無有日記

 

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29.柔らかな感性を持つ人の感情を刺激し、その消耗を促すのは、重たい感情を凝り固めて、それを内に秘めたまま平静を装う人の無自覚の嘘。彼らの殆どが、人を思う素振りや理解ある人を演じることを得意とするため、その理由を上手く言葉にすることも出来ずに、言いようのない辛い感情を人は抱かされる。

LEDの照明には、細胞への害だけでなく、人としての感情の、その大切な原因となる心の動きを封じ込めてしまう力がある。心ある人は不安を煽られ、緊張を強いられ、要らない出来事へと引き寄せられる。その場所で待っているのは、心を持たない、心ある振りの名人たち。彼らの酷く冷たい感情が、LEDの負の影響力を増幅させる。

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28.人のために、社会のためにと思うことが好きな人は、ただ単に時流に乗って、自分を売ることに長けていたいから。その対象が利己心を強くする人や不健全な社会であっても何ら関係なく、そんな人たちから喜ばれる自分でいようとする。

人生の指針が個人的である人ほど、変化しにくい世では自由に動き、行きたいところへと行く。そこに漂う不穏な空気とも融合し、やりたいことをする。それは、自由に動けて、行きたいところへ行ければ、心ある多くの人の元気に繋がることをいろいろとやりたいと思う人が、思うようには生きられない状態でいることで可能となること。LEDは、その状態を固めるもので、動けなくなっている人たちが動き出す(動けるようになる)時の輝き(光)を何より怖れる存在たちの、病み(抑圧)の上塗り品である。人のために、社会のためにと思うことが好きな人たちが善人に成りきり、心ある人の人生を抑え込むために、それを利用する。

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27.次の時代への無責任度が甚だしいLED化は、どういうわけか責任ある立場の人の判断で先へと進められていく。その責任を覚える場所の狭さは、責任ある立場に就く前にすでに人としての責任感覚を無くしてしまっていたということ。

然るべき原因の連なりであるべきそれは、いつの時代のどんな場所でも、生命としての真の責任に支えられ、さりげなく自然に形になり、次の時代への責任をあたり前に担う。人としての役割は、それを自らに通し、その質を成長させつつ、維持すること。それは、人間の、生命としての基本要素である。

そこから離れていられるということは、そのことで得する自分が、そうではない自分を遠くへと切り離してしまっているから。その切り離されてしまった自分の姿がわずかでも見えれば、普通を取り戻す。普通を元気にさせれば、未来が喜ぶ選択しか出来ない。何の力も要らず、自然体で、心ある生き方を人と共有する。

責任ある原因の連なりの中のどこにも存在しないLEDは、責任ある立場でいる人の無責任な選択そのものと言える。要らないものが有る理由を支える責任ある無責任は、未来の人たちがどこまでも心ある選択(責任)が出来なくなる負の原因の力となる。

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26.LEDの光は、借り物の心(魂)と相性が良い。

無いものは、無いままでいられる時を経て、有っても無くてもどちらでもいい感覚に包まれ、そして、有ることを経験する。そのプロセスが無視されれば、無いことは攻撃的な怖れとなり、有る世界への支配欲へとそれは拡大して、不安の裏返しのものやかたちを作り出す流れへと展開する。人々の暮らしは、そこには無いはずの不安に付き合わされ、元から普通に有る心が、作り物の心に侵されていく。

生命としての営みが人間時間で為される時、心は、借り物でも作り物でもあってはならない。無い者は、無いところから始める。それを応援する心ある存在たちの友愛の原因は無限である。歩み出せば、LEDは、無い場所へと消えていく。

12/30

25.照らされたどんなものも、細胞レベルの形無き原因のエリアで負荷をかけられてしまうLEDは、実に恐ろしい。その恐ろしさに全く無頓着でいられる人たちの感覚にも、寒々しさを覚える。

他人に正直になることで、自らも正直な人間だと思い違いできる人は、自分に正直でいることで自然と為される、他人に対してのありのままの姿(その自覚もなく正直に反応する感覚)を経験できない。謙虚さも誠実さも、自分との約束の上で普通となり得るもので、他を意識しての他との約束によるものだと、心あるそれらが自らの中で生み出されることはない。

正直でいる自分との約束が出来ないために、心の性質を見つめることもなく外に求め、想いのままでいることもなく形にとらわれる人たちの、真や実への無意識の抵抗。彼らにとってのLED化は、実にありがたい病みのフィールドである。

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24.悲しみの連鎖の接着剤のようにして誕生したLEDは、次第にその接着部分の面積を広げ、悲しみを感じる感覚を失くさせてしまう程の威力で、人から、人間味を奪おうとする。徐々に進行するそれは、形ある結果や動きの無い(回転の止まった)ものへの執着を煽り、優しさや思いやりまでが、形無き想いを無視した見た目重視のそれとなる。そして、それを得意とする、LEDに何の違和感も覚えない人たちが事の良し悪しを先導し、心を思考で扱える心無い能力者(専門職)が人を集め、その嘘を発揮する。

LEDの前も後も、そこに居るのは、人の悲しみを好物とする○のような奇怪な存在である。新興宗教が盛んなのも、LEDを生み出す程のこの国の特徴である。

12/30

23.その背景の不健全さゆえに馴れてはならない因習から学ぶのは、同じような不健全な性質の原因を作らないことと、そこに在れば、その原因を浄化しないまま先へとその姿を残さないこと。しかし、LEDは、全国展開の不健全さゆえ、それを背負わされる未来の子供たちは、はるかマイナスのところから人生をスタートさせるという、恐ろしく辛い現実に馴れさせられてしまうことになる。その時、その責任を取れる人は何処にも居ず、誰一人、その原因には触れられない。その深みと広がりの重苦しさは、想像すら出来ない巨大な重しとなって、いくつもの時代を蝕んでいく。

その負の原因が流動的であるうちに、未来のために対処すべきことがある。蓄積し、固められてしまう前に、ここに居る責任として選択しなければならないことがある。単なる光や照明の問題と考えてはならない。今も、これからも、人間は、LEDの存在を喜ぶ生命であってはならない。

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18.将来は、その恐ろしさゆえに誰も意識すら向けなくなるであろうLEDの、その異様で異常な悪業振り。健全な人が覚える辛さは、徐々にがんばりが効かない程となり、気力・体力の低下を慢性化させていく。柔らかで敏感な感覚を持つ人ほど、肌荒れや視力低下を被り、脳も心臓も、要らない負荷と闘う。味覚も聴覚も不自然になり、本来の健康には戻れなくなる。

原因不明の病気のその原因の筆頭株主になろうとするLED。病院は喜び、心無い指導者は仕事がしやすくなる。新しい仕事が増え、それに、LEDに無感覚な人が就く。そして、人間らしさや人間本来が、全く人間のそれではなくなっていく。

この国には、生命や人権を尊ぶ専門家が1人も居ないのでは、と思ってしまう、余りに酷いLED事情。それは、未来が悲しむ、嘘のように未熟で野蛮な風景である。

12/29

17.差別や不公正といった、普通自然体の人には無縁の感情が、それを普通とする人の中で力を持つ時、その影響で、いつのまにか無くてもいいものが生み出され、要らないはずの争いや衝突へとそれは発展する。

しかし、手にするものや取り入れるかたちの背景に在るものを把握するのは難しく、多くの人が、送り手主導の消費経済の中で、その自覚もなく問題事を引き寄せる重たい感情と融合することになる。

だからこそ、LED照明に違和感を覚える人たちの感性を大切にする。それを通して伝わる、攻撃的で冷淡な感情は、触れる人の心を不安定にさせ(心が無い人は何でもないが…)、社会を後戻り出来なくなる程病ませていく。

ものやかたちを通して繋がる、その手前の原因と後の結果(という名の次への原因)。重く流れない感情からなるLEDは、何をどう工夫しても、強力な負の原因である。

12/29

16.権威ある存在がある物の支え役となる時、その多くは、事の本質が大きく外れてしまっていることを意味し、そこには安易に近づいてはならないことを伝えている。

大切なものは、それを大切にしている人からでしか伝わらない。その機会を逃し続ける人は、大切なものを大切にする意思を持たないことの表れであり、そんな人ほど、頭だけで大切さを作り出す権威や心無い評判を大事にする。そして、その意識もなく人の暮らしを重くさせる。

頭だけで作り出された大切さの代表であるLED化は、光を大切にしている人から何も学ぼうとしない存在たちの病みそのものであり、権威や情報を利用して大切なことを偽装しようとする彼らの、未熟で不健全な現実である。

大切なものは、個の思惑で作られるものではなく、それを大切にしている人から伝わり、流れ、繋がり行くもの。LEDは、どこから見ても、どこまで行っても、大切なものにはなり得ない、空間の不純物である。

12/28

15.建築物や車両など、そこに在るLED照明が基礎設計の段階からのものであると、それへの対応は大変難しく、その修正には大幅な出費を余儀なくさせられる。

それを狙いとする意図がLEDの背景には存在するのだが、どうにもならない状況と向かわされれば、人はやむ無く諦めと妥協を選択する。そして、その意図は完結し、心ある風景は、後方へとその姿も見えなくなる。

少しずつ確実に、不自由さが底上げされる、LED照明。それ関わりの技術は、容易に人の心の自由を奪うものである。

12/28

14.「LED感染」を読んで困る人は、どこにも居ない。もし居るとすれば、それは、人が困っていることに気づけなかった自分を困ったと思うぐらいのもので、そのことを、たくさんの心ある人たちが喜んでくれている。

それとは違って、強い悔しさや嫌悪の感情を伴う困り事として経験している人が居るとすれば、その人は、誰にも気づかれずに人を困らせる思惑が上手く行かなくなることを恐れ、困っている。原因の世界は、正直に動き出す。「LED感染」は、その人の本当の姿を顕にする。

人が困ることを平気でする人は居ないはずなのだが、LEDは、そんな人の本性に火をつけた。人が困っていても、それを優越や慢心の材料に良い人を演じる人を次々とLEDは引き寄せ、彼らを合流させて、影響力を高める。困っている人たちは、よく分からないまま、その場所から出られなくなる。

困る人が増えることで活躍できる仕事と密に繋がるLED。それを知る機会を手にしたら、次へと動き出す。困っている場合ではない。

12/28

13.人間社会では通用しても、自然界の全てと繋がる生命世界で通用しないものは、次第に姿や形を変え、自然と消えていく。その消えていくものに費やされる労力は、本来は要らないもの。その性質のものが繰り返し生み出される状況は、生命世界の停滞であり、成長・進化への抵抗と言える。

LEDは、その停滞と抵抗をより効率良く人に経験させる材料として生まれた、歴史上最も危うい負の原因を備える、生命世界の嫌われものである。そこに群がる存在たちの表情を見れば、それは頷ける。皆、生命としての顔を持たない、人間オンリーの心無し草である。

12/27

12.一言で言えば、LED照明に当たると、老けやすくなる。但し、それは普通の人の場合であり、人間味の無い残忍さを隠し持つ異常な人は、何の影響も受けない。だから、LED照明になったら、老けないために残忍になる。なんてことは普通の人にはムリだから、結局すべきことは1つ。LEDを使わず、見ず、近づかず…で行く。普通の人にとって、従来の照明は、若さと美肌の必須である。

12/27

11.煩い光は、煩い音同様、人が生きる世界には要らないもの。音は、記憶されるレベルであるが(とは言っても、変化を止める重たい音もあるが…)、光は、染み込み、そこに在るものを変える。時空間を多次元的に捉える時、自然界と融合できない光は、いつまでもそこに残り、次の時代への負の影響を及ぼし続ける。

LEDは、形ある現象世界を支える、形無き抽象世界に大きな負荷をかけるもので、そのままそれが存在し続ければ、自然界の調和とその自然な変化の基本形は、その大元から大きく崩されてしまうことになる。原因の性質が無視される中で具現化されたその怪しい光は、生命たちの感覚器官を鈍化させ、自然界に生かされる彼らに、その自覚もなく生きにくさを経験させるものである。

そんな物を作り出し、力でそれを広めようとする存在たちの隠された動機(無意識の意思)は、「生命の歴史」や「地球の良心」でも触れているが、その手法は凄まじい。形だけの正しさに人を付き合わせて、人知れず嘘の原因との融合を拡大させていく。LEDは、そのための最強の道具となっており、情報媒体を操り、宗教まで利用するその姿は、まさに喜劇級(嘘つきたち)の災いづくりである。

12/27

10.LED感染症にかかってしまったような、歪で不健康な現代社会。それへの唯一の抗生物質は、心ある選択。LED照明から離れているという、生命としての責任ある原因づくり。そこには、失くしてしまっていた本来の自由があり、平和がある。友愛と調和の、優しさそのものの風景がある。

LEDが全く平気で、それに心地良ささえ覚えるような存在の思考に付き合うことはない。その素朴な感性を大切に、切なる想いを形にする。LED照明の店にはそれを伝え、人間らしい生活を未来に繋ぐ。LEDの本当の姿を人に気づいてもらい、自然界の生命たちを守る。元来それは経験しなくてもいいはずの経験だけど、次なる時代の安心と感性豊かな子供たちのために、この時の全てを受容し、その原因深くを変えていく。

LED感染という言葉。それは、どこまでも力強く、柔らかい。それは、この時代の意思であり、地球大自然の望みである。「LED感染」は、心が主導権を握るための貴い原因の力である。

12/22

不健康な食環境と心無い宗教や教育の背景からなる不穏な原因が、人々の脳の働きを徐々に不健全にし、気づけば、LEDが、まるで地球環境の救世主のように扱われても、全くそれに違和感を覚えられない程人の感性は鈍化し、そこからどうにか離れている人たちも、それに異を唱えることも出来なくなる程、巧く、緻密に、かつ強力にその病みづくりは行われて来ている。

この世の病みの根源的な部分と繋がっている、LEDand IH)の世界。そこに見え隠れする、これまでの歴史で、大勢の人たちに犠牲を強いた(命を捧げさせた)存在たち。彼らの喜び(無意識の意思)は、心ある人たちが理由も分からず辛くなることと、心無い人たちが、その上で満足を手にすること。LEDは、そのための下地を更に固める、その恐ろしい現実の強力な道具となるものである。

12/21

・邪馬台国を支配した存在たちは皆、生命の変化を拒み、人々の成長を嫌う。その上に積み上げられた、この国の、異様で不思議な歴史。いつしか常識とされる非常識に包まれ、経験しなくてもいい経験の中で要らない感情を覚え、心を忘れる。

「歴史は繰り返される」という言葉に何の疑問も持てない程、人間はその普通の質を低下させ、「生命の歴史」という言葉に何の感覚も抱けない程、生命としての人間を、人は生きられなくなっている。

この地球に人間としての生命を持ち、人としての人生を歩むことを選び、ここに生きている今、生命本来の連繋の意思は力の無いままには出来ないから、これまでの結果としての今ではなく、これからへの原因としての今を生きる。ここに繋がるこれまでの原因を癒し、変化し続けるこの今の原因とそれをひとつに、生命を生き、人間をやる。

その歩みが普通自然体のそれであるために、無有日記をこの時代に差し出す。そのことが次に続く人の安心の時(原因)になるために、この「番外編」をここに添える。そして、常識とされる非常識を外し、経験しなくてもいい経験の原因を浄化する。感性と感情を人間本来に、心を元気にする。

心ある人たちの、人生のチャンスではなく、生命のチャンスの時。ここに在る、生命としての思考からなる力強い原因の知識を大いに活かし、知ることを、生きる力にする。経験(結果)からあたり前に自由になり、普通感覚で経験(原因)を創る。そして、自らが、「生命の歴史」そのものになる。

原因でい続ける永遠の瞬間という名の生命世界から観た、この国の、それとは融合できない重たい世界と、その元となる存在の姿がこうして形になったことで、未来の風景は、確実に変わり出す。生命源からなるそれぞれの心の意思が、その普通を、より普通にする。「復活への道」は、時代が望む、人が人として生命を生きる、かけがえのない処方箋である。

12/21

・忘れてならないのは、邪馬台国より600年程前に、蛇同然の存在たちに人間の命を次々と奪わせて(生贄の少年も含む)、それを食べ続けた大蛇の経験を持つ、ヒミコの近くに居た妙な女性である。邪馬台国でも、その頃の経験は活かされ、ただ居るだけで人々の気力(生命力)は吸い取られ、理由も分からず疲れやすく、衝突が起きやすい状況を人は経験する。

水郷の地の存在の先輩格のような彼女は、現在、東京西で、皇室を生きがいに、善人振りを徹底して、嘘そのものを生きる。その無意識の意思の獰猛さは、昔のままである。

12/21

・ヒミコたちと密に関わる存在に、彼らの精神に大きく影響し続ける白色の大蛇がいる。その蛇の、人間への貪欲な感情に応えるようにして、日夜殺害は繰り返され、罪無きたくさんの人たちが彼女(大蛇)の餌食となる。口を開いた時のその赤と胴体の白は、神道絡みの世界で象徴的に使われ、その組み合わせは、威嚇と畏怖(威圧と服従)を作り出す媒体として様々に引き継がれる。

「この国の病みの始まり」で生贄の儀式全般を仕切った経験を持つ彼女は、水郷の地で、善良な女性として、人々の恐怖心の中心に居座り続ける。神道の土台に巣を持つその威力は、純粋な人の脳を簡単に鈍らせ(固まらせ)、その人の意識を自らの中に(蛇の胴体に)入れてしまう程である。

12/20

神道が元気だと、新興宗教が活発になる。そりゃそうだ。人や山(火や水、武力まで)が神になるという、動物にも分かる大嘘が人々の中でまかり通ってしまうのだから…。つまり、神社(大社、神宮)は、世の雑多な危ない宗教を支えているということ。そのあまりに常識的な理解から遠ざけられてしまっている、人間の脳。それだけ、その働きが鈍く、固められてしまっているということ。

人の健全な心の動きを何より恐れる、蛇絡みの存在たち。無有日記に近寄っては、姿を消す彼らの精神は、ミミズとかけっこも出来ない。親鸞と秀吉と後鳥羽上皇。神道のルーツに深く関わるこの3人の、その昔と、今の姿は、それだけで、人が人として生きにくくなる世の強力な燃料となる。彼らの近くに居た、ピンクのリボンを付けた大蛇も、その中に入りたがっている。

12/20

・ヒミコの身内を中心に行われた抑圧と迫害(殺戮、拷問)には、彼女らと縁のある大勢の凶悪な存在たちが参加するが、彼らは皆、後の世でも、その流れ(重たい原因)と関わり深い場所を選び、様々に協力し合いながら、人々を苦しめ、殺害を行う。

現代、その多くが、重い歴史を背負った日本各地に生を持つが、中でも、利根川下流域の水郷の地には、その極悪級の残忍な存在たちがこぞって集まる。彼らの意思は、現代仕様の、かつての(邪馬台国での)経験の応用編。血縁を活かして悪事の原因を分担し、都合良く世の宗教(キリスト教、神道etc.)を取り込み、誰からも良い人でいて、人の心を苦しめる。その殆どが、蛇の脳の中に居た記憶を潜める。

12/19

動物たちの切なる望みを感じる人は、LEDの危うさをあたり前に知る。細胞の意思を大切にする人は、IHの存在に恐さを覚える。

地球に生きる喜びを普通とする人は、地球の悲しみの原因となるそれらが人間発であることを嘆き、強い責任を覚える。そして、自らの原因の中の、生命本来の意思を改めて確かなものにする。

人間も動物も、LED仕様にはなっていない。と言うより、それはこの地球には異物であり、生命世界が無縁であることを望むものである。

それを考えれば、LEDIHを好む存在たちの本質(正体)が見えてくる。「本心と安心」でも、そのことに柔らかく触れているが、その実、その姿は、「復活への道」の、人間とは思えない存在と容易に融合し得る性質の持ち主たちである。それを知り、それを次への原因にする。そして、人として、生命として、さりげなく地球人を生きる。

12/19

求めさせられ、必要とさせられる事や物で動く不穏な経済は、しばしば「時代のニーズ」や「地球環境」という言葉でその真が偽装され、次第に人々(組織、団体)の利害が絡み、そしてその影響力が拡大する中、それは、健全な感性を持つ人の素朴な疑問や違和感を次々と押し潰し、人としての在り様を人間味の無いものにしつつ、時代を重くさせ、頭だけで生きる心無い人の力を増幅させつつ、未来を壊す。

それを率先するのは、その意識もなく人の健全な動きを止め、彼らの心ある暮らしを人知れず壊そうとする力をその本性に潜める存在たち。いつの時も、その時代に合った(力を持つ存在によって作られた)良いことでそれを隠し、力と富を囲って、自分たちには無関係の健康と平和の原因を力無いものにする。LEDのライトは、正にその道具である。その展開振りは、夏の日の蛇烏のようである。

12/18

・母親の異なるヒミコの兄は、父親と共に残酷さを形に支配を強め、その取り組みは、邪馬台国(の恐怖政治)の根幹となる。人々に、作り上げた嘘の神への崇拝を常とさせて、皇族(とその絶対権力)の元となる姿を実践する彼は、後に後鳥羽上皇としての生を持ち、神社を通して、人間が、人としての本来の感覚を無くす状況づくりを安定させていく。鳥居は、ヒミコの時代に、純粋な人たちが、自分たちと同質の大蛇の前で動けなくなり、命を終えていく姿の、その始まりの時を象徴的に形にしたもので、参道は、それへの恐怖(諦め、屈服)の導入部である。彼は、それらに深く関わり、現代でも、当時と同質の場所にいる。

(鳥居が、俗域と神域とを分ける神聖なものであると信じて疑わない人の本性の中には、そうでなければならない不穏な理由が隠されている)

12/18

・父親は、惨殺の権化のような存在で、その昔の(人間の枠には収まらない)姿はしめ縄の大元のそれであり、「この国の病みの始まり」での実行役の1人として彼が行った行為は、水引の原型である。垂は、彼と別の女性との間にできた男の子と共謀で企てた凄惨極まり無い光景(との繋がり)を意味し、ヒミコを使いながら、2人で、その非道振りを正(真)とする神道の基礎固めを行う。鎌倉の時には、親鸞となり、布教に熱く、信者を増やし、後々の大勢の人たちが、自分を意識することで残忍な原因が流れ出す下地を作る。

(親鸞が、その時代にしてはかなりの長寿だった理由のその原因深くには、邪馬台国よりもずっと昔の、普通ではない(人間を好物とする)彼の経験がある)

12/17

・ヒミコの兄には、男の子がいて、彼は、かつて、人々に蛇の粉末を繰り返し飲ませて中毒のようにさせ、不安定な精神状態をその人たちの中に生じさせて、危うい宗教組織の元となる世界を作り出した経験を持つ。柔らかい人の脳に恐怖心を植え付けて、その全てを支配する彼(彼女)の能力は、次のどの時代でもその人たちを嗅ぎ分け、見つけ出して、再利用することを普通とする。現代では、身(真)の無いあみだ仏を隠れ蓑に、四国の地で、同質のことを行う。

 

・ヒミコの母親は、その後は男性としての生を主に生き、現代では、外国(米国)の地で、娘と交流できる場所にいる。民間療法(手当て)に言霊を絡めて神秘性を偽装し、外国の純粋な人を利用する。彼女は、平安の時に、最澄としての人生を経験し、仏教の腐敗に貢献する。

(※彼らの多くが、ある別次層の妙な存在の力添えもあり、軽く数百年単位で世を病ませられる立場(地位)と人生を手にし、宗教、武力、政治において歴史的に重要な時に、最も影響力を及ぼす存在としての名を残すことになる)

12/17

・この国の病みの土台づくりが徹底して行われた、ヒミコの時代。彼女の周り(身内)には、隙間無く重たさそのものの存在が集まり、人間世界の普通を尽く不健全なものにしていく。全く人間とは思えない経験を長いこと蓄積させている彼らは、少しでもその感情が動けば、その対象となる人や空間の変化(原因の動き)が簡単に止まる程の力を普通とし、思うだけで人の思考に負荷をかけ、その主導権を握る。

ヒミコの身近には、蛇絡みも含めて多くの存在がいるが、その主要となる密な存在をここで取り上げる。それだけでも、凄まじく恐ろしい光景である。それをここに記し、そこに在る原因のひとつひとつを浄化し得る機会にする。それは、この「番外編」の仕事でもある。

12/16

・ヒミコには、弟との間に2人の子供(男、女)がいて、男性は、「この国の病みの始まり」で、巫女の元祖的存在たちの悪事を補佐し、神主(神職)の原型となる役を担う。注目すべきは、現代の姿である。彼は、政治権力を持つ程の宗教組織の中心に居て、邪馬台国の時と同じ、素朴な人の脳と感性を破壊する。親の元で培った人間への支配感覚とその本性からなる獰猛な(蛇同然の)無意識で、自由に世を操り、健全な動きを止める力を持ち続ける。

 

・女性は、いつの時も男性(兄)の仕事を援護する立場にいて、ずる賢く、巧く立ち振る舞い、人々の苦しみの原因を固め続ける。かつて人間の味を覚えた彼女は、現代、地域振興や地方活性を扱う場所に居て、この国の土を病ませる。その姿は、従順で礼儀正しい、人知れず純粋さを食べる悪人である。

12/16

・ヒミコには、兄と弟がいて、どちらも人間の感情を持たないゆえの残虐さを普通とし、人が苦しみ喘ぐ姿を喜び、殺害を楽しむ。その兄は、「この国の病みの始まり」の時に、(女性として)生贄の中心に居て、罪無き少年たちの命を残酷に奪う。その殺害欲求を満たすために、彼は多くの転生を重ねるのだが、その中で名を残すところでは、親鸞の息子と、豊臣秀吉がある。脳の働き自体が兇器となる彼の思惑により、直接・間接的に、数え切れない程の人たちの人生が奪われる。今回、彼は女性を選び、昔からの仲間たちと一緒に(彼女らを従え)大阪の地に住み、病みのネットワークの中枢を担う。

 

・弟は、ヒミコの夫でもあり、現代に彼女が生を持った時、時を同じくして日本を離れ、イタリアに住む。そこでは、遠い昔の仲間たちの作り出した苦しみの風景の原因を取り込み、自らの無意識の凶暴さとその威力を格段に増幅させる。奈良時代には、兄と同じ場所(山奥)で、時の権力者の協力者として殺害を繰り返し、動けなくなった人を、生きたまま大蛇に食べさせることも平気で行う。

12/15

<番外編>・変化する永遠の瞬間(原因の時)を思考で扱わなければ、そこには、地球上のあらゆる生命の原因が織り成す多次元的な空間の意思があり、それは(その核は)、全ての存在たちがその自覚もなく健全に生きる大切な要素を、絶え間なく流し、送り続ける仕事を担い続ける。

変化も永遠も、人間の感性が創り出した抽象的な世界を表す言葉であるが、その世界からは、その人間の本能にそれらを余裕で繋ぎ、変化する永遠の時と人間との融合を支える意思が、絶えず働き続ける。動植物の世界の普通と融合し得るそれは、人間世界の真の普通(真実)の基礎となる。

そのことへの感覚的な理解(感触)が困難になる程、人間本来が崩され、共にこの地球で生きる他の生命たちとの自然な営みが無くなってしまった理由は、時を経て、何につけても思考が先行して(優先させられて)、人が人としての素朴な原因がないがしろにされてしまったためであるが、中でも、「生命の歴史」における連繋の普通(転生の本質)が力を無くしたことは大きい。

その背景で負の影響力を持ち続ける、人々の思考に居座る、歴史上の動きの無い知識(認識)と、人間の成長を止める、人間らしくない思い込み。その元となる部分が、邪馬台国の時により如実に具体化されたゆえ、生命の歴史を元気にさせるべく、転生を絡めたヒミコ関わり(血縁)の負の原因の事実を形にする。そのどれもが、変化する永遠の時の中での、分かり過ぎるぐらい巨大化した異物である。

覚えたことを組み立てることでしか生きられない彼らの、人間仕様の蛇脳は、人の心を怖れ、その動きを止めようと、人に怖れを抱かせる(染み込ませる)。心が無い分、心ある普通世界からは、その姿は分かりやすい。そしてそこに在る、浄化されないままの(浄化する意識もなく連れ歩く)重たい経験の記憶。心が本来であれば(不安、怖れの染み込みが外されれば)、その原因は、力を無くす。全ては原因。その本質は、普通の原点。不安も怖れも知らない生命本来の世界には、過去に留まるものは何も無い。

12/14

なぜLEDなのか? なぜIHなのか? それらは、どんな時を経て生まれたのか? 隠されたその場所に入ってみれば、そこに在るのは、利害と権益、名誉と権力。そして、心無き感情の暴走。それらを見えなくさせるために、耳触りの良いフレーズを後付けし、人の思考を操作して、偽善を蔓延させる。

思考型の経済(力)に比重が置かれれば、心寒い人ばかりが活躍し、心温かな人は元気を失くす。そこに在る原因の性質がみんなの未来に繋がるものでなければ、それは、健全で柔らかな人たちを生きにくくさせ、そのことを更なる経済(ビジネス)にしようとする凶暴な存在まで生み出すことになる。

心ある世界に、心の無いLEDIH)は住むことは出来ない。それを生み出し、広めようとする存在たちの原因には流れない個の思惑と嘘の優しさだけがあるLED。その嘘が大きい分、彼らは妙に躍起になる。

12/13

東京に帰る新幹線の中で意思表示し出した、ここと繋がる遠い昔のある風景の原因が、「復活への道(2)」の「番外編」の原稿として動き始めた。そして、その日にほぼ書き終え、さて、UPしようか…と思うところにいる。

ひみこに、弟兼夫が居たことを一般の人は知らない。父親が、その昔かなりの割合で大蛇モードであったことも、人は知らない。(すでに知っている人も多くいるが…)必要があれば、どこまでも、どんなことでも、その原因のところに触れ、それを新たな原因に変える。邪魔台国のことは、「生命の歴史」と未来の確かな原因としてとても大切だから、もう少し入って行く。人間本来の転生をずたずたにされてしまったから、彼らの転生をさらりと絡めてみる。

結果としての嘘は力が無いから、時間とともにそれは修正されるが、原因の嘘は、嘘の結果を延々と連ねて、それを本当のこととして拡大させてしまう恐ろしさがある。ピミゴの身内は、それ以前の時も含めて、その元祖である。さて、そろそろ…。

12/12

瞬間芸のようにしてあっという間にかき揚げだ〜の「復活への道(2)」。知識としては全く何も知らないので、書こうとしない分、書くべきことが次々と言葉になる。あの頃、その頃の風景の原因をここに招き、無有の頭(空間)を通ろうとするそれらが形になった。

その全ては、心ある生命たちの望み。心の無い人は、思考(知識)でのみ判断できる世界しか知らないので、その全てを否定する。そして、自らがそうである(そうであった)ことを顕にする。素朴で柔らかな感性を普通とする人たちの心が元気になる。人間は、蛇の住む世界に居続けることは出来ない。

この秋あたりから、マヌケ度も一気にUPしたムーのジョークのその受けなさにも磨きがかかる。この世の嘘の度合いワースト50も盛んである。しかし、考えれば(考えなくても)すぐにでも分かる、神がみ、がみがみの嘘。そんな低次元のあり得ない作り話を2000年もの間信じ込んできたこの国の人たちの??な人生…。その思考世界の中に在るものが実に妙である。ほんと、神の道だなんて、自己洗脳集団のオカシすぎる作り話(嘘の世界)である。

12/11

飛鳥・奈良時代以降に初めて人間を経験した人の、この国の成り立ちへの理解は、知識の域を出ることはない。(それはかなりの割合であるが…)彼らは、支配・権勢の背景を知ることもなくそこから始まり、差別や迫害の理由も分からず、その上に人生を重ねる。知らされ、教えられたことから自由になれず、その気もなく、病みの土台の一部となる。

だから、謙虚になる。思考を自由にさせ、経験からも自由になる。自分に正直でいて、その質を成長させ、争いの裏返しではない、そのままで平和でいる原因の働きを、そっと支える。それは、人間として大切な仕事である。

残されたものの結果ではなく、残り得なかったもののその原因に触れる時、やまたい国の嘘は明確になる。それ以前の暮らしを知る人は、そのことに安心し、その嘘の上に、無自覚にそれを支えながら生きて来た人は、強烈な焦りを経験する。

かつての大切な(生命にとって)事実は、かたちある結果に隠され、その結果を引き連れようとする存在たちの思惑によって、その時の心ある原因は身動きが出来なくなる。感性が健全で、その原因が人間らしさのそれである時、心ある人は、当時の人々の暮らしの原因にまで触れられ、そこに在る、動きの止まったままの原因を浄化する機会を創り出す。

なぜ、富士山の頂上付近にまで、神道絡みの場所があるのか? その世界的な情けなさは、やまたい国が、じゃまたい国である証である。

12/10

11)人間としての本質を持たない、心の無い人は、正しいと思うことを正しさとし、その姿をごまかす。この国の歴史を観る時、ヒミコ関わりの正しさは、全て作られたそれであり、心無い人たちが最も力を注いだテーマである。

この地球に生きる上での正しさは、思考を働かせるまでもなく人の心に自然と息づくもので、人間本来の、ありのままの基本的な要素である。それを否定することは、心を持たないゆえの抵抗とそうであることの証であり、正しさを歪曲させるその意思の現れである。大切なことが大切なこととして形ある世界に居続けることはなく、形を創る原因の世界にそれがあたり前に在り続けることで、人間は責任を実践する。それは、教えられるものでも伝えられるものでもなく、それぞれ自らが思い出し、生きる基本形にそれを連ねることにより、自然に伝わり、繋がり行くものである。それを改めて、ここに記す。

柔らかな感性を持つ心ある人たちが、要らない頑張りと緊張を経験させられていること自体、地球の悲しみである。彼らが辛さを慢性化させ、その意識もなく厳しい時を連ねていることは、未来の涙である。それに気づくことも出来ず、違和感にもならない程の社会環境の中で、人々は、生命本来から大きくかけ離れた道を歩もうとする。その、そうであってはならない現実をその原因深くから浄化し得る時を、皆で迎え入れる。そこに在る重たいままの原因がその存在意義を無くす時の訪れを、皆で喜ぶ。そして、未来に繋がる確かな原因を共に拡大させていく。

人間は、感性が柔らかく、心が優しいから人間であり、不自然なことも、不調和なことも、その原因を作り出さないから人間でいられる。「復活への道」と「連繋の意思」は、人間への応援歌である。地球に生きる一生命としての人間時間を普通に生きる人たちの、そのための燃料である。ここから、この場所から、またいつものように歩き出す。地球が喜び、未来が笑顔になる。太陽がほほ笑む。

12/09

かつての人生での経験の性質が今の人生にまで影響していることを感覚的に知る人は、より力強く微細な原因を生きることの大切さを本能的に理解しているので、これまでとは大きく環境の異なる現代、知り得たことや学び・覚えたことと自分とを同一化するといった愚かな姿勢からはあたり前に無縁でいて、知識や経験の元となるその原因の性質を本来に、生命としての体験的知識を重ねつつ、未来空間が望む経験の創造を淡々と実践する。

かつての人生での経験の性質に蓋をするようにして、その全てを今と切り離す人は、結果に重きを置く姿勢でもってその本質をごまかそうと、他よりも優位でいるための知識を増やし、それにこだわり、その経験を自分自身としながら、人間だけを生きる感情を普通に、その意識もなく(無意識の意思で)望ましい未来の原因を壊していく。

前者は、形(言葉、行為)になろうとする想いをそのままに、ありのままに生き、後者は、形で始まり、形で終わる不自然さそのものを生きる。前者は、精神世界(スピリチュアルな世界)を変化の機会にすることもあるが、後者は、その変化を拒む本心のまま、精神世界に浸る。(後者を最大利用しているのが、かのUFO君である。書店に行くと、それはよく分かる)

過去にこだわり、結果を生きる人は、その分かつての人生が(他者に対して)惨たらしく、酷いものであったことを意味する。人間は、人である前に、生命。原因を生き、その質を高めることなしに、人間でいることはあり得ない。本性が危うい人ほど、感覚的理解と体験的知識を外し、知識習得を優先すべき体験としながら、経験したこと(経験枠)にこだわり、嘘を生きる。その多くは、かつて災い(人々の苦しみ)の原因を作り出したことを表すものである。

12/07

10)1人の人間が神になれば、残りの多数は、そのための犠牲を強いられる。そのことが見過ごされ(暗に支持され)、利用される世では、人間は成長を経験できない。本来の姿は忘れさせられ、そこかしこに在る争いの原因と要らない融合をすることになる。

この国の歴史に残る幾多の悲しみは、全てヒミコが神になったことで始まる。脳が健全であれば(健全になれば)、それは明らかな常識であり、人々の健全さを望まない脳は、それを無視する。生命世界(原因)の普通を嫌悪する人は、その本性を隠せなくなる。

2000年もの間、嘘に付き合わされれば、それは人々の中で真実となり、簡単には外せなくなる。しかし考えてみれば、極上の嘘というのはそういうものである。疑問の対象にならない程、ずる賢くそれは力を持ち、人間の感情に住み着いて、世を病ませる。神道及びそれ系の世界に、生命本来は無い。

経験の記憶から自由になり、人間というものを考えてみる。普通に大切にされるはずの生命の歴史が力を無くした原因を考えてみる。そこに2015年の無有日記を重ね、普通の中に在る真の姿と、真を生きる中での普通を感じてみる。

そこから、少しずつだけど確実に見え出す風景。人間は、本来、不安や怖れなど持つことは出来ない。病気や争い事も、自分たちには全く意味不明な世界。人間は、進化し続ける生命の手本としての、他の生命たち(動植物たち)の希望であり、その場所が、自分たちの生きる世界である。それをやむ無く難しくさせられた時の原因を全て外し、「心の遺伝子」の風景の風をここに、その頃の太陽を側に、生命そのものの本来の在り様を復活させる。

12/05

※人は、自分たちの発想には永遠に無い、恐ろしく非道で残虐な行為を目にした時(受けた時)、その驚きに思考は止まり、その苦しみに感情は固まる。かつてのその経験の記憶が時を経ても尚垂によって刺激されることで、人の心は(恐怖心で)抑えられ、変化も止められ、思考は不自由のままになる。神道絡みの秘められた意思は、それを望み、その行為を普通とする。

風習や伝統としてその残忍な意思が隠され(新たな意味付けが為され)、受け継がれてきている多くの神社関わりの形式(物、意識)を通して、素朴で純粋な人の脳を破壊しようとするヒミコ繋がりの重たい原因が流れ出している。中でも垂は、より強力に、危うい本性の存在に負の力を与え、普通の人から健全さを吸い取るものである。

ヒミコと、後にかの上皇や親鸞になった存在たちと密に繋がる神道の世界は、そのどこを覗いても、そこに在るのは、自分たちには無い心の封じ込めと、苦しみの再現である。その本質が、蛇(蛇のような人間)の住みやすい、暗くじめじめした国(環境)を望む神道は、神という世界からは、この世で最も遠い存在と言える。

12/03

9)ヒミコと一緒になって政治を仕切った危うい存在たちは、飛鳥・奈良、平安・鎌倉と、それぞれに転生を重ねるのだが、その時々で彼らが妙に力を入れたのが、神社建立と神様づくりである。しかし、その多くは真を隠すための体裁(嘘の事実)であり、実際の目的は見えなくさせてしまう。

非道な権力者により、生きる自由を奪われる心ある柔らかな人たちは、それへの素朴な違和感や疑問を形にするのだが、その全てが力で抑えられ、何人もの人たちが命を絶たれる。中には拷問や殺戮も平気で行われ、数百年のうちには、おびただしい数の罪無き人たちの切なる想いが潰され、皆苦しみの中で命を終える。

その存在たちには、心を持たないゆえの強い懸念と猜疑心があり、命を奪った人たちの無念さが自分たちに災いをもたらさず、次の時代の人たちが抵抗する力を持てないようにと、健全な動きを止める重たい原因を形に、神社を造る。かつての経験を活かしてそこに蛇を絡め、人としての本来の在り様と生命の変化・成長を無きものにする。(しめ縄は、彼らの本性(蛇)を表し、垂の類は、邪馬台国での恐ろしい惨殺の光景をそのルーツとする。鳥居は、鎌倉の頃からの、犠牲と呪縛の象徴である)

内実をごまかすために、神づくりは欠かせない。不健全にさせられた人々の脳は、作り話と嘘の神々を染み込まされ、祭事や風習を通してそれらを担がされる。現代の神道は、そのどれもが、人間の心を持たないヒミコ(and「この国の病みの始まり」)繋がりである。蛇を神(の化身)とする習わしや神主(巫女)の存在は、健全な感性を持つ人にとっては、恐ろしい程の作り話である。

12/01

2015

人間は誰しも転生という世界感覚を普通とするのだが、身体時間においてその脳の働きをしつこく不健全にされてしまった時、その普通の質は不自然なそれとなり、生命の成長からは離れてしまうことになる。

重く、動きの無い原因のままの存在が書く文章や話す言葉を通しても、人の脳は要らない負荷をかけられてしまうのであるが、それが為されやすくなってしまった原因となる背景は、「1000年目の夜明け」や「復活への道」などで書いている。

そして、「日のあたる人生の中庭」のように、転生が本来の普通である時、人は、原因を生きる生命としての自然感覚を常とし、地球感覚の責任も同時に生きることになる。それは懐かしく、愛しく、ほほ笑ましい生命の営み。動物たちも安心し、自然環境は、文字通り自然になる。

その転生の普通。結果(過去)に留まる知識や個人的な経験から入ることはあってはならず、思考レベルのアプローチも、そこでは一切通用しない。自らの原因は、「心の遺伝子」と繋がり、過去(の原因)が癒され、未来が喜ぶものか? それだけでいい。難しいものは何も無い。

 

11/30

要らないものが深くに染み込んでしまっている分、それを浄化することは簡単ではなく、それゆえ、そのことに違和感を覚えられないほど心身の不調は慢性化してしまうのだが、それでも、それなりの活力は維持しつつ、日常の諸々をこなし、どうにかこうにか頑張って生きている自分を良しとする気持ちを、人は普通とする。

ただ、自らの原因の変化により、その染み込んでしまっていたものの性質に段階的に反応できる経験をする時、同時に本来の動きが力強くなっていることもあり、今までにない重たさや虚脱感を伴いながらも、全く次元の異なる良質の健康と元気を普通とすることになる。(と言っても、それが本当の姿であるのだが…)

これほどの病みが知らずうちにこんなにまで染み込んでしまっていたのか、と驚く人は多いと思う。あたり前と思っていた(思わされていた)ことの中にある悪影響の程にも、唖然とするのではと思う。そのどれもが真実であり、真実とされてきたことの裏事情である。要らないものが力を持つうちは、要らない経験から離れることは出来ない。2015年の無有日記を大いに活用する。真実のシンプルさは、いつの時も地球規模である。

11/29

人のため、世のために運営されているはずの、数々の宗教集団。人々の、健康的で平和な暮らしを何より大切にしようとしているはずの、そこでの人たち。

なのに、この社会では、動物たちが人間の所有物のように扱われ、自然環境は、人間の利益のために簡単に壊される。食事は、全粒穀物や新鮮な生野菜・果物の摂取が普通にならず、電子レンジ食品が出回る始末。街には、細胞の意思が潰されるLED

結局この国の宗教集団は、その殆どが、人間としての感性を持ち合わせない人たちの趣味の集まりであることが分かる。心ある生き方の基本に、生命としての食事があり、動物たちとの健全な関わりがある。人としての健康的な暮らしの要素に、自然と融合する自然体の姿勢と、空間の原因への責任がある。そのどれをも無視する、この国の宗教集団(組織)。それらの中心に居る存在たちの脳は、きっとくもの巣で出来ているにちがいない。彼らは、最も宗教心からかけ離れた、悪徳臭凶人である。

11/28

8)生命世界の真実は、思い、考える思考世界のどこにも存在せず、仮にそこに在るとすれば、それは個の価値判断の類でしかない。真実は、一切の解釈を寄せ付けない変化の本質であり、原因でい続ける生命の根源的な意思である。それは太陽の魂とも形容される、生命としての人間の進化の姿である。

それをここで言葉にするのは、それが普通だった文字も無かった時代のその原因を、未来の原因のこの今に重ねる必要があるから。知識から始まり、結果を生きる姿勢は、人間本来のそれではない。変化や原因が思考で扱われれば、真実は知識世界に取り込まれ、身動き出来なくなる。そして、生命としては余りに未熟な、人間だけを生きる人生を良しとする世界の住人になる。

平易な言葉で書かれた普通の内容なのに、何度読んでも記憶に残りにくく、分かりにくいのは、読むだけではなく、それを実践する大切さを実体験するため。そのことで理解は変わり、いつのまにか変化に乗る。言葉になろうとする原因が、心の中で力強く息づく。それは、経験の外側との境が外れ、その自覚もなく真実の世界に生きる機会。ムーセンテンスは、そのプロセスを支え続ける。

真実が人の思考の域に収められる時、それ自体が嘘を作り出す力となるので、事実認識も状況把握も、その手前の性質は無視されてしまう。大切なことは残らず、繋がる場所も持たず、重たい結果ばかりが力を持つ。そして、事実は歪められていく。

弥生時代にはすでに、生命を生きるその原因が力を無くし、人としての本来の変化が抑えられて、真の無い嘘の結果(心無い事実)だけが先行し出した、この国の歴史。邪馬台国で病みを徹底的に固めた存在たちが、その後何度か転生をし、現代に居ることを考えれば、知ることが単なる知識であってはならないことを理解する。それ以降の歴史上の結果(事実)には、真実は無い。

11/26

7)ヒミコとその集まりが、負の歴史の基礎となる時代を築いたその場所は、富士山が近くにあり、蛇が住みやすいところである。遠くからも見えるその山が、今尚念系や神道系の重たい存在たちによって霊山(御神体)として崇められているのも、ヒミコ繋がりの病みの所以である。彼は、山である。人間の邪な思惑に付き合わせてはならない。

自然界で健気に生きる山や森を特別なものとして扱うことほど、人として無責任なものはない。それは、人間の成長を妨げる差別心をその無意識の中に育ませ、心を持たない人の支配・権勢欲の燃料にもなり得るもの。そこに在る原因を感じれば、自然界が辛くなる不自然さだけが伝わり出す。

山も海も、森も川も、自分たちと共に生きる自然体の生命たちを応援する。彼らは皆、特殊事情の対象となることを望まず、流れない価値観(ご利益心)を向けられることも嫌う。自然界は、自然で素朴な、柔らかな存在を喜び、それらに触れることに安心する。

富士山は、心許せる友人のような、いつでも融合できる生命たちと共に生きる意思を持つ、個性ある1つの山(生命体)である。それと対極に居るのが、その近くに居を構えたがる宗教絡みの存在たちであり、やたら富士山を特別視する、重たい感情を持つ人たちである。

ヒミコ(邪馬台国)は、最初に富士山の生命力を悪用した(傷つけた)、それとの融合を体験できない地球の異物のような存在である。その影響は現代でもそこに在り、質を同じくする大小様々な集団が、同じことをする。健全な感性を持つ人は、気軽にそこには近づけない。

11/24

テンプターズの歌の中には姿を見せることはあるけど、神社に、かみさんは居ない。健全な感性を持つ人は、あたり前にそれを知る。脳を壊されたままの人は、何の疑いもなく神社を尊ぶ。そして、その本質(正体)と融合し、その気もなく柔らかな人が生きにくくなるのを手伝う。蛇を崇める(祀る)人たちは、スパイダースの「あの時君は蛇だった〜♪」の歌の中の自分を見る。人間であれば、それはあり得ない。

そもそも、神社というのは、特に平安、鎌倉の時に、人々の健全さを止めるための嘘の上塗り作業の一環としてこぞって建立されたもの。そのルーツには、卑弥呼も喜んで参加している。つまり、それを通して、人々の脳はずっと永いことヘンになってしまっているということ。なぜ、かみがみ、がみがみと偽れるのか…。あんな暗く、じめじめした空間に、人間は居られない。(蛇は嬉しいけど…)

11/23

愛知や岐阜、京都や大阪あたりが、今尚重たい歴史を背負わされたまま、この国の変化をその意識もなく止める仕事をしてしまうその最大の原因は、織田信長と豊臣秀吉が英雄視されるという、あまりに恐ろしく奇妙な原因が今も作り続けられ、おびただしい数の罪無き人たちの苦しみが癒されないまま(放って置かれたまま)、動きの無い形(結果)だけが力を持ってしまっているから。

人間であれば、彼らの愚かさと未熟さを知り、これ以上、この先へと、情けない嘘を繋いではならない。「悲しき怯え人」は、この国の未来への重要な原因である。

11/22

縄文時代が終わりかけた3000年程前(「再生」)、その原因となった存在たちにより、人間の生命としての意思は、完璧なまでに押し潰される。ヒミコとその集団が登場した2000年近く前(「復活への道」)、人は、生きる自由を尽く奪われる。そして1000年近く前(「1000年目の夜明け」)、人々の精神は、親鸞繋がりの力で荒み、人としての心は見えなくなる。

あれから3000年。これまでの負の連鎖の原因を、余裕で包み込む。未来には残せない重たいままの原因のかたまりは砕かれ、変化を拒む(人の変化を止める)存在たちの無意識の危うさも力を無くす。

そんなこんなも、15000年振りに脳が本来を取り戻す機会を迎えているからこそ普通となるもの。みんなで作った縄文土器。そこに在る原因は、しっかりとここに繋がっている。

11/20

6)邪馬台国の時代以降、彼らの多くが700年代に生を持ち、同質の存在たちが住みやすいよう、宗教や政治の要職に就いて、支配層の安定化を計る。

そんな彼ら全員が一斉に現代に転生したことは驚きである。(中心に居た男性とヒミコ2人の現代での歳の差はかなりであるが…)彼らは皆それぞれに、この時代に対して、彼らなりの違和感を抱いている。それは、自分たち色の重たい空気で充満させたはずの場所(歴史)から、それが漏れ出しているというもの。信じ難く、許し難いその事実に、彼らは、暗黙の懸念の対象となる存在近くに集い、その原因を突き止めようとする。

その存在とは、あの時、完全なる負の力で生命の意思を抑え込み、そこに一切の動き(身体活動)を止める粘着質の負荷を染み込ませた(染み込まされた)男性と、彼に秘密の情報を伝えた女性の2人のことである。

ところが、近づけば近づく程、逆に追い込まれ、事を起こそうとすると、その分覚えの無い厳しさを経験させられることに、彼らは唖然とする。しかも、そのひとつひとつを無有日記の材料にされてしまうのである。彼らにとってのそれは、青天のへきれきを超える体験である。そして彼は、少しずつ確実に、その呪縛を解き、動き出す。彼女はその過程に関わり、それを支える。

無有日記の原因は、2人を潰そうとする存在たちの経験枠の中には無く、いつか彼らが経験するであろう世界のどこにも無い。この今だからこそ誕生したその原因の世界に包まれ、2人は安心して本来を取り戻す。そして、記憶の中の全ての原因を解放し、浄化する。二度と通らなくてもいい道を遥か後方に置きながら…。

11/18

考えたことを言葉にする思考世界から自由になれば、自然と考えさせる(させられる)内容とその性質も変わり、脳は、経験の外側からも形になろうとする原因を招き入れ、それをそのまま言葉にすることを覚える。それは、脳の成長のひとつのスタイル。経験枠内に留まる思考では、それはどこまでも難しい。

考えるのが好き、というのは、考えてもどうにもならないことが好きという意味で、その実、それは個人の域の思考を楽しんでいるに過ぎない。(みんなにとって)大切なことを考えたがる人の内面には、それとは全く対極の感情が潜んでおり、それだけに一生懸命大切なことを考え、考えるだけで良しとする(考えることを大切とする)原因無視の妙な世界で、偽善を生きる。「地球の良心」の中に、その典型となる存在たちがいる。

世の人々が考えるのを止めたら、社会はある種の好転反応を経て、確実に平和になる。内面がオープンになることを怖れる人たちが、平和を求め、争い事をどうにかしようと日々考えているから、世は混乱する。考えること自体、そこに確かな原因は無い。哲学の類も、細胞の意思に応えることはない。

11/16

5)ヒミコの時代は、争いの絶えないこの国のその病みの元となる基礎固めを担おうとする存在たちが集まっただけに、彼らのその後(現代)は凄まじいものがある。その時、人狩りを得意とし、命令されるままに気に入らない人をさらって命を弄んでいた男性は、親鸞繋がりの嘘の世界に守られ、人知れず多くの人(特に子供)の脳を不健全にさせ、彼らの生きにくさを演出する。彼と共に居た、存在そのものが重たさである不気味な男性は、核廃絶関連の現場に居て、その重たさで、世界の病みの原因を動きの無いものにする。中でも病みの出世街道を歩んだのが、命を奪うために連れて来られた人たちを好んで殺害し続けた男性である。彼は、信長を操る豊臣秀吉の生を獲得し、今はその経験を活かして、縁する誰の人生をもオカシクさせていく。蛇の脳に入ったままの存在を含む他の人たちは、現代のキリスト教や優位とされる立場を隠れ蓑に、柔らかな感性を持つ人の脳を破壊し続け、社会不安の強力な燃料で居続ける。海外のある国に一定の期間住み、そこに在る重たいままの歴史上の悲劇の原因を取り込んで、病みづくり(無意識の影響力)の力にする奇怪な存在もいる。

現在のヒミコとの協力関係を維持する彼らは、皆あの時(邪馬台国)と同じ、その殺害欲求はそのままである。しかしあの時と同じようには行かない現実に、焦りと怒りを覚え、その上その悔しさの隙間に、いつのまにか無有日記のエッセンスが流し込まれていることに、耐え難い憤りを感じている。この「復活への道(2)」からも、それは為されている。

11/15

江戸時代を、それ以前の戦乱の世と、それ以降の日清、日露戦争時の世の2つが、その原因の質を同じくして挟んでいる。そのことが意味するのは、人間としての真と、空間の自浄力(具現化される心の性質)が本来になれないまま、時が流されてしまったということ。それは、心ある人たちの力及ばず、「極端」が修正されずに、「健全さ」が心を離れてしまったとも言える。

なぜ、江戸時代が終わりかけると、この国は気が狂ったようにオカシなところへ突き進んだのか…。早くに人生を終えさせられたその頃の人たちの心の風景に、安心を届けたい。彼らの多くが、経験しなくてもいい経験の原因(心)ではなかったのだから…。

11/14

4)ヒミコとその周りの人たちの実の姿を把握し得た彼は、心ある人たちにそれを伝え、動き出す。皆で現実の背景を見つめ、正しさを本来のものに変えようとする。しかし、ヒミコへの怖れはどうにもし難く、それ以上に獰猛で野蛮な男たちの力に、人々の素朴な気持ちは抑えられてしまう。その中でも、ヒミコでさえも従順になる程の、ある存在。彼の命で、人々の中心に居た男性は捕まり、山奥に連れて行かれ、命を奪われる。その恐ろしい様は言葉には出来ない。指揮した男は笑い、ヒミコは満足気である。何人もの男たちがそれに当たる。

その後日を置かずに、彼らの内実を外に漏らした女性も命を絶たれる。男性が命を奪われる時の姿を見せられた彼女は、その後の人生で、いつの時もその時の恐怖を抱えて生きることになる。

人間の脳を極端に萎縮させ、その自由な働きを簡単に止めてしまうヒミコの周りには、同じような力を持つ存在が何人もいて、その中で最もその強い力を持つ中心的な男性は、この国の病みの核のような意識体でいて、鎌倉の頃に、権力を持つ上皇としての生を経験する。生贄にされた人の殺害を率先して行っていた、獣のような野蛮さを備える男性は、後に親鸞となる。2人とも現代に居て、その時の姿を覗かせる。ヒミコも頼る実力者である前者は、現在皇室繋がりの世界に居て、この国のどうにも動かしようのない病みの基礎を余裕で支える。彼はかつて、動きの無い(人の動きを止める)神社造りを主導した経験を持ち、心ある柔らかな人たちの人生を今尚食べ続ける。

11/12

3)その怪異的な能力で人の脳の働きを鈍らせ、そこから健全さを奪い取る彼女であったが、全くそれが効かない人間が人々の中に居ることに驚き、彼女の近くの存在たちも緊張を覚える。その人間は、人々から信頼され、共に生きる基本形のお手本のようなありのままの存在であるので、人に知られては困ることを多数抱えるヒミコの集まりは、その人間の前では細心の注意を払い、その嘘がばれないように努める。その彼も、隠された様相の性質(残酷な迫害と殺害)までは知り得ることも出来ず、違和感を向ける場所として彼らのことを具体化させる機会には近づけない。

そんな中、ひとりの女性がその彼に、彼らの隠された内実を伝えるために近づく。彼女は、世の治安と将来のためと、ヒミコ近くで直感を形(言葉)に平和の材料を提供する仕事を担う。彼女自身も脳を壊されていたが、生命源からなる心の意思は人一倍の力を持ち、動きを操られながらも、その意思のまま想いを表現する。

ある時期から、ヒミコの周りの男性たちの行動が病的で凶暴(凶悪、残忍)な様を見せ始めたこと。ヒミコの言動が次第に異常さを帯び、虚偽・欺瞞が先行し始めたことなど、強い違和感を覚えていたそれらを、その男性に話す。それは、みんなのことを大切にする彼とその気持ちを共有できる彼女の、正直で真摯な選択である。

11/11

親鸞を例に挙げれば、200年代、700年代の恐ろしく残虐な経験の記憶をその無意識の中に潜める彼は、未来を引き寄せるその本性の性質全てが非人間的であるゆえ、何をしても、彼の全てが嘘となる。当然、彼を慕う人、彼の教えを継ぐ人も、人生そのものが嘘の中で生きている(生きていた)ことになる。

本性の遺伝子が危うさそのものである時、どんな行為を以てしても、その原因の性質の影響は、病みとなる。では、どうすればいいのか…と形ある動きを望む前に、そのことを理解すること。その上で経験する世界がある。原因(生命)の世界は、とてもシンプルで、厳しい。現代に生を持った親鸞(女性)が、ほら穴に入る。(←ん?何のこと?)多くの心ある人たちが、どこか楽になると思う。

11/10

2)縄文時代とされる永い時に皆で育んだ精神性が尽く潰され、破壊されて始まった弥生時代。その終わり頃に初めて人間の脳を持ち得たヒミコは、この国の嘘の元祖的存在と言える。元々が人間の本質を持たない存在であったので、それは彼女の普通である。そこから生み出される、悲劇的な正しさ。彼女を通して、人は心の力を無くし、怖れがその力となる正しさに縛られ、苦しみの時を生の事実として連ねていく。信頼も誠実も無縁であるその場所で、それが未来への大きな足枷になることも知らず、耐え忍び生き、生きながらそれを堪える。

ヒミコは、お告げづくりを担当する数人の男女に支えられ、演技力を付け、凶悪な本性をそれに重ねつつ、人々への影響力を強めていく。後世の人たちが抱く彼女の印象(知識)は全て嘘である。人の脳に恐怖心を植え付け、人間を物のように扱う彼女は、自らの言動全てを正しさとし、世を支配する。同質の存在たちと、嘘を固めていく。

11/08

1)人間本来を普通に生きる生命としての在り様がそこに無ければ、事実としての形がそこに在ったとしても、その中身は全て嘘である。人間らしさを損なう価値観が蔓延する世であれば、そこで通用する正義もまた嘘である。

正しさは、正しいこととして存在するものではなく、人間が普通に持ち合わせる、自然な想いである。それが力を無くしてしまったために、人は正しいことに翻弄され、嘘に付きあわされて、争い事と隣り合わせの人生を生きる。

この国の歴史は、普通であるはずの正しさがそうではない正しさ(正しいこと)に抑えられ続けた、真とは程遠い悲しい時代の連続である。人は皆、作られた正しさに本来を見失い、そこにある嘘に反応する機会を持てないまま、生命としての自分を忘れる。正しいとされることが力を持てば、正しくないことも同時に力を得る。普通に育まれる正しさは、平面的な思考の域には無い。

11/06

追)非道な行為を部下に指示した信長であるが、それを大いに喜んだのが秀吉である。彼は、信長を利用した、呪術(呪縛、蛇)系の無意識を普通とする、実に恐ろしい存在。初めからその気で信長に仕え、彼の末路までその力で操る。豊臣秀吉は、歴史上最も人間からかけ離れた本性を備える、獣のような存在のひとりである。

11/05

14)人間には、身体感覚の次元を超えて、人生を包むようにして存在し続ける、生命の歴史がある。それは、太陽に見守られ、共に地球に住む全ての生命と唯一繋がり得る要素となるものであるが、それが外され、力を無くしたために引き起こされた歴史は、生命の進化から大きく逸脱し、地球感覚からも程遠いものであった。

そうであれば普通であったものが、そうではなかったために普通ではなくなり、そしてそれが普通となってしまった、これまでの普通ではない人間時間。限り無く成長・進化し続ける原因の世界をありのままに生きる。そうであることで普通に生まれ、普通に引き寄せられる現実を、生命として、人間らしく生きる。

生命の歴史に軸足を置き、原因のままでいる時、限られた身体時間が限りの無い時空間への影響力を持つことを知り、そこに在る、生命本来の姿からかけ離れた異質の意思を感じることになる。その感覚は、思考の次元に触れることがないゆえ、生命の歴史の繋がりを妨げる、人間だけを生きる感情の塊が容易に把握でき、生命としての悲しみの原因となる性質も、時を超えて確実に浄化し得る機会を手にする。無有日記を通してそのことを何となく感じられれば、停滞そのものの重たい原因(危うい本性の遺伝子)をそのままに現代に転生した存在を通して、かつての原因を感得し、必要に応じてその風景を言葉にする(その性質が言葉になる)ことが難しくはないことを理解できると思う。この「悲しき怯え人」は、その具現化のひとつである。そして、これに触れる人を通して、望むべく新たな時が具現化されていく。

無有日記の原因は、時空を自由に透過しつつ、全ての原因を包み込む、生命源からの普通。多次元的価値基準をあたり前に時を癒す、生命の望み。経験の外側と出会えない直線的な思考や、平面的な知識で、それに抵抗することは出来ない。真が普通である時、嘘が普通である(あった)ことは、いつのものでも、その原因は普通に顕になる。生命の歴史は、どこまでも普通である。

11/03

13)恐怖心を慢性化させ、身体に何の負担も覚えずにその密度を濃くさせられる人ほど、人間として要らない感情を武器に他と競うことを得意とし、他を隔てる力(立場)を手にして、それを正当化してくれる歪な常識に守られながら、自分たちが生きやすいよう世を病ませていく。そこでは、その影響を被る人が抱かされる不安を材料とする仕事が活躍し、食環境も経済も不自然なものとなり、教育も宗教も本来から大きくかけ離れてしまう。その負の力は、そのことに違和感を覚える人の感性をも飲み込む程の威力を持ち、心無い人たちには好都合の、形だけ(思考の理解)で良しとする社会が時代に刻まれていく。

何もせず人を不安にさせる、全く不安そうには見えない、重たい感情(怖れ、不安、嫉妬)を普通とする人たち。その、細胞に溶けてしまっているかのような恐怖心は、そのままで空間を重くさせ、縁する柔らかな人の脳の働きに負荷をかけて、彼らの動きを不自然にしてしまう。それが出来るのも、信長の経験の性質と融合し得るものを自らの中に持ち、現代においても彼の今と深くで繋がり、無意識での重なりを密にさせているからである。その殆どは、遠い昔に同じ場所に居て、惨く悲劇的な風景を愉しみながら作り出していた側に居たことの現れでもある。(そのことを完全否定しようとする彼らの本性の姿は凄まじいものがある)

恐怖心を普通とすれば、当然その原因に見合った現実が引き寄せられ、この時代、人々は無くてもいい悲惨な出来事やあり得ない価値世界に心を苦しめられ続ける。そこに在る原因の性質と、信じ難い程強力な影響力を及ぼし続ける歴史的異物を知り、認識を新たに、少しずつ確実に、負の連鎖を砕いていく。人間であれば決して放っては置けない不平等や不健康のその重たい原因でい続けようとする人の、他とは違う性質(本質、正体)を把握し、理由の要らない喜びを何より望む心を元気にする。

11/01

2015

12)恐怖心そのものでいる人は、心が無いので、その自覚は全く無く、生命としての感覚的理解や直感的思考の世界とは無縁である。それによって生じるのは、心を生きずに(生きられずに)、心を学ぶだけで良しとする、知識偏重の世界。頭を忙しく働かせ、思考を強くすることで、人よりも多く、高く居られる場所が貴いものとされ、不公正や不平等は常態化していく。そして、心ある生き方の原因は力を無くし、結果ばかりを望む心無い原因(という名の結果)が、重く流れない社会環境を固めていく。そうであってはならない現実の原因を感じれば、心をそのままに自分に正直でいて、感性を本来に、誰にとっても必要となる健康的な自分を生きていく。思考を自由にさせ、その全てを心あるものにする。

そのための重要な材料の一つとして、信長への認識を白紙にする。(人としてそれは当然の話なのだが…)彼が戦において他に勝っていたのは、単に誰にも負けない、次元の異なる恐怖心を持っていたからであり、心が無く、桁外れの凶悪さと残忍さをあたり前に備えていたから、人を思う気持ちを持つ大勢の人たちは皆、命を奪われてしまったのである。彼ほど、人間として情けない人物は歴史的にも珍しく、それゆえの負の連鎖の燃料となる病みの遺産も巨大である。2人は、後世の人たちが全く学ぶものを持たない存在の代表として、この国の歴史の中で、病的にその居場所を確保する。次の時代のためにそれを外し、生命の歴史の道をキレイにする。それは、この時代だからこその重要な仕事である。

 

10/31

どうにも出来ずに辛い想いを抱かされている心ある優しい人たちのその原因を段階的に浄化し、人々の思考に染み込んだままの負のかたまりを砕く中、「再生」のずっと前の風景と繋がる。そこに在る、今と質を同じくする、どうにも出来ずに辛い想いを抱かされた経験。

そう、全ての苦しみの原因は、苦しみという感覚を全く知らない人たちが初めてそれを経験することになる、遠い昔のある出来事。その場所が、その時の想いが、ここに届く。この時代にまで土器を残し得た彼らを誇らしく思う。

10/30

11)その世界で傑出した、最も強力な怖れ人が、織田信長である。彼は、申し合わせたように、かつて身内だった秀吉と合流し、互いに怖れを増幅させて、ずる賢く、狡猾に人の命を奪い続ける。2人の相性は、「この国の病みの始まり」の時にすでに証明されていて、その凶悪さと恐怖心の強さは、他の追随を許さない。

彼らの酷い仕打ちに怯え、強烈な痛みに苦しみ、悶えながら命を終えていく、人としての真を知る大勢の人たち。その姿を快感とする信長は、自らの恐ろしい程の恐怖心と嫉妬心をほんの僅かでも刺激する柔らかな心(感性)の持ち主を本能的に嗅ぎ取り、その全てを潰す。怪異的で変質・偏執的な彼の殺人欲求は、容赦なく人を惨殺し、その屍まで弄ぶ程。それは完全なる非人間の様であり、信長を登場させたそれまでの時代に、人は悔やむ。

そんな彼が、無意識での関係性(融合)をそのままに、秀吉と共にこの時代に生を持っていることで、どれ程の災いの原因が作り出されているかは、現代に生きる人々の何気ない感情や心の性質を感じ取れば容易に理解できる。常識とされることや、慣習・慣例の類の世界を観察すれば、そこに在る、簡単には対応し切れない、重く動きの無い長年の遺物を見る。2人の、人の心の動きと事の変化を止める力は、誰も想像すら出来ない強大なものである。

10/27

10)その度合いが増すと、細胞が萎縮し、身体活動にまで支障を来すことになる恐怖心。それに全く無感覚でいられるということは、その存在が恐怖心そのものであると言え、人がその感情を抱くことになる(抱かざるを得なくなる)不気味な状況や危険な価値判断にも、どこかで心地良さを覚えるということ。彼らの普通は、素朴な想いをそのままに生きようとする人の気持ちを重くさせ、健康と平和の原因しか知らないみんなの普通を力の無いものにしてしまう。本来無くてもいいものを際限なく取り込み、蓄積させることを可能とするその姿に、敏感で柔らかな人は、生命にとって不必要な融合を強いられ、心と細胞は、不自然さを慢性化させていく。

それだけならまだ醜さや悲惨さからは縁遠いものであるのだが、その存在たちは、心良く助け合い、支え合う人々の普通感覚を病的に嫌悪し、彼らに、物理的な攻撃を与えずにはいられない程、その本性を凶悪なものに変質させてしまう。自分たちには無いものを持つ人への極度の否定感情(怖れ、不安、嫉妬)を抑え切れないまま、優位な立場でいられる材料を武器に、力で公正さを壊し、抵抗する人たちを傷つけ、迫害して、彼らの生きる自由を奪う。

10/25

9)恐怖心は、それを抱き続けても身体に何の違和感も覚えない人の中で、取るに足らない性質の感情となり、次第にそれは精神の働きから健全さを切り離す力となって、その意識もなく行ってしまうことへの責任感覚を著しく低下させていく。その状態は、人間的な感性を鈍らせる原因にもなり、やがては、強い自意識を伴った支配・所有欲が感情に備わることになる。

考えれば、恐怖という感情は、身体的に害を被る程の危機感を覚えたり、抑圧や攻撃による精神の緊張状態の際に本能的に(身を守るために)引き起こされたりするものであるゆえ、それを持ち続けることは普通ではあり得ない。それに平気でいられるということの理由を考えてみれば、そこには、人間としての理解が及ばない何かがあることを感じ、思考はその先へとは行けない。

しかし、そんな存在がその意識もなく行っていることや、縁する人たちの心の風景をその原因から眺める時、彼らの中には、一般のそれとは全く質の異なる恐怖心が在ることを知る。それは、純粋さを怖れ、平和を嫌い、みんなにとっての心温かな価値観に耐えられない程不安になるというもの。それゆえ変化を妨げ、調和を壊す意思活動を常とするのだが、その際にその強力な材料となるのが、一般の人々が要らないものとして避ける、彼らには何でもない、人間的な恐怖心なのである。

10/23

人を傷つけ、人を殺めるという、あってはならないことを行ってしまったかつての経験が、実はある存在の影響により脳をオカシクされ、人間としての善悪の判断も出来ない程精神を破壊されてしまったことによるものである時、その人は、必ずその全て(の性質)を思い出すという作業を何らかの形で行い、その重しを外す。そして、害を被った人たちも安心する。

そのことで始まる、その元となる存在へのアプローチ。他者に悪影響を及ぼすように影響を受けた人の覚悟のような責任感覚を通して、その全てを人知れず仕向けた凶悪な存在たちは浮き足立つ。「復活への道」も「悲しき怯え人」も、そこへの道を通りやすくする。

10/22

8)この時代仕様で、その時々の望むべく変化の必要性に応じて自由にその質を変調させながら文章になる、無有の世界の原因とその抽象的な無限の働き。彼女の存在の力は、この国の歴史における惨殺の代表(核)のようなものであるから、それとの不必要な融合を解くべく、以前に尽く本来を潰され、破壊された人たちのここでの次に繋がる今を応援し、その歩みを支えつつ力を付けてもらいながら、この時のその姿(存在の力)をそのままここに形にする。

遠い昔に、為す術もなく恐怖と痛みを植え付けられ、何の抵抗も出来ずに殺され続けた、余りに惨たらしい経験。それでも、「心の遺伝子」を繋ぎ、望みを放ち続けた人たちの今は、これまでのどの時よりも力強く、その中心の原因となる存在たちも、誰も出来ない生命の仕事を担い、心の意思のまま、それを実践し続ける。事実は、信じ難い程の厳しさであっても、二度と無いこの時の歩みを支え合い、その全てを喜びとする未来の風景を皆で想う。

自由にならない心身の感覚は、それでも自由に動こうとする意思によって、その重たい原因を外す機会を引き寄せる。対処しにくい、重く流れない違和感となる対象は、それでも維持する本来をその先の風景と繋ぐことで、それがそのままではいられなくなる時を創り出す。その時に受け止めざるを得ない、そこにある異様な空気感と、無くてもいい経験の原因の動き。唯一真の普通の質(原因)を高めることが、時を変える力となる。

10/21

7)彼女の今回の最大の目的は、それまでのいくつもの生において、繰り返し恐れさせ、生きる力を無くさせた(人生を奪った)人たちが、争乱とは無縁のこの時代に、その本来の力を取り戻すのを阻止すること。中でも信長であった時の、動物にも劣る(動物にわるいが…)残虐行為で殺害した罪無き大勢の人たちが(数多くの幼児や妊婦も含まれる)、この時に元気になることは決して許し難く、それを何が何でも止めようと、彼女はその無意識に潜める極悪な本性をより活発化させ、重苦しい恐怖と祟りの燃料を人々の脳に流し込む。健全な感性によって、ほんの僅かでも自らの正体とその本質となる悪虐(悪逆)の様を知られることを怖れ、その全てを力に、純粋な人たちの在り様を潰し切ろうとする。その全く人間ではない地の果てのような本性は、どんな悪人でも小粒に思える程のものであるゆえ、人の不幸や災いを材料に力と富を手にする人は皆、その存在(の威力)に助けられ、感謝し、いつの時も優位でいて、人を支配する。

普通に心のままに生きようとしても、どうにも思うように動けず、力が出ない人たちのその理由の殆どは、かつて自分たちの生きる自由と人生(命)を奪った存在が、その時の感情(凶悪な本性)をそのままに同じ今を生きていることで被る、その無意識の意思の、人の動きを止める性質の力によるものである。それが有ろう事に、かつて信長であった存在が、この時代に居るわけだから、それによる悪影響は計り知れない。(彼の非道な命を喜んで実行した、残酷そのものの家来たちもいる)柔らかな感性の人は、不安に苛まされ、心の力を失くし、生きることが辛くなる。

10/20

6)その類の存在が信長としての生を選んだことで、時代は完全に自浄力を無くし、それに続く時の中で、数え切れない程の人たちが、極限の苦しみと、無念の最後を経験することになる。彼は、「再生」の原点となる風景で、次々と人の人生を支配し、人を殺させ、そして集落の人々の命を怪奇的に弄んだ記憶を持つ、人間の本質を全く持ち得ない、見た目だけの人間。混乱の続く世には必ず生を持ち、巧みな立ち振る舞いと特別とされる立場を利用して、幾多の惨劇を操る。

信長としての時代には、それまでの特殊経験で鍛えた冷酷さと異常な征服欲を余裕で働かせ、一緒に世を病ませる仲間たち(かつての身内)が驚く程の残酷な様を展開させていく。この頃の惨たらしい数々の様相に震え慄き、不合理な処罰を受け、命を奪われた数万の普通の人たちは、その後の人生のいつの時も、同時代に転生したその存在たちの無意識の影響により、理由の分からない辛さと厳しさを経験させられてしまう。

人の心と精神を堕落させた宗教世界の有力な偽り人は何人もいるが、生涯を通して数限り無く殺戮を行い、普通感覚の人を悍しく奇怪なやり方で惨殺し続けた信長のその異常な姿は、この国に生きる心ある人々の、言いようの無い不安と怖れの根源と言えるものである。彼の存在は、この国で最も重量級の歴史上の異物であり、彼を尊ぶ人は、その無意識の中に、人としてあるまじき残虐さを秘めていると言える。

10/18

いつの時も、良いものは争い事とは無縁で、良いものと思う(思わされる)ものを通して、争い事は引き起こされる。つまり、心が感じるものと、思考が思うものとの違いはとてつもなく大きいということ。

経済が優先される社会では、良いものが力を無くす。送り手は、次々と良いと思われる(思わせる)ものを作り、人は思考で動き、心身を疲れさせる。

みんなにとっての経済は大切であるが、みんなが利用される経済優先は、いつも争い事と隣り合わせで、人間の退化の象徴と言える。経済が滞れば、否定感情が他地域や他民族(宗教)に向かう人間では悲しい。経済優先(至上)の権力者は、大勢の人を巻き込む争乱(戦争)を引き起こす、という事実は、歴史の中にいくらでもある。暗いニュースの背後に隠れた、かつてのその時の存在たちがドキッとしている。

10/17

人のための仕事をすることで全くそうではない本性を隠す人たちが作り出した‘偉い’や‘立派’の言葉。それらは、人のために生きることを普通とする本来の世界には無く、人間の成長・進化が無視されていることを意味する。

最近では、LED化を推進することが良いこととされ、そこに在る、知られてはまずい生命にとって危うい原因の事実を、偉い人や立派な人(企業)が、本能的に、執拗に隠している。(以前は、IHや電気自動車だった。リニアモーターカーは、1000年先まで残る地球の異物)

形無き原因の性質に敏感でないと、その自覚もなく取り返しのつかない現実を引き寄せる。その上で知る、なぜそうなのか?の理由。まずは、2000年もの間、誰も人間本来を生きて来なかった(来れなかった)事実を知る。そこに、真の平和と健康のエッセンスがある。(ヒミコや信長を偉い人と認識(記憶)しただけで、その人の人生の殆どは、生命のそれではなくなる)

10/15

5)身勝手な価値判断に暴力的な感情を絡めて、安易に他者を退けようとする存在は、怒りや憎しみの対象となる人を徹底的に潰し、意のまま事を為し得ようとする。生まれながらの本性がその類の感情を常とする程であると、嫌な相手への殺意も平気で抱き、その人の人生全てを奪い取ろうと、精神は憎悪まみれの狂気となる。そんな性質の持ち主が法秩序の無い時代に生を持てばどうなるかは、歴史が伝えるところである。その理由は、当時の時代背景ではなく、その時代を選んだ、人間性を持たない存在たちの、獣のような本性である。

彼らは、残虐な行為に人々を巻き込み、良心を破壊して、何でもありの殺戮を繰り広げる。その執拗で凶悪な感情によって、人は普通に生きることも許されず、明日を生きられるかも分からない日々を過ごす。それは、迫害や差別という次元ではない。

ところが、彼らの恐ろしい思惑の背後では、常に優遇されたり、個人的に得したりする人も多くいて、その人たちにとっては、彼らはそのままであって欲しい存在であり、英雄となる。人間味のある人の殆どが無残にも命を絶たれ、そうではない人が、危うさを潜めたまま、型通りで質の伴わない歪な平穏を保っていく。

10/14

4)時に、微細で力強い原因を普通とする人との関わりの中で、その自覚もなく遠い昔のその頃の経験の性質が思考に上がって来てしまい、それを機会に、それまでの隠された全てが顕になるという人がいる。無意識の奥に潜めていた危うい本性が、柔らかな感性を持つ人に対して本能的に普通ではない働きかけをし、それによって活動的になった無意識の意思が、自らの過去の姿を不本意にも形(言葉)にしてしまう人もいる。

身体を終えることで人生は切り離されても、その時々の経験の性質の全ての原因はそのまま重なり行くという、生命世界の普通。その普通を感性の原因に本来を生きる人にとっては、人間らしさの無いかつての経験(原因)をそのままに今を生きる人の、その異常で悪質な姿に何らかの反応をすることは普通のことである。そのことが根拠の無いものと否定され、放って置かれてしまうために、その重く非道な原因に呼応するようにして、経験しなくてもいい病気や争い、悲しい出来事や不公正な現実が、繰り返し世に引き起こされてしまうのである。その事実への理解と、それによる確かな変化(理由の要らない平和と健康の具現化)が根拠であるのだが…。

10/12

人のためになることに力が入り、それが上手く行かないことで自分を責めるスタイルを続けられる人の危うさは、計り知れない。単に人のために生きる要素が自分の中には無いだけなのに、その事実に背を向け(見ずに)、「こんなはずではない」と自らを責め、狡く被害者になる。

そんな人たちが増えることで盛んになる、精神世界と新興宗教。自分をごまかす人ほど精神世界に熱くなり、被害者で居たい人ほど、新興宗教に身を置きたがる。(この国では、その性質から、キリスト教も創価学会や天理教の類となる)

思考(覚えた知識)で繕っても、自然と具体化されてしまうその人の本性。そこに在るものは、2015年の無有日記の中に何度も載せてきている。思っていることや知っていることが自分だなんて、人間として余りに情けない、虫も寄り付かない嘘である。

10/11

3)原因を生きるという普通感覚が人間としてあたり前に成長し続けている時、自覚する対象はどんなであれ、それはそこに繋がるそれまでの原因を含めたそれとなるので、そこでの通常の理解の及ばない感触が、そこに引き寄せられる次なる現実を本来をテーマに調整する。その普通が安定する中で生じる新たな普通は、原因でい続ける自らの経験の記憶が、多次元的な働きをし、人のかつての経験の性質に反応しつつ、必要に応じてその風景を把握すべく材料を、何気ない経験の中で自然に手にするというもの。そのことで、原因の道を辿るようにして、時を遡ってその人の以前の人生が感覚的に理解でき、その感性と無意識の働きが、経験枠を超えて自由に言葉を思考に通させ、決して結果にはなり得ない形を創り出す。

それは言わば、転生の内側を覗くようなもの。数百年前の出来事や当時の経験をそのまま把握することはあり得ないことであるが、現在のその人の中に在る、今回の生を選ぶ際のその動機となるかつての経験とその性質を今の原因(無意識の選択、創り出される空間)に繋ぐことは可能で、そこでの融合の観察を通して感得する未消化の感情の記憶や、変化(原因を生きること)への姿勢と価値意識等を材料に、当時の在り様は、直感的に、普通のことのようにして知り得ることになる。

10/08

2)その事実は、決して放っては置けない性質のものであるのに、何も出来ず、そのままにせざるを得なかったこれまでのその理由は、心ある原因を大切にありのままに生きるという、人間の基本となる姿勢が、それを望まない存在たちの人間味の無い発想と身勝手な力によって、永いこと潰されたままであったからである。

みんなにとっての望ましい原因を生きることが普通であれば、それに逆らおうとする人が作る現実の、その不健全な原因はそのままではいられず、次第に浄化され、不穏な風景とも無縁でいられる。しかし彼らが武力でそれを行使し、抵抗する人たちの命を平気で奪い続けるという、人間とは思えない行動を普通としたため、素朴で健全さを普通とする人たちは皆、心に蓋をし、感性を鈍らせて生を営むことに馴れさせられてしまう。

心ある原因が無視されることの影響は、変化を妨げる動きの無い結果ばかりがそれにより蓄積されるため、時代は、数百年単位の負の連なりを経験することになる。武力は、悲しみの連鎖の代名詞であり、かつてそうであった人は、その時の感情を無意識の奥に閉じ込めたまま、同じ性質のことを繰り返してはならない。

10/05

2015

1)形の有る無しに拘らず、自覚できるものは皆、変化し続ける今という瞬間に思考が捉えた現実であり、それが次々と脳に記憶されることで、人は、他者との交流における共通理解の幅を広げたり、新たな現実の材料にそれらを様々に活用したりして、個性化した人生の要素を思い思いに積み重ねていく。

ところが、自覚できる内容や記憶に残る事柄の性質は、人によって同じであったり異なったりと、一定の状態を維持するわけではなく、そのために方向性や居る(繋がる)場所が違ったり、関わる物事の流れ具合に変化が生じたりと、人それぞれに良しとする価値世界の様相は変わっていく。

その違いが、人としての基本形が大切にされる中での選択の自由の域であれば何ら問題はないが、そうではない時、人間社会は、互いに生かし合い支え合う普通が力を無くし、それらのことを大切にしようという、本来そうであるべきあたり前のことに思考を働かせる普通が力を持つようになる。

その弊害となる状況は、現代社会のいろいろな分野で見られるが、そのどれもから伝わる不公正感や、差別や嫉妬の感情は、まさに人としての本来の姿が大きく外されてしまっている現れであり、人生の要素となる経験の記憶とその性質が不公正で否定感情を強くするものであっても、それに平気でいる人が多くいるということである。

 

9/30

12)地球の良心とも言えるこの国の人間性は、全てであるひとつの中で戯れる、ありのままの生命の姿。その本来は、枠を持たず、留まることを知らない、自由創造の息吹き。喜びも平和も、そのための理由を必要としない自然なままの普通だから、経験しなくてもいい経験を知らず、ただすべきことをし、行くべきところへ行く。共にみんなで生かし合い、繋がるこれからに、これまでを重ねる。

人間には知恵があり、それが余裕で活かされることで、人間らしさは支えられ、人間性も普通に時と重なることになる。その最も基本となる大切な知恵は、経験から自由でいて、思考を自由にさせるという、心が主人公でいる、生命としての人間の姿。地球感覚と繋がるそれは、「心の遺伝子」の声であり、「生命の歴史」の望みでもある。

危うい本性を隠す心を持たない存在たちはそれが出来ず、常に経験にこだわり、自由な思考で人知れず負(争い、病気、混乱)の原因を作り続けようとする。そのためによる不本意な経験は要らない。それに付き合わされる時に関わることもない。通らなくてもいい道を歩まないことは人生の基礎でもあるから、常に「心と感性」が躍動的でありたい。地球の良心となる人生を、共に展開させていく。この国の、この時代に生きていることのとてつもない意味を、大いに楽しむ。

9/28

11)そんな事実がこうして文章になることの意味は大きい。限り無く原因でい続けることで可能となるそれは、必要に応じて、その深みさえ自由に選択する。責任は、心ある原因だから、結果に留まろうとする心無い嘘は、それが遠い昔の人生のものであっても、徐々に砕かれていく。それは、永いこと自由になれなかった本来の思考が力を取り戻し、その意識もなく負の連鎖の材料となっていた自分から離れられるということ。ずっと普通とされてきた歪な普通から自由になり、過去が癒され、未来が喜ぶ本来の普通を表現できるということ。

文章の域に収まらない無有日記は、それに乗った原因(エネルギー)によるワークがメインであるから、触れる度に、自らの原因はかつての原因も含めて変わり出し、そこで重しとなっていた不自然な経験も、その奥深くから浄化される。そして無有日記に触れる人が増えるにつれ、破壊と支配をその無意識に潜める凶悪な存在たちの姿が顕になり、その力を無くす。この「地球の良心」も、しっかりとその材料となり、力強く読み手の原因の風景を本来にする。

遠い昔の様々な事の内容は、思考の域に収まり得るものではないが、そこに在る全ての原因はこの今と繋がり、ここに居る人たちの心の風景にいろいろな形で影響を及ぼしている。知ることは、その手前の原因が責任あるものであれば、それだけで時を癒す力になる。この今、この時に知る、2015年の無有日記は、軽く時を超え、いくつもの空間をひとつに、その全てを未来の確かな原因にする。

9/25

10)この国の人口がまだ数十万人だった頃、人々の、未来を引き寄せるその心の中に、私たちの知る多くの歴史上の争乱や合戦の原因は無かった。そこに無くてもいい感情を携えて登場した、余りに残酷な意識を普通とする存在によって、命の奪い合いが繰り返し引き起こされ、心ある素朴な人たちは皆迫害と差別で苦しみ、厳しい環境の中で生きることになる。

その悍しい時代の連なりと質を同じくするもの(歴史)がキリスト教関わりの中でも生じており、本性をむき出しには出来ない現代において、彼らがその世界を利用したことは、彼ら流の悪巧みの重要な選択である。柔らかで健全な感性を持つ人たちが生きにくさを覚え、理由の分からない辛さと苦しみを経験し続けるその原因作りのために、心ある原因を持たない結果(形)だけのキリスト教が協力することになる。

それは、人間らしい普通の生き方が難しく、危うい本性(本心)に蓋をしたまま頭だけで生きる心無い存在たちが力を持ち続けるということ。それは、見た目は違っても、中身はかつての惨たらしい時代のそれと全く同じであるということ。

9/22

9)「再生(2)」の頃に、人間とは思えない行動を繰り返し、「生命の歴史」の中でも残虐なことを平気で行っていた凶悪な存在たちの多くが、現代においては、キリスト教の世界に身を置き、そこを隠れ家のようにして、誰にも気づかれずに、好き放題心ある優しい人たちを病ませているという、オカシな現実。それだけその場所が、非人間的な無意識に蓋をし続けるのに都合が良いのであろうが、その性質に直接・間接的に敏感に反応させられる人たちは、彼らの心の無さゆえのパワフルな優しさと愛情の有る振りに思考を付き合わされ、心は辛く、体は不自由さを覚えるようになる。

その世界が普通とする、思うことで良しとする想い(心)の無さ。常に優位でいて他を隔てる、強い差別心。そして本能的にそれをごまかす、磨かれた偽善。それ系の教会は、人間の基本となる子供心を全て排除し、学校は、心が無くても全く平気でいられる生き方を実践する。無意識(本性)を切り離して頭だけで生きる人たちが、優越と特別を手に住み続けられるこの国のキリスト教。その意識もなく柔らかな人の生命力を奪う存在にとっては、絶好の隠れ蓑となる。

9/19

8)普通に考えれば誰もが分かり得ることとして、真を外れたご利益念仏の危うさと、それを提唱する僧の嘘の心がある。浄土も他力も、個人的な思考の産物。どこにも未来が喜ぶ原因は無く、変化に乗れる、未来に繋がる心の風景も無い。言わば、まがい物の典型である。

時を経て、そのことに気づき、情けない事実として親鸞系の世界を捉える人が増えつつある中、かの存在たちは、次の道(手口)をさぐる。それがこの国のキリスト教である。新たな病みづくりの場所として選んだその中に次々と住み続ける彼らは、‘然るべき原因の無さ’という共通項を以て融合を深め、それをこの国の風土に合った手練手管の強力な材料とする。

そこでの、困った(苦しんでいる)人の存在を前提とした行為としての愛情は、浄土真宗と相性が良く、心の性質が脇に置かれた祈りと願いも、親鸞関わりの人たちが安心するものである。西洋の文化に対する日本人の意識も手伝い、上手い具合にキリスト教を利用できたことで、過去にしがみつき、結果を生きる人が大幅に増え、心を持たない危うい本性の存在たちは、それまで以上にその影響力を強めることになる。

9/17

なぜ「おまけ」のページでこれ程の反応があるのだろう、と多くの人が思っている。簡単に言えば、ずっと今日まで(かつての人生も含め)普通ではなかったということ。どんなに頑張ってもどうにもならない負の原因を染み込ませた(染み込まされた)まま、自分らしく生きているようで、実はそうではなかったということ。それは、2015年の無有日記で段階的に自浄力を付けるべく道を歩んできたからでもあるのだが、それにしてもこの「おばけ」で扱う世界は手強い。頭を一切使わない度は、東京―大阪間の移動時間を忘れてしまうほど。

真実は、偽り人によってそれらしく作られてしまうものであるが、その事実は、いつまでもそこに残る。その原因がそのままでいられることはなく、真の普通の前でそれは、その本当の姿を顕にする。元来、辛い現実ほど、人間に似合わないものはない。

9/15

時代が変わりつつある今、という理解だけではなく、これまでの時代における負の部分が、これ以上隠し通せずに次々と顕になっている今、という理解も大切である。

どんなことでも、事の本質が無視されれば、それによる要らない時間が費やされ、後になって、質の異なる「なぜ?」がぶつかり合う。それは鈍感と敏感の違いと言っても良いぐらい、その本質の世界から観ると、余りに切ない人間社会のムダであるのだが、それを理解するこの今は、全く違った新しい時の連なりを経験する可能性を秘めた、別次の原因の時であるとも言える。

時代の洗い直しの真っ只中のような場所にいる時にすべきことは、一足先に、本質があたり前に大切にされる未来と繋がること。そのための原因でい続けること。僕らは、太陽に守られる地球人。次への転生とその原因は、未来地球の何より大切なチャンスのエネルギーになる。(←ん?)

9/13

「時空間の記憶」と「地球の良心」の途中に「1000年目の夜明け」が入り込み、その後改めて再スタートを切ろうと思ったら、突如「おまけ」のページが現れ、その場所に追加する文章を書いているうちに、またまたその2つが遅れがちになっている。なのだが、そういうことなのだろう、と納得する。頭を使って、考えて書くことがないから、文章になって、そうであるべきことを教えられ、UPしたことで、その時だと知らされる。その主導権はいつも、時空を余裕で超える。

未来のために当然必要とされる、これまでの原因の性質とその蓄積への対応。ムーセンテンスはどこまでも普通だから、扱うテーマもそのタイミングも、時を間違えることはない。

9/12

7)仏道の世界に結果は無い。ましてや到達(達成)や特別を望む思考も存在しない。ただ生命本来をテーマに原因を生き、自然界と共に変化に乗り、それを人間経験に活かして、普通の質を成長させること。神も仏も、その在り様と重なり、その中で輝き出す。それは、仏教の真の普通の姿であり、仏心の具現化である。それを否定することは誰も出来ず、人間は皆そうであるべく道の旅人である。

それを完全に無視し、人々の思考を操り、そして勘違い人に徹して嘘を生きた親鸞が、その内面(無意識)にどれ程の危うさを備えていたかを知るのは容易である。時代背景を考慮しても、人々の苦しみと嘆きの原因となる世界を放ったまま、人に繰り返し念仏を唱えさせ、浄土を信じ込ませ続けたその姿は、仏教さえ嘘の道具にしてしまえる上質の偽善者であり、生命に対する無知の極みである。

人としてすべきことをせず、名だけ残した彼は、しっかりと負の連鎖の要所を占める役を果たし、後に続く心無い人たちの大切な隠れ蓑的存在でい続ける。

9/07

6)しかし、「心の遺伝子」と融合する人たちの素朴な発想の中に、それらの(自分たちの)存在が幾度となく登場していることを知り、更なる病みの構築のため、その世界の住人たちは、同質の強者を新たな世界に送り出す。それが親鸞である。

彼がどこまでも良き人として扱われてしまうのは、そこに集まる(集められる)、疑うことを知らない普通一般の人たちの心ある想いが上手く利用されているから。直線的で深みの無い彼の教えと生き方は、生きるのに精一杯の人たちにとって、分かり易く、共感を覚えるもの。それゆえ、人のために生きる意思を全く持たない彼の本性は、一切気づかれないまま、後の世に余裕で負の影響を及ぼし続けられる程の力を付けることになる。

彼が得意とするのは、全くその自覚もなく嘘を本当のこととして生きられる、天性の偽り。宗教(生命)観の浅さと人間臭い我欲は、初めから嘘であるがゆえの彼流の真実。そんな自分が信念を持って仏道を歩もうとするから、人々は簡単にそれに巻き込まれ、同じように嘘を生きる人は、仏という後ろ盾を手にし、欲を貪る。もっともらしく伝わる(術に長けた)彼の本当の世界は、神道と密教が羨む程の発展を見せ、この国の病みの礎を人々の思考の中に築く。

9/06

5)人が苦しむのを喜び、心ある素朴な人が命を奪われることに快感を覚える存在たちは、その本性のままに生きられる環境を維持・拡大しようと、互いに住み分けをしながら役割を分担し、そのために好都合となる地位や組織、価値観を利用して、人知れず時代を食べるようにして暗躍する。彼らは、効率良く満足を手にするために、人の脳の働きを鈍らせる手段を講じ、無意識の底にそのための経験と感情を蓄え、いろいろな場所で、難なくそれを実行する。

初めは、「この国の病みの始まり」の中で触れた神道の世界。神に仕え、神の意思(言葉)を伝えるという立場を偽装し、善良な村人たちの命と人生を弄ぶ。その後は、密教。権力者の思惑に乗り、仏教としての位置付けを騙し取り、その凶悪な無意識の意思の力で心ある人たちの脳を支配して、人間本来を潰す。神道と密教は、動き(変化)を止める原因で繋がる関係を密に、病みを支え合い、我が物顔に人心を操り続ける。

9/05

4)その重大な理由となる場所に、念仏・浄土思想がある。違和感の対象にはなり得ないものとして人々の思考に受け止められてしまう程のそれは、完全なる脳の操作。平安・鎌倉期の混乱に乗じ、人間らしさを破壊し続けたその思想は、人々の苦しみの風景を暗に肯定し、与えられた環境で決められた人生をけんめいに生きることを浄土を餌に実践させ、念仏を思い込み(自己洗脳)の道具にご利益心を煽る。その際の文言を仏に通じる仏の教えと称し、心の拠り所に集まる人たちの脳から健全さを奪う。

それを喜ぶ、支配層の存在たち。彼らの権力の行使により信者を増やすことになる、親鸞の満足とその本性。互いは協力し合い、限り無い闇(病み)世の存続のための土台を作っていく。この頃、人間としての貴い知恵は完璧なまでにその意思を潰され、人間性にも重い蓋がされることになる。

9/04

言葉や行為の手前の‘どんな自分が…’が全体であり、中庸でいる姿勢がそこにあれば、それはその原因が否定感情とは無縁であることだから、何を言っても、何をしても全くOKとなる。

とかくこの世は、形(見た目)としての言葉や行為に注意が注がれ、形を持たない様々な性質の原因が暴走しがちである。優しい言葉より、優しい想い。人を思う行為より、人を大切にする存在。現実は、そこにいる人たちの原因(心の性質)の投影だから、その原因を本来(全体)に、言いたいことを言い、やりたいことをやる。

キレイ事は、何でも他人事にし、体裁は、本音を巧く隠す。そこにある‘どんな自分が…’の原因は恐ろしく凶暴となり、その裏返しの優しさで、無自覚のまま世を病ませていく。

人間は、原因が元気だから、変化する。変化するから、その原因は成長し、より人間らしい生命を生きることになる。どんな自分がそこにいて、それをしようとしているか? 生きる基本の基本である。…と何度も書いているような…。

9/03

2015

仕方なく必要とさせられてしまう物に囲まれているうちに、それがあたり前となって、そんな気持ちも無くなってしまう時、必要性の質(次元)は一気に低下し、健全さも失われていく。それが子供たちの日常の中にあるとすれば、未来は暗く、荒んだものになってしまう。そんな中でも、脳に染み込みやすい音や映像が健全さを無くすことだけは、人として、避けなければならない。そのスタイルは、その物や形は、どこと繋がり、どんな未来を引き寄せようとしているか? 耳に届き、目に入る、自然な音と自然な風景。いつの時も、その基本形が崩されてはならない。

 

8/26

o.目には見えない負の影響力の殆どは、目に見えるものだけを大事にする(認める)人の無意識の部分から生じ、それに無感覚でいるという嘘そのものの彼らの原因によって、心ある想いを普通とする人は、その感性を壊されてしまう。その目には見えない原因の影響に全く責任を覚えられない彼らの心無い思考(感情)によって、純粋な人たちは厳しく辛い想いをさせられてきているわけであるが、心を持たず、心ある原因の無い、人間とは思えない存在のその人としての感性の無さに対応し、それを処理するというのは、限り無く困難で、実に夢のような話である。しかし何であれ、今は戦乱の世を遠くに、人が人として生きていける時代であるゆえ、永いこと不可能であったことが可能となるという望みを歴史上初めて抱くことの出来る時を迎えていると言える。

親鸞と生涯を共にした女性の存在(能力、経験の記憶)によって、この国の病みの拡大版が完璧なまでに作り上げられたことのその原因を浄化すべく、この今の時を最大限に活かす。ずっと先の未来の風景にまで届く安心の原因でいるからこそ、ここに集まり、癒される、かつての切なる希望の原因。次第に姿を現す、その頃のままの、動きの無い重たい存在(異物)たちひとつひとつを無限分の一の原因の世界に触れさせ、それぞれに見合った変化の時を体験してもらう。そして、目には見えない世界のありのままの純粋さに、主導権を握ってもらう。

時は、20158月。親鸞と彼女の本性の遺伝子が余裕で把握されたことで、人のために何を話し、何を行っても、その無意識の意思が生命本来のそれではないゆえに全てが嘘となる存在たちのその原因の重たさが、容易に顕になる(分かる)ようになる。それを形で繕えば、滑稽な程にその偽善振りは人へと伝わり、その原因をそのままに先へ行こうとすれば、抑えていたはずの蓋が外れて、何気ない言動からもその怪しさが見え出すことになる。

政治も経済も、宗教も文化も、その基本は人の心。形ある世界を創り出す、形を持たない心が、そのままで平和でいる友愛と調和の原因でい続けるから、社会環境は不公正を知らず、共に動き出す時代の空気も健康的でいる。その心が、人間の本質の素顔であり、心ある想いは、その自然な表情である。生命を生き、人間をやる。心のままに、心を表現する。真の歴史の中で、真実が風になる。

8/25

l.嘘のような酷い現実が展開されてきたことの背景には、嘘のような存在たちの影響力があることは誰もが頷けること。その原材料に、嘘×1000の親鸞の無意識の意思と、時空を超えて容易に負の影響力を及ぼし続けられる彼の存在の力があることを認識しても良いところに、私たちは居る。生半可な原因では瞬時に跳ね返され、全てを潰されてしまう、親鸞繋がりの重く堅固な極悪(極楽)の世界。彼らは、人知れず人を病ませ、世を混乱させる能力を持ち、それを完璧にするために、誰からも良い人でいて、世間的にも良識ある人間としての立場を上手に維持する。その世間も、彼らが作ったものであるゆえ、それはまさに、嘘のような本当が本当のように嘘続きであったという、歴史上恐ろしい程の珍事である。

親鸞の恐さの、その元となる世界の原因の性質を言葉にするのは難しいが、これらの文章を通して様々な変化を体験できる事実から、現時点では、そうである世界を何気に感じるぐらいで良しとする。純粋で、心優しい素朴な人たちの本来が元気になることで、時は確実に変わっていく。次の時代には持っては行けないものが姿を消すことで、未来が嬉しいものを共に創り出すことが出来る。その機会となる原因を、この「1000年目の夜明け」に乗せる。この国のこれからのために、この国の全ての心ある人たちの心の風景に、永遠の風を送る。

8/21

心ある原因が変化・成長している人にとって、こだわりやとらわれの感情は縁遠いものであるが、それでいて、他者が真似したくなる何気ないこだわり(という名の責任)がその人の中には在る。

生きる上で大切なことが、頭(思考)から始まることはない。簡単に言葉になる程、大切なことはやわじゃない。それへの何気ないこだわりとその原因の高まり。それは、繋がる責任として、ごく普通の実践の中、時を癒し続ける。

8/17

3)人間として基本となるその知恵が久しく仕事をし得なかったために、重苦しく過酷な歴史が繰り広げられていたわけであるが、その背景には、その人間本来の能力を完全に封じ込めてしまう程の妙な力が関わっており、「空と海」や「時空間の記憶」「生命の歴史」などの中に、その悪質な意思を形にしようとした存在たちのことが載せてある。ただ、多くの人が疑問に抱くのは、なぜ人間は、本来を取り戻せないまま、現代に至るまでの永い間悲惨な争い事を経験し続け、心の自由と平和から縁遠いところに居なければならなかったのか?ということ。

普通自然体の心持ちが人から人へと伝わり、その在り様がそこ(今)から次へと流れていく姿は、人間らしさの健康的な風景であるが、その全てが表面的で、何もかもがその自覚もなく不自然であったために、人々の感性は、どこにいても、ありのままから縁遠いものであった。なぜそれは変わることなく続けられていたのか? そのために幾多の悲劇が引き起こされていたにも拘らず、なぜ人々の本来は力を失くしたままだったのか?

8/15

f.世が病むほどにその存在感を高める宗教であってはならず、そうならないための原因を力強く安定させていることで、その宗教の存在価値はあり、そうであるべき時を存在そのもので表現する役を、僧は喜んで担う。ただ残念なことに、この国では、苦しんでいる人たちの、人にすがりたい気持ちを上手く利用して始まった歪な宗教(浄土真宗)が妙な力を持ち、病気や争い、貧困や差別のその原因への対応が置き去りに(無視)されたままそれが拡大したことで、宗教が宗教としての役割を担えないまま、病んだ世を連ねてしまうことになる。

人は、気弱になると、依存心を抱き、手を差し伸べてくれる人の話に耳を傾け、その人の助言を大切にしようとする。親鸞は、その辛く切ない人の気持ちを材料に仏心を偽装した念仏を広めたわけであるから、彼の本性の凶悪さは想像の域を超える。変化に乗せる救済ではなく、変化を阻む取り込み。後に続く人(僧)たちがどれだけ世を病ませているかも理解する。

人としての宗教心がそこにあれば、人々の苦しみの原因への働きかけをし、生きる力と希望を彼らに与える。それが余りにも困難なものであれば、苦しみの無い環境の原因づくりを自らが重ね、その時を確実に引き寄せる仕事をする。親鸞は、そのどちらも選ばず、自らをごまかし、人を騙す。その負の蓄積の影響を思う時、彼は、誰よりも仏教に携わってはならない人物であったことが明らかになる。

8/14

2)人間には、いろいろなことを学び、それを生活に役立てるという知恵があるが、それは、生活環境が平穏で、優しさに包まれているからこその普通であり、そうではない時、人間には学びの姿勢からその質を変えていくという、もう一つの知恵がある。不穏な空気が漂い始め、心ある関係性が力を失くしかけた時に特に自動的に発現するその知恵は、争いや衝突、不公正や不平等の原因とは縁遠い自分でいることと、そんな自分が、その事実の背景を学ぶというもの。それにより、病み続けようとする状況の力は弱まり、不穏な空気も、心無い関係性も、その元から居場所を失くしていく。それは、その時の生活に役立つ最良の知恵となって、経験しなくてもいいことを生じさせない大切な学びとなる。

8/12

d.何のためでもなく普通に大切にするものを共有しながら、人間らしさは育まれていくものであるが、何かのために大切にするものを学び、思考を忙しくさせると、行為は共有でも、心は無自覚に隔たりを生むことがある。人は、学ぶまでもなくあたり前に大切にするものを基本に、互いを知り、共に生かし合うことを普通とする。その原因となる人間本来の在り様は仏心の一つの姿であり、人から人へと心ある風景が伝わり行く、その理由を必要としない愛情である。

友愛も慈悲心も、そうである心の素顔であり、頭(覚えたこと)から始まることで良しとされることとそれらが重なることはない。その世界を言葉で教えることは出来ず、その実践を思考で促すこともあり得ない。優しさも思いやりもそう。ただそうである存在の姿を通して、そうであるべく気づきと確認の時を人は経験する。そのための手法が主になることはなく、特別とされる話も要らない。大切なものはいつも、向かうところには無い。

それを知る人の理解は、多次元的な原因の影響力を普通とし、無為自然も諸方無我も、その中で、そのままである。生きる軸足は、常に形を創り出す形無き世界の中にあり、そこから世を眺め、心を観る。伝えようとするものではない、伝わるものに乗って伝わるべき人の心に届き、形になろうとする真実は、いつも行為の手前の原因の世界でその質を安定させ、それに正直でいる人の何気ない発想と経験の中で、その連繋を自然とする。そこでは、頭で考える自分の出番は無く、頭を通ろうとする自分が主導権を握る。

そのひとつひとつは、存在そのもので時を癒し、生かし合い、支え合う世界の基礎となるもの。それを確認すれば、心ある人は、親鸞の教えが真実の歪曲であることを知る。心のままに正直でいることを、感情のままに好きなことをすることとする彼の心持ち(本心)は、そんな人がなぜ仏教の世界に居るのだろう?と、普通の感覚を持つ人たちの疑問の対象となる。当然、親鸞の教えを継承する僧たちの中に、責任ある原因は無い。思考から始まる思考世界の形を愉しみ、仏教を商売の道具に悪用する。

8/11

1)地球の良心とも言える、この国の人間性は、言葉を必要としない抽象世界を成長させ、形を持たない想いを、共に生かし合う人たちの自由と喜びに繋ぐ。そこでの優しさは、そのための行為を知らないそのままの心。他者への思いやりも、そうである理由を持たない自然な姿。向かう対象を持たない原因のままの変化に寄り添いながら、身体時間を元気に、快活に過ごしていく。善悪の判断を必要とする程の不調和な現実は縁遠く、他を隔てる要素を含む、高低・大小の概念は何処にも見当たらない。その流れる普通の中で、その意識もなく人は癒され、健康を日常に乗せる。その意識もなく人を癒し、争いを知らない平和を育み続ける。

日本人の本来が持ち合わせるそれらの感性は、地球感覚という基礎の上で、どんなところの、どんな人にも伝わり得るもの。誰のためでもなく大切にされ続ける愛情は、縁する誰の心にも注がれ、時を超えてその質を広げていく。犠牲や奉仕の姿勢も入り込めない真実の共有は、自らへの正直さを普通に、平穏さを重ねていく。

その全ては、全てであるひとつの世界での「心の遺伝子」のそのままの風景。どんな時でも心ある存在たちによって支え続けられるそれは、地球自然界の安心と喜びの材料となり、絶えることのないこの国の生命の歴史に風を送る。中庸という、生命源からなる全ての意思の中で戯れるそれは、人間本来の原動力となって、時を彩り、空間を運ぶ。人を人として、生命を輝かせる。それは、普通であるからこその真の普通である。

8/10

b.どこかに後ろめたい気持ちがあったり、バレたらどうしようという不安を抱いたりする‘嘘をつく’という人間的な次元ではなく、何の自覚もなくそのまま嘘を生きられ、そのどれも当然のこととする全てが嘘である存在は、疑うことを知らない素朴で心優しい人たちを次々と自分たちの闇の世界に難なく巻き(引き)込み、彼らをその偽装の手段に利用する。それを天性の嘘で、賢く、善人らしく、精力的に実践したのが親鸞であることは多くの人が知るところであるが、彼にとっては、頭で考えるよこしまな発想までが真実(仏の教え)となるゆえ、後に続く同質・同類の人たちは心強い。

親鸞を聖人と(師として)仰ぐ人たちの殆どは、口にする「ありがとう」も「申し訳ない」も嘘。正しいことも皆、偽善の道具。それゆえ、残忍さと凶悪さを普通とする人が安心してその世界に身を隠すことができ、呪術系の無意識で人の人生(の終わり)まで操って金儲けに徹するといった、悪人正気然となる存在(僧)がそこで力を持つことになる。

もちろん、彼らは皆、仏(神)に感謝し、正しい行いをする。そうであることでそうではないことをごまかしている自覚もなく嘘そのものでいるその姿に、親鸞も嬉しい。嘘の進化は、彼の、この上ない喜びである。

と、このところ、親鸞がまめに登場する。それは、「空と海」と「地上3cmの紙芝居」をUPし始めたことで、親鸞の本当の姿を熱心に隠し続けていた存在たちの状態(重たい原因を固める力)が不安定になり、その内側の巨大な病みの塊が、永い年月を経てここに動き出したから。それが顕になることは歴史的な喜びとなるもので、形無き無数の心ある存在たちの切なる希望の具現化でもある。嘘につき合わされ、嘘を生かされ、人生観も世界観も、死生観も宗教観も皆、生命本来とは無縁のものになってしまっていたこれまで。嘘しか知らない人の本当の世界に快くつき合ってあげられる無有が、嘘でも本当でもどちらでもいい世界から、生命にとって危うい事実をさらりとオープンにする。それは、ここに招かれた無有の仕事。人間を経験させてもらっているから、人間らしい人間のための普通を表現する。

「この国のこれからのために」に親鸞が登場しなかった理由は、彼の全てが嘘だから、そこに載せるに値しなかったため。人間の成長を止める、ご利益と依存(浄土、念仏)を最大利用するあたり、彼は、歴史上の稀有な偽り人と言える。保育園児でも心が違和感を覚える、そのあり得ない不気味な世界。人は、人間である前に生命としての本質をあたり前に備えるが、彼らは、人間である前に何なのだろうか?

8/09

11)心ある人の活躍を望まない心無い人は、その無意識の中に、かつてのある悲惨な出来事に関わったか、それを支えたかの記憶を持ち、心を持たないゆえに、その原因を浄化しないまま異物としてそれを持ち歩き、同じような性質の人生を繰り返している。そんな人の影響で心身が重くなったり、生きる力を失くしたりした時、そこには、蛇の怒りや憎悪が絡んでいることが多々あるので、この「地上3cmの紙芝居」の内容を、思考を自由にさせながら読んでみる。脳がヘンで、前向きになれず、とにかく怖くて不安に疲れてしまっている状態であれば、その原因の風景深くには、人間を食べた蛇を食べた人間の仕業が存在するから(自らも蛇と同じことをしているが…)、蛇という言葉が繰り返し登場するこの文章に、人食い蛇の正体を持つ蛇人間の凶悪な原因を浄化してもらう。

蛇には、蛇の生活がある。蛇そのものの人間には、普通の人間ではない自分に見合った、普通の人の生活をじゃましない生活がある。そして、普通の人間には、人間らしい生活を送る、普通の人生がある。

心の遺伝子は、この文章の中にも流れ、心ある人の元気の燃料源であり続ける。心の原型は永遠である。それをこの時代の身体経験に重ね、それによって浄化されるこれまでの全てを、これからへの新たな原因にする。いつの時も、真実はシンプルであるから。

8/08

a.存在による癒しという言葉があるが、存在そのものが嘘という人がいる。それは、その素質を持たず、時には全くその真逆の本性でいながら、人のため、世のための立場や肩書きを手にしている人のことである。彼の言動は全て嘘。考えていることを形にする言葉や行為としての嘘は見当たらないが、その中身(無意識の意思)に真や心が無いので、存在そのものが完全なる嘘ということになる。

自分たちが支える、形や物(結果や形式)を重んじる常識を頭でしっかりと学び、嘘を言わないという本当で、真剣に嘘を生きる。奈良時代の朝廷の世界で盛んになったそのスタイルは、その後、親鸞にも引き継がれ、世は、全てが嘘という心を持たない人間を増やすことになる。

みんなが頭だけで生きる嘘そのものだと、それが本当の世界になってしまう、実にオカシな人間とその歴史。嘘そのものである人の本当の話ほど恐いものはない。彼らの言う、立派や一人前の言葉は凶器である。伝わるものは、その人を表す。嘘の自分(本性の危うさ)にけんめいに蓋をする人の存在の質は、異臭そのものである。

8/07

今の時代環境に何の違和感も覚えず、何ら問題もなく普通に生きている人には全く関係の無い話だが、どうにも生きにくく、何をしようにもその気になれない大変な思いを慢性化させている人は多い。

その中でも、漠然とした不安の類ではなく、不安という感情の化け物に突如襲われて身動きが全く取れなくなってしまうような、言いようの無い実に怖ろしい状態を訳も分からず経験させられてしまう人がいる。いつか、このことも分かりやすく文章にしたいと思うが、その気力ゼロにさせられてしまう理由の原因には、千数百年前のある存在によって惨たらしく経験させられた不気味な拷問がある。

それは、人間(の心臓)の味を覚えた蛇を身体に巻き付かされて、命を落とすという、人間としてあり得ない恐怖体験。それをさせた存在たちは、そのことを無意識の武器に、健全な感性を持つ多くの人の今の人生を牛耳る。心臓に原因不明のキツサを覚えたり、人格がへんになってしまう程頭がおかしくなったりするのも、その殆どはその時の経験が原因になっている。それを文章に書くべく時を引き寄せたいと思う。それは真言密教及び浄土真宗による呪術の類の燃料源にもなっているものだから。(※浄土真宗を隠れ蓑に暗躍する念密系の脅威は別格である)

8/06

8/2,3,43つの日記は、全て同じ存在のこと(その存在を通してのこと)。その凄さに、ここに収めておく必要を覚えて書いてみたが、まだまだこれからである。その影響力は、ほんの少しでも思考が働けば一切分からなくなってしまう程で、「再生」の中の一族たちのこれまでの、その全ての惨い行為を上手く陰で操り、自分はそことは全く無関係でいる立場をどんな時でも維持できてしまうというもの。

無意識だけで生きているようなムーの世界に、その存在の無意識の元となる姿がちらっと姿を見せ(ざるを得ない時を思わず経験し)、その時から、更なる人間観の進化を遂げ、その後、ムーの帽子の色も変わった。

今回(7/21)の出来事は、この国の病みの土台に更なる亀裂が入った、これからへの力強い原因である。天体も慌てている。(←ん?)

8/05

10)蛇系という言葉がキレイに当てはまる人たちの世界は、健全な感性を持つ人にとっては、強力な災いの原因である。敏感で柔らかな人は、名の通った神社(神宮、大社)に行っただけで、人生が壊れそうになる。密教系のお寺もそう。生きる力が何倍も必要になる。大小、強弱いろいろな蛇系の存在が、芸能界や音楽界、教育界には多い。ある人の歌を聴かないと元気が出なくなる程の中毒症を患い、その歌手の影響で生命力を失くす人がいる。心優しい生徒が純粋に勉強やスポーツを楽しめなくなる原因を巧みに作る教師もいる。心温かな人の身内の立場に彼らが居て、人知れずその人の本来の動きをじゃまし続けるというケースは往々にしてある。

実に厄介な話であるが、彼らにとっては、その全てが、その本性からなる無意識の意思によって為されるため、そのことの自覚は無い。そのために理由の分からない辛さと厳しさを経験させられているわけだから、それをそのままにしないためにも、無有日記との縁を最大限に活かす。蛇系の存在たちは、その性質のまま、ムーセンテンスの世界に居続けることはできないから。

8/04

自分とは全く性質の異なる、柔らかい感性を持つ子の精神を、幼少期からその重たい感情でしつこく病ませ、親への反発・抵抗を演出して、思い通りの凶暴な本性の人に出会わせ、そして、上手く行くはずのない結婚へと至らせる。予定通りどうにもならなくなった時に、これ以上ない優しさと愛情で彼女を助け、自分の側に(近くに)に置いた彼女の人生を、更に自由に操る。彼女は感謝し、笑顔を取り戻し、母親は妙な満足を得、次回への準備を終える。

これは、昔からよくあること。なぜそれが出来るかを言葉にするのは難しいが、親子(兄弟)関係まで、ある力によって仕組まれたり、敢えてそれに応えたりと、いろいろである。抗えない力によって薬漬けになったり、体を自由に動かせなくなったり、また大変な事件に巻き込まれたりする人もいる。

そしてこの今は、その全ての原因を本来へと変えていく時。「心の遺伝子」がある今、重たいままの存在は勝手に転生させないことも可能とする。

8/03

旬の処方箋でさらりと対応しただけなのに、頭蓋骨にヒビが入ったのでは、と思えるぐらいの感覚を覚えさせられると、この人は、この国の病み岳のトップに君臨する存在なのであろうと理解する。それを知るタイミングが今であることも、どこかで頷ける。

下手すると永遠に分からなかったであろう、その完全なる嘘の姿。自他の全てを操る、完璧な能力。そのどれもに徹底して付き合ってきたこれまでの時を経て、新たな次へと歩み出す。この国の病みの底に穴を開ける。その存在を同行させながら。

8/02

何もせずに人の生命力を吸い取れる存在を通して、その人のかつての記憶の中にどんな出来事があり、どれ程の残忍な感情を普通としていたかを知ることになる。そこには、かつて命を奪われ(殺され)、今回も同じような性質のことを現代版として経験させられている人がいて、その関係性がどこまでも危うく、なぜそれ程までにそんなことが…と、その無意識の力(凶悪な本性)に??となる。

ムーセンテンスはまだまだ×100足りない。そこに乗った処方箋となるエネルギーは、全然充分ではない。飛鳥、奈良、平安と続く中で実に分かりにくくさせられている、幾多の悍しい出来事。それさえも彼らにとってはその本性のままのあたり前の風景であり、そうであれば、それなりの反応をと、その性質全てを、今尚それを持ち続ける存在たちを通して顕にし、ワークをする。尻尾が見えたら、力を緩めることはない。

8/02

9)神道や密教を絡めた修行を通して、呪術や念力の類を体得し、それを様々に役立てようとする人がいるが、その殆どは、一切の修行を必要とせずに余裕でそれを行える存在の、その残酷極まりない本性と融合し、彼の無意識の影響下に巧く収まり、方向性を同じく出来たからであり、修行自体は実はポーズでしかない。その主導権は、ほら穴に居た蛇と同じことを平気で行った存在の、蛇も怖れる無意識の意思。彼らは、浄土真宗やこの国のキリスト教を代表とする、原因(生命本来)を外した宗教世界(の価値観の中)に身を隠し、その力を小出ししながら、心ある純粋な人の命を弄ぶ。

人間味の無い感情と蛇の本能を1つに合わせた状態の威力は脅威である。昔の経験を病み(攻撃)の土台とし、瞬時に人の気力を奪い、脳を支配して、何も出来なくさせる。かつての実際の行為を無意識に再現するだけだから、体(脚、内臓)を冷えさせて動けなくさせることも、首や胸に痛みを与えて恐怖心を抱かせることも容易いことである。

8/01

2015

8)この国では、そこに蛇が絡んでいたり、特別な存在として蛇が扱われていたりすれば、その場所の多くが、罪無き人たちの犠牲や残酷な風景と繋がっていると考えてよい。そして、それらの場所との関わりを密にする人は、その頃にその惨劇を支えていた経験を、その本性の中に潜めていると言える。

蛇関わりの場所には、必ずと言って良い程、蛇の全てを取り込んで獣化した凶悪な本性の持ち主が何人もいて、病み(闇)のネットワークの要所担当という立場で、同じような人たちにその燃料を供給し続ける。しかし、それよりももっと恐いのは、その数は僅かであるが、蛇そのものと言うよりも、蛇がそのまま人間になったとしか思えない奇怪な存在による、信じ難い性質の殺意である。彼(彼女)は、普通の姿をして、普通の場所にいる。その本性の遺伝子は他とは違い、嘘のような話だが、1万年以上も前から人間をも好んで食べる猛獣(and 大蛇)の経験をそのまま持ち寄り、「再生」の中の一族と合流した経緯を持つ。

 

7/31

7)「この国の病みの始まり」の中でも少し触れたけど、巫女の原型は、村人を騙して、罪も無い純粋な子(少年)たちを生贄にし、満足を得た、醜い女性たちの姿。神主は、彼女たちの異常さを偽装するために設けられた、男性の役。そこから始まった様々な儀式や祭事は、全て真を覆い隠し、嘘を信じ込ませて、人々を支配するための手段。いくつもの神を作り上げ、自らも神の使い(神に仕える人)と称し、人々の思い違いを常識に、生きにくさと有り難さを演出する。

以前から病的な付き合いを強いられている蛇たちも、自分たちを平気で食べる人間の本性には敵わず、恐る恐るその企みに参加する。神として祀られ、ご利益心に利用され、自分たちの本来の生き方まで忘れさせられる。現代において、蛇を特別扱いする人や、蛇を入れたお酒を飲んだり、加工したものを食べたり出来る人は、その無意識の中に、蛇も怖れる残忍さを備えていることを現している。火の神、戦の神、縁結びの神と、嘘もいろいろ。蛇も忙しい。実にこっけいな神芝居である。(神という言葉の乱用は、自らが、それとは全く対極の(次元の異なる)世界に居ることを意味する)

7/28

6)蛇の姿や習性は怖れる対象ではなく、蛇も怖れる程の本性を持つ人間が、その無意識の力によって人知れず酷い悪さをするから、普通の人は、恐怖心を抱かされることになる。その性分をそのままに出来る環境では、彼らは本能的に嫌な人の命を平気で奪い、強力な支配欲で、多くの人を従えさせる。そうではない時は、蛇も羨む重量級の感情の周波数で、人の脳の働きを鈍らせ、動きを止める。

狡さと強かさ、残忍さと凶暴さを内に秘めたその存在たちは、本心と虚心を使い分け、人の心を闇に引き込む。人の感情をマヒさせて思考を操り、どんな人でも、自分たちが扱い易い人間にする。

そんな存在たちが巧妙に形造った住みかが、今の神道の世界である。蛇そのものでいる人間が、その異様な姿を隠して生きる場所。同質の人たちがそれを守り続け、世は病みを慢性化させていく。

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5)原因を生きるその質の高まりによって自然と訪れる、到底知り得なかった内容との出会いは、その人の原因を更に成長させ、そのひとつひとつのタイミングの中にいるような感覚で、さりげなさを安定させる。そして今、現代に生を持つその存在たちの姿を段階的に知るという経験を通し、人は、時代の意思に応える(時代との約束を守る)ことが夢物語ではないことを知る。

彼らがこの今の世にいる理由深くには、みんなの存在がある。そう、あの時と性質を同じくする関係性が、現代版として繰り広げられているということ。彼らは、数千年分の闇の土台が崩れることを極端に怖れるゆえ、総勢で、かつての事実が顕になることを阻止しようと、手段を選ばず、その本性の力を発揮する。そのためによる厳しさは想像を超えるものだが、この今は、歴史を重ねる度に増幅・拡大し続けた危うい存在たち(凶悪な無意識を切り離して頭だけで生きる人)が力を失くす機会でもあるので、ただ生命の意思を、時代のそれに合わせる。そのために、ここにいる。

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4)「再生(2)」の頃の凶悪な存在たちは、自分たちの残虐非道なやり方に反発・抵抗する人たちを惨殺した時、蛇の協力を得る。それは、彼らに処理してもらうというもの。骨を砕かれ、臓器も潰されて物と化した人間の残骸は、彼らの居るほら穴に放り込まれる。息苦しくなる話だが、その存在たちは、当然の顔をして、命を奪った人間に対して、蛇と同じようなことをする。人間としての感覚を一切持たないゆえの獰猛な感情は、相手が同じ人間でも、刃向かえば、それは獲物。中でも、驚く程の純粋さと知恵を備える人間には、彼の全ての自由を奪う暴力で苦しみを与え、その脳を貪る。

蛇以外にも飼い馴らされていた動物はいたが、その存在たちは、蛇の習性とその特異な本性との相性が良く、太った蛇を傷めつけて食べ、彼らの怒りと殺意と、その体の中に染み込んだ人間の悲しみ全てを自らに取り込み、人間でありながら、蛇そのものである恐ろしい本性を強めていく。

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3)何の自覚も持たされずに事は進み、気づいた時には経験したこともない異質の感情との関わりを持たされ、動きにくくなっていた頃、その巧みな負(悲劇)の原因づくりを首謀したとされる存在たちの姿は、自分たちと見た目を同じくするために何も分かり得ず(どうにも出来ず)、不思議としか言いようのない重苦しい空気感が蔓延する中、それまでのことを知る普通の人たちは、痛みと苦しみの時を過ごし、命を終えるという、あり得ない人生を送ることになる。

その際に、その存在たちの近くで、不気味で残酷な仕事を行っていたのが、この国の病みの主要な原材料であり、これまでにも何度か登場してきた蛇である。その世界には、人間とは不要に接点を持たない、蛇らしい蛇もいるが、人間の姿をした心(魂)を持たない存在たちと、その本性を重ね合わせながら変化(進化)し続けた類の蛇は、全くの別格と言って良い。実に恐ろしいことである。

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2)「心の遺伝子」の世界が普通ではなくなってしまった時、人々は、その理由を知るよりも早く、望みを心の意思に預け、続く未来への変化の時と約束をする。理由を知るのはずっと先のその時を担う人たちに任せ、ただ確かな想いでいて、その質を高める。重なり得ない原因との空間に厳しさを覚えながらも、取るべき動きは心のまま。始まりも終わりも、過去も未来も1つに溶ける永遠の今に、皆で歩調を合わせ、ありのままに、力強く柔らかな原因でい続ける。

責任は、本来の普通から外れた道に身を置かず、そこで作られる風景からあたり前に自由でいること。それだけでも充分な、連繋の意思表現、人としての役割。身体時間を活かし、時を連ね、切なる想いを次へと届ける。心ある世界に否定感情は住めないから、自然界のその存在の理由のように、さりげなく心無い世界を包み、その全てを自然現象にする。そして、心の原型(遺伝子)をそのままに、身体時間での日々の営みを、生命の意思の具現化とする。

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2015

1)心の原型となる素朴な想いが人々の中であたり前に息づいていた、神も仏も、愛情も慈悲も何も要らなかった時代の、優しさそのものの自然な風景。心の遺伝子という言葉で語られるその想いの連なりは、時を超え、空間をくぐり抜けて、その時のまま、ここに繋がる。真実の源泉の呼び水のような役を余裕で担いながら、それは、地球の良心となる確かな原因を未来へ運んでいく。

その性質を支える人たちは、支えられるそれ自身の意思に温かく包まれ、活力を注がれ、共にその想いを重ね合う。何も知らないでいられるその中に、大切なこと全てを知る自分を観るから、誰も道を見失うことはない。どこにいても感じられるみんなの想いとどんな時も融合できるから、ただ思いのままに、それぞれが出来ることをする。そこから伝わり行く、流れる普通。どんな人もそうである時を重ね、その原因を永遠の風に乗せる。心を心として繋ぎ、想いをその繋ぎ役にする。

 

 

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