的であるから。その類の出来事を主導した存在と同質の感情を持ち合わせている人も、同じように柔らかな感性を持つ人の人生を奪う。

彼らは、迫害や殺戮の現場にいて罪無き人たちの人生を壊し、命を奪うという、人間には出来ない経験のその凶悪な原因をそのままに今を生きているゆえ、縁するだけで、その時代の風景に引き込まれるようにして、心ある人は、心身の不調を経験させられてしまう。その本性、残虐で凶暴。環境が異なる現代では、思考で心ある人を演じ、重苦しい過去と重なるその無意識の危うさで、普通自然体の人の生きる力を奪う。

8/27

k.いつの時代のもの(こと)でもそうであるが、人の思惑(欲)によって残されたものではなく、人の心(想い)によって残り得たものを大切にする。そのことで人は、繋ぐ責任の質を高め、何気ない感覚的理解も、地球感覚のそれとして成長させることになる。

その人が何を言い(書き)、何を行ったかという形ある結果から一切自由でいて、そこに在るそれらの原因の風景(どんな自分がそれを行ったか?)を感じ得る自分でいる時、その感性が高められていく中で知り得るのは、親鸞の本性(本当の姿)である彼の無意識が、人間の理解を遥かに超える程の、恐ろしさそのものであるということ。それは、凶悪な念のような能力を普通とし、何もせず心ある人の生命力を奪い、自分のものにしてしまうというもの。呪術系の表現をする人を批判することで自らがそれそのものでいる姿を巧く隠し、人の生命力を吸い取りながら(人の命を削りながら)ご利益心を煽り、自分だけが好き放題人間だけを生きる。その基本要素は、浄土真宗の要所を占める僧たちに引き継がれ、それぞれの時代仕様に様々に応用されてきている。

なぜ、それ程のことを可能とし、今日に至るまで、聖人という嘘を本当として来れたかの理由は、彼の本性の遺伝子の完成版が、「再生」の原点の時の人生であるから。もちろん「この国の病みの始まり」の時もその凶悪な本性のままに生き、いくつかの時代を経て、鎌倉の時に、完全なる破壊と支配の意思(恐怖心)を人の脳に植え付け、具現化する。僧という立場で人の思考を操り、悲運な人間像を利用して印象を高め、そして無意識の意思の力で、人々の精神と生きる自由を縛る。その影響力はどこまで行っても分かりにくく、信じ難いものであるが、それが親鸞である。一族たちも、徹底して協力する。

人の心(想い)によって残り得たものに感応する時、やむ無くそこに残り得なかったものの原因を動かし、それをここに招くことも可能とする。人間の、原因の世界における可能性は無限である。それを普通に高めていくことが、真に知るということであり、分かるということである。

8/26

7)恐ろしく悲惨な出来事がある力によって歴史から消されたとしても、そうであった事実の原因はそのままそこに在り、時を経ても、何らかの影響を及ぼし続ける。望ましい未来の原因を生きることは、人間本来の普通の姿であるが、自然体でそうである人は、感性も生命としてのそれ(ありのままの平和の原因)であるゆえ、未来に繋がり得なかった切なる望みが浄化されないまま(隠され、無視されたまま)そこに在れば、悠に時を遡ってそれを感じ取り、その原因の性質を多次元的に調整する。ただしかし、そこには、素朴で正直な人たちに経験しなくてもいい経験を強いた酷い存在たちの重たさがあるので、時に、より微細で力強い原因(存在の)が要される。

そこに無くても有り、有っても無いものとして扱われてしまう、力を失くしたままのそれまでのいくつもの原因。真の癒しは、その世界への対応を普通とし、連なる原因とそこでの空間の重なりを、本来をテーマに調和あるものへと変えていく。

8/25

j.仏の心を大切にしようとすれば、そこには居られなくなる浄土真宗。それだから、嘘そのもので本当を生きる人が集い易く、彼らを迎える僧も商売がし易い。元々が作り物だから、心が無くても心配は無く、形で繕えば、全ては善となる。大切なものは何も持たず、要らないものばかりで事は進められる。

嘘そのものでいる人は、決して嘘は言わない、重たさそのものの人。正しいことを言い、人の脳の働きを鈍らせ、良いことをして、人の健全な動きを止める。その重たさの中身は、長年培った惨い無意識。柔らかい人は、理由も分からず辛さを経験させられ、重たい彼らは、巧くそれを利用して、善人になる。

親鸞と同質の多くの存在たちが徹底した嘘で善人を生きたことで、世は、重たい人の住み易い場となり、柔らかい人は、いつの時も、厳しく大変な状況を経験することになる。重たい人は、そのままで人知れず柔らかい人を病ませ、柔らかい人は、そのままで重たい人の影響を受ける。それを確固たるものにした浄土真宗は、重たさの極みと言える。

柔らかい人は、嘘の無い人。自分に正直でいて、人を大切に、時を癒す人。心ある想いをありのままに表現する彼らの原因は、平和そのもの。不公正を知らず、隔たりの思考も抱くことは出来ない。そんな性質の人たちが安心して、元気に過ごしていける時のために、この文章がある。誰もが、そのままで伝わる自らの原因(心の性質)に責任を持つために、この文章に、時空を軽く超える原因(エネルギー)を乗せる。柔らかい人たちの人間らしさが活躍する。

仏の心を大切にしようとすれば、重たいままではいられない浄土真宗。人のため、世のために、嘘を自覚し、その重たさを自らが砕いていく原因を真剣に生きる。柔らかな人たちも、喜んでそれを応援する。この今が引き寄せる未来も、それを望んでいる。それが仏の心。それが仏教である。

8/24

6)どんな出来事も、直ぐに今から離れ過去のものになってしまう認識を人間の脳は常識とするが、身体活動を選んだ生命の意思世界から観れば、それは至極非常識で、実際は、過去という名のそれまでの原因は皆、未来という名の次なる原因と呼応しながら、変化し続ける今の中で絶えず息づき、多次元的にその質を変化させながら、生命を生かす原因(生命)の仕事をし続けているのが真の普通の姿である。つまり、過去と今(かつての未来)を切り離すことは不可能で、脳の中でのみ通用する思考の産物としての過去は在っても、形ある存在としての過去はどこにも無いということ。その認識を生きる基本形に重ねれば、人は、生命としての人生を普通に表現し、今の中に在る様々な性質の原因を必要に応じ把握し、浄化することになる。未来のために、過去の原因を調整することなど、難しいことではないことも理解する。

8/23

5)数百年前に大勢の罪無き人たちが惨殺された場所の、その今を偶然訪れることになった時、他との何らかの違いを感じることは普通一般にはあり得ないことだが、健全な感性をあたり前に未来の確かな原因でい続ける人は、現代に繋がろうとするかつての原因の中に不自然で不穏なものが在ると、普通感覚でそれを感得する。それは未来が喜び、過去が癒される今を生きていることで自然と為されるもので、当時の風景に、浄化されないままの(浄化されようとする)原因の蓄積が置き去りにされたままであれば、より一層その感覚は増すことになる。

その経験を通して融合は高まり、身動きも出来なかったその頃の原因(存在たち)は、安心して癒される機会を得る。原因を生きる何気ない姿勢の中には、多次元的な通り道が無数に在り、かつての風景の性質を、そこでの人々の意識や出来事も含めて、感覚的に観察し得ることを可能とする。それは、形や物にこだわり、頭だけで結果を生きる人には、永遠に触れることの出来ない生命世界の普通である。

8/22

i.「地球の良心」にも登場する親鸞。徹底した嘘で真実を生きた彼は、変化(真実)への否定と他力依存という、世が病み続ける上で取り分け重要となる負の原因づくりを為し遂げ、本性を同じくする存在たち(かの一族関わり)の期待に応える。そして、それに続く、強い者が弱い者を支配し、人間としての健全な感性を持つ人が悪質な力によって差別を受け、命を奪われていく、暗く悲惨な時代の連なり。その後転生した親鸞は、本性(正体)に蓋をする必要のない時代環境で感情(凶悪な意思)のままに行動し、伸び伸びと仏道無視の非道な人生を生きる。自らが残した負の遺産に支えられながら。

辛い経験を強いられ、人々の生活が苦しくなる程に力を付ける浄土真宗は、心を無くした支配層のために世を病ませ、自分たちの利益のために人を助ける。その構図が完璧なのも、親鸞の手腕のおかげ。僧たちは、助けられて安心する(騙されて利用される)人たちの前で説法をし、念仏を上げる。人は、苦しみを普通とし、仏にすがる。権力者と浄土真宗との、その本質を同じくする両者の融合(互助)により、永い間、世は混乱と争いを安定させていく。

権威(名誉)と蓄財と法話は、浄土真宗の多くの僧が何より大事にすること。そのこと自体、心の無さを表すものであるが、それに全く無感覚でいられる彼らの普通は、まさに並外れた鈍性の現れである。そのことが顕にするのは、その原因の風景に見え隠れする、彼らのかつての非人間的な行為。すべきことは何もせず、人の苦しみをそのままに、人の命の犠牲まで放って置ける残忍な姿。時代が変われば、巧く見た目と思考を塗り替えてしまう、その嘘のような本性の遺伝子。現代でも尚、それは顕在である。

そして今、彼は、他の存在たちと同じようにこの時代に生を持ち、自分たちが生きにくくなる友愛と調和の原因の高まりを阻止すべく、その無意識の意思を最大限に活発化させる。当然この無有日記の存在も知り、それを意識する余り、図らずも彼(and 彼女)は、柔らかな感性と力強い原因を普通とする人たちに、その姿とこれまでの幾多の悪行を把握されることになる。

そのことを通して、これまでの厳しい時の経験は徐々に癒され、理由も分からず苦しかった日々の原因は、新たな現実から離れていく。次第に心は安心に包まれ、身体は軽快さを普通とする。希望は意思表示をし始め、何気ない日常との重なりを喜ぶ。愛情も慈悲心も、みんなの普通。そうではなかった時の切なさは、この「1000年目の夜明け」で癒され、そうであるべきことが次々とこの時に集まり、そして溶け出す。仏教には意思がある。人の心にも、何よりそれを大切にする意思がある。

8/21

h.誰のためでもなく、みんなのため、という発想は、特別でも何でもない普通のことで、そうである人たちの集まる空間では不調和な原因も生まれないので、誰も調和を意識することもなく、風は優しく、心は温かい。その普通が次第に無くなってしまっていた時、それへの悲しみは、言葉にもならない。その悲しみに蓋をしなければ生きては行けなくなった時、それは苦しみに変わり、心は希望を無くす。

親鸞が動き出した時、「心の遺伝子」は一気に力を失くす。内に秘めたその恐ろしい獰猛さに、人は繋ぐものを忘れ、道を見失う。彼の言葉(声)に乗った、その人間とは思えない冷血さと破壊の原因。純粋な人ほど脳の働きを鈍くさせられ、大勢の人たちが、頭が喜び心が嘆く状態を慢性化させていく。

人に簡単に恐怖心を植え付けてしまう程の彼の力は、その本性(燃料)となる経験の記憶を遥か昔に持ち、仏師という立場でその残酷さを隠し、説法を通して、同質の存在たちの活躍を強める。人としての魂を持ち得ないゆえ、虚偽を重ね、思考で為された、人々の魂の救済。親鸞のその信じ難い負の影響力により、世はどこまでも病み続け、時代は自浄力を失くしていく。浄土真宗の僧たちにとっては、喜ばしい限りである。

現代にまで続く、親鸞繋がりのその負の連鎖は、健全な感性を奪われて(脳をおかしくさせられて)苦しんでいる人たちを巧く利用するそれ系の僧たちにより、更なる病みの増幅を具現化させるところにいたが、彼と同時代に生き、その全てを本能的に感知していた何人かの真の存在が、時に死と隣り合わせの時空をくぐり抜けながらも生命を生きる人間としての確かな原因をけんめいに繋いでいた貴い事実があり、ここに至り、どこまでも分かりにくくさせられてしまっていたその嘘の世界(親鸞から始まる宗教)がそのままではいられなくなる時を迎えている。本来の感性を取り戻し、理由の要らない平和の原因でいる人たちの柔らかな想いが、その壮大な役を担い、力強くしなやかに、それを次へと繋ぐ。

誰のためでもなく、みんなのため、という発想は、それを言葉にするまでもなくそうである自分を普通とするから、何気ないその発想が、そうではない時の原因を浄化する。みんながそうであっても、それがなぜか力を失くし、姿を無くさざるを得なかった理由は、これまでにもいくつかのページで書いてきているが、平安期後の親鸞の登場で、その修正・浄化の機会が完全に閉ざされてしまったことは、この国だけでなく、この地球全体にとっても悲しみである。それが1000年も続いたこと。切なさの極みである。

この時の訪れを、どれほどの姿無き生命たちが喜んでいることだろうか? どれだけの安堵感が、彼らみんなに流れていることだろうか? 真実は、実にシンプルである。そこにある原因は、いつの時も、どこまでも正直である。

8/18

4)人が住み続ける場所は、百年程の年月が経てば、その姿も様変わりし、人々の生活全般がそれまでとは違ったものになったりするが、それは、形ある結果としての現実の変化に焦点を置くという、直線的な時間感覚を普通とする人間の知覚主導の観点によるもので、そこから自由でいて、経験の外側との出会いを、「心の遺伝子」と融合する心が脳に働きかける機会を持てば、全く違った世界を観ることになる。(それはさらりと余裕で可能となるものであるが…)

その世界は、人の原因深くを感知する感性が普通に為し得る、その場所に繋がるかつての風景の観察と理解。もちろんそれは、感覚的な把握(違和感)による抽象的なものであるが、予想や想像の次元に触れずにそのままそれは先行し、そこに在る悲しみや切なさ、想いや希望を時に辛さを覚えながらも、時を超えて感じ取ることになる。何となく行きたくない場所に足を運んだ時に覚える感覚の背景には、そこに在り続ける未消化の原因が関わっていることが多い。自らの原因如何では、それは無意識による責任ある融合と連繋の意思の確認、授受であることもある。

8/17

g.感性を鈍らせたその存在たちは、目に見える形や結果を通してのみ知り得ることを知り、抽象的な世界における感覚的な理解とは縁遠い。彼らがそれを分かり得ることはなく、そうである自分を把握するところにはいない。それでいて、感じていることをそのまま言葉(行為)にしていると信じて疑わず、感性を育み、その質を向上させていると思い込む。

彼らは、感性の貧しさゆえの二者択一的思考を好み、善悪の判断に関心を強め、偉そうで、威厳たっぷりになる。知りたがり屋や聞きたがり屋も多く、その低俗な見聞を人に説く話の材料にし、しっかりと溜め込んだ否定感情で、それをそれらしく(法話、説法らしく)味付けする。

人の道には興味は無く、人に、人の道を説くことに興味がある。彼らの自然体は、趣味世界に興じている時の自分。その時になれば(仕事となれば)、聞こえの良い感動話の在庫を小出しすればいいだけ。相手の財力と見栄を値踏みし、頭の中は金勘定で忙しい。聖人も商人も喜んでそれに協力する。

自分たちは悪人で良いのだからと、嘘のような重たい感情で、あり得ない偽善を地で行く。見た目は普通でも、中身はすでに、救いようのない罪人級。それを正当化してくれる教えに感謝をし、日々人間味の無い生き方に磨きをかける。健全な感性を持つ人の前では、仏教の僧としての誇りを驕り高ぶり顕示する。

いかに生きるか、なぜ生きるかの話題が好きで、どんな自分がそこにいて、どんな未来と繋がっているかは全く無視。つまり、多分にこの世的で、期間限定。仏心も宗教心も無いからこそ熱心になれるその姿勢は、この世で一番人の思考をくすぐり、人の心を騙すもの。心ある生き方の基本材料は少しも備わっていない。

 

一生命としての人生に真剣でいると、縁する人の先の風景への影響にまであたり前に責任を覚える。それだと、ご利益心が高まらず、極楽浄土への思い込みも薄くなるから、当然生きることに不真面目になり、それをごまかすために真剣になる。そんな時に頼りになるのが、嘘で固めた権威と権力。それで集まる人たちとの中身の無い融合で、不気味な安心の時を享受する。

苦しみの中にいる人には、励ましはするが、その原因の中には入ろうとはしない。自由に動けない人には、動けないままでも良しとする姿勢でいて、相手にも、その原因とは向かわせない。原因を生きることを知らない僧は、当然人の原因を浄化することも出来ず、それへの居直り的傲慢さで、決まり文句の報恩感謝と一生懸命の訓示に執着する。その然るべき原因の無さは、人として、実に情けない姿である。人のために生きることも、人のために生きていると思うことで良しとするものであるから、その哀れさは悲しい程である。そこに、在るべきものは何も無い。

偽装という言葉があるが、偽僧も同じ場所にある。人間の本来の姿とその在り様を教える立場の僧がそうではないわけだから、誰もが納得できる言葉である。そこから見えてくる、改めて見つめ直すべきこれからの仏教。個人のご利益心を煽ったり、原因(生命世界)を切り離した浄土という言葉を登場させたりするものであってはならない。かつての風景ではやむ無くそうであったにしても、今尚それが在ることの悪影響は計り知れない。それを喜び、満足する人の心根はもはや人間本来のそれではないゆえ、それ系の僧は、まずは人間としての歩みを、何も無いところから始めることである。嘘を通用させるその後ろ盾そのものが嘘であるから。

 

病気の原因を浄化し、健康の原因を高めること。同じように、争いの原因を浄化し、平和の原因を膨らませること。そのために必要となる基本的なことは、経験や過去を理由とせず、自らが健康で平和そのものでいる原因(理由)でい続けること。その案内役として僧の仕事があり、否定感情から縁遠いところで淡々とそれを実践する彼らの貴さがある。その仕事を真っ先にすべき「1000年目の夜明け」の存在たち。重たい念仏を唱えている暇は無い。確かな原因を連ねずに、何かを求め、何かになってはならない。誤った道から離れるこの機会を最大限に活かし、生き直しをする。そのための協力は惜しまない。もちろん、相当の厳しさが伴うが。

仏教は、真の普通の原因とその人の本当の姿(無意識の意思)を融合させる場であり、その意識もなくそうである存在を通して皆が実践する、生きる基本の確認作業である。素朴で純粋な心の意思でもあるそれを、思考(学問)の域に収めることは出来ず、経験にしがみついて結果を生きることも、そこではあってはならない。頭を妙に使う分、本当の自分は生きにくくなり、未消化の感情がそのままだと、真の普通は遠のいてしまう。それを調和させ、本来を活躍させる、仏教というありのままの真の世界。どんなに仏教を学んだとしても、無意識の意思からなる本性の性質がそれと重ならなければ、本当の自分は頭(意識)から離され、型通りで表面的な仏教を良しとする、異様な世界の住人となってしまう。「この国のこれからのために」と2015年の無有日記を基本材料に、心のままに、心ある原因を楽しみながら生きる。それは、生命としての人間を生きる上での、責任ある普通である。

8/15

3)だがしかし、心無い人の好物である期間及び地域限定の価値観や、彼らの凶暴な無意識の反映である、不安や嫉妬を燃料とする歪な喜びの世界に触れていると、次第に心は力を失くし、頭だけで頑張れる姿勢を普通とし、本来であれば距離を置くべき場所や人も、そうではなくなってしまう。それにより、自らに染み込む、変化・成長とは無縁の滞りの原因が感性をより鈍らせ、心が主導権を握れないまま、心身は強烈な痛手を負う。その経過を喜び、元気になる、残忍で重たい感情の存在は、気力・体力を失くした柔らかな人を助け、支配する。

支配欲は、純粋な人の心の自由を奪い、彼らの行動を制限する(体を動けなくさせる)。否定的な思考と感情を道具に、人知れずそれを巧く実践する心を持たない存在は、自分たちが支える個人主義的な常識にそうではない心ある人たちをつき合わせ、彼らの頭を忙しくさせて心身を病ませ、その本性の満足を得ようとする。

8/14

e.とかく人は、信じたいことを信じ、正しいと思うことを正しさとする、人間だけを生きる人生を安易に選びたがる。しかし、生命を生きる(生命としての人間を生きる)時、それらの全ての真の(在るべき)姿をすでに知り、それを普通とする上で人生を生きることを、人は経験する。

人は、様々な気づきを生きる手段とするが、気づくべき時に気づき、それをあたり前のこととして気づくまでもなくそうである時を重ね、その概念から離れつつ、淡々と気づきそのものを生きる人生を、かけがえのない人間時間にする。それは、人間の、生命としての成長の現れ。思考枠を開放し、経験の外側との接点も自由となるその時の連なりに、気づきは要らない。さりげなく、ありのままに生命を生き、人間をやる。

人は、初めから自分の中に在るものを見ようと(知ろうと)せずに、心を脇に、頭で自分の知らない自分を外に求めて、それを本当の自分として探し続けるから、信じたいことに力が入り、それが正しさになる。そして、その気もなく要らないものを溜め、感情も個人の域から出られなくなる。

生命として大切にすべきことを持ち合わせているからこそ選択できる、人間という身体経験。その生命本来の姿は、生きる基本であり、人はそれを幼少期に、何も要らない優しさの中でその自覚もなく気づき、人生の、生命源からなる原因の糧にする。

生命としてのその普通を感得していれば勘違い人にはならなかったであろう親鸞。衆生を救済するとかの桁外れの病んだ発想も、そう思うことでそれになってしまう、彼流の、自らを知ろうとしない思考の力。せめて、鎌倉時代で終わって欲しかったその負の影響力は、信じたいことを信じ、正しいと思うことを正しさとする無知を世にはびこらせ、本性を嘘(悪)とする人々に支持されて、余りに酷い現実の下地になっていく。心が無いからこそ違和感にもならずにそれを自らに適合させる人の存在によって、よくぞここまで、と1000年間。それは、人間世界における極上(極楽級)の災いであり、生命世界から観た、悲しい程の喜劇である。

8/13

2つの日記で同時進行のようにして始まった「1000年目の夜明け」。その時を迎えられたということは、やっと先へ行けるということ。それをずっと待っていたこれまでが、未来の確かな原因になれるということ。どれほどの姿無き、心優しい存在たちが喜んでいることだろうか。歴史上最大級の勘違い事件が解明されることで、深〜いところから楽になれる人が増えていく。ふと気づけば、心は安心に包まれ、身体は軽く、時が変わる。その責任監修は、1000年分の時代の奴らにやってもらおうか。

8/12

2)「心の遺伝子」の存在に安心を覚え、それとの融合が自然である時、どこかにどうしても近寄れない場所や人が存在しても、全く心配は無い。むしろそれは当然のことであり、本能的にそうであるべき理由を感じ取っているゆえの感覚的判断であることを理解する。なぜなら、生命としての人間の成長は、思考の質の異なる人との関わりの中で紆余曲折を経験しながら為されるわけではなく、人としての本来を普通とする自分が同じ想いの人との関わりを引き寄せる中であたり前にそこで育まれるわけで、そのことが大切にできない場所に、普通の人は近づくことはできず、その意識もなく自然にその想いを共有できない人との縁は、避けることになる。

理由の要らない喜びと、その裏返しの存在を意識することのないありのままの平和と健康は、人間が人間でいるための基本である。その普通世界から離れている人(場所)は、それ自体が理由となり、離れていたい対象となる。

8/09

c.地球大自然の絶え間ぬ息吹のように、ありのままの自然体でいるからこそ、時にその姿を支え、維持するために文言はあり、自力とか他力とかの概念を必要としない中でそれは、人間主体の生命体験へといざなう役を担う。それを唱えることで功徳があるとかの次元を遥かに遠くに、淡々とそのままでいて、触れる人の責任ある原因に寄り添い続ける。決してご利益云々の世界を寄せ付けず、極楽浄土といった思考品で、生命としての在り方に背を向けさせることもしない。「日のあたる人生の中庭」も「生命の歴史」も、生命を生きる人間の心の意思であり、生きる基本である。

大切にされるべく文言は、願望でも到達でもなく、共に歩く親しい友人のよう。心の質の成長に合わせてそれは姿を変え、確かな原因の高まりにそれは表情を変える。特別からは無縁でいて、個人の枠に収まることも知らないそれは、当然義務でもなく、形ばかりの勤めでもない。人が人として、共に本来を生きる際の自然な姿を、どこまでも応援する。

そこから完全にかけ離れている、親鸞の唱える念仏行は、それ自体が真に生きることへの抵抗(放棄)であるゆえ、何も考えずにそれを実践する分、自らの原因を停滞させ、心ある柔らかな人の生きにくさを作り出す。それが広まることで、より個人の域に人を留まらせようとする、彼の危うい存在の意思。生命への無知と人間としての浅はかさを武器にしてしまえる程のその姿勢は、この国の負の連鎖の接着剤のようであり、それを喜ぶ非道な存在たちの病みの雛形のようである。あみだ仏という、経験枠を超えた存在を直線的な思考で扱ったことを考えても、彼が未来への責任を全く持ち得なかったことが分かる。

8/08

1)行かなければならないと分かっていても、どういうわけかその気にはなれずに接点を避けてしまう場所がある。世話にもなり、何かと良くしてくれる人なのに、気持ちよく会う気にはなれず、距離を置いてしまう人がいる。そんな時、後ろ向きの姿勢を振り切ってどうにか先へ動こうとするのだが、簡単には対処できない原因の絡みを感じ、上手くは行かない。そうである理由が分からないとはいえ、普通に考えていては到底分かり得ない理由があるかもしれないと思うから、要らない感情まで動かしてしまう。そんな自分の姿を情けなく思い、自由にならない思考に唖然となる。その場所は一層頭から離れず、その人は、記憶の中に居座る。そんな場所や人が増えていく予感の中で、人間関係は厳しさを伴い、人生は大きく蛇行することがある。どうにもならない時の連鎖によって、他者からの不本意な印象(人格)を背負わされることもある。

8/07

相手を思う自分以上に、相手から見た(見える)自分の姿を何気に感じ得ないと、その思いは形ばかりで、かえって相手の動きを止めてしまうことになる。相手にとっての自分にとって大切なことを思う姿勢は何ら問題は生じないが、相手にとって大切なことを思う姿勢だけだと、その多くが、理由の分からない滞りを生む。相手のために何かをする以外の何かを知らない人が、相手のために生きることは難しい。思うことで良しとする人は、自分のためにだけしか生きられず、その満足の(それをごまかす)ために、困った人や元気の無い人を利用する。人のために、と思わなければそうにはなれない自分では悲しい。

8/06

11)自分を知ることは、心の成長の大切な材料となるものであるが、そこに、知るという行為は要らない。頭でそうだと思っている自分の姿は実に都合の良いもので、そう思うことで、本当の自分を知らないままでいるという、偽りの姿であることは多い。本当の自分は、頭(思考)では知り得ない。期間限定の価値観の中にもそれは無い。

仏心が育まれないまま、仏教としての位置付けが為されてしまった、平安期の頃の宗教心の無い偽りの教え。それ以降の混乱と幾多の争いによる悲劇は、その頃の心無い残忍な僧たちがその土台を固めたとも言える。心を持たない人々が心を扱うわけだから、それは実に悲しい。彼らは、習得した知識や経験を自分だとし、無知に走る。持ち得た役職を自分の姿だと思い、変化を忘れる。そして、仏道を弄ぶ。

仏教は、知識になり得ない心の、ありのままの姿であり、そこから湧き出る、結果になり得ない、原因のままの生命の知識である。それを実践する人は、役職や経験からあたり前に自由でいて、そのままその存在が、未来の確かな原因となる責任ある役であり、経験(生きる姿)である。仏心を心に、仏教の真を人生に重ねる。それは、日本人の、かけがえのない財産である。

8/05

あるミュージシャンの歌を聴いて元気になれる時、実は、その人の歌を聴かないと元気が出なくなるぐらい、その人の妙な影響力で慢性的に元気が無くなってしまっているということがある。いつしか、その人の歌を聴いても元気になれなくなってしまうぐらい心身は消耗し、どうにもならなくなる時を迎える。そのミュージシャンの無意識の意思(目的)は、そこでほぼ完結。引き受けた原因の危うさも分からないまま、自由にならない頭の中で、お気に入りのメロディがリフレインする。

8/04

10)それゆえ、彼らにとっては、これからが大変である。なぜなら、今は普通の人間の姿をして、人知れず心ある純粋な人の生命力を奪い続けているが、身体を終えて意識だけになった時、それ自体が地球の異物であるため、生命世界のシンプルな真実の働きかけにより、永遠に転生が為されずに地球のはるか外へと放り出されてしまうのである。それまでは、その無意識の意思(本性)に蓋がされたまま、非人間的な世の常識や価値観の後ろ盾で簡単に人の命と人生を奪えていたが、今は全く違う。その本性は同じままであるゆえ、真の普通世界を通してそれは顕になり(隠せなくなり)、その性質(正体、転生における企み)を、人間的にも、エネルギー的にも(生命をテーマとしても)ごく普通に把握され、そして、高まる地球自然界の多次元的な自浄力により、あたり前に要らないもの(在ってはならないもの)となるのである。

言葉としての(言葉だけの)正しさや真実は要らない。生命として、人間として、正しさと真実の中にいるか? 密教及び念仏系関わりの人間ほど(かつての経験も含む)、真の平和の原因から縁遠い存在はいない。

8/03

1000000000円貰っても登りたくない山は、ひぇ〜山である。高野山は、空海を海に連れ出したい(逃がしてあげたい)ので、1000円で登ってもいい。関西の人たちは、子供の頃からそれらの山に馴染まされてしまうと聞く。残酷なこの国の歴史の基礎固めを担った2つの山。それらから学ぶものは何も無い。その2つの山との関わりを大事にする人は、この国の健康的な未来のために、地球から落ちてほしいと思う。

引き受けさせられていたものが少しずつ外れ、関わりを持たされたことによる影響から自由になる中で、その意識もなく自らの原因が変わり、感性も健全で本来となる時、ごく普通のこととして、最澄の本質を知り、親鸞の、それをはるかに上回る本性を感じ取ることが出来る。原因を生きるということは、そういうこと。この今に繋がるかつての原因の中身を浄化し、次への確かな原因を力強くさせていくということ。生きる原因の質を本来に、未来への責任を実践する。ここに繋いだかつての想い人たちの切なる願い(原因)をムダにはできない。

エネルギー(原因の性質とその意思、影響力)は、どんな昔のことでも、無限分の一の原因に触れ、容易に顕になる。真も心も、言葉は要らず、そのままでいい。

8/01

この後、「時空間の記憶」が出番を待っているのだが、そんなこんなの時の中、親鸞繋がりとこの国のキリスト教との密な関係性を絡めた文章ができた。思いのほか厳しい箇所もあったけど、2日間の空き時間でほぼ書き上げた。その時の瞬間瞬間に行ったワークは、「空と海」の比ではなかった。

危うさがどこまでも分かりにくく、どんな時でもキレイ事が先行するその世界は、まさに病み病みのるつぼ。そのページが誕生する頃は、どんな風景になっているのだろうか…。全くその自覚もなく嘘を本当のこととして生きられる、嘘しか知らない根っからの(全てが)嘘の人間が集まれる場所って、上質の妖怪村のよう。なぜ、永いこと、人はそれに気づけなかったのだろう? (気づいても、放って置くしかなかったのだろうが…)「地球の良心」が案内する。

8/01

2015

9)仏心と宗教心は、人間本来を生きる上でとても重要な性質のものであるが、それらの本質は、多次元的な要素を持つ原因と変化であり、慈悲も友愛も、喜びも自由も、その中にあたり前に在る。仏教が、人としての在り様を温かく支えるものであることを理解すれば、空や無の概念に触れるよりも先に、原因を生き、変化に乗ることの大切さを知ることになる。そして、その実践を通して普通となるのは、形ある物から引っ張り出す作業を必要としない、湧き上がる想いからなる、生命を生かす発想と知恵。仏教本来の姿でもあるそれは、存在そのもので心ある人の心を包み、時を癒すもの。(※心ある生き方を避ける心の無い人には、それによる影響力を自覚させ、その力を失くさせるための包み込みをする)その意識もなくそうである流れの中で、人間は成長し、生命としての進化を経験する。

人間には、人間として決して行ってはならないことがある。それは、人の心と体の自由を奪い、それらを支配するという、生かし合う生命の基本を大きく逸脱した野蛮な行為である。あまりに常識的な話なので、それを否定する人は何処にも居ないはずなのだが、世の不思議現象として、密教の世界にはそれがある。(神道も負けてはいないが…)

人として全く通用するものではないその非道な行為の背景には、それが存在し得てしまう、別次の全く普通ではない理由がある。修行や念といった次元のその大元となる部分のそれを言葉にするのは難しいが、生命を生きる人間としての感覚的理解を変化・成長させている人は、それが、かの天体と何らかの関わりを持っていることを感じ得ると思う。正にそうである。人間として最も次元の低い呪術(呪縛、呪詛)や念系の世界は、当然その中に、人間ではない性質のものが存在していると考えてよい。

 

7/31

8)平安期の頃の僧たちの無責任度は甚だしい。その頃の社会環境を考えればやむを得ないという言葉をある程度当てはめたとしても、その度の過ぎた乱れ具合は、無視できるものではない。(だからこうして文章を書いているのだが…)そんな時、誰かが中心となって真の仏教を具現化すべく、責任ある表現と実践を以て動き出すことが必要となるのだが、その必要性に応えるに充分な存在は居なかった。

それでも、経験と見識の高さからなる空海と最澄がその世界を先導するのだが、仏教の本質を自らに通すには要らないもの(感情、思惑)が多かった空海と、湧き上がる想いに押し出される生命としての思考とは縁遠かった最澄には荷が重かった。

その時、最澄は、結果(権威、肩書き)の内側に身を置き、普通一般に背を向け、個人を固める。空海は、結果を引き連れ、普通一般と付き合い、個人を発揮する。どちらも、次を引き寄せ、次に繋がる、形無き心(原因)の性質が基本とされなかったため、それぞれに、形を求め、結果を欲しがる重たい僧が集まることになったが、その時代の望むべく人間観(像)を思えば、空海は、人として分かり合える人間的な人。最澄は、人として近寄り難い人間味の無い人となる。

原因の性質に敏感に反応する人は、時を超えて、それぞれの中身を感じ取れると思う。そう、自らの重たい原因(無意識)で同質の僧を集め、仏教本来を全く実践しなかった最澄。その原因の隙間に次々と重たい僧に入り込まれ、仏教本来を見失ってしまった空海。密教の担い手としては、それを実践した空海の存在があるが、その世界が重苦しく、異様なものになってしまったのは、実は、最澄と、そこに集まる仏心のかけらも無い、凶悪な本性を持つ僧たちのその原因(無意識の意思)が大きく影響しているのである。(そこでは、時の権力者と共謀して、その内実を隠すために、仏道に反したことを平気で行う。この頃、敵対する人の脳に祟りや恐怖の念(異物)を植え付けようとする呪術の類が横行する)空海の本来のためにも、改めて、密教から要らないものを外し、そこに仏心を注ぎ込む。

7/31

そこに変えるべき現実が在ったとしても、変わっていない自分の姿の前では、何を思っても、何をしても、それは変わらない。負の原因が固まり、それが結果として、新たな原因全てに影響を及ぼすものであれば、確かな原因でい続けている存在たちの想いに耳を傾ける。闘う姿勢を意識するようでは、それは自らもその重たい現実を支えていたことを顕にする。やらなきゃならないことは、今まで出来なかったことではなく、この今だからこそ、普通にすべきこと。固められた現実を結果として扱う暇は無い。

7/30

ここに来て、身体の重たさや心が自由にならない原因に、密教のフィルターを通って流れる、重く動きの無い異質の粒子(エネルギー)が大きく影響していることを大勢の人たちが知る。その原因の性質に余裕で反応するエリアからだと、それは当然と言えば当然なのだが、念仏や呪文、加持や祈祷の類は、生命を本来から切り離そうとする、まさに重量級の病み玉である。人知れず負の原因を増幅させて、純粋な人たちを生きにくくさせる密教と念仏世界に何の違和感も覚えない存在たちによる、長きにわたる、非道で悪質な??な常識づくり。残り得なかった真の歴史の中に、彼らの狡さの極みが、所狭しとひしめき合っている。

7/30

7)密教が力を持つに至ったのは、厳しい環境の中で苦労する人々のその原因の部分には何もせず(何も出来ず)、優位でいて(勝者でいて)、結果だけを望む支配者や権力者と心無くして密に繋がっていたからである。支配層にいる存在たちは、密教の世界の念術の類に惹かれ、それを頼り、互いは協力し合う。

密教の修行自体が、思考を強く、他を隔てるものなので、本来の動きは止まり、変化(生命)は遮断され、その原因は重く固められていく。そのため、友愛を普通とする人や健全な感性を持つ人は、その念によって簡単に動きを止められ、気力・体力を奪われてしまう。呪術の元祖でもある神道の世界とも妙な融合をするそれは、時の権力者の庇護の対象となって、宗教心の無い宗教(仏教)を生産していく。(それに嫉妬する浄土(真宗)系も黙ってはいないが…)

人間本来を無視し、心ある生き方を避けた密教の僧たちは、生命としての意思を持たないゆえの重たい感情で、欲を貪り、名(富)を残そうとする。空海と最澄の原因(無意識の意思)は、寂しいものがある。

7/29

自らの原因の分母が増えていくにつれて新たに分かり得ることの1つに、最澄のことがあると思う。彼は、この国の仏教の礎となる存在として知られているが、それは、残された形を通してのみ伝わる、思考世界の薄っぺらな理解で、実のところは、全くそれとは異なる性質がその中には在り、この国の宗教(史)に拭い切れない重たい異物を入れ込んだ存在としての残忍な姿が、その原因から伝わり出す。そして後に、彼も喜ぶ、更なる凶悪な本性の存在が登場し、この国は、宗教心(仏心)ゼロの嘘のような病みの国と化す。

2015年の無有日記が更新される度、少しずつ、確実に、柔らかい人たちの、原因の分からないキツサのその原因が力を失くす。素朴で純粋な人たちの、自由にならない心と身体がだんだんと本来を取り戻す。

今に繋がり、今の中に在る、かつての原因の風景とその影響力。今だからこそ分かり得ることをさらりと知る今を楽しむ。「心の遺伝子」は、そのための「沙」の仕事もする。

7/29

6)力強い原因を生きる自分の心の風景を自由に広げ、その中に彼(空海)を招くようにして、彼の心の性質(原因)を観察してみる。今は、あの時の未来。形が残っていたとしても、そこに特別を必要としないみんなの未来の形無き原因が無ければ、それは彼の原因が成長しないままの現れであるゆえ、彼も悲しい。当時の時代背景を考慮する上で、これまでは良しとすることはあっても、彼の原因を変化に乗せ、成長させなければ、この時代に密教に携わっている意味は無い。密教全てを洗い直しし、仏教から大きくかけ離れてしまっていたこれまでの原因を浄化することである。それによって、空海も最澄も、安心して自らの原因の未成熟な(空白の)部分を新たに修復する(埋める)ことが出来る。密教の体質が、このまま本来を無視した個人主義のものであってはならない。仏心を無くしたまま、時間のムダづかいは出来ない。

いつの時代も、守るべきものは、心の大切さを形に表した結果ではない、心を大切に生きていたその原因であり、自らが原因を生きることで、それを実践することになる。そして、中庸をテーマにその質を発展させ、みんなにとっての普通をより確かなものにすることである。そこで自ずと大切にされる仏心。行為の手前の全体への責任ある原因のそれは、始まりも終わりも知らない、変化そのものの真実の姿である。

7/28

時々、縁ある人から、ムーセンテンスの感想を聞く。そんな時、「よかったら書いてみて」と言う。読むだけで変われるのはほんの少し。自らが書いて(表現して)みなきゃ、変われないものがある。そのプロセスに背を向けたまま読み手に徹すれば、それは、形を持たない滞りの材料となる。表現してみれば、そこに在るものを観察でき、そこに無いものがどんなかまで感得することになる。

文章は、意見ではない。言葉も行為も、本当の意見ではない。意見は、その人から伝わる、心(無意識)の意思。大事にしていることではなく、大事にしていることを通しての、その人の姿、その在り様。それに言葉になろうとする原因が呼応し、文章になり、行為になる。

何を考え、どう思うか? の殆どは、結果への個の反応でしかない、自らもそうである要らない負の融合。どんな自分がそれを考え、どこと繋がる自分がその思いを抱くか? 原因の世界(心の性質)が変化・成長していなければ、考えも、思いも、永遠に意見にはなれない。

7/27

5)密教のお寺は、否定感情が集まる場所。と言うより、密教の正体がそれを促し、それに乗った人たちがいつのまにかそうなっている、未来が悲しむ歪な風景。そこに集まる人たちの感情は、その多くが、腹を空かした獣のそれのよう。他に与えず、与えられることを欲し、人を見下げ、上でいられることを願う。僧たちは、その類の感情のお手本だから、余裕で心ある人の活力を奪い、否定感情を強めて、集まる人たちが利益を得やすいようにする。日頃の修練の成果がそこで活かされる。

特別待遇の偉方やお金持ちに対しては、密教秘伝のタレ(呪術)で要望に応え、それらとの繋がりを様々に活かし、世間への好印象を高めていく。その世間も、簡単に煽られ、引っ張られて群がる、心寒い不安な人たち。真も心も無い密教のお寺を中心に、薄暗くどんよりとした異様な渦が出来上がる。呪文(マントラ)や呪術の際の念に乗った原因は、心優しい素朴な人が生きにくくなる社会をしっかりと支えるものである。

7/27

頭が良いとされる人の多くは、その立場でいないと生きてはいけない頭の鈍い人。ということを理解することは何より耐え難いことだから、その本能が、小さい頃から子供心を無くし、頭(知識)だけで生きられる準備をする。そして、その頭の鈍さを支えてくれる学校、会社と身を置き、心の無さと嘘の人生を謳歌する。

頭の良い人は、子供心を大切に、平和の原因でい続けるから、嘘も偽りも知らず、人の心を支え続ける。知識は、感性の健全さをベースとした体験的知識がメイン。経験はもちろん、経験から自由でいる、創造し続ける原因のそれである。

頭の鈍い人は、心が育まれてないので、自らのその危うい無意識が平和の原因を壊す。知識はいつも、弱さゆえの武器。経験は、優位でいるためにしがみつく、動きの無い残された結果である。

頭が良いとされる、頭の鈍い人が立場や地位を手にした分、世は乱れる。頭の良さへの理解(解釈)を操ろうとする人が力を持てば、みんなの平和は遠のくばかり。その存在たちの怖れと意図を知り、そこから離れる。それは、未来が最も嬉しい時である。

7/26

4)心が無いからこそ修行に没頭できる、密教世界の僧たち。霊場(山、寺)と言われる動きの無い場所で自分を追い詰め、感覚を不健全にして、自己満足に浸る。見なくてもいいものを見、感じなくてもいいものを感じ、特殊世界の住人であると、頭をおかしくさせる人もいる。そうして身に付けた能力という名のガラクタは、自然界の異物。変化、回転といった生命世界の普通とは次元が異なる(低い)ゆえ、人の変化を妨げ、動きを止める。理由の要らない平和や健康を拒絶するそれは、不穏な空気を世に流し込み、その存在感を強めようとする。

確かに存在感はある。柔らかな感性を持つ人がそれ系の人や場所に近づいたら、それだけで妙な違和感(心身の不調)を覚える程だから。この世に、技術を身に付けるための修業はあっても、身の丈知らずに勘違い人になる修行は要らない。なぜ海ではなく、山なのか? なぜ心の意思を退け、呪文に頼るのか? その素朴な疑問に、不気味な存在がうごめき出す。(※一切の念や祈祷の類を不要とする、自然体での真(心)の修行もある)

7/26

見聞がそのまま見識の材料になることは珍しく、そのことを体験的に知り得ない人ほど、知ることに力が入り、見聞を広めようとする。ただ学ぶだけであれば、それは何も学んでいないのと同じ、という人間本来の理解を普通とする人は、何かを学ぶ(知る)時、そこにいる自らの原因を、その意識もなくさりげなく観察する自分がいる。そして、変化し続ける学びの質を、次への原因に重ねる。

知識人の生き方が、人々の心の成長に活かされたことはない。学んでばかりの人が、人々の真の(理由の要らない)平和の力になったこともない。大切な知識(学び)は、隔たりや争いとは無縁の、未来の原因でい続ける、その在り方。誰もがそうであるべき、平和のひな形。その見識の普通が、自ずと見聞の質を変えていく。

7/24

そこに心(原因)が無い文章や物語を読むことに抵抗が無い人は、知識だけで生きられる関係性の中で、頭ばかりを忙しくさせて、結果を生き、変化を止める。そんな人たちを支え、その数を増やそうとする、彼らのお手本であり続ける、知識と権威を結び付けて生きる人。その知識は何のため? と聞けば、もちろん人々のため、社会のためと応える。心が無いと、自分に正直にはなれない。

7/23

)真の心を説く立場でいる人が仏心を持つのではなく、仏心を持つ人の真と心がそのまま人へと伝わり、その立場でいることになる。しかし、自分にではなく、人に正直でいようとする未熟な僧がそれを勘違いして、真を説き、心を伝えようとしたため、素朴さを基本とする宗教心の伝播は為されず、形ばかりの中身の無い宗教(仏教)を人々は手にすることになる。

そこに真が無ければ、人は生きる力を持てず、通じ合う心が無ければ、希望も抱けなくなる。仏心の無い格好ばかりの僧は、人の心を成長させることが出来ないから、人の心が成長することを嫌がる支配層に都合良く利用され、重宝される。それに応え、権力と繋がる、仏教の何も知らない僧たち。彼らは、人のための何かを知らず、自分のための何かを求め続け、真を外す。修行に励み、普通を遠ざける。

7/21

2)人間の特別意識は、支配する側でいることを望む無意識の反映であり、その性質は、宗教心とは程遠いものである。その危うい性質がその世界を支えているわけだから、密教が仏教ではないことは容易に理解できる。人間世界の方便的な下地の上で、かろうじて形式的にそう(仏教として)扱われているだけの密教。良識と見識を普通に持ち合わせている人であれば、どこから、どう見ても、その世界が思考型の趣味世界であることを知る。

行為の手前の在り方が脇に置かれてしまえば、どんなことも、真面目に取り組む姿勢だけが評価され、その影響は問われない。それが、心ある人生の雛形にはなり得ない低次のものであっても、人を集め、力を持てば、それで良しとなってしまう。その代表のような密教(真言、天台etc.)。日本人の心の風景が寒々しくなっている。

7/20

1)個人主義を前面に、人間の成長を放棄した人が集まる、密教世界。他を隔てた差別心を強く内に秘めた人ほど熱くなれるその世界は、自然界の意思を遠ざけ、自然界を操ろうとする。人々のありのままの暮らしから遠いところで、人々の心を支配しようとする。建て前(言い訳)は何であれ、その中身は、人一倍の恐怖心。それを燃料に、心ある人を不安にさせ、意識を向けさせて、弱さの裏返しの強さを顕示する。

そんな自分を何の疑いもなく正当化できるよう、彼らは権威にしがみつき、威厳たっぷりに振る舞う。いつしか、なぜその世界に入ったかの本当の理由を忘れ、格式高い作り物の理由で、偽善者を地で行く。そこで行われる、不自然の極みである、自己陶酔型の修行。人々を巻き込む、変化とは無縁の異様な儀式。密教の本質は、自然界の調和を壊す、本来への抵抗であり、太陽や海とは融合できない、暗闇での厚化粧である。思考の域を出ることのないそれは、思考の強い重たい人たちの間で人気となる。

7/18

「空と海」と「地上3cmの紙芝居」の2つを同時進行で行きます。「地上3cm〜」は別ページです。「時空間の記憶」は、都合により、その2つが終わったあとです。

7/16

そうである理由の原因がそのままだと、それは軽く時を超えて、様々に影響を及ぼし続ける。それが、他に疑う余地を与えない程、人々の常識となってしまった時、その原因を現代にまで連れ歩く存在たちは、その本性を隠す必要もない程、より世を病ませる力を身に付けることになる。

その原因(エネルギー)は、神道の中で息づく、蛇にまつわる幾多の出来事(惨劇)の背景。密教系の世界にも供給されるそれは、これまでの歴史においての、人々の苦しみの原材料と言える。ほぼ書き上げたその文章がUPされるのはまだ先になるけど、それによって、生きにくさを経験しているたくさんの心ある人たちが、力を取り戻す機会を手にすると思う。

「この国の病みの始まり」でも少しだけ触れたけど、神道の元となる世界は、蛇を食べ続けて蛇化した人間たちの神芝居。その元には、人間を食べた蛇(獣)を食べた人間の経験、その他がある。人間が抱く恐怖心のルーツとも言えるその世界のことを、さらりと形にする。蛇を祀るほど、悪趣味なものはないから。

7/15

歴史の中に誰が居たか? ではなく、どんな性質(本性)の人が居たか? その人が何をしたか? ではなく、なぜ、それをしたのか? そして最も重要なのは、そこに、そうではなくても良かった原因がなぜ生まれなかったのか? 

歴史の本質はシンプルである。なぜなら、時代環境(背景)を理由に人の命を奪うなんてことは、人間には出来ないから…。そうであった理由を肯定することは、人間には不可能だから…。

歴史の学びは、どんな時も結果であってはならない。そこにある原因、そこにあるべき別の原因。その原因を通して、変えるべきことを変え、変わらざるを得ないことの質を観察する。

その際の基本は、残る(残された)歴史ではなく、残り得なかった真の歴史の姿。いつでも、そこに案内する。

7/12

10)太陽は、地球に住む全ての生命たちが元気で、快活に生きていけるよう、そのための材料をくまなく供給する。地球は、注がれる光と熱を生命力に変え、そこに生きる動物たちの営みを際限無く支える。動物たちは、太陽の意思(魂)を感じ、地球の健気な働きを愛し、変化し、生命を繋ぐ。食べてもらえることで役目を果たす植物を中心に、人間も動物も、共に生きることを楽しみ、互いに生かし合う。

その全てが、太陽との約束。そのひとつひとつが、地球との理解。人は、生命を生きる人間として、これらのこと(「心の遺伝子」)を人生の知恵に、太陽の魂に心を重ね、地球の優しさを自然体で応援する。生命としての人間でいる心は、地球自然界の調和そのものだから。

7/11

1)誰もが優しさを普通とするから、その大切さが意識されることはない。生かし合うことは生きる基本だから、誰も人のために、と考えることもない。何も要らないから、必要なものは全てあり、新たに手にするものは、その中での必要性とムリなく重なり合う。

誰もが温もりそのものだから、人を隔てる経験を知る人はいない。人が困る状況を引き寄せる経験も知らないから、特別な行為が生まれることもない。その全てが、始まりも終わりも無いそのままの営みだから、滞りもなくそれは人から人へと伝わり、心身の成長は、常に自然体でのそれになる。

 

2)風に吹かれ、水に流され、時は風景となり、それとひとつになる時を通して、風景は喜びを運ぶ。共に生きる経験は、その喜びを風に乗せ、水に溶かす。それを受け取った自然界は、生命たちを心から生かし、その変化を温かく支える。その何気ない交流を通して、人は、形を持たない想いの質を広く深いものにし、触れ合い、感じ合う世界の感覚と責任を高めていく。

そのままで分かり合えるから、共に何かをし、自然界の意思とも想いが繋がるから、その何かが常に次への原因になる。何かをすることで始まる世界を離れ、いつも想いが大切な何かを創り出している。

 

3)人は、知ることを知らず、ただ知るべきことの中で、自由に遊び、時を癒す。行くべき場所も、関わりも、みんなの望みのそれとなり、どこにいても、どんな時でも、安心と余裕を普通とする。その伝わりと広がりは、時の流れを滑らかにし、次に続く生命たちの水となり、空気となる。

それを見守る、悠に時を超える大自然の息吹。それは、草木や動物たちを人間に出会わせ、理由の要らない地球感覚を育ませる。

 

4)不穏な空間とは無縁であるため、正しさという概念はどこにも無い。身勝手な発想など誰も理解できないから、良いこと、という思考も存在しない。そこでの何かは、空間の意思であり、それに呼応する心の意思。そこでの感覚は、調和との融合であり、それを普通とする存在としての調和。日々の歩みは、まるで風のよう。

そんな生き方を実感することはなく、ありのままにそっとそれを支えている。それさえも何でもなく、全てがそのままである。それは、人間時間を吹き抜ける、生命の歴史の街路樹のよう。

 

5)目に見えるものの周りにはいつも、目には見えない永遠があることを普通とするから、目に見えるものの先にある風景が、その現実(もの)を置いてきぼりにすることはない。その手前の風景も、もちろんそれと繋がり、その中に在る。永遠という名の、変化し続ける瞬間の今。過去も未来もひとつになれる原因を連ね、生命世界の素朴な普通に、限られた身体時間を重ねていく。

周りの、形を持たない場所も含めて観られることで、形は、形でしかない場所にいることもなく空間に溶け、時の上を流れていく。触れる人の感性に乗り、作り手の想いを次へと届け、形は、形無き世界の自由意思を自在に織り成していく。人間の身体も、基本は同じ。その手前から、それを通り流れて行くものが、互いを繋ぎ、共にいる空間を次へと融合させていく。

 

6)伝わる喜びは、その原因の風景に悲しみを持たない。広がる優しさは、その始まりを誰も知らない。そうではない経験が無いから、そうである理由は要らず、ずっといつまでも、愛溢れる風景は普通でいる。

喜びは、どんなことでも人をそこへと案内し、連れ添う優しさを心の風に変える。どんな人も活躍する、誰にとっても嬉しいみんなの喜び。どんな時もそれは自然だから、共に生きる他の生命たちも喜び、悲しみは見えない。

生命の意思の通り道でいる喜びは、優しい行為を知らない優しさと仲良く時を癒し、理由も意味も近寄れない(生まれない)真の平和を創り続ける。

 

7)心が通うから言葉が生まれ、何も無い時の密な繋がりを知るから、柔らかな行為がそれに続く。そのための学びに経験は要らず、そのひとつひとつの経験がそのまま本質を豊かにする。知識も理解も、違いとは無縁の、隔たりを生まない変化の道具。通ることで心は広がり、流れることで本来は安心する。

人間時間の日常を彩る、言葉と行為。使われる言葉の成長を脇に、言葉を使う人間の成長を、生命として経験する。

 

8)どこにいても、何をしていても、伝わるものはどんなところにも伝わり、それ以外のどんなことも、それを妨げることはできない。そのありのままの姿は、思考の健全さを表し、脳の働きも、心の意思による自然体のそれとなる。その全てがその場所から離れることはない。

どんな時も、誰といても、誰をも愛する想いが時を創るから、そこでの空間は、滞りを知らない。動物も植物も、共に融合し得る存在だから、生きる喜びを共に重ね、時を過ごす。連れ添う時に、一緒に変わる空間。友人のようにそれらは、共に地球で遊ぶ。

 

9)外も内も、人も自分もひとつである感性が覚える他の世界は、自分を知り、自分を観る、心の鏡。どんな人もそうであるから、誰もそうである理由を持たない。

始まりはいつも外であって、人であり、自他の違いも知らない中で、時の流れに自分を乗せる。この今にある、その場所の以前の今と、この今になる、その場所の以後の今。振り向く場所も、向かう場所も、形ある世界のそれではないから、過去や未来が意識されることもなく、ただ変化し続ける今だけがある。誰もがそうである時の中で、人は自然な流れで変化(今)に乗る。

 

12日のBワークの会場は、通常と異なります。確認してください。

7/10

13-b)素朴で心優しい人たちの平和な暮らしが壊され、争うことを知らない穏やかな人たちがムリに争わされ、そして始まったこの国の歴史。その頃の事実が全て消されても、その後連なる時代の原因とそれ以前のそれとでは違いがあまりに大きいので、脳の働きや価値感情も含め、方向性や在り様、人間性までがその時を機に大きく様変わりしてしまったことを理解する。それは、本来と偽り、真と歪の違いとも言えるものなので、そのことを把握できるこの時に、「再生」の意思表示を受け止めてみる。

この地球に住む生命本来の人間として、淡々と進めるべき仕事は、ここに繋いだかつての心ある存在たちと密に融合する純粋な人たち(中でも「再生」前の時代を知る人)を中心に、これまでの負の原因を浄化すること。現代でもあたり前のようにして、その危うい本性を隠したまま世を病ませようと(人を争わせ、差別、迫害を引き起こそうと)する人は、手を変え品を変えて暗躍するゆえ、その具現化となる、特別とされる空間(他を隔てた歪な普通)から離れ、負の連鎖の燃料となる、期間(地域)限定の価値観や結果を生きる(過去を大切にする)姿勢からも自由になる。経験枠にとらわれ、頭忙しく知識が武器になれば、かつて差別に苦しみ、命の犠牲を強いられた人たちの、その負の原因を更に固めて、それと同じ質のことをしようとしていることになる。動きの無い常識や原因の成長を望まない人生が普通だとすれば、かつて迫害を受け、人生を奪われた人たちの、その原因となる存在の意識と自らのそれが同じであることを意味する。「生命の歴史」をここに。この地球での人間時間を本来に、人生を、生命としてのそれにする。「生命の歴史」はおわりです。

7/10

環境に優しくできない人は、生活習慣も価値観も不自然なため、頭だけで環境に優しくしようとする。その結果、その鈍性が、LEDIHの嘘(環境や身体細胞への悪影響)を支えてしまう。

環境に優しくしたいのであれば、それが出来る自分になる。肉料理を減らすだけでも、歩く時間を増やすだけでも、廻り回って、地球環境は本来へと変わり出し、その人の心身も、快活になれる機会を得る。病院の世話になる時間が減れば、生活空間も変わり、環境はぐんと健全になっていく。価値観が、人間本来のそれであれば、地球環境が病むことはない。今よりも情報がずっと少なかった時代、人は、その意識もなく、地球環境を大切にしていた。

7/09

今までに無い動きが始まったことで、それまでの何かが終わったことを理解する。原因の連なりは自然だから、よく分からない中でそれは生じ、よく分からない中で、それに引き寄せられる次の中にいる。そして、そう言えば…と、余裕で変化の時を観ることになる。

普通ではあり得ない重量級の変化が生じていたことを理解する、この今、この時の、開放感を覚えるような中での何気ない観察。変化は、自らが変化に乗っていれば、それがどんなであれ、さりげない。変化は、変化という言葉が最も当てはまらない出来事かもしれない。

7/09

13-a)経験したことを元に思考で扱えば、どこまでも表面的で、真を外れたものになる、発展や進化への理解。人間の変化、成長も同じ。そこにどんな自分がいて、どんな時(未来)の原因でいるかという、その存在の性質が生命本来(生命の歴史)のそれでなければ、成長も進化も、見た目と頭だけのそれとなる。

人間が人間らしく本来を生きる時、人生は、生命体験のひとつの形としてそこにあり、原因を生きることも、それを次へと繋ぐことも、普通自然体のこととしてあたり前に為されていく。当然、何をし、何を残したか、という結果に留まる発想の出番は無く、どんな性質の想いが形(何か)になり、それがどんな世界に繋げられているかという、原因のままの姿勢と実践が、生きる上での貴い意味となる。

それによる未来は、物質的な変化とは次元の異なる、繋がり行く空間のその原因となる要素(心、感性、無意識)の変化。環境も関係性も、病むことはない。

人間の本来は、生命としてのありのままの身体表現であり、頭(覚えたこと)だけで生きようとする心無い人生は、それを怖れる危うい(醜い)本性の現れである。その類の存在の原因の風景とその影響力を知ることで、次に知るべきことの質も変わり、健康も平和も、友愛も調和も、そのための何かを一切不要とする、ただそのままでその原因でい続けるそれとなる。それは、抑えられ、忘れられていた真の普通、生命本来の人間世界。そこから、歴史の原材料を皆で観察する。そして、未来地球への責任を実践する。

7/08

12)人間として経験するまでもなかった歴史の原因を知ることで、人は、本来である生命の歴史に立ち返り、原因でい続ける人生を、さりげなく真剣に生きていく。初めて人間を経験した時に始まる、この地球での生命の歴史。身体時間も、身体前時間も、生命としての自然体験であり、その歴史は、時に不自由さを覚えることはあっても、傷つくことはない。軽く数千年以上の生命の歴史を持つ存在たちは、ここに居て、重苦しいばかりの人生の歴史をさらりと挟む。生命とかけ離れた人間経験は、それだけで地球自然界が辛くなるものだから、生命としての人間を生き、人間としての成長を生命の意思に重ねる。

そして、伝わり、流れ行くその原因と、心ある人たちは融合し、人生の歴史は、退化(未熟)の象徴として、その姿も見えなくなる。そのプロセスが確かなものになるその材料として、「再生(2)」の舞台となった場所を、生命の歴史をそのままに生きる存在たちの、その責任の内側に伝えたいと思う。それへの理解と実践は、僅かだけど、人間にとって初めての進化かもしれない。

7/07

出張先で、その街を歩いていた時、ここでもこんなに…というぐらいの、病的で異常な思惑表示の、その凶暴さには呆れてしまった。健全さを普通に持つ人であれば誰でもそれに異様な空気感を覚える、ただ重たいだけのピンクのポスター。そこから伝わる凶悪な原因(背景)に、人々の心身はしつこく苦しめられる。

未来には残せない、余りに酷い、創価学会の残忍な感情。「人間本来」を読んだことで、そこから自由になれた人は、関わっていたそれまでの責任を実践する。このHPで「人間本来」を読み、感じるものがあった人は、その想いを形にする。

「人間本来」のNo.1の部分だけでもいい。(全てのページが望ましいけど…)健全な感性をことごとく潰そうとする原因そのもののピンクのポスターが貼ってある家の人みんなに読んでもらって欲しい。「人間本来」は、生命としての本来の普通を未来に繋ぐ責任の、その材料となるもの。プリントアウトして、思い思いに活用し、健全な違和感(本来の自分)に、出来ること、すべきことの背を押してもらう。

7/06

11)人間には、限られた身体時間を通して、限りの無い生命体験の質を高め、進化させていくという、その存在の原点からなる本能があり、それをそのままに人生を送ることで、その全てが生命の喜びとなって、人生は、その意識もなく真実のそれとなる。それは、生命としての普通体験の基本要素、心と感性が形を持たない原因の世界で仕事をしながら、心ある現実をあたり前に創り出しているからであり、その性質は、「生命を生き、人間をやる」この地球時間での、生きる基本形(本来の普通)となる。

永いことその基本形が外されたまま、人間味の無い歴史が続いたその理由の中に居る存在たちは、もちろん心を持たず、感性も無い。健全な原因でいることも出来ないから、責任を形にすることもない。彼らの支配欲が固めた負の連鎖は、人間性(人間らしさ)を塗り替え、心無い人を常識人とし、権力に従い、自らの命を犠牲にすることを世の習いとしてしまう。

忍耐と従属をあたり前に、人間らしく生命を生きることが許されなかった、いくつもの時代。人間としての基本形を何も持たない存在たちによる、そこでの殺戮と迫害(差別)が、人々の知る歴史の内実である。

7/05

10)この国の病みの元を固め、惨く悲しい歴史の様相を繰り広げていた彼らが、この現代でその姿を把握されるに至った理由は、彼らが最も嫌う価値観(全性、中庸)が、争いも隔たりも無かった時代のことを知る(経験した)人たちのもとで少しずつ変化し、増幅・成長したため、それを阻止しようと躍起になって様々な手段を講じ、その流れで、自分たちには全く不可解となる、「どんな自分がそれをするか?」という行為の手前の原因の世界(生命本来)に図らずも接近したためである。自らが支える不穏な現実の中にその無意識の危うさを注ぎ込むだけでは十分ではない状況を経験する中、彼らの心(感性)の無さと、原因の大切さを理解できない人間味の無さによる不自然な姿を通して、その本性の異常さが観察されることになる。

純粋で強さを備える人を、生まれながらに負荷をかけて不自由にしたり、細胞が辛くなる食物と否定感情で、優しさそのものの人の心身を病ませたりと、その存在たちは、心ある人たちが独自の原因の力を発揮できないようにと、重く流れない環境(身内、知人)で彼らを囲み、その全てを抑え込む。かつて男性として非人間的なことを平気で何度も行っていた人は、今回女性を選び、恐ろしい力で、この時代に生まれようとする類稀な力を持つ人(かつて彼らが思い通りにはならなかった人)を、自らの母体の中に取り込み、思い通りに病ませ、彼の脳の働きを支配する。彼女の周りには、その対象となる人が生きる力を出せないよう、直接・間接的にその協力をする人がいて、その中には、かつて呪術系(蛇(神道)と密教を絡めた呪詛・呪縛の類)の実践力を極め、何人もの純粋な力を持つ人を生きる屍状態にしてしまえる凄腕もいる。

そんな残酷な手段が取られても、社会環境がこれまでの時代とは全く異なる現代、ひとりひとりの想いは、かつての自分にも支えられ、姿無き多くの生命たちにも応援され、より強く、確かなものになっている。淡々と歩み、ありのままに、そのままで、生命の意思をどこまでも具現化させていく。

7/05

答えを探し求める人は、本当は、答えを知りたくない人。答えを知ることを怖れているから、それを外に求め、探し歩いている。それが心地良いから、いつまでも答えに背を向け、答えを求めている。そんな人でも、たくさん集まれば、妙な力を持ち、その存在が認知されてしまう。それが精神世界。どうでもいい思考のお遊び。

知る、知らないの価値世界から自由でいれば、答えは、直ぐにでも姿を見せる。変化し、成長し続け、それは自分に寄り添う。元来、生命は、答えから始まったもの。思考を忙しく、感情と遊んでいては、始まりも知らないまま、直ぐに終わってしまう。答えは、探し求める次元には存在しないものだから。

7/04

これまでに何度も同じ6月を経験してきているけど、今年の6月は、一体どこにいて、何をしているのだろう?と、何もかもが別次空間で為されていたような、オカシな日々の連続だった。一応日記は更新していたけど、それぞれの文章と繋がるエリアの存在たちが、各自意思表示しているような感覚の中で、そのタイミングの主導権は皆文章たちだった。

6月のラストの日記の出現は面白かった。かかった時間は、30分ほど。今までに何度も登場していた否定感情という言葉が、突如装いを変えて目の前に現れた。その時のそのままの原因(自動制御の浄化作用のような性質)がそこにある。「心と感性」を書いている時も、順にUPしている時も全く無かった、11番目の文章。2015年前半ラストの役をしっかりと担ってくれている。

7/03

2015

伝えようとしても、なかなか伝わらないのは、上手く伝えられない自分がそこにいるか、または、その人が、何も伝わらない人であるかの場合であるが、そのどちらも、大して意味は無い。

伝わることも、伝わるタイミングも、伝えようとする世界とは無縁である。伝えようとすれば、伝わることは力を失くし、そのための準備をすれば、伝わるタイミングは訪れない。

要は、いつでも、どこでも、自分らしく、自分に正直でいて、互いにとって、みんなにとってのテーマを馴染ませていること。そうであれば、伝わるべき人が、自然と自分に引き寄せられ、その気もなく、その時が普通に流れていく。伝わるものが原因としてそこにあれば、伝わらないことはない。

 

 

 

トップページへ